第十七話 究明

 ――夜の蔵屋敷家。賑やかな夕食と家族だんらんのひと時は終わり、各々の自由行動を満喫する時間帯に突入する。

 周りが学校の話題やテレビの話題で盛り上がり、会話に花を咲かせる中、おれは気が気でなかった。まるで針のむしろの上に立たされたように居心地が悪く、出された食事の味もまったくわからなかった。

 あの夜、おれが蔵に忍び込もうとしたにもかかわらず、家の者はいつも通りだった。それこそ、不可解なほどに。

 皆、おれが何をしたのか知っているのではないか? 知っていて、あえてとぼけているのではないか? ……そんな被害妄想にさいなまれる。

 おれの考えすぎだろうが……、疑り深くなる自分が嫌になる。

 しかし、気を抜いてはいけない。おれが『イイヅナ様』に関することをうっかり口を滑らせてしまった日には、どのような仕打ちが待っているか……想像に難くない。

 この数日を蔵屋敷家の面々と過ごし、ひとつ、わかったことがある。

 彼らは、やはり、何かを隠している。

 たとえば、毎夜毎夜、こうして彼らは他愛のない世間話に花を咲かせているが、これからしてすでに挙動が怪しい。

 わざとらしいのだ。まるで絵に描いたみたいに仲の良い、理想的な一家。不自然だ。それこそ家族ぐるみで演じているようで気色が悪い。――そう、連中は、のだ。

 おれの知っている家族というのは、もっと殺伐として、陰気で、相手を平気で扱き下ろし、言うことを聞かせるために暴力を振るうような、そんな上下関係の代名詞だ。

 それとは逆に、彼らは常に愛想よく振る舞っている。確かにはたから見れば仲睦まじく、微笑ましい光景だろうが、おれからしてみれば単によそよそしい。まさに上辺だけの付き合いだ。かける言葉は馴れ合いの戯言ざれごとばかりで、本音じゃない。ゆえに、他者に付け入る隙を与えない。おれが一歩踏み出そうとすれば、あえなく茶を濁される。例のくだらん世間話で。避けている。家族総出で、遠ざけている。何から? ――町と、この一家に隠された秘密から。だからおれは、いまだに知らないでいる。『イイヅナ様』の伝説を。蔵屋敷家の深いところにある根幹を。

 結局、おれは歓迎せらるべき人間ではなかったということだ。

 適当にもてなして、適度におべっか使って持ち上げて、そのまま宙づり状態で三週間を過ごさせる、その程度の存在。

 くだらん茶番だ。馬鹿馬鹿しい。それこそ反吐へどが出る。

(まったく、舐められたもんだぜ……)

 なら、おれの方にも考えがある。

 遠慮は要らない。相手がその気なら、是が非でも暴いてやる。この町に潜んだ秘密と、この一家に隠された謎を、おれが――。

 ――それとも、このおれの見解すらも、単なる被害妄想の産物なのか?

四面楚歌しめんそかってわけか……)

 カエルが大合唱する廊下、沈黙する黒電話を前にほぞを噛む。

 つい先ほど、少し早めに父へと連絡したのだが、大した情報交換は出来ず、むしろ不毛なやり取りが目立つ散々な結果となったのだ。そのために、おれはひとり落胆していた。

 ……次々と発生する尾前町の怪異を報告するも、父は、秘密裏に事態の鎮静化を図れとの一点張り。土地の買い上げや現地への介入を止めようとも思っていない。

 対するおれは、不用意に尾前町の土地に踏み入れば何が起きるかわからない以上、一旦、様子を見るべきだと進言したが、父は容赦なくこれを却下。

 結果、互いに主張を譲らず、議論は平行線を辿るばかり。

『お前も国に逆らうのか?』――父は、脅すような口調で揺さぶりをかけてきた。

『おれは、おれの考えで動くだけです』――無理に命令に従わせようとする父に向けて、そう強く言い返した。

 両者の間にただならぬ緊張が走った、その時だった。

『周平、貴様は一の犠牲で十を救う道と、十の犠牲で一を救う道、どちらを選ぶつもりだ?』

 おもむろに言ってきたので、おれは思わず面食らった。

『もちろん、それは――』

 一の犠牲で十を救うこと――。

 そう言いかけたところで、おれは父の思惑に気付いた。

 ――しまった!

 しかし、時すでに遅し。このわずかな沈黙が、図らずも答えとなった。

『一の犠牲で十を救う。なるほど、普通の思考が出来る者なら誰でもその道を選ぶ。子供でも同じだ』

 おれは返す言葉を失った。

 ただ、己の迂闊うかつさと思慮の浅はかさを呪うばかりだった。

 なぜなら、おれが選ぼうとしている道は、まさに――。

 図星を指されて屈辱を押し殺すしかないおれに向けて、父は続けた。

『周平、愚鈍な貴様もさすがに勘付いたようだが、まさしくその通り。貴様が選ぼうとしている道は、十の犠牲で一を救おうという、破滅への第一歩だ。空港建設を延期しろだと? たわ言をほざくのも大概にしろ。有限な時間を割いて、ありもしない怪異の調査に踏み込もうなど言語道断、非合理的極まりない。そうして我々が手をこまねいている間に、国を敵視する反対勢力――特に『亜細亜八月同盟AAA』――が本格的な行動を開始したらどうする? 空港建設に懐疑的な現地住民を扇動し、一致団結させる。ありえない話ではない。無知な農奴を暴徒に仕立て上げ、不遜にも国政を乗っ取ろうと企てた清教徒ピューリタン革命のようにな。貴様は責任を取れるのか? 日本の未来を潰えさせ、国民全体を路頭に迷わせる最悪の未来を手引きしたという重大な事実の責任を。さあ、どうなんだ?』

『それは……』

 父の叱咤が耳に痛い。容赦ない正論の数々が胸に突き刺さる。

『甘い、甘いぞ周平。報復を恐れるあまり歩みを止めようなど、まさに臆病者のやることだ。現状維持は停滞であり衰退だと、貴様の物覚えの悪い頭に文字通り叩き込んだはずだ。あまり私を失望させてくれるなよ』

『っく……』

 何も、言い返せない。

 そのまま、喧嘩別れにも近い感じで通話は切れた。

 そして今、物言わぬ黒電話の前で立ち尽くす。

「……っち」

 おれは、自身の無力さを噛み締めるしかなかった。

 新国際空港建設は、国の経済を根底から支えるであろう国策だ。計画の続行に踏み切るのは仕方ない側面もあるが、あそこまで強硬だと素直に頷くことは出来ないのも正直なところだ。

 とはいえ、実際問題、何人もの人間が失踪ないしは不慮の死を遂げている。しかも、この数日の間で、立て続けに。

 これらの事件が、古くから噂されていると言う怪現象『天狗攫い』と呼ばれているものなのか、あるいは、政府による尾前町の土地収用に原因があるのか、その因果関係は不明だが、悪い兆候なのは疑いようもない。

 幸い、父の命令で、おれ以外の特派員も真相の究明に乗り出しているらしいが……。

(だが、部外者に厳しい町の人々が、よそ者――それも政府の人間――に易々と口を割るとは思えない。捜査が難航するのは目に見えている)

 結局、おれが動かなければならないだろう。父もそれをわかっているから、ああやってハッパをかける。

(そんなことは、わかってる。……わかってるんだよ)

 でも、おれは……。

 父の寄せる期待。いずれ政府高官となるべきおれに課せられた使命と、乗り越えるべき試験。

 と、同時に、絶対に果たさなければならない約束が、おれの脳裏に色濃く蘇る。彼女の存在が、おれを捉えて離さない。

 夢と現実。過去と現在。この二つは両立するのか? それともやはり、芥川が言うように、どちらか一方を選ぶしかないのか?

