6.篠崎楓 一人暮らし(社会人)

 最近残業続きで、本当に心が傷んでくる。帰ってくるとメイクを落としてベッドに倒れ込む日々。時には夕食を食べることも忘れてしまう。一年間で体重がずいぶん落ちたのは良いような、悪いような。友達にはもっと太った方がいいとまで言われる始末。

 あ〜あ、社会人がこれほどまでに大変だと大学生時代には思っていなかった。出版業界には憧れたけれど、結局働いているのは通信教育関係の会社。それでもまぁ、出版業界に近くはあるから、それなりのやる気でそれなりに頑張ってきた。でもここまで肉体が疲弊してくると精神まで締め付けられてくる。


 大学時代には彼氏もいたけれど、就職してからお互いの生活がすれ違って別れてしまった。それ以来はお一人さま。休日は高校時代や大学時代の友人と一緒にショッピングに出掛けたり、仕事で知り合った友人と飲みに行ったりしていたけれど、忙しくなってきた最近はめっきりだ。土日は体調を整えるので精一杯。部屋着のままテレビで動画配信のコンテンツをダラダラ見て、あとはソファでSNSを見ているだけみたいな休日。こういうのを干物女って言うんだっけ? 喪女って言うんだっけ?


 ここだけの話、唯一の楽しみは朝に山手線で一緒になる彼――宮前くんとの「おっす」だった。どうやら通勤経路がよく似ているみたいで山手線で乗る電車が同じだった。お互い見つけた時には右手をあげて「おっす」って挨拶するのだ。


 彼が同じ電車に乗ることが多いと気付いたのは、働きだして数ヶ月経った後だった。それに気付いてから初めの内は偶然会うに任せていたのだけれど、一年が経って日々の楽しみが無くなって、社会人生活に疲れてきてからは、人混みの中に彼を見かけるのが楽しみになってきた。彼の乗る車両は決まっていて、私は電車に乗り込むと彼のことを探すようになった。毎日の満員電車で、彼を見つける。でも、彼の乗る駅と私の乗る駅は違って、私の降りる駅と彼の降りる駅も違った。だから同じ車両に乗れても話せる距離にいることはなくって、人混みの中で「おっす」が精一杯。


 私は彼の連絡先を知らない。頑張って調べれば分かるだろうし、高校時代の友人に聞けば分かるかもしれない。でもその時の言い訳や、連絡するということが彼に対して持ってしまうであろう意味みたいなものを考えると、身動きがとれなかった。今思えば、三年生の時に彼と久しぶりに会ったカフェで、どうして連絡先を交換しなかったんだろう。そんなことが後悔みたいに、胸の奥を時々襲う。

 私と少しだけずれた時間に、心臓から同じ電気信号を発した彼は、今も少しずれている。

 

 社会人生活も一年半が過ぎて、二年目の秋がやってきたころ。

 彼の姿が山手線から消えた。

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