天体観測─鳴瀬里菜編─
人には時に、思いもよらない縁というものがある。
まりながパートで働いていたワッフル屋のキッチンワゴンに常連として来ていたのが健で、いい大人の男が独りでワッフルを毎週買いに来るので、まりなが気になって声をかけたのが馴れ初めであるのだが、今となっては懐かしい話であったらしい。
健の五歳上のまりなには
まだ頑も是もつかなかった頃に桜子の父親となった健は、桜子を自分の子のように可愛がることしきりで、高校へ入る際に桜子が、学校への提出用に戸籍を役所で取るまで、健と血の繋がりがなかったこと自体が分からなかったほどである。
しかし。
高校の入学式にまりなの姿はなく、
「まりなが退院したら、三人で写真を撮ろう」
と健は、まだ雪の残る校舎の背後の手稲山を見ながら言った。
桜子の女子高にはアイドル部という部活があり、桜子の担任の関口澪先生という若い女先生が、顧問をつとめている。
桜子本人はアイドル部には行かず、
──大好きな天体観測が好きなだけ出来る。
という理由で、天文部にいた。
アイドル部にいたクラスメイトの鳴瀬里菜とは仲が良く、
「桜子のママの旧姓も鳴瀬なんだ?」
と知ると、里菜はまるで自分の身内のように桜子と一緒に学食に行ったり、時にはアイドル部の部室へ桜子を招いたりもした。
アイドル部ではなかった桜子は、遠慮をしてか長居をすることもなく、
「里菜ちゃんが怒られるから」
と言い、すぐに天文部へ戻って行く。
一応、里菜がアイドル部の部長であることも桜子は理解していたようで、
「私みたいな地味なメガネっ娘がアイドル部の部室にいるのは不自然だからさ」
と述べた。
しかし里菜は、
「
と、初期メンバーであった長内藤子の話題を出した。
「国立競技場のライブの打ち合わせで初めて会ったんだけど、オーラが違ってたんだよね」
里菜はその印象を述懐した。
アイドル部の快進撃をテレビやインターネットで知る程度の桜子にすれば、輝かしい卒業生たちの話は画面の向こう側の話であったらしく、
「里菜ちゃんすごいな」
としか感懐は出てこない。
その里菜はあと少しで、国立競技場のライブという大舞台に立つ。
「桜子も見においでよ」
「でも交通費が…」
桜子はためらった。
お世辞にも裕福ではないし、まりなの病気の件もある。
健に打ち明けようにも出来るはずがなく、
「ごめんね里菜ちゃん」
申し訳なさそうに、深々と頭を下げて桜子は謝った。
帰りに病院に寄って、その日の出来事を話すのが桜子の日課となっていたが、この日は「大して話すことはなかったよ」とまりなを気遣ったのか、里菜の話題は出さなかった。
何日かして、桜子から退院の手伝いを頼まれ、まりなの病室に里菜が来たことがあった。
「アイドル部の部長さんだから忙しいのに、なんかごめんなさいね」
「大丈夫ですよ、いつも桜子にはノート借りたりして助けてもらってますから」
リハーサルや打ち合わせで授業に出られない日に、里菜は桜子のノートを借りて、授業に追いつこうとしている。
「元気になったら、まりなさんと桜子で国立のライブに呼びますから」
里菜は言った。
実は里菜には母親がいない。
「私が幼稚園のときに脳の病気で他界してて、だから親が大変な状態の子供がどんなことかってのを、私は分かるんです」
仲良くなってから桜子の事情を知った里菜は、それで部室に呼んだり、それとなく気にしていたらしい。
しかしその帰途、
「あのね里菜ちゃん…多分ママ、もう長くないと思う」
退院はしたが、状況が良くなったからではなかったらしいのである。
「…分かった。ライブに呼ぶのは身体に悪そうだから諦める。でも桜子にはお願いがあるんだ」
「お願い?」
「学生スタッフとして参加して欲しいの」
アイドル部で学生スタッフの募集をかけていたのは聞いていた。
「天文部には私から話すから、桜子…お願い!」
里菜は拝み倒すように桜子に懇願した。
さすがに断われなかった桜子は、
「部長さんに相談してみる」
とのみ述べた。
アイドル部からの要請、というのもあって桜子の件はすんなり許可が出て、
「これさえつけてあれば大丈夫だから」
里菜から渡されたのは、腕章と首から下げるパスであった。
「ママさんの代わりに、しっかりライブ見てね」
里菜はウィンクをしてみせた。
ライブの準備は多岐にわたり、桜子は撮影班を任された。
リハーサルの様子を写真で公式インスタやツイッターなどに上げる仕事で、桜子はメンバーの嘉勢ひかるというパソコンに強い部員と協力しながら、レッスンや振り付けの様子などをアップロードしていった。
もともと天文部で彗星の写真を撮ったりしていたのもあって、桜子のスキルアップは早く、
「もうさ、天文部からマネージメントに来る?」
などとコーチの乾美波から言われたりしたのだが、
「いや…私は天体観測好きなんで」
桜子は固辞した。
ハロウィンが過ぎて札幌に初雪が降った夜、
「容態が変わった」
という知らせで、まりなが病院へ運ばれたらしく、桜子が駆けつけると、
「…今夜がヤマらしい」
健は気丈に振る舞っていたが、桜子は膝から崩れ落ちた。
少し遅れて里菜が桜子を見つけると、
「桜子…大丈夫?」
桜子は何も答えない。
「…がんばれ、まりなさん」
私たちのライブを見て元気になって──里菜の願いは、夜明け前に断たれた。
里菜は泣き崩れる桜子に寄り添っていたが、
「ごめんね、授業行かなきゃならないから」
私がノート取って貸すから、と里菜は外へ出た。
陽射しが眩しい中、タクシーの車内では必死にこらえていたが、校舎に着いてトイレへ駆け込むと、里菜は声を殺して
一週間ほどして桜子が戻って来ると、里菜は制服の左腕に喪章を巻いていた。
「…里菜ちゃん?」
「アイドルがこんなときにどれだけ無力なのか分かったから、こうやって意思を示すしかないのかなって」
里菜なりに考え抜いた上での、精一杯の思いであったらしい。
「…いいんだよ、もういいんだよ里菜ちゃん」
桜子は静かに里菜の喪章を外し、みずからの左腕につけた。
「…ありがと」
これでアイドル部はいつもどおりになるよ──桜子は涙の跡もそのままに、微笑んでみせた。
ライブ当日。
国立競技場のバックヤードで、桜子を見つけた里菜は二人で写真を撮った。
まりなの小さな写真を手に、喪章を巻いた制服姿の桜子の隣には、ユニフォーム風のライブの衣装に身を包んだ里菜の姿がある。
「私たちは、ずっと友達だよ!」
里菜の文字でメッセージが書かれた写真は、はるかなのちに桜子の結婚式で使われるに至った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます