第十八話 結託

「ちょっと、待ちなさい」

「げ……」

「ぐ……」

 放課後。一斉に席を立つ生徒たちの波に紛れて教室を出ようとしたところで思わぬ足止めを食らう。

 天宮だ。蜘蛛の子を散らしたように廊下へと躍り出る他の生徒には目もくれず、狙い澄ましたかのようにおれたち二人の前に立ちはだかる。

(こいつは本当に、いつもいつも……)

 さすがに付き合ってられないぞ。

「悪いが、今日はちょっと用事があるんでな。部室には顔を出せそうもない」

「そういうことだ、それじゃあな」

 いちいち構っていられないと、威圧的に腕組みする彼女の横を通り抜ける。

 だが、天宮の奴は、そんなおれたちの動きを阻止せんと、軽い身のこなしで進路をふさぐ。

「聞こえなかったの? 待ってって言ってるでしょ」

 そして、これだ。

 この時点でおれは盛大な溜め息をつきたい衝動に駆られたが、冷静さを欠いては彼女の思う壺だ。

 感情的な言葉を飲み込み、一歩引いた観点から天宮を見やる。

 彼女の真剣な表情が、おれの目に映し出される。

「お前こそ、話を聞いていなかったのか? おれたちは急いでんだよ」

 仁王立ちの天宮に負けじと、突っぱねるように言う。

 それでも、彼女は一歩も引かなかった。

「おれたちってことは、ギンジも一緒なのね?」

「……っち」

 ……今のは失言だったな。

「なによ、その顔……。なにか、二人して企んでない?」

 ムッとした顔で詰め寄る。

「だったら、何だっていうんだ?」

 そんな天宮の強気な態度に対抗すべく、露木が忌々しげに告げる。

「何度も言うが、俺たちには外せない用事がある。どうしても、成し遂げなきゃならんことが、あるんだ」

 この剣幕に気圧されたか、さすがの天宮も押し黙る。

(いいぞ、露木。たまには役に立つ)

 ここが、正念場だ。一気に、畳み掛ける。

「露木の言う通りだ。それに、ホームルームで石蕗も言っていたように、これからテスト勉強だって始まる。あまり他のことにかまけてもいられない。そのことは天宮だってわかってるだろう?」

 説き伏せるように現実を突き付けると、彼女はややして視線を落とし、力無く顔を俯けた。

「でも……」

 諦めの悪い天宮は尚も取りすがる。

(本当に、仕方のない奴だな……)

 部活に対する執着も、ここまで来れば呆れると言うよりは感心する。

 もっとも、横の露木は、怒りのこもった目つきで天宮を見据えていたが。

 ……そうだ、ちょっと前のおれならば、この露木のように敵意を剥き出しにし、自分に邪魔立てする者を強行的にあしらっていただろう。

 だが、おれは知ってしまった。昨日、天宮が見せた表の顔を。この、身勝手でお節介で男勝りの一面に裏に隠された、あの寂しげな表情を。

(……どうしたもんかね)

 もちろん、ここで彼女を置いて行くのは簡単だ。造作もない、いつも、おれがしてきたことの再現をすればいいだけの話だからな。

 しかし、それで本当にいいのだろうか?

(天宮……、きっと、彼女は不安なのだ。部活仲間が次々と失踪したかと思えば、あろうことか自殺という末路を辿った。これでショックを受けない方がおかしいだろう。現に、彼女は、独りになることを拒んでいる。仲間外れにされることを……恐れている)

 おれは、そこまで彼女の心を理解しておきながら、その上で拒絶するというのか?

 だとすれば、とんだ悪人だな。 

(いや……待てよ)

 おれは考える。

(天宮……、こいつの、部活や仲間にかける情熱というのを、どうにか逆手に取れないか?)

