29話 すべての始まり


 あの夜が、全ての始まりだった。


 たまたま視察のため訪れていたハスールで、シュニーはその日、王族主催の夜会に出席していた。

 その夜会は今年社交界デビューする若者のための催しも含まれており、とても盛大なものだった。


 その中で、シュニーはひとつ失態を犯す。

 デビュタントを歓迎する国王の挨拶の後、参加者全員にグラスが配られ乾杯をすることになった。事前にアルコールは飲めないことを伝えていたのだが、なんの手違いか、渡されたグラスには赤いワインが注がれていた。

 シュニーは出先でアルコールは絶対に口にしない。

 それと言うのも体質のせいなのか、アルコールを摂取すると強い眠気に襲われるのだ。お酒自体は好きなのだが、特別強いわけでもないし、ましてや飲んだら眠くなる。自室で嗜むことはあるが、その理由から外では控えていた。


 始めは気づかなかった。

 乾杯の後、思いきりグラスを傾けて半分ほど飲み干した時に、違和感を覚える。口にしたそれは、間違いなく本物のワインだった。

 小さく舌打ちをする。確認しなかった自分も悪いが、事前に伝えたと言うのに。

 飲んだ量が少ないから問題ないかと思ったが、少ししてアルコールが身体に回ってくると頭がふわふわとしてきた。

 これはまずいと思い、人気のないバルコニーへ出ると、ホールから死角になっている壁際へと寄る。壁にもたれた瞬間に視線が低くなり、シュニーはその姿を猫へと変えていた。

 やってしまったと溜息をつくも、起きてしまったことはどうしようもない。その場に居るわけにもいかず、バルコニーから抜け出し庭園の中に身を隠すことにした。

 この姿では部屋には戻れない、そして睡眠を取らないと人の姿にも戻れない。仕方がなく木陰に隠れて眠ろうと考えたシュニーは、人が訪れないだろう庭園の奥へと進んでいった。


 草木をかき分けしばらく進むと、少し開けた場所に出た。

 ハスールの庭園は高い草木が多く珍しい造りをしているのだが、その中でその場所だけは違った。

 満月に近い、明度の高い月明かりが差し込むそこはひどく幻想的で、シュニーは思わず目を見張った。

 そして息をのむ。

 その中心付近に人がいた。

 透けるような長い金色の髪が、月の光を反射してきらきらと輝いている。細い肩をした、小柄な少女のようだった。

 その少女が地面に膝を突き、両手で顔を覆うようにして泣いている。

 月明かりの下で泣くその姿は、己の瞳にひどく魅惑的に映った。


 シュニーは心臓が大きく脈動するのを感じた。

 幻想的な光景に目が離せなくなり、自然とその少女の方へと足が進む。

 少女まであと1mほどの距離まで近づいた時、突風が吹いた。春の風は、少女の金色の髪を空へと連れていくように舞い上げる。

 そうして髪に隠れていた横顔が露わになり、少女は何かに気づいたのかゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。

 交わった視線の先で、少女の瞳が見開かれる。

 その顔は月の女神かと思うほどの美しさだった。涙に濡れた瞳は艶めかしく、その姿をより扇情的に映す。

 シュニーは心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。少女から目が離せない。ただひたすら見つめていると、声をかけられた。


『猫ちゃん?』


 その可愛らしい声に心臓が跳ねたのを覚えている。忘れかけていたが、自分の姿が今は猫であることを思い出した。

 どうしたものかと動かずにいると少女に招かれたので、そのまま言う通りに近づく。


『あなたに触れてもいいかしら?』


 少女は律儀にそう聞いてきた。

 この姿で触れられることは正直苦手だ。両親はかわいいと言いながらべたべた触ってくるし、やられる方はたまったものではない。いつしかそれがトラウマになり、触れられることを嫌うようになっていた。

 だから、本来は首を横に振るはずなのに、己の体は何を思ったのか、その首を縦に振っていたのだ。自分に自分でなぜと問いたかったが、伸びてきた少女の手によってその思考は霧散した。


