第一章 『燃ゆる火の獄、少女の罪(前)』


 人というモノは、そう簡単には変われない。

 わたし――リン・アストロアートは、そう思っている。


「きゃっ……!」

 

 バシャァッ。と豪快な音と共に、冷水をかけられる。

 ぽたぽたと、髪から水が滴り落ちる。いくら春とは言え、流石に冷水を頭から被れば寒い。



「はっ、ざまぁないわね」


 わたしを蔑む声が、耳朶じだに響く。

 見上げれば、そこには茶色の髪をした少女がわたしを見下ろしていた。




「――――っぅ」

 

 だけどわたしは、すぐに視線を下へと戻した。

 ――わたしを見つめるその視線が恐い。顔を上げるのが怖い。




「ほらッ、なに座ってんの!!」

「~~~~っ」


 少女の掌が、わたしの頬を目掛けて振るわれる。

 パンッ、と乾いた音が響いた。




「そこまでで、やめておきなさい、カナン。痣が残ってしまってはバレてしまいます」

「チッ……レイ、あんたは何もしないの」

「私は……そうですね」


 少女――カナンちゃんの後ろの方で黙して立っていた、亜麻色の髪の少女……レイちゃんが、わたしの前へとやってくる。



「貴女……なんで生きてるんですか? なんで呼吸してるんですか? なんで私の前にいるんですか? はやく消えてください。目障りです」

「ぁ――――」


 そして、さっきの冷水よりも遥かに冷たい言葉を、わたしに浴びせた。



「――あぁ、。そのすぐに泣こうとする態度……本当に目障り」

「うわぁ~~、えぐいねぇ」

「私、言いたいことはハッキリ言わないと気がすまない性分なので」

「ハハッ。レイは変わらないね。

 じゃあな、リン。――


 そして、その二人はケタケタと嗤いながら、わたしの視界から消えていく。


「………」


 夕焼けの世界に、独り、取り残される。


「……う、ぁ」


 声が、漏れた。

 髪から滴る水が落ち、ぴちょんと地に触れた。

 ――わたしの、涙と、一緒に。


「っ、ひっく……うぅ、あぁぁぁ……!!」



 わたしは――泣き虫だ。




 ***




 わたし――リン・アストロアートという少女を形容するのに相応しい言葉は、『泣き虫』だろう。というより、それ以外ありえない。


 内面的な性格のせいか、人見知りのせいか、他人に話しかけられては泣き、ドジしては泣き、動揺しては泣くなど、とにかく事あるごとに泣いていた。


 だから、わたしはいじめられていた。幼い時から、ずっと。毎日、毎日。


 そうして付けられた渾名が、『泣き虫リン』。まったく持って、その通りだ。比喩など何でもない、そのままの意味。


 事実としてその通りだから、わたしは否定しなかったし、かと言って抗うこともしなかった。自分がいじめられているのは、紛れもなく自分のせいなのだし、これは仕方の無いことだと何処か諦めて受け入れていたのかもしれない。



