悼む色は赤

十二月三十一日 十三

第1話「人を殺すより簡単」

 子供の頃から、誕生日が嫌いだった。誕生日になると陽のある内しか外へは出られない。陽がない時間に外へ出てはいけない。イノリはそれが嫌だったし、怖かった。日がぽっかりと暮れた誕生日。家の低い門扉の前に、女が立っているのだ。その女は街灯かと見紛う程に、異様に背が高い。顔の三分の二を占める大きな目も異様だった。女はイノリに向かって、間延びした声で言う。

「お母さんだよぉ お前は拾われた子だよぉ お母さんが迎えに来たよぉ」

 それは絶対に自分の母親ではない、とイノリは分かっている。母親は、自分の子供を見ながら涎を垂らすモノではない。



 イノリは就職に失敗した。大学を卒業して東京で就職した先がブラックだった。確かに大学の土木学科を卒業したが、彼は事務職を希望したのだ。だが現場を引き摺り回された。無茶な納期に理不尽な元請。胃に穴が開くのも仕方が無かった。三十手前で仕事を辞めて彼は地元に帰った。胃に開いた穴が塞がり、元気になったイノリは地元の解体業者の求人に応募した。圧倒的に事務職が足りない、と求人票の備考欄に書かれていたのでそこに応募することに決めたのだ。給与は以前の現場管理職よりガクンと落ちるが、それでも構わなかった。実家暮らしだったし、貯金もある程度はあったからだ。今の時期も年度が切り替わる四月と都合が良かった。



 採用試験は面接だけで、面接官は死んだ顔の若い女性事務員と七十を越えた労務安全担当だけだった。

「オガミ……あー、これで、イノリ、って読むの。猪に里で、へぇー、猪里さん、珍しいねぇ。横浜の人なの? 尾に上でオガミって読むの、横浜の地名でもあったよねぇ」

「おじいちゃん先進んで良いスか。すみません尾上さん。折角来て頂いたのに社長が不在で、こんな感じになってしまって」

 老眼鏡を上げたり下げたりしながらいつまでもイノリの履歴書を見ているのは労務安全担当で、彼を促す事務員は男のように低い声で、つっけんどんな喋り方をした。イノリは苦笑しながらも首を横に振る。社長は朝から解体現場を見に行っているということだった。

「尾上さんは事務職志望ということですが、お間違いないですか? 給料面で言えば正直あまり満足の行く金額とは言えないのですが」

「はい。どちらかというと、確実に休めて確実に退勤出来る仕事をしたかったんです。給料面については特に重きを置いていません」

「正直ですね。事務もかなり仕事量が多いですが、休暇と退勤時間については確約出来ます。それでは採用ということで」

「え?」

「え?」

 事務員があまりにも唐突に採用決定を下したので思わずイノリは耳を疑う。労務安全担当はまだ履歴書を読んでいた。

「さ、採用してもらえるんですか?」

 若い事務員は首を傾げた。バキバキと不穏な音がしていた。深刻な肩こりか、血行がかなり悪い。

「決定権は社長から貰っているので。大学を出ていて特に深刻な既往症などは無いし実務経験も二級土木持ってるなら文句無いですよ。算数が出来なければこれから覚えていきましょう。中卒程度なら即戦力です」

 真顔の事務員にイノリはたじろぎつつも頭を下げた。

「ありがとうございます。頑張って働きます」

「はい。よろしくお願いします。それでは書類を書いて頂きますので、下の事務所の方へどうぞ。勤務についてもそちらで説明させて頂きます。ホラおじいちゃん行きますよ」

「これでイノリって読むんだねぇ」

「いつまで見てんスか。そんなに名文ならコピーしてあげますから」

 従業員二人の応酬にイノリは顔を強張らせつつも事務所へと案内してもらい、書類の手続きを行った。



 そして初出勤の日。建設業の始業時間は早い。現場はもっと早い。その頃の癖なのか、イノリは早朝六時半に会社の前に来ていた。新しい職場は広い敷地に数台の重機を置いた三階建ての会社だ。出入り口の前はロータリーのように車での乗り入れが楽になるよう整備されている。

 イノリは作業服が支給されないことを祈りながら、スーツ姿で出社してきた。鍵は開いているだろうか、と玄関に近付いたところで彼の足が止まった。

 ガラスで出来た扉の脇に、女の子が膝を抱えて座り込んでいる。女の子は裸足だった。何故だか、スーッと背筋が冷たくなった。

「あ、これ、怖いやつだ」とイノリは直感した。

 女の子が顔を上げた。顔の変なところに目があった。普通、人間の顔は口が真横になってついていない。ぐしゃぐしゃに眉目と口を並べた福笑いだ。生きた人間の顔では無かった。

「あ み みみ みて みてみて みえて め みえて みえてる みえてる おまえ おまえ み みみ」

 女の子が音の羅列を発した。「逃げないといけない」とイノリは思った。足が動かなかった。

「み みえ みえて みえてる おまえ み みみみみみ み み み みみ みみ みみ しね 」

 いつの間にか女の子は立ち上がっていた。そして近付いてくる。初日にこんな酷い目に遭うのか俺は、とイノリが思った時だった。

「人ん家の敷地で何してんだゴルァアアアアアッ! ブチ殺されてぇかッ!」

 怒声がイノリの耳を劈いた。女の子は顔を声がした方へと向けたが、次の瞬間、飛んできたバールがその顔にめり込んで倒れた。驚いて尻餅をついたイノリに向かってドスドスと足音を立てて誰かが近付いてきた。

 見れば長身の、作業着を来た男がこちらに歩いてきていた。三十過ぎの、左の眉尻と目尻に掛けてに大きな切り傷がある男だった。イノリはてっきり男が自分の方へと向かってきているのだと思ったが、それは彼の勘違いだった。

 男はまっすぐ女の子へと歩みを進め、イノリには目もくれず、バールを拾い上げてから女の子の腹を思い切り蹴った。鉄板が仕込まれた半長靴タイプの安全靴。その爪先が女の子の腹にめり込んだ。「死ねオラッ!」という罵声と共に再度蹴りを食らったソレは、霞のように消えた。

 呆然とするイノリのことを、男は漸く見た。目つきの悪い、ピアスを開けた青い迷彩柄のインナーを着た社名入りの作業着姿。イノリが今日から働く解体業者の職員であることは確実だった。

「なんだテメェ。朝っぱらからこんなトコにいやがって」

 「酔っ払いの迷子かァ?」と見下ろしてくる男に、彼は上擦った声で自己紹介をした。

「キョッ、今日からお世話になります! 尾上猪里と申します!」

「あ? あ、あーッ! はいはい中途採用の! いや、悪いねホント。変なとこ見せちゃったな!」

 わはは、と男が差し出してきた手を取ってイノリは立ち上がった。男がまだ手にバールを握っていることは考えないようにした。

「ホントに悪かったよ。俺はセキショウだ。アンタの雇用主になるな」

「セ、セキショウ社長・・・・・・て、め、珍しいお名前ですね・・・・・・」

「赤い松って書くんだよ。寺の子供に生まれると変な名前付けられるもんだ」

 下の名前だけ名乗るんだ、と何処かズレた感想を抱くイノリを余所に赤松は快活に笑う。そして玄関に近付いて鍵を開けた。ドスドスと先へと進んでいく。イノリは慌てて赤松の背を追う。

 赤松はテキパキと社内を案内してくれた。「ロッカーはこれ使って良いから」「机はアクルの隣使って。その方が色々教えてもらい易いだろ」「この辺はコンビニが遠いから昼飯は来る途中で買うか弁当持ってきたほうが楽だな」「朝礼は朝八時半から。基本会社には俺と労安のクエさん、あとアクルぐらいしかいねーから」「一応会社支給の携帯渡しとく。番号は入ってるから後で見といて」「現場の奴のことは取りあえずアクルに聞いて」と説明をしてもらう内に時計の短針は八時を過ぎていた。そして事務服を着た女性がフロアに入ってきた。面接の日にあっさりとイノリに「合格」を言い渡したあの事務員だった。

「……はようざいまーす…………」

 朝が不得意なのか、死んだ顔で地を這うような声で彼女は挨拶してきた。イノリは「おはようございます」と頭を下げる。

「おうアクル。尾上さんスゲーぞ。俺より会社来るの早い」

「マジか。そんな早く来るとロクなことないから止めた方が良いですよ。玄関開いてねーし」

 イノリは漸く、つっけんどんな喋り方をする彼女の名前が「アクル」なのだと気付いた。それから後にフロアにやって来た労務安全担当、労安の老人が「クエ」という名前なのだろう。彼はイノリに気付いて微笑んだ。

「あ、こないだの人だね。おはようございます」

「おはようございます」

「うーん、ごめんね、名前なんだっけ?」

「…………尾上と言います……」

「へぇー、横浜の人?」

「おじいちゃんその話前回もしましたよ。再放送やめてください」

 そんな会話をしていたところで、朝礼の時間になった。



 「アクル」というのは「阿久留」という字を書く名字で、彼女自身は名前を呼ばれるのが凄まじく厭うようだった。渡された名簿の名前を声に出して呼んだだけで怖気が走ったような顔でイノリを見てきた。労安の「クエ」は「久延」という字を書く。下の名前の「ヒコイチ」は「彦一」。「久延彦一さん」と名前を読むと老人は「病院みたいだねぇ」とまた笑った。

