髪を振り乱さなかった女

「先生、この子はよくなるのでしょうか」

ロングヘアの女は不安な面持ちで聞いた。

「うーん、ただの風邪なんだけど、まだ2歳だからねぇ」

医者は言葉を濁しながら続けた。

「あのね、お風呂に入れる時に海水を使いなさい。海水浴だね。それで温かくしてればいいから」

「海水浴ですか」

女は訝しげに繰り返した。

「それで本当に治るのでしょうか」

医者はまた濁し気味に言った。

「断定はできないけれど、そうすべきだと思うね」

「はあ、分かりました。ありがとうございました。」

女は深く頭を下げ、医院を後にした。


女はいそいそと帰宅し、わが子に海水浴をさせる為、隣人に子を預け、桶を持って近くの海岸を訪れた。

女が海水を汲もうとした時、警備員が近づいてきた。

「何してる」

「何って……海水を汲もうとしているのですが」

「ダメだ、ここの海水を盗ってはいけない」

女は眼を点にして、聞き返した。

「海水を汲むのがいけないことですか?」

「そうだ、ここの海岸は国の管理地だ。海水を汲むのは規則に反する」

女は最初冗談を言っているのだと思った。しかし警備員には微笑すら見られない。

女はこの警備員が本気で言っていることを悟った。

「いやいや、海水を汲むのがダメだなんて、聞いたことがないのですが」

「ダメなものはダメなのだ、国が管理する海で、規則に反するのだ」

「海水は無尽蔵にあるではないですか、眼の前を見て下さい、こんなにもたくさんあって、そのほんの少しを頂くだけなんです。子どもが病気で、海水浴がいいと医者に言われているんです」

警備員は表情を崩さなかった。

「ダメだ、規則は規則だ。ここの海水を汲むことは出来ない。他の海へ行け」

「他の海って……この桶一杯でいいんです。お願いします」

「ダメだダメだ、海水に指一本触れるな、他の海へ行け」

女は強行的に汲もうとしたが、男の力に叶うはずもなく、とうとう海へ近づくことは出来なかった。

「あなたは間違っている」

「何も間違っていない。ここの海から海水を汲むのはダメなんだ。この際言っておくが、お前のように海水を盗む泥棒が多くて困っているのだ。自覚しろ、ここは国の管理地で、そこから海水を盗るのは立派な窃盗罪だ」

「国に管理されていない海などあるのでしょうか」

「無い訳ないだろう、即ち本来どの海からも海水を盗ってはならんのだ。ただ他の海の管理者は熱心には取り締まっていないだろうがな。俺は仕事熱心なんだ」


女は肩を落とした。引き返す他なかった。

その時、警備員の後ろ、海原より轟音が響いた。

「なんだ」

警備員が振り返った瞬間、サメが警備員の足を嚙みちぎった。

「えっ」

警備員は一瞬考えた後、右足が無くなったことに気づいた。

「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああ」

警備員は絶叫を上げながら砂浜を目指すが、足がもつれてうまく歩けない。

その間隙をぬって、サメは左足を嚙みちぎってしまった。

警備員は遂に自らを支えられなくなり、砂浜にうつ伏せに突っ伏した。

「助けてくれ」

警備員は女へ懇願した。

女は答えた。

「しかし、私は海水に触れることができません」

「そんなことどうでもいいから!」

押し問答している内に、サメは警備員を海へ引きずりこもうとしていた。

「バカ野郎! 命が掛かってるんだぞ! 本当に死んでしまう!」

警備員は女へ怒号を飛ばした。

女は答えた。

「私の子どもも命が掛かっています。早く次の海へ訪れねばなりません」

「お前はバカか!? 眼の前で死にかけている人間がいるんだぞ!?

助けられるのに助けなかったら罪に問われるぞ!」

警備員は内臓を食い破られながら女へ絶叫した。

女は答えた。

「では私の子どもも助けて下さい。海水を汲んでもいいですか?」

「いい、いい、いいに決まってるだろ! 早く助けろ!」

「わかりました。」

女は桶で海水を汲み始めた。

「おい、何してる!」

「何って、海水を汲んでいるのですが」

「まず俺を助けるのが先だろ」

女ははっきり答えた。

「いえ、私の子を助けるのが先です。」

警備員はすっかり蒼くなってしまった。

もはやその下半身はなく、意識も混濁しているようだった。

やがてサメは警備員を食べつくしてしまい。顔面も上半身も歯牙にかけられズタボロになっていた。もう警備員は何も言わなかった。

サメは満腹になったのか、海原へ帰っていった。

女はサメに一礼してすぐに子どもの元へ帰った。

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ナンセンス文学 @RyuAquaLooso

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