第3話「明くる朝には皆死体」

 ふと、アクルは深夜に目を醒ました。鈍い頭痛がする。窓の外で雨の降りしきる音が聞こえている。このところ夏の長雨が続いていた。クーラーの動作音が静かに響いている。ぼんやりとした視界に、テレビやDVDプレーヤーの電源を繋いだ延長コードから飛ぶタップの光が間接照明のように色を付けている。ズキンズキンと脳の中で血流が暴れ回っている。アクルは舌打ちをして、ベッドの枕元に置いてあるはずのスマートフォンを手探りで探した。指先に触れた携帯を掴んだ。時間を知りたかった。

 顔の前に持ってきたスマートフォンの電源を入れる。パッと顔の前が明るくなる。時刻は午前二時過ぎ。光源となっているスマートフォン越しに生気の無い男の顔が見えた。蛇の目が二つ、彼女の顔を見ていた。

 一瞬アクルは息を呑み、溜息を吐いて舌打ちした。そして携帯の電源を切って二度寝した。頭痛は大抵明け方まで続く。



 翌朝。アクルが出勤すると社長である赤松に、新入社員であるイノリを連れて客先へ行くよう頼まれた。

「悪いんだけどよ、ちょっと現場行かなきゃいけなくなったからよ、代わりに御中元置いてきてくれ」

「別の日じゃ駄目なんスか?」

「流石に当日ドタキャンすんのも気が引けるしな。それに向こうの都合も今日の午前中しか空いてねぇんだ。明日から早めの夏期休業に入るからって」

 アクルはそれを聞いて腕を組み、首を傾げた。ざらざらとウルフカットの黒髪が流れてピアスで埋め尽くされた耳殻が現れた。

「……人選については、意図ありません? 尾上さんだって一人でお使いくらい出来ますよ」

「え、なんかダメな子扱いされてません?」

 イノリの抗議はすんなりと無視されて、赤松は頬を掻いて「あー」と逡巡の後に応えた。

「我が家の『山の神』からのお告げだよ。『新人、怖い目に遭うから気を付けなよ』だと。俺は現場回りあって無理だからアクル以外っつったらクエさんだけど、クエさんは安衛協で一日埋まってるし」

 「悪いんだけど頼むよ」と赤松は手を合わせる。それを聞いてアクルは「じゃあ仕方ないッスね」と肩を竦め、イノリは首を傾げた。

 アクルとイノリは午前中に客先へ行くことにした。イノリは背広姿、アクルは事務服の上に作業着を羽織って出て行った。


 客先には駐車場が無いということで、少し時間は掛かるが電車で向かうことにした。幸い、駅から歩いて程近いところにあると言う。大きなターミナル駅で乗り換えるのだが、あまりこの駅を利用しない二人は出る出口を間違えた。巨大なターミナル駅は出口があまりにも多い上に改札も数多あるので、本来出るはずの改札の、よりにもよって真反対に出てしまった。イノリとアクルは「やってしまった」と天を仰いだ。

 気温が高いせいでイノリはジャケットを手に持ち、反対の手で御中元の入った紙袋を持たなくてはいけなかった。御中元の中身はビールなのでそこそこ重い。汗を流す彼とは対照的に、アクルは丈夫な布で作られた分厚い作業用の上着さえ脱がなかった。冷房が良く効いた室内にでもいるように平然と夏日の下に立っている。イノリはそれについてあまり深く考えなかった。

 目的とは真反対の改札に出てしまった二人だが、少し時間は掛かるが駅の周りをぐるりと回れば乗り換えられる。時間にはまだ余裕があるので、イノリ達は駅の外周を回ろうと歩き出した。ふと、イノリの足が止まった。何となく見ていた風景に、何となく違和感があった。「なんだろうな」と彼は辺りを見回した。

「どうかしました?」

 アクルは前を歩いていたイノリが足を止めたので訊ねる。彼は「いや、なんか」と曖昧にしか応えられないままにキョロキョロしている。駅の改札が見えた。ガラス張りの観光案内所。並ぶ券売機。多くの人が行き交う出口。ホームの壁際や、柱の傍には誰かを待っているらしい人の姿がある。特に珍しくもない光景。何かが変だ。

 イノリの視線が止まった。

 壁に背をぴたりと付けるようにして小柄な老人が立っていた。着古したポロシャツとチノパン。大きなボロボロのリュック。ホームレスにも思えた。老人は真っ白な頭を地面近くまで下げていた。腰を直角に曲げて。不自然なほど微動だにせぬまま。

 背中に悪寒が走って、イノリは思わず「うわっ」と声を漏らした。アクルは怪訝そうな顔をしている。

「なんです?」

「えっあ、いや、いやあの、なんか、あのおじさん変じゃないですか?」

「は?」

 アクルはイノリが見ているほうに目を向けようとして、途中で止めた。何かが彼女の上着の裾を引いたからだ。くん、とそう強くは無い力で裾を引かれた。アクルは顔を顰めてそれを意識しないように務める。頭痛が始まる。

「尾上さん、ソレ無視してください。ちょっかい掛けられても厄介ですから」

 アクルはイノリの腕を掴んで引っ張る。

「具合が悪い人だったらどうするんですか?」

「具合悪い人だったらもう少しリアクションしますよ」

 強く手首を掴まれたイノリは振り返った。そして悲鳴を飲み込む。

 アクルの右肩に、「人間としては大き過ぎる」男の手が乗っていた。腐った死人の手だった。

「あ、あく、アクル、アクルさん、かっかっ肩ッ」

「…………認識すると喜ぶんでそれ以上言わんでください」

 地の底を這うような声で答えるアクルの顔は真っ青だった。男の手はぐうっ、とアクルの肩を掴む。彼女はそれを無視する。

「尾上さん、そのおじさん、今どうなってます?」

 そう言われてイノリは老人を伺う。老人の頭が僅かに上がっていた。

「なんか、顔見えそうです」

「駄目なヤツですね。タクシー乗ります。多分ついてきますから」

 正直、イノリは老人よりもアクルのほうが気掛かりだった。ふらつかずに立っているのが不思議なほどに、顔色が悪かった。自分の手を引いている彼女の手はどんどん冷えていく。ひょっとしたら次の瞬間死ぬのではないかと思ってしまうほどに。

 心配するイノリを引っ張って、アクルは駅の正面にある道路まで行きタクシーを停めた。二人で乗り込んだ後は彼女が運転手に行き先の住所を告げた。イノリは、不安になって窓の外を見てみた。

 すぐ外にあの老人が頭を垂れて立っていた。

 イノリは口を塞いで悲鳴を上げないようにした。タクシーが走り出す。老人の姿は遠離っていった。

「こ、怖かった……」

 緊張が解けたイノリの体はぐったりと前へ倒れる。項垂れた彼は「これが社長の言ってたヤツかな」と思った。そしてアクルのことが心配だったのを思い出した。

「アクルさん、大丈夫ですか?」

 顔を上げたイノリは今度こそ「ギャア!」と悲鳴を上げた。

 隣に座るアクルの肩に男の手が乗っていて、ギリギリと彼女の肩を掴んでいた。生々しいまま渇いた爪が彼女の服に食い込んでいた。

 イノリは後退りしようとしてドアにぶつかった。アクルは未だに青い顔で窓の外を眺めている。今にも泣き出しそうな年上の後輩に、彼女は瀕死の状態のまま言った。

「尾上さん、なんか……適当に……駄弁っててください、かいわ、会話しましょう……気が紛れるから……畜生、うざってぇな……」

 凶相の彼女は死体の手と同じくらい怖い。そう思ってイノリは「あーあー!」と無意味に発声練習をしてから話し出した。

「そっ、そう、あのッ! やっ山の神! 山の神ってなんですか!?」

「ああ……山の神……山の神スね……」

 タクシーは速度を落とさず進み続ける。アクルが告げた客先の住所を目指して進んでいる。気怠げな彼女は返答する。

「山の神、というのは、『奥さん』の類語みたいなモンですよ……社長が使えば、社長の奥さんを指すんです……」

「なっなるほど~~! へ~~! 知らなかった~~!」

 タクシーは大通りから住宅や小さなビルが並ぶ通りへと入っていく。目的地まであと少しだった。イノリは恐怖に耐えながら会話が途切れないように続ける。相変わらずアクルの肩には男の手が乗っている。加えて、彼女の顔を真っ黒な影が覗き込んでいた。

「社長の奥さんかぁ~! 全然想像出来ないな~! でも料理上手ですよねぇ~!」

「スッゲーおっかないですよ、奥さん、リセさんは、いや、美人なんですけど、怖いんですよ……なんで人間の形してんだろって感じで……」

「へ~~! 社長みたいですね~~!」

「社長はホラ、元気なヤクザみたいなモンなんですけど……リセさん、下僕増やす系の神様みたいなんですよね・・・・・・尾上さん、社長の弁当、食ったでしょ?」

「あ、あ~! 前に確か、アクルさんが、『ヨモツヘグイ』って言ってたやつですね~! 俺あの後調べましたよ~! すごい食べちゃ駄目なヤツじゃないですか~!」

「尾上さん、変なテンションになり過ぎて目ェラリってきてますけど、大丈夫ですか?」

「全然大丈夫じゃないです! メチャクチャ怖いです!」

 タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。

「……私も、初日にあの弁当食べましたよ」

 アクルがボソリと呟いた。イノリが「そうなんですか」と返すと彼女は深い溜息と共に言葉を続けた。

「『黄泉竈食ひ』というのはその通りで、リセさんの手料理を食べると、リセさんの一族っつーか、使用人に数えられるみたいで・・・・・・強制的に従属関係が発生するんですよ・・・・・・トップがリセさん、次に社長で、以下愉快な下僕達になります・・・・・・」

「ほ、他に食べた人っているんですか……?」

 タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。

「いますよ。クエさんは嫁ガードがキツいんで食べてないって本人が言ってましたけど、新入社員の殆どに社長が食べさせてますね。リセさんの命令で。クエさんもかなりのモンですが、社長は輪を掛けた恐妻家ですよ」

「こ、こわ……」

「多分、尾上さんもリセさんに遭ったら分かります。スッゲーおっかねぇって」

 タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。

「…………あの、アクルさん」

 顔面蒼白で、滝のように冷や汗を流しているイノリは彼女を呼んだ。

「なんか、おかしくないですか? 現在進行形で」

 タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。

「尾上さん……気付くの、遅くないスか?」

 アクルは呆れたような声で言った。

「なんだったら、最初に尾上さんが叫んだのに、タクシーの運転手さんが反応しなかった時から変でしたよ」

「えっあっ」

 タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。

 イノリは泣きそうな顔で過呼吸寸前の状態に陥る。アクルは彼とは反対に現状に順応して、顔色も落ち着いた。肩に食い込む手や覗き込んでくる影は未だに煩わしい。煙草を吸えばすぐにでも追い払えるのに、と彼女は忌々しく思った。アクルは自分に付きまとう「それ」への対処が分かっている。

 タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。

「これだと、約束の時間に遅れるな……」

 アクルは諦めた心地で息を吐き、目を閉じた。

「アクルさん助けてください!」

 イノリが悲鳴を上げる。

 タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーが左折する。路地の端を歩いていた喪服姿の女性を追い越した。タクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーが。タクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーが。タクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーが。タクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーがタクシーが静かに停車した。

 イノリは「気絶したい」と心の底から願ったが、全く意識を失わない。喪服姿の女が後部座席の窓を覗き込もうと身を屈めるのがあまりにも恐ろしくて瞼を閉じることも出来ない。本能的に理解していた。「女の顔を見たら駄目だ」と。

 隣のアクルは落ち着き払って、まだ目を閉じている。

「どうか私達を助けて下さい。お礼に背中の皮膚を一部差し上げます」

 アクルが頭を垂れて祈る。すると彼女の肩を掴んでいた手は離れ、顔を覗き込んでいた影も消えた。

 イノリが「あっいなくなった」と思った次の瞬間、タクシーのフロントガラス一面に黒い何かが飛び散った。

「ギャアッ!」

「うわっ! な、なん、どうかしましたか?」

 叫んだイノリに驚いた運転手が振り返る。気付けば、タクシーは目的地に着いていた。心配そうに後部座席の客達を見ている運転手は親切そうな初老の男性だった。まだ心臓が跳ね回っているイノリは喪服の女が消えたことを察した。隣に座っているアクルが、痛みに耐えるような表情で料金を支払った。

「お世話様でした。ほら、尾上さん降りますよ」

 彼女に促されてイノリも降車する。走り去っていくタクシーに不審な点は何もなかった。イノリは安堵の溜息を吐き出した。

「こ、怖かった~……」

「最悪の行きずりでしたね。尾上さんがビビるせいで駅から着いてきたんですよ、アレ」

 アクルの言葉に彼はうんざりしたような顔しか出来ない。アクルは気分が落ち込む彼に気にしない。

「尾上さん、ちょっと見てもらいたいんスけど」

 そう言って彼女が上着を脱ぐ。制服である長袖の白いシャツと黒いベストに包まれた背中をイノリに向けた。言われて見たイノリは、アクルの着ているシャツに赤い染みが出来ていることに気付いた。染みは徐々に大きくなっていく。

「えっ!? アクルさん怪我してますよ!? どうしたんですか!?」

 彼の言葉を聞いてアクルは「あー」と項垂れる。上着を羽織り直して、彼女は「やれやれ」と頭を振る。首を曲げてバキバキと音を立てる。

「取り敢えず、御中元の挨拶済ませて、帰りましょう。帰りはタクシー使いますか。電車乗るの怠いんで」

「えっ? いや、いや教えてくださいよ怖いから!」

 アクルが舌打ちする。それだけでイノリは黙る。

「長い昔話になるんで、会社帰ってからにしましょうか」

 彼女はそう言って、煙草を取り出して銜える。火を点けたピースは深く吸い込んだせいで一気に短くなる。アクルは白煙を吐き出しながら客先のチャイムを鳴らす。


 アクルは今でさえレンズの分厚い眼鏡を掛けて耳にピアスを大量に開けているが、入社当時は裸眼で、耳も綺麗だった。酒も煙草もやらなかった。声が男のように低いのは元からだった。生育環境のストレスに因るものだった。

 有り触れた境遇だが、アクルはゴミのような家庭環境に生まれ、暴力と面罵によって育てられ、殺される前に家を捨てた。高校の時は寝る間を惜しんで日雇いと勉学に励み、資金と奨学金と学校推薦を得て大学に進学し、給与と福利厚生の面に引かれて「国定興業株式会社」に入社した。身元保証に関して殆ど確認されないことも就職の決め手だった。それと、自分の顔写真を見ても書類選考で不合格にしなかったことも。



 面接試験の時、社長だという男一人だけだった。まだ三十過ぎの男で、顔には左眉から目尻に掛けて傷が走っていた。ガタイの良いチンピラのような見た目をしている社長は「国定 赤松です」とニコニコしながら挨拶した。強面だが人の良さそうな雰囲気を纏った彼にアクルは一先ず安心した。履歴書を渡して、面接が始まった。

「じゃ、自己紹介お願いします」

「阿久留…………アンナマリアリーゼロッテです」

「……んん? アンナマリ……? ん? 履歴書の名前、四字熟語書いてあるけど?」

「四文字熟語の『翼覆嫗煦よくふうく』と書いて、読み方は『アンナマリアリーゼロッテ』です。履歴書に書いてある通りです」

 赤松は「へぇ~こういうルビの振り方あるんだな~」と何故か感心している。アクルはこういったことに慣れていた。子供を殴るのが趣味の親なので、変な名前を子供に付けても仕方が無い。赤松は「俺も寺の子供に生まれたから珍しい名前なんだよ」と笑った。

 大学での専攻を聞いたところで社長は頷いた。

「じゃ、採用っつーことで」

「え?」

「え?」

「いやあの、なんかこう、もっと、質問事項があるものじゃないんですか?」

 アクルの疑問に赤松は首を傾げる。

「そうなのか? ウチはいつもこんな感じなんだけど。働く意思があるタイプと逃げ場が無いタイプは大体採用してる」

 ついでのように「他に受ける予定ある?」と赤松が聞いてきたのでアクルは「御社が第一志望です」と返した。「その採用基準はちょっと駄目なんじゃないだろうか」と若干引いた彼女だが採用して貰えるなら助かると思った。恐らく此処以外何処も受からないだろうとも思った。

 赤松は少し言い淀んで、アクルに訊ねた。

「あー、ちょっと聞くのも申し訳ないんだけど、どっか体悪いとことかある? 事故に遭ったとか?」

 アクルは咄嗟に自分の顔を右手で覆った。もう片方の手は背に隠した。彼女の手袋に包まれた左手は捻れていて、幾つかの指は普通より短かった。子供の時に回転するミキサーに親が無理矢理手を突っ込ませたからだった。

「すみません。ちゃんと化粧したつもりだったんですが」

「あ、いや別に顔の傷がどうとか手がどうとか言うつもりじゃ無かったんだ。無神経な聞き方したな、謝るよ。単に仕事の割り振り気を付けとこうって思っただけなんだ」

 赤松は「やってしまった」という顔をしていた。申し訳なさと罪悪感と自身への叱責が入り交じった顔をしていた。彼の態度を見てアクルは彼を「変に分かり易い人だな」と思った。文章に脚注を付けるように、自分の感情をいちいち態度や口に出して周囲に知らせて来る。さながらパントマイムのように。

 パッと見た時の印象が「チンピラ」だから敵意が無いことを大袈裟にアピールしなくてはいけないのだろう、とアクルは若干失礼な納得の仕方をした。

気を取り直してアクルは「大抵の事務仕事については問題が無いこと」「左手、両手では物を持てないこと」「元は左利きだが右利きになったこと」を話した。家庭環境のことは実家に帰る意思が無いこと以外何一つ話さなかった。

 採用ということで赤松は書類の手続きをしながら会社の制度などを説明してくれた。詳しい内容を聞いてアクルはある程度ブラックなことを覚悟した。福利厚生については家賃補助が管理費込みで十万円まで出て、引っ越し費用も出してくれるらしい。これは何か裏があると思わざるを得ない。

 そんなアクルの覚悟は入社初日に揺らぎそうになった。



 入社初日。定時が八時半と聞いていたのでアクルは早めに会社へ向かった。制服としての事務服はあるものの、好きな服装をして良いと言われていたので市販で一番大きいマスクで目元近くまで覆って出勤した。

 定時の一時間半前に会社に到着したアクルは玄関の前まで行って、男が立っていることに気付いた。男は酷く汚れた作業着を着ていた。

 大きな声を出さなくても話し掛けられそうな距離に近付くまで、視力は良いはずの自分が、見通しの良い会社の玄関前に立っている男に気付かなかった。その事実にアクルは「なんでだ?」と思った。どうして自分は気付かなかったのだろうか。

訝しむアクルだが男に声を掛けた。同じ新規入社の人間か、もしかしたら先輩社員かも知れない。

「あの、すみません」

 アクルが声を掛けると男はゆっくりと振り向いた。

 振り向いた男は顔がドロドロに崩れていた。だらりと垂れ下がった眼球でアクルを見た。

 明らかな死体と対面したアクルの第一声は「うおっ!?」であり、感想としては「気持ち悪ィな」だった。彼女が後退ると、作業服の男は開いた分だけ距離を詰めてきた。新入社員への悪戯かと考えたが、男はどう見ても死んでいる。理解の追い付かないアクルは眉を寄せる。男はまだ近付いてくる。伸ばしてくる手に蛆が這い回っていた。

 不快感からやって来る忌避の感情に従ってアクルは逃げようとした。彼女の腕を男は掴んだ。冷たい、湿った肉の感触がした。不快感がアクルの背を駆け上ってきた。瞬間、アクルの脳は怒りに煮えた。

 衝動的に怒声を吐こうとしたアクルだったが、彼女の喉から声が出る前に横槍が入った。何かが顔の横を掠めて飛んできた。猛烈な速度で飛んできたのはコンクリートブロックで、男の溶けた顔に激突し、それにより男の頭は水気を多く含んだ音を立てて弾けた。頭を失った体は倒れた。

「…………なんだこれ」

「おっ! 朝早いなぁ!」

 背後、即ちブロックが飛んできた方向から聞き覚えのある声がした。アクルが振り返ると赤松が立っていた。彼は快活な笑みを浮かべて歩いてきた。

「まだ全然時間早いぜ? どうした、眠れなかったのか?」

「えっあの、いや、ちょっと説明してもらいたいんですけど」

 アクルがあまりにも普通に訊ねてくるので赤松は目を瞬かせた。頬を掻きながら、彼女の隣を通り過ぎて倒れたままの首無し死体を思い切り踏み付けた。熟れた桃が潰れるように、汁っぽい何かを飛ばして死体は黒い靄となって消えた。赤松は「きったねぇな~」と悪態を吐いて靴底を地面に擦り、アクルを見た。別人のような顔をしていた。

