第2話「怒り深き青」

 その家は最初、土地の売却を了承していたのだという。古い家と土地を売り、田舎のほうでのんびり暮らすつもりだと。円滑に話は進んでいたはずだったのだと。その家は家主と妻、そして一人娘の三人暮らしだった。夫婦は大人しい善良そうだった。娘のほうは今年高校を卒業するということだった。娘は暗い印象だが、土地の売却について来客した不動産屋に茶を出すのはいつも彼女だった。

契約書を取り交わして、これでトントン拍子に事は終わるはずだった。

 三ヶ月前に娘が姿を消した。警察に夫婦は娘のことを家出人として相談した。娘が高校を休みがちであったことから学校側や警察はあまりこの件に積極的な態度を示さなかった。娘が消えて家の中と両親の生活は荒れ出した。娘を失った悲しみのせいだろうと不動産屋は憐れんだ。

 そして家を引き払う予定だった今月、夫婦は不動産屋に「家を売らない」と言い出した。契約は既に取り交わしてしまっている。土壇場だったので不動産屋も困り理由を訊ねた。すると夫婦は答えた。

「娘が家を売らないで欲しいって泣くんです」

「えっ娘さん、家に帰ってきたんですか?」

「いや、それが、娘の幽霊が……」

「む、娘さん、した、死体で、見付かったんですか?」

「まさか! でも娘の幽霊なんです!」

 夫婦曰く、娘の幽霊が出て来るのだと言う。不動産屋は「そんなわけが無い」と思ったのだが、夫婦は最早支離滅裂なことしか言わなくなり交渉にならない。困り果てた不動産屋は、とある掲示板に相談した。

「そういうわけで、私は件の不動産屋に相談を受けて此方へ来たわけです」

 青沼はイノリに事の顛末を語り終えて一息吐いた。応接コーナーのテーブルに対面で着いていた中途採用のイノリと社長の赤松は厄介事の予感しか無く、眉を寄せて瞑目した。イノリの口からは「入社以来ずっとこんなんばっか!」という叫びが飛び出した。



 社員が殆ど出払っているため、イノリ達しかいない国定興業株式会社は朝の九時過ぎ。来客は赤松の弟である、葬儀社を経営している青沼で、彼が到着したのとほぼ同時に電話が鳴った。それは「女の子の幽霊が出る家があるので、どうにかして欲しい」という不動産屋からの相談だった。仲の悪い兄に門前払いを食らうことを予想して、保険として電話を掛けるように青沼が頼んでいたらしい。不動産屋の相談を補強する形で青沼は冒頭の話をした。

「なんでお前のとこに相談行くんだよ。お前葬儀屋だろ?」

「私が運営している掲示板に相談のスレッドが立った。その家の『一人娘』とも個人的に付き合いがある。だから引き受けた」

 赤松が「なんだそりゃ」と怪訝な顔をするが青沼は「娯楽の延長線だ」と気にしない。札束が入った紙袋をテーブルに置いて、彼は兄とイノリを眺めた。

「この金はお前の娘の養育費にでもと思ったが、この件の契約金として渡そう」

 イノリは理解出来ないという顔で青沼に訊ねる。

「どうしてこの会社を選んだんですか? そういうのって霊媒師的な人にお願いするモンじゃないですか?」

 彼の質問に青沼は一瞬視線を左にずらし、答えた。

「其処にいる間抜けに金を渡すのに丁度良いと思ったのと、私の個人的な願望です」

 青沼は「あと『除霊』で検索すると此処のホームページがトップに来ますし」と付け足す。解体業者のホームページなのに、と思うイノリを置いて赤松は弟を睨む。

「なんだよその『個人的な願望』ってのは?」

 鼻と耳が彼と同じ形をしている弟は兄の問いに、目を伏せて彼等ではない相手に向けた嘲りと共に回答する。

「私は、あの家に用がある」


 もう一時間以上車で走っている。県境を越えて、疎らに戸建てが並ぶ市街の中を走っている。典型的な地方都市だった。

 気不味い空気が車内には漂っている。特に会話も起きず、何か気が紛れるようなことがあれば良いのに何も起きない。会社に掛かってくる電話は赤松の携帯電話に転送されるようにしたのだが、それさえ鳴らない。つまらないカーラジオは空気を不味くするばかりだ。

