3話 日課
「セレナ様、もうまもなく昼食のお時間ですが……」
はっ、と顔を上げると、侍女のアリーが様子を窺うようにセレナを見ている。
猫の刺繍を進めるハンカチを片手に、つい最近まで置かれていた自分の状況を思い出していた。
アレストリアにきてからまだ二カ月も経っていないのだが、セレナは母国ハスールでの暮らしを随分と昔の事のように感じていた。
「ごめんなさい!ぼーっとしてました」
慌てて謝ると、大丈夫です、というようにアリーは優しく微笑んでくれた。
アリーはアレストリアにきてから、シュニーがセレナに付けてくれた侍女だ。
ハスールでは衣食住の管理をしてくれるメイドはいたが、王女という立場ながら自分付きの侍女という存在は持たせてもらえなかった。そのため、一日中他人に世話をされるというのは未だに慣れない。
王女らしく振る舞ったこともほとんどないセレナは、どうしても敬語で話しかけてしまうのだが、アリーは気にせず『セレナ様のやり易いようになさって下さい』と言ってくれた。
シュニーが気を遣ってくれたのか、アリーとは歳が同じであるが故に彼女もまだ若く、侍女として未熟な場面もあるが、そこがまたセレナに堅苦しさを感じさせない要因になっていた。
この先もっと仲良くなれたらいいと思う。
時計を見上げると、もうあと10分もしない内に正午になるという時刻だった。
ハンカチを受け取ったアリーがそれを棚に片付けるのを確認して、二人揃って部屋を出る。
シュニーの昼時の休憩を利用して、彼と一緒に昼食をとるのがセレナの日課だ。
お互いの予定が合わない時は各自で済ませるが、時間が合う時はできる限り共にするようにしている。
彼の執務室はセレナが生活している棟とは別の棟にあった。自室からだとそこそこ距離がある。今から向かうと、正午を少し過ぎてしまいそうだ。
シュニーは怒って不貞腐れるだろうか、それとも笑って赦してくれるだろうか、想像してセレナは苦笑した。
彼から居住棟に戻ってきてもらう事はない。始めはシュニーから来てくれていたが、忙しい彼に手間を掛けさせたくなくて、セレナが執務室に入る事を許可してもらった。
普段わがままを滅多に言わないセレナだからこそ、彼女が希望した事は出来る限り叶えてあげたくなるらしい。
中には譲ってくれない事も、もちろんあるのだが。それについては、今は忘れる事にする。
そうして時計の針が12時を通り過ぎた頃、目的の部屋へと到着した。
二度扉をノックすると、どうぞ、と中から返事がある。
「失礼します」
中に入ると執務机から離れたシュニーが、こちらの方へと歩いてくるのが見えた。
「すみません、遅れました」
「待ちくたびれたよ」
遅れた事を謝ると、シュニーは冗談を言うように肩を竦めて小さく笑った。
本当に怒っているわけではないようだ。事実、遅刻したのは数分である。いつもは間に合うように部屋を出てくるからか、いつもと違う状況を彼は楽しんでいるようだ。
「何か夢中になることでもあった?」
「そ、そう言うわけでは」
しどろもどろに答えると、彼はくすくすと笑って手を差し伸べてきた。
刺繍は上の空であったし、昔のことを思い出していたことはあまり言いたくなかったので、ごまかすように言ってシュニーの手を取る。
一瞬目が泳いでしまったが、彼は気付かないふりをして部屋の奥へとエスコートしてくれた。
窓際の一画には簡易的なテーブルセットが置かれている。セレナがこの部屋で昼食をとるようになってから用意してもらったものだ。
二人が向かい合って席に着くと、アリーがメイド達を呼びテーブルの上に昼食が並べられていく。
今日のメニューはセレナが大好きなチーズたっぷりのリゾットに、旬の野菜スープだ。食後にはデザートも控えている。
米は本来貴重な食材なのだが、アレストリアでは東方の国より仕入れた物を独自の製法で大量に生産、収穫することに成功している。
おかげでアレストリア国内では、米を使った料理はさほど珍しくはない。
だが隣国ハスールからやってきたセレナにとっては非常に珍しく、見たこともない料理がたくさんあった。
その中の一つがリゾットだ。これを初めて食べた時の感動は忘れられない。今では大好きな料理の内の一つである。
「セレナは本当に、リゾットが好きだね」
