6章
27話 月明かりの下で
デビュタントとして初めて夜会に出席したあの日、セレナは夜会が始まる直前に父であるメルセド王に呼び出されていた。
『セレナ、おまえをヴェータ国に嫁がせる予定だ。心を決めておけ』
その言葉に、目の前が真っ暗になったのを覚えている。
初めて夜会への出席を許され、胸に期待を抱いていたセレナには、その宣告は酷くつらいものだった。
ヴェータ国というのはハスールの北側に位置する隣国で、元々それほど大きな国ではなかったのだが、ここ数年で戦争を繰り返し急に領土を拡大した軍事国家である。
その勢いは衰えず、このままではハスールもいずれヴェータに飲み込まれてしまうのでは、と誰もが危惧し出した頃、その国は急に大人しくなったのだ。理由は定かではないが、王が代替わりしたのが原因ではないかと言われている。その証拠に戦争をやめた彼の国は、花嫁候補となる女性を集め出したのだ。
それを耳にしたメルセド王はヴェータへの牽制として、自分の娘を嫁がせることを考えついた。そして、それに選ばれたのがセレナだった。
セレナは元々望まれた子ではない。王は上の三人の異母姉を可愛がっていたので、ヴェータに行くとしたらそれがセレナであるのは必然だった。また見目も良く、外国に嫁がせるには申し分なかったのである。
そんな経緯を経て、夜会の直前にその現実を突きつけられたのだ。
当然断る権利などないセレナは、その場で頷き返し王の前を後にした。
参加した夜会は、結局途中退出することになった。
直前に聞かされた内容に、どうしても気分が悪くなり立っていられなかったのだ。会場にいた時間は15分程度だろうか。
お下がりではあったがせっかく用意してもらったドレスも、ケーラに丁寧に梳いてもらった髪も、ほとんど無駄にしてしまった。
気分は悪かったがそのまま部屋に戻る気にもなれず、セレナは庭園へと向かった。
裏口から出て、バルコニーの前を通り、奥へと進む。
そうして辿り着いたのは、月明かりが綺麗に差し込む、セレナの大好きな場所だった。周りを高い木に囲まれたその場所は、ちょっとした秘密の空間のようで、一人になるには最適だった。
空には少し欠けた月が輝いている。
春先の穏やかな風が頬を撫で、その心地よさに目を閉じた。
気分はだいぶ楽になったが、胸に残る不安はそのままで。閉じたまぶたの端から涙が溢れ落ちた。
先のことを考えてしまうと不安は増すばかりで、胸に広がる痛みに、その場で蹲り涙を流す。
込み上げる嗚咽を抑えられず、その肩を何回も揺らした。
しばらくその場で泣いていると、春の突風がセレナの金色の髪を巻き上げた。
バサリと髪が宙に舞ったことで視界が開ける。その視界の隅で、何かが動いた気がした。驚き、ゆっくりとそちらを向くと、綺麗な白が目に入った。
そこに一匹の白い猫がいたのだ。
その白猫は、ガラス玉のような透明な瞳でセレナを見ていた。
「猫ちゃん?」
こんなところになぜ猫がいるのか。誰かが城で飼っているのかもしれなかったが、ほとんど部屋から出ないセレナには分からなかった。もしかしたら迷い猫か、はたまた野良猫かもしれない。
だが、今のセレナにとってそれはどうでも良いことで、目の前のかわいらしい存在に、自然と声をかける。
「おいで」
そう言うと、白猫はセレナの側にやってきた。少し毛足の長い白い毛が、ふわふわと風に揺れる。
「あなたに触れてもいいかしら?」
白猫が頷くように、こくりと首を上下に揺らした。
「ふふ、言葉が分かるの?賢いこね」
頭を撫でると、その毛の感触がとても気持ちよく、セレナは目を細めた。
猫に、と言うよりも動物に触れること自体が初めてだったが、こんなにも手触りが良いものなのか。
猫については本で読んだことがある。喉の下あたりを撫でてやるのが良いらしい。そんなことを思い出し、指を顎下へと滑らせ掻くように動かすと、白猫が気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「あなたどこからきたの?迷子かしら?」
聞いてももちろん返事はなく。
だけど、白猫が少し困ったような顔をした気がした。その表情がまたかわいくて、セレナは、そうだ、と思いついたことを猫に尋ねる。
「あなたを抱っこしてもいいかしら?」
