第二十二話 記憶

 部室の中は、静寂に満ちていた。

 窓からまぶしい太陽の光が射し込む。

 目を細めたくなるほどの陽光が反射する、横長の机の向こう。

 そこに、ひとりの少女が頬杖をついて佇んでいた。

 天宮だ。

 夏の日差しに照らされた天宮は、どこか神聖な雰囲気を纏っているように思えた。

 うれいを帯びた表情の彼女は、気だるげな視線を斜め下の方に向けている。

 どうやら、机の上にある何かを眺めているようだった。

「……遅かったわね」

 おれの方を見ずに天宮が言う。

「もう、このまま部室に来ないんじゃないかと思ったわ」

 言葉の割に、口調はとてもさみしげだった。

 彼女が強がっていることは、経験上、明らかだった。

「お前はおれを信じているんじゃなかったのか?」

 彼女の方に歩み寄る。

「あれは、嘘だったのか?」

 試すように言い放つ。

 彼女は何も言わない。

 ただ、黙って、机の上にある何かに視線を向け続けている。

「……何を見ているんだ?」

 だんまりを続ける天宮に問う。

「……お守り」

 不躾ぶしつけに、それだけを言う。

 そして、思い出す。

 ちょっと前に、彼女が肌身離さず持っているというお守りの存在を教えてもらったことを。

 当時は、まさか、こんな事態になるとは思いもしなかったが。

 しかし、なぜ、またお守りなんかを呑気に眺めやっているのか。

 この期に及んで神頼みというわけか?

「あたしね……、思い出したのよ」

 突然、そう切り出した。

 否が応でも反応せざるを得ない会話の切り口に、おれの意識は一気に引き込まれた。

「どうして、今までずっと忘れていたのかしら……、あんなに大事なことを……今まで……」

 熱に浮かされたような、ぼうっとした表情で彼女は続ける。

「……5年前、あの場所で、あたしは……」

 ――5年前。

 天宮が告げたその単語に、おれの中で何かがざわついた。

 妙な気分だった。

 頭の奥で、何かが鎌首をもたげる。

「……ねえ、シューヘイ」

 急に話を振られた。

「……なんだ?」

 動揺を隠しながら問い返す。

「あんたは、どうして、孤児院と、教会堂のことを知っていたの?」

「どうしてって、そりゃ――」

 最初は若葉に誘われ、次からは露木の奴に招待されて……。

「…………」

 その時、些細な疑問が脳をついた。

 なぜ、若葉は、おれを孤児院に連れて行ったのだろう?

 それこそ、当時は、単にひとりじゃ行きづらいだけかと思っていたが、じつは、何か裏が潜んでいたのか?

(……いや、それは考えすぎか……)

 なんにせよ、今はそんな詮索をしている場合ではない。

「特に意味はねーよ。下宿先の親戚の子が行ってみたいって言うから、おれはそれに付き添っただけだ」

「その親戚の子って……」

「ああ、お前には話したことはなかったか? 名前は――」

「……蔵屋敷」

「…………」

 おれが名前を告げる前に天宮が口を挟むものだから、思わず眉をひそめた。

 ……なぜ、こいつが、そのことを知っている?

 不意に湧き上がった疑問は、更なる疑問で上書きされる。

「……やっぱり、そうだったんだ」

 沈黙を答えと受け取ったのか、天宮は、ひとり、納得したようにつぶやく。

(……カマをかけたというのか? それとも、ただ、確認を取っただけか?)

 それにしても、おかしい。おれが蔵屋敷の家に下宿していることを、なぜこいつが知っているというのか。

 わけがわからなかった。

(何なんだ、一体……)

 苛立ちが募る。

 おれの知らないところで、おれの知らないうちに、何かが進行している。そして、そのことを、おれ以外の連中が知っている。

 不愉快だった。

(芥川といい、天宮といい……一体、何だっていうんだ)

