第4話「憎いお前が喰えたなら」

「『変なモノ』が出てきた? 壁から?」

 午後の業務はアクルの携帯電話に掛かってきた緊急連絡から始まった。


 のんびりとした冬晴れの昼下がり。年末調整も終えて事務方は一段落。会社にいつもいるメンバーはいつもより緩慢に生きていた。

 赤松は解体を依頼された工場についての資料を読んでから遠い目で窓の外を見ていた。かなりの難工事なのに依頼主がケチなので、殆ど利益の出ない見積を作る気になれない様子だった。

 イノリとアクル、そしてクエの三人は円柱型の石油ストーブで餅を焼き、干し芋を焼き、鍋でココアを練っていた。こちらもこちらで寒い月曜日はどうにも働く気になれない三人が冬限定の間食を楽しんでいた。幸いアクルに来客予定がある程度で、他に急を要する仕事は無かった。餅はイノリが食べ、干し芋はクエが食べ、ココアはアクルが飲む。「会社でストーブ出してきて餅焼いたの初めてです」「今日はもう仕事しなくて良いんじゃないか」「あったかいねぇ」なんて会話をしながらのんびりと過ごす。

 気を利かせたイノリが社長の分も、と餅を焼いていたところでアクルのスマートフォンが鳴った。会社から支給されているモノだ。この携帯に電話が掛かってくるということは間違いなく急を要する仕事の連絡だ。

 アクルはマグカップを置いて2コール目には電話に出た。現場に出ている作業員からだった。

「はい、ああ、斉藤さんどうしました?」

 席を立って赤松のところへ向かいながら彼女は電話を続ける。良くない話のようだった。

「……『変なモノ』が出てきた? 壁から?」

 アクルの声に赤松が振り返る。餅が焼き上がったので、様子見を兼ねてイノリは餅を運ぶ。

「お餅でーす」

「悪いな」

 イノリが恐々と「事故ですか?」と尋ねる。赤松は肩を竦めた。

「違うな。事故だったら俺に掛けてくるようにしてるから」

 彼の視線の先にいるアクルの顔は険しい。

「……そうですか、どんな感じになってるとか……あー、なるほど、両手を交差して、あー……分かりました。もう見なくて大丈夫です。外に出てください」

 アクルは諦めを含んだ表情で赤松に「社長、クエさん案件です」と告げた。社長は「マジか」と言い、ストーブの前で温まっていた老人を呼んだ。クエは「はーい」とトコトコやって来る。

「クエさん、今から出てもらいたいんだけど」

「大丈夫ですよ。でももしかしたら明日お休みを頂くかも知れません」

「いいよいいよ。一番大変な役回りなんだから」

 「詳細はアクルに聞いて」と赤松は言う。まだ彼女は電話で話していた。

「触った人は……あー、ベトナムさん達の他にはいない? じゃあその実習生達は別に確保しといてください。ええ、元請には触らせないで、警察も呼ばせんでください。理由は適当につけといて、なんか言われたら発狂したフリして乗り切るか社長に電話させてください。とにかく、クエさんが到着するまで現場に入らせないように」

 追い縋るような中年の声が電話口から聞こえてきたが構わずアクルは通話を切った。それから赤松達に説明する。

「廃ビルの解体で、作業前の確認をしていたら地下のフロアの壁が割れていたそうです。前日までは無かったと。別業者の施工班が何か埋まってるのに気付いて壁を少し剥がしてみたら、死体が出てきたと。半生みたいなミイラ。多分生き埋めだと思います。で、その死体が数珠と経典ぽいの握って両手交差させてると」

