第二十一話 反目

 7月7日金曜日。

 本格的な夏の到来も間近に迫っている。

 高校でも、いよいよ地獄の期末試験が始まろうとしていた。

 もっとも、特待生待遇のおれには、夏季休暇の前の門番とも言うべき期末試験は免除されているのだが。

 他の生徒が聞いたら嫉妬に狂いそうな話かもしれないが、おれの本分は特派員として町の動きを見ることにある。

 ……そして、おれは、これまでに集めた情報を総括する段階に入りつつあった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 昼休み直前の校舎。本来ならば浮き足立つ生徒で溢れ返る教室は、異様な空気に包まれていた。

 気のせいだろうか、普段よりも生徒の元気がない。

 それは何も、期末試験の日程が迫っていることだけが理由じゃないだろう。

 浅間一家が自殺したことが、ニュースになったのだ。

 今朝の新聞にも載って いる。

 朝のホームルームでも、石蕗の口から浅間の訃報が伝えられていた。

 もっとも、情報統制が布かれているため、遺書の件や、浅間兄妹が謎の失踪を遂げたことは依然として伏せられているが。

 しかし、政府の下した決定に、おれは納得していなかった。

 どうやら、父の方では浅間家の一家心中に事件性はないと判断したようだが、おれはそうは思わない。

 というのも、自殺直前に見せた浅間兄妹の動きを知っているからだ。

 これから自殺しようという人間が、どうしてわざわざ大天山などに向かうのか。

 浅間の様子はどこか切羽詰まっていたとはいえ、まだ他人に構うだけの余裕はあったように見える。だからこそ、東に『イイヅナ様』のことを尋ねたのだ。

 ……そう、『イイヅナ様』。

 おれは、神と呼ばれしその存在について考える。

『神様に会いに行く』――。

 浅間は、抽象的な内容の遺書を遺したのを最後に、消息を絶った。そして、死体となって発見された。

 しかし、それは本当にだろうか?

 その点が、ずっと引っ掛かっている。

 浅間の遺した遺書……、そこには、十兵衛の書き置きと同じ内容の文がしたためられていた。

『神様に会いに行く』――。

 この偶然の一致が、どうしても解せない。

 いや……違う。

 少し考えればわかることだ。時期をほぼ同じくして、どういうわけか大天山に向かった人間が、次々と消息を絶つ。しかも、同じ内容の書き置きを残して。こんなこと、通常はありえない。そうだ――

 この一連の出来事に、作為的な思惑を感じずにはいられない。

(しかし、誰が? 何のために?)

 もし、理由があるのだとしたら、彼らが消えることで得をする人物の仕業だろうが……。

(………………)

 ざっと考える。

 思い当たる節は、ひとつ。

 明星だ。

 おれは、薄汚い権力に付き従う金の亡者の姿を思い浮かべる。

 奴なら、動機がある。

 浅間建設の関連親会社である神田製鉄は、明星の父が頭取を務める明道銀行を始めとした多くの銀行から金を借り入れていた。

 しかし、長引く不況のあおりを受けて業績は悪化。メインバンクである春日井銀行は早々に手を引き、セカンドバンクの明道銀行も神田製鉄に見切りを付けようと水面下で動いていた。

 結果、神田製鉄は破産。数々の関連子会社も芋づる式に倒産していった。

 浅間の両親も、業績不振の苦境から巻き返しを図るため、資金繰りに奔走していたに違いない。

 浅間樹生も、どうにかして親の役に立ちたいと願い、行動していたはずだ。だから、明星を頼った。石蕗も、1年ほど前から明星と浅間がつるみ始めたと証言していた。

 しかし、明星は、そんな一縷の望みに掛けた彼の思いを簡単に踏みにじり、粉々に粉砕した。

 なぜなら、『イイヅナ様』の伝説を浅間に伝えたのは、明星だからだ。

 金に困る浅間に、どうして、『イイヅナ様』のことを教えたのかは不明だが、結果的に、『イイヅナ様』と接触しようとした浅間は妹ともども消息を絶ち、翌日、死体となって発見された。

 ……無理心中。すべての希望を断たれた浅間一家は、悲惨な最期を迎えた。

 咲江だけが、意識不明の状態で生き残っているが、それもまた、不幸だった。

 浅間の一件には、明星が絡んでいる、そう思って間違いない。

 しかし、十兵衛については何とも言えない。

 明星が、直接、十兵衛と接したとは考えにくい。

 間接的に影響を与えているのは確かだろうが……。

(……だが、十兵衛と接点のある人物は限られている)

 あの閉鎖された空間の中では、交友関係はそう広くはならない。

 そして、明星は、孤児院を頻繁に訪れていた。それは何のためか?

(……『イイヅナ』様のことを、孤児たちに教えるため……?)

 ……妙だな。

 おれは考える。

 そもそも、なぜ、明星の奴は、執拗に孤児院と教会堂に押しかけていたのか?

(……収用した土地の様子を、見るために……)

 表向きの理由は、そんなところだろう。

 しかし、おれにはどうにも裏があるように思えてならない。

(明星は暴力団とも関わりがある。そして、奴らが欲しいのは金だ。それも、莫大な、組の資金となるような。だからこそ、地上げ屋と結託して、町の土地を買い付けている。無理やり奪い取った土地を、国に高く売りつけるために)

 とすると、金のニオイがするから、孤児院周りをマークしているとも考えられる。

 ここに、重大な鍵が隠されている。

 そんな気がした。

 そこで、十兵衛のことを思う。

 ――『天狗攫い』。十兵衛は、古来の時代より続く怪異に巻き込まれて姿を消したという。

 だが、生憎あいにく、おれは、現実主義者だ。

 この町の歴史のことなど興味もないし、この町がどうなろうと知ったこっちゃない。

 しかし、この『天狗攫い』とやらが、人為的なものだとしたら……。

 ――状況は、大きく変わる。

 おれは生唾を飲み込む。

 予感があった。

(十兵衛は……、十兵衛は、何らかの事件に巻き込まれた。それこそ、周囲の大人たちがひた隠しにする、警察も手出しできないような、この町の因習と根強く関わる何かに……十兵衛は……)

 そうでなければ、十兵衛は救われない。『イイヅナ様』だか天狗だか何だか知らないが、そんな伝説的な、言ってしまえば存在しない存在に、その存在を抹消されたとあっては、希望も何もあったもんじゃない。

(だからこそ、明らかにしなければならない。難航を極める土地収用を完全に終わらせ、新国際空港開発に着手するためにも、この町に隠された忌むべき秘密を暴く必要がある)

 ――『神様に会いに行く』

 意味深な手掛かりを遺して消えた、浅間と十兵衛……。

 しかし、もし、おれの予想に反し、本当に、祟りなんてものがあるとしたら……。

 やはり、彼らは……。

(……馬鹿げた考えだ)

 軽く舌打ちする。

 とはいえ、不意に浮かんだふざけた仮説を完全に否定できないおれがいるのも、また、事実だった。

 昨晩も、色々なことが立て続けに起きて錯乱するあまり、やっとのことで打ち出した自論が妙な方向に舵を切ってしまった。

 まったく、おれらしくもない。

 ここに来てから、何もかもが狂いっぱなしだ。

 思考は乱れに乱れ、講じた策は後手に回る。

 結局、重要なことは何もわからずじまい。

 歯痒い。

 もう少しで手が届きそうなのに。

 やはり、すべては、神のみぞ知るということなのだろうか……?

(……咲江)

 おれは、浅間一家で唯一の生き残りである彼女のことを思う。

 今も彼女は眠り続けている。露木の実家である診療所で、目覚めの時を、独り、待っている。

(……確か、昨日、あの騒動のあと、昏睡状態にある咲江の様子を見に、呂久郎が露木と共に診療所に向かったんだったか……)

 ……呂久郎。明星の兄。粗暴で傲慢な弟と違い、謙虚で慎み深い、神を信じる純真な心の持ち主。外見もどこか神秘的で、儚く、妙に現実離れした独特の雰囲気を身に纏った、不思議な青年。

 呂久郎なら……。

 彼なら、何か、何かをやってのけてくれる。そんな気がする。

 それこそ、聖書に語られるところの『奇跡』とやらを、起こしてくれるような気がする……。

 そこまで思って、ふと我に返る。

 おれもいよいよ焼きが回ったか。

(何が奇跡だ……、何が神だ……)

 そんなものは初めから存在しない。

 存在しないものは、どうやっても存在しない。

 そんな当たり前の理屈を、どうして失念してしまうのか。

(……いずれにせよ、おれも、本格的な調査を開始しなければならない)

 手始めに、奴と……。

 そこまで考えをまとめた時だった。

 大きな影が、おれの頭上に覆い被さる。

「よう。相変わらず、勉強熱心なこった」

 個性的ななまり声。

 耳にまとわりつく独特の発音には聞き覚えがあった。

 ――明星だ。おれは思わず身構えた。

 図体と態度ばかりがでかい明星は、傲慢におれを見下し、低くせせら笑う。

 おれの表情が険しいものだったからだろう……奴は口元に浮かべた笑みをさらに深めた。

「そう警戒することぁねえだろ? オレが今までおめえに危害を加えたことなんてあったか?」

 明星はそう言うが、おれが身体の力を抜くことはなかった。

 奴の出方を窺う。相手を侮蔑しきったような尊大な目線が注がれる。

 何らかの含みがあるのは明らかだった。

「おい、風祭……」

 顔を合わせてからというもの、ずっと無言だった隣の露木が、おれたちの間に割って入る。

「こんなのにいちいち構うな、馬鹿が移る。無視するのが一番だ」

「っけ、小うるせえギンバエが早速たかってきやがったか。てめえの存在こそ、邪魔ったらしくてかなわないんだがなあ……」

 互いに顔をしかめ、睨み合う。

「今はてめえに用はねえよギンバエ。ハエはハエらしく便所にでもすっこんで、ブンブンと迷惑に飛び回ってな」

「ほざけよ明星。お前の方こそ、神聖な学び舎であるこの学校に居場所はない。お前のような犯罪者予備軍はブタ箱にでもぶち込まれるのがお似合いだ」

「ほう、言ってくれるじゃねえか。弱者の味方をするふりをしていながら、その実、誰も救えない、愚かな偽善者のくせしてよ」

「なんだと……?」

 露木の口角が引きつる。

「とぼけてんじゃねえよ。知らねえとは言わせないぜ。それともなにか? 結局は他人のことなどお構いなし、まるで眼中にないってか?」

「……何が言いたい?」

 明星の婉曲的えんきょくてきな言い方にしびれを切らした明星が突っかかる。

「そうかそうか、あくまでも白を切り通すつもりか。偽善者のてめえらしいな。なら、親切なこのオレが教えてやるよ。――あのあばら家に住むガキどものひとりが、忽然と姿を消したって話じゃねえか」

 あばら家――孤児院のことか。

 そこで、露木の目がカッと見開かれた。

「お前、どうしてそのことを……!」

 目の色を変えた露木に迫られ、明星はウッと身体をのけ反らせる。

「誰から聞いた?! 呂久郎か?! ……それともまさか、お前が……!」

 露木の鋭い目が烈火のように燃え滾る。

 まさに、今にも掴みかからんとする勢いだった。

「……失せろよ、ギンバエ」

 地鳴りを思わせる、低いうなり声。

 露木は、ハッとしたように動きを止め、興奮気味に前傾していた体勢を元に戻す。

「……オレが最初に言った言葉が聞こえなかったのか?」

 どすの利いた声色が、静まり返った教室に響く。

 気が付けば、周りの生徒たちは、皆、露木と明星のいがみ合いに注目していた。

「今はてめえに用はねえんだよ。いつもいつも余計な場面でしゃしゃり出てきやがって」

 明星の表情から余裕の色が消える。

「オレの目の前から失せな。病原菌を撒き散らす不愉快なギンバエめが」

「……っち」

 露木はおもむろに席を立った。

 明星を冷たく、しかし、激しく見据える。

「……俺は、お前を許さないからな」

 そう捨て台詞を吐いて、露木は足早に教室をあとにした。

 神を信仰する人間にあるまじき発言。

 曲がりなりにも、呂久郎と同じく、多少は神学をかじった者の立ち位置にありながら、口では、神の教えとは正反対のことを言う。

(……露木、お前は……)

 おれは、自分の心がわずかに痛むのを感じた。

 しかし、すぐに気を取り直す。

「おい、明星――」

 すでに見えなくなった露木の背を未だに執念深く睨んでいた明星の名を呼ぶ。

 奴はゆっくりと振り返る。憤怒の形相。汗に滲んだ暑苦しい顔が視界に飛び込む。

「……まったく、余計な茶々が入ったもんだ」

 苛立ちを隠そうともせず、不躾に言い放つ。

「御覧の通り、時間も押しているんでなあ。……風祭、てめえにはどうしても頷いてもらわにゃならん」

「そんなこと、話を聞いてからじゃないとわからないぜ?」

「ところがよお、特待生に拒否権はないんだよなあ」

「? ……どういうことだ」

「……土地収用について話があると言えば、頭の良いおめえのことだ、すぐに察しが付く。……そうだよなあ?」

「…………!」

 後頭部を殴られたような強い衝撃。それくらい、奴の口から出た言葉は信じがたいものだった。

 なぜ、こいつが、土地収用のことを……。

(……いや、待て、この段階ではまだ判断できない。おれが土地収用に関わっていると断言しているわけじゃない。単に政策のことを言っているだけかもしれない)

 しかし、そうでないとすれば……。

 おれはますます奴に対して警戒心を募らせる。

 そんなおれの気持ちを知ってか知らずか、明星は口元を嫌味たらしくつり上げている。愉悦の表情。他人を心の底から嘲る悪魔の歪んだ相貌が、すぐ目の前にあった。

「詳しい話はあとだ。ここじゃ、ちょいとばかし人目につくんでねえ」

 笑いながらそう言うと、顎でおれに指図する。

 おれは、奴に従うしかなかった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「悪いなあ、こんなところまでついて来てもらってよお」

 ねぎらいには程遠い、上から目線の高圧的な態度。

 おれは、空き教室前の廊下の角にまで連れて来られた。

 ここには、生徒はおろか、教師も滅多に訪れないと言う。

 それが証拠に、辺りは妙な静けさに満ちていた。

「くっく、それにしても、優等生は物わかりがよくて助かるぜ」

 ここまでおれを連れ出した張本人が薄く笑う。

「で、話ってなんだ?」

 単刀直入に切り出すと、明星は一歩前進した。

「聞いたぜ、特待生」

「何をだ?」

 意識的に問い返す。

「しらばっくれるなよ、てめえもじつはわかってんだろ? オレの言いたいことがよお……」

 ……確かに、明星の言う通り、おれはコイツの狙いをある程度は推察していた。

 しかし、確証がない。未だに推測の域を出ない。

 まさか、こいつがおれの素性を知っているなどと、どうして信じることができるだろうか。

 だから、おれは尋ねる。

「さっきから、お前は一体何を言っているんだ? いきなり土地収用とか言い出して……まるで意味がわからないぜ」

 とぼけてこの場を切り抜けようという意図が見透かされているのか、奴は、あくまでも薄ら笑いを貼り付けたまま。

 そして、嫌味たらしく歪めた口をゆっくりと開いた。

「……なら、教えてやるよ。てめえが、政府お抱えの犬っころ――家畜――ってことをよぉ」

「――!!」

 おれの心臓が飛び跳ねる。

 どこで、それを聞いたというのか。

 おれは即座に頭を巡らせる。

(いつ? いつ、おれはへまをした?)