 皆が皆、知ったような口を利く。

 何も、おれのことなんて知らないくせに。

 いや……待て。

 案ずるな。

 おれは明星を利用し、東から事のあらましを吐き出させた。

 主導権はおれにある。

 何も、焦る必要などないじゃないか。

「…………」

 それなのに、どうしても心が落ち着かない。

 5年前……、孤児院……、蔵屋敷……。

 天宮の口から出た言葉の数々がおれの心を掻き乱し、思考を狂わせる。

 まさか、まさかという、常軌じょうきを逸した考えばかりが脳裏を執拗によぎる。

 おれは……。

 おれ、は……。

「――シューヘイ、シューヘイってば」

 その声で、おれは自分を取り戻した。

 見れば、天宮が、机の上に置かれた例のお守りを指さしていた。

 どうも、さきほどから何度か呼ばれていたらしい。彼女の目つきが、あからさまに怪訝なものに変わっていた。

「……どうしたのよ? 突然、押し黙っちゃって。いつものあんたらしくないわね」

「いつものって、おれはお前の中ではどんなイメージなんだよ」

「そうね……、常に何かに対して意識を張り巡らせて、難しい顔して、それでいて、ちゃんと周りは見てるような……、不思議な感じ」

「ふーん」

 まあ、傍から見ればそんなもんか。

「……って、今はそんなことはどうでもいいのよ」

 ガタンと席を立つ。

「あたし、あんたに聞いておきたいことがあるの」

 神妙な表情で問われ、おれは身構える。

「……コースケとは、どんな話をしてたの?」

 机の上に両手をついた、直談判の格好。

 ……やはり、そう来るか。

「あー、じつは、その、なんだ……」

 おれはちょっと考えるふりをする。

「おれたちが、最近、やたらと孤児院に押しかけていたことについて、問いただされたんだよ。『お前ら、人様の土地でなに勝手なことしてんだ』ってな」

 予想できた質問なので、答えはすでに用意していた。

「要するに、まあ、脅されてたってことだ」

 作り笑顔であっけらかんと言うと、天宮は頬を綻ばせた。

 無論、おれの言ったことはすべて嘘だ。

 おれは明星と盟約を結んだ。尾前町からより多くの土地を奪うために、お互い協力すると。

「そう……、そうだったの」

 安心したように口元を緩め、何度か頷く。

「じゃあ、何も、あたしたちを見捨てたわけじゃないのね?」

 だが、やはり未だにおれを疑っているのか、不安げにおれを見詰める。

 おれは慎重に様子を窺う。

「……それはまた、穏やかじゃないな?」

「だって、ギンジってば、『風祭は何かおれたちに隠してる』って言って聞かないのよ。まるで、シューヘイの方が悪者みたいな言い方してさ」

「……そうか」

 なかなか鋭いな。

「でも、直接あんたの口から聞いて安心したわ。やっぱり、コースケのヤツがすべての元凶なのね?」

「ま、そういうことだな」

 悪びれなく言う。

 自分のことは棚に上げて、余罪を他人になすりつける。我ながら、なかなかの外道だ。これでは、おれも明星のことは悪く言えない。

 もっとも、あいつのようなわかりやすい悪党と結託したからには、トカゲのしっぽ切りよろしく、隠れ蓑として利用するに限るが。

 そこで、唐突に思い出す。露木と天宮とも協力を誓ったことを。

「………………」

 なんという二枚舌。人間は自分のためならここまで卑劣になれるのか。

 まるで呂久郎や露木とは対照的な考えに、おれの胸はわずかに疼く。

 しかし、今さら後戻りはできない。

 おれの心は揺るがない。

(おれのような男には、悪こそが相応しい)

 明星がいみじくも言ったように、おれは、『あちら側』の人間なのだ。弱者を蹴落とし、踏みつける、それがおれたち『強者』に与えられた特権であり、人の上に立つ者の資格であり、常に背負うべき原罪とも言える諸悪の因子なのだ。

 そうでなければ、どうして土地収用などできるだろうか? どうして人の気持ちを裏切り、踏みにじり、容赦なく切り捨てることができるだろうか? どうして神に逆らい、欺くことができるだろうか……?

「……で、話ってのはそれだけか?」

 気を取り直すように天宮を見る。

 すると、天宮は小さく首を横に振った。

「ううん、本題はここからよ」

 唇を真一文字に結んだ真剣な表情。真っ直ぐに伸びた視線が、正面からおれを捉える。

 おれは同じように気を引き締める。

「………………」

 ――だが、どういうわけか、天宮は口を噤んでしまう。

 表情が赤い。

 それは、窓から差し込む西日のせいなのか、彼女自身によるものなのかは、よくわからなかった。

 彼女の目が下がる。視線はおれではなく、机の上に注がれる。

 おれは、力なく下がった天宮の視線の先を追う。

「お守り……」

「……ん?」

「前に、言ったわよね? あんたには、いつか、教えてあげる日が来るかもしれないって」

「……確かに、そんなことを言っていたが……」

 そこで、会話が途切れた。

 妙な沈黙が流れる。

 どうもおかしい。

 彼女の目的が、推し量れない。

「なあ、話ってのは何なんだ?」

 居たたまれなくなって尋ねる。

 それでも、天宮は黙ったままだった。質問するおれの顔を見ようともせず、俯いているばかり。

 ……いや、違う。

 その時、気が付いた。天宮の視線が、依然としてお守りに向けられている理由が。

 つまり、これこそが問いの答えだ。

 彼女は、おれに、お守りを見せようと合図しているのだ。言葉ではなく、視線と、態度で。

 その行動が意味するところを、おれは知っていた。

 彼女は……おれに、好意を抱いている。

 なぜなら、彼女にとって、こうして後生大事に持っているお守りの正体を明かすことが、何よりの信頼の証だからだ。それが男女間の絆かどうかはともかく、おれに対して通常以上の感情を向けているのは確固たる事実だ。そんなことは、彼女のこれまでの言動を鑑みれば、おのずと明らかだ――。

(だが、いいのか?)

 自分に問う。

 おれは外道だ。

 きっと、彼女の純粋な想いさえ、おれは平気で利用することだろう。

 天宮は、おれの本当の姿を知らない。おれが特派員であること、明星とつるんで土地収用を進めようとしていること、彼女たちの期待を裏切ろうとしていることを、何も知らない。

 彼女は自分の気持ちをこうしてさらけ出しているというのに、おれはといえば、嘘を嘘で塗り固める卑劣な男だ。

 つり合うはずがない。

 そもそも、おれは、必要以上に親密となる対人関係の構築に何の興味もない。

 いずれ手にするであろう権力と地位に執着するおれには、学生時代の友情ごっこや色恋沙汰など、どうでもいい話だった。

 そうだ、のだ。学生生活の範囲内においては、何が起ころうとも、今後のおれの行動に支障を来たすわけではないのだ。

 ならば――。

 そこで、ある考えが不意に思い浮かんだ。それはまさしく悪魔的な考えだった。

(……そうだ……、だったら、

 どうせ、おれはこの町を離れる。良くも悪くも、すべては思い出となって記憶の彼方に追いやられ、いつか、何もかも忘却する。

 なら、おれは、今取れる中で最善と思われる選択肢を選ぼう。

 何も、遠慮する必要はない。

 この社会で勝つためには、手段を選り好みしている余裕はない。

 結果がすべてだ。道中の過程など何の意味も持たない。

 勝つのだ。

 勝ち上がるのだ。

 絶対に、目的を成し遂げるのだ!!