 「確実に障る系ッスね」というアクルの言葉に赤松とイノリは「げぇ〜」とリアクションし、クエは「あら〜」と苦笑する。

「じゃあ僕行ってきます。あ、何か持って帰らなきゃダメかな?」

 彼はアクルに尋ねる。彼女は腕組みして思案する。それから組み立てた憶測を口にする。

「多分、死体は四方の壁にあって……中央に本尊的なヤツがあると思います。本尊破壊しないと駄目でしょうね」

「じゃあ車のほうが良いよねぇ」

 すると赤松は「じゃあ尾上さん一緒に行ってやってくれ」と言った。イノリは急に指名されて「えっ」と驚いてしまう。

「あっ俺ですか?」

「うん。俺は今日のうちに見積出さなきゃいけねぇし」

「私は三時にリクルートと新卒の話をしなきゃなんで」

 赤松もアクルも予定がある。クエは既に免許を返納していた。専ら電車移動をしているクエの為に誰かが車を出さなくてはいけない。

 別にイノリは構わなかった。赤松が「なんかあったら明日休んで良いから」と言うのにかなり引っ掛かったが。



 クエを乗せて、イノリは問題の廃ビルへと車を走らせた。会社から車で一時間弱のところにそのビルはあった。

 新しく開通した、特急が停まる駅のある街。再開発計画が立ち上がり解体工事の案件も出てきた。赤松の会社が引き受けた仕事の中に、小さな雑居ビルがあった。


 その雑居ビルは新興宗教団体の持ち物だった。家賃収入が目的なのか、地下以外には最上階の四階まで居酒屋や台湾料理屋が入っていた。テナントは全て埋まっていたが、異常に入れ替わりが早かった。

 入っていた店の従業員が病気で休む、怪我で休む、傷害事件を起こす、人を殺す、自殺する、火を点ける。店の中でそんなことが起きるようになった。

 宗教団体が消えた後に残されたビルは日を置かぬ内に廃ビルとなった。不思議と、そのビルについての怪談は出なかった。


 クエが貰ってきたビルについての資料を読み聞かせてもらい、イノリは青い顔をする。そういう「噂の出ない場所」なんて曰く付きの極みではないか。

「あ〜怖い……怖いよぉ〜……死にたくない……」

「大丈夫だよ尾上くん。死んだら怖くなくなるから」

「ウワァーン! 優しい顔で怖いこと言ってくる!」

 そんな車中で到着した廃ビルの前には現場担当である斉藤が待っていた。

「あっイノリちゃん! クエさんも! 遅い! 遅いよ!」

「すみません斉藤さん。それで、あの……どんな感じですか?」

 四十過ぎの痩せた現場担当は滝のような冷や汗を掻いていた。口周りには涎の跡があった。

「さいやく、さいあくだよ。ベトナム達、胃の中全部出してひっくり返っちゃったよ」

 怖い単語ばっか聞こえてくる、とイノリが涙目でいると彼の後ろからひょっこりとクエが顔を出した。

「先に実習生くん達のとこ行こうか」

 斉藤は嫌そうな顔をしたものの、「こっちッス」と現場事務所の裏手へと案内する。

 事務所の裏に、ベトナム国籍の外国人実習生二人が蹲っていた。二人は母国語でぶつぶつと呟いている。

「あぁ、これじゃあもう駄目だねぇ」

 しみじみと老人が呟くのが一層の恐怖を煽った。クエは彼等に近寄る。そしてその痩せぎすの肩をぽんぽんと軽く叩いた。

「ハイハイ、大丈夫? 心配だなぁ僕。可哀想になっちゃうなぁ」

 彼がそんな風に声を掛けた瞬間、獣のような悲鳴を上げて実習生は飛び上がった。バタバタと手足を動かして逃げ出した彼等を斉藤が追い掛けていった。後に残されたのはクエとイノリだけだった。

「な、なんですか今の?」

「……元気になる魔法かなぁ」

「いや絶対違うでしょ」

 イノリの言葉は聞こえなかったことにしてクエはスタスタと先に行ってしまった。置いてかれまいと彼は追う。

「あ、尾上くん。コンクリ斫(はつ)るからピック借りてきてくれるかな?」

「えぇ? わ、分かりました」

 イノリは事務所で訝しげな視線を受けながら道具を借りてくる。それを持って、イノリ達は廃ビルの中へと入った。

 既に内装は取り払われていて、下地が露わになっていた。なんとなく、イノリには室温が低く感じられた。地下へと降りる階段は奥にあった。

 地下は壁がなく、ワンフロアになっていた。あるべきはずの柱は無かった。

「よくこんなモノ建てられましたね……」

 有り得ないというリアクションをするイノリに「多分設計したのも検査したのも同じムジナだろうね」とクエは淡々と返す。階段側の壁、その中央のコンクリートが剥がされていた。

