第四章 『揺れ動く心(前)』
夢を、視た。
それは、幼き日の記憶。
わたしの中に在る、とても大切な記憶の、一幕。
一面に広がる花畑。その場所を、無邪気に走り回る、幼い、黒髪赤眼の少女。
――あれは、たぶん、わたし。
その傍らには、その少女より一回りほど年齢が離れた、長い黒髪紫眼の女性が立っている。
――その人は、わたしが最も愛する人。
わたしの、お姉ちゃん。
『お姉ちゃん、早く早く!』
『慌てるとコケるわよー、リン』
『大丈夫だよーぅだ! それよりほら、クロエお姉ちゃんもはやくー!』
幼いわたしは、姉であるクロエに笑みを向けながら走っている。
太陽に照らされて、その色彩を鮮やかにしている眼前の花畑は、まるで幸福を表しているかのよう。
世界は美しく、そこに穢れなど何もない。
少女の笑みは、見ているこっちも幸せになりそうな、そんな笑み。
少女の姉の前でしか見せない、彼女の笑顔。
『まったく……その様子を、学校の友達の前で見せてあげたら、もっと仲良くなれると思うんだけどなぁ』
『う……だって、お姉ちゃんは家族だからいいけど、学校のみんなの前だと、何考えてるかわかんないし、それにわたし、泣き虫だし……』
『お姉ちゃんは、リンの笑顔はとても素敵だから、それを見せたら仲良くなれるんじゃないかって言ってるの』
『うぅ……でもぉ』
『ああもう、そうやって泣かないの。もう八歳でしょ』
『うぅ~~! ………あ、』
ポン、と頭の上に乗せられる柔らかい手のひら。触れたら壊れそうな華奢な手だけれど、それは他のなによりも、わたしを安心させてくれた。
ふわり、と風が吹く。その風で、お姉ちゃんの髪がなびく。
それは綺麗な、どこまでも深い黒。闇のような色だけれど、でも優しい黒色。
涙を拭ったわたしは、先程までの様子とは打って変わって、元気な様子でそこにある花畑の方へ走っていく。そんなわたしの様子に肩をすくめながら、お姉ちゃんはわたしの後ろを歩いていく。
「――――――、ぁ」
だんだんと、遠ざかっていくその姿に、手を伸ばす。
でも、届かない。
どんなに頑張っても、姉の背中は遠ざかる一方。
「…………って」
待って。行かないで。
わたしを置いて、いかないで。
寂しい、さみしいの。
――ひとりに、しないで。
そして、何度目か解らないくらい手を伸ばした、そのとき。
視界が、赤に染まった。
「あ――――」
視界に映るは、何処までも広がる赤一色。それはつまり、炎。
あの日の、地獄。わたしが忘れてはいけない、背負い続けなければいけない罪の記憶。
わたしは、あの街の人々を殺し、自分だけ生き延びた。ぜんぶ、わたしが泣き虫だったせい。
だから、まるで忘れるなと言わんばかりに、こうして夢に見る。
夢の中のわたしは、ひとり、その地獄を歩く。
彼女に救いはなく、ただ罪を背負いながら歩く。
わたしの心にまたひとつ、傷跡を付け、
そして、目は覚める。
***
「――、はぁっ、はぁ!」
ガバッ、と跳ねるようにして起きる。ぐっしょりと、身体は汗で濡れている。
「また……この、ゆめ」
忘れるなと言わんばかりに頻繁に見る夢。最近は見ていなかったから、少しだけ安心していたのに、それは束の間の安心だったみたいだ。
けど、少なくとも今日この夢を見た原因はわかっている。あの、灰色の少年のせいだ。
悪魔と瓜二つの顔を持つ少年――アレン・ファルシュ。
わたしは昨日、その人物に失礼なことをした。それが尾を引いているのもあるし、なにより彼の顔が、悪魔を想起させた。
「――は、ぁ」
息を吐く。時計を見れば、そろそろ準備をする時間だ。
支度を済ませ、いつもより早く家を出る。今日は、昨日のように気まぐれではなく、ちゃんとした意志を持ってだ。
わたしは、ファルシュくんとはなるべく関わりたくない。だけど、昨日わたしは彼を置き去りにして帰ってしまったから、それはきちんと謝っておかないといけない。
たとえそれが、彼に近付く行為だったとしても、そうしないとわたしが居た堪れないからだ。こういう時、自分のこんな性格が嫌になってしまう。他人を、完全に突き放すことができないのだから。
そんなわたしが取れる行動など、ひとつしかない。
朝早く、学校に行って、彼の机に置き手紙を残す。これできちんと謝ったことになるし、会話もせずに済む。うん、我ながら完璧。
――と、そう思っていたのに。
「……うそ、でしょ」
「ん。あれ、アストロアートさん。おはよう、今日も早いね」
教室の扉を開けると、そこに居たのは、灰色の髪の少年――アレン・ファルシュだった。
(なんでこんな朝早くにいるの……!? いや、わたしも人のことは言えないけど!)