 鬱屈うっくつとした胸の奥底から黒い炎が燃え盛る。

 自分以外のすべてをなげうつ決意をしたおれは、顔を近付け、机の上のお守りを凝視する。

 長方形の、薄い紙……。

 それは、一枚の『写真』だった。至るところが擦り切れ、全体的に古ぼけた、いかにも常に持ち歩いていると言わんばかりの状態の……写真。

 その写真を注意深く眺めたところで、おれは目を見張った。

 写真には、見覚えのある人物の姿が写し出されていた。見覚えのある背景を背に、あどけない笑顔で佇む、ひとりの少年……。

「……この男の子のことを、あたし、一度も忘れたことがなかったわ。これまで、ずっと……」

 写真に写った少年――。それは紛れもない『ヒトシ』少年その人だった。おれを惑わし、欺く、問題の人物だった……。

 だが、なぜ、彼女が『ヒトシ』の写真を?

 それに、これは……。

 言いようのない既視感が込み上がる。

 おれの手は、半ば必然的に、以前から自分の懐に潜ませた『あるもの』に滑り込む。

 ぶるぶると震える手に触れる、『あるもの』。

 緊張のせいか、何度もそれを掴み損ねたおれが取り出したのも、また、一枚の写真だった。

 ――中島氏と一緒に写る、笑顔の少女。

 なぜか、見覚えがある気がした。

 まさか……、いや、そんなはずは……。

「どうしたの、シューヘイ?」

 突然、机の上の写真から目を離したおれの動きが気になったのか、天宮は眉根を下げた面持ちで顔を近付ける。

「いや、なんでもない……、気にしないでくれ」

 おれは彼女から距離を置くように顔を逸らした。

「……それ、なに?」

 手に持った写真に気付かれないようにしていたが、些細な変化にも目敏い天宮は、自身の体勢を変えたのもあって、おれの写真に目を付けた。

 慌てて隠す暇もなかった。

「……これって……」

 彼女は目を見張った。

「……短歌、かしら?」

「……え?」

 予想外の反応。

 思わず、全身に入れていた力が緩んだ。

「ちょっと、見せて」

「あ、ちょ……!」

 だから、簡単に写真を取り上げられてしまった。

「やっぱり、そう……」

 おれは驚いた。

 彼女が、からだ。

 おれも同じように写真の裏に目を向ける。

 そこには、やや達筆な文字でこう書かれていた。


『高山の 草葉の陰に 在りし日の 姫百合ひめゆりついばみ 堕つ閑古鳥かんこどり


 ……なんだ、これは?!

 今の今まで気が付かなかった。

 写真の裏に、こんなものが書かれていたなんて……!

 驚愕すると同時に、わずかな頭痛も覚える。

 ……まただ。

 頭の奥と側面が鈍い痛みを放つ。

 まるで、おれではないおれが産声をあげようとでもしているかのような……、意識のぶれを誘発させる偏頭痛。

 何かを、何かを思い出しそうな……。

「やっぱり、そう、これは短歌ね……」

 まじまじと文面を見詰める。

「シューヘイ、あんた、短歌の心得があったのね……、ちょっと意外だわ」

「いや、これは……」

 おれが詠んだわけじゃない。

 この写真は中島氏の所持品なのだから、きっと、彼が……。

「……もしかして、これがあんたの提出作品ってこと?」

 おれの方を向いて尋ねるものだから、一瞬、呆気に取られる。

 それこそ、最初は何の話かと訝ったが、彼女が部活動のことを指して言っているのだと遅れて気付いた。

『期末試験が始まる前に、小説、短歌、俳句、いずれの作品を提出する』

(……そういえば、そんな話をしていたような気が……)

 いずれにせよ、おれにはどうでもいい話だ。

 しかし、部活動に並々ならぬ熱意を注ぐ天宮にとっては重要なことなのだろう。

 それが証拠に、彼女は視線を写真の裏に戻すと、感心しきりに短歌を眺めやる。

「ふーん……、この短歌を、あんたが……」

 感嘆の息を漏らし、尚も見入る。

 心なし、声と表情が弾んでいるように見えた。

(……だが、なぜ、このような短歌が、この写真に……?)

 中島氏の遺留品とも言える、彼自身がひとりの少女と共に写った写真。

(そして……、天宮が『お守り』だと称して肌身離さず持ち歩く写真に写る、『ヒトシ』と言う名の少年……)

 なんだ……?

 身体中を駆け巡る、途轍もない違和感。生じた隙間から滲み出すように胸の奥からじわりと広がり、やがて全身を埋め尽くす。

 

『約束……』


 頭に響く、少女の声。


『あたし……信じてるから』

 

 天宮の声と重なる。


(おれは、おれは……)


 頭痛はいよいよ無視できないほどに痛みを増していく。

 目の前が歪む……。まるで下手な飴細工のように、部室の様相は渦を巻いてぐにゃりと変容し、空間はぐちゃぐちゃに混ぜ合わされる。

 やがて、すべての色が混ざった絵の具のように、目の前は黒に染まった。


『円山の 南の裾の 竹原に うぐひす住めり 御寺に聞けば』


『白百合の しろき畑の うへわたる 青鷺あおさぎづれの をかしきゆうべ


 ――そんな短歌が、聞こえた気がした。

 頭に響くその歌が、一体、どこから届いたものなのかは、視界を完全に遮断された今のおれにはまったく判別できなかった。

 世界は色を失う。

 意識が溶けてゆく。

 おれはおれでなくなっていく。

 不意に聞こえた、どこか懐かしい歌がいざなう先は――。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 夕暮れ時の孤児院から見える田畑の緑は、沈んだ太陽が溶けだした薄い橙色によく映えている。