 思い当たる節はない。

(可能性があるとすれば、あの時か……?)

 おれは、つい先日、執事に自分の役職を告げたことを思い返す。

 ……誰にも口外するなと、念を押していたはずなんだがな。

 あるいは、執事とのやり取りを聞いていた呂久郎が、明星に告げ口したのか……。

 おれはほぞを噛む。

(いずれにせよ、情報が外部に漏れた事実は否定できない)

 となると、少々、まずいことになる。

 しかも、おれの秘密を知った相手はあの明星……、手に入れたネタを盾に、どのような要求を持ちかけて来るのかわかったものじゃない。

(落ち着け……、心境の変化を顔に出すな……)

 そうだ……、まだ、おれの素性が完全にばれたと決まったわけじゃない。

 こいつがカマをかけているだけの可能性もある。

 だから、おれは努めて平静を装う。

「どうして、そう思うんだ?」

 攻勢に出られるのを防ぐため、あえて強気に出る。

 だが、明星の野郎は、交渉の術を弁えているとばかりに妙な自信を崩さない。準備万端とでも言いたげに腰に片手を当て、口元に笑みを浮かべている。

「ほほう、この期に及んでとぼけるつもりかあ? てめえも随分な役者だなあ」

 しばし、腹の探り合いが続く。互いを見据える視線は交錯し、激しく火花を散らす。

 いい加減、埒が明かないな……。

「だが、今回はてめえの負けだぜ」

 早くも勝負をつけに来たのか、明星が先に口を開いた。

 今のおれに、この劣勢の状況を打破する手立てはなかった。

「もう、とっくに裏取りはしてあるんだよ」

「裏取り、だと?」

「……てめえは、らしいな」

 おれは耳を疑った。

 言葉を失う。

 ……どういうことだ?!

 なぜ、おれが特派員であることを……!?

 一瞬だけ見せたこの沈黙が、決定的な肯定となった。

「どうやら図星みてえだなあ」

 おれは何も言わない。

 ここで下手に言い逃れしようものなら、それこそ、かえって傷を広げることに繋がりかねない。

「……何が目的だ?」

 屈辱と動揺を噛み殺し、尋ねる。

 開き直ったかのようなこの返しに、明星は意表を突かれたように目を点にする。

 おれは続けざまに言う。

「どうした? おれに、頼みたいことがあるんじゃないのか?」

 すると、明星は薄ら笑いを浮かべた。

「ほほう、なぜ、そう思うんだ?」

 勝ち誇ったように尋ね返す。

 おれは至って平静を保つ。

「簡単なことだ。おれをこうして揺さ振り、脅迫するってことは、何か裏があるからに決まっている。たとえば、取引を自分の有利に進めるためとかな。無意味に他人を脅す必要性なんてあるはずがない。それこそ、お前のような狡猾こうかつな男なら、尚更だ」

「なるほどなあ、大した洞察力だぜ」

 角張った顎をゆっくりとなぞり、不敵にほくそ笑む。

「確かに、オレはてめえに用がある。それも、絶対に首を縦に振ってもらわにゃならん大事な用事がな」

 ニヤニヤと笑う。

「秀才の特待生で、政府の特派員でもある風祭くんには、是非とも聞きいれてもらいたいんだがなあ」

「……内容による」

「おやおや、随分と強気だなあ? てめえは、ちゃあんと自分の立場をわかってて物言っているのか? ああ?」

「………………」

「てめえの秘密は、オレが握っているんだ。そこんところは理解して欲しいもんだな」

「……わかった」

 素直に頷く。

 こいつに従うなど死んでも御免だが、おれが特派員であることが周囲に露見する方が遥かにまずい。

 よく考えろ。

 こいつの目的を……。おれに接触する意味を……。

「オレはなあ、風祭、てめえのことを、ちっとは買ってやってるんだよ」

「……どういう意味だ?」

「言葉通りだよ」

「…………」

 どうにも要領を得ない。

 こいつが何かを企んでいることは自明だが、その企み自体が不明だった。

「仕方ねえな、ひとつだけ教えておいてやる」

 おれを信用させるためか、明星はおもむろにそんなことを言った。

 全身を耳にする。

「てめえは運輸省直々に派遣された人間。そして、オレは、とっくにてめえが調べを付けているように、暁光会系列木田組と縁故えんこがある。そして、木田組は、ここらを牛耳る建設業の人間とも古い付き合いがあってなあ。いわば蜜月の関係にあるってわけだ」

 ……そういうことか。

「要するに、彼らに甘い蜜を吸わせたいんだな?」

「端的に言えば、そうだ。飲み込みが早くて助かるぜ」

 媚びるような笑みが鼻をつく。

 おそらく、おれを通して運輸省の役員に名前を売ることで、自身の株を上げようという魂胆なのだろう。同時に、木田組と関連する下請けの建設業に仕事を斡旋してもらうことで、木田組ないし暁光会にも男気を見せる心づもりなのだ。

 まったく、抜け目のない男だ。

「……くっく、悪くねえ話だろう? オレもお前も、得はすれども、損はしない。理想の取引だ」

 確かに、奴の言う通りだ。おれにとっては新国際空港開発工事を行う建設会社にコネができ、奴にとっては運輸省とコネができる。つまり、双方にリターンが見込めるというわけだ。

 おれはしばし考える。

 この場合、何が得策か。

(明星……、こいつに接近すれば、浅間たちと奴との間に何が起こったのかを探るのが容易になる。隠された真相に、一歩、近付くことができる)

 考えてみれば、カモがネギを背負って来たようなものだ。

「……わかった、お前の要求に従おう」

 ややして、おれは小さく頷いた。

 それは、おれの今後を決定付ける、極めて重要な決定だった。

 そこで、明星が口を開いた。

「くっく、てめえは利口だなあ、風祭。最初はいかにも都会的ないけ好かねえ野郎だと思ったが、てめえが政府の犬だって知った時には同情すら覚えたもんだ。てめえは権力に飼い馴らされた家畜。オレと同じ、国家に忠誠を誓った人間。そういう奴は嫌いじゃないぜえ」

