第十九話 愕然

「ようやく来たか、風祭」

 一時間近くかけて、おれはどうにか露木と天宮の待つ孤児院に辿り着いた。

「随分、遅かったじゃないか」

 あの場で一悶着あったことを知らない露木は、能天気に言う。

「だから、あらかじめ寄り道するって伝えたじゃねーか」

 息を切らしつつも、笑って答える。

「そりゃそうだが、まさかこんな大事な用事の前に、別件で席を外すなんて普通じゃ考えられないことだからな。疑問に思うのは当然だろ?」

「……まあな」

 それは言えている。おれが逆の立場だったら、浅間たちの足取りを追うことよりも優先させるものは一体何かと勘繰ることだろう。そういう意味では、露木は正しい。

「でも、これが正解だったと思うぜ?」

 だからこそ、おれはあらかじめ答えを用意していた。

「なに?」

 眉をひそめた面持ちの露木が、注意深くおれを見据える。

 おれは薄く笑って答えた。

「おれはすでに、浅間たちの身に何が起きたのかを知っている。十兵衛に関しても同様に、彼の身に何があったのか、その一部始終を知っている」

「それが……なんだって言うんだ?」

「まだ、わからないか?」

 露木は、ちっ、と舌打ちする。

「……お前まで芥川の真似事か? もったいぶらずにさっさと言えよ」

「要するに、この際、情報収集に割く人員を分散させた方が効率が良いってことだ」

「……」

「露木と天宮は、くだんの話について詳細を知る呂久郎から、まだ詳しい事情を聞いてない。だからこそ、こうして、彼のいる教会堂にまでわざわざ足を運んだ。しかし、さっきも言った通り、おれはとうに十兵衛たちに関する話を聞いている。だとすれば、はなから露木たちに同行するというのは、いささか余分な要素が多い。おれからしてみれば、もう一度同じ話を聞く破目になるのだから、当然だがな。とすると、必然、おれと露木たちとで役割を分けた方がより効率的なのは、言うまでもないことだ」

 おれには、まだ、やるべきことがあった。複雑に絡み合った謎を解き明かすうえで、とても重要なことだ。

 極めて公正且つ理性的な行動だと自負する反面、露木の表情が険しいものに変わる。

「……お前も、芥川に負けず劣らず、徹底した合理主義ってわけか」

 それは褒めていると言うより、皮肉と称した方がより適切だった。

 ――芥川と同じ。氷のように冷たい精神の持ち主とおれとを比較する露木の言葉が、おれの胸にグサリと突き刺さる。

「確かに、お前の言うことには一理ある。効率的に動くために出来る限り無駄を省こうっていう姿勢も悪くない、悪くはないが――」

それが証拠に、露木はおれの言い分に少しも納得していない様子だった。

「……何が不満なんだ?」

 おれは尋ねた。露木の形相はますます強張っていく。

「……少し、非情過ぎやしねえか?」

 キッと、鋭くおれの姿を捉える。

 その目に込められるのは明らかな敵意と、難色。

 しかし、おれには、露木が、なぜ、そんな疑問を呈するのかがよくわからなかった。

「非情? おれが?」

 だから、そう問い返した。

 露木は尚も真剣な表情でおれを見る。

「そうだ、前々から、薄々、感じていたことだが……、この際、はっきり言わせてもらう」

 燃えるような光を湛えた奴の瞳は、おれを捕縛したまま、離さない。

 おれは思わず身構えた。

「どうして……、どうしてお前はそんなに冷静でいられるんだ? 人が、それも、十兵衛が行方不明になっているんだぞ? おかしくないか? そうだ、それだけじゃない、……昨日の昼休み中、浅間の容態について話した時も、高校の、部活の仲間が自殺なんて馬鹿げた真似をしたっていうのに、眉ひとつ動かさず平然として、やけに落ち着き払って……、その上、俺に、浅間の死因さえ尋ねる始末だ。至って涼しい顔してよ。浅間の訃報を聞いた直後の第一声がそれなんだからな、俺は耳を疑ったぞ。あの場は天宮の手前、どうにか自制したが、もう辛抱ならん。風祭、お前は冷たすぎる。確かに、転入生である風祭には、浅間のことを始め、俺たちのことなんて初めから眼中にないのかもしれんが、それでも、……あまりにも、酷ってもんじゃねえか?」