 この風景を、ぼくは気に入っていた。


「――『白百合の しろき畑の うへわたる 青鷺づれの をかしきゆうべ』」


 ふと浮かんだ短歌を口ずさむ。

 与謝野晶子の『舞姫』、その一節。友達から教えてもらったこのうたを、ぼくはとても気に入っていた。

 町や有志の人から寄贈された本や詩集を読む。身寄りのないぼくたちに許された、数少ない娯楽のひとつだった。

 だからだろうか、ぼくは物事の種別を問わず、色々なことに興味を持った。日本や世界の歴史はもちろん、この町のこと、町に住む人たちのこと、そして……神様のことにも、まるでそうなるのが当然だとでも言うように関心を抱いた。

 これには、ぼくが教会堂に併設された孤児院で暮らしていることが大いに関係しているのかも知れない。

 バプテスト系の教会堂で日々の教えを乞うぼくにとって、神様の存在はとても自然なもので、極めて身近な、そして最も尊敬すべき対象だった。

 でも、ぼくの友達の中にも、神様の存在に否定的な子は少なからずいる。

『もしも神様がいるのなら、どうしてわたしたちを救わないのか? なぜ、こんなにも苦しい生活を強いるのか? それが神様の思し召しだと言うのなら、わたしはどうしても納得できない』

 こう問われた時、ぼくは強く言い返すことができなかった。

 確かに、彼女の言うことにも一理あった。

 なぜなら、以前、こんな話を聞いたからだ。

『この孤児院が、存続困難の状況にある』

 孤児院の院長が職員たちにそう漏らしていた。ぼくは、それを、偶然、立ち聞きしてしまった。

 話によれば、どうやら資金繰りが上手くいっていないらしかった。孤児院と教会堂の財源は、主に、企業からの寄付や個人の援助によって賄われているけれど、昨今の不況の影響もあってか、融資の額が下がり、寄付も途絶えてきているとの話だ。

 このままの状態が続けば、孤児院の維持は難しくなるという。

 神様は存在しない。

 ぼくにとってはおよそ信じられない友達の意見を裏打ちするように、ぼくは、以前に彼女が言った言葉を思い返していた。

『神は、存在するかしないかのいずれかである』

 もし、友達の言うように、本当に神様が存在しないのだとしたら……。

 ぼくたちに、救いの手が差し伸べられることは、果たして、あるのだろうか……?


『神よ、神よ、どうして我をお見捨てになりたもうたか』


 ある夏の日のことだった。いつも見知った顔しかいない孤児院に、珍しく来客があった。

 真っ黒なスーツを着た、数人の大人たち。厳めしい顔つきの彼らは、牧歌的な孤児院の敷地にあって、ひときわ異質な存在だった。それはさながら、無力な羊の群れに今にも襲い掛からんと獲物を吟味する獰猛どうもうな狼を思わせた。

 彼らは宇治院長に話があるようだった。困惑しきりに立ち尽くす職員たちを押し退け、来客用の部屋にずかずかと踏み入る。

 ぼくたちは、外部の人間が我が物顔で孤児院に乗り込む様子を、遠巻きに眺めるしかなかった。

 次の日。ぼくたちの浮かない心模様を表すように、天気はあいにくの曇り空だった。

 朝早くから職員の人に連れられ、ぼくを含めた孤児院で暮らす子たちはリビングに集められた。

 職員からの事前の説明によれば、どうやら院長から重大な発表があるようだ。

 皆、不安げに顔を見合わせ、沈んだ表情で院長の登場を待った。

 そして、その時は訪れた。

 ぼくたちの前に現れた院長は、普段見せる優しい表情と違い、何か思い詰めたような、どこか険しい面持ちだった。

 立ち込める緊張感が限界に達する中、ついに院長が重い口を開いた。

『……今日は、皆さまに大事な話があります』

 静かで厳かな語り口は、しかし、確かな決意を感じさせた。

 ぼくは、固唾を飲んで院長の話に耳を傾けた。

 額にしわを寄せた院長が話を続けるにつれ、皆の口々から小さな悲鳴が上がった。

 ……院長の話を要約すると、次の通りになる。

『有志からの援助が滞ったことによって孤児院の存続が困難になり、最悪の場合、孤児院と教会堂の土地が売りに出される』

 それは、ぼくが立ち聞きした内容とほとんど同じだった。

 院長からこの話を聞いた皆は、一様に言葉を失っていた。

 土地が売却されれば、孤児院は取り壊される。孤児院がなくなれば、当然、ぼくたちはこの町を出て行くことになる。知らない場所の、知らない人たちがたくさんいる、どこか遠くの施設に預けられる。皆とも離ればなれだ。お金を援助してくれる人や、里親が見つからない限り、これは絶対だった。

 お金……。

 お金さえあれば……。

 この時からだった。ぼくが、目に見えない神様ではなく、目に見えるものに意識を傾け始めたのは。

 転機は突然に訪れる。

 院長の衝撃的な発表から、一週間ほど過ぎた辺りだ。

 夏が本格的に到来し、セミの声が町全体を包み始めた頃、孤児院と教会堂の危機的な状況を聞きつけたふたりのジャーナリストが、孤児院のもとに取材に訪れたのだ。

 彼らの名前は中島哲男と天宮あまみや幸成ゆきなり。自己紹介によると、ふたりは師弟関係らしく、しばしばコンビで取材におもむくようだ。

 いかにも若々しい活力に溢れた中島さんは、自然をこよなく愛する好青年で、優しそうな顔つきにメガネとワイシャツが良く似合っていた。

 天宮おじさんの方はというと、灰色の鳥打帽とりうちぼうを被り、半袖のシャツの上にカーキ色のジャケットを羽織った出で立ちで、筋肉質な腕から生えた獣みたいな剛毛もあいまって怪しさ満点の外見だったけど、実際に話してみると、身寄りのないぼくたちにも分け隔てなく接してくれる、渋くてかっこいいおじさんだった。