「見えたか?」

 アクルは雇い主の足下に目を向ける。風に流されたのかもう何も残っていなかった。少し考えて、アクルは返した。

「さっきまで其処にいた、『何か』のことを言ってるんですか?」

「おっ、やっぱり見えてたか!」

 赤松は元通りの明るい顔で喜んだ。困惑が続く新入社員に、中に入るよう彼は促した。



 業務の説明がてら、赤松は雑に説明してくれた。アクルを除けば会社に常駐しているのは赤松と労安のクエという社員の二人。今日はクエが夜勤明けで午後から出勤してくることになっていた。朝は大抵いつも何かよく分からないモノがいるので、赤松は誰よりも早く出勤して始末しているらしい。他にも現場に出て悪さをするモノがいたり、元々其処にいて邪魔をしてくるモノがいる。その度に赤松は出張っていって殺すのだそうだ。この辺りまで聞いてアクルは「うーん、会社辞めたいな」と思った。

「まあ『殺す』って表現が正しいのか分かんねぇけどさ」

 昼休みになって赤松は大きな重箱の弁当を広げながら言った。かなり量の多い弁当だが社長一人で食べる分では無いらしい。アクルは打ち合わせスペースにあるテーブルに座らされ、綺麗な紙皿と割り箸を渡されて赤松の弁当を勧められた。

見知らぬ誰かの手作りに抵抗は無かったので、アクルは促されるままに唐揚げを取って食べた。味覚が鈍麻している彼女は義務的に「美味しいです」と言った。赤松の視線が少し気になった。アクルが怪訝な顔をしていると赤松はすぐに人の良さそうな顔になる。

「嫁さんの弁当、旨いか?」

「はいとても。優しい奥さんですね」

「凄いぞ、食ったヤツは言うこと聞くしか無くなるんだ」

「えっ?」

「悪い意味で『胃袋を掴む』んだよなぁ。黄泉竈食ひみたいに、食った人間の根本に影響するんだ」

 アクルは箸を置いた。胃に入れたモノを全て吐き出したくなった。アクルの内心を察したのか、赤松はニヤニヤと嫌な顔をしている。

「『意味分かんない』とは言わないんだな」

「朝のアレ見たら、何言われても否定出来ないッスね。黄泉竈食ひが出るとは思わなかったッスけど」

「おっ! オカルトに詳しかったりするのか?」

 機嫌の良い赤松の問いにアクルは「まあまあ」と答える。現実逃避の先がインターネットだった。様々なコンテンツの中でアクルの興味を引いたのがホラー関連で、感情が鈍くなったアクルの精神に刺激を与えてくれるものだった。お陰で若干詳しくなっていた。

 機嫌良さげに赤松は言う。

「今日の夕方ってなんかあるか? 残業頼みてぇんだけど」

「…………残業って言うのは」

「一緒に解体予定のビル見に行こうぜ。曰く付きなんだ」

 アクルは「嫌です」と言いたかったが、先に赤松に言われてしまった。

「行くよな?」

 有無を言わせぬ強制力を伴った問いに、アクルは素直に「はい」と答えていた。弁当を食べなければ良かった、と思った。



 そして定時になり、アクルは赤松に連れられて解体予定のビルに連れて行かれた。助手席でげんなりしているアクルは赤松に訊ねる。

「で、どんな曰くがあるんですか?」

 車が走っているのは地方都市の大通りで、明るいし人通りも多かった。心霊スポットがあるとは思えない暢気な街に見える。赤松はパーキングを探しながら答える。

「なんかよ、首無し男が出るんだと」

「首無し男」

「そんで出会した人間に『俺の首は何処だ?』って迫ってくるっていう」

「迫ってくる」

「確かにだーいぶ昔に殺人があったっていうんだ、そのビルでな。ヤミ金が入ってて、その債権者だか貸してたチンピラだかが殺されて首切られて、で、ソイツがビルに出るんだと。お陰でビルのテナントはどんどん出て行って廃墟になって、とうとう解体することになったわけだ」

「殺人」

 コインパーキングがあったので車を駐めて、二人は件のビルへと向かう。懐中電灯を持った赤松が、もう片方の手にバールを持っているのがアクルの不安を煽った。

 進むに連れて、歩いている道路の幅がどんどん狭くなっていき、街灯の数も少なくなっていく。歩きながら、アクルはあれこれと考えていた。

「なんで、首が無いのに『首無し男』なんスか? いや、服装見れば分かるってのはありますけど」

「あー、全裸なんじゃねぇの? 知らねーけど」

 赤松は話の細部にあまり興味が無いらしい。「全裸は嫌だな」とアクルが思ったところで、前を歩く男の足が止まった。

「此処だな」

 言われてアクルが立ち止まり見上げると、如何にもな廃墟ビルが建っていた。六階建ての、隙間に建てられたような細いビル。風雨と排ガスで汚れた壁のビルは、既に窓ガラスは全て外されていて人の気配は無い。完全に死んでいるビルだ。

「…………で、何階に出るんスか?」

「知らねぇ。四階とかじゃねぇの?」

「雑ッスね」

 目的の階が曖昧のまま、赤松は施錠されている扉を開けてビルの中へと入った。アクルは近所のガキ大将に付いていく気分で彼の後を歩いた。頭の中でどんどんビルに出る「首無し男」の想像が膨らんでいく。もしかしたら全裸で、四階にいるかも知れない、「俺の首は何処だ」と言って迫ってくる幽霊。アクルは帰りたくなってきた。

 懐中電灯の光が照らすビルの中は埃だらけで、窓にガラスが無い為か、フロアは砂塗れだった。風の波紋しか無い砂の上に二人の足跡が残る。二人が歩く音だけがビルの中に響いている。

 階段を登りながら、彼女は赤松に訊ねた。目的の四階まであと少しだった。

「なんで私を連れてきたんですか?」

「俺だけだと出てこないんだよ。殴る気しか無いから察知されてんのかもな」

「…………もしかして殴りたいからこんなトコ来るんですか? あの黒い『何か』を? 私を囮にして?」

「俺の娯楽なんだよ。それにアイツ等いると仕事できねぇし。怪我人出たり人が死んだりするからな」

「娯楽て」

 頭痛がするアクルだったが、とうとう四階に辿り着いてしまった。赤松は彼女に懐中電灯を持たせる。

「いそうか?」

「いや分かんないッスけど」

 アクルはフロアの真ん中辺りまで進み、室内をゆっくりと照らす。人気は無い。ゴミは幾らか落ちているが室内は綺麗なものだった。廃墟と言えば馬鹿な侵入者の阿呆らしい落書きやら何やらがあるのだが、そういったものは無かった。施錠されているせいだろう、と納得することにした。

そうでもしなければ嫌な想像ばかりが思い浮かぶ。例えば「入って出会した途端にそんな真似も出来なくなる」とか、「出現する階は決まっていない」とか、「四階に着いたところで階段を上がってくる」とか。

 さっさと帰ろう。そう思ってアクルは少し後ろに立つ赤松に声を掛けた。

「いなそうです。もう帰りましょうよ」

 そう言ったところで、階下から誰かが上がってくる足音がした。

 驚いてアクルは階段の方へと懐中電灯の光を向けた。

 照らされた階段は口を開けた墓穴のようだった。其処から、足音が反響しているのが聞こえる。

「……私達の他に、誰か来ることはありますか?」

 懐中電灯が照らす先を面白そうに眺めている赤松に、彼女は恐る恐る訊ねる。男の答えは明白だった。

「いいや」

「最悪ッスね、マジで」

 うんざりとしたアクルの声に答えるように、男の声が聞こえた。

「俺の首は何処だ……」

 階段を登ってきたのは、首の無い、全裸の男だった。何処から声を出しているのか分からないが、「俺の首は何処だ」と言いながら、二人に向かってゆっくりと歩いてくる。アクルは近付いてくる『それ』を見て、思わず怒鳴った。

「来るんじゃねぇクソ露出狂が!」

 首無し男が戸惑ったように止まった。赤松はその男に向かって床を蹴って距離を縮め、バールを振りかぶった。「死ねオラ!」という怒声と共に振り下ろされたバールは首無し男の肩に当たった。人体から出てはいけない音がして、男は倒れた。赤松が高笑いしながら暴行を加えている。

アクルはそれを眺めながら「普通の傷害事件の現行犯みてぇだな」と他人事のように思った。

 矢鱈目鱈にバールを振り下ろされて、瀕死の首無し男を見てアクルは不思議だった。赤松がたまにバールを外して床に打ち付けたりするのもそうだが、あまりにも「そのまま」だったからだ。語られた通りで、かつ自分が想像した通りのモノが現れた。本当に「幽霊」なのだろうか。別の「何か」なのではないか。悪意を持って人を恐怖させて捕食するような、「何か」だ。アクルが好きなのはホラー映画であってモンスターパニック系では無い。

 全て空論だ、とアクルが自嘲したところで赤松が漸く首無し男にとどめを刺した。満足そうに一息吐く赤松に彼女は質問した。

「社長には、どう見えてるんですか?」

 アクルの問いに赤松は少し考えてから答えた。

「黒っぽい靄だな。雑魚は大体そんな風に見える。ちゃんと生き物みたいに見えるのはレアで、そっちのほうが殺りがいがあるんだよ」

「成る程」

 アクルは頷いて、赤松に言った。

「残業代付くなら、心霊スポットに行くの付き合います」

「おっマジか! まあ行かないっつっても連れてくんだけど」

「そんな気はしてました。なので、まあ良いですよ。気になることもあるんで」

 アクルは思考し続けることが好きだ。他に何も考える余裕の無いことを思考することが好きだ。今日目の当たりにした「何か」は良い題材だった。赤松は彼女が何を考えているのか気にもせず「よろしくな」と笑った。



 四度目の心霊スポット巡りでアクルは自分の考えを検証してみることにした。今回の心霊スポットは「古い団地」だった。会社から車で三十分程度走ったところにある、誰も住まなくなった低層住宅団地。既に日が暮れて辺りは暗くなっていた。

 車の中でアクルは赤松に頼んだ。

「社長、今日は説明無しでお願いします」

 赤松は首を傾げて理由を訊ねる。アクルは自分の仮説について話した。

「向こうは私達の認識に合わせてくるのかも知れないって思ったんです。あまりにも説明と似過ぎているのはおかしいですし」

「合わせてくるって、なんでそんなことすんだよ?」

「自分で色々設定考えるより元々ある話に乗るほうがハズレ無いでしょ、多分」

「そうだとして、それって俺等と関係あんの?」

 赤松はあまり興味が無いように疑問を返す。アクルはスマートフォンで掲示板の記事を眺めながら答える。

「ありますよ。『アレ』の説明がもし『誰にも見えないし触れない』だったら、社長に勝ち目が無いじゃないですか。『アレ』が適当にそれっぽく作った、勝ち目があるようなストーリーに乗ってくるようなヤツなら楽じゃないですか」