 だとすれば……。

(おれが選ぶべき道は……)

 ふと、森鴎外の小説、『舞姫』の内容がまざまざと思い出される。官僚になるために愛する人を裏切る主人公と、彼に翻弄されて狂人と成り果てるヒロインの凄絶せいぜつな描写が、今この瞬間、克明に映し出される。

(おれは……)


『大国にかしずく愚かな諸君らへ――。

 即刻、新国際空港開発計画を中止せよ。さもなくば、彼の地に眠る忘れ去られた神が、幾年にわたる重たい沈黙を破って目を覚まし、再びの悲劇を引き起こすことになるだろう。互いに離ればなれとなった星々が巡り合うその時までに決断を下さなければ、神はその鉄槌を無慈悲に振り下ろすだろう。

 覚悟せよ、人々から吸い上げた血税で私腹を肥やし、神代の国土を痩せ衰えさせる拝金主義者どもよ。自らの行為を悔い改めよ。審判の時は間近に迫っている。

 日本を愛し、敵国を嫌う――亜細亜八月同盟より』


「…………」

 心が冷えていく。

 おれは、いまだに、この脅迫文の謎すらも解き明かしていない。

 急がねば……。

 受話器を取り、ダイヤルを回す。

「……秘書の三崎さんですか?」

 電話口から、『はい』と返事が返ってくる。

「夜分遅くにすみません。じつは、あなたに調べて欲しいことがあるんですが」

 父専属の秘書である三崎さんは、おれの突然の申し出に少し困った反応をする。

 構わず続けた。

「過去に起きた尾前町での事件、事故についての資料を、こちらに郵送していただけませんか? もちろん、おれの方でも現地調査をしますが、今は、より多くの手掛かりが欲しいんです。……はい、三崎さんも知っての通り、最近、尾前町で不可解な事件が立て続けに起きていまして……」

 その辺りの事情を父経由で知っている三崎さんは、やや重たい口調で対応する。

「……はい、ええ、できれば速達で送っていただけると……、はい、助かります」

 三崎さんは、少々困惑しながらも、おれの頼みを承諾してくれた。

「それじゃ、宛先は学校で……、ええ、家の者に勘繰られると困りますので。教師陣には、おれから説明しておきますよ」

 用件を伝え終わり、受話器を置こうとした時だった。

「――ああ、それと……」

 大事なことを忘れていた。

 おれは再び受話器を耳に当てる。

「……蔵屋敷武彦に、それと、芥川伶一という生徒のことに関する情報も、可能であれば仕入れていただけると……、そうです、芥川伶一は、瀬津高校第一分校に通っている……、はい、間違いないです。……では、よろしくお願いします」

 ……これで、よし。

 受話器を置き、ひと息吐く。

 ひとまず、やるべきことは済んだ。

(あとは……土蔵のことだ)

 おれは、例の場所について思いを巡らせる。蔵屋敷家に佇む、開かずの扉に封じられた土蔵。おれの読みでは、『イイヅナ様』に関する史料が眠っていると思しきパンドラの箱。

(侵入を試みたあの夜からしばらく時間が経ったが、鈴蘭や、家の人間から、特に御咎めがなかった。そればかりか、彼らは普段取りに接してくる。怖いくらいに……友好的に……)

 おれが蔵に忍び込もうとしたことに気付いていないのか、それとも……。

(……まさか、な)

 嫌な考えを即刻切り捨てる。

 彼らは、おれが蔵に興味を持っているのを知っていて、あえて放置している。

(そんな可能性は、ないはずだ)

 そう思いたい。

(おれを泳がせて得られるメリットなんて、彼らには……)

「…………」

 ……ダメだ。

 考えていたって、埒が明かない。

(頭を切り替えよう)

 それが得策だ。

 というわけで、現実の方に目を向ける。

 廊下に設置された柱時計によると、時刻はすでに9時を回っている。

 もうすぐ風呂の時間だ。

(さすがに……疲れが酷いぜ)

 このまま布団に潜り込めば、一秒足らずで眠りに就く自信がある。

 だが、その前に、今日一日の汚れを落とした方がいい。

(気絶する前に、とっとと行くか……)

 あくびを噛み殺し、風呂場に向かう。

「……あ」

 ふすまを開けると、鈴蘭と目が合った。ちょうど風呂から上がったばかりなのか、寝間着姿の彼女は、少し頬が上気していた。

「周平くん、お風呂あがったよ?」

「……そうか」

 やや緊張しながら対話する。

(……鈴蘭は、勘付いているはずだ。おれが、蔵に目を付けていることに)

 いくら彼女がどんくさいからといって、さすがにそこまで鈍くはない。曲がりなりにも、良家のお嬢様だ。財産目当てで近付く即物的な輩を選別するように教育されているから、接する人間について多少の見分けはつく。

(……とすると、鈴蘭の目からは、おれはどう映っているのだろうか?)

 将来の夢を叶えるために精力的に動く真面目な人間か、それとも、自分の目的のために周りを利用する薄汚うすぎたない人間か。

「……どうしたの、周平くん? なんだか、難しい顔してるけど……」

「……なんでもねーよ、ちょっと眠いだけだ。心配すんなって」

 不思議な顔して首を傾げる鈴蘭の質問を誤魔化すようにすげなく退しりぞけ、早々に話を切り上げる。

「鈴蘭も早く寝ろよ? 夜更かしは体に毒だからな」

「わかってるよー、明日も早いからね」

「それじゃ、おやすみ」

「おやすみー」

 二人して挨拶を交わし、どちらともなくこの場を離れる。

「……あんまり、無茶しちゃ……ダメだよ?」

 すれ違いざまに、そう言われた。

 おれは、鈴蘭の忠告を聞こえないふりして、風呂場に向かった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「……やれやれ、おれとしたことが」

 風呂に入ろうとした矢先、ちょっとしたアクシデントに見舞われた。

 あろうことか、着替えのパンツを忘れたのだ。

「最近、こうした単純な見落としが多い気がするな……」

 疲れが出て来ているのだろうか?

「こんなことだから、父に小言を言われるんだよな」

 まったく、情けない。

 いい加減、気を引き締めて事に臨まないと……。

「……ん?」

 白熱灯が下がる廊下の角を曲がったところに位置するおれの部屋、その手前まで近付いた時、異変に気が付いた。

 ふすまが、開いている?

 ……妙だな。

 おれはいつも部屋を出るとき、ふすまを完全に閉め切るようにしている。人目につくと少々困る代物が保管されているからだ。

 今回もその例にもれず、ふすまを閉め切っていたはずだが……。

「…………」

 息を飲む。

 なぜ、ふすまが開いているのか?

 導き出される答えはひとつ。

 誰かが、おれの部屋に無断で侵入しているということだ。

「ふざけやがって……」

 部屋の中は暗くてよく見えない。

 壁に背を預けながら目を凝らし、慎重に様子を窺う。

 ガサガサと、物を漁るような音が微かに響く。

 まさか……。

(……幽霊……では、なさそうだな)

 他人の持ち物を漁る幽霊など、聞いたことがない。

 だとすれば、やはり……。

「……誰だ?」

 闇夜に向かって声をかける。

 当然ながら、返事はない。

 しかし、おれの部屋にいる何者かの動きが止まった。

 ……間違いない。

 部屋に、誰かが……いる。

(っち、こんな時に……)

 意を決し、部屋に突入しようと身構える。

「……こんなところで何をしておるんじゃ?」

 突然、背後から声。

 おれは即座に振り返る。

 廊下に立つ人物の姿を目に入れ、おれは自分の心臓が大きく跳ねるのを自覚した。

 ――与一のじーさんだ。白熱灯がぼんやりと光を漏らす薄明りの下、彼が怪訝そうな眼差しを向けていた。

 先に風呂を浴びたじーさんは、晩酌でもした後なのだろう。酒臭い息を吐きながらおれの全身を舐めるようにまじまじと見つめる。

「しかも、そんな恰好でいてからに。時期も時期じゃから、何か化け物でも出たのかと思ったわい」

「ははは、まさか」

 愛想笑いで茶を濁す。

 今のおれは、風呂に入る直前に慌てて出て来たので、腰にタオルを巻いただけの格好だった。

(それにしても、化け物、か)