 ……なんだ、そんなことを気にしていたのか。

 熱のこもった瞳と口調で訴えかける露木とは対照的に、おれの心は冷めていた。

「今回のお前の行動にしても、同じことが言える。……もう一度同じ話を聞くのが嫌だから、別行動を取った? ――なんだそれは。冗談にしては性質が悪い。まだ芥川のブラック・ジョークの方が笑えるってもんだ。本当にお前は、真剣に、十兵衛たちの足取りを追おうと考えているのか? 俺にはどうも、お前が興味本位で今回の事件に首を突っ込んでいるようにしか見えない。今までの言動から推察すればな。信じたくはないが、そう解釈せざるを得ない。……お前が、本当に、あいつらのことを思っているのであれば、たとえ僅かな可能性であろうとも、それに懸けるだけの心意気があるはずだ。十兵衛たちのことについて、ほんの少しでも手掛かりが掴めるっていうなら、どんな些細なことでもいい、それこそ岩にかじりついてでも手に入れてやろうと脇目も振らず躍起になる……、それが、『人間』ってもんじゃないか?」

 奴の言い分を聞くうち、徐々に真剣に耳を傾けようという気概が削がれていった。

 おれは半ば呆れていた。

 奴が言い終わるのを待ってから、やれやれと肩をすくめ、小さく溜め息を吐く。

「露木……、お前こそ、少しばかり感情的になっていやしないか?」

「なに……」

 諌めるように言うと、奴の眉根がピクリと跳ねる。それは激しい怒りの兆候だった。

「なるほど、熱くなるのも結構だ、お前がそうなる理由もわかる。けどな、大事なのは姿勢じゃない。過程なんて重要じゃない。最終的に物を言うのは、真実を手に入れられたかどうかという……結果のみだ。そこの部分を見失っちゃ、本末転倒ってもんだぜ?」

「……それは……、そうかもしれんが……」

 納得しつつも釈然としていない様子の露木は、力なく視線を落とすが、それは落胆したためではなく、反論のための言葉を探すための予備動作のようだった。

「十兵衛たちの身に何が起こったのかを知るために、怒りや悲しみの感情が必要だって言うなら、おれはいくらだって義憤に駆られてやる。滝のように涙を流してやったっていい。しかし、現実はそう単純じゃない。むしろ、それら本能的な心理の動きは理知的な思考を奪い去り、正常な判断能力を失わせる。そうなったら最後、おれたちは道を踏み外す。感情に支配された人間とは、往々にして自分を見失うものだからだ。それは、真実を掴み取ろうとするおれたちにとってはあまりにも致命的と言える。だからおれは、自らに冷静さを課している。傍目には冷酷に見えるかもしれないが、それがおれなりの覚悟って奴だ。おれが言いたいのは、そういうことだ」

 そこまで自分の決意を表明すると、露木は悔しそうに唇を噛み締めた。

「なんにせよ、こんなところでおれたちが議論していても仕方ない。事は一刻を争う。あんまり私情に駆られちゃ、大事なものを見失いかねない。違うか?」

 顔を伏せたまま、奴は静かに頷いた。

 おれは小さく鼻を鳴らし、俯いた露木の奴に一瞥をくれたあと、辺りに視線を這わす。

 露木に言った言葉……、これは、おれに対する戒めでもある。

 あの日、あの夜、おれは目先の利益につられ、闇雲に突っ走り過ぎた。真相の究明に急ぐあまり、周りがまるで見えていなかった。あれだけ父に固く釘を刺されていたにもかかわらず、私心を優先してしまった。だからミスを犯した。

(もう二度と、あんな失態は演じない)

 それでは……誰も救えない。

(そうだ、迷っている暇はない。誰になんと言われようと、おれはおれの道を貫く。彼女を救うには、それしかない)

 ゆえに、慎重に事を運ぶ必要がある。

(露木たちには悪いが……、おれにも譲れない事情ってものがある)

 この土地にまつわる因縁は、おれの今後の進退に関わっている。それも、密接に。

(背に腹は代えられない。どんな手段を使ってでも、絶対に解き明かす)

 あの時の約束を果たすために。

「……ん?」

 教会堂の横に建てられた塔を見上げていたおれの視界の端に、何者かの姿が映った。

「……おや、皆さん、お揃いでしたか」

 孤児院の方から、二人の人影が近付いてくる。

 彼らは、お目当ての人物だった。

 今まで花壇の近くで立ち尽くしていた露木も、彼らの存在に気が付いたらしく、手をあげて応える。

「よう、呂久郎……、身体の方は大丈夫か?」

 呂久郎――明星晃介の兄であり、露木と旧知の仲であるという、胸に十字架を下げた、不思議な雰囲気を纏った青年――は、露木の動作に対応するように小さく手をあげ、おれたちのもとに歩み寄ってきた。

 教会堂と言う、神聖な領域が似合う呂久郎に注目が向かったのは言わずもがなだが、おれは、彼の隣に立つ人物に関心が寄った。

「お、誰かと思えば……お前だったんだな」

 黒いセーラー服に身を包んだ、勝気そうなつり目が印象的なポニーテールの女。

 おれは、呂久郎の隣にいるもうひとりの人間の姿に声をかける。

「どうした? そんなにここが物珍しいか?」

 教会堂に来るのが初めてなのだろう、どこか物憂げな横顔の天宮は、おれたちのことなど目もくれず、辺りを頻りに見やっている。

 何か、気になるものでもあるのだろうか?

