蛇の飼い方

朝川渉

第1話

 蛇を飼うのはきっと寂しいことに違いない、ということを、ある時史子は思い立った。

二年半付き合ってきた彼と別れて、毎日同じように会社と家との行き帰りを繰り返していた史子は、ちょうど会社での仕事が軌道に乗り、給料が増えたことから、広いマンションに引っ越したところだった。帰宅してから食事を済ませた後だったり、シャワーを浴びてすぐにベッドにもぐりこむ、そのあとの寝入りばなにふと、広すぎる寝室の窓のない壁に、何かひとつ置きたいと考えるようになり、その時どうしてもそこに蛇の水槽を置いてみようという思い付きが、史子の頭から離れなくなった。会社帰りにいつも通り抜ける駅から少し道をそれると老舗のデパートがあり、その隣にくっ付くように立っているショッピングセンターの一階に大きな、洒落たペットショップがあった。あそこに、たしか蛇がいた。あの時は買い物帰りで、何の気なしに通っただけだったけれど、そんなに気持ち悪いと思わず、むしろこの広い街の中のどこかに蛇を飼う人がいるんだ、と思った。史子は、さっそく蛇の飼い方を調べてみようと思った。久しぶりにわくわくした。


 とりとめもないことを思い付くのは帰宅する時のことが多く、たとえば毎日というものをどう過ごせば良いのだろう、とか、ペース配分、スケジュール管理、それからどんな風にかたちのないものに丸とバツを付けてゆき、それは一体いつ頃報われると報われないに仕分けされて誰かがラッパを吹くようなイベントが起こるんだろうと考える。仕事はやりがいがある。それに、やりたい事をやっているというのが、自分を元気付けているんだと感じる。けれど、史子が知りたいのは毎日をどういった気持ちで過ごせばいいのか、という、もっと確かな感触みたいなものだった。授業中、当たり前に同級生と泳ぎ回っていたプールから上がった後で体温も、血圧も下がっていくみたいになることがある。すると史子は、そのままそこをするすると降りて行きたくなる。そしてその空想の先にあるのがもしかすると蛇のいる生活のようなものなのかもしれないと思った。

(それはね、たぶん、本能が騒いでいるんだわ)

 けれど、そういった史子のとりとめもない話を姉はそう言って、史子のことをからかった。姉は二年前に結婚して、出産した。銀行員の仕事を辞めて一年ほど経つ。時々史子は姉の家へふらっと遊びに行っては、そこにある家庭の空気だったり、暖かな必然性を吸い込みに行く。(子ども、産みたいって思う?)姉は聞く。姉は学生の頃からずっとテニスだったり、演劇部だったり、何かにいつも夢中になっているような人で、史子と一緒の食卓に座る時には日焼けした肌でいつもいて、すれ違うときは必ず制汗剤や何かのにおいをただよわせ、休日の昼間にはいつも友達とどこかへ出かけて行くような人だった。就職してからもそれは変わらなく、いつも誰と付き合っているのか、どんなドラマを見るのか、史子は姉のことをよく知らないと思う。けど姉の方は史子のことをよく知っていると思っている。

 史子は、まだわからない、と答える。本当にまだわからなかった。それよりも、その時はまだ彼と別れたばかりで、その空虚になってしまった部分の方を気にかけていたから、自分のことを本当にまだ子どもなのだろうと感じる。例えば、毎日眠る前に連絡を待ってみたり、休日の予定を考えてみたり、世話を焼いてみたり、そういったことを喜ばしいと別に思っていなかった。義務や、相手に合わせることで、ただあたりまえにご褒美がもらえるようなふうにしかそれは感じていなかったのに、けどそれが無くなってしまうと、当たり前みたいに心がすかすかしてしまった。(自分が、だいじよ。)とつい、史子は言いかけて、でも、口を開く前に、赤ん坊を抱っこして笑っている姉を見つめてしまう。姉の肌はもうよく手入れされていて、スポーツに打ち込んでたころの日焼けの名残りなんかはもう微塵もなくって、吸い込まれそうに白かった。史子はお産前後の母親というのは、どことなくエロいと思った。姉たちは聖母さまみたいで、なんだか届かない場所へ行ってしまったと思う。変わっていった女たちを、そんなふうに見つめていると史子はいつも何故か帰り際にトイレを催すのだった。

 なぜ、こんなにも当たり前に当たり前の舟に、姉は乗ることができたんだろう?それは、疑問符を打たないくらいにもしかすると人よりも強いからなんだろうか。


 途中から旦那さんが帰ってきたためにぎやかな食卓で夕食をご馳走になり、姉と別れを告げた後に一人になってまた考えた。けど、史子の考えるのは、姉がいうようなそういったどこか現実的な、具体性を帯びた寂しさとはどことなく違うような感じがした。

 蛇が飼いたい、と思う。宇宙人と交信するとっかかりを得たみたいにその思い付きが、史子の頭にはあった。

 史子はその日仕事から帰り、図書館で借りてきた蛇、爬虫類の飼い方の本を二冊テーブルの上に広げてみた。コンビニで買ったお惣菜と、朝の残りの味噌汁とご飯を温めながら、手に取ったそれを、パラパラとめくってみる。序盤はいくつかの蛇の写真が並び、それが終わると蛇の飼い方や具体的な注意点が並ぶ。自分が考えていたよりも、蛇愛好家の人は日本に多くいるみたいで、飼い方や飼いやすい種類の蛇がとても細かく紹介されていた。ひと通りそれを読み終えて、あした、ペットショップへ行こうと思いながら史子は食器を流しに下げた。



 蛇を飼うのは思っていたよりも手間を必要としなかった。水槽とヒーターを購入するのには二万円近くかかってしまったけれど、例えば実家で飼っていた犬のように、糞尿を拭き回って大騒ぎしたり、しつけにやきもきするようなこともない。

 史子はその箱を抱えながら電車に乗り家へと向かっているとき、たとえそれが爬虫類であったとしても、命というのはこれほどささやかなものなのかと思った。電車が揺れ、帰宅で押し寄せた人たちが傾くと、それに合わせてその箱も揺れる。プラスチックのケースに、史子がネットで調べてあらかじめ用意しておいたふろしきが掛けてある。あらゆるそれは、可能性を手に持ったときの気分だった。史子はその箱を、まったく何もしらない誰かが間違えて持ち帰り、それを開けたときの驚きを頭の中で描く。自分が今そうしているのはそれとよく似ている行為で、家に帰ってそれを開けてみると、ペットショップの中で見たのと同じままの形をしたコーンスネークという蛇が、そこで小さくとぐろを巻いて入っていた。史子はそれを指先で触れてみる。

「いらっしゃい」

 史子はつぶやき、そのせいで乾燥した唇がくっついている感触を想わされた。

 初心者向けと紹介されていたそのコーンスネークという蛇は子どもであれば史子の手のひらに乗るくらいの大きさだった。色も薄い茶色のようなレモン色のようなまだら模様で可愛らしい。史子は、思いがけず蛇が可愛かったのことには拍子抜けしてしまっていた。蛇は用意された水槽に簡単になじんだように見えた。そして、一度姿を消した。

 史子はできるだけその水槽に葉のついた木を入れたかったのだが、それが蛇の恰好の隠れ場所となってしまったのだ。

 小学生の頃に、カブトムシを買ったときのことを思い出す。飼わされているということを思わせないような、あのフォルム。図鑑とは違った、下品な動き。

 一番難儀だったのは、本ではさらっと紹介されていた蛇の餌のことだった。ネットショップで購入した、かちこちに凍ったピンクマウスの死体を、史子はじっと見てから、まるでそれはプラスチック化してしまった入れ歯や、眼鏡のような、硬いけれども否なる人体みたいだと思いながら、蛇の近くに置いてみた。

 しばらくそれは放置されていたのだけど、次の日に覗いてみるともうなくなっていた。見ないうちに食べたのか。史子はそう心の中でつぶやき、そして思わず微笑んだ。よし、それじゃあわたしの役割は餌をやり、蛇が住みよくすることだ。たくさんえさをやろう、と一度思い、けれどそれは蛇としての確固たるペースが既にあるということを、本に書いてあったある箇所をめくるようにして思い出した。


 蛇を飼い始めてからしばらくして、史子は部屋をもっと綺麗に保ちたいと思うようになった。いつもならおざなりに見える場所だけ掃除機をかけて、仕事の疲れもあることを言い訳にしてベッドへ直行し、すぐに眠ってしまうけれど、いまとなっては、掃除機をかけてからフローリングをシートで四隅まで拭き、それから窓も週に一度は雑巾掛けをするようにした。それから蛇を世話するのにも慣れ、ピンクマウスの解凍も夕食をつくるかたわらで効率よく行えるようになり、一度そういったことが軌道に乗り始めると、今度はトイレの換気扇、バスルーム、キッチンの壁など週に一度の掃除では手に届かないような場所さえも念入りに掃除をするようになった。百円ショップへ足を運ぶと、様々な掃除用品が売られているのでまるでそこは、テーマパークみたいに感じた。史子はそこで、よく吟味した後で使い捨ての拭き取りシートと、研磨剤の入っているスポンジを購入した。まるで仏壇の周りを掃除していた母のようでもある。一瞬、その姿を思い浮かべて、レジでお金を払った。帰宅し、史子はまず蛇が糞をしていないかチェックする。糞をしていないといつもがっかりするのだけれど、でもそれはほとんど毎日がそうだった。砂漠にいる蛇よりも恵まれているであろうこの家にいる蛇は、それでも史子達のようにもっとずっとたくさんの食べ物を食べようとはしない。本能というものがこの細くたよりない体の中にあり、連れてこられた史子の家でかさ、かさと寂しさにのたうっているのだと思うと、蛇に対して憐憫の気持ちが湧いてきていた。史子は蛇の傍らで食事し、片付けし、シャワー浴びて戻ってはまた蛇を見て、そうして明かりを消して蛇のいる部屋で眠る。

 ・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・



 朝、起きて目覚ましを止めた。

 大学の頃の友人から連絡がきて、史子は今日は引越しの手伝いをすることになっていた。史子のもとには昔からこういったちょっとした厄介ごとがよく持ち込まれる。それは、人付き合いがいいからというより、断り切れないからということの方が多かった。史子は朝、いつも通りに支度して、眠っているようにじっと動かない蛇を確認したあとでジーンズとシャツを着て外へと出た。


 友達の家は唯一市内で動物園のある裕福層の住む街にあり、会社へ向かう時とは地下鉄の路線が違っているが、昔からこの場所には何かと縁があり、高体連、それから友人の結婚式などで史子はたびたび訪れている。

 地下鉄を二回乗り継いで外へ出ると、道路には街路樹がたくさん植えられて、綺麗に立ち並んでいる。ケンタッキー、それから門構えからだけでは何が売られているのかなかなか分からないようなショップが立ち並んでいる。その場所を通り抜けていくと、小ぢんまりとした結婚式場が唐突に見えてくる。