 そんなことを、突然、思いついた。

(これからも、事ある度にこうして絡まれちゃ面倒なことこの上ない。たとえ、今、おれの口先三寸で上手く言いくるめたとしても、こうして怪しい行動をしている以上、天宮がそれに興味を抱くのは必至だ。彼女の好奇心旺盛で執念深い性格を考慮すれば、確実だろう。とすれば、結局、その場しのぎにしかならない)

 ならば……。

 息の詰まる膠着状態にある中、おれは口を開く。

「じゃあ、天宮……、おれたちが、これから何をしようとしているのか、その内容を知れば、大人しく引き下がってくれるか?」

「……!」

 おれの発言に驚いたように絶句する露木に対し、天宮の方は冷静だった。

「……取引ってこと?」

「そう捉えて貰っても構わない。いずれにせよ、このままじゃ埒が明かないからな。おれとしても、あまりお前に隠し事はしたくない。どうだ? この提案に乗ってくれるか?」

「おい、風祭……!」

 突然、何を言い出すんだ――。

 大きくひん剥かれたその目と、への字にひん曲がった口は、露木に走った驚愕を意味すると同時に、おれの行動を非難してもいた。

「……話の内容によっては、頷けなくもないわ」

 天宮は、予想通り乗って来た。親の勝ちしかない賭けに。

「おい、どういうつもりだ……?」

 ひと段落ついたところで、露木の奴が小声で尋ねる。その声の響きには、明らかな怒りが込められていた。

「心配すんな、露木。おれに考えがある。おれに任せておけ」

「……そこまで言うなら、わかったよ」

 おれの決意を感じ取ったか、露木は渋々ながら引き下がる。

 改めて、天宮を見据えた。

「なあ、天宮……、もうすぐ、作品の提出期限だろ?」

「提出期限って、部活の?」

 きょとんとした表情で尋ね返す。

 おれは頷く。

「そうだ。それなのに、おれと露木はまだ作品を完成させていなくてな。そうだろ、露木?」

 突然、話を振られた露木は、一瞬、ギョッとした表情になるが、おれの意図するところを汲んだのか、はたまた根が正直だからか、ややして頷いてみせる。

「だから、どうにかして急ぎで仕上げられないかと、二人して相談しながら案を出し合っていたんだよ」

「……それで、今まであんたたちはコソコソしてたってこと?」

「察しがいいな。話が早くて助かる」

 チラッと露木の方を見る。

 おれの目論見を理解したのか、奴はにやりとほくそ笑んだ。

 もちろん、おれが言ったことは全部嘘だ。実際、部活のことなど眼中にないし、創作活動はおろか、作品制作に着手してすらいない。

 しかし、天宮はこの嘘を信じた。それはなぜか?

(おれのついた嘘が、真実味のある嘘だからだ)

 嘘になるだけ信憑性を持たせるためには、真実と織り交ぜるのが一番効果的だ。

 だから、部活動の件を口実に設けた。確かに、傍目では、おれは積極的に部室に足を運び、あたかも精力的に動いているように見えるだろう。部員とも円滑な人間関係を築いている。おれが作品を完成させるために奔走していると錯覚するのは無理からぬ話だ。

「なーんだ、そういうことだったの」

 それが証拠に、すっかりおれの嘘を信じ込んだ天宮は、ホッと胸を撫で下ろし、安堵の息をつく。

「そうならそうと、早く言ってくれればよかったのに」

「馬鹿言え、そんな恥ずかしいこと、とても口にできねーって」

 ポリポリと頬を掻いて見せる。

「じゃあ、あんたが『イイヅナ様』のことを知ろうと思ったのも、まさかそのため?」

「へ? ……ああ、まあ、そういうことだ」

 そういうことにしておこう。

「ふーん、そっか、そっか、そうだったんだ」

 勝手に勘違いし、勝手に思い込みをする。人間ってのは、じつにいい加減に出来ている。

 ……これでいいか。

「だから、これから二人で作品の突貫工事にしゃれ込むってわけだ。……なっ?」

「……ま、そうだな」

 おれの言わんとするところを汲み取った露木は、ぎこちなくも素直に賛同する。

「仕方ない男たちねー、まったく」

 やれやれと腰に手を当て、大きく溜め息なんぞ吐いて見せる。

「納得してくれたか?」

「ええ、事情はわかったわ」

「そうか、それは助かる」

 おれはおれで、ひと息つく。

(こいつが扱いやすい女で助かったぜ)

 これが芥川相手だったら、もっと面倒なことになっていただろう。

「……じゃ、そういうことで」

「また明日だな」

 こうして上手く煙に巻いたところで、そそくさと立ち去ろうとした――その時だった。

「……ホント、しょうがないわね」

 背後から届く、意味深なセリフ。

「あんたたちだけじゃ心配だから、あたしも加勢してあげる」

「……は?」

 一瞬、時が止まった。ついでに足も止まった。

 思わず振り返る。

「だから、このあたしも手伝ってあげるって言ってるのよ。あんたたちだけで作品を仕上げられるとは、とても思えないからね。この天宮琴音さんのありがたい心遣いに感謝しなさい」