「きみは、本が好きなようだね」

 口の周りに濃い髭をたくさん生やした天宮おじさんは、日焼けした顔をくしゃりと歪めて笑った。

 年齢が二回り以上も離れているのにもかかわらず、ぼくとそれほど歳の変わらない少年のような屈託ない笑みは、外部の大人たちに対して不信感を募らせていたぼくにとってはとても鮮烈な印象で、それこそ宝石のような輝きを帯びているように見えた。

 ぼくは、今まで読んでいた『旧約聖書』を閉じ、小さく頷いた。

「きみは、神様を信じているのかい?」

 ぼくは、おじさんの目を真っ直ぐ見ながら頷いた。

 おじさんは、そうか、と、小さく頷き返す。

 そして、一瞬、視線を逸らしたあと、再びぼくの方を見た。

「これから先、きみは苦難の道を歩むことになるだろうね」

 どうしてそんなことがわかるのかと、ぼくは思わず問い返した。

 すると、おじさんはこう答えた。

「神を信じる者に待ち受けているものは受難。つまり、絶え間ない忍耐と責苦。人々の罪を一身に背負ったイエスが、その罪のゆえにはりつけになったように、自己を犠牲にしなければいけないからだ。……教会堂で学ぶきみになら、俺の言っていることがわかるね?」

 脅すような語り口は、しかし、ぼくに何の影響も与えることはなかった。

 すかさず、ぼくは口を開く。

「イエスは言いました。『私こそが道であり、真理であり、命である』と。父たる神のみもとに向かうには、神を信じる道以外にはありえません」

 そう断言すると、おじさんはタバコ臭い口元をふっと緩めた。

「なるほど、信心深い親御さんに似て、まだ幼いのに見上げたこころざしだ。それこそ大人顔負けだよ」

「ぼくの両親を知っているんですか?」

「ああ、もちろん。二人は立派な人だった。この町の自然を守るために全身全霊を尽くした、最大最高の功労者だよ」

「…………」

 ぼくは、2年前に死んだお父さんとお母さんのことを思い出し、少し、悲しい気持ちになった。

「もしも神が存在するのなら……」

 ふと、おじさんは視線を外す。

 目線の先には、どこまでも続く青い空。

 はるか上空を目上げながら、おじさんは続ける。

「神は知性より、むしろ意志の強さを求めるだろう。きみのような、迷いのない、貫徹かんてつした意志の力を」

 そして、今度はぼくを見た。太陽の熱気にも負けない燃えるような情熱を秘めた瞳が、やけに印象的に映った。

「なら、知性に飲まれないことだ。知恵は確かに人生の役に立つが、神に至らんとする意志の強さには遠く及ばない。だからきみは、今の気持ちを忘れないことだ。ひたむきに神を信じるその心を、決して。そうすれば、きっと、神はきみに微笑む。俺が、この地に住まうとされる神様をひたすらに追い求め、ようやくその糸口を掴めたように」

「おじさんも、神様を?」

「そうさ、この町には古くから伝わる神様がいる。もちろん、イエスとは別の神様がね。諸事情あって、名前はここでは明かせないが、古来より町の人に親しまれた素晴らしい神様だ。町の人々は口を揃えてそう評する。そして俺も、概ねその意見には同意する。……あの噂が、本当ならば」

 言葉尻に不穏な響きがあったものの、ぼくはおじさんの言う神様の存在に心を奪われ、頭に浮かんだ些細な疑問はすぐに上書きされた。

「そんなに素晴らしい神様が、尾前町に?」

「お、良い反応だね。やっぱりきみは俺が見込んだ通り、とても利口な少年だ。興味をひくものに対しての食いつきが違う。俗に言われる天才と呼ばれた者は、得てして好奇心旺盛だったから、きみも、きっと、その類なんだろう」

 そんなふうに褒められたのは初めてだったので、ちょっと反応に困った。

 どうにも照れ臭くって顔を俯けていると、おじさんは何かを思いついたように「おっ」と声を漏らす。

 その声につられ、ぼくは顔を上げた。

「……そうだ、もし、きみさえよければ、俺の娘と遊んでやってくれないか?」

「むすめ? その子も、ここに来ているんですか?」

「ああ、あいつ、独りになるのが寂しくて俺たちについてきたのはいいが、人見知りが激しくてね。無口で、不愛想で、いつも部屋の隅っこで本ばかり読んでいるような子なんだが、決して悪い子じゃないんだ。できれば、あいつの話相手になってくれると嬉しいんだけど……どうかな?」

「ええ、構いませんよ」

「ありがとう、娘も本が好きだから、きっと話が合うと思うよ」

「それで、その娘さんはどこに?」

「えっと、そうだな……」

 おじさんはきょろきょろと辺りを見渡すと、やがて狙いを定めたように視線を孤児院の方角に向ける。

「おい、テツ。琴音を見なかったか?」

 施設の写真を撮っていたのだろう、中庭の辺りで大きなカメラを抱えている中島さんに声をかける。

 おじさんの呼びかけに気付いた中島さんは、やや駆け足でおじさんのところに寄って来た。

「どうしました、おやっさん。何か面白い物でも見つかりましたか?」

「いや、琴音はどこにいるのかと思ってな。テツ、お前、何か知らないか?」

「ああ、琴音ちゃんなら、教会堂の近くにある花壇のところで本を読んでいますよ」

「そうか、わかった。もう仕事に戻っていいぞ」

 ひらひらと手を振る。

「え、話はそれだけですか?」

「そうだが、何か文句でもあるのか?」

「いやあ、文句と言いますか、少しは、これまでの労苦をねぎらってくれてもいいんじゃないかと思ってですねえ……。ほら、今回の孤児院取材の功労者なんですから、僕は。寝る間も惜しんで資料を集めて、眠気まなこを擦りながら付近に聞き込み調査をして、ようやくあの神のことを――」