 運転手であるイノリは助手席にいる青沼が何となく嫌だった。後部座席に座ってくれたらまだ気分が紛れる。イノリには彼の両手が真っ黒に見えている。口の中もタールのように黒々としていて、視界に入れたくない。イノリにしか見えない。そうでなければ赤松が言及しているはずだ。

「……なんで青沼さん、助手席なんですか? 後ろのほうが広いですよ?」

 とりあえずイノリは聞いてみる。青沼は端的に返す。

「アレの隣には座りたくないので。視界に入れたくないんですよ」

「奇遇だな、俺もクソが隣に来ちゃ反吐が出るからよ。助かるぜ」

「は?」

「あ?」

「車ん中で喧嘩すんのやめてもらって良いですかねェ!?」

 イノリは仲の悪い兄弟に頭が痛くなってくる。気を取り直してイノリは質問を続ける。

「娘さんと知り合いだったって、何で知り合ったんですか? 相手は女子高生じゃないですか」

「彼女は、私のサイトによく書き込みをしていました。スレッドも立ててましたね」

「そうなんですか。悩み相談とか?」

「『両親を短時間で効率的に殺害し被疑者として疑われないためにはどうすべきか』。彼女が最後に立てたスレッドのタイトルです。内容が面白かったので興味を持ち、メールの遣り取りを始めました」

 赤松は呆れた顔をしている。

「お前よぉ、またロクでもねぇことする気だったろ」

 社長の言い方に引っ掛かった中途採用は「ロクでもないこと」と鸚鵡返しする。青沼は黙ったまま車外の風景を眺めている。

「えっ怖いんで青沼さん黙んないで反論してください」

「コレが私にケチを付けてくるのは子供の頃からなので」

「お前がもうちょい倫理観持てば俺もこんなこと言わねぇよ」

 赤松はイノリに笑い話のように子供の頃のことを話した。

「俺の親と兄弟は全員頭がおかしいが、コイツはズバ抜けてイカレてる。近所の高校生が境内に煙草の吸い殻を捨てたんで、縛り上げて文字通り釘を刺した。背中に五十本ばかしな。小学生の時だっけか?」

「六十七本だ。境内に捨てられていた吸い殻を数えたらそれだけあったから、親の代わりに躾けてやっただけだ」

 聞いていたイノリは気分が悪くなってきた。

「社長、それ止めたんですよね?」

「あ? なんでだよ、おもしれーのに」

 「倫理観レベルが目糞鼻糞だ」と内心兄弟に毒突いて、青沼に「あとどれくらいですか?」と聞いた。

「この先の角を右折して少し行ったところです」

「そういや、双子はまだ生きてんのか?」

「東京にいるが、死んでいれば連絡が来るだろう。お前、殆ど会ったことが無いのに良く覚えていたな」

 イノリが「まだ兄弟いるんですか?」と聞けば「私の下に歳の離れた双子がいます。弟と妹です」と答える。

「二人ともやんちゃで世話が焼けるので家から追い出しました」

 言われた通りに道を曲がると空き地が広がっていて、その中に一軒だけ家が立っていた。「あの家です」と青沼は告げた。イノリは路肩に車を駐めた。

 目的の家は古い家だった。外装には罅が走り、屋根の瓦は褪せている。雨樋には落ち葉が溜まり、僅かばかりの庭は荒れ果て、生垣は無秩序な枝葉の塊となっている。崩壊している、とイノリは感じた。車から降りた赤松とイノリに青沼が問うた。

「それで、娘の幽霊は?」

イノリは首を傾げ、赤松は「今まで幽霊とか見たことねぇぞ」と答えた。

「青沼さんは、そういうの信じてるんですか? 俺、というかお兄さんのこと、知ってるんですか?」

「オイ『お兄さん』とか言うな気色悪ィ」

「社長はちょっと黙っててくださいよ」

 青沼は何の興味も無いように「いいえ」と答えた。

「いたらいたで、どうとも思いません。ソレのことについても、特に関心がありません」

 彼の言葉にイノリは疑問を持った。「そういえば、この人は何故この家に来たのだろう」と。青沼は確かに「この家に用がある」と言ったが、具体的なことは何も言っていない。幽霊が出るという家に赤松が行き、その手伝いでイノリが駆り出された。それに青沼がついてくる、というのは不思議に思えた。来たところで何をするのだろう。娘の詳細を聞きたいのか、彼女の両親に会いたいのか。