社長の赤松は書類やら何やらに追われて上座にある大きな事務机に座ったままだ。アクルとイノリの机は窓が並ぶ南側に並んでいた。社員はそこそこの人数がいるので事務机四つずつ、島のようになって置かれていた。四十人分の机があった。業務用のコピー機があり、巨大なキャビネットが壁の一面を埋めており、打ち合わせスペースらしいパーテーションで区切られている一画には小さなテレビが置かれていた。

 年下のアクルだがイノリにとっては先輩社員だ。彼女に仕事を教えてもらうことは苦痛では無かった。アクルも彼のことを考えてか、簡潔で必要な分のこと以上は説明しなかった。お陰で変にストレスや軋轢を感じることが無かった。小馬鹿にされず罵倒されない業務説明は聞いていて楽だった。クエについては時折イノリに話し掛ける他は、赤松やアクルから振り分けられた書類仕事をして、たまに舟を漕いでいた。

 昼休みになるとクエはいそいそとコンビニ弁当を鞄から取り出し、アクルは事務椅子に座ったまま窓まで移動し、少しだけ窓を開けるとアイコスを吸いながら私用のスマートフォンを弄り始めた。この会社は個人自由主義らしい。前の会社であれば無理矢理連れて行かれて美味いのか不味いのかも分からないラーメンを食べながら先輩から仕事の愚痴を聞かされていた。それが無いと、イノリはどうしたら良いのか分からない。

コンビニ行こうかな、とイノリが立ち上がったところで打ち合わせスペースにいた赤松が手招きした。イノリが近くまでやって来ると赤松が重箱を机の上に並べていた。彩り豊かなおかずがぎゅうぎゅうに敷き詰められている。

「尾上さん、弁当持ってきてんのか?」

「いや、ないです。今からコンビニに行こうかなって」

「俺ん家の弁当、スゲー量多いから良かったら食えよ。あ、手作りとか平気か?」

 特に抵抗は無いし、確かに弁当の量は一個人分というより一家族分のような量だったので、イノリは分けて貰うことにした。重箱が四段で、その内一段がおにぎりで埋められているのは圧巻だった。割り箸は近くにあった誰かの机から出てきたものが渡された。何故そんなところから割り箸が出て来るのか、イノリは気にしないことにした。赤松はボリュームを抑えてテレビを点けた。

 弁当は赤松の妻の手作りだった。毎日この量になので、夕飯も食べきれないのだと彼は零していた。彼の向かいに座ったイノリは家庭の味に頬を緩ませながら重箱を突いた。金のピアスに顔の左側を厳つくする傷、刻まれた眉間の皺などのせいでかなりの強面になっているが、本当は善良な人なのかも知れない、とイノリは思った。だがそれはすぐに打ち砕かれた。

「尾上さん、『変なモン』が見えてるだろ?」

 赤松の言葉に何故だが背中から血の気が引いた。朝の奇妙な「女の子」のことが、泡のように記憶から蘇った。寒気がした。指摘されたくないことを指摘されたような気がした。自分の背中に、誰かが指をさしているような気がした。落ち着かない気分になる。恐怖が芽生える。朝のことではなくて、目の前の男に。

 赤松がイノリを見詰めている。表情を読んでいる。反応を伺っている。イノリは嘘など言えなかった。

「…………えっと、その、今日の、朝、以外は、あの、誕生日、以外、みえ、見ないです……」

「誕生日ねぇ……まあ、丁度いいや。昼休み終わったらちょっと俺と外回り行こうぜ」

「そ、外回りですか?」

「息抜きにな。現場手当出るぞ」

「あの、いや、でも、俺が行っても、しょうがないっていうか、意味ないっていうか……」

「メチャクチャあるよ。其処にいてくれるだけで十分だ」

「いや、ま、待ってくださいよ、俺、あの、現場志望じゃなくて、あの、」

「大丈夫だって。作業するんじゃなくて現場を見るだけ。其処に立ってるだけで良いんだって。ホントホント。安心しろって」

 押し切られるような形で午後の予定が決まってしまった。昼の休憩時間が終わり、赤松はイノリの教育係であるアクルのところへ行く。電子タバコのヒートスティックを五本吸いきった事務員が仕事に取り掛かろうとしていた。

「なあアクル、ちょっと外回り行ってくるわ。前に見積もり依頼あったとこ、なんだっけ、山ん中のラブホ」

「ああ、あの地主さんがギャン泣きで電話してきたとこスか。気ィ付けていってらっしゃーせー」

「尾上さん連れてくから」

 それを聞いてアクルの顔が険しくなった。

「あ? なんで連れてくんです? 辞めるなんて言われたら困るんスけど。一般人連れて行かんでくださいよ」

 赤松の背後で聞いていたイノリは不安に押し潰されそうだった。アクルの反応がおかしい。「事務員枠で採用した人間を現場に連れて行って初日はお終い」という反応ではない。それがイノリの恐怖を助長させる。

 赤松は「心配すんな」とアクルとイノリを交互に見て笑う。歯を剥いて笑うそれは威嚇でしかなかった。

「辞めたいって言ったら二度とそんな舐めた口が利けないようにしてやるから」

 またブラックに入社してしまった、とイノリは泣き出しそうになるのを必死に堪えた。



 冴えない上に青ざめた三十路の男の顔がフロントガラスに反射して映っている。現場に出ている時の自分の顔だ、とイノリは思った。赤松が運転するプロボックス・サクシードの助手席でイノリは放心していた。気付けばもう二時間近く走っている。赤松は機嫌良さげに鼻唄を歌いながら法定速度以内で運転している。山道をひたすら進んでいる。

「……すいません、社長……まだ着きませんか……?」

「あー、トンネル抜けた先だ。あと十五分。酔ったか?」

「アッ大丈夫デス……」

 イノリは「この人、心配だけはしてくれるんだけどなぁ」と胸の内だけで思う。車に乗ってからずっと「家に帰りたい」と考えている。

赤松の言った通り、トンネルが現れた。暗く明かりの乏しいトンネルだった。「怖いなぁ」と思いながらイノリは目を瞑る。

 トンネルを抜けると、耳鳴りがした。目を開ければ建物が見えた。三階建てだろうと目測する。風雨によってボロボロにされた外装や看板を見る限り、ラブホテルと思しき建物だ。木々が生い茂る山の中に廃墟が建っている、というのはなかなか忌避感を抱く風景だった。

 ラブホテルには駐車スペースだったのだろう、建物脇に広い空き地があり、其処に赤松は車を駐めて降りた。イノリも渋々降りる。赤松からは懐中電灯とデジカメを預けられた。

 山間であるせいか、中天を過ぎたといっても何故だか辺りが薄暗い。そして寒い。イノリが白い息を吐いているのを見て赤松は後部座席から予備のジャンパーを出して渡した。ついでにバールも取り出してきた。

「あの、社長。なんでバール持ってるんですか?」

 イノリの質問に赤松は「使うからだよ」と返す。バールを使うタイミングとして考えられるのが「人を殴る時」だったので、イノリは赤松に殺されるのでは、と半ば本気で思った。「じゃあ行くぞ」と赤松が先を行く。イノリは暗い気分で彼の後を追った。

廃墟の出入り口には、恐らくガラスが嵌められていたであろうドアの骨組みしか残っていなかった。赤松は作業用の合皮手袋を嵌めた手でドアを開ける。

「こんちわー! 誰かいますかァー!?」

 暗い廃墟のフロントに赤松の声が響く。返事は無い。イノリはドアを過ぎた辺りからずっと恐怖心がのたうち回っていて、動悸が酷かった。平然と歩き回る赤松が恐ろしいし、建物の中も恐ろしい。何がそんなに怖いのかも分からない。余計にそれが怖い。赤松は進んでいく。イノリは大柄な彼を見失いたくなくて追い掛ける。

「三階に行く階段は崩落してて、二階は歩けそうなところが半分残ってるか残ってないかぐらいだ。足元、気を付けてな」

「はい」

 廃墟の中を見て回る道中で、赤松が建物の概略を説明してくれた。


 この廃墟はバブル時代に建てられたラブホテルだった。時代が過ぎて、採算が合わなくなり、潰れて廃墟になった。すると素行の悪い連中がたむろするようになる。最初はただの走り屋の溜まり場だったのが、徐々に悪い方向へと進んでいき、最後は半分ヤクザのような連中が事件を起こした。平成に入ってからの話だ。

 以来、ここは所謂「心霊スポット」になった。肝試しに若者がやって来るようになる。雑誌やテレビの取材が入る。この山を所有している地主としてはあまり嬉しいものではないが、取り壊すのもタダでは無いから放置していた。ただの若者の酔狂で、案外すぐに忘れ去られてしまうだろう、とも思ったのだ。

 時間が経つ中で、徐々におかしなことになっていった。建物の所有者でもある地主には報告がやって来る。「敷地内の建物に肝試しにやって来た若い連中が」で始まる報告だ。「不法侵入した」「転んで怪我をした」で終わっていた報告が、いつの間にか「病院に入った」「頭のほうが駄目になってしまった」「自殺してしまった」「死亡事故を起こした」「火を付けた」「死んだ」「人を殺した」で終わるようになっていた。これには地主も異様なものを感じて建物を取り壊すことにした。だが頼んでも業者に悉く断られるのだ。下見の段階で「すみません、ウチにはできません」と言ってくる。酷い時には建物に訪れた職員が怪我をしたり、病気になったりした。誰にも廃墟を取り壊すことが出来なかった。