「はあ? 何言ってんだおめえ。寝言は寝てから言いな。俺から見たらお前なんて青二才もいいところだ。未だに写真撮影しか能がねえんだからな」

「相変わらず、厳しいですねえ。琴音ちゃんにはとことん甘いくせして、弟子である僕には冷たいんですから、まったく、嫌になっちゃいますよ」

「うるせえ! 無駄口叩いてる暇があったら、とっとと取材に戻れ!」

「ひぇー、鬼の天宮が怒ったんじゃ敵わない、さっさと退散しますわ」

 顔を真っ赤にして怒鳴り散らし、おじさんは中島さんを追い返す。

 ぼくは、この二人の愉快な掛け合いを眺めていた。

「……おっと、すまんな、坊や。見苦しいところを見せちまった」

 恥ずかしそうに後頭部をかくおじさん。口調も、どこか砕けた感じに変化していた。

「いえ、構いませんよ。なんだか楽しそうだったので、ぼくも見ていて面白かったです」

「ふ、そうか。本当にきみは面白い坊やだな……。将来、大成しそうだ」

 まるで、子を思う父親のような優しい表情。

 もしも、ぼくにまだ父親がいれば、こんなふうに温かく笑いかけてくれたのだろうか?

「……それじゃ、ぼくは、琴音ちゃんのところに行きますね」

 なんだか居たたまれなくなって、おじさんから背を向ける。

「あれ、俺、娘の名前を言ったっけか?」

 背後から届く疑問の声。

「中島さんが、おじさんと話している時に、言っていましたよ。琴音ちゃんって」

「そうか、そうだったか。まったく、あいつは口だけは達者だからな……、記事の腕前は全然上達しないのによ」

 おじさんの皮肉を背に受けながら、ぼくは琴音ちゃんがいるという花壇まで歩いた。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 強烈な日差しが照りつける教会堂付近は、陽炎かげろうが立ち込めているかのように地面がゆらゆらと揺れ動いている。

 額を流れる汗を拭い、ぼくは琴音と言う少女の姿を探した。

 教会堂のそばに設けられた花壇には、夏らしい向日葵ひまわりが一面に咲き誇っている。

「あっ……」

 思わず、足が止まった。

 花壇の隅に用意されたベンチに、ひとりの見慣れない少女が腰かけていた。

 頭に白いカチューシャを着けた、白いワンピースの少女。細身で、色白で、腰くらいまで伸びた黒い髪が陽光に照らされてキラキラと光っている。

 少女は本を読んでいる。照り付ける太陽の下、向日葵をひさし代わりにして涼んでいる姿は、まるで、どこかの洋書に登場する人物を思わせた。それくらい、彼女は画になっていた。

 この子が琴音ちゃんだろうか?

 考えるよりも先に、行動に移した。 

「こんにちは、はじめまして」

 ぼくは少女に声をかけた。

「…………」

 本に集中しているのか、返事がない。

「こんにちは、はじめまして」

 もう一度、声をかけてみる。

「………………」

 やっぱり、返事はない。

 一体、どんな本を読んでいるのだろう?

 彼女の存在はもとより、ここまで彼女を熱中させる本とはなんなのか、そして、その本を熱心に読み込む彼女は何者なのか、俄然、興味が湧いた。

「きみは、何の本を読んでるの?」

 性懲りもせず尋ねる。

「……………………」

 返ってくるのはまたしても沈黙。

 仕方がないので、少女の前に回り込み、それがどんな本なのか覗き込むことにした。

「……ヘッセ」

「え?」

「ヘッセの『車輪の下』」

 少女はぶっきらぼうに答えた。不意に届いたその声は、お祭りの時に聞こえる鈴の音のように響き渡った。

「きみ、ヘッセが好きなの?」

「別に、そういうわけじゃないわ」

 本から目を離さず言う。

 でも、ぼくは、彼女が返事をしてくれたことが何よりも嬉しかった。

「そっか、ぼくはね、ヘッセ好きだよ。『デミアン』とかもそうだけど、緻密な自然描写とか、卓越した心理描写とか、真に迫るものがあるからね」

「ふーん、そ」

 パタンと本を閉じる。

 そして、ぼくを見た。勝気そうなつり目。じろじろと、値踏みするように全身を眺めやる。

「なに? なにか虫でもついてる?」

「……別に、そういうわけじゃないけど」

 つーんとした態度。ちょっとむくれた顔で、少女は唇を尖らせる。

 不思議と、不快感はなかった。

「あんた、孤児院の子?」

 ぼくは頷く。

「あんたも、本を読んだりするの?」

「うん、たくさん読むよ」

「ふーん……」

 ぼくを見る目が、一層、鋭くなる。

「やっぱり、ぼくの顔になにかついてる?」

「……別に、なんでもないわよ」

 そう言って、ぷいっとそっぽを向く。

 その仕草が、なんだかおかしかった。

「なによ、なんで笑ってるのよ」

「え? ぼく、笑ってた?」

「笑ってるも何も、ニターって口元つり上げてたわよ」

 どうやら自分でも気付かないうちに頬が緩んでしまったようだ。

「ごめん、ごめん。そんなつもりはなかったんだけど」

「……ま、別にいいけどね」

 呆れたように溜め息をつくと、少女は再びヘッセの『車輪の下』を開く。

 多分、それは、彼女なりの意思表示なのだろう。おそらくは『わたしに構わないで』という意味を込めた行動。

 でも、ぼくの方はまだまだ話し足りなかった。

「ねえ、きみも、本をよく読むの?」

「……まあ、人並程度にはね」

 ぺらっとページをめくる。

「ぼくもね、本が好きなんだ。授業が終わったら、いつも本を読んでるんだよ。他のみんなは外で遊んだりしてるけどね。ぼくは本を読んでいる時が一番楽しいんだ。それで、最近は」