「……あら、シューヘイ。あんたも来たのね」

 まるで、たった今、おれに気が付いたかのような口ぶりだった。

「ご挨拶だな、おれと合流するのがそんなに嫌だったか?」

「別に……、そういうわけじゃないけど」

 どこか呆けた表情でおれを見る。

 しかし、すぐに視線を外し、また周囲の風景に目を戻す。

 おれは、素っ気ない彼女の態度に違和感を覚えつつも、掛けるべき言葉を探す。

「それで、情報収集の方は順調か?」

「……ええ、そうね」

「……?」

 それだけを言うと、彼女はおれから背を向ける。

 どうも歯切れが良くない。心ここにあらずと言った感じだ。

「……おい、露木……、天宮に何かあったのか?」

 なんだか気の抜けた表情の天宮はさて置き、教会堂の近くで呂久郎と話し込む露木に尋ねる。

「……いや、俺もよくは知らんが……、天宮なら、ここに来た当初からあんな感じだ」

「なに? それは本当か?」

 対面の呂久郎に話を振ると、彼は小さく頷いた。

「ええ、露木くんの言う通りです。彼女……天宮さんは、何やらここの施設に興味が大変おありのようで、孤児院のことや教会堂のことを根掘り葉掘り、熱心に尋ねてきました」

「ふーん……」

 彼女の中のジャーナリズムに火がついたのだろうか?

(なんにせよ、今は気にすべきではないな)

「それで、もう二人に十兵衛たちのことについて話したのか?」

「いえ、それが……」

 苦笑いの呂久郎がポリポリと頬を掻く。

「じつは、これまで天宮さんに孤児院と教会堂の事情を聞かれていたのもあって、あの一連の出来事については、何もお話しできていないんですよね」

「なにーっ?!」

 思わずおれは露木の奴に詰め寄った。

「お前……、あれほど十兵衛の行方を追うことに対する態度について熱弁しておきながら、当の張本人は未だに何も聞いていないとは……、一体、どういう了見だ?!」

「お、落ち着けよ。俺もよくわからんが、天宮の奴、ここに来るなり血相変えて、辺りを手当たり次第にうろつきまくって……、呂久郎に会ってからは、ずっと、奴に付き纏って……、俺も、一応は止めたんだが……」

「なんだ、そりゃ……」

 呆れて物も言えないぜ。

(それだから、露木の奴も苛立っていたのか)

 わざわざ情報を集めに来たのに、進展がないんじゃ当然だ。その上、本来の目的そっちのけで物見遊山ときたものだから、奴にしてみたらたまったものじゃないだろう。

 それでも、収まらない怒りの矛先をおれに向けるのは、筋違いもいいところだが、

「おい、天宮」

 さすがにあまり呑気に遊ばせておくわけにもいかないので、放心状態にある天宮を捕まえる。

「ほら、何をそんなに呆けているんだ。そろそろ本腰入れて聞き込みを開始するぞ」

「……あたし……」

 おれの言うことが届いていないかのように、彼女はあらぬ方向に視線を向けながら、つぶやく。

「……あたし、ここ、知ってる……」

 神妙な表情のまま、ぽつりとこぼした。

「は? ……それが、どうしたっていうんだよ」

 彼女らしからぬ、しおらしい態度に圧倒されかけるが、ここで引き下がっては立つ瀬がないので、心を鬼にして食い下がる。

「小さい頃、あたし……」

 突然、顔を伏せたと思えば、そのまま口ごもる。

 ますますわけがわからなかった。

「そりゃ、こんな小さな田舎町だ。今までに一度や二度くらい訪れていたって、別に、不思議じゃねーだろ」

「…………」

 彼女は何も答えない。ただ、俯き加減で佇むばかりだ。

(っち、埒が明かねーな)

 彼女の煮え切らない態度に、いい加減、業を煮やす。

「……とにかく、露木は呂久郎から十兵衛たちに関することを聞いておけ。話はそれからだ」

 情緒不安定の天宮は放っておいて話を進める。

「あ、ああ……、そうだな」

 露木も我に返ったか、ややして呂久郎の方に向き直った。

(仕方のない連中だな……)

