第十章 炎の少年と氷の少女

 ライルは夢を見ていた。遠い昔の夢だ。かつて、自分が何の留保もなく愛されていた頃。強くて頼りがいのある父と、いつも優しくライルを抱きしめてくれた母。そんな両親と共に在った、温かくてかけがえのない日々。彼らは何かをライルに語り掛けている。笑いながら、諭すように。ライルは駄々をこねているのだ。彼らが遠くに行ってしまうのを知っているから。彼を愛し、また彼が愛した家族が、失われしまうのを知っているから。

 そしてライルは目を覚ます。いつか見た天井がそこにはある。ユグドール少年院の医務室だ。ふと頬を触ると、涙の流れた跡がある。両親の夢を見るなんて、いつぶりだろう。もう戻らない、家族と過ごした最後の日々。何の警戒も猜疑もなく、ただそこにいるだけで、家族と共に在るだけで、幸せを感じられていたあの頃。

「・・・おはよう。」

 少女の声が聞こえた。その声が、なによりも聞きたかった声が、ライルを現実に急速に引き戻した。

「エリス⁉︎無事だったのか!」

 跳ね起きようとして、しかし体があまりに重くて果たせず、ライルは首だけをかろうじて声の方に向けた。

 窓から差し込む初夏の夕陽を浴び、オレンジ色に染まるエリスがこちらを見つめていた。ベッドのそばの椅子に座っている。彼女が口を開く。

「・・・ごめんなさい」

「どうして、謝るの?」

「あなたには、迷惑を掛けてしまった。私なんかのために。もう起きないかと思った。ずっと眠っていたから」

 うつむき、そう言う。

「俺は、どのくらい眠っていたんだろう」

「今日で7日目、かな。私は、あの後すぐに目を覚ましたの。あの時、私はもう消えてしまおうと思っていた。全てが嫌になって、私の居場所はどこにもないんだと思って。でも、あなたの声が聞こえた。諦めるなって。そしてあなたの体温を感じた。人の体温は嫌い。生温かくて、気持ち悪くて・・・。あの日、あの事件の日、お店の従業員が急に私を抱きしめてきて、それがものすごく気持ち悪くて、私は反射的に相手を凍らせていた。でも、あなたの体温は、なぜか、嫌じゃなかった。とても熱くて、でもそれが心地良くて。ちょっとだけ、まだここにいてもいいのかも知れないって思えた。だから・・・」

 エリスは早口でそう言った。

「・・・良かった。エリスが死んじゃうんじゃないかって、俺・・・」

「・・・なんで泣くの?」

 不思議そうに聞くエリスに、ライルは自分が涙していることに気づいた。

「なんで、だろう。安心したら、勝手に・・・。すごくホッとしたから、かな」

 ライルは照れ笑いを浮かべ、涙を拭う。なんだか、最近の俺は泣いてばかりだな、と思う。

「あなた、さっきも泣いてた。眠りながら、お父さん、お母さんって言いながら」

「ええっ!マジかよ・・・!」

 ライルは顔を真っ赤にして絶句する。一番恥ずかしいところを、一番見られたくない相手に見られてしまった。

「あなたは、お父さんとお母さんが好きなのね。私は違う。お母様は私が小さい頃に私を置いてどこかに行ってしまった。お父様は死んだって言ってたけど、周りの大人は、お父様のお店の従業員とどこかへ駆け落ちしたんだって言ってる。お父様はお母様がいなくなってからすっかりおかしくなってしまった。あの人は、私にお母様を見ているの。私はお父様を支えなくちゃって思って、でも、お父様が私にすることは我慢ができなくて・・・」

 エリスは、堰を切ったように、どこか焦点の合わない目で話し出す。

「いい、もういいんだ、エリス・・・!」

 痛々しくて、見ていられなくて、ライルは無理矢理上体を起こすと、エリスを抱き寄せた。

「!」

 エリスは一瞬体を強張らせるが、やがて力を抜いてライルに身を預けた。氷に閉ざされたエリスを抱き上げたあの時とは違う、確かな体温が、心臓の鼓動が、ライルに伝わってくる。華奢な体だ。この子を守りたいと、ライルは強くそう感じた。

「・・・不思議。やっぱりあなたの体温は、嫌じゃない・・・」

「エリス。俺は君が好きだ」

 気がつくと、そう言ってしまっていた。

「・・・好き?好きって、何?お父様は私を愛してるって言う。私もお父様のことが好きだった。でも今はそう思えない。あなたは私のことが好きだって言う。それはお父様と同じ「好き」なの?あなたも私に嫌なことをするの?」

「違う。俺は君のお父さんとは、違う」

 エリスの問いに、ライルはそう答える。だが、本当に違うのか?俺のこの想いは、エリスを愛おしく思う気持ちは、本当に彼女の父のものとは別物なのか?