 頭を撫でられる。普段嫌悪感しか感じないその行為が、なぜかとても心地よく感じた。

 少女は次に顔の下の方へ手を滑らすと、こちょこちょと喉の辺りを撫で始める。その気持ち良さに全身の力が抜けるようだった。気付いたらごろごろと喉を鳴らしており、己の体から発せられている音が信じられなかった。

 これでは完全に、ただの猫である。

 現実を受け入れられないでいると、さらに質問が続く。


『あなたを抱っこしてもいいかしら?』


 これにはさすがに頷くことを躊躇った。あまり良い思い出がなかったのだ。それでも少女を信用して首を縦に振ると、少女は優しく白い体を抱き上げて側にあった長椅子に腰を下ろした。


 それからしばらく無言でいたが、少女とともにする春夜の空気は嫌いじゃなかった。そよそよと春の風が頬を撫で、少女の髪を揺らす。

 横目でそれを見ていると、ふいに少女が話し出した。その声は誰に聞かせるともなく、小さなものだった。


 少女はヴェータに嫁ぐらしいことと、姉による苛めを嘆いていた。

 話を聞く限り、この国の王族であるようだが、シュニーには面識がない。第一王女とその下の双子の王女は顔を見て挨拶を交わしている。だとすると噂に聞く第四王女か。確かに噂通りの美しい少女であるが、彼女が話す内容は噂とは随分かけ離れているようだ。


 メルセド王は娘を嫁がせて、あの野蛮な国に対抗するらしい。確かにハスールにとってヴェータは脅威であり、打てる手は打つべきだろう。しかし、戦争をやめたと思ったら今度は女探しを始めた国だ。この少女が嫁いだとして、幸せになれる未来は見えない。

 母国にいても姉に虐げられ、居場所のない少女をとても不憫に思った。


 次第に、少女の声は涙の混じったものになっていった。ぽたぽたと滴る雫が、その胸元に染みを作る。

 その姿に、シュニーは心の奥底で何かが灯るのを感じた。胸がざわざわして落ち着かない。

 いても立ってもいられなくなり、その瞳から落ちる雫を舌で掬った。小さな舌で頬を舐めると、少女は驚いたように瞬きをして、それからふわりと微笑んで言う。


『あなたみたいな優しい人と、結婚したかったわ』


 その言葉が、なぜか妙に頭に響いた。その時はそれがどうしてなのかは分からなかったが、シュニーは目の前の少女に触れたい衝動に駆られていた。

 少女を見つめる。

 体に何かしらの熱が灯った気がして、その衝動のままに少女の唇に己のそれを重ねた。


『まあ!おませな猫ちゃんね!ファーストキス、奪われてしまったわ』


 びくりと体を震わせ、その言葉に我に返る。

 なんと言うことだろう。初対面の少女の唇に触れてしまった挙げ句、ファーストキスを奪っただなんて。シュニーは狼狽えた。

 しかし、やってしまったものは仕方がない。幸い今のシュニーは猫である。動物とのキスくらい、さして気にするものではないだろう。そう考えていたのだが、少女の言葉は違った。