 ここは、姉が結婚式を挙げた式場で、その後にも、その前にも、ほかの誰か知らない人達が式を挙げているのを目にしたことがある。友達の住んでいるのはそのすぐ向かいに建つアパートで、そのアパートのすぐ隣にある一軒家はちょうど改築工事中のようだった。トラックが、アパートの前に停められている。

 ピンポーン、とベルを押すと、友人が出て来た。


「ああ、ありがとう。来てくれたんだ」


 頭にハチマキ状にタオルを巻いて、微笑んでいる。家の中からカビ臭さが漂ってくる。挨拶もそこそこに、史子は中へ入って、やるべきことを探した。


 家具をあっちからこっちへ移動しているうちに、同じようにインターホンが鳴ったかと思うと全然知らない人が入ってくる。友人の同僚だったり、その奥さんだったりするのかもしれない。そうすると史子は一旦作業の手を止めて適当に会釈して、そういえば、友人てこういう人だったなあと考える。手を、動かしながら、史子はここへ来た理由を順番にさかのぼるように辿り始める。

 世の中に時々いる引越しマニアがいるとするならば、友人の場合はそれで、突然旅に出てしまったり、住居も転々とするのが好きだ。多分、恋人関係もそんな感じなんだと皆から予測されていて、詳しくは知らないけれどだから、ばったんばったんとドアが開き、そこに出たり入ったりする人の素性を史子はよくわからないし、聞こうともしなかった。不思議と放っておけないような性格をしているのが友人の得なところではある。

 向かい合った友人が、笑って言う、その理由は史子も理解できるもので、けどおそらく、いつも根底で思っている部分が違いすぎるからなかなか噛み砕けない、そんな感じがして、それが友人の場合は程よい距離になるのだと思った。そうして史子は、向こうのホームに立ってみるような気持ちで、「どうして引越しすることにしたの?」とか、そんなような質問をいつもしてみる。友人は仕事に関する話を始める。それは時には仕事が思った通りの流れにならなくて、だとか彼女も彼と同じようなタイプで、そういった紆余曲折を繰り返している果てに彼の意欲という、その水は水槽の中でひたひたになっていた・・・・かみ砕けば、うっすらとそんなような話をいつも聞くことができた。

 そして今回は一度仕事を辞め実家の部屋に荷物をまとめるのだという。

「えっ」史子は声を上げる。「仕事、辞めるの?」

「うんそう」友人はもう当たり前のような顔をして言った。


 それからすぐに大型のテレビを運び出す作業に入ったため、史子はその先を聞く機会を逃した。あちこちに散らばったコードを集めたり、箒で履いたりしながら考えていたが、けれど友人のような行動パターンも探してみれば自分や、普通の人の中にもあるのかもしれない、と思った。

 けど、わたしだったら、慣れ親しんだものをなかなか我が身から切り離して考える事ができない。史子はふと思う。いろいろな新しいことを居心地が悪く感じ、新しい衣服を箪笥の奥に隠し、ずっとずっと傍らにある、もう古びてしまったものを、自分はいつも身に着けて歩く。旅行に行くことも尻込みしてしまい、国内で済ませる。新しい人となかなかなじめない。一度読んだ本を、繰り返し読んで、ああ、わたしが感じていたいのはこれなんだ、と思う。そんなふうにして、はたと足元を見ると、じぶんがちゃんとここにいるってことが分かった。

「蓄える」とは、きっとそういうことなのだと思った。あっさりその感情と別れられる生き方と、それにしがみ付いてしまう、自分。


 友人と出会ったのは大学の授業選択のときだったと思う。そのときは友人から史子にノートを貸してくれるようにと声をかけて来た。

 沖縄出身の彼は、太い声、太い手足をしていて、いつも気づいたら誰かと友人になっている。「旅に行ってくる」長期の休みがあるたびにそう周りの何人かに言い残して、そうなると友人や集まり、アルバイトなんかも辞めてしまって身一つで、彼はどこかへ姿を消した。史子はいままでずっと、そういう彼の生き方、当たり前をどことなく「得体のしれない」と感じていたような気がする。そうやって考えるときの彼はまったくの他人であり、そう考えている限りお互いの人生は影響を与えないかのようにも思えるのに、かと思えば、授業が終わると、史子が誰と話していようが何をしていようが構わずにあのよく通る声で話しかけてきたことなんかを、たまに思い出すのだった。


 史子も何度か旅行へ出かけることはあったけれどそれはパックのツアーで、友達何人かと計画して行ったこぎれいな旅行だったから、たぶんそれを彼のする旅の内容はまったく違うのだろうと思い、そういうとき、たとえば決まりきった作業に飽きてしまったときや、結果が分かる会議に数時間いなければならないとき、たびたび史子は「ここに友人が居ればいいのに」と思うことがあった。そういう考えは友人に限らず、家族の中に彼が、あるいは仕事上で友人が、もしいれば、もっと変わったかたちに収まるはずなのにと思った。他人というものは池の中に石を投げこむとその前後で質量が変わってしまったみたいに、いつも、自分にとってただひとつの関係性を構築していく。深く関わらざるを得なかったひとは「彼、彼女がいること」もしくは「いないこと」をひとに投げかけ、摺りこませ、思い出そうとするとその変化込みを連れてやってくる。そんなふうに史子は友人の存在を感じていた。それは起こりえないことだったけれど、頭の中でよく行われるゲームのように一度考えなくてはすまないことのように、常にあったのである。だからその盤上で史子は時々、オセロやチェスの駒を互い違いに入れ替えるようなことをしたり、その中にいる人を勝手に葬ったり生還させたりなどして遊んだ。


 作業は大人数のためにあまり時間をかけずに終わって、史子も皆とともにコーヒーを飲み終え外へでると、ま夏のま昼間がとても明るかった。

 隣の敷地の作業が終わったようで、小型のショベルカーが置き去りにされていた。そうして先ほど見かけた大きな木が、今は変わり果てた姿で横たわっている。史子も、それから一緒に出た人たちも一瞬それに見とれた。先ほどの騒がしさは打ってかわって静まり、近くにたつ結婚式場の細いお城のような建物と、残った細い木々、それが青い空が映えているその場所に、それは存在感があった。史子達は、最後に残ったバスルームの棚を運んでいるところだったので、振り向くような体勢でそちらを見た。「すっごい根っこ」と友人が思わず、声を漏らしたその木の根っこは傍若無人なほどに空に向かって伸びていて、つい先ほどまで土を抱えていた根の太さや複雑さはその木自体の大きさをよく表していた。まるでそれは木ではなく人が倒れているみたいなふうにも見えた。


「ほんとだ。引越しするのかな」

「すごいよなあ、人は。自分たちのためにこんな大きなものを倒しても、いいんだ」

 友人が特に咎めるでもなく、のんびりとそれを口にする。「たしかに」

「けどあんたの荷物もなかなかすごいよ」

 すると友人は笑って

「はは・・けど、仕事も辞めるから。これからは生活スタイルも変えようと思う」

「彼女が居ないから?」

「うん、まあ」


 友人は背中を向けてこまごまとした荷物をまとめ始める。先ほど聞いた話によると、友人が一年半付き合っていた彼女は旅行代理店に勤めていた正社員らしい。

 皆でトラックが出るまでそこで荷物を運んだりくっちゃべったりしていると、隣の家でふたたび作業をはじめるための作業員が戻ってきた。灰色の服に肌色のベストを着た男性が何人か、けだるそうに歩いて一人がショベルカーに乗り、もう一人は家の方へ向かって歩いていく。

(引っ越しかな?)

 それとも、人が死んだのかもしれない。なんとなくだけど、史子はそう思う。この豊かな街並みに似合わずその家は昭和に建てられたような古い作りをしており、正面玄関と木でできた裏口があった。そういう家を見るといつも、史子はその中に入り込んでいる自分の姿を想像してしまう。いつもそこにあるべたべたした木の壁や、少し前に流行っていたのであろう造りの家具、雑貨、コップ、食器、マットの柄。

 作業員の動かし始めたショベルカーの傍らで、木の根っこは一方向ではなく、四方八方に向かって伸びている。ついさっきまで、がっちりと土の塊を抱え込んでいたのに、意思を奪われてしまって、その形だけが露わになっていた。庭は多分きちんと手入れされていたと思うけど、その木の生えていた一角をリフォームしたかったのだろうか。その真開いている姿を見ているとき、もしかするとそれは、ひとつの顔のようだとも史子は思ったのである。

 ・・・・お椀がうつぶせにされて並んでいるものをひとつひとつ、誰かが開けていく。そして露になった「それ」は木の姿のように口を開けたまま、しゃべることを忘れてしまい、それから、何をするかもわすれてしまったかのように、ずうっと開きっぱなしになってしまう、それがもしかすると今、こうやって見せられて露になっている木、友人、あるいは、史子たちの顔なのかもしれない。史子はなんとなく、それを見ているうちに「どうにかしなければ・・・」と思う。そう思わせるのは露になってしまったもののせいなのかもしれないし、史子の性格のせいかもしれない。どうにかしなければ・・・・そうだ、もしも自分だったら、出る部屋にはカーテンをかけたままにするのかもしれない。それから、木の根にはもっとしかるべき、大掛かりな別れの儀式が必要そうな気がしてくるのである。



 大騒ぎの飲み会のなか(考えてみると皆、これがしたいが故の集まりだったのかもしれない)史子は一人の男性と連絡先を交換した。IT企業に勤める史子よりも年下のSEの男性で、友人とは以前の職場が同じだったらしい。

「史子ちゃんっていうんだ」

 べろんべろんになったその人は繰り返した。「いたがき・ふみこ。いたがき・ふみこ」

「やめてくださいよ」と言って史子は笑ったが、それがさほど嫌ではなかった。


 友人の友人達が帰ってしまい、それから個別の飲み会を友人はしてくれた。安いチェーン店の居酒屋でも、飲むのが好きな二人からするとなかなか良い場所に思えた。

「引っ越しおめでとう」

「ありがとう。いや、なにがめでたいのかわからないけど」

 笑って、友人がレモンサワーを飲む。

「仕事を辞めるのって、不安?」

「いや。それ、何人かに聞かれた。」

「そう?」

「うん。上司にも、それから同僚、結婚したばかりの後輩、皆もっと心配そうにして聞いてくれたけど、不安じゃないよ。むしろ俺は、自分の体が衰えていくことの方が不安だな」

「へえ、そうなんだ」

「うん。お前は不安じゃないの?」

「へ?」

「ああ・・・お前、彼氏いないもんな・・・」

「最近までいたわよ。失礼な。それ、関係ある?」

「あるよ。・・・あのさ、そういうことしたときなんかも俺は思うよ。何もかも終わって、俺の精子を出し切ったあと、ああ、俺自身には一体何が残っているんだろうってふと考えるだろう。ぞっとするよ。いつ津波が起こるかもしれないし、お金の価値がまったくなくなることだってあり得ないわけじゃないだろう」

「へえ。すごい。そんなことあなたが考えるなんて意外かもしれない。」

 友人はこう見えて意外と繊細なのだ。

「そう?俺、けっこう考えるよ。」

「気苦労が多いんだ。男は。私この間「甲斐性」っていう単語を久しぶりに聞いて、それを話してるのは男の人だったんだけど、そういう感じで世間を見たことがないなあって思った。」