 なぜ、こいつがおれに交渉を持ちかけたのか。奴が今吐いた言葉の中に、一切の利潤を度外視した個人的な理由の一端が垣間見えた気がした。

「なんと言っても、特筆すべきはてめえとギンバエとの差だ。オレが注目しているのはそこなんだよ。ヤツはよお、何も、他人のために行動しているわけじゃねえ。卑怯にもそう見せかけているだけだ。。オレの兄貴のように、完璧なまでに自分を犠牲にしているわけでもない。それだけの度胸があいつにはない。だから偽善者なんだよ。あたかも神に仕えているように振る舞いながら、実際は神を疑っている。まさに『ハエの王』ってわけだ。その点、てめえは身のほどを弁えている。国家に忠誠を誓い、祖国の発展のために行動している。あいつみてえに偽善者じゃねえ。そうだろう?」

「…………」

 これは驚いた。こんなガサツな男が、露木の迷いを見透かしているとは。

 おれが目を丸くしている間にも、尚も明星は続ける。

「それとも何か? てめえもあいつらと同じで、弱者の味方して正義の味方面する、青くせえ信条の持ち主か? ええ? 違うよな? なにせてめえは、政府公認の特派員なんだからなあ?」

 ――鋭い。

 露木の件と同様に、こいつはおれの目的すらも暴いている。

 それが証拠に、おれが、純粋な理由で孤児院を守ろうと動く露木と違って、何か別の目論見があって共に行動していることを見抜いている。そうでなければ、土地収用の対象である孤児院に執心する露木を、おれが庇い立てる必要がないからだ。

 そう、あの時から、互いの心の読み合いは始まっていたのだ。おれが最初に明星と顔を突き合わせた時から……ずっと。

「風祭よお、てめえは、オレと同じだ」

 突然、奴がそんなことを言うものだから、おれは思わず明星の顔を見た。……人を食ったような、薄汚い笑顔が視界一杯に広がった。

「オレは、ここの土地を奪うために動いている。上からの命令でな。てめえも、政府の命令で動いている。土地を取り上げるために。つまり、オレたちは同じ穴のムジナだ……、一緒なんだよ、何も、違うところなんてねえ……。そうだろう? 風祭くんよお……」

 目が一切笑っていない不気味な笑みを浮かべながら、ねちっこく迫ってくる。

 おれは壁際に追い込まれる。たちまち退路が断たれる。

 奴の汚い顔が間近に迫っているが、身動きが出来ない。

(……おれが、こいつと、同じ?)

 おれは、呆気に取られていた。奴の吐いた言葉の意味を、どうにか飲み込もうと苦心していた。

 そして、気付いた。

「まさか……」

 自分で自分を嘲る。

「おれは、ただ、おれの望む力が欲しいだけだよ」

 口元を邪悪に歪め、言い切った。

「……くっく、気に入ったぜ」

 満足げに鼻を鳴らし、おれを解放するように距離を置く。

 明星……、こいつは、露木などと違って社会経験が豊富な分、ある程度は融通が利く。

 なるほど、確かに奴は自己中心的であり、感情的な部分も多分に見受けられるが、こいつの場合、意図して感情を発散させている傾向が見られる。

 つまり、あらかじめ計算した上で怒ったり、支配的に振る舞ったりしているということだ。

 それが証拠に、最初、孤児院で奴と出くわした時、こいつは自分の立場が不利と判明するや否や、あっさりと引き下がった。

 感情を優先する人間は、冷静に状況を判断することが出来ない。

 しかし、こいつは別だ。大胆不敵に人のふところ目掛けて攻め込んだかと思いきや、鮮やかに引き際を見極める。戦況次第で出方を大きく変える。

(……顔に似合わず、意外に頭脳派なのかもしれないな)

 感情的に出るのが有効だと踏めば怒りを露わにし、それが逆効果とわかれば理性を優先させる。

 通常なら、なかなか、こうはいかない。

 類稀なる柔軟性の持ち主――。

 人は見かけによらないとは、よく言ったものだ。

 そこで、おれは思い出す。

 こいつは腐っても呂久郎の弟だ。記憶力の良い兄同様、地頭はかなり良い方なのかもしれない。

 だからこそ、こうして交渉を持ちかける。おれに、利用価値があると判断しているから。

 そして、商談を成功させるためにわざわざ周囲に根回しする用心深さも持ち合わせている。

(……合理的且つ理知的だな)

 使えるものは排除せず、徹底的に利用する。

 逆に、使えないとわかれば、容赦なく切り捨てる。

 ……それこそ、孤児院と教会堂のように。

(なるほど……)

 おれは、奴の心意気に感心した。今まで目の敵にしてきたおれと共謀しようなど、なんと面の皮が厚いことか。

 だが、おれも、所詮は奴と同じ……。

 こいつがいみじくも言ったように、おれと明星は同じ穴のムジナ。立場は違えど、考えの根底は一緒。

 なぜなら、現に、おれも、本来なら敵対するはずの露木たちと一時的に結託し、共に行動しているからだ。

 これを厚顔と言わずして、なんと形容しようか。

(……すべては、計画のためか)

 徹底的に私情を排し、とことんまでに利益を追求する。ビジネスの鉄則だ。

 ……ただ、それだけの話だ。

「……それで」

 ややあって口を開く。

「おれはこれから何をすればいい?」

 手短に答えると、明星はにやりと口角をつりあげた。

「くっく、さすが、お利口さんは違うねえ」

 不敵な笑みとは裏腹に、頭上からは高圧的な視線が注がれる。

「しかし、まあ、てめえが政府の犬だとは夢にも思わなかったぜ」

 ジロジロと、値踏みするようにおれを見る。

「最初はギンバエにまとわりつく目障りな金魚の糞かと思っていたが、これは思わぬ掘り出しモンを見つけたもんだ……」

 このセリフが、奴の合理性を如実に物語る。

 こいつは、おれを肩書きだけで判断している。あくまでも、おれ個人を信用しているわけではない。

 もっとも、それは、こちらも同様だが。

「ひとつ、質問がある」

「なんだ? 何でも言ってみろ」

「おれが政府の人間だということを、お前以外に知る人物はいないか?」

 声を潜めて問うと、明星は深く頷いた。

「大丈夫だよ、心配すんな。今のところは、オレと、てめえが特派員だということを教えてくれたあの人しか知らねえ。これは間違いないぜ」

(あの人と言うと、やはり院長か……?)

 考えられる線としては、妥当ではある。

 いずれにせよ、こいつの言葉を信じるしかない。

「……絶対に、口外するなよ?」

 あらかじめ釘を刺しておく。

「おれが特派員だということが明るみになってしまえば、この町で動くことは困難になる。そうなれば、当然、今回の話も露と消える」

 それだけは、どうしても避けなければならない。

「心配性だなあ、てめえも。オレがそんなつまらん失態を犯すように見えるか?」

「念のためだよ。人を過信したってロクなことにはならない。慢心は破滅を招くからな」

「なるほど、役人らしい用心深さだなあ。くっく、いいぜ、ますます気に入った」

 自らの要求が通ったからか、明星は興奮しきった様子で捲し立てる。

 おれは、そんな権威主義者の明星を、冷めた目で見ていた。

 こうして、おれと明星は、共謀することになった。

 共謀と言うと聞こえはいいが、要は利用し合うだけのこと。

 いつもやっていることと変わらない。

 問題は、国からのおこぼれを預かりに擦り寄って来た明星から、どうやって浅間たちのことを聞き出すかだが……。

 なに、時間はたっぷりある。

 焦る必要はない。

 おれは自分にそう言い聞かせ、入念に計画を練るのだった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 放課後。

