後編 広がる夜景と重なる波形
――だってこんなにドキドキしてくれてるじゃん。
そう言って、彼に頬を触られて、頭がぼーっとした。
笑うと、薄い唇から僅かに犬歯が覗く。
赤褐色の虹彩が暖色の照明に照らされて優しく光る。
――ここに指を置いて、そう。
いきなりスマホのカメラに指を置くように言われて、わけもわからず言われたとおりにした。
にっこりと笑う彼の顔が鼻と鼻が触れてしまいそうなくらい近くて、緊張する。
――これわかる?君の脈拍だよ。
見せてくれたスマホの画面には、波形が映っている。
脈拍を測ってくれるそのアプリの結果には、見事にドキドキして脈拍が跳ね上がっている私がありありと示されていた。
恥ずかしくて顔を背けると、クスッと笑った彼がそっと私の額に自分の額をくっつける。
とっくの前に閉店をして、誰もいない店内。
薄暗くされた照明で見つめ合っていると、解けた氷がグラスの中で小さな音を立てる。
無言でタクシーに乗ったまま、あの日のことを思い出す。
つい最近のことなのに、すごい昔みたいに感じるのは、さっき上半身裸で女の人と向かい合う彼の姿を見たから?
私なんてそんなに太いお客さんじゃないんだし、放っておいてくれればいいのに。
傷が癒えたら、割り切ってまたお店に来るくらいは出来る……と思う。
私だってもういい年の大人なのだ。これが初恋ではないし、失恋だってしてきてる。
だから、この恋は、私だけがドキドキして、余裕のある彼に遊ばれているだけだってのもちゃんと自覚してる。
なのになんでこんなことをするんだろう。勘違いされて大変なことになるのは彼なのに。
「
私が怒ってるのが馬鹿らしくなる。でも、機嫌を直すタイミングを逃してしまった私は、素直に笑うどころか仏頂面をして彼が差し出してくれた手を渋々掴む。
泣いたせいでグチャグチャになった化粧で歩くのが今さら恥ずかしくなってきた。
俯きながら歩く私の手を引きながら、彼はどこかへ向かって歩いて行く。
顔を上げられないまま、いつもよりも少し静かな通りを進んでいく。
やけに大きなエントランスに入って、彼がモニターの前でカードのようなものを通しているのに気が付いてやっと顔を上げる。
驚いている私の手をそのまま引いて、彼はやわらかなカーペットの敷き詰められたエントランスを歩いて行く。
マンションじゃん……しかも、なんか超すごい高いタイプの。え?私、ヤバいところへ連れて行かれる?
嫌な想像が脳裏に過る。
流石にマンガの読み過ぎだろか。わからないまま、綺麗な木目の模様が描かれたエレベーターの扉が開いて、なすすべも無く二人で乗り込む。
静かすぎて、誰の声も聞こえない。住宅だから当たり前なんだけど、余りにも静かで、私と彼以外は住んでいないみたいな感覚になる。
「入って」
カードをタッチした彼が扉を開く。
廊下を通って広いリビングに通された私は、そのままふかふかのソファーに連れて行かれた。
彼がリモコンを操作すると自動でカーテンが開いて、バルコニーとその向こうに見える夜景が広がる。
「座っててよ。どうせ今は俺しか家に居ないから」
「ん?」
実家なの?と驚いている間に、次々と情報が飛び込んできて私は目を白黒させてしまう。
初めてのデートというわけではないけれど……それでも今までは閉店後に一緒にごはんとか、休みの日にごはんとかだったのに、いきなり実家はちょっとステップアップしすぎじゃ無い?
「簡単なものしか作れないけど、待ってて」
リビングの奥にあるキッチンに立った彼は、水の入ったグラスを私の前に置いてまた離れていく。
さっきまでの怒りやモヤモヤが吹き飛んでしまった。
頷いて、ぼけーっと窓の外を見る。
私の住んでいる窓の外は他のアパート……みたいな狭い1Rとは全然違う。住むところがちがうというか、住む世界が違うのでは?