「・・・・・」

「何よ」

「俺、たぶん皆よりもずっと考えていると思うよ。」

 史子は今日目にした、多くの荷物を思い出した。たしかにいくら引っ越しが趣味といえど、あれだけの荷物を蓄えているのが人間というものである。理解しようとすれば、それなりの努力と時間が必要なのだろう。史子はうなずく。


「それでさ、俺ってなにもないな・・・って思うわけ。結局、サラリーマンって自分に価値を置いてもらっているだけなんだよな。会社が提供したことをやって、認めてもらって、それを喜んでるだけ。」

「・・・・・」

「それが、明日の朝起きたらゼロの価値になっていること、想像するんだよ。そのこと思うと、不安だよ。おれは、居てもたってもいられなくなる。俺自身の、その価値っていったい誰が決めるんだろう。ああ、俺、こんなところでなんにも見えなくなってしまって、そのうえしたくもないことばかりどうしてやっているんだろうと思う。」

「え、もしかして、だから彼女と別れたの?」

「いや・・・・」

 口ごもり、たこわさをつつき始める。「そうじゃないよ。話さなきゃだめ?」

「聞いただけだから、べつに」

「まあいろいろあったんだけど決定的なのは向こうに好きな人ができたからだな」

「ふうん・・・そうだったんだ」

「いや、そうだったんだじゃない。そうだったけどそういうこともあった、っていう、部分」

「ふうううううん」

「けど、たしかに上手くいってはいなかったな。そういう時期だったのかな」

「うん」

「もしかすると自分の価値を彼女は見透かしていて、それをたぶん測りにかけて、男と女は寝るんだ。そういうこと考えるとすっと身体が寒い感じになる」

「・・・・」

「俺、そんなふうに目が覚めるようになったの、なんでか考えるんだよな。俺の価値自体が、目減りしているのかもな。何か」

 史子は思い出してみて、果たして自分もそうだっただろうかと考える。

「それは自分が考えたことではなくて?言ってないの?そのこと、話したりとかはしなかったの?」

「いや・・・まあ。現にもう、連絡がないから」


 そうして、そんなふうにして、あるとき居てもたってもいられなくなった彼は、彼女や会社、生きることを同じ天秤の上に載せて、測りにかけたのである。


 そして、学生から社会人になるまではかろうじてあった自由のことや、曲がりなりにも自分で自分を操縦していたころの気持ちを取り戻すべく、彼は、まず水泳を始める。それからフルマラソンに何度か出場する。得体のしれない女性と関係を持ち、その中でなんどか本物っぽい恋を経験し、それに執着できない自分がいたことに安心し、そしてそれは寂しくもあった。自分の中の絶対性は揺らぐのだと思った。

 前の彼女と会ったときは、運命的なものを感じた、と彼は、もう既に酔いが回っているためか、強調して話す。今思えばそういうわかりやすいものに人は縛られたがるものなのかもしれない。「あるじゃん、あの東京ラブストーリーみたいなもの」史子も、自分の中にあるひとつひとつのシーンを思い出しては、それがこうなってしまえばそれなりに陳腐に見えるものなのだなあと思う。そして、彼の中での彼女との決別は確実に終わり、彼は運命を信じなくなり、これまでの本物っぽい感触、仕事、人間、そういうものを特別なものではなくすべて同じようなはかりの上に載せても良いのだと思い始めた。それらはもう決別の済んだもので、彼に対して時々話しかけてくるだけであり、家族や自分の健康のように何か意見することなどできないのだ。そうしてまた決意の水がひたひたになった彼はある日、会社に辞意を告げるのである。会社や家族はそれなりに騒いだけれど、自分の中では着々と物事が運んでいくかのように思えた。彼はまず体力づくりをし、英語を習った。多くの友人と連絡を取ったり、こうして史子に引っ越しを手伝うよう連絡をしたりなどした。

 だいたいそういったことを話す友人を見ながら、こんな時間になってもまだ人が出たり入ったりする、町中という場所はすごいものだなと史子は考え、だるい身体に、さらにアルコールを流し込んでいった。

 史子も何かを言おうとしたのだが、けれどそれが旅に出るほどの決意を持ち合わせている人の前でするにはあまりに陳腐な、なんとなくなものだったように思えて、その逡巡が失せるまで友人の話に耳を傾けていた。


「そういえばさ、どうして連絡くれたの?」友人がメールを打ち、史子は何度目かのトイレから戻って来てそろそろお開きかと思われたころになんとなく、史子は口にする。え?という友人を見ながら、

「いや、数多くの友人の中でどうして引っ越しの手伝いわざわざさせるために連絡、くれたのかなあと思って」

 彼は、人付き合いはいいが、決してモテるタイプなどではなかった。今スマホを持ちそれを操作している手を見ても、ごつごつとしていて全く好みではない。真夏にはどこで焼いてくるのかいつも黒い肌をしていて、どちらかというと小太りで、服装もおしゃれではない。スポーツをやっていたので明るく、身のこなしはいいが、彼のような人間を好きにならない女性も多くいるだろう。けれど眉間のあたりになんとなく、こちらのことを人よりもひとつふたつ多くはすくいとってくれそうな、そういう人の好い賢さが集まっていると思う。

 史子は話しかけるときにいつもそのあたりを見ている。

「家が近いからじゃないかな。いや、おまえが何も考えてなさそうだからだ。頼みやすいっていうのかな。」

「ふうん。やっぱりか。」

「なに」

 友人は、史子の顔をにやにやしながら覗き込んでいる。

「なにかがっかりした。一応、通じ合うものがあったのかと思っていたのに」

「え、そんなふうに思ってたの?」

「思ってただの、思っていないのだの・・・」

「いや、あるな、無意識にだけど、合う合う。俺たち、気が合ってたよ。多分おまえが女に見えない数少ない関係性なんだと思う。」

「・・・・・・」

「俺さあ、お前のことたぶん兄弟みたいに思っているんだと思う。おれは兄と姉しかいないけど、お前は同い年かちょっと年下の兄弟。いや、友達ってなんかそんな感じだな。全員。俺たぶん、お前と二人きりで裸にされたとしても何もしないだろうなって思うんだよね。」

「ええ…」

「別にバカにしているとかじゃなくて、たぶん、そういうことするよりも話している方が得だなってお前は思わせているんだと思う。おれに」

 そうして彼はグビっとグラスに残った酒を飲みほす。

「・・・でも、よくよく考えてみて、もしそれがものすごくおなかが空いている状態だったらどうなるの?」

「え?」

「だって、食べないなんて意思、実際誰も守れる人なんていないよ。もしも、さあ、それがものすごく疲れておなかが空いている状態だったとして、肉を差し出されてみて、それが意外とおいしかったりしたらどうする?例えばの話なんだけど、人ってそんな定義出来るわけないと思う。で、例えば…だからもしも、の話・・・こういう困る事の方が意外とたくさんあるんじゃないかな。もしかすると、『意外と、いけるな』って思うとするでしょ。で、いけるなって思った後も人生は続いてくじゃん。わたしいつも思うんだよね。で、どうするの?みたいなこと。で?で?って次々聞かれるじゃない。そして人生、長過ぎて、何もしていない時間が長いものだからたまに思い出すじゃない。『あの肉は・・・』」

「・・・・・・・なんだよ」

「あの肉・・・キリストが飢えているときに与えてもらったうさぎの肉。自分は食べたくて食べた訳でもなかったのに、けど、まあまあ食えたのなんでかな・・・とか」

「おまえ、あほなのか?」

「いや、そもそも、俺はベジタリアンだったのにな・・っていう、根幹を揺るがす問題」

「うるさいよ。」

「けど人生ってそういうものじゃない。そういうどうでも良いことに対する感情の始末の仕方を知りたいのよ。わたしは」

「俺はなあ・・・おまえの・・・いや、俺の・・・・」

「あと男気トーク腹立つ」

「そういうんじゃねーよ・・・」

「けど思わない?できないのと不可能って違うみたいなこと。皆それをないことにしてあるべき世界みたいな前提で語り始めるから、いつも、なんで?って思う。そこに、違う可能性が1パーセントくらいはある場合、それはその人の恣意が働いているわけであって、じつは皆はその恣意の方が気になる」

「へえ」

「多分そう」

「ふーん」

「たとえばね・・・だから、そういったようにわたしたちが裸でそのへんにいたとする。言っとくけどこれ、初めに言ったのあなただからね。で、その強いて言えば、好みと欲求の違いについて、抗えない部分みたいなのを教えて欲しいんだな。で、その中で私がいたずら心で、気持ちよくさせようとし始める。一応だけどそれは、可能性の話ね。しないけどさあ。もしかしたら、風が吹いたとしても立ったりする人もいるわけじゃない。そういう場合ってあるじゃない。コンビニでも、地下鉄でも、あるいは、予備校でも、ちゃうやろって奴に見染められるときの力学的な力でそういうのがさーっと来るわけよ。そうしたら『うわ、参る』と思ったりする?わたしに?自分に?それとも、飢えてしまった理由について?」

「・・・・・・」

 友人は笑っていたので史子も思わず笑ってしまっていた。

 たぶん、別に答えが欲しいわけでなくって、わたしも彼と同様に、友人がこんなふうに困ったり、笑ったりしている顔が見たいんだ。そんなふうに、答えが出ない事に対してもずっとずっと、こんなふうに考えてくれる相手に、寄り掛かってしまいたいのかもしれない。

 そう感じながら、史子は話し続ける。「可能性とか、無駄とか。」あるいは、好きじゃないことや、心を砕きたくない相手について回る色々な落とし所の無さだとか。

「ふーん。で、そういう時やたらめったらそれをつなぎ合わせて考えるんだ」

「そう。誰にも言わないけど」

「暇なんだな」

「そんなことないよ。

 うさぎの肉、想像の領域で食べてみてもいいよ。わたしあなただったら困ってる時可哀想だなって思うし」

「食べねーよ。そもそもあれ、うさぎの肉って食べられたんだった?土に埋めたんでなくって」

「わすれた。というか知らない」

「知っとけよ」

「けど、真面目に考えてるんだね。色々なことを。あなたって良い人そうだもんね。・・・いいなあ。あーあ。私も思い切って今の人生を捨てて、旅行へ行ってみたい。」

「阿保。旅行じゃねえよ。」

「ああ。そうか。人生を形作っていくための旅」

「無理だな。お前には」

「は」

「俺は肉食べない」

「はっ?」

「でもお前を食べないのは飢えていないからでも、聖人だからでもない。そういうことを言いたいんだよおれは」

「なんじゃそりゃ」

「じゃなくて・・・お前は会った時からお前だったから。潜り込む余地のない相手だと思ってたから。俺はお前に介入する権利を持たないよ。そういう・・・」

「・・・・・・・」

「俺には考えられない。俺込みでいるお前の人生っていうのが、俺の中にはないな。いや、あるのかもしれないけどさ…俺の場合、自分の欲求にお前がついて回ってること考えたら絶対、それは違うっていう感じするよ。気持ち悪いよ。いや、おまえでなくてそういうことしようとする俺が。なんでかな?別に嫌いなわけじゃないけど、俺はわがまま言う俺を見せたくないよ。だから、おまえじゃないんだよ。何かそれ込みで受け入れてもらう、って何か、恋愛ってさあ、そもそもが考えるとすごいわがままなことなんだな。」