得体が知れない社長の弟に、イノリは徐々に忌避感を覚えていった。青沼の足元の影は異様に濃く、手は手袋を嵌めたかのように黒く、口の中には闇が広がっている。普段であれば関わり合いになりたくも無い手合いの男と、普通の人間には見えない「何か」を見て殴る雇い主と、悲鳴を上げて「何か」を誘き寄せるためだけに連れて来られた社員という面子は、イノリの脳内に警鐘を鳴らし続ける。

 家の錆びた門扉に触れる前に青沼が兄に声を掛けた。

「赤松」

「あ? なんだよ?」

「工具は積んでるのか? そうだな、バール辺りがあると良いんだが」

 赤松が「あるぞ」と答えると「持って行け」と青沼は言う。

「なんでだよ」

「必要になる」

 赤松は少し思案して「何かあればお前が責任取れよ」と言って乗ってきた車のトランクからバールを持ってきた。青沼は彼を待ち、それから家の門を開けて敷地へと踏み込んだ。イノリ達は後をついていく。

「家に入ったら私が家主と話します。二人は何も喋らなくて結構です。相手に混乱されても困るので」

 青沼はチャイムを鳴らす前に彼等を振り返る。

「娘の幽霊が出たら教えてください。生きている人間と死んだ人間には何度も会っていますが、死んだ後の人間には会ったことがないので」

 咄嗟のリアクションが取れなかったイノリは「もしかしてこれは彼なりのジョークなのか?」と思い、赤松は「面白くねぇぞ」と感想を述べる。

青沼がチャイムを鳴らす。明るい和音が響いた。少しの間を置いて、扉が開いた。開いたドアの隙間から悪臭が漂ってきた。現れたのは五十がらみの男だった。あちこちに染みが付いた股引姿で、お世辞にも綺麗な身形とは言えなかった。背の高い青沼の姿に驚いたのだろう、一瞬仰け反った。

「ど、どちら様ですか?」

 恐らく家主であろう男に青沼は丁寧な挨拶をする。

「午前中のこのような時間帯から申し訳御座いません。国定、と申します。娘さんのことで折り入ってお話ししたいことがありまして、こちらに伺わせて頂いた次第です」

 家主は訝しげに喪服を着た来訪者を見ている。怪しい男に見えるのはイノリも同意する。

「娘の? なんです、なんでまた、わざわざ」

「娘さん、ミズホさんとは少しご縁がありまして、メールの遣り取りをしていました。それが三ヶ月前、不穏な内容のメールを最後に連絡が付かなくなったものですから……」

 青沼は再度「その件でお話ししたいことがあります」と繰り返す。「ミズホさんはいらっしゃますか?」とは聞かなかった。

「お厭うようでしたら、警察に知り合いがおりますのでそちらにご相談致します」

 脅しでしかない男の言葉に、家主は苦渋の決断という表情で扉を大きく開けた。先程よりも生臭く腐敗しきったような臭いが鮮明になり、廊下に中身が詰まったゴミ袋が幾つも置かれているのが目に入った。ゴミ屋敷寸前だ、とイノリは顔が引き攣る。赤松は嫌悪を堪えるように唇を引き絞っていた。青沼は招かれるまま、構わず家に上がる。

 歩けるゴミ屋敷というのは下手に足の踏み場がある分遠慮する言い訳が出来ないな、とイノリは思った。家の中には蠅が飛んでいる。青沼は気にせずに平然と歩いている。三人は居間に通された。その部屋にもゴミが散乱していた。青沼は気にする素振りも見せずに畳の上で正座したのでイノリはそれに倣った。赤松はどかりと胡座を組んで弟を見ている。さっさと帰りたい、という顔をしていた。イノリも同意見だった。

 家主と同年代の、彼の妻らしい五十過ぎの女が寝間着姿のまま茶を淹れて出してきた。居間から台所が見える。床に、生ゴミを入れた袋が口を開けたまま置かれている。イノリにはそれが蠅の原因のように見えた。

 湯飲みは洗っていないようで、茶渋がこびり付いていた。青沼のものには蠅の死骸が浮いている。彼は一瞥するだけだった。

「ねぇ、なんでこの人はバールなんか持ってるの?」

 家主の隣に座った妻が赤松を見ながら家主に問う。代わりに青沼が「お気になさらず」と言い、本題に入った。

「今日は、娘さんのことでお話があって参りました」

 蠅の羽音が唸る中で青沼の声が聞こえる。ふと、イノリは視線を自分の右側に移す。襖が絞められている。家の大きさや此処までの廊下の長さから鑑みて、六畳間程度だろうと推測する。黄ばんだ襖の向こうが何故か気になる。ガムテープで開かないように目張りされているからだろうか。

