28話 それを奇跡というのなら
思考が現実へと戻る。
その時には、セレナは彼の腕の中にいた。
「セレナっ……!」
セレナを抱く彼の腕は震えていたが、その体温がひどく心地よかった。
少しして彼は顔を上げると、セレナの両肩に手を乗せ、その格好を見て息をのんだ。
ドレスの胸元は大きく切り裂かれ、スカートは破られ、その隙間から白い脚が見える。いつもは真っすぐな綺麗な髪の毛も、無理やり解かれたからか所々が歪んでいた。先ほどまで泣いていたからか化粧も落ち、顔も酷い状態だ。
彼は自分の上着を脱ぐと、それをセレナの肩にかけてくれた。彼の体温と香りの移ったその服に、心から安堵する。
「セレナ、怪我はない?どこか痛いところは?」
顔を覗き込んで聞いてきた彼の瞳を、じっと見つめた。
この透明な瞳は見覚えがある。暗くてその色までははっきりと分からないが、ガラス玉のように透き通ったこの瞳は、月明かりの下で出会ったあの白猫と同じ目をしていた。
返事がない事に彼は不安を感じたのか、その奇麗な顔を歪めて言った。
「もしかして怪我してる?言ってごらん、手当てするから」
その言葉に、セレナはやっと口を開いた。
「責任、取りに来てくださったのですか?」
「……え?」
全く予想していなかっただろう言葉に、彼は目を瞬かせてセレナを見つめ返した。その長い睫毛がぱちぱちと上下に動く様が、なんだかおかしかった。
「あの白猫は、シュニー様だったのでしょう?」
彼の動きが止まる。
たっぷり10秒は経過してから、シュニーは勢いよくセレナから離れた。
夜の暗さではっきりとは分からなかったが、その顔が見る見るうちに赤く染まっていくように見えた。口元を片手で押さえ、俯いている。
「シュニー様……?」
声を掛けるが、今度は彼の方が反応がない。
これまた10秒近く経ってから、小さな声がその場に響いた。
「思い……だしたの?」
上目遣いでセレナを見てきた彼に、こくりとひとつ頷く。それを見たシュニーは盛大な溜息を吐いた。
そして無言でセレナに近づくと、その身体を抱き上げた。
「きゃあっ」
急に足が地面から離れたことに驚き、バランスを崩しそうになって彼の首に腕を回す。抱きつくとシュニーが小さく笑った気がした。
そして、近くにあった長椅子へと腰を下ろした彼は、その膝の上に横抱きでセレナを乗せたのだ。
この長椅子は、あの時セレナが白猫を膝に乗せて座った椅子だった。立場は逆転してしまったが、なんだか懐かしさを感じた。
シュニーはしばらく無言で、セレナを抱きしめていた。何か言うべきかと思案したが、彼の雰囲気に口を噤む。
彼の首筋に顔を埋め、その体温を頬で感じていると、少しして彼はぽつりぽつりと喋り出した。
「あの時僕は、ちょっと失敗してしまって……猫になってしまったんだ」
まずいと思った彼は会場を抜け出して、庭園の奥に隠れていようと思ったらしい。
「そうしたら、月明かりの下で君を見つけた。僕はどうにも君を放っておけなくて……」
泣いているセレナを見た彼は、その姿に釘付けになってしまい、気づいたらその前に姿を現していたのだという。
それからはセレナの記憶の通りだ。
「どうして、言ってくれなかったのですか?」
その質問に彼は気まずそうな顔をした。
「……君は忘れているようだったから、それでもいいかなって」
シュニーには言えるわけがなかったのだ。
猫のふりをして、あんな風に初対面のセレナに触れたことなど。
「でも、思い出してしまいました」
彼の頬が、また赤く染まった気がした。
セレナはあの夜のことを忘れていたわけではない。ただ記憶の中の出来事と、現実がリンクしていなかったのだ。