 足並みが揃わないのは別に構わないが、あまりおれの手を煩わさないでほしいものだ。

(芥川の野郎に皮肉られる理由がわかった気がするぜ……)

 こいつらと一緒にいるだけで凄い疲労がたまる。

(個性的すぎるというか、アクが強いというか……、ともかく、曲者揃いだということは嫌でもわかる)

 それでも、おれの計画を成就させるためには、少しでも扱き使わないと。

(頼むから、邪魔だけはしてくれるなよ……)

 ともすればバラバラになる濃いメンツをひとまとめにし、改めて呂久郎から話を聞く。

 散りかけた意識は、自然と一点へと向けられた。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「……ぼくが知っているのは、ここまでです」

 すべてを話し終えた呂久郎が、深い溜め息をつく。

 彼は、昨日、おれが聞いたものと同じ内容の話を二人に対して喋った。十兵衛が失踪したこと、そして、尾前町に古くから伝わる『天狗攫い』という怪現象のこと。十兵衛の失踪に、浅間たちが行方不明となった際の類似点が見られることも、改めて付け加えておいた。

 彼らが遺した置手紙。『神様に会いに行く』。偶然と言うには出来過ぎの、不自然な内容の一致。この事実を聞いた露木は、衝撃のあまりか言葉を失い、しばらく絶句していた。天宮も、唇を真一文字に結び、さきほどまでの放心状態とは打って変わって真剣に耳を傾けていた。

「……十兵衛がいなくなったのは、一昨日からなんだな?」

 にわかに立ち込める重々しい空気の中、最初に口を開いたのは露木だった。

「ええ、そうです。ちょうど、風祭くんが訪れた時ですね」

「……風祭が……」

 ちらりとおれを一瞥した後、視線の方向は虚空に向けられる。

(なんだ? 今の間は……)

 ふと見せた露木の所作に引っかかるものを覚える。

(……まさかとは思うが……)

 不意に浮かんだ疑念は、しかし、この状況をいたずらにややこしくするだけなので、胸の奥に押しとどめておく。

「くそ、なんてこった……」

 事態の重大性をようやっと飲み込んだのか、頭を乱暴に掻きむしり、うなだれる露木。責任感の強いこいつのことだから、十兵衛の身に迫る異変に気付けなかったことを後悔しているに違いない。

 痛々しい露木の姿を前に、呂久郎は目を伏せ、静かに十字を切った。

「ねえ、シューヘイ……」

 これまで無言だった隣の天宮が、ちょんちょんと腕をつついてくる。

「あんたは、前からこの場所のことを知っていたの?」

「ん? ああ、一応な」

 小声で答える。

「もっとも、五日前に知ったばかりだけどな」

「ふぅーん……」

 意味深につぶやいたきり、黙り込む。

 どうにも解せなかった。

(だが……、今は、呂久郎たちの動向を注視するのが先決だ)

 彼女の方に傾けていた意識を、目の前の呂久郎、露木の両者に向け直す。

「それにしても、明星の奴が一枚噛んでいるとはな……」

 露木は憎々しげに顔を歪める。

 一枚噛んでいるとは、浅間たちを扇動した件についてだ。これは疑う余地のない事実だった。

 石蕗も、明星と浅間の不穏な関係性について言及していた。その過程において、浅間が段々と素行不良になっていたと話してくれた。

 おれは、呂久郎の説明に補足を入れる形で、彼らにそう告げた。

「何かおかしいとは思っていたが、まさか、そんな裏事情が隠されていたなんてよ……」

 ちっと舌打ちし、地面を蹴る。

「……だが、どうして浅間が明星の野郎なんかとつるまなきゃならなかったんだ? 確かに浅間は高慢な部分もあったが、奴と行動を共にするほど落ちぶれてはいなかったはずだ。……それなのに、なぜ……」

 おれにとってはとっくにわかりきっている疑問を、露木は深刻そうに自らに問う。

 露木は知らないのだ。浅間の両親が操業していた工場が、明星の親が重要なポストに就く明道銀行と主従関係にあることに。 

 つまり、この不況の波に乗じて浅間の弱味に付け込み、あること無いこと吹聴し、思うがままに操り、利用するのは、奴の陰険且つ邪悪な性格を考えれば、ある意味、当然の成り行きと言えた。

