26話 秘密の場所


 乱れた呼吸を整えもせず、ただひたすら走った。

 誰かに見られたかもしれないが、それを気にする余裕はない。

 靴はとっくに脱げていて、裸足でいた分走りやすかったが、冬の冷気に晒された床はとても冷たかった。


 ずり落ちそうになるドレスを手で支える。

 最早ドレスというよりは、これはもうただの布切れを身体に巻いていると言った方が近いかもしれない。スカートの裾は無残に破け、その破れ目から細い脚がのぞいている。

 そして、その胸元は大きく切り裂かれていた。

 胸のあたりから腹の部分にかけて、鋏で切ったように二つに裂けているのだ。


 あの後大きな鋏を手に取ったマリージュは、双子に命令してセレナを押さえつけさせると、躊躇いなくそのドレスの胸元を切り裂いた。幸い、中に着ていたシュミーズとコルセットまで刃は到達していなかったようで、最悪の事態は免れたのだが、胸の支えをなくしたドレスがそのまま下にずり落ちそうになって焦った。


 さらにその後怒り狂ったマリージュが、ドレスの裾をズタズタに鋏で切り裂き始めて、あたり一面に布切れが散乱する事態になっていた。

 セレナはこのままではまずいと思い、恐怖に竦む身体を叱咤してマリージュを突き飛ばし、それに驚き緩んだ双子の腕を振り解いて、部屋から逃げた。

 自分の体のどこにそんな力があったのかというくらい、必死に抵抗した。

 姉たちは追ってこなかったので逃げ切ることはできたが、この姿ではどこにも行けない。アリーが待機している控室に行こうかと考えたが、そのためにはホールに続く扉の前を通るしかなく、さすがに人通りの多いあの場所を通る気にはなれなかった。部屋に戻ることも考えたが、階が違い結構距離が離れていたのでそちらも断念した。


 そうして行くあてもなく人通りの少ない場所を選んで歩いていたら、無意識にある場所を目指していた。

 裏口から外に出る。

 冬の外気は冷たかったが、興奮していたからか、今のセレナにはそれほど気にならなかった。そこまで冷え込んでいなかったのも幸いしたようだ。


 ホールに続くバルコニーを横目に、そのまま庭園の奥へと歩みを進める。裸足の足裏にあたる芝が、少し擽ったかった。


 奥に進むと少し開けた場所に出た。

 辺り一面が背の高い木に囲まれており、そこだけ月明かりが集中して降り注いでいるように見えて、とても幻想的だ。


 セレナはこの場所が好きだった。

 昔から部屋をこっそり抜け出して、ここによく来ていたものだ。異母姉に苛められて逃げ出した時も、この庭園に隠れてやり過ごしたりもした。

 そんな、思い出の場所だった。


 ずっと小走りでいたため、乱れた呼吸を整える。

 ゆっくり息を吸うと、冬の澄んだ空気が肺を満たしていくのを感じた。

 空を見上げる。

 少し欠けた月がセレナを見ていた。

 辺りは真っ暗だが、目が慣れてくると月明かりのおかげでだいぶ視界が広がったように感じる。


 改めて自分の身体を見下ろした。

 見た目はボロボロだが傷はない。痛みを感じたのは、リボンを無理やり引き抜かれ、髪の毛が抜けた時くらいだ。さすがにあの異母姉たちも、傷が残るようなことはまずいと思ったのだろうか。それだけは幸いと言えるだろう。


 しかし、体に痛みはなくとも心は違った。

 胸の奥が痛い。この痛みだけは、ずっと消えることがない。


「シュニー様……、ごめんなさい」


 せっかくいただいたドレスをこんな無残な姿にしてしまった。セレナはただそれだけが悲しかった。

 異母姉によって受けた仕打ちよりも何よりも、ただこのドレスのことがつらかった。

 シュニーのことを思うと涙が溢れてくる。

 異母姉たちの前では堪えていた涙が、頬を伝った。


「うっ……っ」


 嗚咽が漏れる。

 身体から力が抜けて、地面に膝を突いた。


 ――あぁ、そう言えばあの夜会の日も、自分は同じように泣いていたな


 思い出したのはアレストリアへと嫁ぐ前、初めて参加した夜会の日。

 あの日も自分はここで泣いていた。


 でも、あの時は確か――


 その時、視界の端に何かが見えた。

 そちらを向く。

 瞳に映り込んだ白に、大きく目を見開いた。


「セレナ!」


 名前を呼ばれたと同時に、埋もれていた記憶が鮮やかに蘇った。


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