あの日以降、城内で白猫を見かけることはなかったし、ケーラやマルクに聞いても猫は飼っていないと言われた。だから迷い猫か野良猫だと思い込んでいた。
あの後すぐヴェータに行く準備を始めたり、少ししたらアレストリアに行くことになったりと、いろいろ目まぐるしく日々を過ごしていたため、完全に記憶の隅に追いやっていたのだ。
思い返すと、シュニーの今までの行動は、全てセレナが望んだことそのものだった。
友達を作っておしゃれをして、そして、優しい恋をする。
アリーとは友達になれたと思うし、可愛い洋服も買ってくれた。ボロボロになってしまったけれど、ドレスだってこんなにも素敵なものを用意してくれたのだ。ケーラやマルクにも会って、彼らをセレナの家族としてアレストリアに迎えることも考えてくれている。
そして何より、彼自身がセレナを愛してくれた。始めは少し強引だったけれど、彼からもらった優しい愛は全てセレナの宝物だ。
顔を上げると、彼は柳眉を寄せて難しい顔で地面を見ていた。セレナの視線に気付いたのか、眉尻を下げて困ったような顔をして言う。
「迷惑じゃなかった?」
その言葉に千切れそうになるくらい首を横に振った。
彼はセレナを、ハスールから奪ったことを気にしているのだろうか。迷惑だなんて、絶対にあり得ないのに。
「私は、あなたに出会えたこの奇跡を、神に感謝しています」
そう言って微笑むと、セレナの眦から一筋の涙がこぼれ落ちた。
この出会いを奇跡と言うのなら、きっとこの奇跡は必然だったのだろう。そう思わずにはいられない不思議な出会いに、セレナは心から感謝した。
シュニーはセレナの言葉を肯定するように、微笑み返してくれる。彼も同じ気持ちだったらいいと思う。
「ねぇ、セレナ。責任とるから、今度はちゃんと人の言葉で言わせて」
彼が急に真顔に戻ったかと思ったら、そんなことを言ってきた。首をかしげて先を促すと、彼はこくりと喉を上下に動かしてから、セレナの瞳を真っすぐ見つめた。
「君を今以上に幸せにする。だから、僕と結婚してください」
思わず両手で口を押さえた。
彼の言葉が頭に響き渡る。
目頭が熱くなり、大粒の涙がとめどなくあふれ出した。
「はい」
その言葉はちゃんと声になっていただろうか。喉が震えて、うまく言えたか自信がない。
それでも彼は聞き取ってくれたのだろう。今まで見たどれよりも優しい笑顔で応えてくれた。
「好きだ、セレナ」
瞳からあふれる涙を、あの時と同じようにシュニーがその舌で掬う。擽ったさに身動ぎをすると、彼はセレナのまぶたにキスを落とした。
閉ざされた視界の外側で彼が離れていくのを感じ、寂しさにそのシャツの胸元を握りしめると、唇に柔らかい感触がした。
キスされた、と思った瞬間に唇を食まれた。
いつもより積極的なその行為に、無意識に顎を引こうとしたが、彼に頤を掴まれ引き寄せられる。
「んぅ……っ」
より一層深くなった口付けに、脳が痺れそうだった。交わった所からお互いの熱が伝わってくる。
呼吸が苦しくなってきた頃、名残惜しそうに彼は離れていった。
ゆっくりと目を開けると、彼の透き通った瞳とかち合う。
あの日と同じ、ガラス玉の瞳がそこにある。
二人は互いの瞳に吸い寄せられるように、再びその距離を縮めた。
彼が熱のこもった声で言う。
「愛してる」
私も、と紡ごうとした言葉は、吐息ごと彼にのみ込まれた。
お姉さま、覚えていますか?
あなたが私に言った言葉を。
『この子ったら夜会の日、すぐに退席してしまったじゃない?あの時、第三王子も会場から姿を消していたのよ。きっと二人で親密なことをしていたに違いないわ』
――私、していました
あの夜会の日、シュニー様と、親密なこと――
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