「ミズホのこと、っていうのは?」

 家主は妻と顔を見合わせる。青沼の背筋は真っ直ぐ伸びていて、だらしない夫婦とは対照的だった。

「娘さんから相談を受けていました。『家を出たい』と。お会いしたことも電話したこともありませんが、私が運営している自殺防止サイトへの書き込みが切欠でメールの遣り取りをしていました」

「自殺……」

「ええ。それで、様々なことをミズホさんから聞きました。家のことや、貴方方ご両親のことも」

 イノリは隣の赤松にそっと「全部嘘ですよね?」と耳打ちし、赤松に「十中八九な」と返される。道中にそんな話は聞いていない。娘が両親を殺そうと思っていたことしか、二人は聞いていない。

 青沼は家主とその妻の顔を見比べる。

「失礼ですが、お二人とも現在は何かお仕事を?」

 彼の問いに夫妻は嫌悪を示し、曖昧な返事をした。青沼のほうもそれを予想していたらしく話し続ける。

「三年前に父が会社をリストラになり、母は結婚以来一度も働きに出たことが無い、とミズホさんは私に話してくれました。二人は頭が変になっていて、そのせいで自分が学校を休んで働かなければならないと。随分悩んでいるようでした」

 夫婦の顔色が悪くなっていくのをイノリと赤松は見ていた。てっきり彼等は自責の念に駆られているのだと、イノリは思った。青沼の言葉は続く。

「御母上はミズホさんを、些細なことで叱ってはよく折檻していらしたようですね。顔に痣が残り、指が変形する程に」

 彼の言葉を聞いて二人は状況がおかしな方向に進んでいると気付いた。青沼は尋問の真似事をしている。何故そんなことをするのか分からない。妻は凄まじい形相で青沼を睨んでいる。

「嘘ですよそんな話! あの子は昔っからそういう嘘を吐いて人の気を引こうとするんですよ!」

 がなり立てる妻に青沼は一瞥だけを返して、次は家主に目を向けた。

「お父上が最初にミズホさんを強姦したのは小学生の時だった、と伺っております。以来毎晩、部屋に入ってくるとも」

 イノリは居心地が悪い。青沼が淡々と冷たい声で話し続けるのを聞いているのも、家主の夫婦が怒りに顔を赤黒く変色させているのを見るのも、嫌な気分になるだけだった。

「なんだよ、単なるゴミ共じゃねぇかよ。つまんねぇな」

 赤松が嘆息する。一連の話を「つまらない」の一言で済ませられる社長にイノリは信じられないような気持ちになる。最悪な空気を生み出した張本人である青沼は能面のような顔のままだ。彼は気怠げに首を曲げて骨を鳴らす。

「アンタは娘のデタラメな話を信じるのか?」

 家主が訪問客を睨んでいる。今にも飛び掛かってきそうな夫を青沼は一笑に付する。

「ええ。彼女が如何にお二人を殺したいのか、伺っていましたから」

 夫妻が目を見開いた。青沼は彼等を観察している。

「ミズホさんからの連絡が途絶えたのは『今日二人を殺します』というメールが送られてきてからすぐでした。貴方方はあの夜に彼女を、見事に返り討ちにしたんですね?」

 夫妻が罵詈雑言を並び立てる。青沼は数十秒聞いていたが、飽きたのか湯飲みを持ち上げる。そして中身を卓の上へと撒ける。蠅の死骸が落ちる。青沼は湯飲みを振り下ろして蠅を潰した。夫妻はそれで静かになった。

「娘さんは自分を奴隷だと仰っていました。身の回りのことも、違法風俗でのアルバイトも、全て両親の為だと。父親はリストラ以来事実から目を逸らして家長面、母親は生まれてこの方娘のことを婢だと勘違いしている、と」

