第十六話 追跡

 放課後の高校。

 明星がよく訪れると言う場所に向かうべく、いざ鎌倉とばかりに校舎を出ようとした矢先だった。

「あいつは……」

 いがぐり頭の小さな背中が、ふと目に付く。高井戸だ。浅間兄妹が行方不明になってからというもの、どことなく挙動不審の彼が、俯き加減に廊下を歩いている。

(……そういえば、東に用があるとか言っていたか)

 天宮の話によれば、遅れて部室に来た高井戸が東を連れ出したとのことだった。

(……気になるな)

 あとをつけてみるか。

 おれは、とぼとぼと廊下を歩く高井戸の背を追う。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


(……どこに行くつもりだ?)

 高井戸のあとを追っているうち、そんな疑問が頭をよぎる。

 彼はふらふらと彷徨っている。どこへ向かうでもなく、延々と、同じ道を歩き続けている。

 まるで、初めから行き先など決めていないかのように。

「……おい」

 このままでは埒が明かないので、おれの方から声をかけてみた。

 高井戸は身体を小さく跳ねらせ、恐る恐るという感じでこちらに振り返る。

「か、風祭先輩……」

 喉の奥から搾り出したと言わんばかりのかすれた声が、彼の異常さを端的に示す。顔色も悪く、蒼白で、そのせいか唇も紫色に見える。

「どうしたんだよ? 最近のお前、なんだか様子がおかしいぜ」

 とりあえずカマをかけてやる。

「ぼ、ぼくは何も知らないんです……」

 すると、高井戸は、勝手に何かを弁明し出した。両手をブルブルと震わせ、自分は悪くないと必死に表明する。

「知らないって、なんだ、どういうことだよ?」

「だからぼくは、関係ないんですよ……! あれは、浅間先輩が勝手に……!!」

 会話がまったく噛み合わない。意図的にかどうかは知らないが、高井戸は話の要点を口にすることを徹底的に避けていた。

「とにかく、ぼくは、あの件とは無関係なんです……!」

 吐き捨てるように言う。

 その自暴自棄な態度と言動は、これまでの温厚な彼からはおよそ考えられないものだった。

「ぼくは、ぼくは……!」

 目の焦点が合っていない。視線はあてもなく宙を彷徨い、おれではない、別の見えない何かにひどく怯えているようだった。

「とりあえず落ち着けよ。誰も、お前が悪いなんて思ってねーから」

 何があったのかはよくわからないが、ひとまず、乱心の高井戸を宥める。

「ぼくは……、とは……、何も……!」

?」

 ふと口にされた三人称。

 嫌な予感がした。

「おい、それって、まさか……」

 おれは唐突に思い出す。大天山で見たもの。そして、深夜、小屋の中でおれを助けに来た……。

「違う!!」

 の正体を追求する前に、高井戸は絶叫する。静かな廊下に高井戸の否定の言葉が響き渡る。

 普段は大人しい高井戸が見せる凄まじい剣幕に絶句する。

「あ、あ……!」

 その時だった。何が起こったのか、高井戸は突如として目ん玉を思い切りひん剥き、だらりと口を開いて奇妙にうなる。

「お、おい、どうしたんだよ」

 高井戸に詰め寄るが、彼はおれを見ていない。おれの向こうにいる何かを恐怖に染まった表情で凝視している。

「い、あ……、嫌だ、嫌だ……!! 嫌だ嫌だ嫌だ!!」

 うわごとのように繰り返すや否や、くるりと身を反転させ、脱兎のごとく駆け出す。

「あ、おい!」

 引き留める間も無く、高井戸は去ってしまった。

(なんなんだよ、一体……)

 呆然と立ち尽くす。

 静まり返った廊下……。

「……!!」

 そこで誰かの視線を感じた。背後からだ。その事実に気付き、思わず身震いする。

 寒気を感じるほどの凄まじい敵意。まさか、高井戸はおれの後ろにいる『何か』に恐れをなして……?