 そして、藁にも縋る思いで赤松のところへ依頼した。

 事の顛末を聞いて、イノリは恐怖が一周回って冷静になった。要約するとこの廃墟は「入ったら酷い目に遭う建物」で、自分は今その建物の中をヤバイ社長と探検している。もう自分が死んでも仕方が無いような気がしてきた。

「社長、質問なんですが」

「おう」

「なんで『社長のところに頼めば助かる』みたいな展開になったんですか?」

 先導する赤松は得意そうにイノリを見返る。

「それはな、俺の実益を兼ねた娯楽のお陰だよ」

「娯楽?」

 疑問符を浮かべるイノリに彼は「朝、見ただろ?」と言う。その言葉に記憶を想起すれば思い当たるのは一つだけだ。「変な女の子」にバールを当ててすごい蹴っていた。あれが娯楽だと言っているなら、イノリには苦笑いを浮かべる事しか出来ない。

「それって、アレですか、あの、女の子」

「やっぱり尾上さんも見えてたよな、アレ」

 赤松がおもむろに軽くバールを振る。その工具はそうやって使うものではない、とイノリは思ったが言わなかった。

「ああいう、『変なモノ』をブチ殺すのが俺の娯楽なんだよ。靄になって消えんのを『死んだ』っつーのは正解かどうか怪しいけどな。で、『変なモノ』がいると仕事にならない時がある。そんな時は俺が出ていってブチ殺せばみーんな万々歳ってわけだ。俺はアイツ等をブン殴れるっていう才能があるから、それを活用してるんだ」

「アーすいませんちょっとよく分かんないです」

 あまりにも率直な感想がイノリの口から出た。赤松は「まあ趣味は人それぞれってことだ」とよく分からないオチを付け足す。

「で、尾上さんのことを連れてきたのは俺の娯楽のためだ。あの手の連中は、尾上さんみたいなのが好きなんだよ」

 とてつもなく不吉なことを言われた気がしてイノリは聞き直した。

「え? すいませんもう一回言ってもらって良いですか?」

「『変なモノ』は自分が見えて、かつビビってくれる人間のとこに寄ってくるってことだよ」

「ンアーーーーッ! もうやだ! 帰る! 帰りたい! お家に帰ります俺は!」

「ビビると発狂して変な雄叫び出るタイプだな。アクルとは真逆だな。アイツずっとキレてるから寄るモンも寄って来ねぇの。ギャハハ」

「なんスかギャハハて!? ぜんっぜん面白くないんですよこっちはァッ!? なんで!? ホント!? 何でこんな目に遭わなきゃいけないんですか俺はァッ!?」

「前世で僧侶でも殺したんじゃねぇの?」

「ナアアアァアアアアアアアッ! 転職失敗ッ! 全部クソッ!」

 イノリは頭を掻き毟って地団駄を踏む。その様を見て赤松は笑っている。いつの間にか彼等は二階のある一室にまで来ていた。これ以上先には進めない。赤松は「尾上さん尾上さん」と呼ぶ。イノリがその声に怒りを込めた視線を返せば「カメラ出せ」と指示された。車を降りる際に持たされたデジカメを取り出す。

「適当に写真撮ってくれ。一枚だけで良いぞ」

 赤松の指示を訝しみながらも、イノリは従う。現場写真というのであれば何枚も撮る必要があるが、「一枚だけで良い」と言われた。ならば、と床が崩落しているせいで進めない先を撮影した。ぽっかりと穴が開いて先に進めない廊下、そしてその先にある一部屋の扉をカメラに納めた。室内が暗いために自動でフラッシュが焚かれる。強い光が瞬いて廃墟の中を照らした。

 次はどうすれば良いのかと赤松を見れば「写ってるか確認」と言われた。「確認も何も無いだろうに」と撮影した写真を再生する。画面に写るのは何の変哲も無い廃墟の写真のはずだった。違和感がある。画面に表示されている風景の中で、何かがおかしい。

「ん?」

 イノリは目を懲らして見る。そして後悔した。

 行けない廊下の向こうにある部屋のドアが少し開いて、その隙間から誰かがこちらをじっと見ている。

「ギャアアアァァッ!」

「お、心霊写真撮れたな。もう出て来るぞ」

 赤松の言葉に「え」と声が漏れたイノリは、彼を見た後、思わず廊下の先を見てしまった。

 行けない廊下の向こうにある部屋のドアが開いている。部屋の中に女が立っていてイノリを見ている。

 ひゅ、とイノリは呼吸が乱れた。女と目が合った。ボサボサの長い黒髪にドス黒い染みを付けた丈の短いドレス。黒目しかない目が、イノリを見ていた。真っ黒い穴のような目で、老婆のようにひび割れた顔で、彼を見ていた。女には下顎が無く、長い舌が胸骨の辺りまで垂れ下がっていた。

「いいいいつもおおおおおおお いいいいいいっしょおおおおおおにいいいいいいい いいいいったあああああああああかったああああああああああああああああ」

 女がイノリを見ながら頭を振り、何処から出しているのか分からない声を出す。彼は足が竦んだ。

「とおおおおおなあああありいいいいいいいいでええええええええええ わらってええええええええええったああああああかあああああったああああああああああああああああああああああ」

 すごく怖いやつだ、とイノリは思った。失神しそうだった。ふいに女が彼を指さした。干涸らびた指の先に爪は無かった。頭の遠いところで「なんだろう」と彼が思った次の瞬間。強い力でシャツの襟首を引かれた。

「ぎゃあ!」

 イノリが我に帰ると赤松に襟首を引かれて廊下の隅に転んでいた。自分が今まで立っていたところに天井が落ちていた。今日何度目になるかも分からない恐怖に血の気が引く。女の声が室内に響いていた。

「いいいいいいまあああああああでもおおおおおおおおおお おぼえているううううううううう ああああああああああなたああああああのことばあああああああああああああ」

 女の声が耳元の傍で響いていた。顔を背けると、目の前に顔があった。眼球のない目がイノリの目を凝視していた。潰れた鼻が触れそうなほどに近く、死出蟲達が這い回る気管からの息を吸い込んでしまうほどに近かった。彼は最早悲鳴さえ上げられなかった。

「とおおおおおおおおびらあああああああああああのおおおおおおおおおおお むこおおおおおおおおおおおおうううううにいいいいいいいいいいいい」

 響く女の声を遮ったのは赤松の罵声だった。

「うるせえぞこのクソアマ!」

 イノリの前髪を掠って振られたバールの、釘抜きの部分が女のこめかみを打ち抜いた。女の体が吹き飛ばされる。イノリは極至近距離で凶器を振り回されたことに心臓が高鳴っていた。赤松は肩をバールで軽く叩きながら体を起こそうとしている女へと近付いていく。

「テメェよぉ、そんなクソみてーな歌を人に爆音に聞かせてんじゃねぇよブスが。殺すぞ」

 ザアッ、と女の髪の毛が逆立つ。そしてまたイノリの時と同じように赤松を指した。彼は臆さず近付いていく。何も起きなかった。腰が抜けたまま立ち上がれないイノリには、女が戸惑っているように見えた。赤松が不敵に笑った。

「人のこと一丁前に呪ってんじゃねぇよ。効くかそんなモン」

 女は床を這いずって逃げようとした。だが赤松が追いついた。容赦なくバールが振り下ろされる。何度も。執拗に。

 高笑いをしながら女の背に凶器を振り下ろす赤松を、「マジでヤバイ人だ」とイノリは思った。



「いやー、これで無事ラブホ潰せるな!」

 スッキリした顔で赤松が車の運転席でシートベルトを装着している。対してイノリは「ソッスネ……」と項垂れながらシートベルトを締める。

「ハハハハ、メチャクチャ面白かったな。いや、良かったマジで」

「良くないです何も良くないです」

「尾上さんに来てもらってホント助かったわ。俺一人だと全然寄って来ねーからさぁ」

「でしょうね」

 女の断末魔が耳にこびりついているイノリは何も楽しくない。兎に角早く家に帰りたかった。赤松は車を発進させる。

「あ、明日は尾上さんの歓迎会やるから。十八時から、近所の居酒屋で。酒とか大丈夫か?」

「……え、ああ、ありがとうございま…………明日? 明日ですか?」

「なんか予定入ってんのか?」

 赤松に聞かれて、イノリは口籠もる。しかし不思議と素直に話してしまう。

「あの、明日は、俺の誕生日で……」

 初日ではあるが赤松の為人をある程度理解出来たイノリは、隣の男が「そうか! じゃあ延期だな!」と言わないことが分かっていた。

「誕生日に『変なモノ』が見えるんだよな? それって、誕生日にだけ『来る』の間違いじゃないか?」

 赤松の言葉に「はいそうです」と、イノリは答えてしまう。にんまり、と赤松が歯を剥いて笑うのが横目で見えた。

「明日が俄然楽しみになってきたな!」

 分かり切っていた答えにイノリは渇いた笑いしか出てこない。もう疲れ切ってしまって、適当な話題を口走った。

「社長のアレって、なんであんなことしてるんですか? その、『変なモノ』を、退治するっていうか、えーっと」

 赤松は彼の問いに「ああ、あれな」と頷いて答えた。

「たまにスッゲー人間をブッ殺したい時があるから、そん時に我慢するためだよ」

 「人を殺すより簡単だし、どうしようもない時はアイツ等殺す感触思い出して我慢してんだ」と赤松がまた快活に笑うのを聞いて、イノリは「頭が本当におかしい人だ」と震撼した。



