迷子の白猫 ⑤


 早く帰りたい。

 シュニーの頭の中にあるのは、その言葉だけだった。


 エリザベスと言う名前の薄茶色の雌猫は、あれからずっとシュニーに構い続けている。

 鬱陶しさに距離を取ると、熱いまなざしを向けて追いかけてくるのだ。しかも、それを目撃した兄妹には二匹がじゃれ合っているようにしか見えないらしく、仲良し認定されてしまった。

 逃げることにも疲れたシュニーは、今は子供用のベッドの上でエリザベスと並んで丸くなっている。


 この状況は非常にまずいと思う。

 もし彼女に見られでもしたら誤解されかねない。

 果たしてこれは浮気の内に入ってしまうのかと、新婚早々陥っている最大の危機に胃が痛くなってきた。


 彼女は心配しているだろうか。

 自惚れだが、それなりに愛されている自信はある。きっと必死に探してくれているに違いない。

 彼女との約束を破ることになってしまい、申し訳なさで胸がいっぱいだった。


 それに、シュニーが行方をくらましてからもう数時間は経過している。このままでは大事になってしまうだろう。

 どうやってこの状況を抜け出したものかと考えていると、勢いよく開かれた扉の先から中年の女性が現れた。


「あんた達!また猫拾ってきたんだって!?」


 その女性はベッドの上のシュニーを目に留めると、目の前まで歩いてくる。


「おかあさん!しろちゃん迷子だったら飼ってもいい?」

「何言ってんだい!こんな毛艶のいい猫が野良猫なわけがない!元の場所に返しといで!」


 少女が縋るように女性を見上げるが、母親らしきその人は厳しい顔つきで一蹴した。

 どうやら猫を拾ってきたのはこれが初めてではないらしい。もしかしたらこのエリザベスという猫も、元々は迷い猫だったのかもしれない。


 シュニーは親子のやり取りを横目に、開かれたままの扉から部屋の外へと抜け出した。エリザベスが付いてきたが構っている余裕はない。

 それほど広くもない家の中を駆けると、すぐに玄関扉に辿り着いた。さすがにこの姿では開けることが出来ないのでどうしようかと悩んでいると、兄妹と母親もやってきた。


「ほら、その猫も帰りたがってるじゃないか」


 だからあきらめなさい、と母親が言うと、少女は残念そうな顔で頷いた。


「わかった……ごめんね、しろちゃん」


 少女は肩を落としながら謝ると、扉を開けてくれた。

 そのまま家の外に出る。

 玄関先の段差を飛び降りたところで、体にもの凄い衝撃を感じた。


「ぶにゃッ」


 空気と一緒に押し出されるようにして口から声がもれる。

 何が起きたのかと後ろを振り向くと、シュニーの背中の上にエリザベスが乗っかっていた。そのヘーゼル色の瞳が、逃がさないとでも言うように鋭く光っている。


 思わず震え上がりそうなる体を叱咤して、シュニーは必死に考えた。

 何故、この国の王子ともあろう自分がデブ猫に押し倒されているのか。

 このままでは圧死する。

 せめて死ぬ前に彼女に会いたかった……

 そんな風に考えながら彼女の顔を思い浮かべると、その愛しい声が頭に響く。


「シュニー」


 ついに幻聴まで聞こえるようになったかと思いつつも声のした方へ顔を向けると、淡い金色の長い髪をもつ人物が目に入った。綺麗な菫色の瞳が、まっすぐにシュニーを見ている。


「おいで」


 これは幻覚なのかと思考の隅で思ったのは一瞬で、次の瞬間にはシュニーは全力でエリザベスを振り払い、愛しい人の下へと走り出していた。

 彼女が両膝を突く。

 そして、勢いよく駆け寄ってきた白い体を優しく抱き上げた。


 彼女――セレナの腕の中で、シュニーはとても安堵した。

 幻覚などではない確かな温もりに、その肌の感触に。

 白い毛を撫でるその手の心地よさが、なんだか懐かしく感じた。


 セレナは立ち上がると、シュニーの顔を覗き込むようにして言う。


「随分と、楽しそうなことをしていましたね?」


 びくっと白い体が揺れた。

 忘れかけていたが、先ほどの状況を彼女は間違いなく見ていただろう。

 恐る恐る菫色の瞳を見上げると、彼女は真意の読めない微笑を浮かべていた。その表情に薄ら寒さを感じていると、幼さの残る声が耳に入った。


「しろちゃんの飼い主さん?」


 家の玄関口付近にいた少女が、そう尋ねながら近づいてくる。


「しろちゃん?……そうよ、この子は私の飼い猫なの」


 一瞬疑問符を浮かべたセレナだったが、すぐに理解したのか少女に頷いた。

 すると少女の後ろから歩いてきた中年の女性が、申し訳なさそうに言う。


「すみませんねぇ、うちの子が勝手に連れてきちゃったみたいで。ほら、あんたも謝んな!」

「ごめんなさい、お姉ちゃん!でもね、しろちゃん、エリザベスとすっごく仲良しだったの!」

「えりざべす……?」


 セレナが首をかしげると、大きな薄茶色の猫を抱いた少年が寄ってきた。

 少女は兄の腕の中にいる猫を指さして言う。


「このこがエリザベス!しろちゃんとね、舐めあいっこしてたよ!」

「…………舐めあいっこ?」


 少しの沈黙の後、セレナは低い声で尋ね返した。

 シュニーはその声の冷たさに、小さな体を震わせる。


 やめろ、嘘をつくんじゃない。

 舐めあいっこなんてしていない。自分はあのデブ猫に、一方的に襲われていただけだ。

 いくら拒否してもしつこく寄ってくるから、最後はあきらめていたが、それはもう許してほしい。


 そう言い訳を並べるも、猫の姿では言葉にすることなど出来るはずもなく。


 まずい。とてもまずい。

 怖くて彼女の顔を見ることができない。

 今が人の姿であれば、だらだらと全身から冷や汗を垂れ流しているだろう。


 そんなシュニーに追い打ちをかけるように、小さな少女が願いを口にした。


「エリサベスね、しろちゃんのお嫁さんになりたいみたいなの!だめかな?」


 シュニーはいっそ逃げ出したい気分だった。

 やっと彼女の下へ帰れたというのに、もう生きた心地がしない。

 頼むから黙っていてくれ、そう心の中で懇願していると、セレナはシュニーを抱きなおして優しい声で言った。


「ごめんなさい。この子にはもうお嫁さんがいるから、エリザベスとは結婚できないの」

「しろちゃんお嫁さんいたの!?」

「そうよ、だからあきらめてくれる?」


 少女は残念そうに頷いた後、エリザベスに言い聞かすように話す。

 少女の言葉を理解しているのかは分からなかったが、大きな薄茶色の猫は悲しそうに背を丸めた。



 そうして、セレナは白い猫を大切そうに抱きながら、別邸へと戻っていく。

 その側に控えていたジェフが、面白いものを見たとでも言うように始終笑っていた。


 日の沈みかけた空は橙色に染まり、一日の終わりを告げる。

 シュニーはまだ知らない。

 この後に待ち受けている地獄を――


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