 おれは即座に振り返る。

「おや、どうされました?」

 おれの後ろ、約1メートル離れた位置に立っていたのは、誰でもない、芥川だった。相変わらず紋切型もんきりがたの微笑を貼り付け、制服の上に白衣を羽織った奇妙な出で立ちで悠然と佇んでいる。

「なんだ……お前か」

 見慣れた人物の登場に、ホッと胸を撫で下ろす。

 そんなおれの様子を目に入れ、芥川は不敵に息を漏らした。

「なんだ、とはご挨拶ですねえ。せっかくこうして巡り合えたというのに」

「気持ち悪いこと言うなよ、鳥肌が立つだろーが」

「それは、感動の対面を果たしたカタルシスのあまり全身が震えるという解釈でよろしいですね?」

「なんでそうなるんだよ」

 誇大解釈にもほどがある。

「それで、どうです、進捗状況は?」

「何の話だ?」

 急に話題を変えて来たので対応に困る。

「とぼけないでくださいよ、この僕ではあるまいし」

「別に、とぼけているわけじゃねーよ」

 ていうか、自分がボケているって自覚はあるのか。

(まったく、やり辛いな……)

 奴の狙いがイマイチ図りかねる。

 そもそもおれはこいつが苦手だ。論点をぼかす飄々とした言動もそうだが、何より嫌なのは、奴のその目……。機械みたいに無機質で、冷たい、おれの思惑のすべてを見透かすような鋭利さが、思考を狂わせる。

「では、あえて愚鈍ぐどんを装うことで僕を試していると?」

「そんなつもりは毛頭ねーよ」

 むしろ、それはお前の方だろう。

「……仕方ありませんねえ、特待生だという割には察しが悪い風祭くんには、僕の口から直接話してあげましょう」

「最初からそうしてくれ」

 本当に面倒くさい男だ。

 口の減らない芥川の厚顔っぷりに辟易へきえきしていると、奴は二、三歩歩み寄り、距離を詰めてくる。

 余裕たっぷりの微笑が、おれの頭上に降ってくる。

「僕はですねえ、他でもない、例の、『神様』とやらについて聞いているんですよ」

「……そのことか」

 ようやく合点がいったと同時に、新たに不審な点も生じた。

「まだ、わからないことだらけだよ」

 どこまで話していいのか判断に困ったが、とりあえず、当たり障りのない情報を伝えておく。

「具体的には、どのくらい進行したんですか?」

 だが、芥川の奴は、おれの警戒心などお構いなしに突っ込んでくる。

「……なぜ、そこまで知りたがる?」

 さすがに問い返さざるを得なかった。

「お前は、神になんか興味がないんじゃなかったのか?」

 詰め寄ると、奴は口元に浮かべた笑みをより一層深める。

「正直なところ、確かにそうです。僕は神にまったく関心はありません。神の存在を証明できないことを知っていますからね」

「なら、どうして――」

「それでも、神に匹敵しうる存在には幾ばくかの興味はありますよ」

「……それは、どういうことだ?」

「神が仮に存在すると仮定するなら、そこには二種類あります。汎神論的はんしんろんてきないわゆる万能の神か、単なる人格神か、いずれかひとつが。ちなみに、あの物理学の天才アインシュタインは、前者の神の存在を信じていたようですよ。なぜなら、物理という万物の法則を支配する者こそが、彼にとっての神ですからね。何物も逆らうことの出来ない完全無欠の絶対者こそ、神の名を冠するに相応しい。そうは思いませんか?」

「それは別にどうでもいいが、結局、お前は何が言いたいんだ?」

「おっと、話が少し脱線してしまいましたね。これは失敬。議論に熱が入るあまり、こうして時たま論理が飛躍するのが僕の悪い癖でして」

「わかった、わかったから、話の腰を折るのはいい加減やめてくれ」

「ええ、ええ、いいでしょう。あなたの指摘はもっともです。では、改めまして、結論から申しますと、この尾前町の人々が神と措定そていした何らかの概念に興味があると、僕が言いたいのはそういうことです」

「…………」

「先にも述べたように、アインシュタインは神を信仰していました。もっとも、彼にとっての神は、あのスピノザが言うような、唯物論的な、すなわち物体の延長たる神ですが。それはまさしく万物の支配者たる存在。すなわち、神即自然。アインシュタインもスピノザも、この世界そのものを神とみなしていたということです。対してキリスト教などの一部宗教は、目に見えないものを信仰します。『人はパンだけで生きるにあらず』と、聖書にもそう書いてある通りに。人の内部にあるものを、彼らは信じます。カント的に言うなら、

「…………」

「では、尾前町はどうでしょう? 彼らにとっての神とは、日本の伝統的な古神道のように、アニミズム的な自然崇拝の産物でしょうか? それとも、あの学問の神である菅原すがわらの道真みちざねのように、人々に災厄をもたらす祟り神を沈める意味での信仰なのでしょうか? あなたもすでに承知のように、尾前町の神とその信仰にはまだまだ謎が多く、疑問が尽きないのが現状でしてね。僕としても、知的好奇心をくすぐられるんですよ。だからぜひとも、風祭くんには、尾前町に隠された秘密に肉迫にくはくして欲しいと、他人行儀ながらも切々と願っているんです」

