彼女は溺れたかった

 靴の中で濡れた靴下が泡立つ感覚がする。傘をさしていても足元が濡れるのを避けられないのは、傘に問題があるのか、靴に問題があるのか、はたまた私の傘のさし方に問題があるのかてんで分からなかったので、大人しく替えの靴下を持ってこなかった自分を恨むことにした。私の学校までの歩みが極端に重いのはこの雨のせいだけではなかった。ありがちといえばありがちな、凡庸ともいえそうな悩みが、じわりと靴の中に侵入する雨水のように私の心を濡らしていた。

 教室の戸を開ける。一瞬数名の視線がこちらに向けられ、すぐにそれも逸らされる。窓側にある自分の席へも神経を張り詰めて歩めば、またぐしゃりと濡れた靴下が存在を主張してくる。右足、左足、右足、あれ、手はどう動かすんだっけ。パニックになりかけたところで席にたどり着く。自分が椅子を引く音は教室の喧騒に呑まれて響かない。安心したような、苛立つような感覚を覚えて、慌てて自分の感情を確かめる。

「このガヤガヤの中に入れないのは寂しいし気に喰わないけど、おかげで私が輪の中に入れていないことに誰も気づかないから落ち着く」

自分の心の中で何か不可解な情緒が現れたときはいつもこうやってもう一人の私を連れ出してくる。この気色の悪い自問自答をし始めてどのくらい経っただろう。いつの間にかもう一人の私はすっかり優等生になっていて、私からのどんな問いにも何かしらの答えを用意してくる。そうか、私は寂しがり屋だったか。教科書を机に押し入れる。

 学生とは、集中力こそ無いくせに体力ばかりを持て余す生き物であるから、授業毎にたっぷりと休憩が取られるようになっている。その休憩10分間を共に過ごす相手が、私にはいない。大抵の場合机に上半身を預けるか、読み潰されてずいぶんと柔らかくなった文庫本を開いているかだった。その本の中の主人公はいつだって私より苦しそうで、駄目人間だったから。私以外の教室の人間全員が楽しげに、もしくは人知れず苦しげに軽口を叩き合う喧騒の中で、私はひとり活字に溺れていた。それが私の日常だった。この教室の中ですら何者にもなれない私が、将来社会でやっていけるのか、そればかりを考えながら日々を浪費していく。さしずめこの本の主人公と同じく、失格の烙印を押されるのだ、と。

 そんな日々をいくつかの季節が過ぎ去るほど繰り返していたとき、右耳から左耳に聞き流した陳腐な級友の言葉達と、右目から左目に受け流した読み潰された文庫本の言葉達が、私の中に溢れんばかりに溜まっていたとき、私は喫茶店に歩みを進めていた。運命の出会いと呼ぶにはあまりにも悲劇的な出会いをするとはつゆ知らずに。

 今日の日本にしては珍しく喫煙が許されたその喫茶店は、いつも煩雑としていて誰も私のことを気に留めないので気に入っている。コーヒーを注文していざ例の文庫本を開こうとしていると、隣の席に男が座った。真っ黒な髪はうねっていて、それが湿気によるものなのかパーマでもあてたのか私には判別がつかなかった。高校生と言われればそう見えるし、30代と言われても否定は出来ないような、そんな見てくれの男だった。彼は、喫煙にそこまで抵抗のない私でも驚くくらいの速度で灰皿を埋めていく。そしてさらに驚くべきことに、彼が上着のポケットから無造作に取り出したそれは、私が今まさに読まんとしている文庫本と同じなのだ。私は右手に年季の入った文庫本、左手にコーヒーカップといった様相で彼を気にかける。

 彼の来店から一時間半ほど経ったかという頃、もう一口分も残っていないコーヒーカップを手に取るか取らないか逡巡していた私は、二箱目に手を出すか出さないか逡巡していた彼は、何を思ったのか、お互いを見つめ同時に口を開く。

「その本、好きなんですか」と。

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