 赤松は「それもそうか」と納得し「それじゃ」とストーリーテラー役をアクルに振る。

「例えば?」

「あー…………例えば『ガスパン遊びをしていた女子高生が一服しようとうっかりライターで火を付けて引火、爆発。女子高生は四肢を失う羽目になり、最後は苦しんで死んだ。以来、芋虫のような姿の娘が現れるようになった』とか」

「なんでそんなエグい話思い付くんだよ……おっかねぇなぁ……」

 引いている赤松を意外そうに眺めて、アクルは言葉を返す。

「怖いって思ったなら十分です。多分ソレに反応するんですよ、『怖い』っていう感情に」

「お前の想像がおっかねぇっつってんだよ」

 「はははは」とアクルが無表情に笑う。車が停まったのは雑草が蔓延る、煉瓦で舗装された歩道の前だった。その歩道の先に、ぼんやりと並んだ低層アパートの影が浮かんでいた。懐中電灯はアクルが、バールは赤松が装備して二人は車を下りた。歩く人間がいなくなって久しい道を歩いて、彼等は灯りの無い団地へと入った。

 二階までしかないアパートが三棟、静謐なまま並んでいた。バールで肩を軽く叩きながら赤松は「で?」とアクルに問うた。

「芋虫女はどの棟に出るんだ?」

「そうッスね、あー、じゃあ、『団地に足を踏み入れた瞬間』で。覚悟決まってないから嫌じゃないですか」

 アクルがそう言って、一番近い団地の階段に向かって歩いて行く。ぐしゃぐしゃと伸びた雑草を踏み荒らしながら。赤松は彼女の先導に従う。懐中電灯で照らしながら、アクルは割れたコンクリートの階段に足を掛けた。

 何かの物音がした。

 アクルはじっと、上へと続く階段を見ながら言った。

「恐怖は人間の持つ、最も根本的の感情だそうですよ。私はそこら辺が鈍くなって大分経ちますが」

 「『アレ』にも伝わってますかね」と言うアクルに赤松は「俺よりはあるだろ」と返す。

 懐中電灯は踊り場の辺りを照らしている。階段は其処で折れて上へと続いている。その向こうから、何かが階段を落ちてくるような音が聞こえた。重量のある、水風船のような何かが落ちてくるような、どちゃ、どちゃ、という音が。

 アクルは一歩下がり、代わりに赤松が前に出る。赤松は期待を膨らませて「何か」が現れるのを待っていた。

「幾らでも『アレ』の解釈は出来てしまうんですよね。どうして連中はこっちを認識しているのか、とか。彼等は私達の恐怖心を関知してくる、つまり見えてるわけですよね。人間の色覚と犬の色覚の違いのように、私達には不可視の恐怖を見ている、みたいな。色で無ければ嗅覚とか」

 自分の気を紛らわせるためにアクルは話し続ける。そうしていないと怒鳴りそうだったからだ。「出て来るのが遅い」と、意味の無い怒声を暗闇に浴びせそうになっていた。

「じゃあやっぱり、俺はお前みたいなのがいないと駄目なわけだ」

 赤松が言う。その言葉に彼女は何とも言い難い気分になる。其処で漸く、待ち兼ねた「何か」が姿を現した。

 懐中電灯の光に照らされた踊り場に、どちゃりと何かの落ちる音がした。それは手足の無い、セーラー服姿の女の子だった。

 アクルは赤松に確認する。

「どんな風に見えてます?」

「達磨の女子高生に見えるぞ。マジで言った通りになったな!」

 ギャハハ、と笑う赤松が女子高生を見る。火傷で見るも無惨な顔になった彼女はどちゃどちゃと彼に向かって転がってくる。「うぅ、うぅ」と悲しげに呻きながら芋虫のような彼女は階段を落ちてくる。

苛立つアクルの気配を背後に感じて、赤松は遊ばずに、少女の小さな頭にバールを叩き付けた。破裂音がした。その音にアクルは不快感を隠さない。あっさりと終わった割りに、赤松の感想は良いものだった。

「雑魚でも人っぽく見えんのは良いな。ちょっと楽しくなる」

「なんスかそれ」

「人間をどうしてもブッ殺したい時にこれで我慢してんだよ。言ったろ? 俺の娯楽だって」

「えっ頭おかしいヤツじゃないスか。マジで人殺して捕まんないでくださいよ」

 アクルがそう言えば赤松は「俺はちゃんと法律分かるし倫理観もある」と偉そうに言う。アクルは「あーはいはいワロスワロス」と適当に流した。

 用も済んだので二人は帰ることにする。その道すがら、赤松が提議した。

「もしもよ、さっきみたいなのが俺にも適用出来たらどうなるんだ?」

「適用って言うと、例えば『社長は最強! 絶対に負けない!』って思ったら本当に強くなる、みたいな?」

「それか、俺が化物みたいになるか」

 アクルは「神様扱いする形になるんじゃないですかね」と答える。

「社長って、あの手の連中相手で勝てないって思ったことあるんですか?」

「そうだなぁ、廃寺とか、神社とか、神仏系にいるのは強いのが多いな。反撃してきてよ、怪我したこともあるぜ」

 「怪我して帰ると嫁が怒るんだよ」と赤松は嘆息する。アクルは推測を提示した。

「奉られてる系はそうなんじゃないですか? 人間の、敬う感情とか、畏れみたいなのが集まってるわけだし。こういうとこにいるのよか強いっしょ」

 アクルが「そういうトコ行く時は、私は留守番しときます」と言えば赤松は残念そうに声を上げる。

「楽しいぞ、きっと」

「いやぁ、やめときますわ」

 軽くアクルは断った。赤松もそれ以上誘わなかった。

 人生とは上手くいかないもので、それから四ヶ月ほど経った時に「曰くのある神社を解体して欲しい」と仕事がやって来た。



 夏日になったその日。アクルが出勤すると赤松が仕事で必要な書類の作成を頼んできた。資料として渡された見積を見て、アクルは「曰く付き」の案件だと気付いた。見積に記載されている諸経費の金額が、同規模の「普通」の案件より三倍近くある。

 労安のクエを交えて朝礼を終えた後に、彼女は赤松に確認した。

「社長、なんかヤバ案件ぽいスけど」

「それな、田舎にある神社の解体なんだわ。もう参拝客は殆どいないらしい。それで、解体して病院建てるって話が出たんだ」

 陸の孤島とも言うべき、車で二時間以上掛かるところに神社はあった。

「山の上にあるから最後はほぼ登山だな」

 山の上の神社、と聞いてアクルは何だか嫌な気分になった。「曰く付き」だからこの会社に話が回ってくる。山も神社も曰く付きだとしたら碌な目に遭わない。

「私は行かなくても良いッスよね?」

 彼女の確認に赤松は頷く。

「取り敢えず、元請さんも打ち合わせ行きたいって言ってるから俺だけで行ってくるよ。打ち合わせに行く程度で遭遇したことないけどな」

 赤松の電話が鳴り、電話に出る直前に彼は打ち合わせの日程確認をアクルに頼んだ。頼まれた彼女は、その土地の所有者でもある神社の宮司に打ち合わせの日程を確認するついでに、禁則事項も聞いておくことにした。見積に付箋が張ってあり、元請の希望日程や神社側に連絡が済んでいる事項が書かれていた。神社の宮司に繋がる固定電話番号も記載されていた。

 掛けてみると、すぐに壮年の男性が出た。アクルが名乗れば丁寧な挨拶が返された。やはり彼が神社の宮司だった。

「元請からも連絡があったかと思いますが、弊社の担当を交えて一度ご挨拶に伺わせて頂きたいのでご都合の宜しい日など教えて頂ければと」

 アクルがそう言えば宮司は幾つか希望する日を挙げた。その内から元請の希望に合う日を選んだ。

「では来週の金曜日にお伺いさせて頂きます。それで、山に入山するにあたって何か注意することはありますか?」

『…………出来れば、四人でお越し頂きたいのですが』

「分かりました。元請からは三名、弊社は社長のみでお伺いさせて頂きますので」

『その中に女性の方はいらっしゃいますか?』

 宮司の質問にアクルは首を傾げながらも、元請側の担当に女性職員がいることを伝えた。すると宮司の声はあからさまに明るくなった。

『神様に是非ご挨拶してください。お喜びになられます』

 宮司の態度に不安を覚えたアクルは電話を切った後、その神社について調べてみた。幾ら調べてもその神社について何も情報が出てこなかった。徐々にアクルの血の気が引いていく。これは「大当たり」の現場なのではないかと。それから思い直す。「社長には注意するだけしておけば良いか。自分が行くわけじゃないし」と。

 大間違いだった。



 曰く付きの神社へ打ち合わせに行く日。アクルは作業着を上下とも着せられて、ハイエースの後部座席に乗せられていた。

「私は行かなくて良いって聞いてたんスけど」

 地を這うような声を出すアクルに、赤松は弁明する。

「いやー、今朝ウチの嫁さんにお前のこと連れてけって言われちゃってさ」

「カカア天下なのは別に良いですけど巻き込まんでくださいよ」

「しょうがねぇだろ逆らえねぇんだから」

「ああ、胃袋的な意味で」

 長々と溜息を吐いて、アクルは伸びをして座席に身を預ける。自分が激したところでどうしようもないことは分かっている。アクルは諦めることにした。元請の職員達とは最寄り駅で待ち合わせをしていた。彼等を拾って、神社に向かうことになっていた。

 駅前のロータリーまで行くと作業服姿の人影を見付けた。四十過ぎの男と、二十代後半の青年と、アクルとそう歳の違わない若い女が揃いの作業服を着て雑談していた。赤松は路肩に車を駐めて彼等を呼びに行く。其処で名刺交換が始まってしまったのでアクルも慌てて下りてそれに加わった。

 一番年嵩で現場所長になるのが「戸川」、営業担当の青年は「井上」、現場研修中の女性社員である「白井」だと、元請職員達は名乗った。車に乗り込んで、何故かアクルは一番奥の座席に追い遣られ、隣には白井が座った。運転席の赤松は助手席の井上や後部に座った戸川と喋り倒している。心細さを感じるアクルは、白井が猛烈な勢いで話し掛けてきて即座に心を閉ざした。

「えぇ~アクルさんも現場管理の方なんですか~!?」

「アッイヤ今日ハ付添イミタイナモンデスハイ」

 白井は今時の可愛らしい若い女だった。長い艶やかな黒髪を後ろに纏めて、控えめながらも綺麗に化粧をしていて、清潔な香りが漂っている。この手の人間が眩しく見えるアクルは距離を急激に詰めてくる彼女に「うわっ」と心理的に引いてしまう。そんなアクルを知ってか知らずが白井はアクルが身を引いた分だけ距離を詰めてくる。