 剥がされた部分に近付いて、見て、イノリは呻いて口を覆った。

割れたコンクリートから、ミイラが覗いていた。苦悶の表情を見せるミイラは交差させた手首を、何本もの釘で打たれて繋がれていた。その手にはボロボロの経典と、割れた数珠が強く握り締められていた。

 イノリは言葉も出ない。クエは「うーん」や「あららー」と間延びした声を出すだけだった。

 イノリ達の背後で、三方向から同時に「ばきり」と音がした。

 驚いたイノリは振り返る。正面、そして左右の壁の中央にヒビが入っていた。割れた場所からミイラが覗いていた。

 恐怖によって声も無く嗚咽するイノリに、のほほんとした声でクエは言った。

「あー……真ん中、剥がしてみよっか」

「俺、死んだりしません?」

「三割くらいの確率で生き残れるよ」

「低い! まあまあ低い!」

 半泣きのイノリだが仕方ない。「助けて社長」と祈りながら部屋の中央まで行き、コンクリートに電動ピックを当てた。激しい打突により硬い床は割れた。破片を退かせば、棺が現れた。

 ヒュッ、とイノリの喉が鳴る。脇に立っていた老人を見る。

「クエさん!」

「多分これが大元だろうね」

 出さないと、とクエが言うのでイノリは必要な分だけ床を砕いた。

 コンクリートの中から現れた棺は木製で、全長は1メートル程度だった。蓋には封印の札がベタベタと貼られていて、棺が開かないようになっている。

「……剥がさないほうが良いですよね」

「うん。僕等が剥がさなくても勝手に剥がれるよ」

「えっ?」

「うん?」

 恐怖で暴れ出さない自分をイノリは褒めてやりたかった。クエはスマートフォンを覚束ない操作で使い、どうにかアクルに電話を掛けた。現状を説明して対策案を話した。

「僕ん家持って行くのが一番かな。一人じゃ運べないから尾上くんに手伝ってもらって、うん。だから尾上くんも明日お休みで。はい、宜しく。元請さんには社長から連絡してもらったほうが良いかな。うん、はい。ご苦労様ですー」

 電話を切ってクエは「じゃあ運ぼうか。車に積んじゃおう」とイノリに指示する。

「あの、クエさん……説明して欲しいです俺」

 困惑と恐怖の最高値を更新し続けているイノリに、彼は「そうだねぇ」と少し考えてから答える。

「一緒に運んでもらう箱、触るだけで死ぬと思うんだよねぇ」

 それを聞いてイノリは今年一番の絶叫を上げた。



 車に棺を積み込み、イノリは道案内をしてもらいながらクエの家へと向かった。もう夕方近くになっていた。彼が家に「今日は帰らない」と連絡を入れると、同居している両親は心配したものの「頑張ってね」と言って終わった。

 チェーンのうどん屋で早めの夕食を取ったが、イノリは殆ど食べられなかった。うどんの味がおかしかった。普通の釜揚げうどんのはずなのに、どうにもドブのような臭いがする。不味くてとても食べられたモノではない。

 イノリの様子から察したクエは稲荷寿司を食べながら教える。

「ああいうのに触ると味覚駄目になっちゃうよね」

「アーもう嫌だァー……」

 泣いている彼に老爺は笑う。

「それなら会社の場所も最悪だよ。あそこ、確か処刑場じゃなかったっけ。よく『変なモノ』がいるでしょ?」

「心当たりしかないです」

 イノリは真顔で頷いた。年の功、という態度でクエはアドバイスする。

「寿命で死ねないからね、この会社」

 最早イノリは笑うばかりだった。クエは軽い雑談として昔話をしてくれた。

「僕、先代の社長、赤松くんの義理のお父さんの代からこの会社で働いてるんだけど」

「はい」

「僕の同期は全員もう死んでるし、知ってる後輩も大体死んだか手帳持ちになったよ。アクルさんが来るまでホントに酷かったなぁ」

クエは「命日をカレンダーに書いたら半分は埋まるな多分」なんてことを言いながら、苦笑いしている。

「ろ、労災ですか……?」

「あ、ううん。普通に変死」

 イノリは「変死は変死で駄目だろ」と思った。転職に関する何度目かの後悔をしている彼を放っておいて、クエはうどんの汁を啜った。

「会社を建てる場所は先代の親父さんが指定したんだって聞いたよ。凄い儲かるって御告げがあったとかなんとか言って。きっとその人も婿養子だったんだろうね。代々の社長の奥さんはみんなその手の人だったから」