「うーん・・・そうなのかもしれない。」

 史子は考え込むような声をあげる。

「・・・寂しいだろう。」

「寂しいかもしれない」

 ぎゃはははは!と友人は笑うので、史子はたった今、笑う気も起きなかったことを隠そうと思う。

「だから、さあ、俺はその可能性とか、全て、もう諦めたんだと思っててくれよ。俺はもう、自分勝手に飢えたからってなんの理由もなくそのへんにある肉食うような人間になりたくない。だから行くんだ。もう日本でだらだら、年取るような暮らしして、それがただ、生きてるだけで大層偉いんだって思い込みたくない。俺はだから、そういう自分が、本当は裸だってことに気づかないでいる姿を考えるんだよ。」

「ふうん。なるほど。わたしも、そうだったのかなあ」

「なに?」

「え?だから、そういうことするのって裸の状態っていうことなのかな。だとすると、好きな人といる時の自分って、はだかなのかな」

「比喩だろ」

「だから、比喩で」

「うーん、まあそうなんだな。俺は、おまえに裸の俺は見せたくない」

(べつに見たくないけど・・・)

「・・・おまえ、俺のことたまに思い出して、元気で、うまくやっていてくれって思ってくれよな。俺、向こうで死ぬのかもしれないし。」

「うん。わかった。もう思ってくれる人もいないものね。」

「うるせーな。・・・けど、楽しいと思うよ。」

「向こうでの生活?」

「うん。俺、不思議なんだけど、会社を辞めてから、怖いのってなくなったんだよな。正確に言うと、だいぶ少なくなった。前はあるものがなくなるのが怖くて仕方がなかったけど、今は明日死んでもしょうがないやって思えるようになったよ。不思議だよなあ。今までの俺は、ちゃんと生きていたのかなあ。」


 さあ、と言って史子は着てきたシャツを羽織る。


 自分だって今どこにいて、何のために、どうしたくて生きているのかは、いつまで経ってもさっぱり分からない。そして支度をしているうち、友人はお勘定をさっと手に取り、史子の方を振り向かないままでレジの方へ向かっていってしまう。


 友人と別れた帰り道、もう地下街はほとんどの店がシャッターを下ろしていて、週末に寄ろうと思っていたペットショップももう閉店しているだろうと思いながら史子はその場所を乗り継ぎの駅へと向かって歩く。コーンスネークの場合、寒さに強いためまだ、夏場はヒーターは一つで足りているが、時々雨降りが続いたり秋の始まりになる頃にはもう一つ買わないとならないかもしれない。一応、値段を確認して、店員からのアドバイスも聞いて置きたかった。

 家へと戻り、荷物を片付けたあとでふと、テーブルの上へ置きっぱなしになったままの本の、コーンスネーク以外のページを眺めていて、史子はポールパイソンという蛇の写真に目が留まった。以前はそれほど感じなかったけれど、角度によっては蛇の頭というのは凶悪なかたちをしている。こういうのを飼おうと思うのは一体どういう人なのだろうか。いろいろな種類の蛇が居るけれど、やはり蛇のかたちというのを見ていると触ってはいけない、近づいてはいけないと感じるのは、経験というよりも本能の部分なのだろう。蛇、爬虫類マニアというわけでもない史子は、その時、自分がもしかするとおかしなことをしているのかもしれないとはたと思った。

 たとえば、自分がものすごく腹を立てている時に、もし蛇がひとりの同居人のように史子の傍らでとぐろを巻いていたら、自分は一体どんな気持ちがするのだろうと考えてみた。

 たとえば、そこに蛇がただ居ることに対して腹が立ったりするだろうか。

 蛇の模様は見れば見るほど人を寄せ付けない形として毒々しくそこに刻まれていた。ふと、部屋にいるコーンスネークを見ると、あわいオレンジ色の光彩が水槽の葉と木のあいだからちらりとからだをのぞかせていた。


 蛇のいる部屋で眠る間史子は、壁際にいる水槽のことを意識している。そこで蛇が水槽でとぐろを巻き続けているさまを思い描く。


 部屋は明かりを消されて、外の街灯からさす光がカーテンの隙間から漏れてくる以外は暗闇だった。その中の一角の、窓のない、四面がまるきり見えている壁の真ん中に、蛇の水槽はある。その中で蛇は、いつも、ぐるぐるととぐろを巻いている。それをしばらく続け、自分の肌が滑るのに飽きた蛇は、今度は水槽の四つ角を探るようにその場を這い回り始める。そうしてそれにも飽きれば、今度はどこまで上は登れるのかを試そうと、力いっぱいに体を伸ばし始める。(カタ)、という音がして、史子はその瞬間目を開けそうになるけれど、でも開けないで眠ろうとし続ける。・・・そうして水槽の隙間をたまたま見つけた蛇は、夜の薄暗い部屋のフローリングの上に、はたっと落ちる。蛇は唐突に手に入れてしまった自由を謳歌するのでもなく、とにかく本能のままに、突き当たりまで行こうと体を伸び縮みさせ始める。史子はため息をつく。

 朝、起きると蛇は水槽の中でチロチロと舌を出して、水槽のオブジェでもある木の陰に隠れて、こちらを覗き込んでいる。




 ペットショップは町中にあるのに、ここの店はそれほどにぎわっていない。ここが混むのは主に土日だった。けどいつ来ても居心地がいいと感じるのは、おざなりで一言さんを適当にあしらうのに慣れてしまった店員ばかりでなく、きちんと生き物が好きでそれに詳しい人が居るからだな、と史子は、水槽の下にひくための床暖のようなヒーターを買ったビニール袋を持ち店内を見渡しながら考えている。

 こういう場所が、史子の過ごしてきた人生の学校でも町中にでもいくつかあったと思う。そこは日中でもいつも静かで、人が集まらなくて、古びていて、けど目を凝らして見ると、ちゃんと誰かの目を引くようなものが、それも手入れをされた状態で置かれてある。骨董店、それから手芸店。とんかつ屋や喫茶店に置いてある趣味の本、水槽。若者向けのきらびやかな雑貨店は、店構えを見るととても良さそうなものがたくさん置いていそうに見えるのでわくわくしてそこへ入るのに、実際に入り手に取って見てみるとどれもこれもを欲しいとは思えない自分が居るので驚いてしまう。

 熱帯魚の水槽はどれもこれも少しの苔も生えていなくてぴかぴかだったし、その中では魚が元気に泳ぎ回っていた。爬虫類の方も、種類は多くないけれどよく見るとディスプレイに凝った見せ方をしている。

(飼おうかな)

 グッピーが泳いでいるのを見て、ふと史子は思ったけれど、さすがに水槽を二つも置くの憚られると思い、もしそれをするのならあの蛇が死んでからだと思いなおした。




 翌々日、連絡先を交換した佐藤くんからメールが来ていたので、二人で会うことになった。史子は会社を出る前にきちんと化粧直しもして、少しばかりのアクセサリーをつけるなどして行った。待ち合わせ場所に来た佐藤君と挨拶を交わしたあとで、自己紹介のようなことを話す顔を見ながら史子は、こんな人だったかな、と思った。思えばあのときは友人の友人として会ったから、皆を同じような顔として自分は見ていたのかもしれない。「板橋さん」と呼ばれると男の人っぽい声にどきっとした。

 そういえば自分はまだ、二十五歳で、むかし結婚をしたいとたわいのない話をしていた二十八歳までにはあと三年しかないのだと考えたりする。その日は、チラシやテレビで紹介されていた古代エジプト展を二人で見に行くことにした。展示室は大型のショッピングモールの特設会場として設置されていて、受付でチケットを手渡して入ったその暗室の中で、金色の装飾具は光り輝き、史子たちの目をひいた。そのなかで何人ものカップルとすれ違って、何人かががイヤホンでつけている音声案内の声が漏れでていた。最後まで見終わった後でその建物から明るい野外に出ると、ちょうど日が暮れるころの色彩が空に広がってる。そうして予め決まっていたかのように二人で食事をしに行った。


 家へ帰って、部屋の明かりを付けてみる。史子の住んでいるのは駅から歩いて五分ほどの距離にある、築十五年目のアパートだった。車通りが多い方の壁はすりガラスになっていて、朝でも夜でも車の通り抜ける音が聞こえてくる。

 史子が壁のスイッチを押すと、パッと明かりは付き、まだあまり家具が置かれていない部屋が視界に飛び込んでくる。しいん・とした空気。入社したばかりの頃はこの土地の空気が合わないためか常に体調を崩していた史子は、帰宅した時のこの瞬間がたまらなく嫌だったのに、けど今は、そんなことも特に気にならなくなった。


 すぐにシャワーを浴びた。それから部屋のこまごまとした片付けをして、顔を上げて、そういえば蛇のことを思い出さないのは今日が久しぶりだ、と思った。

 いつもなら、会社にいるとき、昼食を食べながらだったり、帰り道、それは同僚や友達と居ても、いつもあたまの片隅に、蛇のなまあたたかな体が横たわっている家を、何処かで思い描いているのが常だった。それは心配などではなく、エアーポンプを切らさないようにいるような、常夜灯をときどき確かめてみるような注意だった。そのスイッチを切らないでいることで、蛇と自分の住処は保たれている、ような気がした。そのせいなのか史子はいつもとちがうことをやってみよう、という気によくなるのだった。例えばこんなふうに男の人と会うことだってそうだ。同僚や学生の頃の集まりに至っても、グループLINEがときどき動いても、忙しさのままに史子はそれを開こうとしない。それから、帰り道だって必ず同じ乗り換えをして電車で帰る。意識する、しないに関わらず、同じ線を描いて帰るのが常だったのに、最近はよく買ったこともないような雑貨店でランチマットを買ってみたり、硝子の置物を買ってしまったりした。それから、掃除についてはまるで趣味のようになってきていて、今では休日に窓の桟を磨く用具で張り切ってそこを掃除する。いまは、スチーム製の掃除機具が欲しいと思っている。真夜中の通販番組で紹介されていたそれは、温水の力で汚れを落とすのだそうだった。

 部屋の中にある水槽のなかでは、ゆっくりと蛇が体の位置を変えようとしている。

 史子は三ヶ月前まで一緒にいた恋人のことを思い描いてみた。彼のことを思い出さなくなってからももう随分経っていたように思う。ちょうど、餌をやる予定を三日ほど過ぎていたので、冷凍庫に入れてあったピンクマウスのパックを出して、そのうちの一匹を取り出して解凍するために専用に買ったバットの上に置いておいた。

 史子はソファの上に腰掛けてテレビを付ける。ニュースではさっきまでいた街の中心部で衝突事故を起こした車の映像を流していた。史子はそれを見ながら、事故車両の映像、そのあとで流れ出した保険会社のCМを眺めながら、お茶を飲む。