 期末試験が近いためか、生徒たちの行動は早かった。

 加え、浅間一家の件もあり、競技大会を控えた一部の生徒を除いて、わざわざ遅くまで校舎に残ろうとする者は皆無だった。

 おれも周囲に合わせるように帰り支度を済ませ、席を立とうかと動いた瞬間のことだ。

「よお、特待生」

 明星の奴が、早速、絡んできた。

「ちょいとツラ貸せや」

 おれを商売仲間とみなしたからか、問答無用に私物化する。

「ちょっと、なに勝手なことしてるのよ」

 横暴な明星の態度にすかさず横槍を入れたのは天宮。頭ひとつ分は背の高い明星を厳しい目つきで見上げる。

「シューヘイは、あたしたちの大事な仲間……文芸部の部員よ。連れ出すのは許さないわ」

「っけ、仲間ねえ……」

 戯言だと言わんばかりに鼻で笑う。

「だとよ、風祭」

 そして、意味ありげに話を振る。

「大事なお仲間さんが、てめえを必要してくれているぜ?」

 嫌味なまでにつり上がった口角。

 奴がおれを試しているのだと直感した。

 すぐさま、頭を動かす。

「……悪いな、天宮」

 短く断りを入れると、彼女の表情が途端にしおらしくなっていくのが目に見えてわかった。

「今日は、こいつに用がある。部活動はまた今度だ」

「なんで……どうしてよ!」

 肩を震わせ、声を張り上げる。

「なんで……、なんでこんなヤツと……! よりによって、こんな時に……!」

「こんなヤツとは心外だなあ。オレと風祭は互いを認め合った、言うなれば戦友みてえなもんだ。なあ、そうだろう?」

 明星は徹底的に揺さ振りをかけてくる。

「そうなの……?」

 天宮の悲しげな瞳が、おれを向いた。

 責めるような、それでいて憐れむような視線。

「…………」

 おれは何も答えない。

 その無言が、答えになった。

「ま、そういうことだ。オレも風祭も、てめえらみてえなのとは出来が違うんだよ」

 せせら笑いながらの痛烈な言葉に、天宮は唇をギュッと噛み締め、俯く。

「この際だからはっきり言ってやる。てめえらはだ。無能のゆえに無駄に群がり、しつこく他人にまとわりつく、邪魔ったらしい、目障りな羽虫に過ぎねえ。まったく、下劣な奴らだ。反吐へどが出るぜ。身のほど知らずにも程がある。じつを言うと、昔からてめえらのことが気に入らなかった。いつまでもごっこ遊びに興じやがって。舐めてんじゃねーぞ、人生を。てめえらがオレの立場に立っていたら、即刻、消されるだろうさ。は恐ろしい人間だからな。だからこそ、ぬるま湯につかり続けるてめえらが憎くて憎くて仕方なかった。世の中のことを何も知らねえくせに、知ったような口を利くてめえらが……、オレは……。

 ……っち、少し要らんことを話しちまったか? まあいい。ともかく、これからは人付き合いの相手は選んだ方がいいぜ。オレも、風祭も、未来を約束された、選ばれし者だ。てめえらみてえな温室育ちの平和ボケした凡人とは住む世界がまるで違う。てめえらの足りない脳味噌に、よく叩き込んでおけ」

 ――自分のことは棚に上げて、よくもまあいけしゃあしゃあと。

 だが、反論はしない。収まりかけたこの場をまぜっかえすような馬鹿な真似はしない。

 それに、明星の言うことにも一理あるのが正直なところだった。奴は、おそらくは幼少期から、厳しい教育を施されていたのだろう。それは、こいつの屈折しきった人格からも如実に伝わる。

 その点は、おれと、何も変わらない。

 しかも、こいつの場合は、兄の存在も大きい。病弱ながらも詩篇や聖書を完璧に暗記するほどの頭脳に加え、誰に対しても平等に慈愛を注ぐ優しさと、人目につく容姿端麗の持ち主である、兄、呂久郎。周囲を引き込むあのカリスマ性は、他に類を見ない。その上、生まれの早さもあって、いくら努力しようが兄の存在には敵わないと知った明星の性格がこのように歪むのは、半ば必然と言えた。

 無論、同情はしないが。

 そして、おれと同様に、天宮と露木も何か思うところがあるのか、二人はしばらく押し黙っていた。天宮は悔しそうに顔を逸らし、露木はおれを睨み付けたまま、無言を貫き通す。

 だが、おれの心は響かない。

「あたし……、あたしは信じてるから……、シューヘイのこと……」

 縋るようにおれを見る。

 このような事態になっても尚、愚直なまでに信頼を寄せる天宮とは逆に、露木の奴は、口にこそ出さなかったが、心底おれを軽蔑しているのがわかった。これが、露木と呂久郎との、決定的な差だった。

(……おれは……)

 ――部活仲間と、明星。かけがえのない現在いまと、過去に目指した未来。両者を天秤にかける。

 答えはすぐに出た。

 悩む必要など微塵もなかった。

(そもそもが、彼らを利用するために接触したに過ぎない。だとすれば、迷う必要がどこにある?)

 考えるまでもなかった。

(だったら、おれは――)

 ――より利益が多い方につく。

 それだけの話だった。

「そういうことだ。しばらく席を外させてもらうぜ」

 後腐れがないようにきっぱりと言う。

 それでも、天宮は食い下がる。

「シューヘイ……、あんたも、コースケの奴みたいに、あたしたちのことを、鬱陶うっとうしく思ってたの……?」

 懇願するような目つき。

 おれは、自分の決意がぐらつくのを感じた。

「……ねえ、……どうなの?」

 彼女の真っ直ぐな瞳に見詰められ、胸の奥がざわつく。

 だが、それでも、もう二度と、おれの考えが覆ることはなかった。

「……おれには、おれのやるべきことがある。天宮が部活動を続投し、露木は孤児院を守るように、おれにも、自分の目的がある」

 父の跡を継ぎ、政府の役人となる。そのためにも、今回の開発計画は絶対に成功させる。

「それだけの話だ」

 おれは決別する。自らの過去と、己の甘さに。

 その第一歩のため、こいつらとの仲良しごっこに終止符を打つ。

 つくづく、運命は残酷だと思った。

「シューヘイ……!!」

 諦めの悪い天宮がおれに向かって声を張り上げるが、明星が目の前に立ちはだかる。

「わかったら、とっとと離れな。いい加減、目障りなんだよ」

 そばに居合わせた露木と天宮を圧巻の目力で一蹴すると、明星は有無を言わさずおれを教室の外に連れ出す。

「――あたし、待ってるから」

 廊下から、何かが聞こえる。

「部室で、あんたのこと……待ってるから……」

 おれの歩みは止まらない。

「ずっと、ずっと……待ってるから……」

 それきり、声は聞こえなくなった。

 おれの耳には、もう、何も届かない。

 心は、完全に冷え切っていた。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「なかなかいい啖呵たんかだったぜ」

 生徒が行き交う廊下で、横の明星がそんなことを言う。

「ふん……」

 奴からの称賛に微塵の興味関心がないおれは、小さく鼻を鳴らすだけだった。

「……それで、用ってのは一体何なんだ?」

 疑心暗鬼に尋ねるが、肝心の明星は愛想笑いを浮かべるのみ。

「まあまあ、そんな慌てんなよ。せっかくお近づきになれたんだ、じっくりと親睦を深めようじゃねえか」

(……親睦、ねえ)