 イノリは出来れば会社に来たくなかったが、親の視線が痛いので出社した。入社二日目で「お腹痛いから休む」なんて、三十路の大人が言える台詞では無かった。

 八時前に出社すると既に社長である赤松、事務員のアクル、労安を担当しているクエがいた。基本的に事務所にいるメンバーが全員揃っている。

 クエが座る席の傍で赤松とアクルは話していた。クエも「じゃあ僕は行かない方が良いねぇ」と頷いていたりする。何の話をしているのだろうとイノリは彼等に近付いた。

「おはようございます」

 イノリの挨拶に三人は顔を彼へと向けた。赤松が笑んで「おはようさん」と返す。朝が弱いのであろうアクルは顔が死んでいるが挨拶は出来ている。クエも穏やかに挨拶を返す。

「おはよう尾上君。今日誕生日なんだね。社長から聞いたよ」

 その言葉を聞いてイノリの体が硬直する。そして昨日の狂乱も。ニコニコしながら中途採用の社員を見ている社長の頭がおかしいことも。イノリが「へぇえはははぁぁ」と謎の音を出している間に始業を知らせる鐘が鳴った。


 滞りなく時は進んで昼休み。イノリは昼食を持参していた。持参と行っても通勤途中の寂れたコンビニで買ったサンドウィッチと紙パックのウーロン茶だが。

 何処で食べようかと悩んだイノリは打ち合わせスペースに目をやる。其処は赤松のスペースなのか、彼が昨日と同じようにテレビを見ながら食事していた。また一人では到底食べきれない重箱の弁当を広げているのだろうか、と視線を下方へずらす。

 テーブルには平均的な大きさのアルミ製弁当箱が七宝柄の風呂敷の上で広げられていた。横には小さなスープジャー。昨日は運動会や花見ぐらいでしか見掛けないような、一家族用かと見紛う程の量だったはずだ。妻が料理を作り過ぎると言っていたのに、今日は彼が作ってきたのだろうか。

 イノリが首を傾げているとアクルに声を掛けられた。

「尾上さん立ち食いスか?」

 男のような声でつっけんどんに話すアクルは窓辺でiQOSを吹かしている。イノリは自分の席で食事を取ることにした。

「いや、昨日は社長が重箱みたいな弁当を持ってきてたので、今日は小さいんだなって思って」

 句点代わりに笑うイノリにアクルは真相を教えた。

「ああ、あれ『黄泉竈食ひ』ですよ。食べたら拙いんですよね。社長と同じ釜の飯を食うと言うこと聞くしかなくなるから」

「よ、よもつへぐいってなんですか?」

「…………多分聞いたら昼休み便所に引き籠もることになるんじゃないスかね」

 アクルはぽん、と主流煙で作った輪を吐き出す。ふわふわと窓の外へと煙は消える。まだ外は明るい晴天。イノリが恐れるモノはまだやって来ない。

「尾上さん、昨日はどうでした?」

 彼女は質問をする時カウンセラーのようになる、とイノリは思った。イノリは面接時も初日も緊張して彼女をあまり観察していなかった。黒い髪はミディアムのウルフヘアー。似たような髪型の女性歌手がいたと思う。フレームもレンズも分厚い黒縁の眼鏡。大人しそうな顔立ちだけ見れば文系の女子大生に見える。そんな風貌で多量のニコチンを摂取している。ヒートスティックがどんどん消費されていく。

 昨日とは、彼女の雰囲気が違うように見えた。

「昨日はその、えーっとですね、」

「まあ無事に帰れたのなら万古無問題ですね」

「ば、ばんこってなんですか?」

「説明が面倒なんで省きます」

 アクルとの会話は難解なものの、話し掛ければ返答をしてもらえるのは有り難かった。イノリは前の職場では中々その見極めが出来ずに話し掛けて怒鳴られたりしていた。もそもそとサンドウィッチを食べる彼はアクルが紫煙以外何も口にしないのが気になった。

「アクルさんはもうご飯食べ終わったんですか?」

 その質問に事務員は煙を吐き出す。

「昼はこれだけですよ。昼は何を食っても吐くんで」

 イノリは「あっ怖い話始まりそうだからやめとこ!」と思いそれ以上聞かなかった。


 日没が迫っている。

「何だよ。尾上さんの歓迎会兼誕生会、アクルと尾上さんの二人だけかよ」

「社長入れたら三人スよ」

 シュールな遣り取りを聞きながら、イノリは駅前の台湾料理屋に来ていた。会社にクエだけを残して就業時間を一時間早く切り上げて、赤松とアクル、そしてイノリの三人は会社を出た。

 原宿系ストリートファッションに身を包んだアクルを、イノリはついまじまじと見てしまう。髪を後ろで纏めている彼女の耳はピアスが幾つも空いているし、両側頭部の髪は刈り上げられている。

 仕事中の事務服姿とはかなりかけ離れた格好なので、純朴な三十路であるイノリは「都心の駅前にいる怖いヤンキーだ!」と内心怯えていた。赤松は作業着姿のままで、イノリは吊るしのスーツ。周囲の通行人の視線が痛い気がする。

 アクルが予約したという台湾料理屋はかなり年期が入っていた。暖簾はまだ白いが、店が全体的にくすんだ色合いになっている。排気口は黒い油汚れを外壁に垂らしているし、飾られたサンプル料理は日焼けしている。ペンキで看板に店名が書かれているが風雨と錆びのせいで読めない。

 「店として成り立っていないのでは……?」と思うイノリを余所に赤松は引き戸を開ける。立て付けが悪いせいで不快な音が響いた。赤松が顔を顰めながら店内に入っていった。

「オイ爺さん好い加減コレ直せよ! 余計客来なくなるぞ!」

 社長の言葉にイノリが苦笑いしているとアクルに一つ注意点を教えられた。

「店主の顔、あんまりよく見ないほうが良いですよ。たまに変なモン付けてるんで」

「へ、変なモノって」

「まあ、あの店主も業が深いんでしょうね。長生きするとロクなことがねぇんでしょう」

 気怠げに言うアクルも店の中へと入ってしまう。足が重くなるイノリだが、俯いて入っていった。中国語の訛りの強い「いらさいせぇい」という嗄れた声が聞こえた。店主の声だろう。

「二階の宴会場予約してたモンです」

 アクルの声がする。「ハイハイどぞどぞ」と店主らしき声が返す。アクルの踵だけ見詰めてイノリは奥へと進んでいった。

 床は赤い花柄のタイルが敷かれていた。店内はそこそこの広さがあるようで、テーブルと椅子の足が幾つか見え、座敷席らしい上がり框も見えた。二階へと続く階段脇の席に客らしい何かが二人いただけで、他にはいなかった。昼食には遅く夕食には少し早い時間帯なので、そんなものなのだろうとイノリは思った。

 階段の脇に設けられた靴箱に履いていた革靴を並べて入れる。赤松の安全靴に赤黒い汚れが付いていて、一瞬硬直してイノリは自分の靴をそっと離して置いた。急勾配の狭い階段を上がると、板張りの通路を挟んだその先に畳張りの広い空間があった。

 宴会場であろう和室は少し薄暗く感じるが掃除が行き届いている。脂で黄ばんでいる襖の柄は宝尽くし。巨大なブラウン管テレビと小さな冷蔵庫ぐらいの大きさがあるカラオケセットが縁台の脇に置かれている。書院甲板が設けられている窓の向こうは障子に阻まれて見えないが、駅前の風景が広がっているはずだ。

 三十畳はある宴会場を三人だけで使うのは少し気が引ける、と思っているのはイノリだけだった。

 赤松は部屋の隅に積まれている座布団を人数分持ってきた。イノリが自分と、預かったアクルの上着をハンガーに掛けていると突然「チリンチリン」と鈴の音がした。驚いて音がした方を見れば壁に真四角の穴が二つ空いていた。

 壁に大きさが違う四角い穴が空いている。大人が体を丸めれば入れそうな大きさの穴にはシャッターが付いている。その穴より高い位置にある小さい穴から、鈴が見えた。紐で括られているのか、独りでに揺れている。

「おっ酒が来たな」

 赤松が大きい方の穴へと近付いてシャッターを上げる。其処には盆の上に載せられたビールの大瓶が二本と、小さなグラスが二つ。それと大きなジョッキにウィスキーの大瓶が四本。氷が山のように盛られたアイスペール。どうやら学校やホテルにあるような、配膳エレベーターのような物らしい。赤松は盆を引き出すとシャッターを下ろして鈴を鳴らす。がこん、と音がして鉄の箱が下へとゆっくり降りていった。降りた先は厨房だろう。