私の実家は一軒家だったけど、ボロボロの日本家屋だったし、こんなに広くない。
上品に飾られている間接照明や、大きなテレビ、観葉植物を見回して溜息が出る。
家の中に観葉植物って……。本棚も大きい。テレビの横にある小さなキャビネットの上には家族写真がいくつか並んでいる。
やけに分厚い背表紙に、何語かわからない言葉が金色の字で入っている本が並んでいる。なんかすごそうということしか私にはわからない。
彼がお皿を持って隣に座る。ベーコンの良い香りがして、素直な私のお腹は小さくキュルキュルと音を立てた。
クスリと笑われて、顔が熱くなる。半ばやけくそになりながら、私は彼の作ったパスタに手を伸ばした。
「簡単に女の子を家に連れ込んじゃダメでしょ」
食べ終わって、落ち着いて、やっとそれだけ彼に言えた。
驚いた顔をして、彼は私を見ている。いつもの余裕のある笑みじゃないことに気が付いて、まずいことを言ったのかなってちょっとだけ焦る。
「簡単にってわけじゃない」
真剣な表情だった。
食器を片付けようとして、お皿に手を伸ばそうとしていた彼の手が、私の膝の上に伸びる。
「こうでもしないと、憂希さんは俺のこと信用しないでしょ」
「え?」
「何言っても聞かないぞって顔、さっきしてた」
その通り過ぎて何も返せない。
今だって、こんなに簡単にお客さんである私を家に連れ込むのは危ないよって、お姉さんぶって忠告しようとしていた。
「こんな仕事だから信用されないのはわかってるけどさ」
彼は立ち上がって、テレビの横にあるキャビネットから写真立ての一つを持ってくる。
比較的最近のものみたいで、笑顔で映っている彼は髪色以外は今と変わりない。
「さっきの女の人、多分セフレか何かだと誤解してるだろうけどさ、姉だから」
彼が指差した場所を見る。
すると、さっき上半身裸の彼を向かい合っていた女性が映っていた。
よく見てみると、涼しげな目元とか、華奢な骨格が
「ああ……。ああー!え?わあ」
やっと自分がしていた誤解に気が付いて、急に恥ずかしくなった。
両手で顔を覆って、大きな声を出すと、隣に座る彼が「ふ」と短く笑う。
「一人で勘違いして突っ走ってバカみたい……バカは私じゃん……」
「憂希が取り乱すのは見てて楽しかったけどさ」
コツン……と額と額をくっつけられる。
ひんやりとした彼の肌。赤みを帯びた瞳に見つめられて顔が熱を持つ。
「これで少しは信用してもらえた?」
彼の眉が八の字になる。少し困った顔。なんて言っていいかわからなくて、綺麗な彼の瞳を見て、小さく首を縦に振った。
「俺も、こう見えて余裕なんて全然ないんだよ」
彼に手を取られる。そのまま、私の手は彼の胸元へ運ばれていく。薄手のワイシャツ越しに触る彼は、見た目よりも厚い胸板をしていた。
「ドキドキしてるのわかる?」
動揺していた私は、反射的に首を捻る。そんな私を見て彼は苦笑いをすると、スラックスのポケットに手を入れた。
取り出したのは、彼のスマホ。光るカメラ横のフラッシュに指を置いた彼は、私に画面を見せた。
波形が表示されている。あの時の私と同じようにすごく乱れた波形。
画面に表示されている60カウントが減っていく間、私は黙って食い入るようにその波形を見つめていた。
「ね?」
画面には「緊張しています」の文字が現れて、彼がスマホ越しに照れくさそうに笑っている。
彼からスマホを奪って私もカメラに指を置く。告白されたときにしたみたいに。
画面に乱れた波形が現れている間、ずっと彼は黙っていた。
「私も、ドキドキしてる」
そう告げて、私はこのドキドキを分かち合うために、彼に抱きついた。
そのまま唇を重ね合う。
「俺だって、余裕なんて全然無いんだよ」
ソファーに倒れ込んだ私を見て、彼が髪をかき上げる。
少しだけ、彼を信じようと思えた。
「すぐに全部信用しろなんて言わないからさ」
私の心を見透かしたように彼はそういって、私の背中に手を回した。
ぎゅうと抱きしめられて、身体が密着する。
このドキドキが私のものなのか、彼のものなのかわからない。
「うん」
彼が手を重ねてくる。手がちょっと熱い。彼も、さっきみたいにどきどきしてくれているのかな。
「愛してる。たくさん安心させるから、少しずつ信じてよ」
頭の中で、さっき見た彼が測った脈拍の波形を思い出す。
二人分、重なっていく様子を思い浮かべながら、口付けをした。
そして、返事をする代わりに、私は彼のYシャツのボタンに手を掛けた。
嘘をつけない音 小紫-こむらさきー @violetsnake206
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