「……ふーん」

 ぺらっとページをめくる。

「どうして『車輪の下』を読んでるの? 先生とかにおすすめされたから?」

「……理由を聞いて、どうするの?」

「どうもしないよ。ただ、少し気になったから。ぼくもたまに先生から本をおすすめされたりするんだ。与謝野晶子の『舞姫』とか、先生にすすめられなかったらなかなか手を出す機会はなかったと思うし。だから、『車輪の下』を読む切っ掛けになったのは何なのかなって」

 不意に、ページをめくる手が止まる。

 そして、彼女は口を開いた。

「そんなに面白いゆかりはないわ。パパの書斎に本がたくさんあるから、あたしはそれを手当たり次第に読んでいるだけ」

「え、そうなんだ! それは凄いね。ここにも本は一杯置いてあるけど、ぼくはほとんど読んじゃったから、少し羨ましいな」

「別に、凄くなんてないわよ。どうせパパはお仕事でほとんど家にいないし、他にやることがないから本を読んでただけ。要するに、ただの暇つぶしよ」

 表情こそ変わらなかったけど、彼女のどこか投げやりな口調が、内心の寂しさを表しているようだった。

 同時に、天宮おじさんが、彼女の話相手になって欲しいとぼくに頼んだ理由がわかった気がした。

 だから、ぼくは努めて元気に接した。

「それでも、凄いよ。ぼくの友達なんか、本なんて読むと眠くなるから読みたくないて言って、頑なに読もうとしないんだよ。だから、やっぱり、凄いことなんだよ、きっと」

「……じゃあ、そういうことにしておいてあげる」

 ぶっきらぼうに言う。

 でも、彼女の頬がちょっとだけ綻んでいるように見えたのは、ぼくの気のせいだろうか。

「……ねえ、あなた、『車輪の下』を読んだことがあるのよね?」

「うん、もう10回くらい読んだよ」

「だったら、どうしてあたしがここで『車輪の下』を読んでいるのか、わかるかしら?」

「え?! 何か理由があるの?!」

「さあ、どうかしら?」

 澄ました顔で首を傾げる。

「あんたも読書家の端くれなら、是が非でも当ててごらんなさい」

「えーっと、うーんと……」

 ぼくは必死に『車輪の下』の内容を思い出す。

 確か、自然をこよなく愛する、神学校に入学したハンスが主人公で……。

「あ、もしかして……!」

 その時、ピンと閃いた。

「ここが、神学校みたいだから?」

「……ふぅーん、なかなか鋭いじゃない」

 驚いたように目を見開いてぼくを見上げる。その瞳には、確かな輝きが秘められていた。

「正解よ。あんたの言う通り、この教会堂と孤児院、そして、周囲を取り巻く自然の風景と雰囲気が、ちょうど『車輪の下』の舞台みたいだから、ふと読みたくなったのよ」

「そっか、そんな理由があったんだね」

 言いながら、ぼくは、うんうんと頷く。

「ぼくもね、本を読むとき、その場の状況や自分の気持ちに合わせたものを選ぶようにしてるんだ。悲しい気持ちの時は、少し暗めの詩や本を読むし、逆に、楽しい気分の時は、愉快な内容の本とか読んだりしてさ。そうすれば、いつもより深く本の内容に入り込めるからね!」