「その手の人」

「なんて言うのかな、拝み屋さんていうよりは、もっとこう、行政指導とか出そうな感じの……」

「スピリチュアル系で行政指導は出ないんじゃないんですかね……」

 イノリの言葉に老人は「そうだっけ?」と首を傾げている。この人は終始こんな感じなのだと自分を納得させて、彼は聞きたかったことをクエに聞く。

「あの実習生達、結局どうなるんですか?」

 「助かりますか?」というつもりでイノリは質問したのだが、「多分明日か明後日くらいには部屋で死んでるんじゃないかな」という回答が返ってきた。「俺達もそうなりますか?」と聞いたら「どうだろうね」と半笑いで言われた。

「いやぁ、実習生くん達には悪いことしちゃったな」

「え? なんでクエさんが悪いんですか?」

「だって、僕のせいであの二人が死んじゃうからね」

 のんびりとした声が有線の流れる店内で不自然なほどはっきり聞こえた。イノリの喉が詰まる。クエは平然と食事している。

「な、なんでクエさんのせいで死んじゃうんですか?」

 じりじりと背中が恐怖によって焙られる。赤松といる時も怖いしアクルといる時も怖いが、

クエの場合は別種の恐怖を覚える。

 クエは彼の質問に穏やかな声で答える。

「僕の奥さんのせいだよ」

「お、奥さんのせいなんですか……?」

クエは彼の戸惑いに気付いていないのか話し続けた。

「彼女嫉妬深くてさ。でも今日はそのお陰で助かるかも知れないわけだしね」

 クエはそう言って手を合わせる。イノリも食べる気の失せた食事を片付ける。

「まあ、僕の家で一晩過ごしてみよう」

 老人の言葉にイノリは頷くしか無かった。



 クエの家は郊外の古い一軒家だった。二階建てで、純日本風の邸宅らしく門まであった。空っぽの車庫に車を停めて、二人は棺を下ろした。

 クエが車庫のシャッターを下ろしている間に玄関を開けて置いてくれと鍵を渡してきた。鍵を受け取ったイノリは古過ぎて無用心にも思える鍵を開け、玄関の引き戸を引いた。

「お邪魔しまーす」

 何気なしにそんな風に声を掛けた。すると奥から「どうぞ」と若い女の声がした。

「えっ?」

 イノリが戸惑っているとクエが声を掛けた。

「あれ、どうかした?」

「クエさん、一人暮らしでしたよね?」

 年末調整の書類を見ているので彼の家族構成をイノリは知っている。だからあのうどん店で戸惑ったのだ。クエに同居者はいない。離婚しており、子供達は既に成人して絶縁状態だと聞いている。

 クエは「そうだよ」とだけ答えて、棺を運ぶのを手伝うように言った。彼が暮らす古い家は広いが殺風景だった。家具は必要最低限のものしかない。二階は物置になっていると教えられた。

件の棺は一階の仏間に置かれた。イノリは部屋に置かれている大きな仏壇につい目が行く。仏壇は埃に塗れていた。供え物も花も無い。位牌は横倒しになったまま放置されている。とても手入れされているようには見えなかった。人の家のことでこんなことを思うのは嫌だが、イノリは「なんか、嫌な家だな」と思った。

