第19話 リルの毛繕い


「な、なあリル……街に来た時言ったよな、水浴びは別々でって」


「でも、背中が痒いし、尻尾は上手く洗えない」


 何度も何度も悩まされている運営のリアルに対する妄執的拘り。

 その一つが清潔度。いつの間にか身体が汚れるようになった。


 清潔度と表現したが、人間の生理機能一式全てが再現されている。


 もはや狂気だ。

 汗が出る時点でおかしいなと思っていたけれど、ヨルム村で厄介になって以来、村長にお湯を借りて、布で身体を拭いていた。

 街に来てからも変わっていない。


 ブラシを見てから、リルの中で並々ならぬ情熱が滾っているらしい。あるいは相当痒いのか。


 宿屋に戻ってからの彼女の動きは素早かった。

 邪魔するなら食うぞと言わんばかりの迫力で宿屋の主人に迫り、お湯と石鹸、布を入手して俺を引っ張り出してきた。


「そもそも、前はちゃんとしてくれてた」


「う、あれはだな……」


 契約魔獣との触れ合いの要素の中で水浴びというものがあっただけで、行為そのものに意味はなかったはず。

 ほかにもボール遊びとか、ペットゲーに要求されるものフルスペックで実装していた。

 

「狼の時だったら……」


「じゃあ、今なればいい?」


「待て待て待て、言葉のアヤだっ、ここだと洒落にならんっ」


 魔獣態と人間態の切替の主導権は、契約魔獣が握っている。

 こんな宿屋の裏手の水浴び場で魔獣態に戻ってみろ、大騒ぎになる。


「……毛繕いしてくれるって約束した」


「水浴びしてからだったらそりゃ」


「ううん、毛繕いは綺麗にするためのもの、水浴びも込み」

 

 理論武装をして反駁してくるだと。


「ごしゅじん、早く。お湯が冷める」


「ああ、もう分かった分かったからそんな勢いよく服を脱ぐな、隠すところは隠しなさいっ」


 ちょこんと木の椅子に腰掛けたリルの背中。

 髪を前に流して、真っ白い背中とゆらりゆらりと揺れる髪と同じ色の尻尾が良く見える。


 本当に汚れがあるのだろうかと思うくらい綺麗な背中だった。

 うっすらと入った背筋や背骨のラインが煽情的でそして下を見れば臀部が――思わず生唾を飲み込んでいた。


 いかんいかん。相手はリルだぞ。

 美人だが、美人なのだが、契約魔獣だ。

 俺に懐いている可愛い狼じゃないか。


「……なあ、やっぱり」


「くどい、ごしゅじん噛むよ」


 押しが強すぎる。きっと本気で噛まれる。

 昼間に噛まれまくったフォークや今朝の兎の生首を思い出して、身震いする。

 

「痛かったら言えよ」


「うん」


 ほかほかと湯気を立たせるお湯に布を付け、石鹸を泡立てる。

 慎重に彼女の肌に布を押し当てると、ぴくん、と背中が跳ねた。

 

「だ、大丈夫か?」


「ちょっとびっくりしただけ。続けて」


「おう……」


 力加減が分からないので適宜確認しながら、背中に泡を塗りたくっていく。

 人の背中を洗うのって人生初めてだ。

 しかもそれが女性の背中だなんて。

 いや、それは考えるな陽之。

 

「ひゃうっ」


「わっ、悪い」


「そこ、敏感だから気を付けて……」


 尻尾の付け根に当たってしまったらしい。

 そういえば前もこんなことが――邪念を振り払うんだ陽之。集中しろ陽之。


 変に意識し過ぎるから駄目なのだ。

 彼女の言う通り、狼の時のノリでやればいいのだ。

 黙々と背中に布を上下させ、尻尾は手で石鹸をもみ込む。


 ちょっとだけハスキーな彼女の声が一オクターブくらい高くなって、尻尾を揉み洗いするたびに口から漏れ聞こえたのは気にしない。


「よ、よし背中と尻尾は綺麗になったんじゃないか」


「じゃあ次はこっち――」


「――前は自分で洗えるだろっ」


 いきなり振り返ったものだから、目を逸らして泡布をリルに渡す。

 人間である今、手が使えるじゃないか!


「む……頭はやってもらうからね」


 渋々という形で、しゃこしゃこという音が聞こえる。

 そして、お湯をかけてほしいと言われたので、徐々にお湯を彼女の身体にかけていく。


 はふう、と気の抜けた声。

 リラックスしているのか。

 俺は気が張り詰めて仕方ないぞ。

 

「頭」


「はいはい、リルお嬢様……」


 主従関係というものは本来契約魔獣との間にはないのだが、いつもの立場が逆転しているような気はした。

 

「痒いところはないですかー、痛くないですかー」


「なにそれ」


「床屋……じゃないや、こうやって髪を切ったり整える場所での呪文」


「ふふふ」


 爪を立てないように、指の腹でリルの頭を洗っていく。

 獣耳が生えている以外は本当に人間のそれだ。


 耳の辺りは優しく触ってやる。

 ぴくぴくと震えるのがちょっと可愛い。

 

「リル、尻尾」


「わっ、ごめんなさい」


 よほど上機嫌なのか、無意識のうちに水を含んだ尻尾がたぽたぽ揺らされて邪魔をしてくる。

 

「……綺麗な髪だよな」


「私も気に入ってる、ごしゅじんがそういうならもっと毛繕いしてもらわないと」


「今日は特別だ、ちゃんと覚えろ」


「むう……じゃあ、ご褒美」


「ご褒美?」


「私が沢山狩れたら毛繕い。ひと山一回、分かりやすい」


 ひと山って……返り血で血塗れになっているリルを連想した。


「分かったよ」


「約束だから、縁の鎖に誓って」


 縁の鎖って、それ魔獣契約の時のフレーズ。

 そんなに大事か。

 

「ほら、流すぞ。目、閉じてろ」


「ん」


 残ったお湯を頭にかけていく。

 よし、これで綺麗になった。

 

「終わったぞ」


「さっぱりした」


「そうか、よかった」


 リルが立ち上がる――バサバサバサッ!