 少女を土蔵に監禁するあんたたちの方が、そこらの化け物なんかより、よっぽど恐ろしいが。

「しかし、周ちゃん、いい身体してるのお」

 猜疑心さいぎしんに満ちたおれの気など知らない能天気なじーさんは、顎を指でなぞり、感心しきりに唸る。

「割れた腹筋に、突き出た胸筋……、荒くれ者揃いの町の若い衆にも引けを取らんわい」

 謎の賛辞の言葉を並べながら、おれの目を覗き込む。

「そりゃ、どうも」

 低頭して答えつつ、じーさんの思惑を探る。

「何かでもやっとるんか?」

 じーさんはどこか威圧的な眼差しでおれを見る。

「まあ、そんなところです」

 注がれる眼力に負けじと答える。

 父の命令で、軍隊じみた特殊な訓練を積んできた――などとは言えるはずがない。

「ふむ、そうか。やはりのう」

 やがて、納得したように小さく頷いた。

「さすがは宗吾のせがれじゃな、若いのに随分と堂々としておる。わしから一切目線を外さず、まるで手の内を読むように鋭く眼光を光らせる。さながら豊臣秀吉の有能な参謀、黒田くろだ考高よしたかを彷彿させるようじゃわい」

「…………」

 手放しの賞賛はもとより、思いがけず父の名が出たことで、おれの中で抱かれた警戒心はますます増長する。

「おじいさんこそ、珍しいですね」

 相手のペースに飲まれては不利なので、今度はおれから話を振る。

「あなたの部屋はこことは反対側なのに……今夜はどうしたんですか?」

「うむ、ちょいとばかりこっちの方に用があってのう」

 そう言って廊下の先を指差す。

 廊下の突き当たりには、衣服などをしまう収納スペースがある。

 それが目当てだろうか?

 あるいは、やはり、おれの様子を探りに……。

「ま、なんにせよ、とっとと一風呂浴びてくることじゃな。いくら夏とはいえ、いつまでもそんな恰好でいるわけにもいくまい?」

「それも、そうですね」

「じゃあの、周ちゃん。あまり夜遅くまで起きとると明日に響くからのう、今日は早めに休むんじゃぞ?」

「ええ、お心遣いありがとうございます」

 最後に小さくお辞儀して、ひょこひょこと歩き出すじーさんの背を見送る。

 猫背気味の頼りない姿とは裏腹に、その背筋からは圧巻の覇気が感じられた。

「……与一のじーさんか」

 侮れないな。

 ただのとぼけたジジイだと思っていたが、やはりそこは町の権威者。なかなかの老獪ろうかいさを秘めていそうだ。

 改めて、用心しなければ……。

「……と、それどころじゃなかった」

 そこで思い出した。

 おれには、部屋の様子を探るという大事な用事があったのだ。

 気を取り直し、再度、闇に包まれた部屋の様子を探る。

 しかし、この時にはすでに、あれほど強く感じられた不穏な気配が消えていた。

(……もしやとは思うが……)

 嫌な予感がする。

 部屋の中に入り、電気を点ける。

 急激に開ける視界。

 室内灯に照らされるおれの部屋には、しかし、誰の姿もなかった。

 畳の上に散らばった本と、机の上に広げられたノート。何もかも、おれが出て来た当時のまま。

「…………」

 気のせい、か?

 念のため、政府の機密情報が記された書類を確認するが、特に荒らされた痕跡はない。

「……ふう……」

 大きく息を吐く。

 すべて、おれの勘違い。ふすまの件も、部屋に誰かがいた気がしたのも、おれの早とちり。

 やはり、疲れが出ているのかもしれない。

(あの物音は、ネズミか何かが徘徊していたために起こったものだろう……)

 そういうことにしておこう。

「じーさんの言う通り、一風呂浴びちまうか……」

 頭を掻きむしりながら、おれは部屋を後にした。

 今度は、きちんとふすまを閉め切った。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 風呂から出て、自分の部屋に戻る。

 ふすまはきちんと閉められていた。

 いつも通り、書類に向かう。

「…………」

 紙面に目を這わせるが、これまでの出来事が頭の中で次々と蘇り、情報整理がまったく進まない。まるで、思考を阻害するようだ。これでは報告書を作成できない。

 どうにか邪念を振り払おうとするが、それは無駄な抵抗だった。

 浅間兄妹の失踪……、土蔵に幽閉された少女……、おれを拉致した謎の男に、天狗……、そして、『イイヅナ様』……。

 この町に来てから、通常では考えられないことばかりが起きている。それから目を逸らすことなど、できるはずもない。

 一体、尾前町で何が起きているのか。これらの怪現象の裏に潜んでいるものは、一体、何なのか……。

「……っち、今日はもうやめだ」

 ペンを放り、電気を消して、布団の上に寝転がる。

 目をつむれば、広がるのは闇。


 ――とんとん


「周平くん、起きてる?」

 今夜もまた、鈴蘭が部屋を訪れに来た。

 だが、今のおれには彼女と楽しげに会話を交わす余力も、余裕もない。

「悪いな、鈴蘭。今日はちょっと立て込んでてな。ちょっと時間が取れそうにない」

「……そっか、それじゃ、仕方ないね」

 残念そうな声。

 無理に我を通そうとせず、他人の意見を尊重してくれることが、今は何よりもありがたかった。

「じゃあ、わたしは戻るね」

「ああ、鈴蘭、ひとつだけいいか?」

「うん? なあに?」

「……お前、おれが風呂に入っている間に、部屋に忍び込んだりしてないよな?」

「……そんなこと、しないよ?」

「……そうか」

 一瞬の沈黙。

「なら、いいや。おやすみ」

「うん、おやすみなさい」


 ――ぱたぱたぱた


 廊下を歩く足音が、徐々に遠ざかる。

 鈴蘭が立ち去り、おれはひとりになる。

 静寂が流れる。息の詰まる空白の時間が、おれに後ろ指をさす。そんなふうに思えるくらいに居心地が悪い。

 悶々とする意識の中、また、例の唸り声が聞こえる。『おおーん』と。カエルの鳴き声にまじって、胸を引き裂く物悲しい声が……。

 近いのに、遠い。手を伸ばせば届きそうな距離にいるのに、彼女には触れられない……。

 ほんの少しの勇気があれば、彼女を、あの狭くて暗い蔵の中から助け出せるのに……。

 今のおれには、それができない。

 おれは臆病者だ。世間体とか気にせず、手当たり次第に、後先考えずに、突発的に、闇雲に動く。そうするのは簡単だ。現に、おれも最初はそうした。それが正しいと思っていた。でも……、今は、どうしても、動けない。

 あの時、思い知った。わかってしまったんだ。おれは、浅はかだったと。ロクに策を講じず、甘い考えで行動に移すと……多大なる犠牲を伴うということに、気付いてしまった。

 再起不能になるかもしれない。二度と、政治家を目指すことができなくなるかもしれない。それは別に構わない。そんなに大した代償じゃない。問題はそこじゃない。

 おれが最も恐れていること。それは、との懸念だった。

 おれが、首尾よく彼女を助け出したとして、それでどうなる? 一見するとハッピーエンドだが、現実はそれで終わりじゃない。実際は何も解決しない。おれが彼女を助け出したが最後、おれは親戚一同から村八分をくらうだろう。なぜなら、彼女が、『イイヅナ様』の伝説にあやかって用意された人身御供だからだ。その彼女を神のもとから強引に引き離したとなればどうなるか、考えるまでもない。おれは神にあだなす不届き者としてたちまち知られるところとなり、二度と尾前町の地に足を踏み入れることは叶わないだろう。それは、特派員としてはあまりにも致命的だ。解雇通告にも等しい。そうなったら最後、結局、父にも失望され、将来の道は無惨にも絶たれる。おれは路頭に迷う。そんな未来は目に見えている。それで、おれが本当に満足するか? 彼女を救えてよかったと、心からそう思うか? むしろその逆で、彼女を心底恨むのではないのか?