 最初、蛇はもっとぬめぬめしているかと思っていたのは間違いだった。凶暴で、それから近寄りがたいものをイメージしていた。史子はそれを水槽越しに見つめている。語らない同士で。お互いの体温は、うすい水槽越しを隔てる蛍光灯ほどの役割しかもっておらず、それを見ているとある、ひとつ考えに支配されそうになる

 ―――わたしはきっと、いつか、こうしているうち正統にやるせなくなるのだと感じる。葬式―――あるいは、血圧の降下―――そうして、もう一切何も見えなくなりそうになる。わたしたちはある日、突然選択するのだと思う。


 ある時から、史子は一段階、自分の生きるための熱量を下げようと思ったのだった。

 朝のネズミが食いつぶされていくのをじいっと見つめようと思っていた。史子はそれを毎回、見つめながら気持ちが落ち込んでゆく。もう、生まれでたことに対して取り返しがつかない思いになり、史子は一人で多分泣き始めるのだ。―――社会から隔絶されてしまった。そういう気持ちで。そうして、ぽたぽたと、水滴は止められないくらいに落ちていく。部屋から離れていてもあらゆる場所から音を聞くたびに、家にいるものをきっと思い出す。「他者」というものをそんなふうに離れて今は何故か、いつまでも眺めてみたいと思う。



 蛇の世話に精を出す一方で、そのうち、蛇が与えてくれる妙な感情は、蛇が自分に対して何も訴えかけてこないからだと感じるようになった。蛇は、猫やハムスターのように抱き上げたり、ぬくもりを感じたりすることができないけれど、その代わり鳴いたり何かをねだったりしてこちらを困らせるようなこともない。史子は、ときどきは餌をあげる。そうするとそれを蛇がいつか見つけ出し、飲み込み、それが消化され、それから排出されていく。史子は常にその傍らで生活する。蛇はいつも史子のかたわらに居て、秩序正しく、ことわりに対して折り目正しくいる。そしてその一連の、たくましい活動を順序よくこなすと、それを見守っていた史子は心の中で歓声を上げたくなる。

 蛇のする一つ一つの行為は、ともすると、自己を自己が救済しようとするこころみとよく似ている。それを距離を保ちながら見守ることは、自然のひとつに史子が組み込まれてしまうこととよく似ていた。そうして、それは逆の立場でもって、史子のやること、なすことにもひとつひとつの意味を投げかけて来たので、史子はもっと自分をうまく管理したいと思うように何故かなった。


 友人の影響もあり、史子はスポーツジムの登録をすることにした。その狭い、地域の建物を改修したような作りのフィットネススタジオは史子をがっかりさせたのだけれど、会社と自宅の場所を考えるとそこしか良いところはなく、スタッフはきちんとしていたのでそこに決めたのだ。その狭いロッカールームで、史子は持ってきた着替えを取り出し、会社に履いていくストッキングを脱ぎながら、傍らにいつもいる、もうすでに関係性が出来上がっている主婦たちの会話に耳を澄ませる。

 そこで、史子は週に一度女性たちと混じってヨガをしたり、トレーニングをしたりした。用具の使い方やそれを使っても良い時間のようなならわしや、スタッフの名前や生徒の年齢を覚え、あいさつし、話して、けれどそれはただ、いつもと同じようなルーティンの中にたった一つ、新しいことが紛れ込んだに過ぎなかった。


 佐藤君はいつも夕暮れ時になるとメールをよこす。史子はそれを見て、いつも同じくらいの分量の返事を返す。電話がかかってくることもあるし、来ないこともあるけど、佐藤君から史子に話したいことはたくさんあるみたいだった。


 史子は久しぶりに姉の家へ向かうために手土産に夏らしい水羊羹を買った。その水羊羹は透明な入れ物に入れられており、ふろしき風の包装紙が掛けられていていかにも夏らしいものだったから、その包みを持ちながら、史子は、姉が喜びそうだと思った。家を出る前に蛇の皿の水を変えたけれど、蛇は木の上でとぐろを巻いており、顔の大きさに対しては大きな目でこちらを眺めていた。史子はその頭に手で触れてみてから玄関の方へと向かって行く。


 姉の子供の、こたくんはもうハイハイをして床を歩き回っている。しばらく、二人でお茶を飲み、テレビを子どもに見せながら話していた。特に積もる話もないはずだけれど、なんとなく人の家は居心地が良いし、次々とお茶や、かき氷や、写真を姉が引っ張りだして来てくれるからいつも退屈しない。

 アルバムをめくりながら、そういえばこのいちご狩りの時の彼氏はどういう人だったというのを、母の感想とともに話していく。その時、韓国料理を食べに行って―――



「そういえば、蛇はどうしたの?飼ってるの?」最後に行った動物園の写真にさしかかったころ、姉が不意に史子に聞く。

「蛇、飼ってるよ。水槽をペットショップで買って、いま、部屋の片隅に暮らしてる。」

「ふうーん。蛇、って、かわいいの?」

「うーん、まあ、

 かわいいというかおもしろい。」

 どんなふうに言えばよいか考えているうち、姉は史子が言いたくないと思ったのだろうか、話題を変える。

「うちさあ、そういえば昨日まで大変だったのよ。このあいだ、この子が夜中に40度の熱を出して」

「へえ」史子は麦茶を飲みながら応える。

「それで、そんな熱を出したことがなかったから。救急病院を探し回って、数時間並んでやっと診察になって、解熱剤を入れても熱が下がりませんって言ったら『おかあさん、熱は無理に下げなくてもいいんですよ』ってわたし、なにもわかってない学生みたいな言い方されてきた」

「え。熱って、下げなくてもいいの?」

「そうだよ。解熱剤はある程度してから様子を見て入れるみたいよ。」

 姉は、飲みきってしまった麦茶を注ぎながら、史子の方を見ずに言う。蛇について考えていたことが、姉にも分かるよう考えていたのがうやむやになって来る。

 この日は暑い日だった。三十度超えの日が続いていて、けれど史子はずっと冷房の効いた社内で仕事していたので、久しぶりに暑さを感じたような気がした。姉はずっと、この部屋にいるのだ。こたくんと寝起きし、旦那さんを送り出したあとに掃除をし、時々スーパーや公園へ行き、そしてまたこのマンションの三階にある、いくつも連なるドアのそのひとつへ入っていく姉の姿を史子はすでに何度か見ているような気がした。


「まあそのある程度っていうのと、様子っていうのが分かんないから、病院へ行くわけだけど」

「そっかあ。こたくん、大変だったんだね。でもさあ、わたしも大変だったよ。彼氏とは別れたし」

「え、あ、そうなんだ。あの、事務所勤めの彼」

「うん」

「それは残念。良い仕事してたのに」

 史子は、その事に関して今日ではじめて笑ったような気がした。

「まああとは、お母さんからも電話がかかってくるし。あと、ジムにも通い始めたし」

「へえ。忙しいじゃん。いいね、ジム。わたしもやりたいな」

「そう?ものすごくふっるーいの。ダサいし。見てるとジムというよりも地域のまちづくりセンターかと思うよ。」

 姉は笑い、そして「お母さん、なんて言ってた?」と続ける。

「よくわかんないけどとにかく長いメールと心配っていうことは伝わってきた、いつものやつだよ。すごいよね、母親っていうのは。いつまでも定型を保った母親だものね」

 姉は、あはははと笑う。「偉いね。メール、返してるんだ」

「だって、私の場合メール返さないと今度電話になって、怒られるんだよ」

「それはあなたの、戦い方がまだ日が浅いからじゃない。お母さんは、甘えてるんだよね。お母さんっていうかたちで」

 姉は微笑みながら言う。姉にそう言われるとなんだか仕方がないと思う。結婚、出産を先にして、母親と折り合いを一人でつけてきたのは姉なのだ。

「・・・彼氏と、一年半くらい付き合っていたけど、別れって寂しいものだね。」

「そうかしら。」

「うん。わたし、今、自分がつまんないだけなんだなあってとこが寂しい」

「ふうん、そうなんだ。わたしなんてもう、これまで付き合った人の顔覚えていないよ。史子は感傷的なんだね」

「そうかな。これって、感傷的…」


 蛇が・・・と史子は言いかけると、姉の子どものこたくんが泣き出したので、史子は口ごもる。一度そうして気が付いたけれどそれは、驚くほどに伝えられそうな言葉になりそうになかった。

 ああそうだ、蛇はいつも、自分にとって影のような存在だった。


「ああ、こたくん」


 姉はソファから立ち上がり、こたくんを抱き上げる。ソファに戻ってくると「ちょっとごめん」と言い、それからシーツのようなものを自分の首にかけ、ごそごそと衣服をめくる。


 史子は、こういうときは未だに妙に気恥ずかしくなって、水羊羹をかちゃかちゃとほじくって食べた。しいんとした中で、テレビのキャスターが喋り、こたくんが大人しくなったかと思うと姉のおっぱいを飲む音が聞こえてくる。

 こういうとき、史子は姉、それから変わってしまった女たちと自分の違いを意識するのである。その大いなる、母性のようなあたたかみに、史子は触れそうになるとなぜだかいつも恥ずかしくなった。立場が逆になり、自分がそれをする役目になることなど考えられなかった。いつだったか母が幼い自分の鼻水を吹いてくれたこと、それから友人の家に行くと友人と同じようなコップでジュースが出てくること、それを何も感じないまま笑顔で飲んでいる友人のことをよく思い出した。そういうとき、この人たちは見えていないのかもしれない、と思うのである。自分はまるでそこに当てはまらない生き物になってしまったかのような不思議さで、史子は自分の手や足を見て、それがたぶん皆からは好ましい形をしているからだとかろうじて判断してから「どうして?」と聞きたくなるのである。なんとなく、以前の恋人のことを思い出し、史子は哀しくなった。


 史子は姉の方を見てみる。こく、こくと小さな音がし、姉は子供の顔を見ながら母乳を与えている。

「・・・おっぱいをあげるのって、痛くない?」史子はふと、姉に尋ねてみる。

「べつに、痛くないよ」

 ふふ、と姉が笑う。

「はじめはうまくいかなかったけど、産院でたくさん練習したよ。うちの病院は母乳育児の指導に熱心だったから。」

「ふうん。そうなんだ。なんか、すごい。すぐおなかが空くんだね」

「そうだよ。こたは、おなかが空いたまま生まれてきたの」

 姉はそういって、こたくんのおでこの毛をなでる。

「怖くない?自分がいないと死んじゃうっていう存在」

 姉が笑うので、史子が姉の顔を見る。

「うーん、怖くはないよ。わたしからしたら、ダンナの方がずっと煩わしいわね。」

「へえ、優しそうな旦那さんなのに」

「まあ、優しいは優しいけど・・・ああいうのって、育ちよね。」

「へ。」

「一緒に暮らしているともう、本当に環境が人を作るんだなあって思う。結婚するともう、その人のうちの内側まで全部、見えちゃうからね。」

「ふーん」

「あっこの言い方、この人だよなあとか、あっこうやってこのゴミ捨てるの、これもしかすると小さい頃言ってもらわなかったんじゃないのかなとか、何かその人の通って来た道筋まで全部、見えちゃう。」