 便利だなぁと思っているイノリは赤松に手で座るように示され、座布団に座った。赤松が酒とグラスの盆を運んできて同じように座る。アクルも煙草を取り出して腰を下ろした。酒を囲む形で三人は座る。

酒と一緒に運ばれてきたおしぼりで手を拭ったアクルがアイスペールから手掴みで氷を大きなジョッキに放り込んでいく。そして割り材を入れずにウィスキーを並々と注いだ。それを見て、率先して人のお酒を注ぐタイプなのか、とイノリは思った。だがアクルは注いだジョッキを持ち、そのまま呷った。スーッと静かに一気飲みした。

 唖然とするイノリを余所に赤松がビールを注いだ。

「はい尾上さん乾杯。入社&誕生日おめでとうございますっと」

「えっありがとうございま、えっいや、えっ? えっ? アクルさん、えっ? アレはウーロン茶ですか?」

「どう見てもブラックニッカだろ」

「私ビール飲めないんで」

「いやいやいやいや飲み方飲み方」

「社長、今日は店主の顔に百足くっ付いてましたね」

「あの爺さんも懲りねぇよなぁ」

「待って待って俺を置いていかないでください」

「七爺八爺コンビ、今日いましたけどいつもの嫌がらせですかね?」

「じゃねぇの? アイツ等飯食いに来ねぇだろ、死んでんだから」

「ねぇちょっと置いていかないでくださいってあと誰ですかその人達もしかしてアレお客さんじゃなかったんですか」

 イノリの混乱を放置してアクルはまたウィスキーをジョッキに注ぐ。そして一気に飲み干す。特に何のリアクションも無い。イノリは恐る恐る訊ねた。

「あ、あの、アクルさん、そんな飲み方して大丈夫ですか?」

 彼女はその問い掛けに平時と変わらないトーンで答えた。

「今から怖い目に遭うんだから酒でも飲んでなきゃやってらんないッスよ」

 「あ、俺達今から怖い目に遭うんだ」とイノリは思い、グラスを持つ手が震えた。外はまだ明るい。もうすぐ日没だ。

「あ、あく、アクルさんも、あの、『変なモノ』が見えるんですか?」

「前は見えませんでしたけど、此処で働くことになってからそうなりました。私の代わりに囮役が来て助かってますよ」

 また音も無くウィスキーがアクルの喉を落ちていく。からんからんと氷がぶつかる音がする。

「社長。この面子の説明しなくて良いんですか? クエさんがいない理由とか」

 事務員に言われてビールを啜っていた赤松は「それもそうだな」と上唇に付いたビールの残滓を舐めた。

「今日はクエさん欠席なんだけど、それはあの人がいると、尾上さんのとこに来るヤツが押し負けるかもしんねぇからなんだわ」

 赤松の言葉の意味が全く理解出来ずにイノリは疑問符を大量に浮かべている。そんな新入社員に赤松はどうにか説明しようとする。

「クエさん自体は別に問題ないんだけど、そのバックがちょっとめんどくさくてな」

「はぁ……」

「簡単に言うと『マジの鬼嫁』」

「えぇ?」

「嫁が鬼になって憑いてんだよ。独占欲の塊だからクエさんに近付くモノはオートでボコる。守護霊じゃねぇのに」

「んん?」

「社長、説明は諦めましょう。全然ピンと来てないですよこれ」

 アクルの言葉に「そうだな」と赤松は頷いてビールを飲んだ。イノリはずっと首を傾げきりで、何も理解出来ていない。ウィスキーの大瓶を一本空にしたアクルが説明を交代した。

「取りあえず、クエさんがいると社長のしたいことが出来ない、という程度に理解してください。尾上さんが嫌いだから来ないとかそういうわけではないです」

「な、なるほど?」

 「もしかして慰められてるのかこれ?」とイノリは思いつつ頷く。

「それで、私は何かと言えば補強役です」

「補強、ですか?」

「ええ」

 アクルがまたがぱがぱと酒を飲む。配膳エレベーターの到着を知らせる鈴の音が鳴って赤松が取りに行った。数品のつまみが籠に乗っていた。

「私の仕事は、尾上さんのトコに来るっていう『変なモノ』が何なのかを推論でっち上げてそれを三人で共有させることです」

 アクルの説明にも尾上は首を傾げる。彼女は赤松が運んできたザーサイをつまみ、ウィスキーで胃に流し込んでから煙草に燐寸で火を点けた。会社で吸っているアイコスではなくピースだった。

「尾上さんと私、社長はそれぞれ違う人間ですよね?」

「そうですね」

「尾上さんが見えている『変なモノ』は私や社長にも見えています。でもそれは必ずしも同じモノではないんです。例えばですが、尾上さんには『女の化け物』、私には『巨大な蛇』、社長には『なんとなく靄っぽい何か』に見える。三者三様になると避けられることも避けられないから共通の認識が必要になってくるんです。『正体不明』は怖いんですよ、本当に。何処から何がやって来るのか全く予測出来なくなるから。勝利条件とか敗北条件が分からないと死ぬのに、ノープランノー知識で立ち向かうことにもなるし」

 滔々とアクルは語りながら赤松の空になっているグラスにビールを注ぐ。イノリもつまみをつつきながら説明を聞いていた。

「向こうは私達の認識を誤魔化してくることもあるので、最悪同士討ちもあります。一回若いのそれで潰しましたしね、社長」

「なー、可哀想なことしたよなぁアレ。頭凹んじまってよ」

「潰すってなんですか凹むってなんですか怖い単語突然出さないでください」

「まあそれはさておき」

「全然さておいてないです」

 アクルはイノリを無視して酒を呷り、また続ける。

「相手は不確定で不明瞭な存在なんですよ。だからどんな風にも見えるし、どんな形にもなる。それに対抗するには予め共通の認識を持って相手を固定する。『正体不明』から『ぼくがかんがえたさいじゃくのゆうれい』にしてしまうんです。高い解像度の認識を共有すれば良いんです。例え違っていてもそれに納得して理解さえしてしまえば私達の思う通りにしかならなくなる。神と同じですよ。私達が理解出来る段階に引き摺り下ろすんです。逆説的『幽霊の正体見たり枯れ尾花』的な? 幽霊とかそこら辺信じてない人には手出ししてこないんですよねアイツ等。多分『信じてる人』しか認識しないのか、魅力を感じないのか、存在が観測されないとそれ自体を保つことが出来ないのかのどれかなんでしょうけど。相手が何なのか、それが私達の共通の認識になれば対応は難しくないしクリティカルヒット狙えるので。もう意味分かんないんスよねクオリアとエリアーデとウィトゲンシュタインと認識論全部ごた混ぜにして解釈してるんで。『俺がAと言ったらソイツはA』みたいなことになってる。命題が既にクソゲーなんスよ」

「おっアクル酔っ払ってきたな。舌がよく回ってるぞ」

 つらつらと話していたアクルに「分かります?」と訊ねられたイノリは唸る。

「正直、半分くらいしか分かんないし凄いトンデモ理論に聞こえます……すみません……」

「良いッスよ別に。ひとまず先に尾上さんのところに来る『変なヤツ』の認識を共有しつつ解像度を上げていきます。概要だけで良いので、まずは何が『来る』のか、教えて下さい」

 イノリは彼女の言葉に従い、簡単に説明した。「誕生日になるとやって来る」「来るのは陽が出ていない時だけ」「家の敷地の中には入って来ない」「人間に似ているが、異様に背が高くて目が大きい」「『お母さんだよ』と誘う」。それだけ説明した。アクルは「そうですか」と頷いた。

「それじゃ、今から幾つか質問していきます」

 鈴の音がして次の料理が運ばれてきた。餃子に酢豚、八宝菜、エビチリ、唐揚げ、五目焼きそば。配膳は赤松の仕事らしくせっせと大皿に盛られた料理を運んでくる。固定の宴会メニューなのだろうとイノリは思った。アクルがスマートフォンを取り出してイノリを呼んだ。

「尾上さん。最初の質問なんですが、ご実家に変な仏壇とか神棚ってありませんか?」

「へ、変なって、例えば?」

「成人男性が入れるくらいデカいとか、御神札や位牌がなんかキモいとか、あんまり視界に入れたくないとか」

「いや、そんなことはないです。普通の浄土真宗です」

「じゃあ自分の家にだけある謎ルールとかは? 蕎麦を食べてはいけない、家の者ではない女を連れて自宅の裏山を登ってはいけない、誕生日は家の外に出てはいけない、みたいな」

「いや、それも無いです。家の外に出るなってのは、言われたことないし。あと両親には見えてないみたいです」

 思い返せば、イノリの両親は彼が誕生日に外出を激しく拒むことを訝しげに思っていた。普段は喜ぶ外出を嫌がる息子に首を傾げていた。彼等にはイノリの前に訪れるモノが見えていなかったのだ。

 それを聞いてアクルは「んんー」と瞑目する。赤松と言えば一人で焼きそばを掻っ込んでいた。イノリも焼きそばが食べたかったのだが、諦めることにする。アクルがまた質問を再開する。

「ご両親は二人ともご健在で?」

「はい、まあ」

「身内や周囲もしくは自分は宗教にあんまりハマってない?」

「そうですね」

「自分の家にだけ伝わるおとぎ話やお祭りはない?」

「ないです」

 アクルは其処まで聞いて「じゃあ」とスマートフォンをタップし出した。イノリが何をしているのかと聞くと「ヒント探しです」と答えた。たぷたぷと指で画面を叩いている。それから唸る。