 おれとしては是非とも御免蒙りたい話だがな。

 以前とは打って変わって態度を軟化させる明星に、おぞましい気色悪さを覚える。

(大方、おれが利用価値にある人間だと判明したからなのだろうが……、本当に、現金な男だ)

 したたか、と言うべきなのかもしれないが。

「言っておくが、あまり無駄な時間は掛けられないぜ? こう見えておれもなかなか多忙だからな」

「わーってるよ、てめえの手は煩わせるつもりは毛頭ねえ。余計な心配すんなや」

 ……どうだか。

「悪いが、これがおれの性分なもんでね。ある程度は用心深くないと例の仕事は務まらない。大雑把にやっていたら、絶対どこかに穴が生じる」

「根っからの臆病者じゃなきゃ、お役人にはなれないと?」

「ま、そういうことだ」

「それはそれは、ご苦労なこった」

 皮肉を言い合う。

 おれと明星は、終始、互いの出方を窺うような応酬を繰り広げていた。

「用ってのは他でもねえ……、てめえに会わせたい人間がいるんだよ」

「へえ……、どんな奴だ?」

「てめえもよく知ってる奴さ」

 そう低く笑うだけで、詳細は伏せられた。

 その人物とは、ある場所で落ち合う約束を取り付けているらしい。

 おれたちは待ち合わせの場所まで向かう。

「……ここだ、着いたぜ」

 再び訪れた、空き教室の前。

 壁にもたれかかる人物の姿を見て、おれは驚愕した。

「……東」

 俯き加減で佇んでいたのは、東だった。名家のお嬢様らしく、綺麗に切り揃えられた黒髪が目を引く。

 思わず見惚れてしまうような見事な頭髪は、しかし、暗い影を落とすように彼女の表情を覆い隠していた。

 東はキュッと唇を結び、視線を床に落としている。

「……明星、どういうつもりだ?」

 おれは隣の明星を睨み付ける。

 だが、奴は、嘲るような微笑を浮かべるばかり。

「利口なお前さんになら、理由なんてすぐにわかるだろう?」

 ……っち。

 こいつに尋ねたおれが馬鹿だった。

 強引におれを仲間に引き入れるような男だ。最初から、まともに取り合う気などなさそうだ。

 そこで、仕方がないとでも言わんばかりに、奴がゆっくりと口を開いた。

「強いて言うなら、このあまもまた、オレたちの同胞ってことだ。……いや、厳密には、これからそうなる予定と言ったところか?」

「……それは、どういう意味だ?」

「わからねえか? なら、教えてやる。ここいらの土地を根城にしている限り、このあまの生家の影響は避けては通れねえ。……ならよお、無理やりにでも協力を仰がなきゃならないわな」

(……こいつ……)

 要するに、脅しているってわけか。

 実直で、正義感の強そうな彼女のことだ。おそらく、自らの意志で明星に従っているわけじゃない。おれと同じように、弱味でも握られているのだろう。

「しかし、この女は気が強くてなあ。せっかく友好的な態度で勧誘しても、返事はいつも素っ気ない。挙句の果てにはオレの顔を見るなり門前払いと来たもんだ。だが、オレもやられてばかりじゃ他の奴らに示しがつかねえからよ、あの手この手を駆使して、どうにか話を聞いてくれるまでにこぎつけたわけだ。が、今度はなかなか口を割ってくれなくてよお、ほとほと困り果てているところなんだわ」

 口では被害者面しているが、やっていることは犯罪同然だった。

「で、それで、どうしておれが駆り出されなきゃいけないんだ?」

「話は最後まで聞くもんだぜ、特待生。オレはなあ、女相手に暴力を振るうほどワルじゃねえ。オレにはオレなりの矜持――美学がある。そんなわけでよお、オレはオレの美学に基づき、どうしたらオレたちに協力するのかって尋ねたわけだ。もちろん、平和的にな。すると、この女は、ある条件を持ちかけた」

「条件? なんだそれは」

「お前だよ、特待生」

「なに……」

「こいつはどういうわけか、てめえにえらく興味がおありのようでな。特待生がオレの仲間になれば、自分も協力するとか抜かしやがった」

 ……つまり、おれは売られたというわけか。

 普通なら自分が引き合いに出されたことに怒り狂うところだが、むしろおれは妙に納得していた。

 おかしいと思った。

 明星の奴がおれの素性を調べる意味が。どうしても不明だったからだ。

 しかし、これで明らかになった。

「これで、交渉成立だな」

 威圧的な言葉を東に投げかける。

 東は何も言わない。

 おれたちの方を見向きもせず、ただ、俯くばかり。

「くっく、シャイな女だぜ。思わずかぶりつきたくなっちまう」

 おぞましいことを言う。

「……晃介」

 東が、不意に重たい口を開く。

「しばらく、二人にさせてくれないか。私と、風祭くんの二人に」

 目線を上げ、鋭い視線で明星を見据える。

「……っけ、仕方ねえな。それくらいは許してやる」

 今まで無言を貫いていた東に凄まれて怯んだのか、明星は口元を引きつらせながら了承する。

「だが、忘れるなよ。てめえらのボスはこのオレだ。少しでも妙な真似を起こそうとしてみろ。……ただじゃ済まねえからな」

 脅しをかけ、おれの目の前から消える。

「……それで」

 東の方に向き直る。

「おれに何の用なんだ?」

 そう尋ねると、拍子抜けしたように目と口を大きく開く。

「……怒らないのか?」

「怒る? 何を?」

「……きみを、晃介の手先に引き入れてしまったことだ」

「別に、たいしたことじゃない。あんな三下、おれの敵じゃない」

 断言する。

「問題は、東、お前の方だ」

「私……?」

 彼女の顔が驚きの色に染まる。

「そうだ。東、どうしてお前はおれを呼んだ? 明星を相手にするなら、もっと適任の人間がいるはずだ。例えば、露木とかがそうだ。それでも、お前はおれを選んだ。この町に来て間もないおれを、わざわざ指名した。それはなぜだ?」