「へえええ・・・何か、結婚って大変。」

「そんなことないよ。暮らしだから。普段だったら何も意識してないよ。こうやって話していないとわたしも毎日するーっと過ぎていっちゃう。」

「へえ。・・・でも、なんだかわたしには想像できないなあと思って。自分が奥さんとか、お母さんになるって。どんな感じなんだろ」


「私もそう思ってたけど、それって、十代二十代の気持ちなんじゃないかなあ。三十代になると、もう、子供が欲しくてほしくて、たまらなくなるよ。身体の中から。わたしの周りの人もそうだもん」

「へえ。そんなものかなあ。」

「そうだよ。皆、遊んでいた子も焦って婚活してるよ。

 ・・・ああ、でも最初は怖かったなあ。けっこう鬱になって、泣きながら看護師さんに電話したりもしたけど、そういえば忘れちゃってた。」

「毎日忙しいから?」

「うん。」

 話が途切れると、しーんとなって、教育テレビの音が小さく響き始める。姉の住んでいる場所は静かで、大通りからはかなり奥まった場所にある。

「おっぱいはね、赤ちゃんとの共同作業なんだ。」

「共同作業?」

「うん、そう。一方的にあげてるわけじゃなくて、赤ちゃんが泣くからあげたいって思う。赤ちゃんの方もお母さんが優しくするからやっと飲む。大声を出したりすると、やめちゃう。」

「え、そうなんだ」

「そう。」

「ふうん。繊細なんだなあ。大変なんだなあ。育児は」

 姉は微笑み、わたしはこたくんのはみ出ている小さな足のかかとに触れてみる。そうすると、なまあったかい体温が伝わってくる。


「今は力強くこうやってくっついてくるけど、最初この、赤ん坊っていうはゴム人形みたいだから」

「ゴム人形!」


「ほんとだよ。だらんだらんしているし、泣くだけだし、それを繰り返すうちに、多分ホルモンが出だすんだね。なにか、気持ちよくなってくるんだよ。だからあの・・・北海道の牧場で、畜舎につながれている乳牛ももしかすると地球平和のためっていうくらいに幸福感に包まれているのかもしれないね。それを繰り返しているうちに、もっともっと呑んでって思う。子どもにおっぱいをあげるのって、気持ちがいいことだよ。母さんにこれ、おっぱいタンクって言われたんだけど、本当にそうかもしれない。わたし別にそれでいいやって思うんだよ。」


「ふうん。私もそんなふうになるのかなあ。わたしって母性がないのかも、と最近は思っていて…」


 こたくんは身体をもぞもぞし始めて、姉のかけた白い布の中から這い出ようとしている。


「飲み終わったね。最近、こうなの。おっぱい飲んでも寝てくれなくなっちゃって」


 姉はため息をつき、こたくんを脇から抱きかかえて膝の上に座らせ、掛けていたケープのような布を首から外す。

「便利ね、それ」

「うん。ほら。もう、満足」

「本当だ。元気になった。あ、笑ってる」

「はあ・・・・」

 姉は疲れた顔をし、こたくんはきゃっきゃと笑い声をあげる。ごきげんなのだ。

「一歳すぎると、騙されてはくれないか。まあ、いいや。結構機嫌よく遊んでるね。ふみこ姉ちゃんが、いるからかなー?」

「うふふ」姉とこたくんの陽気につられて、史子も笑う。

「ね、ご飯にしよう。史子は何食べたい?」

「うーん。私つくろうか?」

「なんでもいいよ。せっかくだから、出前でもいいし。ちょっとまって、チラシがあったと思うから」

 姉が、こたくんを抱えてソファに座らせると、こたくんは一目散にそこを下りてテレビの方へ向かって行く。ちょっとばかり申し訳ないけれど、こうやってテレビをつけっぱなしにしなければ大人同士で落ち着いて話せもしないということを、ここにいるもの同士でもはや飲み込んでいる。姉もたぶん息抜きがしたいし、こたくんはアニメをいつまでも見れることを喜ぶし、そうされっぱなしでいても何の疑問すら抱かない。

 そして姉は、キッチンの近くの雑誌の束のあるところへ行き、チラシを探し始める。

「お姉ちゃん、いま、お母さんに感謝とかしたりする?」

 史子はなんとなく、自分がそうなるときのことを想像していたついでに、姉に聞いてみる。

「ううん。ぜんぜんしない。」

「そういうもの?」

「そういうものでなくって、あの母だからだと思う」

「ふーん」


「はあ・・・」

「けどさあ。信じられない感じがする。」


「なに?」

「あのお母さんが私たちのこういう頃を見てお世話していたこと。」

「ああ。」

「ああ、でもだからああいう話し方するんだなあって思うんだよね。いつまでも何もできない史子がお母さんの中にあって・・・」

「ゾッとするよね。」

 姉がこちらを見ずに言うので、史子は笑ってしまう。

「まじ、ゾッとする。」


「・・・・」

「お母さん、あんなことがあってからもまだわたしにもメールしてくるよ。わたしは数週間、放置してから返事してるけど。無視もけっこうする。あの人、あのころの集積と執念の塊なんじゃない?だからこんなにメールしたり電話したりしてくんのよ。

 ねえ、史子。そうなると、いままでの幸福も信頼も、全部が台無しになるよね。お母さん、わたしはこんなにお母さんが好きだったの。けど、どうしてあなたはいつも、私たちから感謝されるための機会を自らの手で奪うのですか?

 ・・・・・あ、あった。ピザか丼ものかお寿司。奮発しておすしにしちゃおうか?」


 姉が、明るい顔で史子の方を見て笑う。







「佐藤くん、お葬式って最近出た?」


 史子は、スマートフォン越しにずっと遠い場所に居る知人に、聞いてみる。「佐藤君」とはたしか一週間ほど会っていなかったのに、その存在は、友人や姉と会っている間になぜだか史子の中で膨らんできているような気がした。毎日、史子は蛇の水を入れ替え、それから世話をし、いつものように部屋中を整える。そういう時いつもならもっと沈殿していく湖のおりのような気分でいたのに、今はふと「ねえ」とその心の中にいる像に話しかけそうになってしまっていた。

 そしてそうするたびに、史子は蛇がどこにいるのかを確認してみた。部屋のなかで、あるいは外を歩いているときも、例えばそれがつくられたものだとしたら、その存在感の大きさ、冷たさは人をときに苛々とするような気持にさせる。それから知っている人は決まりきった事柄に手を出させようとする史子の足かせとなって、いつも何かを投げかけてくる。

 蛇はもっと愉快な存在だと思っていた。ときどき、史子は蛇の生態を、その理解できない体躯、動き、食べるときの様々な動きに目線を這わせ、理解しようとこころみ、その理解というものはどこから来るものなのかを真面目に考えてみようとした。・・・史子にとって、それはとてもあたたかな行いのように思えた。これまで面倒だった、人と会うための儀式、そこにつながるための前置きもしないまま史子は一方的に史子なりのやり方で蛇へと距離を詰め、限りなく近づこうと試みる。そうしている限り史子は、自分という肌の感覚を通して蛇を取り込もうとするだけの存在になる。それは感覚的なもので、そうしている限り、世界の中でこの場所は少しだけ明るみを増し、自分は蛇を読み取ろうとする部分がとても鋭敏になったように感じていた。

 それは湯上りに何も着ないままシーツにくるまるような感触に似ていた。けれど今は一方で、佐藤君の実像がたしかに史子の中にあって、その輪郭がたびたび史子の頭の中で浮かんでくるのだった。


 ジムをはじめたこと、それから部署の変更、友人の結婚、いろいろなことがあって、あっというまに数週間が過ぎた。

 友人の話すような人生の在り方からは程遠かったけれど、たしかに物事は常に動き続けているのだ。それを傍らにいて眺めるのは満足感に近く、そういう人生が自分のもとにも訪れるのだ、というのは些細な驚きでもあった。さかのぼって考えてみれば、恋人と付き合い始めたこと、仕事を始めたこと、そういった営みはもしかすると自分で選んだことではなかったのかもしれない。



 ある日、史子は蛇のヒーターが接続不良になってしまったためそれを買い替えにペットショップへ行くことにした。雨降りが続いていて、夏なのに肌寒い日に、史子は長そでのシャツを着てそこを訪れた。蛇のいる一角は店の一番奥にあり、その手前には人目を引くような犬や猫なんかも売られている。蛇向けのヒーターを新しく買ってから史子は犬猫を見る人たちに交じってそれを見ていくことにした。


 蛇を、ずっと見張っているのでなければ水も飲むのをあまり見かける事はないけれど、百円ショップで買った深めの皿に水を入れたものを毎日、新しく入れ替えては水槽の中の定位置に史子は置いておく。太陽、水、肉、それと温かみ、それだけでいま、ここにいる蛇は生きているのである。史子はさながら、そこに木の枝を突っ込んで生態系に手を貸す神様みたいな存在だろうか。

 時々だけれどその史子が与えた水場に蛇が居座っているのを見かける。水を飲んでいるのを見ると、なぜか自分も少しだけ満足するような気持ちになる。


 史子は姉の母乳のことをなんとなく、眠る前に思い出すようになった。ある時、こたくんが気まぐれで口を外すとそれでも母乳はとまらず、そこからぽたぽたと母乳が垂れてくるようで姉は「あ、失敗」と言いながら、それを拭き取っていた。

 どうして母乳は白いんだろうと思う。ほんの数分前までは姉の体の中で真っ赤なヘモグロビンを運び流れていた血液は、即座に、栄養となる事を決しておっぱいに集まるのだろうか。それは、愛のひとつの形として?だとしたらそれはすごい奇跡だと思う。わたしたちの世界では、赤いものを瞬時に白色なものにすることなんて、無傷で成し遂げる人はあまりいない。いつも、こたくんが泣くと、姉はすぐにそちらの方を向いて、作業の手を止めて、当たり前に駆け寄る。そしてまた、何度目かわからないように慣れた感じでシーツをかぶり、母乳を飲ませる。




 こんなふうに脇目も振らずに仕事や、ジムなどで過ごしていると自分がいま何月何日、何曜日のどのあたりにいるのかよく分からなくなることがあった。そういう時に佐藤くんから電話がかかってくると安心して、ついそれを自分から切るのも忘れて話し込んでしまう。


 蛇が家へ来て三ヶ月あまり経った日曜日の朝。史子はいつもよりも遅く起きた。週末の、書類作りで夜遅くまで粘っていたから、昨日は自宅に入ると化粧を落として直ぐに眠ってしまったのだ。翌日の昼過ぎまで眠り込んだ後、起きて顔を洗い、食べるものがパンとスープくらいしかない自分の用意の悪さを呪いつつ、ふと水槽を見てみると、蛇は姿を消していた。