 なんてことを言い出すものだから、おれは前のめりにならざるを得なかった。

「おいおいおい、本当に今までの話を聞いてたのか? なんのために恥を忍んで事情を話したと思ってるんだよ? それじゃ――」

 露木が反論しかけたところで、おれは閃いた。

(……なるほど、その手があるか)

 議論がもつれたこの場を上手く切り抜ける方法。

 思い付いた案を、早速、実行する。

「……待て、露木」

 隣の露木を制するように手を広げる。

「今度はなんだ……、俺は、いい加減、我慢ならんぞ……」

「今は抑えろ、おれが話をつける」

 本日二度目となるおれの申し出に、露木は怪訝そうに眉をひそめるが、すぐに観念したように引き下がった。

「……頼む、この出しゃばり女の鼻を明かしてやってくれ。このままでは、思わず手をあげちまいそうになる」

「任せておけ」

 一歩、前に出る。

「天宮」

「……な、なによ」

 おれの浮かべた真剣な表情に怯んでいるのか、天宮は、少々、声を震わせながら、上目遣いでこちらを睨む。

 やけに顔が赤いのは、今までのいきどおりのためか、それとも……。

「おれたちの創作活動を、手伝ってくれると?」

「……ええ、そうよ。ギンジは今まで満足に作品を書き上げたことがないし、あんたに関してはズブの素人。この二人がいくら協力したって焼け石に水、雀の涙、結果は目に見えているわ」

 ……言ってくれるな。

 それは露木も同感か、この女の口を黙らせろと、ひじで小突いてくる。

 奴から寄せられる期待感をひしひしと感じながら、おれは――。

「それは、願ってもない提案だ」

 心の声を漏らさぬように笑いながら言うと、露木が驚愕に目を見開き、頬を引きつらせるのがわかった。

「天宮の力が加われば、百人力だぜ」

 あんぐりと口をパクパクさせる露木を尻目に話を進める。

「……交渉成立ってことね?」

 天宮の強張った表情が、徐々に綻んでいく。

 晴れやかな天宮とは対照的に、露木の顔は絶望に歪んでいった。

「そうだな、それじゃ、これからよろしく頼む」

 爽やかに微笑んで締めくくる。

「おい、風祭……!」

 万事、丸く収まったかと思えば、突然、露木がおれの首根っこを掴んで自分のもとまで引き寄せる。

「一体全体、どういうつもりだ……?!」

 迫力のある顔を近付け、小声で尋ねてくる。

「俺たちが制作活動しているなんて口から出まかせを言ったかと思えば、今度はあの女を仲間に引き入れるだと? 冗談も大概にしろ、こんなじゃじゃ馬がそばにいたんじゃ敵わんぞ……!」

 奴の言うことはもっともだが、おれは平静を貫く。

「なに、心配するな。おれが無策で動くわけねーだろ?」

「それは……、そうかもしれないが……」

 露木の腕の力が弱まったところで、おれは姿勢を整える。

(天宮の性格上、いくらこの場で説得したとしても、素直に引き下がるとは考えにくい。むしろ、押せば押すほどかたくなな態度となるだろう。それでは逆効果だ)

 ならば、こっちが引いてやればいい。

「露木、お前の気持ちもわからなくはない。どちらかと言えば共感しかない。だが、今は辛抱してくれ。おれの狙いは、あとで必ずわかる」

「……信じてるぞ」

 そう小さくつぶやいて、露木はおれを解放した。

(さて……)

 おれは考える。

(天宮……、彼女をこのまま野放しにするのは危険だ。どんな動きをするのかわかったものじゃない)

 ならばいっそのこと、おれの監視下に置けばいい。それならば、妙な行動に移されても対処しやすい。

(それに、彼女はどうやらおれに気があるようだからな)

 自分に好意がある人間を懐柔するのは容易い。こちらがどう振る舞おうが、好意的に捉えてくれるからだ。

(……悪く思うなよ)

 彼女の、その純真そうな笑顔に、罪悪感を覚えないと言えば嘘になる。

 だが……、それでも、おれには……。

「……ま、変に付き纏われて詮索されるよりは、幾分かマシか……」

 ようやく諦めがついたのか、露木はやれやれと肩をすくめる。

「……だが、こいつに振り回されるのだけは御免だぜ。そこのところの扱いは頼むぞ?」

「わかってる、任せておけって」

 話はついた。

 かくして、尾前町に隠された秘密を追う野郎二人と、それとは無関係の傍若無人な女一人が、様々な思惑を孕みながら共に行動することとなった。

(……どんな手を使ってでも、暴いてやる)