「アクルさん、マスクして長袖って暑くないんですか? あっ! 風邪とか引いてます?」

「アッイヤソンナンジャナインデ……大丈夫ッスハイ……」

「なんでずっと片言なんですか~?」

 あまりにも距離感の違う彼女にアクルは疲れ果てていたが、道中はまだ始まったばかりだった。

 漸く目的に到着した時は、思わずアクルは涙を流しそうになった。車の中で延々と白井のどうでも良い話を聞いたり根掘り葉掘り無遠慮になされる質問を躱したりし続けるのはあまりにも苦痛だった。。

 山の中腹は拓けていて、車を駐めることが出来た。其処に正装した年配の宮司が立っていた。黒袍に白奴袴、冠と、大祭で用いられる特級の正装だった。宮司は大きな花束を抱えて立っていた。アクルと元請職員達は戸惑ったものの、気にしないようにした。

 宮司は訪れた彼等の人数を数えて眉を寄せた。

「四人でお越しくださいと、お願いしたはずですが?」

 すかさず赤松が「いやぁ申し訳ない!」と前に出る。高身長でガタイの良い彼に宮司は怯んでしまう。「なんかマズいですかねぇ?」と赤松が言えば宮司は渋々といった様子で了承した。

 挨拶もそこそこに宮司は白井に花束を渡した。そして参拝の手順として「先に男性が参拝すること」「女性はその後に花束を持って参拝すること」を説明された。

「まずは頂上の本殿へ参拝のほうをお願い致します。それから一度麓に戻って社務所のほうでお話をさせて頂きたく」

 宮司がそう言うので、赤松達は頂上へと続く一本道を登っていった。人が歩いて踏み固めた細い道だった。植樹された杉が生い茂っていた。きちんと手入れされているらしく、間伐した後の切り株が見て取れた。

 アクルは赤松に近寄って話し掛けた。

「あの、社長」

「おう」

「あの宮司、なんかヤバくないスか? 打ち合わせっつって正装してくるとか、なんか、今日こそ山に入っちゃ駄目な日、じゃないですか?」

「あー、俺も思ったわ。いやマジどうすっかな。戸川さん達を危ない目に遭わせらんねぇしな」

 二人がそんなことをこそこそと話していると白井が乱入してきた。

「何お話しされてるんですか~?」

「アッナンデモナイッス」

 アクルが赤松から離れると白井も彼女に付いていく。赤松は赤松で今度は戸川と井上に話し掛けられた。

「いやぁ国定さん、こりゃ大変ですよ。重機登れないでしょこれは!」

「ホントですね! いやでも戸川所長にはいつも良くしてもらってますから頑張りますよ! ねっ、井上さん!」

「えっ社長なんでこっちに振るんですか!? 機械の運搬費でもういっぱいいっぱいですよこっちは~!」

 ワハハ、と楽しそうな男性陣とは反対に、アクルは疲れ果てていた。明るい白井がとにかく明るくて辛かった。

「アクルさんて下のお名前なんて言うんですか? お名刺には無かったですよね?」

「アッ非公開デス」

「非公開ってなんですかちょっと~! アクルさんおもしろ~い!」

「ヨカッタッス」

「国定社長、カッコイイですよね~。なんていうか、ワイルド?」

「えぇ? どう見てもチンピラじゃないスか?」

 思わず素の返事をしたアクルに白井は「やっとちゃんと返事してくれた」と微笑んだ。彼女の笑みを見て、アクルは「悪い人じゃないんだけどなぁ」と思った。花束が重そうだったので、アクルは代わりに持ってやった。

 十五分以上歩き続けて、漸く本殿のある頂上に到着した。山の中であっても気温の高い夏の日で、赤松以外はぜえぜえと息を乱していた。

 神社は廃れて久しいようだった。大きな石の鳥居は、支柱だけが残っていた。参道は敷かれていた石が崩れて道の体を為していない。石の灯籠も狛犬も、ボロボロに朽ち果てていた。立派だったはずの本殿は屋根が腐って落ちていた。異様な神域だった。元請の職員達も、アクルも、赤松も、その雰囲気に息を呑んだ。

「これは確かに、参拝客は来ないでしょうね……」

 井上がなんとか空気を明るくしようとするが、その笑みは引き攣っていた。戸川もわざとらしく大きな声で「いやぁ酷いなこれは!」と言う。白井も「すごーい!」と調子を合わせる。

アクルはじりじりと背が焼かれているような気分になった。こんな廃れた神社で大祭があるわけも無いのに、宮司は正装していた。自分達は別の儀式に巻き込まれたのではないのかと、アクルは思った。

「あっそういえば男性が先に参拝するんでしたね!」

 戸川が気付いて井上と赤松に言う。彼とアクルは緊張を含んだ視線を交わす。今のところ、彼等を納得させて連れ帰ることは出来ない。何も無いことを祈って参拝をするしか無かった。

 一先ず全員で参道を進んだ。女性二人は真ん中辺りで足を止め、男性陣はそのまま進んでいく。賽銭箱の残骸があった。その前に赤松達は立った。彼等は頭を下げた。

 遠くで宮司が祝詞を奏上する声が聞こえた。瞬間、赤松は戦慄を覚えた。

 赤松は咄嗟に地面を蹴って後ろへ跳んだ。透明な、巨大な何かが戸川と井上を横薙ぎにした。彼等は自分に何が起きたのかも分からずに真っ二つになる。鞭のように撓る不可視の何かが空を切って、取り残した赤松に向かってくる。避けようにも見えない。脇腹に強い衝撃を受ける。肋骨の砕ける音がして、巨躯の赤松はボールのように飛んだ。地面に落ちて転がった彼は倒れ伏したまま動かない。アクルは隣にいる白井が悲鳴を上げたことで我に帰った。

 先程まで生きて、喋ったり動いたりしていた元請職員の二人が、二分割されて死んでいる。転がる死骸から夥しい血が流れている。頼みの綱である赤松が動かないのを見て、アクルは息が止まりそうだった。白井が彼女にしがみついてまだ悲鳴を上げている。

 宮司の祝詞が未だ聞こえていた。

 白井の金切り声は延々と続いている。本殿の舞良戸から泥のような黒い影が伸びてくるのが見えた。影はドロドロと、ゆっくりと、アクルと白井のほうへと向かって伸びてくる。影は男達の死体を飲み込んで伸びてくる。

「白井さん! 白井さんホラ立って! 走りますよ!」

 花束を捨ててアクルは錯乱する白井をどうにか走らせようとする。逃げることだけに集中させようとする。アクルは彼女を見捨てようとは思わなかった。自分だけ逃げようとは思わなかった。

 泣き喚く白井を引き摺るようにしてアクルは走った。参道を戻る。来た時よりも森が深く見えた。宮司の祝詞が聞こえる。アクルは悪態を吐く。あの宮司は最初からこうするつもりだった。最初から全員殺すつもりだった。何かの儀式に巻き込むつもりだった。激怒しながら彼女は走った。

 白井が足を縺れさせて転んだ。影はすぐ其処まで迫っていた。

 何故だか、アクルは昔観た映画を思い出した。それからすぐにその映画を想起した理由を思い至った。映画の中で取り残され、死んでいった老婆と、ぐしゃぐしゃに化粧が崩れた顔で自分を見上げる白井の顔は同じだった。

 アクルは彼女の腕を思い切り掴む。後ろに倒れる勢いで引き上げ、踵を支点にして体を回転させ、白井を背後へと放った。白井が影から逃げた代わりにアクルはその中へと落ちた。影は冷たかった。

 アクルの体を飲み込んだ影は動きを止め、咀嚼するように揺れて、本殿へと戻っていった。白井は呆然とそれを見ていた。逃げなくちゃ、と立ち上がり、手段として乗ってきた車のことを思い出した。地面に倒れている赤松に目をやる。運転手は彼だった。車の鍵も彼が持っている。

 地面に倒れている赤松に白井は近付いていった。彼の作業着から鍵を取ろうと身を屈めたところで、赤松が上体を起こした。

「あー畜生、いってぇな。二、三本折れちまった」

 赤松は血痰を吐き捨てる。驚いて悲鳴を上げた白井だが、生きている人間がいることに安堵した。

「なんだ、白井さんか」

 草臥れたように赤松は立ち上がる。肋骨が折れているはずなのに平然としていた。

「はやく、はや、早く逃げましょうよ……」

 白井が縋るように言う。赤松は恐怖で震えるうら若い彼女を眺めて首を傾げる。

「なんというか、随分と冷たいんだな」

「えっ?」

「アクルは白井さんを助けて落ちたんだぜ? 言わば身代わりみたいなモンなのに。それに死んだかどうかも分からない」

 彼にそう言われて、白井は「え、でも、そんな」と顔を覆い、自分の肩や腕を摩る。それを見て、赤松は首を傾げる。能面のように無感情な顔で。

「人間はもっと情深い生き物だと思っていたが。自分を助けた相手でも見捨てることがあるのか。知らなかった」

 ぼそりと呟かれた赤松の言葉は動揺した白井の耳には届かない。泣き出す彼女を余所に赤松は一人で理解して「成る程」と頷く。それから平時に設定している「人懐っこそうな顔」に戻した。年下とは言え成人している白井を小さな子供を相手にしているように宥める。

「怖いよな、そうだよな。でもな、多分俺達だけじゃ帰れないんだよ。帰り方が分かんねぇから」

 「白井さん、一緒にアクルを探してくれよ」と赤松が頼むと、白井はどうにか頷いた。神社に到着したのは昼過ぎだったはずが、辺りは徐々に薄暗くなってきていた。陽が傾き始めていた。日没があまりにも早い。

「さっさと逃げ出さねぇと、明くる朝には皆死体って感じだな」

 そう赤松はカラカラと笑った。



 アクルは気がつくと何百畳と広い部屋に立っていた。床は赤い敷物が敷かれた板間。天井は真っ暗で見えない。やたら体が重いので何かと思えば白無垢を着せられていた。綿帽子まで被せられている。遠くから男達が朗々と「高砂」を歌う声が聞こえる。アクルは事態が厄介な展開になっているのを理解する。

 兎に角、此処から逃げて赤松と合流しようと彼女は思った。その時だった。

 何かが部屋の奥から走ってくる。沢山の足音がする。走ってきたのは子供達だった。皆、正月のように綺麗な着物を着ていた。わあわあと歓声を上げて子供達はアクルに走り寄ってくる。駆け寄ってくる彼等の顔を見てアクルはぎょっとした。子供達の顔は全て年老いていた。「成長し、年齢を重ねていけばこんな顔になるのだろう」という顔をしていた。老化は、顔にしか現れていない。老人の顔を持つ子供達が彼女を取り囲んだ。

