8話 夢の中の


 シュニーは夢をみていた。


 ここは夜の庭園だろうか。

 見慣れないその庭の様子に、ここが自国アレストリアの王城にある庭園ではないと思い至る。


 辺りを見回すと、少し離れたところにあるバルコニーから夜会の喧騒が聞こえてきた。

 ホールから漏れ出た明かりはシュニーの居るところまで届くことはなかったが、漏れ聞こえる音楽のうるささにわずかに柳眉を寄せた。


 この光景には見覚えがあった。


 そう、絶対に忘れることはない。忘れることなどできない。


 シュニーは記憶を思い起こすように、庭園の奥へと進んだ。

 やがて辺りには月の光だけが差し込み、外界と隔てるように周りの空気は静寂に満ちてゆく。


 そして、月明かりが照らす先に彼女はいた。


 その細い肩を震わせ、己の身体を抱きしめるように蹲り、嗚咽をもらしていた。


 彼女のもとに近づきその名を呼ぼうとするが、己の声は言葉を紡がなかった。

 急に視線の高さが低くなったような気がして、自分の身体を見下ろしてみると、視界の端に白い毛が見えた。


 ――あぁ……君はまた、泣いているの?


 胸がざわめく。

 あの時と、同じだ。


 一瞬強い風が吹き、少女の淡い金色の髪を巻き上げた。

 視界の端に映った白い影に気づき、彼女の視線がシュニーの方へ向けられる。


 そうして月明かりに照らされて妖艶に光る菫色の瞳が、涙に滲んだまま、大きく見開かれた――





 どくん、と心臓が脈打つのと同時に、シュニーは意識が覚醒するのを感じた。

 気怠いまぶたを押し上げ視界を広げると、襲いくる陽の光に思わず顔を顰めた。


 今の状況を振り返る。

 確か昼食をとった後、眠気に負けてしまったんだったか。

 げんなりと溜息をついて、ソファーに寝そべったまま時計を見上げた。だいたい二時間くらい寝ていたようだ。やってしまった。今日こそ早く彼女のもとへ帰りたかったのに。

 自分の体質を恨めしく思う。

 もう一度溜息をついたところで、少し離れた所から声がした。


「起きられましたか?セレナ様は午後から授業に参加されるご予定でしたので、先に退室されました」


 ジェフの声に、そうか、とだけ返事をする。

 セレナは知識欲があるようで、アレストリアに来てから持て余していた時間で学問を学びたいと言ってきた。反対するようなことではないので、彼女が希望するならと家庭教師をつけることにしたのだ。

 それから週に3回ほど、無理のない程度で授業を受けている。

 他にもマナーやダンスのレッスンなど、彼女はほぼ完璧であったが、おさらいという形で学び直していた。


「こちらはある程度仕分けてしておきましたので、あとはご自分で確認をして下さい」

「あー……うん、悪い」


 山のように積み上がる書類を、ジェフは整理してくれていたらしい。簡単な仕分け程度なら彼でもできるが、内容の確認については自分でするしかない。


「悪いと思うなら、きちんと夜に睡眠を取ってください。こうなってしまっては、あなたはただの腑抜けですから」

「相変わらず、手厳しいな」


 口調こそ丁寧であるが、遠慮のない言葉に眉根を寄せる。

 ジェフはシュニーの従者であるが、実際は親友のような存在でもあった。

 彼は懇意にしている侯爵家の次男で、シュニーが10歳になった頃に両親が連れてきた。彼の方がひとつ年上であるが、変に謙らず接してくれる彼にシュニーは好感を持てたものだ。

 それからともに学び育つ中で、兄弟のようであり、また親友のような仲を築けたのは、シュニーにとっても僥倖であった。

 今では何についても気兼ねなく話せる仲ではあるのだが、主人を敬う気持ちをどこに捨ててきた?と思わせるような口振りも増え、シュニーは頭を抱える事もしばしばだ。

 それでも自分も嫌だとは思っていないのだから、なるようになったのだろう。


 身体を起こし、ソファーの上に座り直すと、ジェフが眠気覚ましの一杯にと珈琲を入れてくれた。

それを一口啜り、夢の内容を思い出す。


 あれが、全ての始まり。


 神がいるというのなら、あの時あの場所に導いてくれたことに感謝をするしかない。

 そんな偶然のような奇跡に、シュニーの心は救われたのだから。


「今でもあなたがセレナ様に見せる態度は信じ難いものがありますが、一体どうしてあの方に心を開かれたのです?」


 珈琲を飲みながら惚けるシュニーにジェフが問いかけた。主人の様子を見て、彼が婚約者となった人物の事を考えているのだろうと思い至ったのだ。


「彼女なら、大丈夫だと思ったんだ」


 ぽつりと零した声はとても小さなもので。

 しかし、それをしっかりとジェフは聞き取っていた。


「彼女はドレスに僕の毛が付くのも厭わず、抱き上げた。猫の僕をみると、たまらないとばかりに綻ぶ顔が嬉しかった」


 それだけで?と思わなくもなかったが、シュニーにとってはそれが何よりも重要な事であった。

 猫に変わる、という呪いを受けて生まれてきてしまったシュニーには、人間と猫の姿、どちらも受け入れてくれる人ではないと駄目なのだ。

 五カ月ほど前にあった事件が頭をよぎる。

 しかし思い出すのも煩わしいので、愛しい人の笑顔で塗り替えた。


 それに、と付け加える。


「猫の僕には嬉しそうに触れてくるのに、人間の僕が触れようとすると、いちいち顔を赤くして恥じらうのが可愛すぎる……」


 あーはいはい、と片手を振りながらあしらうジェフ。


「あぁ、早く結婚したい。まだ十カ月も先だなんて耐えられない」


 カップをテーブルに置き、両手で頭を抱えるようにして大袈裟に嘆くシュニーを、ジェフは白い目で見つめた。

 シュニーとセレナは毎晩同じベッドで寝てはいるが、それ以上の踏み込んだ関係ではないらしい。シュニーは正式に結婚するまでは深い関係にはならないと決めているようだが、果たしていつまでもつのだろうか。

 毎朝愛する人の寝姿を見るだけの日々に、シュニーの自制心はなかなかのものだな、と真面目に思うジェフだが、そもそもそう言った状況を作り上げたのも本人であって、擁護できる事は何ひとつないのである。


「惚気てないで、そろそろ仕事をしてください」


 ジェフが急かすと、シュニーは渋々と言ったように立ち上がり、書類の積まれた机に向かった。


 今日は何時に帰れるだろうか。

 夕飯くらいはともにしたかったな、と項垂れながら、シュニーは積まれた書類を片付けていくのであった。


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