 どこにもいない。

 史子は驚き、まず水槽にある木の枝や大き目の石をひっくり返して見てみた。

 そこには抜け殻はおろか、蛇のかたちは影形もなく消えていたのである。史子は、すぐに自宅の隅から隅まで、あちこちを探してみた。それこそ、小さい頃にカブトムシが逃げ出した時みたいに、排水溝だとか、お風呂場の換気扇の蓋を開けてだとか、タンスの裏とかも、思い当たるような隙間、玄関、それからアパートの共同の階段までも手を尽くして探した。それなのに、蛇は忽然と姿を消してしまっていたのである。あるいは、史子は真剣にそれを考えたのだけれど、もしかすると誰かがこの部屋に勝手に上がり込み、蛇を持ち去ってしまったのかもしれない。

 そう考えたくなるほど、まったくそれは忽然といえたし、跡形もなく存在が消えてしまうことがあるのだろうか、と史子は思った。二、三日経って史子がすぐに考えたのは代わりの蛇を飼うことであった。それは当たり前のように浮かんだのに、史子の中でそれは即座に却下されたのだった。


 八月の終わり、まだ暑い日が続いているさなか、史子は仕事へ向かう電車の車内を鬱陶しく感じてそこに立っていた。

 じとじとと肌にはりつくシャツ、それからスカート。もうすぐ夏休みが終わり、学生たちが増えるともっと車内は暑苦しくなるだろう。そうでなくても待ち合わせて乗るのか、男女のカップルが朝からくっちゃべっているとその内容のなさと配慮のなさにはわけもなく苛々とした。もう数ヶ月前に自分も同じようなことを喜ばしくしていたことなどみじんも思い出さないのが不思議だった。


 蛇はというと未だその死体も、生きている姿も見つからないまま、ヒーターのスイッチの切られた水槽がらんどうになっている姿が、史子の自宅の部屋の中にはある。



 史子は、佐藤くんと一ヶ月越しに会うことにした。佐藤君とお互いに連絡はずっと取っていたのに、予定が合わなかった為なかなか会う機会がなかったのだ。しばらくぶりに会うと、佐藤君は自分が会うまでに考えていたのよりもずっと男らしくて、好ましい顔をしている、と史子は駅前で立っている、ジーンズと、シャツを着ている佐藤君を目の前にして思った。

 今日こんなふうに約束をしたのはいいけれど、実際会うまで史子は佐藤くんに少し仲の良い男友達くらいにしか感じておらず、朝支度をしているときの史子はアクセサリーをするかどうかすら迷っていたのである。それなのに、待ち合わせにやってきた佐藤くんと会ったとき、史子はたぶんここ数ヶ月くらいずっと、自分は佐藤君に話しかけたいと思っていたのだと感じた。佐藤君は史子のもとに、新しい空気まで背負ってそこに立っていた。

 それは史子にとってまったく唐突な感情だったもので、史子は、真面目にその理由を考えようとしてみた。佐藤くんは髪の毛を短く刈り込んでいた。耳の形や首、着ているシャツの襟の柄も史子の位置からはよく見えた。それを史子は、不思議がりながら繰り返し見てみる。けれど自分はずっと、会った時からそれがとても好きだったのだと気づいた。そしてそれが、こんなふうに全てが、史子の方を向いている姿をずっと待っていたのかもしれないとその時に思った。佐藤くんが笑うとうれしくなって史子はたびたびその気持ちをもて余した。

 電話や、LINEのメッセージは、それを重ね、日を追うごとにそうなるように、それなりに親しみを増していたけれど、史子はそれほど自分の気持ちなど意識していなかったのだ。そうして二人であちこちと何を買うでもなくショップ街をうろつくことになった。町は人がごった返していて、近くにいなければすぐに一緒にいる相手を見失いそうになる。何度か見失いそうになったあとでいつのまにか、自分達は手を繋いでいて、それを史子は拒絶することもなくそのままで街中を歩いて回る。不思議とそれは、すこしも違和感がなかった。それどころか何度もこうやって、昔からずっと当たり前に会っていたような、当たり前のことをしているような気さえしてくる。


 もしも・・・と史子は思った。

 もしも、ひとつひとつのことがもしも自分が選んだものの果てにあるもの、だったとしたら。


 もしも、そこに住みよくするために自分にしか合わないよう地をならし、それからそこに注がれるものを享受したいと願っていた、そういう自分の姿がかつてはあったのだとしたら。

 例えば、職場に、家族に、友人、恋人に。それから好んでふたつに切り分けた世界の、できるだけ良い方に自分だけはい続けたいとずっと願うような行い。史子は、本当にはずっと理解できなかったのだと思う。退職届を出す人、ロッカーで愚痴を吐きながら、おもてではゴマを平気でする人、スポーツ番組や、甲子園などで、涙を流している人たちの本当の気持ちを、自分は出来ないのではなく、そもそも体感として理解できない人間なのではないか、と感じた。ことあるごと、史子はほかの人たち皆が本当にそれがしたくてしているのだろうかと、疑っていた。それとも、もしかすると本当は疑問を感じつつも、当たり前に昨日まで続いてきたことを持続させたい欲求を、手を伸ばさなければ維持できない何かのためにそうさせられているに違いない、と結論づけていた。それから、なぜか、それを自分もそうしたいと願うほどの何かがいつかきっと訪れるものだと漠然と感じていたような気がする。それはごく当たり前に。この場所に居る人たちが皆そうしているのだからそれは、考えるまでもなく、同じ人としての史子を覆い尽くし、そうしなければならない原理が目に見えて現れるのだと思う。そしてそれは、なかなかな訪れなかった。自身のあり方を根本的に変えてしまうほどの原理も、それ程そこに居たいと願うような場所も、人も、出会いも、なにもなかった。だから空っぽの水槽を見ても史子は、本当はほとんど何も感じていなかったのかもしれない。

 史子は、思い出したかった。佐藤くんがはじめにどんなふうに自分に話しかけたのか、その時自分はどう思っていて、いつから、こんなふうに思えるようになることを願っていたのか。それはいまは、ごく当たり前の、当然あるべきことのようにしか感じられなかったから。


 以前の恋人の顔をもう、思い出そうとしても史子は思い出すことができない。史子は町を歩き回りながら、そのあとどうするのかを話し、それからウインドウにまた目を戻し、考える。二人で並んでいる間佐藤君が自分のことを呼び、もう何度目かわからないようなやり取りをして、自分は笑う。それから、もしかするとこういったことは、その人たちがなりふり構わずに享受したがっているものと、ここに現れるまでの単なる微妙な、かたちとしての違いでしかなかったのかもしれないと思った。

 史子は佐藤くんの隣に立ち、その整った顔の輪郭ばかりを見ながらそう感じていたのだった。



 それからさらに一か月が経ち、終わらない残暑に誰もが声をあげているなか、友人からのはがきが届く。

 それは、うすい水彩の絵の具で描かれたような風景画で、青と緑色の景色が新鮮だったから、史子はなんとなく友人らしいと思った。史子はそれをマグネットで冷蔵庫に張り付けて眺めて、言われたとおりに時々思い出してみたりなどしたけれど、返事を出すようなことはしなかった。

 雨ばかりの日が続いたことで、真夏の暑さが一気に移ろいでしまったかのようで、それ以後は寒い日が続いた。毎日、ビニール傘を持ち歩く人にさえも舌打ちをしたくなる電車内を史子は一人で行き来し、いろんな人を見ながら過ごしていた。


 史子は、ふと真夜中に目を覚ました時に換気扇の中からがたがた音が聞こえてくると、ミイラ化してしまった紙みたいな蛇が這って出てくるのを想像してしまったりもした。蛇は自分勝手にそこを抜け出した、そのことを史子はいいようのない悲しさで思い出すのである。もっと良い場所があるときっと、蛇は思ったに違いない。もっともっと良い場所なんて、この狭い日本の中にありはしない。蛇の本来いるべき森は、飛行機に乗って何時間も離れてやっと行けるような場所しかない。今まで暮らしていたひとつの小さい水槽が、少し大きなものになったというだけなのに、そのことにも気づかないまま、蛇は目に映るものに視界をうばわれ、本能を持て余したままでしゅるしゅると移動していく。水槽に戻ることもできずに。それから餌も自分で取ることができないままでミイラ化してしまった蛇は、けれど未だ水を求めて、その狭い場所を這い回り、ある日たまたまコップから溢れた、床のわずかな水を見つけてそれを舐めとろうとする。

 ぴたぴたと音がする。

 史子は、それを見つめている。どんなふうに、舌が動いて、それを舐めとっていくのか―――

 もう史子の家の寝室の壁には蛇のいないもぬけの殻になった水槽が置いてあるだけで、せめてもの掃除をしたそれは、ただ硝子として照明の光を通し薄い影を落とす装置としてそこにある。史子はある日そのことを想って一度だけ涙をこぼした。

 けれど、朝を迎えた後で換気扇を史子が覗いてみても、そこにはいつも何もいなかった。




「え、研修に?」

 史子は大きな声を上げる。目の前の佐藤君が史子を見ながら答える。

「そう、悪いけど、来週から。そんなに長くはないけど、二週間くらい、会社では皆同じような時期に行っているよ」


 史子と佐藤君は並んで歩いているさなかで、もうすぐ、史子が観たいと言っていた映画館へ着くところだった。

 歩道橋を超えて、車通りの多い道を二人で歩いていると、史子は自分の真ん中に季節や、なにか流れていくものの中心が集まって来たように感じる。気持ちが膨れ上がっているからだ。浮かれている、と史子は感じる。それに、もっとあたたかいことができる、と思う。そうして史子は自然と、姉や母や友達が気の置けない人を前にしたときの振る舞いを思い出す。彼女たちはよく笑い、軽口を言いながらも幸せそうに笑っていて、その当然の成り立ちに史子は遠いものを見るような気持ちによくなり、もしもそこに踏み込めば、彼女達はなんの疑問もなくそれを分け与えてくれそうな、それくらいの強烈な感情に思えていた。

 史子は、今日はその研修の準備とやらで立て込んでいた為ひさしぶりに会った佐藤くんと話している最中、その言い出し方になぜだか嘘のようなものを感じ取ってしまった。

 史子はそれを何故、自分が今、きちんと用意してもらったデートのなかでそう思ったのか分からず、何度も一人で思い返してみた。けれど何度考えてみても、なぜ自分がその言葉の通りに受け取らないでいるのかよくわからない。もしかするとそれはとくに嘘なんかではなくて、史子の訝しがるような事実はなくって、ただ佐藤くんは二人の間に害をもたらさないヘルニアだとかの持病をただ、いたたまれずに隠しているだけなのかもしれなかった。


 史子は思う。

 彼のことではまだ知らないことがたくさんある。それに、こうやってちゃんと会うのだってまだ数えられるくらいしかなく、自分の方でこんなふうに盛り上がっているのももしかすると、佐藤君には少しも伝わっていないのかもしれない。・・・史子は、自分はなにかの、あかしが欲しいのだと思った。いま、ここにこうやっていることを自分が選び、その果てにこうしていることをお互いが了解しあっているのだというあかしが。それはもしも佐藤くんが居なくなり、お互いがその気ではなくなってしまっても、そこにずっと跡として残る。そしてそれを不意に見るたび、仕方のないことを煩しがるような気持ちでたびたび思い出すような、そういったあかしが。けどまだそのことを言い出せそうになく、佐藤くんのことをもっと深く知ることだったり、自分がもの分かりがいい異性だということを印象づける努力をするのでその場は精一杯なのだった。考えるうち、自分の疑うような不安な気持ちに対しては「それでもいいか」というような気がしてしまった。こんなふうな、二人きりのやり取りでたまに訪れる違和感はもしかすると自分の不安が勝手に大きく見せているものなのかもしれない。