『あなたが責任、とってくれる?』


 唇を奪ったのだから、責任を取れと言う。

 少女の言葉が本気ではないことは分かっていたが、シュニーにはそれが冗談だという事実が、なぜか気に入らなかった。


 だから、言ったんだ。


ニャーオもちろん』って。


 少女はその鳴き声の意味を肯定と判断したのか、約束だと言った。

 そう、約束したのだ。

 その約束が、シュニーにとってどれほどの意味を持つことになるのか、その時の彼は全く予想していなかった。


 そうしてしばらく戯れ、夜も更けてきた頃に少女は城内へと戻って行った。

 この夜の出来事を、シュニーは今でも鮮明に覚えている。

 これが、奇跡の始まりだったから――




 翌日、シュニーはジェフに頼んで第四王女について調べさせた。

 その日はアレストリアへと帰国する予定であったが、無理を言って時間をずらし、情報を集めてもらった。

 そして手に入れた情報は噂の内容とほとんど同じだったが、いくつか明らかになったことがある。彼女の名前と年齢だ。セレナと言う名の、今年16歳になる少女であること。

 それ以上は分からなかったが、時間の押していたシュニーはそのまま帰国の途についた。


 国境へと向かう馬車の中で頭に浮かぶのは、昨夜の少女の姿ばかりだった。

 月の光のような金色の髪、涙に濡れた儚げな瞳、少し高めの優しい声、少女の全てが脳裏に焼き付いて離れない。触れた所から感じた熱を今でも覚えている。


 あの娘をもっと見ていたい。

 あの娘ともっと話をしたい。

 あの娘にもっと触れてみたい。


 少女を思うと、胸が苦しくて痛い。ひどくもどかしい。

 そんな感覚を覚えた時、胸に湧き上がるこの感情の正体を理解した。


 今まで異性との付き合いがなかったわけではないが、これほど胸が締め付けられるような痛みを感じたことは初めてだった。彼女が欲しいと思った。

 幸いシュニーには地位も権力もある。

 ならば、やるべきことはひとつだ。


「ジェフ、アレストリアに入ったら騎馬で行く。手配を頼む」


 少女はヴェータに嫁がされると言っていた。のんびり帰国している場合ではない。とっとと帰って両親に許可を貰わねば。

 騎馬で行けば、馬車で行くよりはだいぶ時間の短縮になる。


「は?なぜ急に?」

「欲しいものができた。全力で奪いにいく」

「はあ……、左様ですか」


 向かいに座る従者は、首をかしげながらも頷いてくれた。


 ――待っていて、絶対に君を幸せにするから


 そう、心に誓った。




   ✳︎




「シュニー様は眠くないのですか?」


 その声に我に返る。

 ベッドに腰掛けながら、シュニーはあの夜のことを思い出していた。

 あの日からシュニーの中でセレナの存在はどんどん大きくなっていった。もう彼女なしでの生活なんて考えられないだろう。それだけ、セレナはたくさんの奇跡をくれたのだ。

 だからこそ、大切な彼女を傷つけた奴らが許せなかった。


 あの後、セレナを部屋に連れ帰ると、アリーとジェフにこっ酷く叱られた。

 こんなボロボロなドレスを着た彼女を、長い間外に置いておくなんて信じられないと。しかも季節は冬である。

 彼らの言っていることは尤もで、シュニーもセレナを見つけるまでは早く部屋に連れ帰らねばと思っていた。

 しかし、月明かりの下で見つけた彼女の言葉に気が動転して、本来の目的が頭から抜け落ちた。まさかこのタイミングでセレナが全て思い出すとは。

 結局彼女を助けに行ったのか、それともその身体を冬の寒さに曝すだけになったのか、よく分からない結果にシュニーは何度も謝った。


 セレナはドレスのことを気にしていたのか、謝るシュニーに被せるように謝罪してきたが、それは彼女の所為ではないので気にしないように言った。ドレスなどまた作ればいい、セレナが無事であることが全てだ。


 そんなやり取りを経て、湯船で身体を温めたセレナは、今はシュニーの隣で横になっている。


「すぐに眠くなるから、先に寝てていいよ」


 そう言って彼女の頭を撫でると、少しむくれた顔をされた。


「一緒に寝たいです」


 明日以降のことについて考えをまとめておきたかったが、そう言われてしまっては、今日の失態を犯したシュニーに断ると言う選択肢はなかった。

 彼女の隣に寝転がろうとすると、かわいいおねだりをされる。


「猫ちゃんがいいです」


 これまた断ることなど出来ないシュニーは、苦笑して頷いた。


「……仰せのままに」


 座ったまま目を瞑り、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。疲れていた身体は、すぐに眠気を誘った。

 急に視線が低くなり、目の前には彼女の顔が見える。


 セレナはそのままシュニーを抱き寄せると、そのおでこにキスをして、白い毛に顔を埋めるようにして目を閉じた。

 すぐに寝息が聞こえてきて、彼女も疲れていたことが分かる。無理もない、いろいろとありすぎた。


 すやすやと眠るセレナの頬に口先で触れる。


『おやすみ、セレナ』


 明日のことを考えてから、シュニーも眠りについた。


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