少し考えたような素振りを見せた後、白猫はまたこくりと首を上下に振った。
「ふふふ、本当に言葉が分かるみたい」
セレナは立ち上がると、白猫の前脚の後ろ側に手を差し入れ、その白い体を抱き上げた。
伝わる体温が心地良い。動物とはこんなにもかわいく、そして癒される存在なのかと感心してしまった。
白猫を抱いたまま、近くにあった長椅子に腰を下ろす。その椅子はかなり古いものだったが、手入れはされていたらしく奇麗だった。
膝の上に乗せた白猫の背を撫で、毛の感触を楽しむ。
しばらく無言でそうしていたが、セレナは誰に聞かせるともなく、ぽつりぽつりと話し出した。
「私ね、ヴェータ国に嫁ぐことになりそうなの」
その言葉に、白猫がセレナの方を向いた。
「お父様が……国のために行けって言うのよ。私の立場からしたら、それは仕方のないことだって分かってるのだけど……やっぱり、こわくて」
セレナはこれでもハスールの王女だ。王族にとって政略結婚は当たり前である。だから、いつかはこうなることも分かっていた。それでもこんなにも早く、国を出るかもしれないとは。
ハスールでは女性は16歳以上を成人とみなす。この国では成人して初めて結婚を許されるのだが、今年16歳になるセレナは、まさか夜会デビューするその日に嫁ぎ先を決められるとは思っていなかった。
ましてやその行き先は、あのヴェータだ。世情に疎いセレナでも、あの国がどれほど恐ろしい国なのかくらいは分かる。
不安を吐き出すように、セレナは一人呟いた。
「でも……、この国にいてもお姉さまたちは毎日のようにいじわるをしてくるし、もしかしたら……ヴェータに行った方が幸せなのかしら」
それも本心だった。此処にいても異母姉たちに苛められる日々は変わらない。ヴェータに行ってこの環境を抜け出せるのであれば、それはそれでありなのかもしれない。
だが、そう簡単に割り切れるはずもなく。
自然と溢れる涙が、頬を濡らしていった。
「私も普通にお友達を作って、おしゃれをして……それから、恋をしてみたかったな」
王女であるセレナにそれは許されない。
それでも、願ってしまうのだ。それが叶わなくとも、せめて人らしい生活をしてみたかった。
今の異母姉たちに虐げられる生活ではなく、誰かに愛されて生きてみたかった。
「お父様も、お兄さまもお姉さまも、みんな私が嫌いだから……」
セレナを愛してくれる人が全くいなかったわけではない。乳母のケーラはセレナに良くしてくれた。彼女がいたから、今まで生きてこられたようなものだ。
でも、それももうお別れだ。
とめどなく涙があふれる。
不安と悲しみと憤りで、心の中はぐちゃぐちゃだった。
涙を止めようと目を閉じるが、なんの意味もなく。まぶたの端から、雫が伝うだけだった。
その時、頬に何かが触れた。
ゆっくりと目を開けると、白猫がその小さな舌でセレナの涙を舐めとっていたのだ。頬を撫でる少しざらついた舌の感触がくすぐったい。
セレナは驚いたように目を瞬かせてから、白猫に言った。
「慰めてくれるの?優しいのね」
その行為に、自然と涙は止まっていた。
白猫は満足したのか、舐めるのをやめる。それが少し寂しくて、猫の頭を撫で続けた。
「あなたみたいな優しい人と、結婚したかったわ」
微笑みながら冗談を言うと、白猫はその透明なガラス玉の瞳でセレナを見つめた。
熱のこもったその眼差しに、どうしたのかしら?と首をかしげそうになった時、白猫が近づいてきた。
そして、その小さな口がセレナの唇に触れた。
その行為に名をつけるとしたら、人の言葉では『キス』と表現するのが正しいだろう。
「まあ!おませな猫ちゃんね!ファーストキス、奪われてしまったわ」
驚いたように言うセレナに、白猫もまたびくりとその小さな体を揺らした。なんだか少し、気まずそうな顔をしている気がする。
それがおかしくて、さらに続けた。
「もうお嫁に行けないかも……あなたが責任、とってくれる?」
そう言うと、白猫はまたセレナの菫色の瞳を覗き込む。
そして。
「ニャーオ」
と一声鳴いた。
「ふふ、約束よ」
セレナのその言葉に、白猫が頬をすり寄せてくる。
柔らかい毛の感触を頬で感じながら、そっと目を閉じた。
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