「……なんにせよ、明星が浅間失踪の元凶だってことはわかった。……浅間たちの無理心中との関連性に関しては、まだよくわからないが……、それでも、奴の存在が浅間たちを追い詰めた一因であると充分に考えられる。あいつは、人間のクズだ。弱者を虐げ、罵倒する、悪魔の化身のような男だ。……本当は、こんなことは言いたくないが、こんなことになってしまった以上、そう言わざるを得ない。……そうだ……、奴が、裏で手を引いていなければ、逆に、おかしい。あいつらが、急に、……自殺なんて馬鹿げたことを企てて、……それだけならまだしも、まさか、実行するなんて……」

 兄の目の前で弟を悪しざまに言う露木だが、それに対して呂久郎は文句のひとつを言うのでもなく、ただ、悲しそうな目で露木を見やるのみだった。

「――『主よ、あなたの幕屋まくやに宿るべき者は誰ですか、あなたの聖なる山に住むべき者は誰ですか」

 突然、呂久郎が口を開いた。おれを含めた皆が驚いて、一斉にそちらを向いた。

「――『直く歩み、義を行い、心から真実を語る者、その舌をもってそしらず、その友に悪をなさず、隣り人に対するそしりを取り上げず、その目は神に捨てられた者をいやしめ、主を恐れる者をたっとび、誓ったことは自分の損害になっても変えることなく、利息をとって金銭を貸すことなく、まいないを取って罪のない者の不利をはかることをしない人である。これらのことを行う者はとこしえに動かされることはない』――」

 胸に下げた十字架を握り締め、切々と言葉を紡ぐ。

 言葉は旋律となり、高らか且つ重厚な音色を奏で、おれの耳を介して胸の奥深くまで浸透する。

「……詩篇の十五の一節です。聞いての通り、露木くんも、よくわかっている詩です」

 事も無げに言う。

 おれたちは唖然としていた。

 ――呂久郎、彼は、神にささげるために作られた詩で露木の言動を暗に非難していた。

 だからだろう、露木は恥じ入ったように佇立し、自らの汚い言葉を悔やむように唇を噛んだ。

 呂久郎自身が、露木を黙らせたのではない。彼の身に宿った神が、代弁者たる彼の口を介して言葉を発し、露木を黙らせたのだ。

(……こいつは、驚いたな)

 おれが直接言われたわけじゃないのにもかかわらず、受けた衝撃の強さはかなりのものだった。傍観者であるおれがこうなのだから、当事者である露木に対する威力は凄まじいものだったに違いない。

(……これが、長年、病床に就いていた脆弱の身から奇跡の復活を果たしたっていうお坊ちゃんの実力ってことか)

 シスターに話を聞いた通り、露木と同様、教会堂関係者からも一目置かれる彼のうたった詩の内容は、しかし、皮肉にも、呂久郎の弟である晃介に、悪い意味で当てはまっていた。

(つまり、呂久郎の弟は、最も神からは遠い男だってことだ)

 神聖な雰囲気を身に纏った、神のごとく神々しさを放つ兄と、神をも恐れぬ不遜な言動で弱者を食い物にする独善的な弟。

 ――片や善、片や悪。

 あまりにも対照的な兄弟。

 さながらそれは、旧約聖書に登場するアダムとイヴの息子であるカインとアベルの関係性に酷似していた。

(もっとも、神に寵愛ちょうあいされたアベルを、嫉妬のあまり殺害し、あまつさえ神を欺こうとしたカインは兄だから、明星兄弟の立ち位置とは真逆なんだがな)

 一般教養に毛が生えた程度の知識は、呂久郎が網羅するような専門知識の前では惨めにかすむ。

 あのような鬱屈とした空気が流れる中、一触即発の神経質な露木に向かって、まったく物怖じすることなく、詩篇の一節をそらんじる。

 おれは、背筋を正して堂々と立つ呂久郎に対し、芥川や露木とはまた違った印象を抱かざるを得なかった。

「確かに、晃介のやっていることは褒められるべきではありません。しかし、その罪を裁くことはぼくたちの誰にもできません。断罪の権利を持つのは人でなく、神です。『裁くな。そうすれば裁かれない』。聖書にそう書いてある通り、人が人を裁いてはなりません。他人を裁いた者は、同じように、他人に裁かれます。振り下ろされた鉄槌は、やがて、自らの上に降り掛かることになります。なぜなら、人の行いというのは、必ず報いを受けるものだからです。その最大の報いというのが、『死』です。犯した罪は、死をもってあがなわれます。人は、生まれながらにして、罪を背負っています。だからこそ人は死に、死によって初めて救われるのです。晃介のやっていることが悪ならば、いずれ裁かれる時が来ます。審判の日は必ず訪れます。そこで人々ははかりにかけられ、永遠の平静か、あるいはゲヘナの炎に投げ出され、未来永劫にわたる凄絶な責苦に遭うか、神の手による審判が下されるのです」