 彼女を助けること自体が問題じゃない。彼女を助け出した後が、問題なのだ。

 目先に囚われていては……大局を見失う……。

(だから……、うまくやらないと……)


 ――おおーん


(慎重に外堀を埋めて……、然るべき時期を待ち……)


 ――おおーん


(……そうだ……、あの時のような失態を演じては……すべてが終わりだ)


 ――おおーん


(だから、今は……)


 ――おおーん


 未だに足踏みするおれを責め立てるように、彼女の声がおれの耳に届いては、まとわりついて離れない。

(許してくれ……、許してくれ……)

 闇夜に鳴り響く怨念の唸りに耐えかね、おれは念仏を唱えるように、頭の中で謝罪し続ける。

 おれは、しばらくのあいだうなされながら、やがて、深い眠りに就いた……。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「計画は順調に進んでいるようだな」

 いつもの潜伏先。電話口の彼女に向けて伝える。

『ええ、そうね』

 いつもは口の減らない彼女も、今夜に限っては無駄口を叩くことなく、真面目に応じる。

「しかし、馬鹿な男だ。あれが罠とも知らず、無策に突っ込むとは。驚きを通り越してもはや呆れる」

 あの晩のことを思い、は失笑を漏らす。

 少しは頭の切れる男だと思ったが、おれの買い被り過ぎか?

『……確かに、突発的な行動だったわね』

 彼女らしからぬ淡々とした物言いに、おれは思うところがあった。

「なんだ? 何か言いたいことでもあるのか?」

 すかさず問い詰める。

『……さすが、国家公認のエリートさん。嫌味なぐらい人心掌握術に長けているわね。わたしの考えなんてすべてお見通しってわけ?』

「お前ほどわかりやすい女もいないからな」

『あら、わたしはあなたが思っているよりも単純じゃないわよ?』

「人間の思考回路など、所詮は電気信号の発火における結果に過ぎない。複雑な物事など、この世には存在しないさ」

『言うわね、自信過剰の副リーダーさん。今のセリフ、『A』顔負けの凄味があったわよ。もうハートがズキューンってなっちゃうくらい』

「褒め言葉と受け取っておこう」

 不毛な軽口を叩きあった後、沈黙が流れる。

『……でも、あれでホントによかったの?』

 不意に漏らした疑問。その声の響きには、確かな戸惑いが潜んでいた。

「神に逆らった罰だ、当然の報いだろう。むしろ、あの程度の制裁では生ぬるいくらいだ」

 予定通り、あの男を拉致したとの報告を聞いた時、歓喜にも似た感情が広がると同時、肩透かしを食らった気分に陥った。

 足りない。

 あの男は、奴をちょっと痛めつけただけで解放したというではないか。

 もっと、それこそ再起不能寸前になるくらい徹底的になぶればいいものを、意外と甘い。

 人間は恐怖する生き物だ。

 なぜなら、恐怖感を抱くことによって、自分の身を危険から遠ざけるからである。

 そして、肉体的な痛みと精神的恐怖は密接に結びついている。ある事柄が原因で何らかの痛い目に遭った時、今後はその行為を避けようとする。いわゆる条件付けというやつだ。

 だからこそ、おれは奴を懲らしめるように命じたのだが……。

「単なる脅迫ぐらいで、奴が引き下がるとも思えない」

 逆に言えば、こんな程度の脅しに屈するようであれば、おれが警戒する必要もなくなるのだが。

『……そう』

 何やら不服な様子。

「なら、逆に聞くが、お前は、奴が今後もおれたちに刃向っても構わないと?」

『別に、そこまで言うつもりはないわ。ただ、わたしは暴力が嫌いなだけよ。だって、ちっとも理性的じゃないんだもの。粗暴で、野蛮で、正義の欠片も感じられない、極悪非道なやり方。わたしたちの道理に反するわ』

「お前もとことん甘い女だ」

 バッサリと切り捨てる。

「人間の行う暴力ほど計算し尽くされたものもない。例えば、捉えた捕虜を見せしめとして痛めつけたりするが、あれは極めて合理的だ。ともすれば反逆や脱走を企てる他の連中から希望と活力を奪い、瞬く間に奴隷化させるのだから。おかげで無駄な血を流さなくて済む。必要最低限の犠牲で平和的に事態が治まるわけだ」

『…………』

「おれとしては、奴が半身不随になったところで一向に構わないのだがな」

『それって、本気で言っているわけじゃないわよね?』

「おれが冗談を言うような男ではないことは、お前が一番知っているはずだが?」

『…………』

 絶句でもしているのか、ノイズ雑じりの無音が返って来る。

 今さら、何を怖じ気付いているのか。

「まさか、情が移ったわけではないだろうな?」

 返答がない。

「お前のその沈黙……、図星と捉えていいのか?」

 尚も彼女は答えない。

「だんまりとは芸がない。せめて精一杯否定してくれた方が、まだ望みがあったものを」

『……あなたは、何も感じないの?』

「感じる? 何を?」

『……あなただって、ちょっとは彼と接してるわけでしょ? ……いいえ、。それなのに、あなたったら――』

「敵にかける情けなど、生憎あいにく、おれは持ち合わせていない」

 有無を言わさず断言すると、電話口から小さな溜め息が漏れた。

『そう、そうね……。あなたは昔からそういう人だったわね』

 諦めるような含み笑い。

『ごめんなさい、さっきの言葉は忘れて』

「初めから、何も気にしていない」

 おれの頭にあるのは、どうやって奴を追い詰め、破滅に導くか、それだけだ。

 あの男の敗北は、そのまま、国家の敗北に直結する。

 なら、どうして情け容赦を掛けてやる必要がある?

「……お前にひとつ忠告しておく」

 心を凍り付かせ、言い放つ。

「敵を甘く見ていたら、いつか、足をすくわれるぞ?」

 彼女は、やはり、何も答えなかった。

 ――意気地なしめ。おれは無言で彼女をなじった。

 思考の矛先を変えよう。問題は彼女ではない、もっと別のところにある。

 おれは、つい先日に破産宣言した神田製鉄のことについて考える。

 何のことはない、粉飾決算の事実が明るみになり、そのまま倒産した、世間に溢れたつまらない話だ。幹部が犯罪に手を染めていた分、自業自得と言えるだろう。

 もっとも、神田製鉄が破産した原因はおれにあるのだが。

 おれは、調

 粉飾決算を行っているかどうかを見分けるのは、意外と簡単だ。

 極端な話、二重帳簿であれば本物の帳簿を見つけ出せばいいし、不正の事実を当人の口から聞き出してもいい。工作員とはそういうものだ。

 幸い、あの男は、神田製鉄の上層部に容易に近付けるだけの境遇にあったし、実際に循環取引の現場を目撃さえしていた。いわば粉飾決算の生き証人だ。

 まあ、だからこそ、おれはあいつを利用したのだが。

 彼はこの1年間、じつによく働いてくれた。

 だが、もう用済みだ。

 新国際空港開発に携わる人間は、おれにとって絶対悪だ。それは、粉飾決算を暴いたあの男とて例外ではない。

 よし、消すか。

 もはや何のためらいもない。

 彼女にも言ったように、敵や弱者に情けなど必要ない。

 ふと、駒を捨てる関連で思い出した。

「そうそう、呑気な平和主義者のお前に朗報だ」

 惰弱だじゃくな沈黙が返ってくる。

「尾前町農業組合に属している、あの男のことは知っているな?」

 あえて婉曲的に言うと、息を飲む音が聞こえた。

「彼は先日、ありえない失態を犯した。あの作戦を決行する以上、今までよりもさらに周囲の状況に対して細心の注意を払うべきであったのに、あろうことか警戒を怠って不用意に動き、挙句の果てには目撃者を殺害する。完全を期すおれたち組織にとって、絶対にあってはならないことだ。まさに目も当てられない。下手すれば警察が動きかねないほどの惨事に繋がりかねなかったのだから、当然の帰結だが」

『A』が機転を利かせ、、無事に事無きを得たが、一歩間違えればおれの身に危険が及んでいた。

「まず手始めに、奴を消す」

 これ以上、奴を生かしておく利点がない。

 元々、あの男に『イイヅナ様』のことを伝え、不可抗力的に因習の業へと縛るのが、奴の担うべき唯一にして無二の仕事だった。

 それなのに、まったく、馬鹿な真似をしでかしたものだ。

「方法は考えてある。安心しろ。組織の人間の手を汚させるつもりはない」

 おれたちにとって不要な人間を始末するのに、いちいちそんな手間暇をかけてなどいられない。

「奴には最も屈辱的な死を味わわせてやろう」

 つまり、敵対する人間の手によって殺されるという、死んでも死にきれない最期を献上しよう。

「今から愉しみだ……」

 込み上げる笑いを押し殺す。

 夜はますます更けていった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 朝の校舎。粛々と授業が行われる教室は、いつも通りの独特な空気を漂わせている。

 期末試験が迫っているからだろう、皆が真剣な表情で机に向かい、躍起になって紙の上を走らせる鉛筆の音がそこかしこから響く中、おれは授業の内容とはまったく別のことを考えていた。

(……明星と教会堂の関係……、裏で手を引く木田組と銀行、そして国。浅間兄妹が姿を消し、無残な姿で発見されたのは、それらの外的要因があったからだろうか?)