「尾上さんの出身地域で何か伝承出てこないか探したんスけど、それっぽいのが何も無かったのでもしかしたらマイナーなのかも知れません。誰か答えてくれそうなとこに質問します」

「知恵袋とかですか?」

「まあそんなとこです。暇人しかいない広場みたいな」

 アクルがそのまま数分黙り、そして「分かりました」と顔を上げた。

「行きずりタイプですねコイツ」

 一人で大皿料理を殆ど平らげていた赤松が「つまんねぇな」とコメントする。

「結局、どういうヤツなんだよ?」

 赤松に説明を求められてアクルは答える。

「『サラウバ』、という名前で伝わってます。サラウバ、サラウバ……ああ、『攫う婆』『攫乳母』か。それで、なんでも通り掛かった妊婦に唾を付けて生まれた子供を攫って食う、みたいな?」

 毎年、自分のところへやって来る恐ろしいあの化け物の名前が分かった。ただそれだけなのに、イノリはほんの少し恐怖心が和らいだ。どうして自分の元へ来るのかが分かった。それだけなのにほんの少し安堵していた。アクルの言う「正体不明」から「共通認識」に変わる、という言葉の意味が段々分かってきた。

 「それでは『サラウバ』と仮定しましょう」とアクルが「サラウバ」についての記述を読み上げていく。


 「サラウバ」。身内が寝静まった夜に子供を攫って食べる。サラウバは妊婦を見ると生まれてくる子供を見失わないように印を付ける。××神社周辺にのみ伝わる。サラウバはその昔、神社を長年詣でた末に子を授かった母親であった。だが折角授かった子供を病か何かで失った。母親は発狂し近隣に住む子供を自分の子供と思い込んで家に連れ去ろうとするようになった。それは徐々に悪化していきとうとう子供を食って殺すようになった。以来、サラウバは通り掛かる妊婦を待っている。


 実家近くの神社の名前が出て、イノリはビクついた。アクルが最後まで読み終わると赤松は「おー」と感嘆しつつビールを飲み干す。一本、大瓶が空になった。

「身体的な話は特に出てこないので、見掛け倒しですかね? 雑魚だったら社長には靄レベルにしか見えないから尾上さんにガイドしてもらわないと」

 それを聞いてイノリは驚いた。昨日は赤松が恐ろしいモノを圧倒的暴力で叩き潰しているのを見ているので、てっきり彼に任せておけば良いと思っていたのだ。イノリは混乱しながら訊ねた。

「あ、あの、社長は見えてるんだから、俺いらないんじゃないですか?」

 赤松は「相手による」と枝豆を口に放り込んだ。

「あんまりにも雑魚だと黒いモヤモヤの塊にしか見えねぇ。昨日で言えば、朝のヤツは完全に排ガスの塊だったし、ラブホのヤツはぎりぎり女だって分かったレベルだな」

 赤松の言葉に「何処に頭があるのか分かんなきゃ殴れないッスもんねー」とアクルが同調して煙草を吹かす。鈴が鳴り、次の料理が到着したことを知らせる。赤松が取りに行けば大盛りの炒飯と人数分の取り皿、杏仁豆腐が籠の中にあった。それを見てアクルが「ああもうそんな時間ですか」と言った。

「尾上さん、確認ですが『サラウバ』は『家の中』に入ってこないんですか? それとも『家の敷地内』に入ってこないんですか?」

「そう、ですね。いつも家の門のところに立ってますけど、敷地の中に入ってこないです」

「じゃあこの店の中は安全ですね、多分。『家の中』は当人にとっての聖域、『敷地内』は境界の内側です。尾上さんが『この部屋には誰も入ってきて欲しくない』と思えば良いんです」

 それを聞いてイノリは目を瞬かせる。

「そんなんで良いんですか? 映画とかだと結構無関係に来るじゃないですか?」

「滅茶苦茶なヤツに障ればそうなりますけど、基本『お話』ですし」

 アクルは其処で一旦煙草を一吸いして、続けた。

「もしそうなら尾上さんはもう死んでません?」

 唐突な言葉が尾上の背骨を凍らす。動揺して持っていたグラスからビールが少し溢れた。それを見てアクルは彼がまだ気付いていないことを理解した。

「もう日が暮れて夜ですよ」

 部屋には煌々と蛍光灯の明かりが降り注いでいるから気付かなかった。アクルが窓に近付いて書院甲板の上に座る。それから障子を開けると夜空が見えた。一気に動悸が激しくなってイノリは胸を抑えて目を瞑る。怖いモノを見ないように。赤松が彼の肩を控えめに叩いた。

「大丈夫だ。此処には入ってこない」

「いや、あの、でも、」

「駄目だったら俺ら三人一緒にお釈迦だ」

「なんでそういうこと言うんですか!?」

 イノリは絶叫する。赤松はカラカラと笑い、窓に近付いた。

「噂のババアはもう来てんのか?」

 赤松の問いにアクルは「ビミョーですね」と返す。彼女は後ろで怯えている三十路男を見遣る。

「尾上さん、ちょっとチラッと見るだけで良いんで何処にいるか教えてくれませんか?」

 イノリはぶんぶんと首を横に振って拒否する。だがその抵抗は空しいものでしか無かった。

「良いからこっち来て窓の外を見ろ」

 赤松が低い声でイノリを呼ぶ。嫌な引力を感じて、イノリは呻きながら窓へと近付いていく。アクルが「あーあ」という顔をしているのが怖かった。

「で、何処にいるんだ?」

 赤松に言われて、イノリは障子の陰からそっと外を覗いた。

 地方都市の寂れた駅が見える。電車の間隔が空いているので、急ぎ足で駅へ向かう人や、駅舎からゆっくりと出て来る人が疎らにいる。花壇とモニュメントが申し訳程度にあるロータリーには客待ちのタクシーが一、二台停車している。送り迎えなのか、自家用車も停まっていた。バス停には短い行列。コンビニや居酒屋が軒を連ねているが、一本道を外れると暗い。民家にはぽつぽつと灯りが点いている。改札の前に一本だけ街灯があった。壊れているのか、光は灯っていない。

 イノリは目を懲らす。きょろきょろとあちこちに視線を移す。そしてびたりと一点に留まった。改札のところに視線が釘付けになった。

 壊れた街灯だと思ったモノは街灯ではなかった。背の高い女だった。異様に背が高い。そもそも全体の寸法がおかしい。手足は枯れ木のように細い。関節が全て伸びきっているようでだらりと垂れている。俵のように膨らんだ胴は無理矢理引き延ばしたように縦に伸びている。首は胴の倍ほど長かった。干涸らびたような肌。薄汚れた粗末な小袖。ぐしゃぐしゃになった長い黒髪。頭は体に比べて圧倒的に小さい。その顔の大半を占める大きな目が、イノリを見ていた。汚らしい口元に涎を垂れ流して笑っていた。

「おかあさんだよぉ」

「ギャアアアアアアアアアアッ! いたいたいたいたいた!」

 イノリは弾かれるように窓から飛び退いた。アクルも見付けたらしく、「あ、アレかぁ」と呟く。赤松も見たようで「メチャメチャいるな」と漏らした。

「しゃ、しゃちょ、社長、もっ靄です!? ぜっ全然見えないですか!? 雑魚ですか!?」

「いやー、ガッツリ見えるわ。ギャハハ」

「ギャハハじゃないでしょうが!」

 イノリは楽しそうな雇用主に怒声を浴びせる。アクルも窓から離れて煙草を灰皿で消した。それから畳の上の料理や酒、グラスを全て書院甲板に載せる。何かの準備のようでイノリには不吉に思えた。

「そんな強くないとは思いますけど、恐らく『誕生日であれば確実に見付ける』という条件でバフ掛かってます」

 アクルが赤松に問い掛ける。赤松は窓から離れ、顔の傷を掻きながら「まあ頭あるしなぁ」と返す。

「お前の使うゲーム用語、たまによく分かねぇんだよな。ま、俺が駄目ならお前の『旦那』を頼れ。どうにかすんだろ」

「嫌ッスよ死ぬの私じゃないスか。つか『巫覡(ふげき)』と『社畜』いて『祭神』が負けるとか無いっしょ」

「あ、アクルさん、フゲキとシャチクってなんですか? サイジンて」

「『社畜』は神社に繋いでる生き物のことで、尾上さんのことですけど、説明は明日しますね。めんど、今はアレをどうするか考えないと」

 アクルは再度窓の外を見る。それから「うーわ」と声を上げた。

「近付いてきやがったあのアマ」

 彼女の一言にイノリはまた悲鳴を上げる。自分が何度も叫んでいるのに店主が様子を見に来ることもない。それに気付いて恐怖に襲われる。アクルに「大丈夫ですよ」と宥められても寒気と震えが止まらなかった。