棺を置いて、クエはイノリを居間に案内し、茶を出した。恐縮するイノリにクエは今後について説明した。

「今晩ここに居れば問題は無いから。怖い目には遭うけど」

「遭うんだぁ……」

「あと、僕は一人暮らしだから。誰かいても気にしないで。あと悪いけどお風呂は今日入らないほうが良いよ。怖いのが出るだろうから」

「もうずっと凄い怖いこと言ってくる……」

 半泣きのイノリをクエは宥めてテレビを点ける。酒は置いておくとすぐ腐るから、ということでイノリ達は茶を飲むしかなかった。



 夜の八時には布団を敷いて寝ることになった。あの仏間の隣が寝室だった。寝るまでに家のあちこちから物音が聞こえてきてイノリは恐ろしかった。

 クエと枕を並べてイノリは眠ることになる。物音がずっと聞こえてきて気になる。二階からだ。暗闇の中、隣の仏間に寝ているであろう「客人」も恐ろしかった。

「気になっちゃうよね」

 唐突に、クエが声を掛けてきた。真っ暗な部屋に声が聞こえた。イノリは「は、はい」と小さな声で返事をする。クエは苦笑していた。

「あの、ガタガタ煩いの、死んだ奥さんなの」

「えっあの、り、離婚されたって」

「うん。離婚して戻った郷でね。当てつけみたいに、結婚式の時に着ていた白無垢を着てね」

 ぽつぽつと、クエは語り出した。イノリは黙って聞いているしかなかった。

「僕とアレは見合いでね、結婚するつもりは無かったんだ。でもあんまりにも仲添えがしつこくてね」

 クエの話が進むごとに、物音が近付いて来ているようにイノリは感じた。二階でしていることが多かった物音が、階段の辺りからしている気がした。

「勝ち気、ってわけじゃあないんだけど。しつこい性質でさ。子供を二人も作ったけど、全然好きにならなくってさ」

 誰か、女のような、何かの足音が階段から降りてきた。それに加えて、仏間からも物音がし始めた。ばつ、ぶつ、と何かが破れる音がしている。イノリの頭の中に、あの棺の蓋に貼られている札が次々と破れていく想像が浮かんだ。

「結局、僕は仕事を言い訳にして家に帰らなくなった。女の子のいるお店に入り浸って、馴染みになった子と遊んで。アレはその度に泣いて喚いて、大変だったな」

 二人の寝ている部屋の前で、ずっと、何かが喋っているのがイノリには聞こえた。仏間からカタン、と軽い音がした。蓋を持ち上げる音にしか思えなかった。

「やんなっちゃって。僕も若かったから手が出ちゃって、そんじゃマズイって思って、殺す前に別れようって切り出した。強引に離婚届書かせたんだ。そしたら死んだんだよ」

 部屋の前にいた何かが襖を開けるのを聞いた。

「……くっ、クエさん、あの、あの!」

 襖のほうは見ないようにして、イノリは体を起こしてクエを呼ぶ。すると彼も上半身を起こしていた。安心したイノリだったが、クエが発した言葉に息を忘れるほど恐怖した。

「あ、お客さんにお茶出してなかったね」

 クエの視線が仏間へと向けられていることを、イノリは何故か闇の中で感じた。老人は仏間に向かって声を掛ける。

「おォーい」

 決して大きな声では無い。だがイノリはその声の虚さに総毛立った。

 仏間から、木の蓋が畳の上に落ちる音がした。

 イノリは自分の口を抑える。悲鳴が出て、自身が知覚されでもしたら恐怖に耐え切る自信が無かった。

 イノリ達のいる部屋と仏間を隔てている襖が空いた。足音がおかしかった。異常に、それの足は多かった。

「憎い……憎い……」

 若い女の呪詛が聞こえた。

 イノリは耐え切れず頭から布団を被った。クエの声が聞こえた。

「憎い相手が喰えたなら、お前は成仏するんだろうな」

 憐れみを含んだ声だった。それに合わせて女の啜り泣くような声が聞こえた。異常な足音は止んだ。イノリが「あれ?」と思った刹那に絶叫が響いた。何十人もの、男女の悲鳴だった。

 布団の中でイノリは身を硬くする。静かになった室内に、女の啜り泣きのような声が満ちた。彼は、やっと気付いた。女は啜り泣いているのでは無く、「笑いを噛み殺している」と。

 恐怖で肌が泡立つ。布団の外でクエの呟きが聞こえた。

「僕のことをまだ守るんだなぁ、お前は」

 絶対に違う、と思ったイノリの耳元で女の声がした。

「ちがうわ もっと ひどい目に 遭うから 生かしてるの」

 イノリは人生で初めて気を失った。



 翌朝。目覚めたイノリが携帯で時間を確認すると会社の朝礼を行っているはずの時間だった。横では既に起床していたクエがテキパキと布団を片付けていた。その顔は晴れ晴れとしていて彼は昨夜の話など出来なかった。

