迷子の白猫 ⑥


「アリー、浴槽にお湯を張ってくれる?」


 別邸に戻り、滞在する部屋へと入室したセレナの第一声がそれだった。


「お湯ですか?かしこまりました」


 頷き、アリーは浴室へと消えていく。

 セレナの腕に抱かれている白猫が、おずおずとした動作で顔を見上げてきた。

 不安そうに揺れるそのガラス玉の瞳に、セレナは最上級の微笑みを向けながら言う。


「シュニー様、からだ、きれいに洗いましょうね?」


 その言葉に、白猫が絶望的な表情で首をぶんぶんと横に振る。

 シュニーは猫の姿で水に入るのは、かなりの恐怖心を感じるのだと言っていた。できれば彼の嫌がることはしたくない。しかし、これは仕方がないのだ。

 舐めあいっこ? 本当かどうかはわからないが、そんなこと許せるはずがない。彼が人の姿に戻るまで待つなんてできない。今すぐ洗い流す。

 相手が猫だろうがなんだろうが関係ない。この人を汚していいのは自分だけだ。


 ふつふつと湧き上がる怒りを隠すこともせず、セレナは白猫に言い聞かす。


「だめですよ。飼い主様の言うことはきかないと」


 逃げだそうと腕の中でもがき始めた白猫を、セレナは両腕で押さえつけ、そのまま浴室へと入っていく。

 入れ替わりで扉から出てきたアリーは、悲痛な猫の叫び声を聞いた。




   *




 完全に日が暮れてからしばらく経つ。

 窓の外には奇麗な丸い月が輝いていた。

 小さなランプを灯した部屋の中は薄暗く、そこには一人と一匹が大きなベッドの上で死んだように寝転がっていた。


「なんでそんなに暴れるのですか……」


 疲れ切った声で言った言葉に返事はなく、セレナの隣で白猫がぐったりとした様子で四肢を投げ出している。

 あれから嫌がるシュニーを無理やり浴槽に突っ込み、石鹸も使ってその体を奇麗に洗い上げた。しかし始終暴れる白猫を相手にするのはなかなかの一苦労で、予想以上の重労働にセレナは疲労が限界を迎えていた。

 ただでさえシュニーが居なくなってから、心労が絶えなかったのだ。それに身体の疲労も加わり、もう動くのもだるい状態である。

 朝食を食べたきり何も口にしていないので腹も減っているはずだが、食べるのも億劫に感じるほど疲れ切っていた。


 同じく暴れまわってぐったりとしている白猫を見る。

 その小さな体に腕を伸ばし、自らの胸に埋めるようにぎゅっと抱きしめた。


「心配、したんですよ」


 腕の中で、白猫がぴくりと反応する。


「無事でよかった……」


 少しだけ涙の混じるその声に、白猫が顔を上げた。

 交わった視線の先で、申し訳なさそうにシュニーが眉根を寄せる。


「もう絶対に、居なくならないでください」


 懇願するような声で言うと、白猫が小さく首を縦に振る。

 そのしぐさを見届けて、セレナは彼の体温を感じながら眠りについた。

 少しして、月明かりの差し込む静かな部屋で、二つの寝息が重なった。




 翌朝、目を覚ましたセレナは、ベッドの上に足を投げ出すようにして隣に座っていた彼に迎えられる。


「おはよう、かわいい僕のお嫁さん?」


 そう言ったシュニーの笑顔に何が嫌なものを感じ、セレナは引き攣った顔で答える。


「お、おはようございます」


 ベッドの上に身体を起こすと、彼は躊躇いなくセレナを抱き寄せ、その広い胸に閉じ込めた。


「やっと君に触れられる……」


 そう言ってセレナの頭を撫でながら、愛おしそうに吐息を漏らした。

 彼の首筋に頬を寄せる。

 約一日ぶりに感じた人肌の感触が心地良く、先ほどの違和感を忘れかけていると、シュニーがよりいっそう強くセレナを抱きしめて言った。


「それじゃあ、一緒に湯浴み、しようか?」

「……………えっ?」


 衝撃的な発言に思考が追い付けないでいると、彼は奇麗な笑みを浮かべて続ける。


「昨日身体を流したのは僕だけだったから、今度は君の番」


 確かに昨夜セレナは疲れ切ってそのまま寝てしまったが、だからと言って湯浴みをともにする理由にはならない。

 身の危険を感じ彼の側から離れようとするが、その腕ががっちりとセレナを拘束して逃げ道を塞がれた。

 そして動揺するセレナをよそに、シュニーはその身体を抱き上げ、浴室へと続く扉の方へと歩き出す。


「お、お待ちください!」

「待たない」


 拒否権はないとでも言うように、シュニーはセレナの言葉を跳ねのける。

 これでは完全に昨夜と真逆の状態だ。

 彼の腕からなんとか逃れようともがいてみるも、抜け出すことは叶わず、気づくと二人はすでに浴室の中にいた。


 それでも、今から湯を用意するとなると時間が必要になる。その間になんとかして逃げ出せばいい。

 そう考えたセレナだったが、浴槽に視線を向けた瞬間に固まる。

 そこにはいっぱいに水がためられ、その水面からは黙々と湯気が立ち上っていた。


「どうして……」

「君が寝ている間に準備しておいた」


 そう言いながら、シュニーが楽しそうに笑う。

 こんなの横暴だ、と叫びたくなったセレナだったが、昨日似たようなことを彼に強いてしまったため、言葉をのみ込むしかなかった。


 結婚式を挙げてから約一カ月。

 その間に彼とは何度か夜をともにしている。もちろん、猫の姿の彼と一緒に寝たというだけではない。

 しかし、だからと言ってこれはまた別の話だ。

 一緒に湯につかるなど、恥ずかしすぎる。


「シュニー様……無理です」


 ふるふると首を横に振って訴えるが、彼はセレナの言葉を無視してからかうように言う。


「そうだ、昨日みたいに呼び捨てにしてくれてもいいんだよ?」

「い、今からしようとしていることを止めていただけるなら、考えます!」

「それは難しいな」


 彼の中の優先順位は、湯浴みをともにすることの方が上らしい。

 いよいよ逃げ道を完全に塞がれてしまったセレナは、項垂れるようにして彼の腕に身を任せた。


 部屋の外では今日も暖かい日差しが降り注ぎ、爽やかな風がカーテンを揺らしている。

 2人の幸せは、まだまだ始まったばかり。


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