「相変わらず博識多彩だな。まったく、感服するよ。おれが尾前町の歴史について調べるよりも、お前が直接動いた方がいいんじゃないか?」

 どことなく挑発的な芥川の言動に応じるように皮肉を口にする。

 これに対して、奴は演技っぽく目を見開くと、これまた大袈裟に腕を振るってみせる。

「いえいえ、滅相もありません! 特待生として我が校に編入してきたあなたほどでは……! 所詮、僕の知識など、本から聞きかじった程度の付け焼刃に過ぎないものですから。行動的で実践的な風祭くんの足元には到底及びません」

 皮肉には皮肉で対応する。芥川の奴もなかなか図太い。

 一見すると慇懃いんぎんだが、その実、単に謙虚さを装っているに過ぎない芥川が貼り付けた嘲笑的な微笑。本心が一向に窺えない奴の不気味な表情を前に、不信感より恐怖が先立つ。

 半歩、後ずさる。それは本能的な拒否反応による逃避行動だった。

「ま、おれたちはお互いさまってわけだ。知恵を備えているようでいて、まだまだ未熟という意味では、な」

「おや、そうですか? 僕は風祭くんのことを未熟だと思ったことはないですが、他ならぬあなたがそう言うなら、そうなのかもしれませんね。いやはや、期待の特待生である風祭くんと同格であると、本人からお墨付きを貰えるとは! たかが分校の一生徒でしかない僕としてはあり余る称賛。まさに光栄の極みです」

 随分と口が達者な芥川は、終始、その人を食ったようなペースを乱さず、逆におれを翻弄しにかかる。

「……で、話はそれだけか?」

 さすがに限界だった。これ以上、こいつの御託に付き合ってられない。

 一向に口の減らない芥川との議論に耐えかねたおれは、話を打ち切ろうとする。

 確信していた。おれはこいつには敵わない。

 だから、逃げるしかない。

 こちらの投げた疑問や質問をのらりくらりとかわしては、隙を見て舌鋒ぜっぽう鋭く切り返す。異様なほどに弁が立つ芥川には絶対に太刀打ちできないと、そう判断した上での退散だった。

 だが、奴は、逃げの姿勢に入ったおれの浅い思惑を見透かし、その上で陰険にも待ったをかけるように、スッと人差し指を立てると、不気味に口角をつり上げた。

「いえ、最後に、もうひとつ」

「……なんだ?」

「あなたなら、どちらを選びますか?」

「……どちらとは、どういうことだ?」

 空に浮かぶ雲のように捉えどころのない質問。芥川は尚も不敵に微笑むのみ。

 意味深長な芥川の意図を探ろうと、機械的に作られたその表情を見据えていると、やがて彼は、小さく口を開いた。

「要するに、僕が言いたいのはこういうことです。アインシュタインのように物理法則を神とみなすか、それとも、物理法則とは違う別の何かを信仰するか」

「唯物論か、唯心論か、そのどちらかを選べということか?」

「専門的に言うなら、そうなりますね。くっく、さすが風祭くんは話が早い」

 何がそんなにおもしろいのか、愉快そうに笑う。

 常に何かを嘲るような、屈折した性格の持ち主である奴を横目に、おれは奴の問いの意味を考える。

(……おれが信じる物か)

 今、見えている世界を信じるか、それとも、目に見えない世界を信じるか。

(……意志と現識。奴は以前、そう言ったな)

 意志とは物自体であり。現識とは目に見えて現れる現象そのもの。

(イデア、か……)

 夢。おれの夢に出て来る世界。目には見えないが、しかし、存在する世界。

(何が真実で、何が虚偽なのか……)

 おれは深夜の出来事を思い返す。天狗。天狗だ。奴は突然おれの前に現れた。それも、二度も。

 なぜだ? なぜ、おれは、あんな怪物に目を付けられたのか? あの拉致のこともそうだが、そこもまた引っかかる。天狗といい、『イイヅナ様』といい、どうしておれの前に人外の者が立ちはだかるのか……。

 そう、おれは若干の疑問を覚えていた。迷いと言ってもいい。それは、、という素朴且つ純粋なものだ。ここ最近は特に、おかしなことが自分と周りで起こり過ぎて混乱しきっていた。それこそ、何が本当で、何が嘘なのか、判断に困るほどに。度々見るあの夢も、更なる追い打ちをかけるようにおれを惑わすのだから、始末に負えない。

(事の真相を知るためにも、おれは、『イイヅナ様』の伝承を解き明かさなくてはならないのだろう)