 青沼は「最初に聞いた時は私も何のお芝居かと思いましたよ」と心にも無いことを言う。彼の言葉は止まらない。

「家の中や貴方方の身形が荒廃しているのは、娘さんを殺したから、やってくれる人間を殺したからなんですね。なんともまあ、業の深いことで」

 青沼はゆっくりと立ち上がる。それからイノリを振り返った。

「尾上さん」

「ひぇ、ひゃい!」

「幽霊はいましたか?」

 上擦った声で返事をしたイノリはその問いにも否定を返したが、ふと目張りされた襖のほうに目を向けた。青沼は「成る程」と頷いて襖に貼り付くガムテープを剥がす。夫妻が彼を止めようと立ち上がり掛ける。赤松が持っていたバールをテーブルに振り下ろせば大人しく座り直した。彼の行動にイノリも驚いて腰を抜かしていた。

 ガムテープを取り払い終え、青沼は襖を開ける。悪臭が一層キツくなる。イノリの想像通り、その部屋は六畳程度の部屋だった。大きなカーペットが畳を覆っている。壁は全て板張りされていた。イノリはてっきり、その部屋も自分達がいる部屋と同じ漆喰の壁なのだと思っていた。青沼は部屋の中へと入っていく。ぐるりと部屋の中を見回し、壁に近付く。

「ミズホさんは何処にいるのだろう。若い娘がこんなところで腐っていくなど、全く哀れなことだ」

 青沼は何とも思っていない声でそんなことを呟きながら、壁を叩いていく。とん、とん、とん、とん、と端から順番に軽く拳で叩いていく。そしてある一カ所で音が変わった。青沼は一歩下がり「赤松」と兄を呼びつけて顎で示した。赤松はかったるそうに立ち上がり、バールを持って傍に行った。

「良いのか?」と赤松は最終確認する。青沼は「やれ」と返す。兄は肩を竦め、バールを壁に思い切り打ち付けた。

 板張りの壁が割れた。再度打ち付け、板を剥がした。二枚ほど剥がしたところで、悪臭の本当の原因が姿を現した。赤松が長い溜息を吐いたのが聞こえた。彼が頭を掻きながら後ろへ下がる。お陰でイノリにも「ミズホ」の姿が見えた。

 女と思しき死体が割れた板の間から覗いていた。死体は腐り果てていて長い黒髪と僅かに残っている目鼻立ちから、女と推測するしかない。死体は漆喰塗りの壁を掘ったその中にいて、上から板で覆われていた。ゴキブリが死体の顔や体を何度も往復している。

家主とその妻は悪態を吐いて頭を掻き毟っている。「この人達、反省してないんだな」とイノリは気付き、背が泡立った。

「おや、おや。これはこれは」

 洞穴から発せられたような青沼の声がイノリにはどんどん耳障りになっていく。家主達のほうを向いて青沼は両手の指を組み合わせる。「警察を呼ばなくてはいけませんね」と彼は言って、赤松に呼ばせる。赤松は嫌そうな顔をする。

「お前が呼べば良いだろ」

「私は不動産屋のほうに連絡を入れる。早くしろ」

 仕方が無いというように赤松は「臭ぇから外で掛けてくるわ」とすたすたと歩いて出て行ってしまった。家の中にはイノリと、家主夫妻と、青沼だけだ。青沼もスマートフォンを取り出して不動産屋に電話を掛けた。相手が出ると「終わりました」とだけ告げて切った。そして、待ち侘びたように家主と妻を見た。

「私は、娘さんと約束していました。それを貴方方が台無しにしてしまった。だから私はとても、腹が立っている」

 イノリが彼に視線を向けていると、青沼の足元にある黒々とした影が波打っていた。ぱしゃ、ぱしゃ、と水面のように。白い顔が影の中に競い合うようにしながら浮かび、それからドッ、という重量のある音がして青沼が立っているすぐ脇の畳に黒い泥の手形が付いた。ドッ、と音がしてまた手形が付く。手形には指が六本あった。

 「あっこれ怖いやつだ」と気付いたイノリの体が強張る。家主と妻は何も気付いていない。イノリや赤松とは違って、この異常な事態に「普通」だから気付くことも出来ない。

 ドッ、ドッ、と黒い手の痕は青沼の周囲を回る。うろうろと、獲物を探すようにぐるぐると、葬儀屋の周りを手形は歩いている。

 ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、ドッドッ、ドッドッ、ドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッ。