「あ、おはよう尾上君。良かったね、生き延びたよ」

 彼に気付いてクエは声を掛けてくる。イノリは歯切れの悪い返事しか出来ない。

「何か食べる? 一応食べられるものはあるけど」

 クエの問いにイノリは首を横に振る。なんだか具合が悪かった。肩が重くて、頭の中が曇っているような気がする。

「今日はもう、ちょっと……帰ります……」

「そっか。気を付けてね。お休みにしてもらってるんだから、ゆっくり休んでね」

 クエに礼を言って、イノリはその家を出た。「お邪魔しました」と玄関で声を掛けると「はぁーい」と若い女の声が返ってきた。

 イノリは逃げるように車へと乗り込む。がちがちと震える手で鍵を差し込んでエンジンを掛けた。ハンドルを強く握り締める。氷水の中に全身が沈んだような心地だった。悪寒が酷い。ゆっくりとレバーを動かして、車を発進させる。事故を起こすわけにはいかなかった。



 法定速度で車を走らせるイノリは会社を目指していた。使っている車は社用車だが、すぐに返さなくてはいけないというわけではない。イノリは家に帰るのが怖かっただけだ。クエの家にいた女が、ついてきている気がしてならなかった。幸い、会社までは三十分程度の道程だった。恐怖に耐え切れるギリギリの距離だった。

 「神様仏様赤松社長、どうかお助けください」と彼が祈りながら車を走らせていると、無人のはずの後部座席から女の声がした。

「あの男が 目を掛ける全てが 気に入らない」

 イノリの背に悪寒が走る。ハンドルを強く握り過ぎて両手から真っ白になる。アクセルを踏み込まないように歯を食い縛る。女の声は続ける。

「あの男が 気にする全てが 気に入らないの」

 女は完全に彼に向って話していた。怖くてルームミラーを見ることが出来ない。会社にはまだ着かない。信号に捕まる。

「あの男が 優しくする全てが 腹立たしいの」

 すぅ、と白い手が運転席の後ろから伸びてきた。女の手だった。爪が伸び切って、シミが浮んだ手だった。視界に入れたくなくてイノリは目を閉じた。怯える彼の首に冷たい指が巻き付く。白魚のような十本の指が、ぎゅう、と締め上げてくる。信号が青に変わる。

 声にならない悲鳴を上げてイノリはアクセルを踏み込んだ。法定速度のことは忘れてとにかく車を走らせる。その間に女の手は彼の首を絞め続ける。気道が徐々に狭まっていく。イノリは半泣きになりながら叫ぶ。

「幻覚! これは幻覚! 俺は今日も出勤! こんにちは労働おはよう労働!」

 オリジナル労働賛歌を歌いながら、イノリは車を飛ばす。女の手は相変わらず首を絞めてくるし、酸欠気味になっている気がした。彼はそれを意識から無理矢理除外する。ブラック勤め時代に培った技、「寝なくても元気になった気になる思い込み」の応用だった。流石に無呼吸には耐え切れず、社屋が見えた途端に意識を失った。



「もしもし、もしもし? 大丈夫ですか?」

 優しい声を掛けられて、イノリは目を覚ました。気付けば会社の駐車場に彼は立っていた。驚いて辺りを見回す。見知らぬ黒のレクサスの隣に、乗ってきたはずの車はきちんと所定の位置にバックで停められていた。そして隣には、美しい留袖姿の女が立っていた。長い黒髪をシニヨンに結った彼女は三十手前ぐらいに思える。美人画からそのまま現実へと踏み出してきたような彼女の手には弁当らしい包みがあった。

出で立ちは高級クラブのホステスのようだったが、イノリは彼女の姿を視認した途端に腰が抜けた。生きてきた中で、一番怖いものが目の前にいると思った。

女はへたり込んだ彼を見ても驚かなかった。なんだか納得しているような顔で、「ああ、新入社員か」と呟いた。

「セキショーくんのための『社畜』だっけ。囮役の貴方がいてくれるお陰でセキショーくんが楽しそうだよ、お礼を言わなきゃ。『巫覡』も仕事が楽になるだろうし。貴方がいれば話の道筋を立てるのに集中できるから」