 その予感は、果たして、成就されるのかどうか。今はまだわからない。

 それでも、絶対に果たすべきだということはわかっていた。

(恐怖がないと言えば嘘になる。また、あの夜のような出来事が起こるのではないかと、そう考えるだけで全身が震える。冷や汗が止まらない)

 だが、泣き言を言っている場合ではない。

 絶対に乗り越えなければならない大きな壁。目の前に立ちはだかる障壁の圧倒的な存在感に怖じ気付くことすれ、絶望などしていられない。その壁があまりにも高かろうが何だろうが、体当たりでぶつかってやるまでの話だ。

 打ち崩してやる。壁の向こう側に到達してやる。その先に、おれの追い求める物があるのなら……。

(どんな手を使ってでも、な……)

 考えを整理し終えたおれは、改めて奴と対峙する。まだ完全には迷いを払拭しきれていないおれとは対照的に、すべてを悟ったかのような、穏やかな顔付きでおれを見る芥川。しかし、その冷たい瞳の奥に隠された暗い光には、背筋が粟立つ恐ろしさがあった。それは、地面に開いた深い穴の向こう側を覗き込むのにも似ていた。そう思えるほどに、奴の目からは底知れぬ不気味さが滲み出ていた。

 生気のない瞳に見据えられながら、おれは口を開く。

「……おれは、自分が見て、経験したものを信じるだけだ」

「それは、唯我論と受け取ってよろしいですか?」

「お前がそう言うなら、そうなのかもしれない。ただ、おれが確実に言えることは、おれが実際に見て、聞いたもの、それらに関しては、どんな大層な理論や分厚い文献よりも遥かに信憑性があるってことだ。おれが、おれ自身の存在を、否定できないように、おれは自分が体験したことを否定できない。疑うことはできるが、否定をするのはあくまでも他人の仕事だ。特に、お前のような生粋の懐疑論者のな。おれが行動する理由なんて、おれがおれ自身を信じる、それだけで充分だ」

「ほう、とすると、デカルト的な考えですか。くっく、なるほど、それは面白い。やはりあなたは周囲から天才と持てはやされるだけの地頭の良さがありますよ。他から何の影響も受けずにそこまでの見識に至ったのなら、もう何も恐れるものはないでしょうね。まさにコギト・エルゴ・スム……、『我思う、ゆえに、我在り』というわけですねえ、ふふふ……」

 奴は意味深に言うが、いずれにせよ、そんな口先だけの称賛などおれにはどうでもよかった。

 おれが見る夢、あの光景。そして、あの少女。かつておれと交わした約束を待ち続けている……。

(なら、おれは、それが真実であるよう、行動するだけだ)

 たとえ、あの時のような出来事が再び起きようとも、おれは、歩みを止めてはならない。

 それが、彼女と交わした約束だから……。

「……では、老婆心ろうばしんながら、ひとつ忠告しておきましょう」

「……なんだ?」

 思わせぶりな発言を前に身構える。こいつが言うことにロクなものはないと知っているからだ。

 そんなおれの気持ちを見透かしているのか、奴は変わらず薄っぺらい微笑を浮かべている。

 奴はゆっくりと口を開く。

「たとえ、どんな真実に辿り着こうとも、決して自分を見失わぬよう、強く自分を保つことですね」

 おれは拍子抜けした。両目を瞬かせ、奴を見る。

「……それは、以前にも聞いたが?」

「おや、そうでしたか? まあ、確かにそうかもしれませんね。僕があなたに言えることといえば、せいぜいこれくらいのものですからねえ」

 自嘲っぽくせせら笑う。

 おれは、これまで以上に掴みどころのない怪しい言動を繰り返す芥川の奴を訝しみながら、その不審な動向を冷静に眺めていた。

 すると、おれの視線の高さに合わせるように猫背気味だった奴は急に背筋を正し、何を思ったか、こちらに一歩詰め寄った。

 ――氷のように冷たい目。口元に貼り付けた微笑とは対比的な凍て付いた視線が、冷酷におれを見下ろす。

 奴から向けられる威圧的な眼光に気圧され、おれは半歩後ずさる。

「僕はですねえ、風祭くん。これでもあなたに敬意を表しているつもりなんですよ。なにせ、あなたは尾前町では古くからタブーとされている部分に足を踏み込もうとしているのですから。いえ、もうすでに片足突っ込んでいるのでしょうが、いずれにしても大した度胸です。僕があれほど口酸っぱく警告したのにもかかわらず、あえて神に挑戦するというその気概……、臆病者の僕にはとても真似できません。さすが、我が校きっての傑物けつぶつと評されるだけのことはあります」