 おれは野心を隠そうともせず、そう固く誓った。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 早速、おれたちは行動を開始した。

 まず、優先すべきことは、十兵衛と浅間兄妹の足取りを追うことだ。

 同様に、彼らが求めたもの――イイヅナ様――についても、深く探りを入れなければならない。

 今度こそ、東から話を聞こうと思った。

「東女史なら留守ですよ」

 部室に入るや否や、壁にもたれかかった芥川に言われた。

「何やら急な来客があったかと思えば、用があるとかで席を外しましてね……」

 奴の言う通り、部室の中は静寂そのもの。芥川以外に誰の姿も見当たらない。

「それにしても、珍しく大所帯ですね」

 三人揃って行動するおれたちを見て、芥川は薄く笑う。

「個性が強い文芸部の面々をひとつに取りまとめるとは……、さすがは期待の特待生と言ったところですか」

 相変わらずの皮肉を、礼儀作法とばかりにしたためたあと、再び、手に持った本に視線を戻す。

「東がどこに向かったか、知らないのか?」

 尋ねてみるが、芥川は首を左右に振るう。

「生憎ですが、詳しいことは何も。彼女は寡黙ですからねえ」

「……わかった。邪魔したな」

 長居は無用と踵を返す。

「……ひょっとしたら」

「あ?」

「……いえ、何でもありません」

 芥川が何か言いたそうにしているので振り返ったが、奴は顔を伏せるばかり。

「なんだよ、気になるじゃねーか」

 それともそういう話術か?

「いえいえ、皆さん、お忙しそうなので……、どうかお気になさらず」

「そうか? なら、いいんだがな」

 部室を出ようと扉を開ける。

「……そういえば」

「今度はなんだよ!」

 去り際、またしても芥川の奴が意味深なことをつぶやくので、おれは思わずえた。

「おい、いい加減にしろよ」

「そうよ、リョーイチ、言いたいことがあるならさっさと言ってよね、あたしたちもヒマじゃないんだから!」

 まどろっこしい言い方に業を煮やした露木と天宮が、不敵な笑みを浮かべる芥川の前に猛然と詰め寄った。

 だが、奴はその表情を崩さない。

「いえ、別に、深い意味はありませんよ。ただ、東女史に伝言などがあれば、僕が代わりに伝えようかと、突然、そう思っただけです。ええ、本当です、他意は一切ありません」

「……なら、東にこう伝えてくれ。明日、時間があれば、放課後、おれたちの話を聞いてくれってな」

 手短に告げると、今度こそおれたちは部室をあとにした。

(まったく、無駄な時間を過ごしたぜ)

 気を取り直し、校舎を出る。

 熱を帯びた夏の外気が、血気にはやるおれたちの汗ばんだ肌を包み込んだ。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 田舎のあぜ道と言うのは、苛烈に降り注ぐ日光を遮るものがない。