「……きみに信じてもらえるかは、わからないが……」

「構わねーよ。お前の言い分の正しさはおれが決める。だから、説明してくれ」

 なぜ、おれを抱き込んだのか。

「……樹生のことは、知っているな?」

 樹生と言うと、浅間のことか。

「もちろん知っている。と言うか、知らない奴はいない。今じゃ校内は彼らのことで大騒ぎだよ」

 さすがに、一家心中というのは只事ではない。こんな寂れた田舎で話題にならない方が無理だというものだ。

「で、浅間がどうした? 彼らについて、何か知っていることでもあるのか?」

 軽い気持ちで探りを入れると、東は、思いのほか、重たい反応を見せた。

「……じつは、樹生たちが自殺した原因を作ったのは、私にあるんだ」

「なに……」

 おれは、自分の顔が強張るのを自覚した。

「それは、どういうことだ?」

 思わず、辺りを警戒する。

「安心しろ……、ここには滅多に人は来ない」

 緊張をほぐす言葉にしては、東の表情は堅苦しい。

「明星の奴もそんなことを言っていたが……」

 まあ、いい。

 問題は、そこじゃない。

「……話を戻すぞ。浅間が自殺したのは、東、お前のせいだって?」

 彼女を責めるつもりはなかったが、字面だけ見れば責めているのも同然だった。

 だからだろう、東はおれに向けていた目を逸らす。

「悪い、配慮が足らなかったな」

 慌てて謝罪する。

「いや、いいんだ。風祭くんが謝る必要はない。私に不備があるのは紛れもない事実だ。すべて、私の方に責任がある」

 そう言って、再び、おれの目を見た時、すでに彼女から迷いや動揺の色は消えていた。

「話の前に、おれからひとつ、質問がある」

「なんだ? 何でも言ってみてくれ」

「東、お前はいつから明星に目を付けられていた?」

「……かれこれ、1年になる」

 ……なるほどな。

「そうか、わかった」

「ん? 質問は、もういいのか?」

「ああ、最初にひとつだけだと言っただろう」

「……そうか」

 胸を撫で下ろしたように表情を和らげる。

 きっと、なじられるとでも思っていたに違いない。

 だが、おれはそんな無駄なことはしない。

 必要なのは情報だけだ。

 彼女が、おれを引き込んだ理由。

 それは何も、おれが特派員だからではない。

 おれがその肩書きを有すると明星が知ったのは、おそらく、早くて一昨日、遅くて昨日のことだろう。

 なぜなら、おれが執事に自分の素性をばらしたのが一昨日の出来事だからだ。

 しかし、それより前に、明星は東に接近している。

 だとすれば、東は、おれが特派員だということを知らない。

 東が、明星より先に調べを付けたとは考えにくい。

 それにもかかわらず、彼女はおれに助けを求めた。

(なぜ? なんのために?)

 この点を明らかにしなければ、彼女の行動がどうにも読めない。

 もっとも、この前提は、明星の『誰にも言っていない』との言葉を信用しなければ成り立たないのだが……。

「……話をしても、構わないか?」

「お前の準備ができているなら、いつでも」

 そう言ってやると、東は静かに目を閉じ、小さく息を吸い込む。

「そう、すべての非は私にある……」

 控え目な胸の前で、ギュッと手を握る。

「……私の迂闊な行動が、浅間を追い詰めてしまったんだ……」

 まるで神に懺悔ざんげでもするかのように頭を垂れ、彼女は言葉を紡いでいった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


(……なんということだ)

 東から事の真相を聞き終えたおれは、誰もいない廊下を忙しなく駆けていた。

 どうして浅間が明星とつるんでいたのか、なぜ彼は『イイヅナ様』のことを東に尋ねたのか、そして、十兵衛ともども、なぜ大天山に向かったのか。

 すべてのピースが揃いつつあった。バラバラだったそれらが互いをひきつけ合い、ひとつに繋がっていく。

(これは、大変なことになったぞ……)

 浅間一家の無理心中は、始まりに過ぎなかった。

 おれはこの件を父に一刻も早く伝える必要があった。

 しかし、ある場所を前にして足が止まる。

 選択肢は、ふたつ。このまま何事もなかったかのように通り過ぎるか、それとも、意を決して中に入るか。

 一瞬、躊躇する。

(なぜ、こんなにも後ろ髪をひかれるのだろうか?)

 胸の奥から込み上げる奇妙な感情。固く閉じられた扉が徐々に開かれるような、そんな錯覚があった。

(なんだ? 何をおれは迷っているんだ?)

 今の自分の感情が理解できない。

 おれは合理的に動いていればそれでいい。

 どうせ、あと2週間ほどでおれはこの町から去る。芥川が言ったように、彼らに肩入れしたところで無意味なのだ。

(情報は集まった。彼らと一緒にいて得られる利益など、そう多くはない。むしろ、時間の損失の方が大きいだろう)

 なら、打つべき手はひとつだ。

 頭ではわかっている。すでに答えは出ている。


『あたし……信じてるから』


「…………」


『約束……』


 彼女の言葉が、少女のものと重なる。

(……馬鹿馬鹿しい)

 自分自身に嫌悪感を覚える。

 腑抜けたものだ。

 お前は、一体、この町に何をしに来たのか?

 おれは、豊太郎にはならない。『舞姫』の二の舞にはならない。

 そう、固く決意したはずだ。

 だったら、考えなしに親交を深めたところでやぶへびだ。人間関係の構築など必要最低限に留めておくべきなのだ。

 だから、おれは、止めていた足を動かそうと身体に力を込めた。

 その時だった。背後に、人の気配を感じたのは。

「おやおや、部室に何かご用ですか?」

 慌てて振り返る。芥川だ。謎に白衣を羽織った芥川の奴が顎を指でなぞり、値踏みするようにおれを見据える。

「……いや、用と言うほどのものじゃない」

 その視線に含みを感じたおれは、居心地の悪さを覚え、目を逸らす。

 だが、おれの心の迷いと動揺を見逃す芥川ではなかった。

「なら、どうして部室の前で立ち往生していたのですか?」

 口元に貼り付けた微笑が不敵に持ち上がる。

 ……こいつの前で、下手な言い逃れはできないか。

 観念したおれは、上手い口実を設けようと頭を巡らせる。

 そして、口を開いた。

「何か、部室に忘れ物があるような気がしてさ。どうにか思い出そうと苦心していたところだ」

「なるほど、そういうことでしたか」

 納得したような口ぶりの割に、まったくおれを信用していなさそうな冷たい瞳が、尚もおれを捉える。

「だったら、風祭くん、きみはとても大事なものを見失っていますね」

 心中を見透かしたかのような鋭い指摘。

「……どうして、お前にそんなことがわかる?」

 気付けば、反論していた。言ってから、己の軽率な行動を恥じた。

 芥川はしてやったりという感じでほくそ笑む。

「わかりますよ。当然です。きみの考えていることは手に取るようにわかりますよ。いわゆる以心伝心というやつですね」

「相変わらず、気持ち悪いことを平然と言うな?」

「人類は、皆、変態ですよ。特に天才と呼ばれる人物は例に洩れず、奇人変人のオンパレードです。あのレオナルド・ダ・ヴィンチを始め、『社会契約論』をしたためたルソーも相当な異常性癖の持ち主だったようですからね。これはもう筋金入りとしか言いようがありません。ある種の呪いみたいなものです。宿命ですよ。キェルケゴールが言ったように、神は天才に嫉妬して何かしらの欠点を付けたがるものです」

「お前は自分を天才だと思っているのか?」

「まさか! 滅相もありません、僕が天才など……、特待生の風祭くんではあるまいし」

 なぜそこでおれを引き合いに出す?