 手形は凄まじい速さで回っている。不吉な程に。

「さて、貴方方には彼女の代わりなってもらわなくては」

 青沼が虫か何かを見るような目で夫妻を眺めている。

「あ、あの、せ、青沼さん……」

 イノリは恐る恐る話し掛けるが、「お静かに」としか言われなかった。その間も不吉な音と手形は止まらない。

「か、代わり?」

 家主は聞き返す。青沼の周りを歩き回っていた手形が止まった。青沼が答える。

「ええ。ミズホさんの代わりです。そしてこれは彼女の望みでもある」

 再度、ドッ、という音がして手形が付く。それは青沼から少し離れたところに付いた。ドッ、とまた手形が付く。ドッ、と手形が付く。青沼の傍を徐々に手形は離れていく。イノリはやっと分かった。手形は青沼から離れて行き、自分と夫妻のほうに近付いて来ていると。

「これから何が起こるのか、お二人は分かりますか? 娘殺しとして世間に吊し上げられるんです。これまでしてきた陰惨な所業と共に」

 夫妻が狼狽える。恐怖している。娘を殺したことよりも世間に罪が露呈することを恐れている。手形はドッ、ドッ、と音を立てて夫妻へと近付いていく。

「娘さんは私に約束してくれました。『無理心中を見せてあげる』と。私はそれがとても見たかったのに、貴方方が台無しにした」

 とうとう、手形が夫妻の前にあるテーブルの上にバンッ、と付いた。イノリは後退りして部屋の隅まで逃げた。青沼が懐から煙草を取り出して一本吸い始めた。深く吸い込んで吐き出した紫煙が白かったので、イノリは不思議だった。口の中はあんなにも真っ黒なのに。青沼の額からタールのようなモノが垂れてくる。頭上から撒けた泥を被ったように落ちてくる。彼は夫妻に問いを投げ掛けた。

「全く、貴方方はよくもそこまでの恥を晒して生きていけるものだ。面の皮が厚いから長いこと牢の中で、愚かな身の内で生きていくことなど恥ずかしくないのか?」

 黒い手形が勢い良く家主の顔に付く。激励のように。洗礼のように。家主と妻は歯を鳴らして震えている。惨めな未来が余程恐ろしいようだった。葬儀屋が煙草を銜えて彼等を眺めている。今度は妻の肩に黒い手形が付く。促すように。急き立てるように。

「さあ、どちらが先だ?」

 彼の言葉に弾かれたように、先に夫のほうが発狂したようにしかイノリには見えなかった。一瞬の間に黒い手形や泥は綺麗に消え去っていた。

 突如絶叫した夫は妻を突き飛ばして台所へ駆け込み、流しから文化包丁を取ってくると妻に突き立てた。妻は悲鳴を上げて夫も体を撥ね除ける。妻は妻で手近に置かれていた急須で夫を殴打する。夫は怯むも再度妻を刺す。居間に悲鳴と怒声が交互に響く。獣のような有様だった。

 目の前で突然始まった修羅場にイノリは呆然としていた。夫妻が自分に気付かないことだけを祈っていた。夫が妻に馬乗りになって体を滅多刺しにしている。妻の絶叫は段々血の泡で濁っていく。それを前にして彼は無力だった。

 イノリはこれを引き起こしたであろう青沼をそっと見遣る。彼の顔を見て、イノリは「どうしてそんな顔をするのだろう」と思った。イノリは苛烈に死に至る二人を眺める青沼の表情を見て、「そんな顔をしないで欲しい」と思った。

追い立てる死を前にして、桜の蕾が綻んでいるのを見つけたような顔をしないで欲しい。戯れ合う幼児達を見守るような顔をしないで欲しい。道端に咲く野花を眺めるような顔をしないで欲しい。砂浜で美しい色硝子の破片を光に透かしたような顔をしないで欲しい。今まさに目の前で起きている惨劇は、そんな顔で見て良いものではない。

 妻が絶命すると、夫は血と脂で滑る包丁を自分の腹に突き立てた。「ひぃー、ひぃー」と泣きながら何度も自身の体を刺している。彼が死ぬ頃には部屋が血の海だった。青沼は夫妻が死ぬと「三人のほうが良かったな」と感想を呟いた。イノリは疑問を口にした。

「なんで、こんなことしたんですか?」

 イノリの問いに青沼は一瞬宙を眺めて思案し、「人が死ななきゃ面白くないでしょう?」と返した。どうやってこの場から逃げ出そうかとイノリが思案していると赤松が戻ってきた。