 イノリを見下ろして彼女は何か話していた。恐怖で頭が一杯になってしまったイノリには一切分からない。

女は思い出したように自己紹介した。

「夫がお世話になっています。国定赤松の妻のリセと申します。今後ともどうぞ宜しくお願い致します」

 「リセ」という名前にイノリは聞き覚えがあった。以前アクルから聞いた、「スッゲーおっかねぇ」赤松の妻の名前だ。何か返事をしなくては、と彼は思うが上手く舌が回らない。縺れる舌を噛む。気持ちが急く。彼女の機嫌を損ねたくなかった。

 リセはイノリを少し眺めていたが、飽きたのか「じゃあ中に入ろうか」と声を掛けた。

「尾上さん、腰抜けちゃったみたいだね」

「ひ、は、はひ、はい……」

「あはは、立て」

 底冷えする声に命じられて、イノリの体は一瞬で直立した。彼にもどうして自分が立ち上がったのか分からなかった。

「じゃ、行こうか」

 先に歩き出したリセに従ってイノリも歩き出す。なぜリセを見ると自分が恐怖の極限に追いやられるのか分からないが、それを問うのも怖かった。「この人に命を握られている」と直感的に思うだけだった。

 会社に常駐している赤松達が詰めているフロアに二人が入ると、やはり赤松とアクルが出勤していた。扉を開けて入ってきたリセを見て席にいた赤松達は酷く驚いていた。

「セキショーくん、弁当置いていったでしょ? 持ってきてあげたよ」

 微笑むリセに赤松は顔面蒼白になって駆け寄る。

「マジですいませんしたァッ!」

 勢いそのままに跪いて弁当を受け取る夫に、彼女は優し気な微笑を湛える。

「二度とするな」

「ハイッ! しませんッ!」

 イノリはあの赤松が平身低頭しているのを見て戦慄する。あの暴力の化身みたいな男が、自分より年下であろう妻に平伏している。怖くて目を逸らすと、席で硬直していたアクルと目が合った。そろそろと夫妻から離れてイノリは彼女に近付く。

「あ、あの、アクルさん、大丈夫ですか?」

「…………いや、あんまり……あの人怖いから」

 アクルがそう言った途端にリセが彼女を見る。それだけでアクルの息が止まった。

「新入社員、『持衰』の家から女連れで此処へ来ていたよ。私を見て消えたけど」

「す、すみません……」

 アクルが掠れた声でリセに謝罪する。それにリセは「良いよ良いよ」と言いつつも釘を刺す。

「説明くらいしてあげなよ。あの家の女は嫉妬深いんだって。『持衰』は身代わりにしかならないんだから」

 空気がどんどん冷えていく錯覚をイノリは覚える。アクルがガタガタ震えているせいかも知れない。

「はい……」

「な、なありっちゃん! さっちゃんはどうしたんだ?」

 空気を読んだ赤松が妻の意識を無理矢理引き戻す。問われたリセは彼のほうに向き直った。

「? お父さん達のところ。私これから琴のお稽古行ってくるからその間だけね。娘の心配するなんてパパらしくなったねー」

 よしよし、と上機嫌でリセは背伸びして赤松の頭を撫でている。撫でられている赤松は嫌そうな顔をするが逆らわなかった。

 満足したのか、リセは「お騒がせしました」と帰っていった。恐らく彼女が乗ってきたであろう車のエンジン音が聞こえ、遠ざかったところで三人はやっとちゃんと息ができた。どっと倒れ込む赤松、机に突っ伏すアクル、床にしゃがみ込んだイノリ、全員が同じ音量で溜息を吐いた。イノリは赤松に言った。

「社長、奥さん超怖いッスね……」

「だろ? 俺もすっげぇ怖い……」

 「でも俺の奥さんなんだよ」と赤松は言うので、アクルは失笑し、イノリは苦笑すら出来なかった。








4話 完

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