「は、はやくどうにかしてください……もうやだ怖い怖い怖い怖い!」

 イノリは今にも泣き出しそうになっている。彼のそんな様子にアクルは「社長、さっさと片付けないと」と肩を竦める。赤松は困ったような顔をする。

「店の中には入って来ないと思います。窓を開けて応戦するのはちょっと危なそうだし、外に出て迎え撃つとか?」

「でもよ、流石に駅前でシャドーボクシング始めたり凶器振り回したりしだしたら通報されるだろ普通。バール持ってきてねぇけど」

「それもそッスね」

「えっ社長武器持ってきて無いんですか何でですか」

「なんで飯食いに行くのに工具が必要なんだよ」

「そりゃそうなんですけど! あるって思うでしょ普通! 今日! 来るって! 分かってんのに!」

 恐怖が怒りに転化しているイノリを二人は「どーどー」と落ち着かせようとする。

「尾上さんが限界近いんで、いっそ呼びます? 此処に。多分条件付けず『サラウバ』呼んだりすると神隠しキメられる気がしますが」

「それが一番手っ取り早い気がしてきた。任せるわ」

 赤松とアクルの会話が不穏でイノリは感情が収まらない。過呼吸を起こす一歩手前だった。彼をアクルがそっと呼んだ。

「うーん、じゃあ尾上さん。ちょっと復唱してください」

「え? ふ、ふくしょう……?」

「はい。『此処まで迎えに来て。お母さん』」

「こ、ここまで、むかえに、来て、おかあ、さん?」

 何も理解していないイノリが言い終えると、室内を照らす蛍光灯が激しく明滅した。イノリはびくりと体を震わせ、赤松とアクルは「おっ」と天井を見上げる。蛍光灯はすぐに正常に戻った。アクルは外を確認する。

「素直ですねアイツ」

「ノリが良いヤツで良かったな」

 赤松は空のビール瓶の首を逆手に握って立つ。それからすぐに、リンリン、と鈴の音がした。配膳用の昇降機だ。イノリは「何か料理が来た」と思った。だが赤松は動かない。

「あ、あの、りょ、料理が来たんじゃ……」

「この店の宴会コース、シメが炒飯と杏仁豆腐なんだよ」

「えっあっ」

 アクルは足音を立てないように歩き、座り込んだイノリを引っ張って昇降機から離す。鈴の音が聞こえる。しかし鈴は揺れていない。イノリの心臓は停まりそうだった。

 昇降機の降りたシャッターの向こうから、内側をカリカリと爪で引っ掻いているのが聞こえた。がち、と固い何かに填まる音がして、がしゃん、とシャッターが持ち上がった。がしゃん、がしゃん、とシャッターはゆっくり持ち上がっていく。シャッターと床の隙間から女の顔が覗いた。

「迎えにきたよぉ」

 イノリは絶叫する。こんな至近距離で「サラウバ」を見たことなど無かった。視線を外せない。苦しい。恐怖で呼吸の仕方を見失う。アクルが彼の肩甲骨の間を叩いているからどうにか意思を保っているようなものだった。

 ずるずると「サラウバ」が這い出してきた。虫のように、ぐちゃぐちゃと関節を動かしながら、頭を畳に擦り付けながら、イノリの前に現れた。

 イノリは年下であるアクルの細い腕に縋る。逃げようとしても足が縺れる。腰が抜けている。醜態を晒しているなどと恥じる余裕も無い。徐々に近付いてくる恐ろしいモノに恐怖し続けることしか出来ない。

 アクルの声がした。

「『サラウバ』より尾上さんのビビり方に引いてるんスけど。あと腕痛い」

 それを聞いて赤松は「おう」と応える。

「殴ったら死ぬって拝んでてくれや」

 赤松は足を踏み出して「サラウバ」に近付く。ゆっくりと腕を持ち上げて、宣誓するように異形の顔を指差す。

「見えるぞ。俺にはお前の『頭』が見える」

 異形が首を擡げる。目の前の障害物が何かを確認するように、ゆっくりと。迫る女の頭に向かって、赤松は思い切りビール瓶を振り下ろした。鈍い音と共に女の頭頂部にビール瓶がめり込んだ。「サラウバ」は苦悶の声を上げて畳の上をのたうち回る。

「おっ効いてる効いてる! コイツ殴ったら死ぬヤツだぞ!」

 「イェー! ワハハハッ!」と少年のように歓声を上げながら赤松は「サラウバ」に迫りまた殴る。殴る。何度も顔を狙って殴る。不安定に揺れる化け物の頭に的確にビール瓶をめり込ませていく。其処にきちんと「化け物の頭がある」ように。

 悲鳴を上げる「サラウバ」は細長い腕を振る。赤松を掴もうとする。それを赤松は叩き落としてまた頭を殴る。噛みつこうとしてくる女の顔を殴打する。「サラウバ」の顔は最早原型を保っていられないほど凹んでいる。

「あ あぁああ ぁあああああぁああああぁぁぁああぁぁぁああぁあぁああぁぁぁぁぁ」

 「サラウバ」が絶叫して赤松のビール瓶を弾き飛ばした。ビール瓶は壁に当たって割れた。

「おっと」

 巫山戯たようなリアクションを取って赤松は笑う。その隙に「サラウバ」は赤松の横をすり抜けてイノリに迫る。イノリが逃げようとし、アクルは彼を立たせようとしたが「サラウバ」の方が早かった。

 異形の手が彼の左足を掴んだ。その手がぞっとするほど冷たかった。絶叫するイノリをアクルは引っ張り上げようとするがそもそも力が足りない。

「ぎゃああーッ! しゃっ社長ーーッ!」

「なにチンタラやってんスか! ここで拉致られたら良くても神社まで迎えに行く羽目になるんじゃないスかねぇ!?」

 アクルが声を張り上げる。赤松は楽しげな笑い声を上げる。

「ギャハハハハハッ! 俺等みんな酒飲んじまってるから飲酒運転になっちまうな!」

「笑ってねぇでさっさとやれやクソチンピラ!」

「しゃっ社長助けてぇーッ! 早く助けッ、助けろ! 早く!」

 アクルの罵声が響き、イノリの懇願が室内を埋め尽くす。イノリの両足がズブズブと「サラウバ」の口に飲み込まれていく。小さな女の口がマンホールのように広がり彼を飲み込もうとしている。膝の辺りまで飲み込まれて、感覚が無くなっていく。発狂寸前の彼は気絶したくとも恐怖が強過ぎるあまり気絶出来ない。声を張り上げ続けるしかない。

 「死ぬのが怖い」とイノリは思った。目を固く瞑って祈った。「助けて欲しい」と思った。「助けて」と叫んだ。

「そんなビビんなよ、尾上さん」

 赤松の声がして、目を開けると割れたビール瓶を持った赤松が目の前に立っていた。胴の部分から割れたビール瓶は何かを刺し殺すのに丁度良い。

 巨躯の赤松が体重を乗せて「サラウバ」の頭にビール瓶を突き立てた。そのまま力任せに胴体へ向かって引き裂いていく。薄皮に包まれた柔らかい肉の塊を裂くように、化け物を捌いた。

 断末魔の後に「サラウバ」は煙となって消えた。イノリは四肢が硬直していたが、徐々に落ち着き始めた。長年悩まされた化け物が消えたと、徐々に思い始めた。解放されたという実感はいつまでも来なかった。

 呆然としている彼を余所に赤松は割れたビール瓶をアクルと片付けて、料理や酒を並べ直して乱れた座布団を整えた。

「よし、じゃあ飲み直すか!」

「うぇーい」

「まだ飲むんですか……」

 イノリの歓迎会と誕生日会は「戦勝祝賀会」という名前に変わり、終電間際まで延長された。赤松は空き瓶や空いた皿を昇降機に載せ、ついでに「延長」と書いたメモも置いて下ろした。腰を下ろして仕切り無しの乾杯をして、赤松とアクルは飲み始める。イノリはまだ足が震えているので四つん這いで二人に近付く。赤松に注いでもらったビールを煽って、漸く人心地着いた。

「はぁ〜〜、怖かった〜〜」

 極度の緊張が消えて、イノリは今にも溶けそうな溜息を吐いた。アクルは「お疲れさんです」とあまり残っていない枝豆の皿を差し出した。礼を言って彼は温い枝豆をつまむ。

「あ、さっきはすみませんでした! 腕掴んだりとかして、ホント」

「別に気にしてないですよ。酷さで言えば社長が余裕で圧勝します」

 彼女の言葉を聞いて赤松が怪訝な顔をしている。イノリは苦笑いして話題を変えようとする。

「いや、この歳になって幽霊が見えるようになるとは思わなかったです」

「え? あれ幽霊なんスか?」

「え? 違うんですか?」

 アクルとイノリは顔を見合わせる。よくよく考えてみれば二人は所謂「幽霊」らしいモノを見たことがない、と話してみて分かった。

「社長は幽霊って見えるんですか?」

 ビールを飲みながら酢豚を食べていた赤松にイノリが訊ねると、彼は「いいや」と返した。

「俺、実家が寺だから墓場がお隣さんなんだけど見たことないぜ? ノリで墓石ブッ倒しても何も起きなかったし」

「すごい罰当たりだ……」

「社長に人を悼む気持ちとかないでしょ」

 部下二人の「うーわ」というリアクションに赤松は片眉を持ち上げる。

「失礼なこと言うなよ。あるぜ、相手に赤い血が流れてるならな」

 アクルに「人でなしだー」と囃される。イノリは彼に問い掛けた。

「社長は、これが娯楽だって言ってましたけど……怖いって思うことは無いんですか?」

 その質問は物心ついてからずっと怯え続けてきた彼が、高笑いしながら化け物を打ちのめす赤松を見てからずっと抱いていたものだった。

 赤松は悟った僧正のような顔で答えた。

「人間、生まれたら最後は死ぬだけだよ。なら娯楽を精々楽しむのが唯一人生にある価値ってモンだろ」

 赤松のそんな台詞を聞いて、イノリはつくづく「この人ヤバイ人だな」と思った。

「そういえばアクルさん。さっきのシャチクとか、なんなのか教えてくださいよ」

「酒飲んでたらめんどくさくなったんで明日また聞いてください」


 翌日。アクルは運転免許証更新の為に午前中だけ有給休暇を取り、クエは朝から現場のパトロールで不在だった。会社には赤松とイノリしかいない。朝礼前だが既にのんびりとした空気がフロアに流れている。イノリは未だに夢の中にいるような気分だった。ずっと幼い頃から恐れていたモノがもう二度と現れないということが、まだ信じられない。

