迷子の白猫 ①


 雲ひとつない青空。

 爽やかな日差しが、青々と茂る葉に照り付ける。

 新緑の季節にふさわしく、木々は生き生きとした表情を見せていた。


 目の前に広がるは一面の海。

 穏やかな風が海面を揺らし、砂浜にさざ波が打ち寄せる。


 ここはアレストリアの南西側に位置する海辺の街。

 結婚式から約一カ月。初夏ともいえるこの季節に、セレナとシュニーは新婚旅行と称して海に来ていた。

 この街は観光都市としても有名で、王族専用の別邸があり、今日から十日間ほど二人はそこでお世話になる。


「わああぁ」


 初めて目にする一面の青い海に、セレナは思わず感動の声を上げた。


「すごい……すごいです、シュニー様!海ですよ!?」


 瞳を輝かせながら隣に立つ人物を見上げると、彼は苦笑しながら頷く。


「こんなに喜んでもらえるなら、頑張って休暇をもぎとった甲斐があったよ」


 今回この旅行を計画するにあたり、シュニーは前倒しで政務を片付けていた。移動を含めると約二週間という長期休暇を取る必要があり、結婚式の前から少しずつ準備を始めていたのだが、そのせいで仕事が忙しく式の当日も寝不足だった事は否めない。

 それでも何とかこの一カ月である程度片付け、晴れて二週間自由の身と相成ったのだ。


 どうにも片付かない案件もあったのだが、それは一番上の兄であるルディオに押し付けてきた。彼は恨みがましい視線を向けながらも、仕方がないなと引き受けてくれたので、感謝しかない。


「私、今なら泳げそうな気がします!」

「……いいかい?事前に言ったけど、泳ぐのはだめだからね?」


 シュニーは諭すように言う。

 それと言うのも、時期的にはまだ海水浴をするには早すぎるからだ。気温はぽかぽかと暖かく、水に入るくらいであれば問題はないが、全身でつかって泳ぐとなるとまた別の話で。

 その上、セレナは泳いだ経験がない。万が一のことも考え、事前に泳ぐことは許可出来ないと伝えられていた。浅瀬で水遊びをするくらいであれば問題はないと言うことで、納得したのである。


「わかっています。でも早く海水に触りたいです!」


 セレナはずっと海に憧れていた。

 アレストリアに来る前から、一度は行ってみたいと思っていた場所なのだ。

 もう待ちきれないとばかりに瞳を輝かせているセレナに、シュニーは眉尻を下げながら了承してくれた。


「僕はここで待っているから、二人で行っておいで」


 その言葉に、セレナは後ろに控えていたアリーを見る。彼女は今回侍女として同行してくれているが、シュニーからはセレナの遊び相手としての任も授かっている。

 アリーは一歩前に出ると、シュニーに向けて言った。


「宜しいのですか?」

「構わない。僕は水に入れないから、セレナを頼んだよ」

「かしこまりました!」


 口調は丁寧だが、アリーの顔には喜色が滲んでいる。

 シュニーと海に入れないのは残念ではあるが、これは仕方がない。正確には入れないわけではないのだが。


 シュニーは『猫になる』と言う呪いの性質のせいなのか、幼い頃から水に入るのが苦手らしい。これはどうにも克服できなかったようで、湯船に浸かる程度であれば問題はないのだが、人の姿でもある程度深さのある水に入るのは恐怖心が勝ってしまうのだと言う。更に猫の姿の時は、湯船ですら恐怖の対象になるのだとか。

 そう言う事情もあり、無理強いさせるわけにもいかないので、セレナは遊び相手としてアリーを連れてきたのだ。


 ちなみに、ジェフは別邸の方で待機している。別邸はこの浜辺に隣接して建てられており、目と鼻の先の距離にある。また此処は王族専用のプライベートビーチであるため、今は護衛なども付けていない。


 セレナは一度シュニーに向き直り、確認するように言った。


「ここに居てくださいね?」

「どこにも行かないよ」


 いつもよりだいぶラフな格好をした彼が頷く。

 上はシャツ一枚で、下に履いているズボンは砂が付かないように膝下あたりまで捲り上げていた。シャツのボタンは胸元の数ヵ所しか留められておらず、隙間からのぞく肌が目に痛い。

 何となく直視できず、彼の返答を聞いたセレナは、そのままアリーとともに浜辺の先へと歩き出した。


 海に入るということで、セレナも今日はかなり身軽な格好をしていた。膝丈ほどのシンプルなワンピースに、薄手の上着を羽織っている。アリーも似たような格好で、足元はもちろん裸足だ。


 打ち寄せてきた波に向かって、そっとつま先を海水につける。

 想像していたよりも冷たいその温度に、身体が跳ねた。それでも構わず足を踏み出し、思い切って水の中へと入ると、寄せては返す波が何度もセレナの足を濡らした。

 初めての感覚に心が躍る。

 思わずシュニーのいる方を向くと、彼は浜辺の端にある木陰に腰を下ろしていた。

 セレナの視線に気づいたのか、水色の瞳を細めて手を振ってくる。それに返事をするように両手で手を振り返し、セレナは再び足元の海水へと意識を向けた。



 そうしてしばらくの間、アリーと二人でささやかな海水浴を楽しんだ。

 ふと空を見上げると、真上に太陽が見える。そろそろお昼時だろうか。

 昼食は別邸でとることになっているので、一度戻ろうかと砂浜の方へ視線を向ける。


 そこで、違和感。

 セレナは思わず動きを止めた。


「セレナ様……?」


 波打ち際で急に立ち尽くした主人を訝しんだのか、アリーが顔を覗き込こんできた。そして、そのままセレナの視線の先を追う。

 先ほどまでシュニーが座っていた木陰に人の気配はなく、そこには潮の匂いを含んだ風が、ただ静かに吹き抜けるだけだった。


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