 アクルは警戒する。気味の悪いものには慣れているが、目の当たりにすると体は強張り、険がきつくなる。ルールや仕組みが分からないことにはいつだってそうなる。理解の及ばないことに直面するとそうなる。怖いのではない。苛立たしいのだ。

 一人の子供が歩み出た。老爺の顔をした子供だった。そして大きく口を開いた。

「この度はぁ! 目出度くご結納の運びとなりぃ! まことにぃ! お喜び申し上げまするぅー!」

 それに合わせて周囲の子供達も「申し上げまするぅー!」と声を張り上げる。小学校の卒業式のようだった。代表らしき子供は言葉を続ける。

「それではぁ! 花嫁様よりぃ! ご承諾のほどをぉ! 賜りたくぅー!」

 「賜りたくぅー!」の合唱が終わり、全ての視線がアクルへと向けられる。アクルは威嚇するように腕を組み「なんだ?」と奇怪な彼等を睨みつける。

「承諾? 承諾だと? 攫っといて承諾もクソもあるかダボ共が。舐めてっと殺すぞクソボケ」

 アクルはルールの一部を理解した。恐らく彼等に同意すると自分は死ぬ。もしくはそれに近い目に遭う。それを踏まえて他のルールを理解していけば良い。

 高圧的な花嫁を前に子供達は尻込みする。代表格の子供がアクルを睨むが舌打ちを返されてビクリと肩を跳ね上げる。彼等に自分を傷付ける手段が無い、もしくは権限が無いと推察したアクルは更に威圧する。

「私は帰る。さっさと案内せい」

 尊大な振る舞いを見せるアクルに怯える子供達だったが、奮い立って口々に喚き立てた。

「玉の輿! 玉の輿!」

「良縁ですのに! 良縁ですのに!」

「お優しいお殿様! お優しいお殿様!」

「不幸になることはない! 不幸になることはない!」

「御婿様はこれより東の地一帯を治められている御大尽様であらせられるのに! 御大尽様であらせられるのに!」

「はいと言え! はいと言え!」

「泣いて喜べ! 泣いて喜べ!」

「貴方様はあの宮司に選ばれた人間の中で最も幸福な花嫁様であらせられるのに! 花嫁様であらせられるのに!」

「なんでも叶えてくれる! なんでも叶えてくれる!」

「捧げさえすれば! 捧げさえすれば!」

「幸せになれる! 幸せになれる!」

「ご成婚! ご成婚!」

 喚く子供をアクルは鼻で一笑に付す。彼女にとっては餓鬼が声を張り上げているだけだ。

「ほざいてろ。私は帰る」

 アクルの態度は硬化するばかりだった。子供達は大声で泣き出した。わんわんと泣きながら誰かを呼んだ。

「奥方様! 奥方様!」

 子供達が口にした「奥方」という単語がアクルは気になった。

 「花嫁」である自分をそう呼ぶはずはない。では「奥方」とは誰だ。もし、「花嫁」が輿入れを承諾したら。呼称が変わるとしたら。自分が来る前に既に「花嫁」が来ていたら。「奥方」が交代制だったら。

 間を置かずに切り替わり続ける思考を続けるアクルの耳に、ペタペタと裸足の足音が聞こえた。足音が近付いてくると子供達は「奥方様」と呼んで助けを乞うた。

 現れた「奥方」はボロボロに擦り切れた白無垢姿の痩せこけた女だった。女の顔の、鼻があるはずの辺りにはぽっかりと穴が空いていて、女の手には小刀が思い切り力を込めて握られていた。

「わぁあああああああぁああぁああぁぁああああぁっぁああああああぁあああぁあああぁぁぁぁい!」

 「奥方」は狂喜した。綿帽子と裾が激しく揺れる。「奥方」はアクルを食い入るように見詰めて叫んだ。顔の真ん中に空いた穴から膿が飛んだ。

「あなた、代わりでしょ!? 私と交代するんでしょ!? やったやったやったやったやったやったやった! 終わり終わり終わり終わり! 私の番は終わり! 私と交代! 大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫!」

 「大丈夫な奴は刃物を振り回したりしない」と、アクルは言おうとして止めた。狂える「奥方」を下手に刺激したくなかった。子供達は「奥方」に纏わり付いた。

「奥方様! アイツ! アイツ断るんです!」

「玉の輿を断るんです! 玉の輿を断るんです!」

 必死に訴える彼等に向かって、狂乱する女は絶叫しながら小刀を振り回す。蜘蛛の子を散らすように子供達は逃げた。女はまだ叫んでいる。

「ああぁぁあああぁぁあああぁぁぁあああぁああぁぁぁああああああああぁ! 煩い! 煩い! 死ね! 死ね!」

 頭を振り乱す「奥方」は手にした小刀を自身の顔に突き立て始めた。

「交代してよぉッ! 私ばっかり! 私ばっかり! 私ばっかり酷い目に遭ってるのよぉ!? なんなの!? ねぇ!?」

 ざくざくざくざく自分の顔を刺している「奥方」は絶叫する。流血することが無い女の顔を見てアクルはぼんやりとスポンジを想起した。穴だらけでスカスカになってるなぁ、と思ったところで指先に激痛が走った。

「うわっ!?」

 痛みよりも驚きの勝った声を上げたアクルは自分の右手を見る。指が糸の束のように裂けていた。「奥方」が笑っていた。アクルはそれに、恐怖よりも怒りを覚える。

「笑ってんじゃねぇよババアテメェこの野郎……タダでさえ少ねぇ人の指を裂けるチーズみてぇにしやがって……」

 じわじわと痛みが襲ってくるが、その強さは見た目とは比例していない。最初は衝撃に近かった痛みが徐々に弱まっていく。幻覚か何かなのかも知れないと冷静になりながら、「ブチ殺してやる」とアクルは思った。途端に子供達が彼女を取り囲んだ。

「殺したいって思った? 思った?」

「殺す? 殺す?」

「思った? 思った?」

 囃し立てる子供達に向かって、アクルは噴き出る怒りをそのまま口にする。

「うるっせぇぞ! 思った! 思ったよ! ブッ殺してぇってな!」

 瞬間、彼女を取り巻いていた子供達の、あまりにも年老いた顔が悪意に満ちた笑みを浮かべた。それを見てアクルは「あ、しくじった」と思った。取り消そうとしたが間に合わなかった。

「おのおォオオォォォオオオォォオォォォぞみィィィィィィィィィィィ!」

「おのおォオオォォォオオオォォオォォォぞみィィィィィィィィィィィ!」

 子供達の絶叫が響いた後に、「奥方」の頭が何も無い空間の中でぎゅうっと圧縮され、破裂した。体はドサリと倒れ、動くことは無かった。

アクルは冷水を頭から被ったような危機感に襲われる。きゃあきゃあと子供達は喜んで手を叩いて体を揺らしている。その内の一人が彼女の手を掴んで引っ張った。

「さぁ! おっしはっらいッ! おっしはっらいッ!」

 アクルは子供の手を振り解こうとしたがビクともしなかった。彼女は張り詰めた声で呟く。

「何を支払えって言うんだよ……私は何も持ってない……」

 子供は満面の笑みで主人の言葉を代弁した。

「『お前の摩耗を』」

 その言葉を聞いた途端にアクルは膝から崩れ落ちた。言葉にならない声が勝手に口から溢れてくる。嗚咽と共に涙が落ちてくる。恐怖と後悔が襲い掛かってくる。苦しみや切望が洪水のように押し寄せてくる。自我を獲得して二十年余り抑え込んで無視してきた、自分の感情だった。虐待が鈍磨させた精神で素通りしてきた幼稚な願望だった。

 痛くて堪らない。酷いことをしないで欲しい。優しくされたい。普通のご飯を食べたい。救いの手を差し伸べられたい。怖い思いをしたくない。眠りたい。同情されたい。愛されたい。幸せになりたい。赦されたい。死なせて欲しい。

 全て自分の思考の内にあることなのに、余りにも気持ち悪くてアクルは蹲ったまま嘔吐した。彼女の回りを子供達が歌い踊り跳ねる。

「お前はなんと良い花嫁様だ!」

「お殿様好みの哀れで悲惨な女だ!」

「お前は傷だらけの膿塗れだ!」

「お殿様は人間の膿を召し上がる!」

「腐った傷ばかりの哀れな女!」

「それ以外何も持っていない女だ!」

 嘲笑する子供達の声にアクルは言い返したかったが、何も言い返せなかった。痛みと憎しみと怒りだけで今まで生きてきた。いつまで経っても立ち直れないままだった。

 「望み」の「お支払い」は、目に見えないモノでも良いのか。アクルは濁流のようにやって来る感傷の合間にそんなことを思った。吐くものも無くなったアクルは蹲ったまま子供達を睨み上げた。

「燥ぐほどならお前等がなれば良いだろうが……お前等も随分不幸そうだ……」

 見下した声で吐き捨てれば、子供達は仕方の無いことだと返した。

「僕達じゃ駄目なの。僕達は生贄だったから」

「私達じゃ駄目なの。私達は願いが無いから」

 話を整理したくてもアクルの感傷は途切れない。それでも「逃げ出す」という選択肢は手放さなかった。這い蹲ったまま、アクルは床を掻いてその場から逃げようとした。自分の半身程も進まぬ内に、床の赤い敷物が波打った。滑らかな絹地のそれは、敷物ではなく途轍もなく大きな羽織の裏地だった。何かが、羽織を摺って近付いてくるのが分かった。

 重い足音がアクルの前までやって来て止まった。アクルは恐ろしくて顔を上げることが出来なかった。だがその意思に反して、彼女の体は勝手に立ち上がった。

 目の前にはただ闇が広がっていた。

「うあ……うあ、う、うわ……」

 引き攣った悲鳴の出来損ないばかりが口から漏れた。暗闇はゆっくりとアクルに覆い被さってくる。それには質量があった。手触りは柔らかく、静かな湖畔の水温に近い冷たさを持っていた。ぐうっとそれが彼女を抱き締めてくる。不思議と、嫌悪感は無かった。ざわざわと闇がさざめいて、大きな男の手が生えた。それが彼女の肌を撫ぜた。

 アクルは知らないので推測でしかないが、慈しみや愛情を込めた手で頬を撫でられた。指の腹がそっと彼女の頬骨をなぞる。優しくて甘やかすような動きだった。そんな風に他人に触れられたことが無い。ましてや家族にも。アクルは戸惑って動けなくなる。隙間ばかりの精神に甘露のようにその行為が染み込んでくる。「マズい」とアクルは思った。思考が多幸感に襲われる。