 粛々と語る呂久郎。

 おれたちは我を忘れ、彼の流れるような言葉の運びをただただ聞き入っていた。

「話が逸れてしまいましたね」

 神秘という言葉をその身で体現する大人びた呂久郎は、真面目な表情で断りを入れる。

 もう、反論する者は、誰もいなかった。

 この場に居合わせる者の心を鎮める優しい口調と、穏やかな立ち姿。

 おれの呂久郎を見る目は、当初のそれより一変した。

「ひとまず、ぼくの口から話せることは以上です。十兵衛くんが二日前にここを飛び出したきり、未だに戻って来ていないこと。その十兵衛くんの失踪を、孤児院側は『天狗攫い』という怪異の仕業にして、彼の存在自体をうやむやにしようとしていること、それが、現時点においてぼくの知るすべてです」

「……悪かったよ」

 しばらく言葉を失っていたおれたちだったが、やがて、露木が小さく声を振り絞る。

「……確かに言い過ぎたよ。明星……晃介がどうあろうとも、肉親であるお前の目の前で悪しざまに罵倒するいわれはないもんな。……すまん」

「いえ、いいのです。人はしばしば進むべき道を間違え、つまずき、よろめき、そして倒れてしまう、弱い生き物なのですから。だからこそ主は存在します。路頭に迷い、惑う、彼らを支え、導くために。『あなたはわたしの燈火ともしびを灯し、我が主はわたしの闇を照らされます。主は正しく、その道は完全であり、主の言葉は真実です。主はすべて寄り頼む者の盾です。主の他に、誰が神でしょうか。我らの神の他に、誰が岩でしょうか。神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を安全にされました。神はわたしの足を女鹿めじかの足のようにされ、わたしを高い所に安全に立たせ、わたしの手を戦いに慣らされたので、わたしの腕は青銅の弓をもひくことができます。あなたはその救いの盾をわたしに与え、あなたの右の手はわたしを支え、あなたの助けはわたしを大いなる者とされました。あなたがわたしの歩む所を広くされたので、わたしの足はすべらなかったのです』――。……詩篇の十八にこう記述されているように、主は、弱き者を助け、力なくくずおれたその背を真っ直ぐにさせてくれます。なぜなら、主は、すべてを見通す目を持っているからです。『神よ、あなたはわたしの愚かなことを知っておられます。わたしのも諸々のとがはあなたに隠れることはありません』。詩篇の六十九にも記述されているように、神は、すべてをお見通しなのです」

 こうまで言われて引き下がらないのは、相当なひねくれ者しかいないだろう。

 事実、強情な露木も今回ばかりは神妙な顔で素直に頷き、普段は口数の多い天宮も行儀よく大人しくしていた。

 おれも、二人と同様に、まさに『神懸かった』彼の饒舌じょうぜつさに圧倒され、思わず横手を打ちかける。

 だが、ちょっと待て。

 一旦、冷静になってみれば、彼の披露した歯が浮くような発言の内容がやけに引っかかった。

 ――騙されるな。

 自分によく言い聞かせる。

 呂久郎……、一見すると正しいことを言っているようだ――事実、神学的には何も間違っていないのだろう――が、結局のところ、こんなものは詭弁に過ぎない。ペテン師の用いる詐術と一緒だ。彼の言うことには説得力はあれど、論拠がない。神を始め、すべては空想上のこと。それは、嘘をさも真実のように語っているのと何ら変わりはない。

(要するに、子供だましってことだ)

 教会堂と言う神聖な舞台と、神の名を利用した演出によって、あたかも真実であるように見せかけているだけ。

 危うく、上手く丸め込まれるところだった。

(おれにそんな手は通用しないぞ……)

 ここに来て、おれの頭は冴えわたっていた。この期に及んで、場の状況に流されるわけにはいかないからだ。

 しかし、呂久郎の言葉のことごとくが無意味というわけじゃない。

 わかったことがひとつだけある。

 おれは、昨日、呂久郎と会った時、露木にとても近いものを感じた。奴と同じで、どこか近寄りがたい、独特なオーラを放っていると。

 だが、実際に接してみると、彼は、露木の奴よりも遥かに敬虔けいけん且つ謙虚で、彼よりもずっと神を信頼し、もっと高い位置に立っていた。弟である晃介をなじられてもほとんど動じず、むしろ持ち前の知性を用いて鮮やかに切り返したのが何よりの証拠だ。