 奴はそう言うが、おれには奴の方がよっぽど怪物に思えた。

「……話は終わったな? おれは、もう行くぞ」

 おれは逃げるようにして奴から背を向け、そのまま廊下を歩く。

 奴は追って来ない。引き留めもしない。

 その代わり、奴からの視線を背中に強く感じた。まるで猛獣が獲物の隙を窺うような、そんな気の抜けない嫌な感覚がずっと続いた。

 校舎を出る時、高井戸がどうして突然逃げ出したのか、わかったような気がした。

 本当は、東の方にも用があった。

 だが、今から彼女を探すのは骨が折れそうなので、明日に回すことにした。

(彼女なら、明日、部室に来るだろう……、その時、聞けばいい)

 とにかく、今は、手掛かりがあるものから優先的に潰していく。

(そうじゃないと、さすがにおれの身が持たないしな)

 まだ痛みを放つ背中をさすりながら、次なる目的地に急ぐ。

 

 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「……着いたか」

 学校からバスを乗り継ぎ、降りたバス停から徒歩で片道30分。ようやく例の場所に辿り着いた。

 変わり映えのしない畑地の中に突如として現れる、洋風の建物。前門から見て左に長方形の孤児院、右に二等辺三角形にも似た形状の教会堂が、この田舎町にあって異国情緒的な異質な存在感を誇示する。

「……しかし、まあ、こうして何度も足を運ぶことになるとはな」

 為政者を志すおれとは遠く隔てた場所にあるはずの神聖な領域。少し前まで、一生関わることがないと思っていた。

 だが、おれはここに立っている。開かれた門をくぐり、色とりどりの花が咲き誇る花壇の横を通り、露木の言うところの神の幕屋を前に立っている。

「……らしくねーよな」

 思わず頬を掻く。

 この前まで鈴蘭や露木と一緒だったものだから、こうしてひとりでいると妙な気恥ずかしさが込み上がる。

(本当、場違いだよなあ……)

 改めて実感する。

 だが、石蕗の話によると、現実主義者のおれ以上にこの場とはおよそ似つかわしくない男が、何度も足を延ばしていると言う。

「……とりあえず、シスター辺りにでも話を聞くとするか」

 そんなわけで、おれは敷地の中を適当に徘徊する。

 

 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「……誰もいないな」

 日が落ちかけた教会堂の近辺。大きな鐘が掲げられた塔の周囲をぐるりと回ったところで立ち止まる。

(あの、腕白小僧の十兵衛ぐらい見かけてもいいんだがな)

 なぜか、今日に限って人っ子ひとりいやしない。孤児院の中庭にも、教会堂の辺りにも、人のいる気配がまるで感じられない。以前は嫌と言うほど響いていた子供たちの騒がしい掛け声さえ聞こえない。

(……何かあったのか?)

 静まり返った教会堂と中庭を前に不信感を募らせる。

 どうしたものかと、これからの行動を考えようとしていた時だ。

「……おや、誰かと思えば」

 教会堂の入り口から、ひとりの人物が姿を現す。黒の装束に身を包んだ、小柄な初老の男性だ。

「ええと、確か、あなたは……、銀治郎くんのお友達の……」

「どうも、喜多八さん。ご無沙汰しています」

 ぺこりと頭を下げると、喜多八さんはゆっくりと両手を合わせ、丁寧にお辞儀する。

「よう来なさったな」

 おもてを上げた彼の顔中に広がる穏やかな笑み。まさに聖職者を体現したような喜多八さんの笑顔を目にした途端、おれの中でにわかに募った不安と疑念は一気に消えた。

「本日は、あいにく、職員のほとんどが出払っており、大したおもてなしもできませんが……、本日は、どのようなご用件ですかな?」

 澄み切った青空のように穏やかな表情で尋ねてくる。

 そんな彼に向けてあのことを聞くのは、多少、気が引けるが、これも仕事と、そう割り切るしかない。

「じつは、お伺いしたいことがありまして」

「そうですか、では、何なりとお申し付けくだされ。何も遠慮することはありませんよ。懺悔ざんげ、罪の告白……、ここに訪れる人は何らかの悩みを背負っています。しかし、それも当然のこと。人は、罪を犯す生き物です。なぜなら、人は、生まれた時から、罪を背負っているのですから。その罪を赦すのは、神様を除いて他にありません。だからこそ、神はいつだって私たちを見守ってくださっているのです」