 本音を言えば、みんなと仲良くしたい。こんな泣き虫な性格を直して、友達と仲良く過ごす、そんな当たり前の日常を送りたい。

 それがわたしの――ささやかだけれど――叶えたいと願い続けてる望み。


 けど、泣いてしまう。どう頑張っても、わたしという人間の性格が変わることは無かった。



「うぅ……ぐすっ……」


 現状は変わらないまま、わたしはクラスメイトにいじめられ、そしてこうやって独り、いつものように泣く日々を送っていた。


 窓から夕日が差し込む、夕暮れの図書館。その最奥の一角。

 この時間帯のこの場所は、人見知りなわたしにとって唯一の居場所だった。この時間帯は、人が誰もいない。司書さんも、奥の部屋に籠っている。


「どうして……泣いちゃうんだろう」


 理由なんて明白だ。わたしの心が弱いだけ。わかってはいても、変えられない。

 こうやって泣いている自分に嫌気が差す。

『泣き虫リン』なんて呼ばれている自分が嫌だ。

 わたしは、みんなと仲良くなりたい。


 それだけが、わたしの願い。




 静かに、わたしの啜り泣く声だけがこの図書館に響く。

 それは小さく、そして儚いモノで、わたし自身の心の叫びだった。


 その叫びが聴こえたのかどうかはわからない。




『――泣かないように、なりたいかい?』




 けれど確かに、わたしの耳はその声を聞いた。


「……だ、れ……?」


 恐る恐る、虚空に向かって声を発する。しかし、それに反応する声はない。


「気のせい、かな……?」

『ねぇ、』

「――っ!?」


 今度はハッキリ、その声を聴いた。


「だ、誰……? そこに誰かいるの?」

『僕はここにいるよ』


 その声は、隣から聞こえた。ゆっくり、隣を向く。そこに居たのは、


「――ひっ」

『ああゴメン。驚かせたかな。安心して、君に手を出すつもりなんて全く無いから』




 そこには、わたしと然して年齢は変わらない、一人の少年がいた。

 身長はわたしより少し上。赤い髪に、紅い瞳。どこにでも居そうな、そんな少年。だけど、彼を普通の少年と呼ぶには、少しだけおかしな点があった。


 姿形は間違いなく人のそれ。

 しかし、人と決定的に違うのは、彼が身体に纏っているだった。


 煌々と燃える炎。それは意思を持った生物のように彼の周りに漂っている。その姿は、とてつもなく異様だった。




「あなたは……だれ?」

『僕は……そうだね、俗に【悪魔】なんて呼ばれている者さ』

「あく……ま?」




 悪魔……、お伽噺や英雄譚などに出てくる、あの悪魔のことだろうか。

 確かに、悪魔だと言うのならこの姿は納得できる。

 いいや、逆にそうでなければ説明がつかないくらい、目の前の存在は”異常”だった。


 悪魔という非現実な存在を前にして、わたしの心はやけに落ち着いていた。

 いや、この非現実あくまのことより、優先すべきことがあったからかもしれない。優先すべきことがあったから、わたしは冷静なままでいられた。


 眼前の悪魔に、問う。


「あの、悪魔さん。さっき、」

『ああそうだった。

 ……ねぇ、リン。リン・アストロアート。君は、泣かないようになりたいかい?』


”どうしてわたしの名前を”――なんて聞くことじゃない。


「泣かないように、なれるの?」

『ああ。君がそれを真に望むのならね』


 心が震えた。相手は悪魔だということはすでにどうでもいいことになっていた。

『泣かないようになれる』。この事実だけで、わたしは充分だった。

 ――みんなと、仲良くできるかもしれない。 

 このことだけが、わたしの頭の中を占めていた。


「うん。わたしは――泣かないように、なりたい」

『その願い、僕が叶えよう。さぁ、目を閉じて』


 そう言われ、目を閉じる。悪魔さんの手が、わたしの頬に触れる。そしてその指が、わたしの両眼にいたる。


 ――ドクン。心臓が、一度だけ大きく脈を打つ。

 熱い何かが、わたしの眼に流れ込むのを感じる。それは不思議と心地いいもので、嫌悪感などは一切無かった。

 体が熱い。体温が上昇する。

 目頭がジンとする。これはそう、まるで涙を流すときのようで――


 ――――ボウッ。

 炎が燃え上がる光景を、わたしは暗闇の中で幻視した。



『――はい、終わったよ』

「これで………泣かないようになったの? 何も感じないけど」

『まぁ、そのうちわかるよ。これで君は、もう泣かないさ』

「――――っ」


 やった。ついにやったんだ。これでわたしは……。


「そうだ、悪魔さん。あなた悪魔なら、何か代償が必要なんじゃ……」

『いや、それは気にしなくていい。……そうだね、強いて言えば、代償は君が喜ぶ姿かな』


 そう言って悪魔さんは、笑みを浮かべた。その笑みに偽りはない。それでわたしは、この人は、いい悪魔なのだと理解した。


「あの、ありがとう悪魔さ――」


 お礼の言葉を言おうとしたが、わたしがお辞儀をして顔を上げた瞬間には、既に悪魔さんの姿は無かった。


(……ありがとう)