 露木、奴は迷っている。表面上では神を信頼しているが、心の底からは神を信じ切っていない。だから、今みたいに怒りに任せた発言をしてしまい、それを非難される。

(……初めておれが奴と出会った時は、そんなことなかったんだけどな……)

 次々と親しい人間が不幸な目に遭うという異常事態が、彼の表層を装うメッキをはがし、その人の本性をさらけ出させているのだろうか。

(もしそうだとすれば、彼の信じる神など、所詮――)

 居ても立ってもいられず、おれは小さく息を吸い込む。

「……話は済んだか?」

 静寂に満ちた辺りに一石を投じる。

「そろそろ、本題に戻りたいんだが」

 一斉におれの方に振り返った露木と天宮は、怪訝けげんそうな表情を浮かべていた。目つきは鋭く、また、軽蔑の色が混じっていた。

 おそらく、二人は慰めの言葉でも期待していたのだろう。呂久郎の説法のあとだからそれも仕方ないが、生憎、おれは現実主義者だ。傷の舐めあいになど参加する義理はない。

 場の空気を読まず、自分本位に話を進めるところこそ、おれが冷たいと言われる所以ゆえんなのだろうが、この期に及んで他人の機嫌になど構っていられなかった。

「露木、ちょっといいか」

「……なんだ」

「……ひとつ、質問があるんだが」

「……言ってみろ」

「お前は、『天狗攫い』について、何も知らないのか?」

 むすっとした顔の露木だったが、おれの質問を耳に入れるや否や、途端に神妙な表情となる。

 そして、思い切ったように口を開いた。

「……昔、誰かから聞いたことがあるような気もしなくもないが、詳しい内容までは知らん。今日、呂久郎に聞くまでは、その由来や意味なんてまるでわからなかった」

 露木が答えると、天宮が同意を示すように頷く。

「……あたしも、ギンジと同意見よ。町の歴史に詳しいタクちゃんならともかく、あたしたちの世代で『天狗攫い』なんて伝承の、ちゃんとした内容を知っている人なんていないはずよ。せいぜいが昔話の教訓みたいな、いわゆるおとぎ話に近い認識だったもの」

「……なるほどな」

 二人の話を聞いて妙に納得する。

 そりゃそうだ。妖怪かなんかが人をさらうなんて話、現代ではありえない。

 いや、現代どころか昔の時代でもありえないだろうが、それは置いといて……。

「それじゃ、二人は『天狗攫い』について詳しいことは知らないんだな?」

「……いや、ちょっと待て」

 突然、露木が何かを思いついたように声を発した。

「……5年前……」

(5年前……?)

 背筋がざわつくのを感じる。

 おれは息を飲み、続きの言葉を待った。

「そうだ、5年前、急に、孤児院の子供がいなくなった時があった。昨日まで一緒に遊び、話していた存在が忽然と姿を消したんだ。当然、俺は戸惑った。不審に思った俺が周囲の大人に彼らのことを尋ねたら、『里親が見つかったから、引き取られたんだ』と説明された、が……、今思えば、どうにも不自然だった気がする」

