第18話 トラウマ

 そういえば今からごはん食べるんだったと気づいたのは、トイレの鏡の前で丁寧にグロスを塗り直した後だった。


 まだ心臓がドキドキしてるし、正直相当混乱してる。さっきのは何だったんだろう。

 

 特に深い意味はないのかもしれないけど……。

 そういえば和也くんは圭佑くんともキスできるとか言ってたし、そういう友だちのスキンシップなのかもしれない。


 あれは例えだったかな……。

 よく分からなくなってきた……。


 とにかく和也くんにとっては何でもないことなのかもしれない。でも、……。


 男の子と手を繋いだことなんて初めてだったから、すごくすごくびっくりした。


 びっくりはしたけど、全然嫌じゃなかったし、それどころか嬉しかったっていうか、もう少しあのままでいたかったっていうか……。


 ……ああ~、なんかもうダメだ。

 ドキドキし過ぎて、考えがまとまらない。


 鏡に映った自分の顔ははっきりと分かるくらいに頬が赤くなっている。  


 一応マスカラとグロスもしてみたけど、顔の赤さ以外はいつもとあまり変わらない。やっぱり、珠希ちゃんにメイクを教えてもらえば良かったかな。


 そんなことを考えている間にも、頬の赤みが少し引いてきた気がする。


 そろそろ戻らないといけないよね。どんな顔して戻ったらいいのか分からないけど、あんまり待たせるのも申し訳ないし、トイレが長いと思われるのも恥ずかしい。


 珠希ちゃんから「上手くいってる~?」とのんきなメッセージが来ていたので、それに返信してからスマホをカバンにしまう。


 それから最後にトイレの鏡でもう一度自分の顔を見ると、化粧を直していた女の子と鏡の中で目が合ってしまった。  


 ……あ。化粧をして髪の毛を染めているから少し雰囲気が違うけど、見覚えのある顔に目が離せなくなってしまう。


 お互い無言で鏡の中の相手を凝視したあとに、少し間を置いて相手が反応する。 


「もしかして、月子ちゃん? わぁ~久しぶり! 元気だった?」

  

「う、うん、久しぶり、だね」 


 鏡の中で目が合った彼女は、幼なじみというほど家は近くないけど、保育園から中学まで同じでよく知っている女の子だった。


 メイクも髪形も完璧で、すっかり大人っぽくなっている。


「ね~。月子ちゃんは、変わってないね」

  

 どうしてもオドオドした話し方になってしまう私を見て、彼女はくすりと笑う。私が何も言葉を返せないでいると、友だち待ってるからじゃあね、と彼女は出ていってしまった。


 変わって、ない……。

 そんなに深い意味はないのかもしれないけど、見下しような表情と笑みが引っかかってしまう。


 正直あんまり会いたくなかった人だけに、彼女の言葉は私の心に大きなモヤモヤを残していった。


 彼女とは、友達だった。

 小さい頃から一緒で、小学校低学年の頃は毎日のように学校が終わってから遊んだし、高学年になって社交的な彼女が他の友だちを見つけて過ごすようになっても、それでも友達だった。友達、だと思っていた。


 だけど、本当はそうじゃなかったのかもしれない。


 修学旅行、同じ班に入れてあげる。

 他に組む子いないでしょ?


 彼女がいつも上から目線で私を見ていたことは気づいてた。


 それから……、本当は。本当、は……。


 あの子と一緒にいてもつまらない。

 なんか暗いよね、実はあんまり好きじゃないんだ。


 彼女が私の陰口を言っていたことも、本当は知ってたよ。


 彼女が私のことを友だちだと思っていないことなんて気づいていたのに、それでも友だちの振りを続けていたのは一人になりたくないから。


 だって、修学旅行の班作りで一人だけあぶれるなんて嫌だった。


 誰かと深く関わるのは怖いけど、一人になるのはもっと怖い。あの子一人なんだ、友達いないんだねって目で見られたくない。


 本当に、私って情けない人間だよね。


 鏡にうつっているのは、下がった眉に、消えそうなほどに印象の薄い顔で、ますます嫌気が差す。


 彼女は自信に満ち溢れた顔をしていたのに、私はあの時から全く変わっていない。どうして私ってこうなんだろう。


 人は人、私は私。

 分かってるのに、誰かと比べたくなんてないのに、どうしても弱い心がそうしてしまう。


 もっと強くなりたい。イジメにあったわけでもないし、大事件があったわけでもないんだから、さらっと受け流せばいいの。


 何でそんなこともできないの?

 結局、あの頃から私は何にも変わってない。


 ちょっとしたことで落ち込んで、ずっと引きずって、いつも一人で反省会して……。


 フラフラとトイレから出てたくさんの人が行き来しているのを見ると、冷房が効いているはずなのにじわりと汗がにじむ。


 幸せそうな家族連れ、楽しそうな女子のグループ、仲のいいカップル。


 みんな幸せそう。

 みんな楽しそうに生きてる。


 ここにいると、なんだか息苦しい。

 私一人だけ誰からも愛されなくて、私一人だけ社会に適応できない人間に感じてしまう。


 悩んだり苦しんでるのは私だけじゃないって分かってるのにね。それでもこんな風に考えるなんて、本気でどうかしてる。


 どうかしてることは分かっていても、いつものように頭の中のザワザワは止まってはくれない。止まってほしいのに。止めたいのに。


 やっぱり私、どこかおかしいのかな。


「月子? どうした? 体調悪い?」


「和也くん……」


 全然戻ってこないから心配で見に来ちゃった、と心配そうに私の顔をのぞき込む和也くんに力なく首を横に振る。


 なんとかレストラン街までは歩いていったけど、やっぱり頭の中のザワザワが止まなくて、ずっと気持ちはふさぎこんだまま。


 せっかく和也くんといるんだから、早く気持ちを切り替えたいのに。


 さっき和也くんと手を繋いだ時とは別の意味で心臓はずっとバクバクしてるし、もうなんか消えてなくなりたい。


 みんながしゃべっている内容が私の悪口かもしれない、なんて変な被害妄想まで頭の中をめぐる。


 珠希ちゃんも圭佑くんも、休みの日まで私に会うのが嫌だから、今日来なかったのかもしれない。

 本当は和也くんだって、いい加減私にうんざりしてるかもしれない。みんな、私のことが嫌いなのかもしれない。


 だって、彼女はそうだった。

 友達の振りして、本当は私のことを嫌ってた。

 だから、もしかしたら和也くんたちだって……。


 和也くんたちはそんな人じゃないって分かってるのに、頭の中のザワザワがどんどん強くなって、それは頭だけじゃなく全身まで支配していく。


 完全に自分の世界に閉じこもっていると、大丈夫?と私の腕に触れた和也くんの手を反射的に避けてしまった。


「ご、ごめん、やっぱり体調悪いみたい。今日は帰るね、本当にごめん」


 驚いたように目を丸くする和也くんに早口でそう言って、くるりと背を向ける。


 最低だ、私。


 せっかく楽しかったのに。

 せっかく一年生から憧れていた和也くんと二人で遊んでるのに。


 こんなことしたら、きっともう二度と誘ってもらえない。でも、……。


「え? 月子?」


 人が怖い、ここにいるのが怖い。

 知らない人ばかりなのに、誰も私を攻撃しようなんてしてないのに。


 得体の知れない恐怖に全身を支配された私は、それ以上この場にいることが耐えられず、そこから逃げ出した。

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