 心の中で、彼に礼を言う。そしてわたしは、先程と打って変わって、晴れやかな気持ちで、図書館を出た。



 図書館を出ると、辺りは既に夕焼けで染まっていた。石畳で造られた街道を歩く。この地域はほとんどの街が木組みの街だ。街の中心には大きな河が流れており、それは他の街にも続いているため、船を使って荷物の運搬が行われていたりする。


「あれ、リンじゃない」

「あ、クロエお姉ちゃん」


 図書館を出てしばらく歩いていると、その道中である人物に出会った。

 クロエ・アストロアート。わたしの姉だ。

 長く伸ばされた黒髪。わたしが紅い瞳なのに対し、お姉ちゃんは紫色の瞳をしている。その瞳は長い黒髪とあいまって、よりお姉ちゃんが美人だということを引き立てている。


(やっぱりお姉ちゃん、とても綺麗だなぁ……)


 眉目秀麗。才色兼備。そんな言葉が、お姉ちゃんにはとても似合うと、わたしは思う。実際、お姉ちゃんは、わたしと違って凄く優秀で、学校の成績はいつもトップらしい。


 わたしの家族は姉だけだ。お母さんはわたしが生まれてすぐに亡くなり、お父さんも、数年前に他界した。それ以来、わたしはお姉ちゃんと二人で暮らしている。両親が居なくてさみしさや悲しさはあるが、それでも、わたしはお姉ちゃんさえ居れば寂しくなんてなかった。


 小さい頃からずっと遊んでくれた、何かあっても、わたしを守ってくれたお姉ちゃんは、いつしか、わたしの憧れの存在になっていた。


 だからわたしは、そんな姉がとても大好きで――


「また図書館に行ってたの? リンも好きだね」

「うんっ」

「あれ、やけに嬉しそうだね、リン。何かいい事でもあった?」

「えへへ……ちょっと、ね」

「――そう。ならよかった。

 ……うん、リンはやっぱり、笑ってる方がずっと可愛いよ」

「え……? わたし、笑ってた?」

「笑ってたわよ。なに、気付かなかったの?」

「全然わからなかった……」

「もう。リンったら相変わらずマヌケさんね。でも可愛いわ、さすが私の愛すべき妹。おりゃおりゃ~!」

「きゃっ! もー、やめてよお姉ちゃんったら! 髪ぼさぼさになっちゃうでしょ!」


 お姉ちゃんが、わたしの頭を撫でる。お姉ちゃんは何かあると、いつもわたしの頭を撫でてくれる。

 わたしは、そんなお姉ちゃんの掌のぬくもりが、とても好きだった。



「――ねぇリン。黄昏時の夕方を見ると、なんだか切なくならない?」


 お姉ちゃんと二人、並んで歩く。しばらくして、ふとお姉ちゃんが口を開いた。


「え……? 言われてみれば、そう、思うけど」


 どうしてそんなことを聞いてくるのか、と姉に視線だけで問う。すると姉は、はにかみながらなんてことのないように、その言葉を口にする。


「それはね、まだこの世に未練を残す死者達の想いが、夕焼けを介して伝えてくるからなの。だから、黄昏時は寂しく感じて、そして切なくなるの」


 風が吹き、お姉ちゃんの長い黒髪がなびく。

 お姉ちゃんのその言葉は、確かにわたしに向けられていたけど、でもどこか、違う誰かに向けられていた気がした。


「……もし死んだとしても、夢でもいいから、また会いたいな」


 小さく、お姉ちゃんが何か呟いた気がしたけど、風音に紛れて上手く聞き取れなかった。

 お姉ちゃんと肩を並べて歩く。そして、そっと手を繋ぐ。繋いだ手が、とても暖かい。

 顔を上げて、周りの景色を見渡す。見慣れた風景も、今はとても輝いて見える。世界はこんなにも美しくて、色づいていたんだ。


 そしてわたしは、見慣れた木組みの街を、お姉ちゃんと一緒に歩いて行った。


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