「私には、わからない。わからないの・・・」

 そう言い、エリスはライルの腕の中で静かに泣き出す。

「俺にも、俺にもよくわからない。でも、俺たちには、時間がある。時間がかかってもいいから、見つけていけばいいんじゃないかな。答えを焦る必要は、俺たちにはないんじゃないかな」

 ショウ先生も確かそんなことを言っていた、とふと思い出す。いつの間にか、言われた言葉が、自分の言葉になっている。

「ライル・・・」

 涙に潤んだエリスの瞳が、ライルを見つめる。綺麗だ、ともう何度思ったかわからない思いが、ライルの胸をいっぱいにする。彼女の顔が、唇が、近い。俺がちょっと近づけば、お互いの唇が触れてしまうんじゃないか、そう思った途端に、心臓がバクバクと音を立て始める。エリスの鼓動も高鳴っているのを、ライルは腕の中に感じる。エリスの上気した頬が、赤い。

 いいのか、これ、キス、しちゃっても、いいのか・・・?

「エリス・・・」

 そう呟き、ライルが瞳を閉じようとした瞬間。

「ライルくん、起きましたか〜?」

 扉の開く音と共に、間延びしたミオの声が医務室に響き渡り、少年と少女は慌てて体を離し、そっぽを向いた。

「あら、あらあら。これはミオ先生、とんだお邪魔虫だったかな〜?あはは、ごめんね〜」

「だっ、大丈夫です!」

「そんなことありません!」

 二人は顔を真っ赤にしながら同時に否定する。

「え〜、そうかなあ〜?まあ、そう言うことにしておきましょうか。でもライルくん、よく寝たね〜。あなた、ここに来た時も寝てたよね。寝る子は育つってやつかな〜?」

 相変わらずよくわからないことを言いながら、ミオは手早くライルの額に手を当てて熱を測り、目を覗き込み、容態を確認した。

「うん、もう大丈夫そうだね。エリスが毎日看病してくれたおかげかな〜」

 ニヤニヤしてエリスを見るミオ。毎日・・・?ライルは思わずエリスを見、目が合ったエリスは顔を赤くして背けた。何だろう、すごく嬉しいぞ・・・!

「まあまだ魔力も戻り切ってないだろうから、今夜はここでゆっくり休んで、明日以降に寮生活に復帰かな。みんなにも伝えなくちゃね、ライルくんが起きたって。心配してるんだから」

 その言葉に、自分を家族と呼んでくれた、寮の仲間の顔が思い浮かぶ。

「ゼインくんなんて、何だかんだ理由つけて毎日様子見に来てたよ。うふふ」

 そうか・・・。早くあいつらの所に帰らないとな、とライルは思う。

 そして、ごく自然に、「帰る」と言う言葉が出てきたことにライルは驚く。俺は、いつの間にか、俺の帰る場所を見つけていたのか。寮は、みんなはあの後どうなったんだろう。

「ミオ先生、あの襲撃は一体なんだったんですか?」

 事件の顛末が気になり、ライルはミオにそう尋ねた。

「それは・・・」

 ミオが口籠る。

「それは俺から二人に話そう」

 いつの間にか、ショウが医務室の入り口に立っていた。

「ショウ先生・・・!」

「ライル、起きたか。よく頑張ったな」

 そう言って笑い、近付いてきたショウががしがしとライルの頭を撫でる。

「ちょ、子供扱いしないでくださいよ!」

 その手を払い除けながら、ライルはショウに褒められて嬉しくなっている自分に気づく。

「エリスも聞いてくれ。これは二人にも関係があることだからな」

 そう言ってショウは空いているベッドに腰掛け、事件の後、何があったかを話し出した。


 襲撃犯は、ライルの裁判後に襲ってきた暗殺者ギルドの者たちだった。事件後、おっとり刀で駆けつけた警察に捕まった彼らは、しかし依頼主のことは一言も明かさず、黒幕が誰かはわからずじまいになるかと思われたが、意外なところから真相は明らかになった。

 サラ検事だ。襲撃の日、少年院を訪れていたサラ検事は、警察に出頭し、襲撃犯を手引きするため、院長室にあった緊急脱出用トンネルの出入り口の鍵を密かに複製し、エリスの父であるグイドに渡したことを話したのだ。