 暗闇だと思っていたモノが徐々に人の形を象っていき、やがて五つ紋の黒紋付羽織袴を着た、異様に体格の良い男になった。アクルは男の顔を見た。回転数が落ちていく頭には「こういう往年の銀幕スターいたなぁ」「今時の俳優みたいな顔してるなぁ」と馬鹿げた感想しか浮かばなかった。きっとこれが「お殿様」で、自分の花婿なのだと、彼女は理解した。

 男が腕の中にアクルを抱え込んだ。抱き締められるのも初めてだった。蓋をし、剪定し、組み上げた精神が綻び撓みそうになる。深い愛情を与えられて、アクルはそれに抗おうとした。そんなことで自身の人格が崩されることは屈辱でしか無かった。アクルは理性を手放すまいと思考が途切れぬように自分の掌に思い切り爪を食い込ませた。

 与えられないから求めなくなったものを今更与えられても困る。自分はそれを与えられるのに相応しくなかったのだと、理由を付けて諦めたのに。自分にその価値は無かったのだと。自分に生まれてきた意味は無かったのだと。一生、知覚することの出来ないものなのだと。与えられることも与えることも出来ずに死ぬものだと。「愛されたい」という望みは叶わないのだと。両親の暴力と怒声が不適切な「しつけ」だったのだと。ずっとそう思ってきた。自分が醜いから愛されないのであり、愛されないから醜いのだと、納得していたのに。

 緩やかに巡る遅効性の毒に似た愛情を無視しようと、アクルは自身の手足や体に付けられた小さく丸い火傷痕の数を記憶の中で数えた。火傷は無数にある。口なんて剃刀を突っ込まれた時に端が切れてまだその痕が残っている。熱湯を掛けられた頬にも火傷がある。左の太股にも火傷がある。これはライターで炙られた時に出来たもので、まだ消えていない。何が悪かったのか、何が親を怒らせたのか、理由を開示されぬままに受けた罰が余りにも多かった。

 こんなにも多くの痕がある。親が煙草の火を押し付けて作った。だから自分は醜い。親がそんなことをしたのは自分が醜いからだ。だから愛情を受けるに値しない。

 今、この「お殿様」から与えられているのは愛情でも何でも無い。飛び付けば死ぬ。こんなにも幸せな気分になっているのは、この化物が脳内麻薬の分泌を促すか何かしているに決まっている。アクルはどうにかそう思い込もうとする。

思考の纏まらないアクルは逃げようと藻掻く。花婿が暴れる新妻を宥めようと腕を増やして撫で擦る。優しい手の感触にアクルはどんどん鈍っていく。

 この苦しみを捨てることが出来るだろうか。捨てたら、自分はどうなるのだろうか。憎しみと怒りと恨みだけで生きている自分が、親を忘れることなど出来るだろうか。幸せになれるだろうか。

 融解していく脳はアクルの思い通りにはならず、勝手に懇願のような、願望のような思考に傾いていく。

「お前の 望みは なんだ?」

 多幸感ばかり溢れて曖昧になっていく意識の中で、打ち寄せる細波に似た、穏やかな声が聞こえた。甘くて優しい、人生で一度も聞いたことが無い慈しみに溢れた声が聞こえた。

 おとうさんとおかあさんがひどくしねばいいな、とアクルは思った。そう願った。



 「高砂」を歌う男達の声が遠くから聞こえてきた。

 赤松は泣きじゃくる白井を背に庇いながら本殿へ近付く。戸川と井上の死体は綺麗さっぱり消えていた。境内を隈無く探したが、やはり出口は無かった。入ってきた鳥居の先は木々で覆い尽くされて道が消えていた。赤松は考える。神社から出るにしても何か手順を踏まなくてはいけない。ただそれを考えるのが面倒なのでアクルを探そう。それかさっさと大元の「何か」を殺そう。赤松はそんな雑な作戦を立てた。

「やっぱ、本殿の中に入んないと駄目だよなぁ」

 赤松はやれやれと本殿に上がり、舞良戸をぞんざいに蹴破った。白井は赤松が何かする度に短い悲鳴を上げていた。

 舞良戸の向こうには洞窟が口を開けていた。本殿の外見と内側の大きさが合わない。岩室とも言うべき場所が広がっていて、ぽっかりと洞窟の入り口がある。

「あーやだやだ。なんでこんな面白空間になってんだか」

 赤松は「こりゃ工事出来ねぇわ」と嘆息する。腕に白井ががっちりとしがみついていて動き難い。彼女を境内に置いていくことも考えたが、帰り際に合流することが出来ないかも知れないと思うと置いていけなかった。

 真っ暗な洞窟の奥から冷たい風が吹いてくる。苔の生したその中を赤松は白井を連れて進んだ。白井がグズグズと鼻を啜っている。彼女を支えながら赤松は昨年生まれた自分の娘のことを考えた。白井は可愛らしく、か弱く、家族に慈しまれて育った娘なのだろう。自分の娘がこうなるとは到底思えなかった。こんな「まとも」には育たない。

「はやく、はやく帰りたい……こわい……もうやだ……」

 泣き言を言う白井を赤松は支える。もう長いこと洞窟を歩いている気がしてきた。大して時間は経っていないはずだった。それがもう一時間も一日も一年も経った気がする。赤松は苛立つ。

「大丈夫だから、ホラ、しっかりしてくれよ」

 殺しても良いんじゃないかと、赤松は少し思い始めていた。此処で殺して置いていっても、別に誰も気付かないだろう。アクルもきっと構わないだろう。白井の啜り泣きは止まらない。流石に異常だった。

それでやっと赤松は気付いた。この洞窟には入るべきでは無かったのだ。歩いている内に段々気が変になる。時間の感覚も感情の振れ幅も狂っていく。

 洞窟の終わりが見えた。

「うっし、白井さん走るぞ」

「え、わあぁッ!?」

 白井の体を抱え上げて赤松は走り出す。米俵のような運搬で白井は目が回り、泣き言も言えなくなる。赤松は変な気を起こす前に走る。そうして洞窟から抜けた先に、空間が広がっていた。

 赤松達が辿り着いた其処は広い披露宴会場のような場所で、赤松は自分の社員を見付けて安堵した。

「いーいーな! いーいーな!」

「人間ていーいーな!」

 花嫁姿のアクルが子供達と共に積まれた死体の周囲を跳ね回っていた。電車ごっこのように、列を組んでぐるぐると死体の周囲を跳ねている。肉塊は一緒にこの神社を訪れた男達だった。見知らぬ女らしき死体も混ざっている。笑顔のアクルは楽しそうに歌っている。わけの分からないことを喚いている。よいしょ、と白井を地面に降ろして、赤松は平時と変わらない感想を述べた。

「随分楽しそうだなぁ」

 隣にいた白井は一旦正気に戻ったものの、恐怖が臨界点を迎えそうで、悲鳴を抑えるのに必死だった。彼女は赤松の上着を掴んで強く引く。

「はっ早く逃げましょうよ!」

「いやぁ、なんかアクルがスゲー楽しそうだから、もうちょっと放っておこうかなって」

「なん、えっ、だっ、だってあの人いないと帰れないって! そんなこと言わないでどうにかしてください!」

 白井の叫び声を聞いて、アクルが足を止めて彼等を見た。 

「あれ、なんでぇ? なんで白井さんいるんです? 逃げたと思ったんスけど」

 やっほー、と楽しげに手を振る彼女に、白井は顔を引き攣らせた。答えられない白井の代わりに赤松が口を開いた。

「説明してくれよアクル。俺達は何に巻き込まれたんだ?」

「お、社長生きてましたねー。良かったッスわー。えーとね、なんかね、この神社ね、もう神様いないんですって。代わりにね、なんかね、別なのを村の人達が祀り始めたんですって。それがね、旦那様なんですよー! 旦那様はね、人間の頭ん中を食べるんですって! その為に生贄を貰うんですって! 保全の対価が子供で! 何か大きな願い事の時は嫁なんですって! でも今回は違うんですって!」

 いえーい、とアクルは子供達を諸手を上げた。

「それでなんかね、旦那様がね、言うんですよ。『あとひとり』って。だからね、もうね、置いてってください。私は大丈夫です。慣れてるんで」

 踊るアクルは今にも怒鳴り出しそうな顔をしていた。自分を自分の意思で動かせないことへの怒りで満ちていた。赤松が否定しようとしたところで、白井の感情が爆発した。

「ああ言ってるんだし、あんなの助けなくても良いでしょ!?」

 赤松が「うわ、そんなこと言うかよ今」という感想を抱いたのと同時に、白井の頭が拉げた。

 透明な何かが彼女の頭を捻じ切った。死体が増えた。アクルが狼狽える。

「うぁ、あぁ、あああぁぁああぁあぁぁ……なんで、なんで……願ってないのに……最初会った時、うわっって思っただけだったのに……死んだら駄目だって思ったはずなのに……」

 アクルは混乱して頭を掻き毟っている。赤松は自明の理を教えてやる。

「思ってるじゃねぇか、『うわっ』って」

 彼の言葉に困り果てたような顔をしたアクルがまたニコニコと歌って子供達と跳ね回り始める。情緒が滅茶苦茶になっている、というよりはスイッチ操作で動くロボットのように赤松は感じた。「アッパー系のジャンキーみたいだな」と彼は嘆息した。アクルや白井の様子、自分の正気の揺れ幅から、この場所の特性を理解する。感情が爆発しやすく、理性の箍が外れやすくなる場所だ。趣味の悪い場所だと赤松は思う。

「さめーた味噌汁! 腐ったご飯!」

「冷たい布団で眠るんだろな!」

「僕のかえーるお家はないよ!」

「でんでん電車に引かれてバイ! バイ! バイ!」

 アクルと子供達が囲んでいる死体の山へ、白井の死体が独りでに這いずって向かっていった。彼女の体も死体の山に加わった。赤松はアクルに訊ねた。

「おーい、アクル。何やってんだよ?」

「神様に人間の肉を着せてあげようとしてます! 旦那様は此処から出て行きたいんですって! だから容れ物が無いといけないんです! 嫁を貰う度に思ってたけど! 成功したのは私が初めてだって! なんか褒められましたね!」