 おれは、ひとり、夏の暑さに耐えながら、果てしなく続く一本道を歩いていた。

 ここまで一筋縄ではいかなかった。

 天宮に孤児院のことを教えるのを嫌がった露木は、彼女と行動を共にするのを頑なに拒んだ。

 おれは、難色を示す露木を強引に説得し、無理やり彼女を同行させた。

 彼女は使える。ジャーナリストを志す彼女なら、独自の切り口から、思いもよらない事実を引き出すかもしれない。

 おれはというと、先に寄るところがあるからと二人に告げ、今は別行動の最中だ。

 彼らとは、あとで合流する手筈となっている。

 どうしても気になることがあった。

 おれは、その場所に向かう。

 周囲はひらけた畑地になっている。

 遠くに見えるのは山村地区と、それに連なる山々の稜線。

 国際空港に反対する立札や看板が、自然に溢れた素朴な景観を刺々しいものに変える。

 時代と時代がせめぎ合う、殺伐とした風景。

 言葉に言い表せられない光景にまじって、目的の小屋はあった。

 簡素な造りの小屋。木製のそれは、土地の不毛な利権争いとは無関係の佇まいを見せている。

「……行くか」

 意を決し、おれは小屋の中に入る。


 ギギィ……


 小屋の中は薄暗い。一応、窓はあるが、今の時間帯は日が入らないため、その意味をあまり成していない。風通しも悪く、濁った空気が立ち込めている。

 思わず尻込みしてしまいそうな、重苦しい気配が充満する小屋の内部。うず高く積もったわら。壁に立てかけられた農具。あの時に見たものと、ほとんど変わりない。

 目を凝らし、慎重に辺りを窺う。

 視界に映し出される陰鬱な小屋の様子、その全貌。

 おれは絶句した。

 ――まさか。そんなはずはない。

 見間違いじゃないかと、もう一度、周囲を見やる。

 しかし、何度、目を凝らしてみても、結果は変わらない。

 ――小屋の中に放置された、中島氏の死体。それがない。

 どういうわけか、彼は、忽然と姿を消していた。

(なぜだ……?!)

 予想外の事態に直面し、狼狽する。

 誰かが、片付けたのか? ……一体、誰が?

(この小屋の持ち主が警察に通報したのか? それにしては、辺りはやけに静かだった……。もし、警察が介入しているなら、非常線が張られたりするはずだ……)

 では、警察とは無関係の何者かが、彼を……?

(考えられるとすれば……、中島氏を殺害した犯人が、彼の死体を秘密裏に始末した……)

 中島氏が縛られていた場所に、彼の姿はない。そこに、彼がいたという痕跡は一切残っていない。

(何が……、何があったんだ……?)

 思わず後ずさる。

(あれは……、あれは、夢なんかじゃなかった。おれは覚えている、あの絶望を、痛みを……)

 全身が震える。

(じゃあ……、じゃあ、この有様はなんだ? まさか本当に、すべては性質たちの悪い悪夢だとでも……?)

「……おい、あんた」

「!!」

 背後から届いた低い声。反射的に後ろに飛び退く。

 心臓がバクバクと脈動する。

「ここで、何をしている?」

 恐る恐る、声のした方に視線を向ける。

 恐怖におののくおれに覆い被さる、大きな影――。

 現れたのは、図体のでかいひとりの男。薄暗くて顔はよく見えないが、がっしりとした体型から中年の男だというのがわかった。

 がくがくと足が震える。

 迂闊だった。

 犯罪者は、再び現場に舞い戻る。

 初歩的とも言える矜持が、すっかり念頭から抜け落ちていたとは!

「感心せんな、人様の土地に土足で上がり込むってのは」

 大男はガラガラした声で唸る。

 おれは迫り来る命の危機を感じながら、どうやってこの場を乗り切るのか、その一点だけに集中した。

 濃密な死の気配が漂う。

 男の出方を窺っているうち、あるひとつの事実に気が付いた。

(この男は……)

 手拭いを頭に巻き、威勢良さそうに腕まくりをした出で立ち。

 見覚えがあった。

(確か……、南条とか言う……)

 一週間前、おれを高校にまで送り届けてくれた人物だ。

(なぜ、彼がここに……?)

 一瞬だけ考えたのち、すぐに自らの愚かさを自覚した。

 簡単な帰結だった。

(さっき、彼は言ったじゃないか……、『人様の土地』だと)

 つまり、この小屋は、彼の所有物ということだ。

 だが、そうなると、また新たな疑問が浮かび上がる。

(南条のおっさんは、あの夜、この小屋で起こった出来事の一部始終を知っているのか?)

 ここが彼の所有する小屋である以上、まさか、当時のことをまったく知らないということはないだろう。よしんば違うとしても、何らかの異変は感じ取っているはずだ。

(どうする……? 正直に、おれがここに来た理由を話すか? いや、待てよ……。そもそも、? ……そうだ、あるいは、逆に、おれが懸念するように……、おっさんが……?)