 もし、金銭面などの困窮が彼らの苦しみの根底にあり、そこに目を付けた第三者が揺さ振りをかけて来たと仮定すれば……、

(浅間は、明星から、大天山に住む神について聞いたと言っていた。だから、その筋に詳しい東を尋ねて来た。……そして、悲劇は起こった)

 確実に明星の扇動はあった。

 問題は、明星が第一原因であるのか否かだ。

 おれが懸念しているのは、明星が、何者かから指示を受けて動いているのではないかということだ。奴が、もしも、木田組、あるいは――ほとんどありえないだろうが――国の命令で浅間たちを追い込み、始末しようと企んでいたとすれば、いよいよわからなくなってくる。

(それにしても、奴らがそうする動機はなんだ? 浅間たちを消して、彼らがどんな得をすると言うのか?)

 やはり、金銭関係の揉め事か? 銀行の融資でトラブルがあったとか、そういうことか?

(依然として、憶測の域は出ない。関係者の口から詳しい話を聞き出さなければ机上の空論に過ぎない)

 それに、十兵衛の失踪も気掛かりだ。呂久郎は『天狗攫い』という怪現象だと言っていたが、これについても謎が多い。

 浅間兄妹と十兵衛。この二つの失踪事件は、それぞれが独立した偶然の産物なのか? それとも、点と線で密接に結ばれた、不可分なものなのか?

(やはり、明星と東を問いただす必要がある。可能ならば、咲江、あるいは咲江と接触している露木からも事情を聞きたい。そして、教会堂と孤児院にもう一度出向き、十兵衛の失踪の前に何があったのか、その動きを把握したい)

 おれはどうしても知らなければならない。この尾前町で何が起きているのか。土地にまつわる因縁が事件を呼んでいるのなら、特派員として原因を究明しなければならない。

(……おれを拉致し、脅迫した、あの男は何者か? そして、天狗とは……一体、なんなのか。中島氏を殺したのも……、奴らなのか?)

 ……考えたくはないが、もしも、仮に、本当に、これらが、尾前町を守っていると言う、『イイヅナ様』の祟りだとしたら……。先祖代々守られてきた土地を荒らしては奪い尽くすおれたちに対する、彼女の嘆きと悲しみ、そして怒りだとしたら……。

 脳裏を埋め尽くす数多くの疑問。バラバラとなったパズルのピースのように、まとまりなく散らばっている。

(……当面は、当初の予定通りに動くしかない。土地収用に関する住民の動向を調査しつつ、機会を見計らって事件に関する情報を集める)

 それしかない。

(こうなったら、自分に与えられた権限を存分に発揮するまでだ)

 政府の飼い犬として終わるか、あくまでも自分の足で動くか。

(そうしていくうちに、彼女にまつわる話も聞けるかもしれない……)

 約束。

 おれには果たすべき約束がある。

 彼女は、いつまでも待ち続けている。

 あの、奈落の闇の向こう側で……。


 ――キーンコーンカーンコーン


 授業が終わり、昼休みとなった。

 クラスの生徒は机の上に広げた勉強道具を片付け始め、思い思いに自由行動を始める。

「……なあ、露木」

 周りが弁当を取り出していく中、早速、隣の露木に尋ねる。

「咲江の容態はどうなんだ?」

 露木の表情が、一瞬で強張る。

「……なぜ、お前がそのことを……」

 驚愕に目を見開かせたかと思えば、それは即座に敵意を込めた鋭い

眼差しに変わる。

 おれは、至って平静を装いつつ、口を開く。

「いや、石蕗先生から聞いたんだよ……、お前は特待生だから、特別にって」

「……そうか」

 おれの説明に納得したのか、露木は表情を和らげる。

(ま、嘘は言ってないしな)

 浅間樹生が死に、妹の咲江が意識不明の重体。これらの情報は、本来なら、露木のような一部の生徒と教師陣しか知らない。

 だが、おれは、政府から派遣された人間だ。尾前町で起きた事件を把握する権利と、その義務がある。

(特に、浅間たちのような、間接的だが空港開発に関わる人間が被害に遭ったとなっては……首を突っ込まらざるを得ない)

「……その、咲江についてなんだが」

「……ああ」

「あー、また二人してコソコソ内緒話して、怪しいわねー」

「げっ……」

「天宮……」

 これまた、厄介な奴に絡まれてしまった。

「何よその顔、まるで天井からムカデが落ちてきたみたいな表情しちゃって」

(田舎独特のたとえだな……)

 妙に感心する。

「それで、なんの話してたの?」

「…………」

「…………」

 二人して顔を見合わせる。

(一番、話を聞かれちゃまずい人間に、首を突っ込まれちまったな……)

 露木もおれと同じことを思っているのか、無言で頷き合う。

 そして、ほぼ同時に天宮の方へと向き直った。

「……話と言っても、あまり、面白いもんじゃねえぞ?」

「そうそう、露木の言う通りだ。なんたって、汗くせー男同士の会話だからな。しかもその上、思春期真っ只中の学生と来たもんだ。こんな、年中盛ったような野郎の話を女が聞いたって理解できるはずもない。むしろ、白けるだけだ。悪いことは言わないから、詮索はやめておけ」

 示し合わせたわけではないが、二人して天宮の興味を削ごうと必死に努める。

 だが、好奇心が服を着て歩いているような天宮に、生半可な説得は通用するはずもない。

「ふーん、それはそれで面白そうね。忖度そんたくのない、男同士の激しく熱い濃厚なぶつかり合い……。それはまさしく本能と本能のせめぎ合い……。うーん、小説のヒントにもなりそうだし、個人的にも興味をそそられるわ。是非とも、会話の内容を詳しく聞きたいところね」

「なんだか前半部分がやけに不穏な響きだったが……」

 思わず鳥肌が立ったぜ。

「よせよ、人の話をネタにするのは……いい迷惑だ」

「そう言わないでよ。綿密な取材に基づいたリアルな部分ってのも、創作物には必要でしょ。フィクションだからこそ、情報収集にはぬかりなく、ってね」

 小さくウィンクなぞしてみせる。

 まったく、研究熱心と言うか、なんと言うか。

(さすが、ジャーナリストの娘なだけはあるな)

 だが、導き出される答えは一緒だった。

「……駄目だ、お前には教えん」

 左右に首を振る。

「そういうわけだ、おれたちにもプライバシーってのがあるんでね」

 ひらひらと手を振って追い返す。

 天宮はよほど不満なのか、猫被った笑顔を一変させる勢いで両目をつり上げ、凄んで見せる。

「えぇー、別にいいじゃないのよ。別に減るもんじゃなし」

「駄目だったら駄目だ。あることないこと吹聴されちゃたまらん」

「なにせ、相手が相手だからな」

 こればかりは譲れない。

「へーえ、そんなこと言うんだ。なら、あたしは、今ここで、あんたたち二人の怪しーい関係を暴露しちゃおうかしら」

「おいおい、脅すつもりか?」

「あいにくだが、そんな脅迫は無意味だ。俺たちは、ただ、咲江の容態について話していただけで、何もやましいことはしてないんだからな」

 ……あ。

「なに? サッちゃんの話? それって、どういうこと?」

 地獄耳で且つ勘の鋭い天宮は、露木の僅かな失言を聞き逃さない。恐ろしい形相でグイッと詰め寄り、問いただす。

(おい、露木……)

「いや、今のは間違いだ。言葉のアヤって奴だ」

 心苦しい言い訳。

「あんたってウソつく時、鼻の頭を掻くクセがあるのよね」

「なに?!」

「……あんたのその反応からして、どうやらさっきのはホントのようね」

「ぐっ……!」

「ちなみに今のは、リョーイチの受け売りよ」

「芥川の野郎……」

 してやったりの笑みを浮かべる天宮と、屈辱的に唇を噛む露木。

 奴の完全な敗北だった。

「露木、お前……、とんでもねーことしてくれたな?」

 自ら墓穴を掘った露木を睨み付ける。

「なっ……、元はと言えば、風祭が天宮に誤解させるような余計なこと言うから……!」

「なんだよ! こいつの場合、そうでもしねーと引き下がってくれないだろーが!」

「その前提からしてまず間違ってるんだよ! 相手は一度食らいついたら離さないすっぽんのような女だぞ!? そんな姑息な手段が通用するか!!」

 くそ……! ああ言えばこう言う……!