「ああ、いえ、おれが今日ここに来たのは、そのためではなくて……」

 苦笑しながら断ると、喜多八さんは不思議そうな目でおれを見詰めた。

「と、言われますと?」

「おれが聞きたいのは、おれ自身のことじゃなくて、この教会堂に縁のある人物のことでしてね」

「なるほど、そうでしたか。いやはや、これはとんだ早とちりを……」

「いえ、いいんです。おれも紛らわしい言い方をしてしまいました」

 二人して苦笑する。

 が、おれは瞬時に頭を切り替えると、いよいよ本題に切り込むべく、喜多八さんの光る頭髪を厳しく見据える。

「して、私に尋ねたい人物というのは、誰のことでしょうか?」

「ああ……、明星晃介と言うんですが」

「……明星?」

 その名を聞いた喜多八さんの温和な表情が、一瞬、崩れる。

「はい、話によると、彼がよくこの教会堂に訪れているとのことでしたので、それが少し気になりましてね。喜多八さんは、何か、心当たりはありませんか?」

 問い詰めると、喜多八さんは困ったように眉根を下げた。

「……確かに、彼は、よく教会堂に出向いておりますが……」

 おれの質問の意図を図りかねると言った感じで問い返す。

 すかさず、おれは口を開いた。

「なぜ、明星は頻繁に教会堂を訪れるのでしょうか?」

 やや強い口調で尋ねると、喜多八さんは少し悲しそうな顔を浮かべる。

「……それはもちろん、彼が、熱心な教徒だから。……この答えでは納得できませんか?」

 これが嘘だということはすぐにわかった。

「ほう、教会堂の持つ役割を理解しようともせず、頭ごなしに否定し、侮辱し、あまつさえ嘲笑するあの男が、熱狂的な信者だと?」

 一部の人間しか知らないような事実を突き付けると、喜多八さんの表情が一層強張る。

「……どうやら、あなたは、すでにご存知でいらっしゃるようだ」

 喜多八さんの身に纏う雰囲気が変化する。垂れ目がちに緩んだ目元は鋭く尖り、口元も固く真一文字に結ばれる。その印象は、ただの人当たりの良い好々爺こうこうやではなく、笑顔の裏で様々な策略を巡らす手慣れの軍師のような老獪ろうかいさを感じさせた。

「しかし、風祭さん。恐縮ですが、この件については当方の問題ですので、おいそれと部外者の方に話すわけには……」

 声を落とし、顔を伏せ、強引に話を打ち切ろうとする。

 だが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。

「どうしても、話してくれませんか?」

「……申し訳ありませんが……」

「おれが、政府から派遣された人間だとしても、ですか?」

 威圧的に言ってやると、喜多八さんは弾かれたように顔を上げた。

「……それは、どういう意味で……?」

 垂れた瞳を驚愕に見開かせ、おれを見る。

 おれは彼を冷徹に見下ろす。

 下調べはとうに済んだ。下見は終わりだ。もう、何も隠すことはない。

「これは是非とも内密にしてほしいんですがね」

 懐から一枚の名刺を取り出す。

「申し遅れましたが、おれは、こういう者です」

「……特別派遣調査隊……」

 名刺を受け取った喜多八さんは、そこに印字された肩書きを弱々しく読み上げる。

『新国際空港開発予定地特別派遣調査隊隊員風祭周平』。名刺には、そう書かれていた。

「おれがここに来たのは、そういう事情ですよ」

「……そうでしたか、どうりで……」

 彼の表情が曇る。おそらく、おれが純粋な信仰心から教会堂に来ていたのではなく、汚い下心があってのものだというのがわかってしまったからだろう。

 おれは、胸の奥に感じる痛みを押し殺し、喜多八さんの顔色を窺う。

「このような訳ですから、新国際空港開発予定地であるこの教会堂と孤児院の土地に対して不可解な動きを見せる明星晃介のことを是非とも知りたく思いましてね。改めて、お話しのほどよろしいでしょうか? ――?」

「…………」

 小さくうなり、苦しそうに息を吐く。ここまで言えば、さすがの喜多八さんも押し黙るしかないようだ。

 ――宇治喜多八。日中は執事として聖職者の真似事をしているが、実際は孤児院の院長でもある。

 とうに調べはつけた。

 とどめを刺した手応えがあった。

「……わかりました。あなたがそこまで言うのなら」

 観念したように口を開く。

 おれは、心を鬼にして、自分に与えられた職務を全うするのだった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「……そういうことか」

 喜多八さんから話を聞き終えたおれは、ひとり、大きく息を吐く。

 彼はもういない。彼は、明星のことや、それに関連する情報をひと通り話してくれたあと、業務に戻ると言ってやや足早に教会堂の中に入ってしまった。

 今は、昨晩から酷使してきた頭脳と肉体の休息がてら、花壇の隅に腰かけて休んでいるところだ。

 時刻は夕方。もうすぐ、一気に日が落ちる時間帯だ。

(……ひとまず、情報を整理するか)