 おれが最も恐れているのは、言うまでもなく、後者の方だ。もしそうだとしたら、おれが事件のことを話したが最後、無事に帰る見込みは無惨にも消え去る。

 まさか、おれを拉致した犯人が、おれが小屋から去ったあと、迅速に死体を片したとは考えにくい。そんな目立つ行動を取れば、奴らは呆気なく御用となるだろう。

 とすれば、必然的に、ここの小屋を監理している南条のおっさんも、中島氏を殺し、おれを拉致した一味の協力者である可能性が高い。そうでないなら、あまりにもリスクが高すぎる。見知らぬ畑地の小屋に死体を遺棄し、あまつさえ人を監禁するなど、自ら己の首を締めに行っているようなものだ。

(やはり……、南条のおっさんは……)

 背筋がひりつく。

 まったく身動きが出来ない。

 蛇に睨まれた蛙とは、まさにこのことだ。

 おっさんは動かない。おれも動けない。

 だが、立場的にこちらが圧倒的に不利なのは明らかだった。

 まず、物理的な意味での力量の差は歴然だ。腕力では絶対に勝てない。闇雲に突進したところで返り討ちに遭うのが関の山だ。

 しかし、小屋の唯一の出入り口は、彼の背にある。

 おれが小屋から無事に脱出するには、目の前に立ちはだかるおっさんをどうにかしなければならない。

(どうする……)

 手のひらに汗がにじむ。

 喉はからからに乾き切り、今にも咳き込みそうだった。

(何か……、何か、策はないか……?)

 熱気のこもる小屋の蒸した空気に頭がボーっとする中、この場を打開する案をひねり出そうと苦心する。

 対する南条のおっさんは、おれがどんな行動に打って出るかを予測でもしているかのように不気味な沈黙を保つのみ。

 これが強者の余裕というやつか……、南条のおっさんから滲み出る威圧的な風格に恐れをなすしかない。

(それでも、どんな屈強な生物にも、弱点はある……)

 自らを鼓舞するように、そんなことを考える。

(たとえば、獰猛な熊なんかも、その鼻先が弱点だと聞く。隙をついて鼻に鋭い一撃を喰らわせられたら、如何な熊と言えども一様に怯むのだと……)

 だが、その隙をつくのが一番難しい。何せ、相手は野生の熊……。下手に仕掛けて反撃されようものなら、それこそ目も当てられない。

 とはいえ、今、おれが対峙しているのは紛れもない人間。熊は本能的且つ反射的に動くものを襲うが、人間は違う。

 そこに活路を見出すしかない。

(そうだ、飲まれてはいけない……。おれを追い詰めるのは、他でもないおれ自身……)

 逆に言えば、この窮地を乗り切らせるのも、また、おれ自身だということ。

(……やってやろうじゃねーか)

 おれは南条のおっさんを見据える。おれの1.5倍はありそうな図体。加え、捲られた二の腕から窺える筋肉質の身体。正面切っての突破は不可能に思える。

 だが、そこに落とし穴が潜んでいる。

(おれが無理だと思っているってことは、南条のおっさんもそう思っているということだ。だからこそ、あんな余裕ぶった佇まいを維持できる……)

 なら、その裏をかけば……。

(……しかし、これだけでは決定打に欠ける。意表をつくのはいいが、結局は力の差で返り討ちに遭うだろう)

 なら、その懸隔けんかくを埋めるには……。

「……!」

 その時だった。おれはあることを唐突に思いついた。その閃きはまさに僥倖ぎょうこうだった。

(これなら、いける……!)

 おれは軽く息を吸い込む。可能な限り余計な力を抜き、次の行動に備える。

 ――その直後!

「あっ!」

 おれは目線を明後日あさっての方向に向ける。

 南条のおっさんはおれの声と動きにつられ、おれが向いた方に意識を逸らした。

(……今だ!!)

 軽い助走のあと、おれは猛然と地面を駆ける。


 ――ドスッ!


「うっ――」

 全身に走る鈍い衝撃。そして、短い悲鳴。

 南条のおっさんのふところ目掛け、おれは突進していた。

 もちろん、無策に突っ込んだわけじゃない。

 それが証拠に、真正面からおれの突撃を受け止めたおっさんは深く腰を落とすも、上手く受け身が取れなかったためか、体勢を崩し、よろめく。

 その一瞬を、おれは見逃さなかった。

 おっさんが自らの身体を庇うような動きをした、その僅かな隙を突き、おれはおっさんの身体を跳ねのけ、小屋の扉に手を掛ける。

 すれ違いざま、強い酒臭さが鼻をついた。

「ぐっ――……」

 背後で鈍い音と声が聞こえたが、構わず飛び出す。

 半ば躍り出るように小屋の外に出たあとは、もう、無我夢中だった。

『南条さんは、腰を痛めている』。――おれは、蔵屋敷家に来て初日の会話を思い出していた。

 それが明暗を分けた。

 おれは、追っ手をくように複雑な道順を辿りながら、露木たちと合流を図るのだった。

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