美味しい、が顔に現れていたのか、面白そうにシュニーが言う。
そんなに分かりやすかったか、とセレナは少し頬を染めた。
「そんなに幸せそうに食べていたら、誰だって気づくよ」
苦笑しながら言った彼の言葉に、今度は思いっきり赤面する羽目になった。
それと言うのも、ハスールでは食事はさほど楽しいものではなく、腹を満たせればそれでいいというような扱いであった。
ハスールは国土が狭いが故に食料自給率が低く、ほとんどの食材を外国からの輸入に頼っている。しかし周辺諸国はハスールに比べ物価が高く、国産品は比較的安価だが質が悪かった。
そのため他国から流れてくる新鮮な食材は王侯貴族にしか手が出せず、一般市民は国内でわずかに生産されている質の悪い品か、価格の低い輸入品に頼るしかない。ハスールの食の事情はかなり酷いものであった。
それでもセレナは王族なのだが、どうやら部屋に運ばれてきていた食事は使用人らが口にしていたものと同じだったらしく、味はとても簡素なものだった。
それには気付いていたが、当時は食べられれば何でもいいと食にこだわりがなかったので、さほど気にしてはいなかった。
でも今は違う。
アレストリアに来て、これ程新鮮で美味しい食事を体験してしまったらもう駄目だった。
食事の時間が毎回楽しみで仕方がない。特にスイーツなどほとんど口にした事がなかったせいで、一瞬で虜になってしまったほどだ。
最近は甘い物のとりすぎで、少し太ってしまっていないかと心配しているくらいである。
しかしそれもシュニーに言わせると、セレナは痩せすぎなので、もう少しふっくらしてしまっても全く問題ないらしい。
抱き心地も良くなりそうだしね?と言った、彼の意地の悪い顔は忘れられない。
そんな事を思い出しながらリゾットを食べ終え、少しするとデザートが運ばれてきた。
「わぁ」
セレナはまたしても顔――だけでなく、今度は声にまで出してしまう。両手を胸の前で組んで、スイーツを見つめる瞳はキラキラと輝いていた。
運ばれてきたのは生クリームがたっぷりと載ったシュークリームだ。シューを横に半分に切り、その間にクリームとみずみずしい苺が載せられている。さらに、振りかけられた砂糖が見栄えを引き立たせていた。
セレナがどこから食べようかと悩んでいる内に、シュニーは手づかみでぺろりとシュークリームを平らげてしまった。
二人の時は食事のマナーはあまり気にしなくて良いとシュニーは言ってくれたので、セレナもシュークリームを手で掴むとそのまま頬張る。
少し食べにくさを感じたが、それ以上の美味しさに気にせず口に入れていった。
ふと前を見ると、片手で頬杖を突き、少し首を傾けながらセレナを見ているシュニーと目が合った。どうやら、一生懸命シュークリームを頬張る姿を見られていたらしい。
透き通った水色の瞳が細められて、微笑ましそうな顔でセレナを見ている。
窓から差し込んだ陽光が、彼の何色にも染まらない真っ白な髪に反射して光る様は、ひどく神秘的だ。端正な顔立ちから作り出されたその笑みはとても艶やかで、直視したセレナの心臓は飛び跳ねた。
「な、なにか?」
「ん?かわいいな、って」
「……そういうこと、さらっと言わないでください」
「どうして?言いたい」
どうしてもこうしても恥ずかしいからだと抗議すれば、彼はふわりと笑って続けてくる。
「恥ずかしがる君を見たいから、言っているんだけどね?」
本当に意地の悪い。
でも、嫌じゃない。そこが悔しい。
そう思い項垂れていると、不意に彼の右手が近づいてきた。
突然のことについ指先を視線で追ってしまう。
シュニーの長い指が目の前まで来たかと思うと、そのまま親指の腹でセレナの下唇を撫でた。
何をされたのか分からなくて身体が固まる。
「クリーム、付いてたよ?」
ここに、と、シュニーは自身の唇を中指で指し示してから、徐に親指に付いた生クリームを舐めとった。
今度は思考が固まる。
たっぷり十秒は沈黙が続いた後、セレナの顔は沸騰したかのように真っ赤に染まった。
「な、ななな、な」
何を、と続けようとした言葉は声にならなかった。
シュニーは、またかわいくなった、と呟きながらくすくすと吐息を漏らしている。