 突然、犬が身震いをするように髪や尻尾を振り乱し始めた。


「わっ、おまっ、犬じゃねぇんだから」


「む、犬じゃない。気高い狼」


「そういうこと言いたいんじゃなくて、あーあ、もうびしょびしょだよ……」


 尻尾の吸水量が尋常ではなかった。

 逃げ道もなく表面はずぶ濡れ。


 リルが振り返る。

 ぴったりと髪の毛が身体に張り付いていた。


「……ごしゅじんも水浴びしないとだよね、洗ってあげる」


「……! お前まさか」


「ごしゅじんにもご褒美あげないと。この身体なら一緒に毛繕いできる」


 何のご褒美だよ、と言う前にリルは風のようにその場を立ち去ってしまう。

 

「あ、おい服――」


 ――びゅんっ、と彼女が再び戻ってくる。

 そして服を掴んでまた消える。

 少しだけ成長が見えてなんだかほっとした。


「いや、どうすんだよ……」


 この場を離れるわけにも行かない。きっとリルはむくれる。

 ひゅう、と風が吹く。

 濡れてしまった身体には少々堪えるものでくしゃみが出た。



「ごしゅじんの身体、ごつごつしててちょっとどきどきした」


「言わないの、ブラシ止めるぞ」


「あう、それはだめ……あっ、そこ気持ちいい」


 部屋に戻ってベッドの上でしっとり、というくらいまで乾いてきたところでリルの髪や尻尾にブラシを通す。


 アクシデントはあったが、リルとついでにさっぱりすることが出来た。

 人に背中を洗ってもらうのって悪くないと思った。

 だが、煩悩は断ち切れそうにないので駄目。

 なんかリルの手つきが怪しくもなったし。


 ドライヤーなんて便利なものはないので布でとにかく水気を落とすしかない。

 古着屋で布切れをひとまとめで買っておいてよかった。

 尻尾の方はもう乾いている。

 いつもよりもふもふで触り心地が良すぎる。


「こうやって梳いてもらえるの、いつぶりだろう……」


「……これからブラシは毎日してやるさ」


 ふっと出てくる罪悪感。

 リルは気にしていないと言っていたが、俺の方が気にしてしまう。

 

「ん、楽しみ……」


 その時、かくん、とリルの頭が揺れた。


「リル?」


「ん……ごめん、気持ちよすぎて眠たくて……ごしゅじん……」


「おい、ちょっと」


 こてんと俺の胸にリルの背中が預けられる。

 すうすうと規則正しい寝息が聞こえる。


「どんだけ気持ちよかったんだよ……」

 

 顔を覗き込むと、随分と安らかな顔をして眠っている。

 このブラシ、睡眠付与効果とかあるんじゃないだろうな。

 あんまりにも気持ちよさそうに眠っているものだからつられて眠気がやってくる。欠伸が出る。


 隅に置いていたろうそくの火を消す。

 起こさないように、慎重にベッドに彼女の共々寝そべる。


 コイルスプリングなんて上等なものは入っていないだろう、硬くて弾みやしない、少し沈み込むだけの寝心地。


「こっちの夜は静かだよな」

 

 月明りだけ。

 耳を澄ませば、フクロウの鳴き声が聞こえてくる。

 人気なんて俺たち以外感じられないというくらい、本当に静かだ。


 東京は車の音が窓から良く聞こえて、時々夜間工事をして叩き起こされたこともあったのに。


「リアルはどうなってるんだろうな」


 俺の身体は今、どうなっているんだろう。

 もう日数を数えるのは止めてしまったが、ふと頭に過るタイミングがある。


「んん……」


 リルが身じろいで、俺の方に顔を向けてきた。

 

「……さみしいよ……置いてかないで」


 どきり、とするが、寝言のようだった。

 夜目が多少効くようになって、彼女の顔が顰められているのが分かった。


 夢を見ているのだろうか。

 リルはやはり――。


「俺はここに居るよ、ちゃんと居る」


 語りかけるように、慰めるように、囁く。

 そして、両手で彼女を抱きしめる。


 リルは小さい時、よく俺の膝に乗ったり、胸に飛び込んで来たりしていたっけ。

 でもレベルが上がって身体が大きくなってからは、のしかかられるくらいが精一杯だった。

 それでもすりすりと身をくっつけようとしていた。


 彼女は元々、寂しがり屋の甘えたがり屋だった。

 

「ごしゅじん、だいすき……」


 夢の内容が変わったらしい。

 また穏やかな表情で寝息を立てる。

 

「おやすみ、リル」


 石鹸の匂いに包まれて目を閉じる。

 



「……私は、ごしゅじんともう二度と離れたくないよ」


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