「あら、仲違いとは醜いわね。男同士の友情ってのも、案外、脆いのかしら?」

「「お前のせいだよ!」」

 非難の言葉は、思わぬところで重なった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。

 

「……で、結局、こうなるわけか」

 三人で机をくっつけ、弁当を広げる。

 昨日も見た光景だった。

「さて、詳しい話を聞かせて貰おうじゃないの」

 どこぞの重鎮よろしく、交差させた両手の間に顎を乗せ、重々しく告げる。

(……こうなったら、もう、腹を括るしかねーな)

 下手に誤魔化したりすると、あとが怖い。

(おれだけなら天宮をはぐらかすことも可能だが、露木は意外と馬鹿正直だからな……)

 さっきも、奴がボロを出したことで咲江のことが露呈したわけだし。

「露木、こうなった以上は仕方ない。覚悟を決めようじゃないか。せめて、無用に傷口を広げないよう、細心の注意を払った上で、必要最低限の情報を話すんだ。肉を切らせて骨を断つ、だ」

「……わかったよ」

 渋々頷く。その表情は暗く沈み、絞り出したその声は今にも掻き消えそうなくらい小さかった。

「なんだかあんまりな言われようね……、そんなにあたしが信用できない?」

「できねーよ!」

「今までお前のせいで俺がどんな目に遭ったことか!」

「わ、わかったわよ。だから、そこまでムキにならなくてもいいでしょ」

 男二人に勢いよく反論されてはさすがの天宮も後手に回らざるを得ないのか、ちょっと語尾を弱める。

(……こいつも、ただの女の子か)

 表面ではお転婆娘を装っているが、根は寂しがり屋。そんな天邪鬼の天宮を責め立てるのはなんだか大人げない気がして、頭に昇った熱がすぐさま引いていく。

 露木もそれは同じだったのか、もう、何も言わなかった。

「……っち、他の連中に聞かれると面倒だからな……、もっと身体をこっちに寄せろ」

 その代わり、本題に取り掛かるべく、停滞していた話を進める。

 おれと天宮は露木の指示に従い、やや前のめりに体勢を変える。

「んーと、こうか?」

「ああ、そんな感じだ……。少々、暑苦しいがな」

「ちょっと、ギンジ、顔が近いわよ!」

「わがまま言うな! 本来ならこれは機密事項なんだぞ! 漏洩なんてもってのほか、下手したら俺が処罰されるんだからな……!」

「それは、責任重大ね……」

 唾を飲み、緊張した面持ちになる一同。

「でも、ギンジのすぐそばってのは生理的嫌悪感が凄まじいわね……。全身の毛穴と言う毛穴がぞわっとするわ」

「おいコラ、それはどういう意味だ」

 苦虫を噛み潰したような表情で天宮を睨む。

「じゃあ、天宮は、もっとおれの近くに来いよ」

 文句を言いながらも露木の方に幅を寄せるので、見るに堪えかねそう尋ねた。

 だが、天宮は、おれにチラッと視線を向けたかと思えば、すぐに逸らしてしまう。

「……それは、遠慮しておくわ」

「は? なんでだよ。露木の顔が近いのが嫌なんだろ? だったら――」

「べ、別に、なんだっていいでしょ! とにかく、シューヘイは、あたしのことなんて気にしなくていいの! ……あ、気にしなくていいって言うか、その、気に掛けては欲しいけど、変な気遣いはいらないっていうか……、ああ、もう、あたしは何を言ってるの……!?」

「……なんとなくお前が言いたいことはわかったが、しかし、本当にいいのか? 露木の奴がむさ苦しいってのは頷ける。むしろ賛同しかできない。忍耐そのものは立派だが、あまり無理すんなよ」

「あ、ありがと……。それだけでも、充分よ……」

 頬を赤らめて俯く。

「お前ら……、いい加減、俺は怒るぞ……」

「ああ、悪い悪い」

 すでに我慢の限界に達しつつあるのか、ピクピクと眉根をひくつかせる露木。もはや爆発寸前の彼を、すんでのところで宥め賺す。

「……それで、結局、どうなんだよ?」

 露木の怒りが収まった頃を見計らい、声を潜めて尋ねる。

「……うむ、咲江の容態についてだが……」

 重厚な面持ちで切り込む露木。その重たい口調は確かな緊張感を漂わせている。

 それにしても、三人して顔を突き合わせる様子は、傍から見ればなかなかシュールだろう。それこそ、円陣を組むような格好なのだから、この状況だけでも異様極まりない。

 もっとも、会話の内容は真面目そのものなのだが。

「……今の時点では、何とも言えないな」

 露木は表情を強張らせる。

「そもそもの話、本来なら、これには守秘義務が課せられているから、おいそれと口外するわけにはいかないんだが……」

「ホント、あんたは頭が固いわねえ。この際、隠し事はなしにしましょうよ。あたしとあんたの仲なんだからさ」

「だから、どんな仲だって言うんだよ」

「主従関係」

 即答だった。

「……寝言は寝てから言え」

 もはや抵抗する気も失せたのか、呆れ果てたように吐き捨てる。

「……とにかく、医院では患者の情報は口外禁止、特に咲江に至っては、主治医の親父にも厳しい口止めがされてるんだ。彼女が入院しているっていう事実は、一握りの人間しか知らないし、知っちゃいけないんだよ。そこのところをちゃんと理解できてるのか?」

「なによ、変なところで生真面目なんだから。ホント、融通が利かない男ね」

「そうだぜ、露木。規律を愚直に守ったって仕方ねーよ。時には、決められたルールを破る豪快さってのが必要だ。何でもかんでも周りの言いなりってのは、決して賢いとは言えねーからな。適者生存ってのが環境に上手く順応できて生き残った者のことを指すように、自らもまた変化をしなきゃならない。でないと、これからの社会を生き抜き、荒波の中を渡り歩くことは不可能だぜ?」

「……お前がそれを言うのか」

「なんだよ、どういう意味だ?」

「いや、特待生のお前が、そういった反抗的な発言をするのが意外だと思ってな」

「おいおい、この際、特待生は関係ねーだろ」

 別に、おれは教師陣の言いなりってわけじゃねーからな。

(そうだ、おれは、あくまでも、おれの意志で行動しないといけない。彼女を助け出すためにも、おれは自分の頭で考え、動く)

 周囲の人間はあてにならない。特に、古くから続く因習に固執する町人たちは、まったく信用ならない。

 彼らのせいで、あの少女は……。

「ふふん、いいこと言うわね、シューヘイ。それでこそあたしの右腕、頼れるブレーンよ」

「いつからおれはお前のフィクサーになったんだ……?」

 何もかもメチャクチャである。

「……ふう、お前達には敵わないな」

 僅かに笑うが、彼のおもてに覆い被さった影は徐々に濃くなる。

「……これは内密にしてほしいんだが」

 神妙な表情で耳打ちする。

 おれは固唾を飲んで続きの言葉を待った。

「……咲江、そして樹生は、親が保有する工場の倉庫内で発見された。両親と一緒にな」

「ああ、そうらしいな」

 両親共々発見されたというのは初耳だが。

「でも、そこで、なにがあったっていうの?」

「一酸化炭素中毒だ」

 聞き慣れない言葉を耳にしてか、一瞬、沈黙が漂う。

「……それって、つまり……」

「警察の捜査によると……、無理心中、らしい」

「……!」

 空気が一気に凍り付く。

「一酸化炭素中毒って言うと……いわゆる練炭自殺って奴か?」

 露木はちょっと驚いたような表情でおれを見たあと、ややして頷く。

(……やはり、彼らの失踪及び自死の原因は、生活苦によるものなのか……?)