セレナは盛大に落ち込みながら、紅茶を一口啜って心を落ち着けることに努めた。
彼は慣れているのか平気でこういうことをしてくる。その度にセレナは心臓が止まりそうになるのだが、心の奥底では嫌じゃないと思っている自分がいて、少し怖かった。
セレナにとって恋は初めてである。
そもそも年頃の男性にまともに触れた事すらなかったのだから、まだ16歳の少女にはシュニーとの生活は刺激が強すぎた。
毎日彼の腕の中で目を覚ます日々を送っていても、触れられるのは慣れないし、毎回ドキドキする。
シュニーに求婚されて、アレストリアに来て、なぜ彼が自分を選んでくれたのか分からなくて、最初は不安もあった。
初めてのことが多すぎて右も左も分からないセレナに、シュニーは一つ一つ丁寧に教えてくれた。
セレナの事が好きなのだと、彼は触れるそばから全身で愛を伝えてくれた。
そんな彼に絆されたと言えば聞こえは悪いが、気が付いたらセレナもシュニーを好きになっていたのだ。
この感情は嘘ではない。
セレナにとっては政略結婚であったが、始まりはどうであれ、今が幸せであるならそれで良いと思う。
紅茶をもう一口啜りながら、セレナは未だうるさい心臓を宥めた。
彼を直視する事が出来なくて空になった皿を眺めていると、シュニーがぽつりと呟く。
「あー……まいったな」
視線を向けると、シュニーは片手で眉間の辺りを押さえていた。
どうかしたのかと首をかしげると、また一言。
「やっぱり寝不足らし――」
最後まで言い切る前に、その声は途切れた。
あ、と思った時には、彼は目の前から消えていた。
否、消えたように見えてしまったのだ。
腰を浮かせ、シュニーが座っていた椅子を覗き込むと、そこには真っ白な体毛に覆われた水色の瞳を持つ猫がちょこんと座っていた。
困った顔とでも言うのだろうか、わずかに眉根を寄せて、ガラス玉のような水色の瞳がセレナを見ていた。
「あら」
やはり寝足りなかったのか、とセレナは昨夜の事を思い出す。
ここのところ政務が立て込んでいるらしく、シュニーは自室に戻ってくる時間が遅かった。そうなると必然的にセレナと過ごす時間が少なくなるわけで。
それを補うために、二人は夜更かしをしていたのだ。
セレナは早く寝たほうがいいとシュニーに言ったのだが、君と話す時間が短くなるのは耐えられない、と彼は珈琲で無理やり頭を覚醒させ、セレナとの時間を優先した。
その結果がこれである。
猫になったシュニーは少し視線を彷徨わせた後、溜息をつくように息を吐いた。
しょんぼりと小さく丸まった背中が、とても愛らしく見えてしまうのは仕方がない事であろう。
自業自得ではあるが、なってしまったものは仕方がない。セレナはシュニーの前まで行くと、そっと小さな体を抱き上げた。
そして、部屋の中央付近にあるソファーへと移動し、腰掛ける。シュニーはセレナの膝の上だ。
「まだ時間はありますから、少し寝てください」
セレナは猫の鼻先にちゅっ、とキスをする。
水色の瞳が一瞬見開かれて、すぐに視線を逸らした。
セレナはふふっと笑いながら、満足そうに白い毛を撫でる。
それから部屋の隅に控えていたアリーを呼び、ジェフに事の次第を伝えるように頼んだ。
シュニーの従者であるジェフは、主人が休憩に入るのと同時に食堂で昼食をとっているはずだ。
おそらく、まだ一時間以上は人の姿に戻らないだろう。休憩は延長である。
政務に支障をきたす可能性もあるので、ジェフに早めに伝えるようにお願いした。伝言が済み次第、そのままアリーにも休憩に入ってもらうように言う。
一通りの必要事を終え、シュニーに視線を向けると、彼は不貞腐れるようにして眉間に皺を寄せながら目を閉じていた。
それで眠れるのか?と思ったセレナは、シュニーの鼻先を擽ってみる。するとびくっと彼が体を揺らした。
「おやすみなさい、殿下」
優しく呟くと、彼は一瞬だけ目を開けてから、セレナの膝の上で丸まった。
そう言えば、今の状況はアレストリアに来て初めてシュニーと会った時と似ているな、とセレナは懐かしい記憶を思い起こす。
初めて見た彼の猫の姿はとても神秘的でいて、そして、とても可愛らしかった。
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