 あまりのんびりもしていられない。

 悲鳴を上げる身体に鞭打ち、思考を開始する。

 喜多八さんは、おれの浴びせかける質問の数々に嫌な顔ひとつせず、真摯に受け答えてくれた。

 まず初めにおれが聞いたのは、教会堂と孤児院の土地についてだ。喜多八さんは非常に話しにくそうにしつつも、結局は国家権力の圧力には逆らえないのか、頑なに閉ざしていた口を静かに開いた。木田組に所有権があるここの土地は、確かに国へ売却予定であること、土地を売却する以前は木田組が頻繁に脅しに来ていたこと、そして、明星家が木田組を手配したこと。そうした裏事情を包み隠さず話してくれた。

 明星家と木田組の関係についてだが、なぜ、そんなことがわかったかと言うと、あの明星の野郎が、ご丁寧にそう名乗って喜多八さんたちに揺さ振りをかけて来たから、らしい。確かに、町の有力者であり、他とも強い繋がりを持つ明星家が、暴力団にもコネがあることを知らしめるのは脅迫手段としては効果的だが、皮肉にも、この殺し文句が、一連の騒動の裏に奴らが噛んでいると踏む決め手となった。

 問題の明星のことだが、奴は、教会堂と孤児院の人間が変な動きをしないかどうかを視察する監視役だということがわかった。要は、三下さんしたみたいな役割を担っていたようだ。

(……つまり、奴は、捨て駒のひとつだと?)

 少し意外だ。

 確かに、彼は次男坊だと聞いた覚えがある……、長男が銀行を継ぐとすれば、あながちおれの予想も間違っていないか。

(……結局、奴は氷山の一角に過ぎないってことか)

 ちっ、と舌打ちする。

 暴力団の裏には明星が居て、その明星を支えるのは銀行と言うバックボーン。そして、木田組に土地買収を命じたのは銀行で、裏に潜むのは国際空港開発を急ぐ国家に他ならない。

 これが、彼らを取り巻き、支配する、ヒエラルキーの真相だ。

 つまり、おれと、明星は、目のかたきなんかではなく、むしろ味方同士だったということだ。国家に従うという意味では、何の変わりもない。

 導き出された答えは、そんな、皮肉な事実だけだ。

(……だが、少し妙だ)

 明星が教会堂に立ち寄る理由はわかった。それについては異論の余地はない。

 問題は、その頻度だ。視察なんて月に1、2度やればいい方なのに、奴に至っては週に1度は必ず教会堂を訪れている。石蕗から貰った情報や、喜多八さんの話によると、どうやらそういうことらしかった。

(……何のために?)

 土地の買収を命じたのは国だが、それにしても個人的介入が過ぎている気がする。まるで、明星当人が、孤児院と教会堂に執着しているかのように。

(……なぜだ?)

 喜多八さんも、明星のことについては積極的に語ろうとはしなかった。どちらかと言うと、彼を擁護するかのような言動が随所に見受けられた。

(……喜多八さんは、まだ、何かを隠している)

 あの、本音を出し渋るような慎重な態度からも明らかだ。

 それに、喜多八さんは、院長としての業務を全うする傍ら、教会堂の執事という役職に就く人間であるためか、他者を悪しざまに扱わない節がある。

 だが、その控え目で遠慮がちな性格は、必然的に真実を覆い隠す。

(ひょっとしたら、木田組や明星から口止めされている部分もあるのかもしれない)

 可能性としては充分にある。

 だが、まだ裏が取れていない。現時点では憶測でしかない。

 この疑念を明らかにするためにも、明星の方に直接探りを入れないといけないだろう。

 もっとも、最優先なのは、浅間たちの件だ。彼らに明星と木田組は絡んでいるのか。これについても、深く掘り下げる必要がある。

(教会堂と孤児院、明星、木田組……、そして、浅間兄妹……)

 気になることは、まだあった。

 それは、喜多八さんに質問していた時のことだ。


『今日は、随分と子供たちが静かですね』


 話の合間に、喜多八さんにそう尋ねた。

 だが、彼は、おれの質問に対し、何のことやらと首を傾げてみせる。


『いえ、……』


 この答えにちょっとした違和感を覚えたが、この時は、何よりも本題に切り込むのが先決だったので、その疑問は胸の奥に押しとどめた。

(あの時感じた違和感の正体……、それは一体なんなんだろう……)