「なんかスゲー声聞こえたぞ。何してんだ?」

 警察が到着するまで通話を続けなければならない赤松はスマートフォンを片手に持ったまま、居間に入ろうとして夫妻の死体を見た。彼は「うおっ!?」と驚いて飛び退く。

「死体増えてんじゃねぇか……」

「しゃ、社長ー! 俺もう帰りたいです! やだ! もうやだこの人! もう普通に怖い!」

 四つん這いで彼のところまで這っていったイノリは雇い主の足に縋る。赤松は適当に返事をする。

「アーハイハイ、多分事情聴取とかあるからまだ帰れないぞ」

「ギャアー! イヤだー!」

 遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。イノリはまだ家に帰れない。


 事情聴取は青沼が殆ど一人で話し、イノリは「ソウデス」と頷く係だった。赤松は会社を一日空けたことで事務員のアクルに電話で絞られた。三人が解放されたのは夜だった。「夕食でも」と言い出したのは青沼だった。昼食は事情聴取やら現場検証やらで食い損ねていた。赤松とイノリが顔を見合わせて逡巡していると腹の虫が鳴いた。イノリはラーメンかな、と思っていた。青沼が選んだ店は彼の予想外だった。

「…………なんで焼肉屋なんですか」

 じゅうじゅうと肉が焼ける音がする。目の前にある網の上で肉が煙を上げて焼けている。高級焼肉店で三人は和牛カルビを囲んでいる。

 青沼はトングで肉をひっくり返し、赤松はメニューを片っ端から店員に注文している。

「今日のことで『そういえば最近焼肉食べてないな』と思ったので」

「いやならないでしょ」

 青沼がイノリの皿に肉を入れてくる。「代行呼ぶから飲んで良いぞ」と赤松はイノリに酒を勧めてくる。イノリはとてもそんな気になれない。

「社長も青沼さんも、よく食べる気になりますね」

「オイ青沼テメー俺が育てたカルビ食うんじゃねぇ!」

「煩いお前は黙って炭の煙でも吸っていろ」

「ねぇ俺の話聞いてます!? いちいち喧嘩すんの止めてくださいよ!」

 店員が追加の肉を持ってきたところで一瞬静かになる。兄弟にうんざりしてイノリの口から溜息が出た。

「青沼さん、ホントに幽霊とか変なモノ、見えてないんですか? あんなことしといて」

 そう問われて青沼は豚トロを飲み下す。

「生まれてこの方そういったモノを見たことはありません。それに、『あんなこと』とは?」

「あの夫婦に、む、無理心中させたじゃないですか」

「警察の方にもお話しした通り、私は何もしていませんよ。ただ『話した』だけで」

 事情聴取で青沼は「メールで相談を受けていた女子高生から虐待について打ち明けられた後、連絡が付かなくなり心配になった。不動産屋にも相談を受けていたので、家屋の取り壊しに掛かる見積もりをしてもらおうと身内の解体業者も連れて来た。あまりにも異臭がするので壁を壊すと死体が出て来た。解体業者が通報していると家主夫妻が無理心中を図った。青沼とイノリは止めることが出来なかった」と話した。警察には随分と怪しまれたがイノリには訂正出来なかった。まさか「青沼が黒い手形を使って人を殺した」などと、言って信じて貰える話ではない。

「やっぱりお前ロクでもねぇことしてんじゃねぇか」

 赤松が大盛りの白米を掻っ込みながら言う。網の上の肉を殆ど掻っ攫っていくのでイノリは次から次へと肉を焼かなければならなかった。青沼は何てこと無いような顔で返した。

「私はただ、無理心中が見たかっただけだ。折角の彼女を申し出をあの夫婦が無駄にした」

「やっぱガキの時分から何も変わっちゃいねぇなお前は。気に入らねぇことがあるとすぐキレる」

 兄の言葉を無視して青沼は胡乱な顔で食事を続ける。自暴自棄になったイノリが酒を頼む。

「そういえば尾上さんご存知ですか?」

「え、何ですか?」

「人間が焼死した場合、全身の筋肉が拘縮して体が丸まるんです。ボクサー体勢と言うんですが」

「なんで焼肉してる時によりにもよってその話するんですか!?」

 怒るイノリを見て赤松は青沼に「お前尾上さんに八つ当たりすんなよ」と呆れる。店内にイノリの怒声が響いた。

「転職大失敗! 人生クソ!」






2話 完

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