「それは、本当か?」

「ああ、覚えている。……もっとも、うろ覚えではあるが……」

 曖昧に答え、一旦、口をつぐむ。

「……ともかく、俺の記憶が正しければ、『天狗攫い』とも取れる出来事があった。それは事実だ」

「呂久郎はどうだ? 何か知っているか?」

「……あいにくですが、ぼくは、まだその頃は病院の方に長くいたので詳しいことは存じ上げません。しかし、シスターに当時の話を聞けば、なにかわかるかもしれません」

「そうだ、シスターだ! あの人に、十兵衛の行方について聞けばいいんじゃないか……!」

 妙案とばかりに手を叩く。

「っち、俺としたことが、十兵衛のことで頭が一杯になるあまり、肝心なことを失念しちまうなんてな……!」

 直情型の露木は、頭に血が昇り過ぎていたことを悔いる。

 だが、すぐに内向的になっている場合じゃないと気付いたのか、すぐさま顔を上げ、おれたちの方を見た。

 奴の意図を汲んだおれたちは、それぞれの顔を見回したあと、頷く。

 露木の提案に乗っかり、すぐさま孤児院へと向った。

 中庭を抜け、木製の扉を開き、玄関を通って廊下を出て、シスターの姿を探す。

 子供たちは、全員、部屋の中で大人しくしているようで、孤児院の中は異様なほど静かだった。

 果たして、シスターは、そこにいた。腕の中に大きな本らしきものを抱え、黄色い花が活けられた花瓶のそばで佇んでいる。

「シスター、話がある」

 息が上がっているのも厭わず、単刀直入に露木は尋ねた。

 驚いて振り返るシスター。まるで、おれたちが来たことに今まで気が付かなかったかのような素振りだった。

「あ、あら……、銀治郎くんに、呂久郎くんまで……、みんな揃って、どうしたの?」

 慌てて、取り繕ったような笑顔を浮かべる。

 この時、両腕に抱えた本を咄嗟に後ろ手に回したのを、おれは見逃さなかった。

「言っただろう、聞きたいことがあるって。あまり時間は取らせないから」

「ええと……、何があったのかわからないけど、とにかく、一旦、落ち着いて、ね? なんだか、はじめましての女の子もいるみたいだし……」

 シスターは天宮をチラッと見る。

 彼女の視線を受け、天宮は背筋をビシッとただし、表情をグッと引き締めた。

「あなた、お名前は?」

「は、はい! 天宮って言います! ギンジ……、露木くんの紹介で、ここのことを知って、今日、こうして足を運んで来ました!」

 彼女にしては珍しく緊張しているのか、いつもよりも声を張り上げて威勢よく返事する。

「そっかそっか、銀治郎くんにね。うんうん、あなたも信頼されているのね」

「そんなことはない。こいつは勝手についてきたというか……」

 

 ――グシャッ


「ぐっ……!」

 露木のつま先を踏んづけて、力ずくでその口を黙らせる。

「それにしても、素敵な場所ですね! 静かで、綺麗で、荘厳そうごんで、心が洗われるような気分です!」

「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいわ。神様も喜んでおいででしょうね」

 穏やかに微笑むシスター。天宮も、そのたおやかな表情の動きにつられて頬を緩める。

「おい、天宮……! そんなことより、もっと聞くべきことがあるだろうが……!」

 怒りを押し殺した露木が、苦痛に顔を歪めながら声を絞り出す。

「おっと、そうだったわね」

 ハッとしたように緩み切った表情を引き締める。

「でも、どうしたのギンジ? なんだかつらそうな顔をしているけれど? 何か悪い物でも食べて、お腹でもくだしたのかしら?」

 面の皮の厚い天宮は、素知らぬ顔でうそぶいた。

「誰のせいだ、誰の……!」

 猛獣よろしく歯を剥き出しにして睨み付けるが、天宮は意に介さずにそっぽを向き、彼の威嚇を退しりぞける。

 相変わらず、露木を操る術に長けていた。

「うーん、青春ね。私にも、あなたたちみたいな頃があったわ。気の置けない仲間と一緒に、色々なところに出かけて……、多くの人たちと出会って……、懐かしいわあ……」

 年長者であるシスターが、遠い目をしながら呑気にそんなことを言うものだから、もう、収拾がつかない。

「おいおいおいおい、いい加減にしろ」

 たまらず、おれが割って入った。

「シスター、おれたちは、今日、観光に来たわけでもなければ、のんびり雑談しに来たわけでもありません」

 一歩、詰め寄る。

「……十兵衛について、聞きたいことがあるんです」

 躊躇せず、本題を切り出した。

「……十兵衛、くん?」

 きょとんとした顔。

 構わずおれは続ける。

「シスター、あなたは知っているはずです。一昨日から、彼の姿がなくなっているという事実を。だから、そのことについて話を聞きたいと思って、おれたちは、今日、ここに来たわけです」

 真剣に話すが、シスターの反応は鈍かった。

「……十兵衛くん……」

 答えを探しているのか、頬に人差し指を当て、天を仰ぐ。

 嫌な予感がした。

 まさか、そんなはずは――。

 心の中に生じた懸念は不安となって頭の中を埋め尽くす。

 ありえないと思っていた。現実に、そんなことが起こるわけがないと、タカをくくっていた。

 本当に――人が、消えるなんてことを。

「十兵衛なんて子……、この孤児院には、初めからいないわよ?」

「え……」

 場の空気が凍る。顔が強張り、表情が引きつる。

「そうよね、呂久郎くん?」

「…………」

 話を振られた呂久郎は答えない。寂しそうに眉根を下げ、虚しい沈黙を保つのみ。

 ――『天狗攫い』。おれは、古くから尾前町に伝わるというこの怪異の本当の恐ろしさを目の当たりにした。

 人が、ただ、いなくなるのではない。最初から、何も、存在していなかったかのようにされるのだ。あたかも歴史が作り変えられるかのように、その人の存在は抹消されるのだ――。

 束の間の平穏は無惨に破られ、代わりに、息苦しい沈黙が流れる。

 足が床に貼り付いたかのように動けず、硬直する中、おれは戦慄した。

 これは、始まりにすぎないのだと。

 呆然と立ち尽くしながら、そう、自覚するしかなった。

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