「ただ、よく人からは『変わっているね』と言われることはあります、が、天才だと褒め称えられたことは生涯で一度もないです。学校の成績も、いつも下から数えた方が早いほどですから、当然の評価ですが。僕が言いたいのはそうではなく、たとえ他人から見れば異常なことでも、与えられたその才能をひたむきなまでに伸ばせば、それも一種の天賦てんぷなのではないかと、つまりはそういうことです」

「わかった、わかった」

 こいつと話していると疲れが酷くなる。

「どうやら、忘れ物はおれの勘違いのようだ」

 だから、さっさと踵を返して奴の前から立ち去ろうとした。

「それじゃ、おれはもう行くからな」

 しかし、芥川が、弱味を見せた相手をみすみす逃すはずがない。

「……、逃げるつもりですか?」

 冷徹な声が、背後から降り注ぐ。

 思わず、おれは振り返った。

「逃げる? おれが、何から?」

 頭に血が昇る。冷静でいられなくなる。

 芥川はにやにやと笑っている。その余裕ぶった表情が、なおのこと気に食わない。

「そうしてむきになって否定するところを見ると、どうやら図星のようですねえ」

「……っち」

 お得意の誘導尋問か。

「相変わらず陰険な奴だな」

 この程度の皮肉では芥川は動じない。むしろ、嬉々とした愉悦の表情に変化する始末。

 さすがに頭に来た。

 おれは奴の緩み切った顔を睨み付ける。

「いいか、芥川、これだけは言っておいてやる。他人の事情を詮索するのは勝手だがな、それはあまり褒められた行為じゃないぜ。人に恨まれたくなければ、即刻、やめることだな」

「心からのご忠告まことに痛み入ります、が、人を人とも思わない無神経さが僕の取り得のひとつなので、悪しからず」

「本当に性根の捻じ曲がった奴だな、お前は」

「いえいえ、大事な物事から目を背け、肝心な時に尻尾を巻いて退散するあなたほどでは……」

「なんだと……」

 ――尻尾を巻いて、逃げる。

 この言葉が、おれの怒りを誘発させる引き金となった。

 知ったような口を利きやがって。

 抑えきれない衝動が湧き上がる。

 自分では止められそうになかった。

「お前に、おれの何がわかる?」

 国の未来という想像を絶する重圧を背負ったことのない人間に、説教される筋合いなどない。

「わかりますよ」

 しれっと言う。

「さっきも言ったでしょう? きみのことは手に取るようにわかると」

「馬鹿言え、他人の考えなど、他人であるお前にわかるわけが――」

「だって、僕は、きみですから」

「は……?」

 唐突な告白に、思考が停止する。

 開いた口が塞がらない。

「なんだ、それは。一体どういう意味だ」

 わけがわからない。

「文面通りの意味ですよ」

 にやりとほくそ笑んではぐらかす。

 頭に昇った血が、急速に引いていくのがわかった。

「まったく、お前の言うことは本気なのか冗談なのかよくわからん」

「すみませんねえ。風祭くんの仰る通り、僕は緩急巧みに、それこそ虚実ない交ぜに、あることないこと十把じっぱ一絡ひとからげに話すのが好きなものですから」

「自分で言うなよ」

 おれは溜め息をつきたい衝動に駆られる。

「ともかく、おれはお前にとやかく言われる筋合いはない。第一、おれは逃げも隠れもしない」

「……言いましたね?」

「何を」

「逃げも隠れもしないと、はっきりと宣言しましたね?」

「それが、どうした」

「だったら、本当に逃げてはいけませんよ、風祭くん。目の前の事象についてはもちろんそうですが、他ならぬ自分自身から目を背けてはなりません。すべては己自身が知っています。ショーペンハウアーはこう言いました。『人は忘れることができる生き物だ。ただひとつ、自分自身の存在を除いては』。すなわち、『我思う、ゆえに、我在り』。我思うとは、すなわち、疑うことを指します。何が本当で、何が嘘なのか、絶えず周囲を注視し、観察すること。時には自分さえ疑いの目で見ること。それが『我思う』の真意です。たとえ神が自分を含めたすべてを疑うように仕向けていたとしても、そうして実際に疑うことのできる自分自身は、確かに在る。確固たる事実として、存在する。それだけが真実です。神でさえも覆せない唯一無二の真理です。『存在とは、否定のことである』。僕から言えることはそれだけです」

「…………」

 なにやらわけのわからん話を矢継ぎ早に捲し立てる。

 おれは呆気に取られ、呆然と立ちつくす。

 本当に、何なんだ、こいつは?

 いちいちおれに突っかかってくると思えば、こうして毒にも薬にもならない与太話を平然と繰り広げる。

 奴の思惑が、まるで理解できない。

「では……、僕はこれにて」

 しかもその上、自分はそそくさと立ち去ろうとする。

 明星にも引けを取らない厚顔さには、呆れて物も言えない。

「おい、お前こそ部室に用があるんじゃないのか?」

「いえ、突然、急用を思い出したので」

「なんだ、そりゃ」

「それでは、ごゆっくり」

「あ、おい……!」

 芥川の奴は白衣を翻すと、そのまま颯爽と消えていった。

「……結局、何しに来たんだ、あいつは……」

 神出鬼没で傍若無人。突然、支離滅裂な物言いをしたかと思えば、今度は理路整然とした巧みな話術で手玉に取る。馬鹿のようでいて、人一倍、頭が切れる男。

「毎度毎度、言いたいことだけ言いやがって……」

 勝ち逃げとは卑怯にもほどがある。

 まあ、毎回のようにしてやられるおれもおれだが。

(……それにしても、天宮か)

 おれは彼女のことを考える。

 別に、芥川に言われたからではない。……と、言いたいところだが、奴の影響は少なからずあった。それは否定できない事実だ。

 確かに、引っ掛かることがある。

 写真の少年。

 なぜか、天宮だけは知っていた。彼が、『ヒトシ』と言う名の少年だと。呂久郎はおろか、あの露木でさえも知らないことを、孤児院とまったくの無関係である天宮が……。

 ……なぜだ?

 その上、彼女は過去に孤児院に来たことがあるような素振りを見せていた。

 当時、彼女と『ヒトシ』の間に何があったというのか?

(……彼女は、おれも気付いていない秘密を知っていると?)

 可能性としては、ある。

 だが、それがどうした。

 おれが孤児院の過去の出来事を知って、何になる?

 その時、目の前が白んだ。

 懐かしい光景が、一瞬、見えたような気がした。

「………………」

 ――かすかな頭痛。

 ふと、何かを思い出しそうになる。

 ……何を?

 おれが、一体、何を思い出すというのか?

 ふと我に返る。

 わけがわからない。

「……おれが、大事なものを見失っているだと?」

 芥川はそう言った。まるで、おれのすべてを知っているような口ぶりで。

「……くだらないな」

 即刻、否定する。

 あいつに、おれの何がわかる。

(おれは、あいつのような表六玉ひょうろくだまとは違う。口先だけの詭弁で相手を煙に巻く卑怯者じゃない)

 芥川を内心でけなして、落ち着きを取り戻す。

(そうだ……、おれはあいつとは違う)

 笑いが込み上がる。

 奇妙なことに、おれは笑っていた。

 止められそうにない。

「ははは……」

 ……大事なもの、か。

 そんなもの、とっくの昔に切り捨てているさ。

 何かと引き換えに、何かを得る。その繰り返し。

 それが、人生ってもんだ。

「………………」

 昔のことを思い出し、おれの表情から笑顔が消えた。

 代わって、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような寒々しい感覚が身体中を駆け巡る。

 おれが、昔に交わした約束と引き換えに得たもの。

 それはなにか。

「……ふん」

 考え始めて、すぐに馬鹿馬鹿しくなった。

 そんなこと、今さら振り返るまでもない。

 だって、おれは……。

「……まだ、すべてを捨てたわけじゃない」

 少しでも真実に繋がる手掛かりがあるなら、おれはそれを掴み取ろうと全身全霊で手繰り寄せるまで。

(……5年前、孤児院に何があったのか。そして、東の話していたことが事実なら……)

 放射状に散らばった点と線は、そこではっきりと繋がる。

(……やってやろうじゃねーか)

 だから、おれは手を掛けた。

 ……部室の、扉に。

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