 そんなふうに、今の史子は進んで都合の悪いことを消していく。冷たい風が吹き、自動車が太い車道を走っていく傍らで、史子はこれから見る映画のことを考え、佐藤君がいつものように手を繋いでくれるのを待つ。こうやって当たり前のようなことがこれからも自分たちの上に降り注いできてほしいと思う。


 帰宅後、自然と視界の中に入り込んできた水槽を見て史子は蛇のことを思い出す。

 そういえば、蛇が姿を消してもうふた月にもなっている。


 水槽は掃除して、綺麗に保ってあるし、ピンクマウスもまだ三分の一くらいは冷凍庫に残ったままである。少し前、初めて史子の部屋を訪れた佐藤君に話すと「気持ち悪いな」と言いながら、でも興味深そうにそれを見ていた。

 史子はどんなふうにしてそれを蛇に与えていたのかを事細かに説明してみたことがあった。佐藤君は空の水槽を不思議がりながら、それを嫌がるでもなく、そこそこ興味がありそうに聞いていた。マウスを溶かす方法は、湯煎、それから自然解凍がある。夏場は自然解凍であっという間に溶ける。史子はそうしてるあいだ、まったくそれが気持ち悪くないわけじゃない。けど気持ち悪いと思わないようにして蛇の食欲を見ているのだ、食欲というのはそういうことなのだ、とか話していた。彼は史子の話を聞いては、その内容を飲み込み、いちど自身の体を通した後で、彼らしい最小限の返事を返そうとする。それは誰に対しても行われるひとつの回路として、静かに横たわっていた。史子は佐藤君にもっとたくさんのことを聞き、それから自分のことを教えてみたいと思う。史子は佐藤くんのその静かなたたずまいや話し方を当たり前のように享受してもいいような気がしてくる。



 どこへ行ったのだろう?あの蛇は。綺麗に掃除をしたから嫌だったのかなあ。


 ―まあ、全部後付けの理由だからね。


 たしかに。


 ―話さずにはいられないの?それを。


 うん。そうだよ、いつでも話して、それからその返事が返ってくるのをずっと待ってたい。


 ―ふうん。


 おかしなことだと思う?


 ―人それぞれだからね。


 そう。それがわたし。蛇はもう、帰ってこないかも。


 ―そうだね、多分、もう帰ってこないし、姿も現さないと思う。



 史子は、暗闇で光るLINEの画面を閉じて、いつものように眠ろうとする。スマートフォンの画面は光っていて、今はただその場所を確認して、それから目を閉じる。




 一ヶ月後、言っていたとおりに佐藤君は研修のためにイランへと出発してしまう日が来た。史子は、空港まで送ると言い、ついて行ってゲートに向かう彼の後姿を写真に撮り、「なにそれ」と佐藤君から聞かれてもそれをとくに恥ずかしいことだとも思わずに、それを鞄の中へとしまい、思わず微笑む。

「ねえ、どうしてそんなの撮ったの」

「撮りたいから」

「えー。なんでだよ。後ろじゃん。意味あるの」

「ある」

「ふーん」

「ねえ、おみやげたくさん買ってきてね。お土産文化は日本人だけだとか、そういうこと言わないで、ちゃんとわたしの顔思い出して買ってきてね」

「うん」

 史子は彼を送り出した後、一人で歩きながら何度か佐藤君の感触を、思い描くようにして確かめてみる。空港の売店や喫茶店の前を通り過ぎ、特に意味もないままでそこに居座ってみる。


 佐藤君はイランへ行き、そこで二週間は生活してくるのだ。多分、携帯電話は時々しか使えないだろうから、スカイプかEメールで連絡を取らなければならない。

 あるだろうか、と史子は思う。自分にはそこまでして、佐藤くんに伝えたいことが、常にあり続けるだろうか。


 唐突に、ぶつ切れてしまったこの先のことを思い続けているとそれは思っていたよりも果てしなく、史子は存在の重みというのを手にとるように、それから懐かしむように感じていた。自分はこの先もこの街に根を下ろしながらずっと同じような仕事をし続けるのだろう。・・・そこに、史子の前にはいろいろな人の顔が浮かんでくる。いろいろなやり方があり、いろいろな人生が存在していて、それはこの先何処へ向かって行くのかわからない膨大な街の道路が交差している情景のようにも思える。そこにいくつか、似たもの同士が集まっているフィールドで区切られているものや、その上に少しずつ似ているような人たちのいるフィールドが、グラデーションのように折り重なって存在していて、史子はもしかするとそれを毎日、確信に近い感情で(それは、まさに感情に違いなかったのである)寄り分けているだけだと思う。そして自分は毎日、同じ席について自分の出来ることをしている・・・・それは史子がかつて望んだことだった。よく知っているコーヒーカップ、それから書類、手垢のついたフォルダー、もしかするとそれらも、離れて仕舞えばたまらなくなつかしく、愛おしいと思えるものなのかもしれない。そう考えると、いま史子が立っているのは、いくつもいくつも自分の手で吟味し、それから傍にいることをわざわざ許したもの達で、それが無くなると史子のアイデンティティも幾らかが削がれてしまうものに違いないのだった。その中で、ひときわ史子のことを引き付けて離さないものもあった。

 知らない土地を、史子は思う。そこは荒涼で、きっと冷たい。けれどそう感じるのは飛行機から見下ろし、自分が異国を見させられているときの感情というだけで、住み着いてしまえばそこにもいくつかの娯楽があり、家庭や親切な人たちが居て、それがそこにいる人たちをしたたかに掴んで離さない。そで佐藤くんはもしかすると見たこともないくらいの綺麗な女性と出会ってしまう可能性だってある。史子は絵として、思い描いてみる。・・・もしも、その女性というのが待ち望んだ異性として、彼の前に現れたとしたら・・・それから、もしかするとそれだけでなくて、とても気が合ってしまったとしたら・・・自分が多くの人の中から、たった一人だけを見つけ出したときの喜びと同じように、そこにしかないものを二人で、享受し合おうとしたとしたら・・・・・史子は昼前、ひとが行き交う空港の通路を歩き、ときどきは立ち止まって何かを手に取り、人を眺め、喫茶店の中でコーヒーをすすりながらも、そういった想像をやめられなくなった。

 佐藤君はそこでその綺麗な女性の肌と輪郭を、きっと男としてちゃんと喜ぶのだろう。もちろん相手の女性も、佐藤君の輪郭や、性格、史子の気に入っている鼻筋とかをひとつの繊細な喜びとして、感受しようとする。そうやって今ここで、ひとつ失ってしまった状態から一人で考えると、自分はそれをちゃんと愛していたのだと思わされた。それがとても遠い場所へ行ってしまうことをどうして止めなかったのだろうと、今になってやっと史子は思えて来るのだった。佐藤君、と史子は呼びかけようとしてみた。そこにぼんやりと見えるものを史子は容易に動かせるはずなのに、その舞台では二人は仲睦まじくしている真っ最中なのだった。佐藤君はその女性と何度かキスするのだけど、それをこうやって傍目から見ているときの気持ちはこんな感じがするのかと思う。

 佐藤くんは史子が一人で残されている間に何か慰められるような、事件も、それからあかしも、何も残して行かなかった。そのことを寂しいと思った。・・・けれど史子はおかしなことに、寂しさとともにそのような感情をたびたび自分に思い起こさせる彼の形がとてもうつくしいもので、それからそれがこの世にあることを嬉しい、とたしかに感じているのである。


(変態か。)


 史子は一瞬思う。


 かたちは、それはひとつの、通路だと思う。佐藤くんは佐藤くんが存在する以前から、たしかにそこにあった、と史子は思う。自分はそれに出会い、それから触れ、二人で話したのだからその形も、そうなるべくしてある佐藤君の存在そのものも自分の中にあるかのように思い出すことができた。そしてそれをどこかへ切に結び付けたいと願う、その不完全を思い起こさせる佐藤くんの影、顔、体、話し方を史子は何度も思い、その輪郭をなぞり、その形がいつまでもぼやけてしまわないままここにあることを願っていたかった。もしも、自分がそれを、二週間後もう一度手にすることができたのなら自分は以前よりももっときちんとそれを愛せばいいのだと思う。


(何かを言おうとしていたのかも?)


 ひとつひとつのシーンを思い出すたびに史子はそんなふうに考えてみる。けどそうではなくて、自分がそう思う、そういう存在だったということなのかもしれない。


 しばらくして史子は、その夜のぬかるみのような感情から目を覚まさせる、明るい日が差す空港のクリーム色の床を眺めていた。


 売店からもレストラン街からも外れた一角にベンチが並んでいて、そこががらんと空いていたので座って、外を眺めてみる。

 こういう場所は外がよく見えるように、ガラス張りにしているところが多い。それなのに、外の植え込みは強風のためか、禿げかかっているように見えた。そこに居座っていると、いろんな人が現れて時間を潰しているみたいだった。皆が暇そうで、居場所がないようにも見える。だれもが見送った人のことや、これからこれから訪れる土地のことばかり考えているからかもしれないし、それとも史子がそういう気持ちで人を眺めているからというだけなのかもしれなかった。


 しばらく、ぶらぶらと歩き回ったあとで空港を出た帰り道、史子は、何か少しだけ気分が浮き足立っていた。

 史子はあの引越しを手伝った友人のアパートが建つ駅で降りてみることにした。もう、木々は落葉してしまっていて、緑が覆っていた情景はなくなり、代わりに深い色をした服を着た人達が、街を歩き回っている。史子は未だ薄手のジャケットとマフラーしか身に着けていなかったから、肌寒く感じた。それからふと、動物園に寄って行こうかと思い立つ。

 思いつきは、突然みたいに膨らんでいって、史子は大きな森林公園を抜けて動物園の門の前までを歩いていく。受付で買ったチケットを手渡し、笑顔の係員の傍らを通り抜けると、真っ先に爬虫類館の方へと歩いていった。史子は、そこに自分の飼っていたのと同じようなあの小さく、うすいオレンジ色をしたコーンスネークがいるかどうか、息急き切ったままで探してみようとした。歩き回っているうち、展示されている爬虫類はワニだけになっていた。それから、いくらその湿り気のある暗い、冷たい水槽を繰り返し探しても、最後まで自分の飼っていたのと同じ種類の蛇は見つけられなかった。

 史子はそれを確認すると、いま自分がこうして歩いてきた道を遡って歩き、そうして、色とりどりの模様をしていた蛇を、再び、ひとりきりで眺めていく事にしようと思った。

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蛇の飼い方 朝川渉 @watar_1210

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