「彼女は、よりにもよって暗殺者がここを襲撃することを知らされていなかったそうだ。自分のエゴのために、多くの命を危険に晒したことを悔い、自首し、裁かれることを求めたそうだが、上層部の政治的判断、とやらで逮捕すらされなかった。しかしけじめはつけたかったんだろう、検事の職は辞したそうだ」

 ライルは自分を取り調べ、裁判で必死になってライルの有罪を訴えていた女検事を思い出していた。どこか危うさすら感じさせる人だったが、悪人とは思えなかった。

「やっぱり、あの襲撃は父の差し金だったんですね・・・」

 エリスがそう呟く。

「そうだな。しかし黒幕はもう一人いた」

 そう言ってショウはライルを見た。

「アルバ叔父・・・ですか」

「・・・そうだ。わかっていたのか」

「半信半疑でしたけど、そう考えると色々な辻褄が合うなって」

 ライルは力なく笑う。自分の命が狙われたために、みんなを危険に晒した事実は、やはり重い。

「あの暗殺者たちが所属するギルドは、アルバが出資していたものだ。そしてそのギルドに、エリスの父、グイドは武器を卸していた。サラ元検事の証言がきっかけで、二人は今身柄を拘束されている。「検察の大物」とやらがもみ消しに動いたようだが、まあうちのパトロン殿下はもっと大物だからな。起訴されることは間違いない」

 そうか・・・。ライルはアルバ叔父のことを思う。一族の長が逮捕され、有罪となった時、カーバイン家はどうなるんだろう。そしてエリスの方を見る。父が逮捕し、裁かれる。どう言う気持ちなんだろう。

「あの人は、刑務所に入ることになるんでしょうか」

 エリスはうつむき、そう言った。

「わからん。サラ検事の証言だけで、物的な証拠は何もないからな。無罪放免と言うことも十分ありうる。ただいずれにせよ、これで当面、うちに妙な手出しはできなくなることは確かだ」

「そうですか」

 サラは俯いたままそう応じた。ほっとしたとも、がっかりしたとも取れない、中立的な「そうですか」だった。自分でも整理がつかない複雑な思いがあるのだろう。ライルにはその思いが、何となくわかるような気がした。

「最後にこれだけは伝えておく。今回の件、お前たち二人は何も悪くない。お前たちを狙って行われた襲撃であることは事実だが、お前たちには何の責任も、落ち度もない。自分が悪いんだ、とか、自分のせいで、とか、そう言う思いを抱いているなら、今ここで捨てろ。大人たちのエゴや悪意のせいで、お前たちが妙な引け目や罪悪感は抱く必要はない。いいな」

 力強くそう言うショウに、そうは言っても・・・、と言いかけたライルだったが、エリスのことを思い、何も言わずにうなずいた。エリスも小さく頷いている。

「よし。俺たちも今回のことで少し反省した。何かあった時、お前たちをちゃんと守れるだけのマンパワーが必要だ。俺は明日から職員の新規採用に向けて動く。新しい先生が来るのを楽しみに待っておけ」

「でもショウ先生。法務教官の仕事は、熱いハートと己の正義をしっかり持っている奴にしか勤まらないって前から言ってるじゃないですか。誰か当てがあるんですか」

 ミオが少し不満そうにそう言う。

「ある。今回は少し暴走してしまったが、正義と言うことならうってつけの人材が、ちょうど先日無職になったところだ」

「まさか、それって・・・」

「元検事の法務教官ってのも悪くない。特に女子寮を任せられる教官が今はミオしかいないからな、ちょうど良い」

 サラ先生、か。少しキツそうだけど、美人だし、からかいがいがありそうだし、悪くないかな、とライルはほくそ笑む。

「いてっ」

 エリスがライルの腕をつねっている。ちょっと不満顔だ。

「今、美人の先生も悪くないって思ってたでしょ」

「な、なななんでそれを・・・?」

「知らない。もう帰る」

 そう言い、エリスは不満顔のまま音を立てて立ち上がり、医務室を出て行った。

「ライルくん、せっかくさっきはいい感じだったのに、三歩進んで二歩下がるって感じですかね〜」

「まあ、人生というものはそういうもんだ。焦らず進め、ライル」

 エリスの背中を見送ったミオが苦笑し、ショウが神妙にうなずいてライルの肩に手を置く。

「う、くぅうううー!」

 ライルは、悶絶した。

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