 いっそ長い夢だったと思うことにしよう、とイノリは缶コーヒーを啜る。その時、フロアの扉がノックされた。会社には受付らしい受付が無いので来客は予め来社をメールや電話で知らせておくか、事務員が詰めているフロアを直接訪れるしかない。

「尾上さん悪いけど出てくれ」

 赤松は顰め面でキーボードを叩いていて手が離せない。イノリは返事をして扉に近付いた。トントン、と控えめなノックが再度される。「今お開けします」と声を掛けて、イノリは扉を開けた。

 扉の向こうには背の高い男が立っていた。百貨店の大きな紙袋を持って、薄手の黒い手袋か何かをしていて、手首に数珠を嵌めて、ダークスーツを着ている。イノリは男がすぐに「葬儀屋だ」と思った。男は同年代のように見えた。疲れた顔で、暗い目をしている。

「早朝から突然押し掛けてしまい申し訳ございません」

 男が口を開いて鐘のような声で言葉を発した。その瞬間イノリは肩を跳ね上げた。男の口の中は真っ黒だった。『変なモノ』ではない、とは分かる。人間だとは分かる。だからイノリは彼の異様さに恐怖した。

「あの、ど、どちら様でしょうか?」

 必死に平静を装ってイノリは来客の正体を確かめる。男は失念していたというように声を上げて懐を探った。

「嗚呼、失礼致しました。私、葬儀社をしております青沼と申します」

「せ、セイショウさん」

「寺の子供に生まれると物珍しい名前を付けられるので」

 渡された名刺を受け取り、「下の名前だけ名乗るんだ」とイノリは思い、それから既視感を覚えた。この感覚を以前も感じたことがある。

 視線を下に向けて、男の手も真っ黒なことに気付いた。手袋を嵌めているのかと思ったら違った。タールに腕を突っ込んで浸したかのように黒い。受け取った名刺には汚れらしいものは付着していないが、今すぐにでも投げ捨てたくなる。どうしてこんなに忌避感を感じているのか分からない。厭悪、という字面が唐突に浮かぶ。男の足元にある影の色が濃い。ドス黒く、何故か波打っているように見える。受け取った名刺には「国定 青沼」という名前が書かれていた。そしてやっとイノリは既視感の正体に気付いた。

 イノリは恐る恐る訊ねる。

「あの、もしかしてなんですけど・・・・・・青沼さんて、社長の、」

 ドスドスと重い足音がして、それからドスの利いた声が頭上から聞こえてきた。赤松だった。

「何しに来たんだこの野郎」

 背後から殺気を感じてイノリは冷や汗を掻いているが、青沼はどうとも思っていないようだった。

「なんだ、挨拶が出来るようになったのか。三年前よりは進歩したな」

 むしろ喧嘩を売っている青沼にもイノリは戦慄している。

「帰れ殺すぞ」

「駄目だ、私はお前と話をしに来た。すみません、何処か席をお借りできませんか?」

 青沼に訊ねられて、イノリは咄嗟に「打ち合わせ用のスペースが」と案内してしまう。赤松は嫌そうな顔を向けてくるが、客に帰る意思が無いのは分かっているので渋々一緒に向かう。

 イノリがお茶を出そうか迷っていると赤松は「出すな出すな」と手を振り、青沼は「つまらない物ですが皆様で召し上がって下さい」と小さな菓子折を出して渡してきた。受け取りたくないな、と思ったイノリだが我慢して礼を言った。

「あの、すいません。青沼さんて、社長のご兄弟とかなんですか?」

「ええ。コレとは四つ違いで」

「俺の弟だよ。生きてるクソ」

 仲悪いんだろうな、と察するイノリの足元で何かが聞こえた。え、と目を遣ると青沼の影を踏んでいた。

 また何か聞こえた。人間の声を逆再生したような音が聞こえた。波打つドス黒い影に、白い顔が浮かんでいた。人間の顔だった。それはイノリの顔をじっと見詰めて「いっしょに しんで」と男の声で希った。

 悲鳴も出ぬほど怖気が走ったイノリは咄嗟に後ろへ飛び退いた。誰も座っていない事務椅子にぶつかった。青沼は胡乱な視線を彼に向けて「どうかされましたか?」と訊ねた。青沼には見えないのか、気にしていないのか分からない。首を横に振るだけしか出来ないイノリを見て察したのか、赤松は「もうすぐ朝礼だけど座って待っててよ」と席に戻るよう指示した。イノリは従った。

 新入社員が自席に戻ったところで赤松は切り出す。

「で、何の話をしに来たんだよ」

「話は二つある。まず一つ目だが、父親と、私を安心させる為に来た。将来の心配事は少ない方が良い」

 青沼はそう返して、大きな紙袋を机の上に置いた。

「子供が生まれたそうだな。おめでとう。父親も喜んでいた。お前はいつも警察の厄介になっていたから、ちゃんと生活を営めているようで嬉しいと」

 機械的な弟の話し方が赤松の勘に触る。それは毎度のことなので赤松はやり過ごすことが出来る。青沼は紙袋から札束を一つ取り出した。

「これは、以前渡せなかった結婚祝いだ」

「いらねぇよ。テメェの施しなんざいるか」

「最後まで聞け」

 青沼はまた一つ札束を取り出して重ねた。

「これは出産祝い」

 また一つ札束が紙袋から取り出されて重ねられる。

「これは七五三」

 また一つ札束が増える。

「これは入学祝い」

 また札束が増える。

「これは進学祝い。中学と高校の分だ」

 また札束が増える。

「これは大学入学の祝い金」

 また札束が増える。

「これは就職祝い」

 そう言って置いたのが最後らしかった。青沼は何とも思っていない顔で兄を見ている。

「お前の好きにしろ」

「いらねぇっつってんだろ。そもそも、なんで子供生まれたの知ってんだよ。教えてねぇだろうが」

「役所で戸籍の附票を請求したらすぐに分かることだ。相変わらず知恵が足りないなお前は」

 こめかみに血管が浮く赤松はこれ以上低くならない声で唸った。

「何がしたいんだよお前。相変わらずイカレてんだな、ガキの時分から何も変わってねぇ」

「言っただろう? 父親と、私の将来的な不安を取り除きたい。具体的には、新しい親族の一人が貧困に喘ぐようなことになるのは心苦しいので先に纏めて援助金を渡して必要以上に関わらなくても済むようにしたい。お前が捨てた実家の維持に余計な力を使いたくないからな」

 軽く両手を挙げて、それ以上の意図は無いと青沼は示す。赤松は変わらずに拒む。

「いらねぇよ。持って帰れ。そんで早く親父に死ねっつっとけ。そんでお前も死ね」

「アレもそう長生きはしまい。だが不安は拭わなくては。此処で受け取らないというのであれば、私はお前の家に行かなくてはならない。お前の妻と子供に、確か娘だったな、その二人に会って話をしなくてはいけなくなる」

 長く骨張った両の指を組んで青沼は気怠げに首を捻る。今にも掴みかかってきそうな赤松のことなどどうでも良さげに。赤松は自分の身内の中でもこの弟が一等嫌いだったが、どうにか殺さないように気を付けていた。だが今日は殺すかも知れないと思った。

「…………そのまま喋り続けろ。殴り殺してやるから」

「では黙って金を受け取れ。それで二つ目の話だが」

 打ち合わせスペースから漏れてくる兄弟の会話にイノリは慄いていた。険悪過ぎるムードのお陰で定時を知らせるチャイムに気付かなかった。ハラハラしながら二人のことを見ている。転職先で殺人事件が起きたら困る。就活を年一の行事にしたくない。

 青沼は言葉を続ける。

「仕事を頼みたい。潰したい家がある」

「ハァ? なんだそりゃ?」

「娘の幽霊が化けて出るそうだ」

 イノリが青沼の言葉を聞き取ろうと身を乗り出していると卓上の電話が鳴った。慌てて受話器を取る。

「はい、国定興業株式会社です。えっ? 女の子の幽霊が出る家!?」

 思わず声を上げたイノリを見て、青沼は「嗚呼、良いタイミングだ」と呟いた。赤松は自分と会社が、目の前の碌でもない弟の娯楽に巻き込まれたのだと知って、いよいよ弟を殺すことにした。









1話 完

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