 脳裏によぎるのは、親会社である神田製鉄の破産。

「そんな……、タッちゃんとサッちゃんが……」

 天宮はだいぶショックを受けているようで、ぷるぷると震える両手で口を押さえる。

「家からは、遺書らしきものも見つかったようだ」

「遺書……?」

「ウソ……」

「内容は? 一体、何て書かれていたんだ?」

 間髪入れずに問うと、露木は再び怪訝な目つきでおれを一瞥するが、それは一瞬だった。

「……くれぐれも、口外しないで欲しいんだが」

 険しい表情で念押しする。

「わかってる、墓場まで持って行くつもりだ」

「なら、話すが……」

 事態が事態だけに嫌でも慎重にならざるを得ないのか、再三、確認を取った露木だが、ややして口を開いた。

「……それで、内容の方だが」

「…………」

「……『神様に会いに行く』」

「……!!」

 ガツンと、脳髄を直接揺らされる衝撃。

(おいおい、それって……)

 十兵衛が残したって言う、書き置きと……。

「……遺書には、そう書かれていたらしい」

「……何よ、それ? 内容はホントにそれだけ?」

 納得がいかないのか、天宮は不服そうに露木に詰め寄る。その目には、きらりと光り輝くものが溢れていた。

「ああ、見つかった遺書に書かれていたのは、それだけだ、少なくとも、親父と警察から聞いた話では、そういうことだった」

「……わけわかんない」

 そうこぼして、力なく引き下がる。

「……あの子たち、何も、あたしに言わないで……」

 そして、両手で顔を覆う。彼女の悲痛な叫びが、声にならない声が、白く、柔らかな両手の隙間から漏れる。

「……なあ、露木」

 陰鬱な空気がにわかに立ち込める中、おれは話を続ける。

「浅間樹生のことは残念だったが、妹はまだ生きているんだよな?」

 この質問に、露木はピクリと眉根を跳ねらせる。不審者を見るような厳しい目つきが、おれの方を向いた。

「……ああ、確かに、樹生はすでに手遅れだったが、咲江の方は意識不明の重体ではあるが、まだ息はある」

「! そうよ、サッちゃんは?! サッちゃんはどうなったの!?」

 ガバッと音を立てる勢いで食いつく天宮。その目は若干赤くなっており、普段の勝気な彼女の性格も相まって殊更ことさらに痛々しさを強調した。

「ま、待てよ。少し落ち着け……」

 前のめりでぐいぐい来る天宮を宥め、距離を置く。

「周囲の目もあるからな……、あまり、注目されては困る」

 咳を払い、慎重な仕草でクラス内を見渡す。

「昼休みに浮かれて皆がバカ騒ぎしているとはいえ、万一、この話を聞かれでもしたら厄介だからな……」

「……そう、そうね。あまり、騒ぐものでもないしね……」

 人の口に戸はたてられない。

 ならば、最初から興味を逸らすしかない。

 学校の人間は、まだ、浅間兄妹が姿を消した真相を知らない。それを知っているのは、浅間兄妹と直接的な関わりがあった文芸部の人間と、教師陣ぐらいのものだ。

 おそらく、政府から露木の方に情報統制の要請でも入っているのだろう。奴らは自分に不利な状況を作り出したくはないはずだ。今回の件が明るみに出れば、空港建設反対派の声がますます大きくなってしまう。それだけは避けなければならない。絶対に。

(こういうことに関しては動きが速いからな……)

 なら、その機敏な封じ込めを利用させてもらうとしよう。

「……ここからは、黙って聞いて欲しい。家の方でも、咲江が意識不明だと知っているのは、親父とおふくろ、そして、一部の医者や看護婦だけだ」

「わかった」

「ええ……」

 素直に頷く。

 おれとしても、これ以上、事を荒げたくはない。

(あまり情報が錯綜しては面倒だ。浅間兄妹の身に何が起こったのか、せっかくの真実が覆い隠されかねない)

 特に、彼らの身に何が起こったのか、その一部を知る人間が目の前にいるのだから、尚更だ。

「……一回しか言わないから、よく聞いておけよ」

 おれと天宮の真剣な表情から鋼の意志を読み取ったか、露木は覚悟を決めたように、一層、険しい顔つきになる。

「咲江は、今、医院のベッドで眠っている。ただし、予断は許されない状況だ。いつ容態が急変してもおかしくない。あいつらに何があったのかを聞き出すにも、肝心の咲江が意識不明じゃどうしようもない。こればっかりは、天命に任せるしかない」

「……いつ、目が覚めるんだ?」

「わからん。一酸化炭素中毒における昏睡状態と言うのは、持続性意識障害……いわゆる植物状態に近い。運よく生き残ったとしても、重たい後遺症が残る可能性が高いんだ」

「……つまり、意識が快復しても、話ができるのかどうかも怪しいと?」

「そ、そんな……、そんなことって……」

「待て、まだそうと決まったわけじゃない。救助した人間の話によると、咲江は、一酸化炭素の発生源からは離れていたらしい。だからこそ、こうして生き残ったんだ」

 そこでおれは違和感を覚えた。

「誰だ、その……浅間たちを助けた人間ってのは」

「……それが、わからないんだ」

「はあ? どういうことだよ」

 すかさず問い返す。

「すまない、今のは語弊ごへいがあったな。……正確に言うなら、知らされてないんだ。誰が浅間たちを見つけたとか、通報したとか。ひょっとしたら、親父たちも知らないかもしれん。俺が知っているのは、咲江の現状だけだ。悔しいが、それだけなんだ……」

「……なるほど」

 ギリリと歯噛みする露木や、瞳いっぱいに溜めた涙をこらえて表情を歪める天宮をよそに、おれは思考を展開する。

(……倉庫で無理心中を図ったとされる浅間一家を発見し、通報した人間……。警察や救助隊の人間なら知っているということか)

 そいつから、是非とも詳しい事情を聞き出したいところだ。

(これは、今まで以上に広範囲にわたって情報を集める必要があるな)

「……樹生や、ご両親は、もろに一酸化炭素を吸っちまったらしく、救急隊が駆け付けた時にはすでにこと切れていたそうだ。咲江は、練炭の置かれた倉庫の隅からは離れたドア付近にうずくまっていたらしい。だから、一命を取り留めたと……」

「……わかったわ、もう……、もういいわ」

 そこで、天宮がおもむろに席を立った。俯いた彼女からはその表情が窺えなかったが、プルプルと小刻みに震える肩がすべてを物語った。

「……そうか、そうだな……」

 彼女の心境を察したのだろう、露木は、何も言わずに小さく頷いた。

「……おい、昼飯はどうするんだ?」

「……悪いけど、とてもそんな気分にはなれないわ」

 彼女は持参したバスケットを抱えると、そのまま教室を出て行ってしまった。

 おれと露木は、喧騒の只中に取り残される。

 一瞬、天宮のあとを追おうとも考えたが、今はひとりにさせた方がより賢明だと判断し、これを取りやめた。こんがらがった頭を整理させる時間を与えた方が、彼女のためにもなる。

(それに……、露木にはまだ聞きたいことがあるからな)

「……なあ、露木」

「……なんだ?」

「遺書に書かれていた内容についてなんだが……、それは本当なんだな?」

「……俺が、あんな性質の悪い冗談を言うわけないだろ? まさか、芥川じゃあるまいし」

「それもそうなんだが、イマイチ信じられなくてな」

「……気持ちはわかるが、紛う方なき真実だ。さっきも言ったように、直接見たわけじゃないんだが、親父が警察の人間と話しているのを偶然聞いて、それで知ったんだよ。まったく、未だに信じられん。悪い夢でも見ているかのようだ。そうとしか言いようがない。まさかあいつらが自殺するまでに困窮していたなんて……、全然、気が付かなかったからな……」