「……そうね、そうかもしれないわね」

 静かに目を閉じた彼女は、ぼくの発言を噛み締めるように深く頷いた。

 ぼくは賛同を得られたことが嬉しくて、口元が思わず綻んだ。

「――んっ」

 本を脇に置いた彼女は、うんと伸びをする。太陽の輝きの下、降り注ぐ陽光を一身に浴びるその姿は、なんだか日向ぼっこする猫みたいだった。

「ねえ、あんた」

 不意に声を掛けられる。

 彼女の目は、ぼくを捉えていた。

「ここって、やっぱり神学校みたいなものなのかしら?」

 そう聞かれ、ぼくは首を傾げた。

「うーん、どうなんだろう? ちょっと違う気がする」

「そうなの? あたしとしては、どっちも似たようなものだと思うけどね。だって、神様のこととか教わったりするんでしょう?」

「確かにそうだけど……」

「――お、早速、仲良くやってるのか」

  教会堂の教えと神学校の違いに首を捻っていると、天宮おじさんと中島さんが気さくに声を掛けてきた。

「……パパ」

「どうだ、琴音。友達のひとりやふたり、できたか?」

「別に……どうだっていいでしょ」

 陽気に笑いかけるおじさんとは対照的に、琴音ちゃんは冷ややかだった。

「駄目だぞ、琴音。学校に友達がいないんなら、せめて新しい場所で友達を作らないと。そうじゃなきゃ、ずっとひとりぼっちだぞ」

「…………」

「え、きみ、友達いないの?」

 反射的に尋ねると、琴音ちゃんはバツが悪そうに口元を真一文字に結んだ。

「……いないわよ、悪い?」

 ムッとした顔でぼくを見る。

「男子も女子も、同年代の子たちはバカばっかり。テレビの話題とかずっと話してさ」

 腕組みして唇を尖らせる。

「一緒に居たらあたしにもバカが移りそうだから、別に、友達なんていなくても充分なのよ」

「こらこら、そんなことだから友達がひとりもできないんだぞ」

「パパには関係ないでしょ!」

 ツンと澄ました態度。

「ねえねえ、ぼくは?」

 不機嫌な琴音ちゃんに構わず、自分を指さす。

「……なによ? なんの話?」

「ぼくは、きみの友達になれないかな?」

「……は? 何を言って――」

 直後、琴音ちゃんは勢いよく席を立った。

「と、と、友達? あ、あたしが? あんたと……?! と、友達……!?」

 両手で口を覆い、顔を真っ赤にしてうろたえる。

 なんだか、その反応は、異変を察知して慌てて飛び起きた小動物みたいで、ちょっと面白かった。

「お、よかったじゃないか琴音。記念すべき友達第一号だぞ」

「よろしく、琴音ちゃん」

「ちょ、ちょっと! まだあんたを友達って認めたわけじゃ……」

「いやー、いいですね、甘酸っぱい青春って感じで。これはなんだか記事にできそうですよ」

「テツさんまで……! もう、からかわないでよ!」

 みんなして笑い合う。

「よし、それじゃあ、お近付きの印に、みんなで写真を撮ろうか!」

「お、それは妙案だ。テツよお、たまには便所のケツ拭きぐらいには役に立つじゃねえか」

「師匠は僕を何だと思っているんですかね!」

 なんて言い合いながら、中島さんはカメラを構える。

「はい、それじゃあ、まずは向日葵を背にして一枚! ほら、みんな、笑って笑って!」

「え、ちょっと、待って――!」


 ――パシャリ


 有無を言わさず写真を撮る。

 息をつく暇もない。

「よし、次は教会堂を背にして一枚! ほら、みんな、こっちに移動して!」

「だから、待ってってば――!」

 

 ――パシャリ


 ポーズとか考える暇も無く、もう一枚。

 流れに身を任せるしかなかった。

「それじゃあ、今度は――」

「待て、テツ」

「なんすか、師匠? 今ちょっと被写体の動きを勘定に入れて忙しいんですけど」

「俺が撮ろう」

「へ? 師匠が?」

「ああ、お前はまだカメラに写っていないからな」

「なるほど、それもそうですね。それじゃ、お願いします!」

 首に掛けたカメラをおじさんに渡す。

「それじゃ、テツはもっと右に寄ってくれ」

「え、ここら辺ですか?」

「違う、違う、もっとだ、もっと右」

「ちょっと! これじゃあ僕がフレームから消えてしまいます!」

「ちっ、ばれたか」

「?! なにか、今、言いました?!」

「いや、なんでもねえ。それじゃ、お前は中央に寄れ。そんで、琴音と少年は、テツの前に並ぶんだ。ちょうど覆いかぶさるようにな」

「だから、それじゃあ僕がフレームに収まらないんですって!」

「まったくもう、騒がしいし、暑苦しいわね」

「ははは」

「ほれほれ、琴音と少年はもっとくっつけ! 肩と肩が触れ合うぐらいにな! いっそのこと、抱き合ったって構わないぞ!」

「お、いいっすね! 父親公認の仲ってわけですか!」

「なんなのよ、もう!」

「ははは……」

「よし、いいぞ、その笑顔だ! それじゃ撮るぞ!」

 一悶着あって、ようやくカメラのシャッターが押される。

 結局、ぼくと琴音ちゃんは、肩と肩が触れ合う距離にいた。

 お互いの息遣いが聞こえるような距離感。

 流れるようなさらさらの髪と、玉のような汗で光る白い肌が、とても綺麗に思えた。

 胸が、ドキドキした。

 そんなこんなで、賑やかに時が過ぎていった。

 そして、出会いがあれば別れもあるように、おじさんたちが町を離れる瞬間が訪れた。

「どうも、お世話になりました」

 世界が橙色に染まった夕暮れ時。孤児院と教会堂の皆が総出で、おじさんたちを見送る。

「この場所をなくしてしまうのはとても惜しい。自然と神と人々が共存する、素晴らしいではありませんか。これこそまさしく、手当たり次第に自然を破壊し、無理に開発を急ぐ日本社会に向けて鳴らす警鐘そのものです。まったく、ここを取り壊すなどありえない。後世に伝え残すべきです。だからこそ、この孤児院と教会堂のことを人々に知ってもらえるよう、誠心誠意、心を込めた記事を書くつもりです」

「いえいえ、こちらこそ、わざわざ遠いところから足を運んでいただき、誠に恐縮の極みです。それなのに、大したおもてなしもできませんで……。子供たちにも貴重な経験をさせてもらいましたし、むしろこちらが感謝したいくらいです」

 和やかな空気の中、別れの挨拶が交わされる。

 ぼくと琴音ちゃんは、この輪の中に交わらず、向日葵が咲き誇る花壇のそばで話していた。

「……もう、行っちゃうんだね」

 残念だった。

「せっかく、友達になれたのに」

「……別に、あたしは、あんたを友達って認めたわけじゃ……」

 そこまで言って口ごもる。

 顔を逸らし、俯いてしまう琴音ちゃん。夕焼けに照らされた横顔は、どこか赤く感じられた。

「……ぼくはここから離れられないけど、でも、その本が、ぼくとの友情の印だよ」

 琴音ちゃんは一冊の本を抱えている。それは『舞姫』。先生から貰った、ぼくにとって大切な本。

 でも、琴音ちゃんと友達になった証として、彼女に渡した。それが一番だと思ったからだ。

「……名前」

「え?」

「名前、まだ、聞いてなかった!」

 勢いに押され、一瞬、言葉を失う。

 でも、すぐに意味を理解した。

「そういえば、まだ、言ってなかったね」

 ぼくはニッと笑って――。

「えっと……、ぼくの名前はね……」

 

 ――ヒトシ。


「ヒトシって、言うんだ」


 ――ぼくの記憶は、ここで途切れた。

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