内心焦る。どうしよう、計画が滅茶苦茶になっちゃった。
(落ち着こう、わたし。大丈夫、大丈夫)
まずは、冷静を装って、席に着こう。そして、何事も無かったのように本を読み始めてしまえばこっちのものなんだから。
瞬時の間にそこまで考え、実行。彼の横を通る時に「おはようございます」とだけ言って、席に着く。
「ところでアストロアートさん。昨日、どうしていきなり走り出したんだい?
本をカバンから出し、さぁ読むぞという時になって、タイミングを狙ったかのようにファルシュくんはわたしに声をかけてきた。
「……それ、は」
そして、当然だけど、わたしはそれに答えきれない。
――あなたに、関わりたくなかったから。
なんて、言えるわけがない。
「……言えないなら、無理に聞かないよ。ごめんね」
わたしが何も言えないままでいると、ファルシュくんは申し訳ない、といった表情で自分の席に着く。
――まただ。なんで、理由を聞かないの。
その気遣いが、優しさが、苦しい。
それは遠慮なく、わたしの胸を、締め付ける。
「…………」
けど、そんなこと口に出せるわけもなく。
わたしも席に着いて、本を読み始めた。
――『ごめんなさい』と書かれた、手紙は渡せないまま。
***
「リーンーちゃーんっ!」
「マリアさん……」
昼休み。わたしは昼食を摂ろうと、屋上へ向かう途中――彼がいる場所には、なるべく居たくない――廊下でばったりとマリアさんに会った。
「えへへー。最近どう? 何か変わったことでもあった?」
「……別に、なにも」
「うそ。ほら、最近とびっきりのイベントがあったでしょ?」
「……もしかして、ファルシュくんのことを言ってるんですか」
「ふぅん……。ファルシュくん、ねぇ」
「な、なんですか。わたし、何か変なことでも言いましたか」
「ううん。ただ、私以外の人の名前を全然覚えようとしてなかったのに、アレン・ファルシュくん……だっけ。その人の名前はちゃんと覚えてるから、ちょっとビックリしちゃって」
「それ、は」
それは、ただ彼があの悪魔と同じ顔だったから。ただそれだけ。マリアさんだって、わたしの命の恩人だから覚えただけ。
そう言いたかったけど、もちろんそれが声に出ることはない。
「どしたの?」
「……ううん。それじゃわたし、行く場所あるから、これで」
マリアさんにそう告げ、背を向ける。そして、人気のない方――屋上へ向かう。
本来なら屋上は立ち入り禁止だけど、校舎自体が古いせいか、ドアを施錠している南京錠が壊れてしまっていて、実質誰でも入れるようになっている。だからと言って、ほとんどの人はここに立ち寄ったりなんかしない。屋上に繋がる階段は、教室棟から結構離れた場所にあるため、そこに足を運ぶくらいなら教室か、中庭で食べた方が早いからだ。
つまり、屋上は誰も居ない空間となる。
だからこそ、わたしはいつもここで昼食を摂る。
錆びた扉を開け、屋上に出る。今日も昨日と同じように、空は眩いほどの晴天だ。日差しがぽかぽかして気持ちいい。
わたしは、屋上の隅っこにあるスペースに座り、後ろにある壁に寄りかかる。そして、お弁当を食べ始める。
サァァ、と。風が吹いて木が揺れる音が聞こえる。この木は多分、中庭に生えている大きい木かな。
それから程なくして、弁当を食べ終える。わたしは飲み物を飲みながら、ひとつ、思考する。
(どうやって、彼に謝ろう)
午前の授業の間も、ずっとそれを考えていた。もちろん、彼が言わなくていいと言っていた以上、別に無理して謝る必要は無くなったのだけれど、それだと本当にわたしがいやなのだ。
わかっている。それが彼に近付く行為だということは。
けど――――、
(……いったい、どうしたいんだろう。わたしは)
ファルシュくんが来てから、自分の心が解らなくなってきている。
まだ、彼が転校してきて一日程度だ。でも、その一日は、わたしの心を掻き乱すのに充分すぎた。
最初の出会い。微妙な距離感でのやり取り。放課後の図書館への案内。
――そして何よりも、あの悪魔と同じ顔ということ。
――そして、わたしに対する、優しさ。
それらは全て、時間というものを関係なしにわたしの心を掻き乱した。
それはわたしの心に、遠慮なく、踏み込んでくる。
踏み込んできて、わたしの心をわからなくしている。
優しくしないで欲しい。わたしの心に触れて欲しくない。触れられたら、その優しさに甘えてしまう。それだけはダメだ。
だってわたしは、幸せになっちゃいけない存在だから。
わたしのせいでつくられた、あの日の地獄。あれで死んでいった人達を差し置いて、わたしだけ幸せになることなんてできない。
だからわたしは、独りになるんだ。他人の優しさに甘えちゃいけないし、触れてもいけない。
それがわたし。リン・アストロアートの生き方。
「あ……」
思考の最中、ふと耳に鐘の音が聞こえた。もう、教室に戻らないと。
(……放課後、でいいかな)
でも、せめて。
彼に謝ることだけは、しておこう。
つくづく、わたしは優柔不断で、矛盾した人間だと自嘲しながら、固めた決意を胸に、わたしは少し小走りになりながら教室へ戻った。
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