 ギュッと唇を噛む。

「……俺が、もう少し、あいつらのことを気にかけていれば、もしかしたら、こんなことには……」

 目を逸らし、手のひらをグッと握り締める。

「そんな仮定は無意味だぜ、露木」

「……わかっている。だが、それでも……、そう思わずにはいられないんだよ」

 人一倍正義感の強い露木のことだ。今まで苦楽を共にしてきた部活仲間を失ったことにかなりの責任を感じているのが嫌でもわかった。

 だからこそ、ここはおれが冷静になる必要があった。

 悔しさを滲ませながら膝に手をつく露木に向けて、小さく口を開く。

「他人を思い遣る心意気は立派だと思うが、しかし今は過去に目を向けていられるほど悠長にはしていられないぜ」

「なんだ、それは……どういう意味だ」

 気がたかぶっているのか、鋭くおれを睨み付ける。

 もう何度目かもわからない軽蔑的な視線に臆することなく、おれは続けた。

「……これからおれが言うことを、驚かずに聞けると、約束できるか?」

「……やけに勿体ぶるじゃないか」

「ああ、冗談抜きに、なかなかヘビーな内容だからな」

「……まさか、それこそ冗談だろう? 浅間たちがあんな目に遭う以上に恐ろしいことがあるなんて言うのか?」

「現実ってのは、しばしば思いも寄らないことが起きるもんだ。事実は小説より奇なりとは、よく言ったもんだよ」

「…………」

 おれの強い口調と毅然とした態度から、只ならぬ雰囲気を過敏に感じ取ったか、厳しい面持ちに変わる。

「……聞かせてくれ」

 覚悟を決めた露木に促され、おれは静かに口を開く。

「……十兵衛は、知っているよな?」

「……ああ、孤児院の十兵衛か? 奴がどうかしたのか?」

「…………」

「……まさか」

「その、まさかだよ」

 目は口ほどにものを言う。一切の排した眼差しからおれの言わんとするところを目敏く汲んだ露木は愕然とし、うなだれる。

「嘘だろ……」

「嘘じゃない」

「そんな、ありえない……」

「おれも最初は信じられなかった。だが、悪いことってのは続くもんだ。本当、つくづく嫌になる。泣きっ面に蜂とは笑えない。じつは、昨日、おれはある用があってひとりで教会堂に寄ったんだが、そこでその話を聞いた。一昨日から、十兵衛が帰って来ていないと」

「――誰だ?! 誰から聞いた!? その話を、誰から……!!」

 バッと顔を上げるや否や、猛烈な勢いで詰め寄る。

「……呂久郎って奴だ」

 冷ややかに告げる。

「なに、呂久郎から……?!」

 まさしく掴みかからんとする露木だったが、その名を聞いた途端、ぐらりと姿勢をよろめかせる。

「ああ、彼から色々と話を聞いたよ。十兵衛のことと、それに、尾前町で頻発しているっていう『怪異』についてもな」

「怪異、だと……?」

 彼の表情が驚きから疑いに変わる。

「そうだ、昔からこの町に暮らす露木のことだから、すでに知っているかもしれないが、この尾前町では、住民が突如として行方不明になる事件が起きているらしい。遠い昔から、断続的に」

「………………」

「しかも、彼らは、行方不明になる直前に、例外なく、大天山に立ち寄っているとされる。だから、この怪異は、山に住まう物の怪……『天狗』の仕業と、いつしか人々の間でそう噂されるようになったと」

「………………」

「……十兵衛は、行方不明になる直前、大天山に向かった。おれも、奴から直接そう聞いた。あの時、別れ際に……おれにそう伝えたんだ」

「………………」

「それが証拠に、十兵衛の部屋に、ある書き置きがあったらしい。呂久郎が証言した」

「……そこには、なんて書いてあったんだ」

「……『神様に会いに行く』。紙には、それだけが書かれていたようだ」

 露木は何も言わない。この重たい事実をどうやって受け止めようか四苦八苦している様子がひしひしと伝わる。

 しかし、ゆっくりと嚥下えんげしている暇はない。知らなければならないことは、まだ沢山ある。

「……なあ、妙だと思わないか? ……浅間も、遺書に書き遺していた。『神様に会いに行く』と。そして、彼らは、大天山に向かった。高井戸の話では、どうやらそういうことらしかった。……これらが偶然の一致だと思うか?」

「何が……言いたい?」

「……天狗」

「……なに……」

「……『天狗攫い』。町の人々は、神隠しにも似た怪異に対し、畏怖の念を込めてそう呼称した。未知なる現象に抗う術を持たない昔の人々は、脈絡もなく不気味に訪れる『天狗攫い』をただただ恐れるばかりで、天災のごとくそれが過ぎ去るのを大人しく待つしかなかった。指をくわえて……静観するしかなかった」

「……天狗攫い。……聞いたことがある。いつのことだったか、東が、俺に語ってくれた……。まさか、それが、今になって……」

「そうだ、そのまさかだ。現に、教会堂や孤児院の人たちは、十兵衛が消えたのを『天狗攫い』のせいだと決めつけている、そう思い込んでいる。何の根拠もないのに、ただ、十兵衛が大天山に向かったという、それだけの理由でな。しかも、『天狗攫い』は、過去に何度も起きていると言う。その度に、大人たちは、まるで、失踪そのものを隠ぺいしている。それこそ、さわらぬ神に祟り無しとでも言いたげに」

「そんなことが……あったというのか……」

「スグルさんの話では、『天狗攫い』は神の仕業、おいそれと人が関わるべきではないものであり、被害者に関してもそっとしておくべきとのことだったが、そんなのはまっぴらゴメンだ。目の前で人が消えたってのに、それを黙殺するなど反吐が出る、虫唾が走る」

 彼女を思い、自然と語気が強まる。

「確かに、大した知識を持たない昔の人にとっては、それもひとつの手だっただろう。何も考えず無策に動いては、いたずらに被害が広がるだけだからな。だが、今は違う。科学が発達した……現代だ。すべての結果に対し、何らかの原因がある。とすると、一貫性もまた、潜んでいるはずだ。必然性というのは、可能性と現実性の包含ほうがんだ。つまり、これら一連の騒動には、何らかの事件性が潜んでいる。偶発的なものでも、ましてや、超自然的なものなんかじゃない。何か、彼らを破滅的な行動に駆らせるような、強烈な、何らかの外的要因があるはずだ。そうでないなら、あまりにも上手くできすぎている。そうだとは思わないか?」

「風祭……、お前は、一体……」

「じつを言うと、露木、お前から浅間兄妹の安否について聞く前は、十兵衛と二人の間に接点はないのかもしれないと、そう考えていた。確かに、怪しい点は幾つもある。当然、共通点もある。彼らが行方不明になる直前、大天山に出向いたのが、その最たる例だ。これ以上に特徴的で象徴的な一致点はないだろう。だが、それでも、現時点ではこじつけに過ぎないと、そう捉えていた。しかし、お前の話に出て来たある物が、おれの中の微かな予感を確信に変えた。それは遺書だ。『神様に会いに行く』……。浅間が遺したそれが、おれの仮説の信憑性を底上げしてくれた。つまり、『天狗攫い』とも呼ばれるこれらの怪異は、第三者による作為的なものであるという可能性が、な」

「…………」

「露木、協力してほしい。浅間たちが、なぜ大天山に向かったのか。そこで何があったのか。どうして自殺などしたのか。そして、十兵衛の身に何が起こったのか……どうしても知りたいんだ。少なくとも、その裏に潜む要因の手掛かりだけは炙り出したい。そのためには、お前の協力が必要不可欠なんだ」

「……なぜ、お前はそこまで……」

「人を助けたいという気持ちに理由が要るのか?」

 おれは卑怯な手を使った。こんなことは本心ではない。奴を丸め込むための詐術に過ぎない。

 だが、今はそれが一番効果的だと知っていた。だからそれを用いた。他人の良心に付け込むという、あまりにも古典的で有効的な手を。

 果たして、露木は頷いた。

「……わかった、お前に協力しよう」

 そう言う露木の目からは、何か言いようのないものが黒々と渦巻いていた。

 おれと露木は、一時的に結託することになった。

 利害の一致。十兵衛失踪の真実を知りたい露木と、十兵衛失踪に加え、浅間兄妹が大天山に向かったあと、なぜ自殺を企てたのか、その因果関係を知りたいおれ。

(……何がなんでも、尻尾を掴んでやる)

 貼り付けた作り笑顔の裏で、様々な策を講じていた。

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