彼は息継ぎをする

 俺は雨男の部類な気がする。行事が必ず延期になるみたいな派手なものじゃなくて、ちょっと出かけようかなと思った日に限って雨、だとか、外を歩かなきゃいけないタイミングに限って降り出して、建物の中に入ると止む、だとか。そういう地味なやつ。陰湿を具現化したみたいな奴だと言われ続けて来たのは俺が雨男だからなのか、俺があまりに陰湿だから空も泣きたくなるのか、今となってはどちらでもいい。制服のエプロンを外す。このスーパーでバイトをし始めてどのくらい経ったか分からないが、中年の女のゴシップほど不快なものはこの世にないというランキングはここでの仕事を始めて以来不動だった。

 雨男であるというのに傘を忘れた俺は仕方なくパーカーのフードを被る。踏み出した街は鈍色で、こんなところでパートのババア共に紛れて燻っている俺を見張っているような重々しさがあった。肺にどす黒い流動体が広がっていくような感覚がする。息が苦しい。俺には才能があるはずだった。国語の成績だけは勉強しなくたって周りから評価されるレベルだった。湿度の高い空気を肺に詰め込む。書く文章も選ぶ言葉も褒められてきた。読書感想文で佳作に入賞したことだってあった。そう、最優秀賞よりも、優秀賞よりも、もっと下、佳作ね。図書カード500円。吸い込んだ息を吐く代わりに咳が出た。パーカーのフードの色が変わっていく。仕方ない、雨宿りでもしよう。そう思って喫茶店に足を踏み入れた。このご時世に珍しい、喫煙可の小さな喫茶店だった。

 入店した後、髪が濡れてずいぶんうねっていることに気がついた。人もまばらであるから大して気にはならなかったが、通された席の隣には女が座っていたので無造作に自分の髪を撫でつけてみる。おそらくその行為が見た目にほとんど影響を及ぼしていないのを分かっていながら。灰皿を出されるや否やライターを灯した。コーヒー片手に喫煙をするのは数少ない趣味の一つだった。趣味というにはあまりにも雅味が無いチンケなものだったが、雨の街ではそれぐらいしかすることも無かった。仮に晴れていたとしてもほとんどの旧友が定職に就いて身を固めつつある中で遊ぶ気になど到底なれなかった。

 ふと思い出して、ポケットにあった文庫本を取り出す。雨で少しよれてしまった文庫本。いつ買ったものだかもう思い出せないが、事あるごとに自分を重ねてきたのはいつだってこの本の主人公だった。そうやって、この陳腐な悩みを正当化してきたような気がする。世にも立派な文豪大先生だって、失格の烙印を自ら押していたんだぞ、と。灰が落ちないように気を遣いながらページをめくる。なんだか久しぶりにこの本を開いた気がするのは、おそらくパーカーのポケットに入れっぱなしになっていたからだろう。しばらく読み進めてふと顔を上げると隣にかける女が目に入った。というか、女の手にある本が目についた。それが、自分が今まさに手にしている本と同じだったからだ。奇しくもカバーを外しているところまで同じだ。見ればその本の持ち主は学生風の女だった。高校生くらいだろうか、にしては辛気臭い顔をしているような気もした。くだらない。どうせ思春期特有のアパシーやらルサンチマンやらを名作と名高い作品を読んで正当化しようとしてるんだろ。見え透いてんだよ。そう思ったが、すぐに俺はそれを撤回しなければならなくなる。彼女の手の中にあるその本が、思春期による一過性の興味によって開かれているのだとしたら、あまりにも読み潰されていたからだ。もちろん他人から譲り受けたものである可能性もあった。しかし、なぜか彼女は俺と同じように、主人公の姿に自身を重ね、活字を目で追う瞬間だけが唯一呼吸が出来る時間だと感じているような気がしてならなかった。それは彼女のひたむきな瞳にも由来していたのかもしれない。煙草を灰皿に押し付ける。二箱目に移ろうか、それとも、この女の眼差しが本当に俺と同じものなのか確かめてやろうか。そう思っていると女と目があった。乾いた唇を舐める。

「その本、好きなんですか」

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