「楽しそうだな。まるで祭りかなんかだ」

「そりゃもうね! メチャクチャ楽しいッスね!」

 アクルが回る度に白無垢の裾が広がる。死体の肉がぶくぶくと揺れている。晴れ着姿の部下を見るならもっとマシな場所が良かった、と赤松は思った。

「お前がそんなに生き生きしてんの初めて見たわ」

「いやー私もこんなに気分が良いのは生まれて初めてッスね! スカッと爽やかコカコーラって気分ッスわ!」

「そのフレーズ使う奴マジでいるんだな。で、なんでそんなに気分が良いんだ?」

 赤松に問われて、アクルは勿体振る幼い子供のように答えた。

「それはねぇ! おっおと、お父さんと、おっおか、お母さんが死んだからです! わはははは、わはははははは」

「えー、滅茶苦茶良いニュースじゃねぇか。早く言えよ。それで、お前がやったのか?」

「ふ、ふは、くふ、ひ、は、えっへへ、驚き代償お値段価格! 私の傷全部を引き換えに二人は死にました! やったぜ!」

 そう言う彼女の顔には確かに傷一つ無く、左手も綺麗に再生していた。赤松は「良かったなぁ」と言い、それでも疑問を投げ掛ける。

「アクルよぉ、本当に『やったぜ』って思ってんのか?」

「ふふ、ふく、うふ、え、えへへ、え~?」

「『自分で殺したかったのに、他の奴に殺らせちゃって良いのかよ?』って聞いてんだよ」

 彼の言葉に、アクルは動きを停めた。うろうろと視線を巡らせる。熱に浮かされたように足を縺れさせる。

「あー……そう、そうなんですよねぇ、悩ましいことに、でも、私じゃ出来ない感じで殺ってもらったんで! 人智超える感じで! 超常的な感じに! ミンチミンチ! ハンバーグ! 私はハンバーグが好きです! 美味しいよね松屋のハンバーグ! トマトハンバーグ定食大好き! カレーも好き! 今日も帰りに食べます! 国産野菜! 軟骨の入ったハンバーグ! なんでこんなことしてるんだ! 親は殺してナンボ! なんばしょっと! 私は元気です! 今日も殴られました! 死ね! 煙草は熱いです! 火傷はすぐに冷やします! 私の家はゴミ溜めです! お風呂に入れない日は公園に行きます! 病院に行かせてください! 階段から落ちたと説明します! ごめんなさい! 殴られると痛いです! 星が近い! ベルトが風を切る音は嫌いです! 体操着がありません! 長袖は熱いです! 私は出産祝いを貰うために生まれました! 戸籍に×を付けてください! 死ぬ時は一瞬で死にたい! 私を殴ると両親が爆笑します! ゆるしてください! 殴らないでください! 首は絞められると痛いです! 便器が赤いのは内臓の出血が原因です! 剃刀は食べられません!」

 足を踏みならすアクルを、赤松はただ眺めた。憐れむことも無かった。

「おお、スゲー壊れ方してんな」

「夢みたいな気分! 私は毎日楽しいです!」

 アクルは「幸せだなぁ!」と叫ぶ。彼女に「若大将かお前は」と言いながら、赤松は近付いていく。

「そんな野郎の嫁になるより、俺んとこで働くほうがきっと楽しいぞ」

 行く手を阻む子供達を赤松は容赦無く蹴飛ばして進む。破裂音に似た音がする。子供達の体は蹴られて飛んで、泥となって床に飛び散った。赤松は揺れる彼女の腕を掴んだ。

「ホラ行くぞ、アクル。お前の雇用主は俺だ。嫌と言おうが引き摺ってでも連れてくぜ」

 赤松に腕を掴まれた瞬間、静電気が弾けたのと同じような音と衝撃が走った。アクルが「ぎゃあ!」と悲鳴を上げても赤松は離さなかった。

ぐったりと力の抜ける彼女の体を背負って、「離脱!」と駆け出した。背後の気配がざわめいて追ってくるのが分かった。ずるずるずるずるずる、と這いずる音が聞こえた。

 元来た洞窟の中へと赤松は飛び込む。大きく跳んだせいでガクンと背負ったアクルの頭が揺れた。

「グェッ!?」

「アクル復活したか!? 生きてっか!?」

「揺れる揺れる揺れる! なんスか何なんスかどういう状況スかこれ!?」

「半分お前のせいだよ! 俺もう今日二回目だぞこれ!」

 相変わらず何かが猛烈なスピードで追い掛けてくる。赤松は振り返る気になれなかった。洞窟の終わりが見えた。出口から差す光が走れば走るほど遠くなっていく。赤松は背中の部下に叫んだ。

「此処から出すようお前の旦那に言ってくれ!」

「ハアァアアァァッ!? 旦那!? 旦那ってなんスか!?」

「良いからさっさと頼めって!」

 赤松の命令にアクルは悩み苦しんでそれから背後に迫る暗闇を振り返って声を張り上げる。

「どうか私達を生きて返してください! 代わりに私の名をお捧げします!」

 迫ってきていた気配が硬直してその場に留まる。赤松は光の中へと飛び込む。アクルの全身に激痛が走った。頭から煮えた油を被ったような痛みに襲われて、彼女は絶叫した。洞窟を抜けた。参道の真上に二人は落ちた。

 飛び出した先には闇が広がっていた。石が敷かれた参道に落ちると分かった瞬間、赤松は背中のアクルを参道の脇へと放り投げる。白無垢を来ていたはずの彼女は元の作業服姿に戻っていて、呻き混じりに柔らかい土の上を転がっていった。五点着地を決めて即座に立ち上がった赤松はアクルに駆け寄ろうとして、踏み止まった。

 自分達が落ちてきた出口から、肉の塊が振ってきて彼の前に立ち塞がった。灯されないはずのない石灯籠から溢れる光に照らされていた。

 かなり背が高い赤松より頭一つ分大きい肉塊は、元請職員達の死骸を無理に継ぎ合わせたモノだった。三つの頭が仲良く並んでいる胴体に十二の手足が無遠慮に生えていた。その内の六本の腕が赤松に向かって伸び、十二本の指が彼を指した。ぎゅいいいいいいいいぃ、と赤松を取り囲む空間が歪む。不可視の力があと少しで彼の体を潰す。それを振り切って赤松は肉塊に向かって跳び蹴りした。

「死ね!」

 罵声混じりの跳び蹴りは、脇から生えていた肉塊の手足を折るだけだった。地面を滑った赤松は危うくアクルを踏み潰し掛けた。焦って踏み止まった赤松をアクルも咄嗟に飛び退いて避けた。

「あっぶな!」

「おいアクルちょっとどうにかならねぇのかアレ。お前の旦那だろ」

「知らねぇッスよ! ちょっと今こちとら瀕死なんで社長頑張って下さいよ嫁パワーとかで」

「嫁パワーで死にはしねぇけど勝ち目は無いぜ」

 赤松の言葉にアクルは「マジか」と呻く。彼女の目の焦点は合っていなかった。肉塊がまた赤松を指差した。部下を庇って立つ彼は顔を顰めた。

「アクル、ホントにマズいぞ」

「そんなん言われても……あっ」

「あ?」

「社長は今から神様です」

「なんて?」

 赤松は耳を疑って彼女を振り返る。アクルは自分の雇用主に手を合わせ拝んでいた。

「社長は今から『祭神』で、私は『巫覡』です! 私の願いを変えないといけないんですよ! 良いスか!? 私を助けるんですよ!」

「滅茶苦茶だな」

 赤松が笑う。不思議と殺る気が湧いてくる。「神様」と煽てられるのも悪い気はしなかった。自分が死なないことは分かっていた。目の前の怪物が自分よりも弱そうに見えてきた。

 祈るアクルに背を押されて赤松は肉塊に向かっていく。腕が彼に掴み掛かろうと伸びてくる。それに捕まる前に、赤松は渾身の一撃を入れた。

 鈍い音を立てて赤松の拳は肉塊の腹を突き破る。冷たい泥濘みの感触がした。ビクビクと怪物は震えている。赤松が腕を抜けば、よろよろと後退りしていった。そしてがくりと膝を着いた。弱々しく持ち上げた指で、赤松を示した。

 呪いを掛けたのだと、赤松には分かった。彼はそれを鼻で笑い、手に付いた黒い何かを振り払った。

「呪いなんざ効くか馬鹿野郎」

 肉塊はどろどろと溶けていき、最後は消えて無くなった。木々がざわめいて、山を下りる道が現れた。ゆっくりと周囲が明るくなっていき、夜が明けた。

 長く息を吐き出して赤松は明星が輝く天を仰ぐ。漸く家に帰ることが出来る。家に帰る前に警察に行ったりなんだりと面倒だが、とにかく帰ることが出来ることを喜んだ。アクルは蹲って動かない。意識はあるようだった。

 赤松はまた彼女を背負って歩き出す。参道を進んでいき、崩れた鳥居を通り過ぎても道は消えなかった。今度は鈍い足取りで歩いて行く。

「社長……」

 負ぶられたアクルがか細く彼を呼んだ。どんどん彼女の体温が下がっていく。赤松は「死んだら捨てて行こう」と思った。

「おう」

「なんか、さっきから目が見えなくて……あと体温も変で……多分、名前だけじゃ足りなかったんでしょうね……視力と、あと、恒温性、持ってかれたみたいで……」

「病院行っても治んなそうだな」

 アクルはそれを肯定してから、気分を変えるように提案した。

「山下りたら、あの宮司殺しに行きませんか?」

「おっ良いぜ! お礼参りすっか! ギャハハ!」

 二人が車を停めてある場所まで来ると、宮司はいなかった。赤松は助手席にアクルを乗せてから車に乗り込む。宮司の身柄を抑えたかったものの、部下を病院に連れて行くのが先だった。

 赤松が何気無しにカーステレオを点ける。スピーカーから「君は薔薇より美しい」が流れ出した。

 アクルは怒りに任せてステレオのスイッチを叩き切った。



「と、言うわけで、私は社会的弱視になり両利きになりました。『チョキン、パキン、ストン。はなしは、おしまい』」

 夕暮れが近い会社の窓辺。アクルは左手でアイコスを持ち、白煙を吐き出した。イノリはかなり重い昔話を聞かされてげんなりしていた。

頼まれた使いを終えて戻れば赤松とクエはまだ戻ってきておらず、丁度良いと彼女は長い長い昔語りをした。

「社長、呪われたって言ってましたけど……大丈夫だったんですか?」

 イノリが恐る恐る訊ねる。アクルは事も無げに教える。

「あの後の、確か翌日にインフルエンザに掛かって寝込んでましたね。なんでも人生で初めて高熱を出したらしくてベソ掻いてたらしいです」

「インフル程度で済むんだ……怖ッ……」

「ちなみに一般人だと、この話聞くと三日三晩悪夢に魘されます」

「ミィッ!?」

 マナーモードよろしく震えるイノリにアクルは制服の袖を巻くって笑い掛ける。彼女の細く白い腕には、巻き付く蛇の刺青のように黒い鱗が生えていた。

「こうなるよりは、ずっと良いでしょうよ」

 彼女の細腕の上で反射する鱗がぞろりと蠢いた。それから背後で、「がちゃり」と独りでに扉が開いた。






3話 完

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