 どうにも解せない。

(何か、重要なことを忘れている気がする……)

 しばらくのあいだ、頭をひねる。

 しかし、何も思い浮かばない。

 あるのは、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような虚無感と、そこから生じる鈍痛のみ。

 そして思い出されるのは、先ほど、喜多八さんを詰問していた時のこと。

(喜多八さんのおれを見る目……、あの怯えきった目……。必死に許しを乞うような、そんな表情……)

 弱者をいたぶる卑劣な人間の構図。先ほどまでのやり取りは、どこからどう見てもそうとしか言えない。

 これではただの悪党だ。嫌味に権力を振りかざす大悪漢そのものだ――住職との交渉以来の談判に、おれは自分がクズみたいな男だと改めて自覚した。

(明星と同じだな……)

 むしろ、素性を隠して町の人々に接触していた辺り、明星の奴よりよっぽど性質が悪いと言える。

(彼らが寄せる期待と信頼……。おれは、それを平然と裏切らなければならない……)

 喜多八さんも、相当、ショックを受けたはずだ。教会堂に興味を持つ体を装い、あまつさえ孤児院の子供たちとも友好的に接した男が、まさか、土地買収を決行する政府の犬だとは思いもよらなかったに違いない。

 町の人々が愛する自然を、土地を奪う。おれがやっているのは残虐非道な行いそのものだ。

 それなのに、おれは、涼しげな顔をしている。平然としている。胸に僅かな痛みを感じるものの、あたかもそれが自分には無関係だとでも言いたげに、その事実から距離を置く。少なくとも、そう装わなければならない。

(……おれも、だいぶ腑抜けたもんだ)

 今さら、罪悪感に悩まされることになるとは。

(いずれ、慣れるさ……)

 自分に言い聞かせる。

(だが、もし、この痛みに慣れてしまい、感覚が麻痺した時こそ、おれは……)

 脳裏に、ある男の姿が映し出される。そいつは遠くからおれを冷徹に眺めやっている。口元に不敵な微笑を浮かべて、おれが来るのを待っている……。

「…………」

 そこで、おれは現実に目を向ける。見えるのは教会堂。釣り鐘の下がる塔を擁する神聖な建造物は静寂を携え、ひっそりとそびえ立つ。

(神……、もしも、神が本当に存在するなら……)

 裁かれるべき人間は……、救われるべき人間は、一体、誰なんだ……?

 神は何も語らない。ただ、沈黙を守るのみ。

(……『イイヅナ様』……)

 ふと、その名が頭をよぎる。『イイヅナ様』。尾前町の象徴であり、町の守り神でもある神秘の存在。そして何より、おれが追い求めるべき謎の正体……。

(おれは……、あの時の約束を……)

「………………」

 風が吹く。堆肥たいひの混じった独特の土のニオイと、花の芳香がほのかに香る懐かしい風が、おれの頬を撫でる。

(……もう、いい)

 深く考えるのはやめよう。

 頭の切り替えが早いのが、おれの長所だ。

(……帰るか)

 このまま、こうしていても仕方ない。

 これでいいんだ。

 おれは、ここに相応しい人間ではない。

 あらかじめ、わかっていたことだ。

(……悪く思うなよ、露木。おれは、元々、あっち側の人間なんでね)

 言い訳なんて卑怯な真似はしない。おれは、おれの目的を果たす。そのために動くまでの話だ。

 揺れる思いに終止符を打つべく決意を固め、門をくぐる。

「――ちょっと、待ってください」

 突然、背後から引き留められる。若い男の声だ。

 誰だろう? おれは少しためらったあと、振り返る。

「すみません、急に呼び止めてしまって」

 現れたのは、ひとりの青年。男にしては色白で、綺麗に揃えられた黒の頭髪が、教会堂という場所に相応しい清潔感を演出する。鼻筋の通った整えられた容姿と、すらりとした体型の風貌は、どこか良家の子息を思わせた。

 ワイシャツにズボン姿の、見たところ学生と思しき青年は、神妙な表情でおれを見据える。

「失礼ですが、あなたは、以前、露木くんと一緒にいた人ですよね?」

「……ああ、そうだな」

「あなたにお話があります」

「…………」

 こいつは誰か? 頭に浮かぶ疑問は即座に思考全体を覆い尽くす。

「……あまり、時間を取らないのなら、構わないが」

「ご心配には及びません。すぐに済みます」

 眉目秀麗びもくしゅうれい、その表現がよく似合う青年は、言葉少なにそう言うと、くるりと踵を返す。

「ここでは何ですので、教会堂まで」

 振り向きざまに告げる。

 首に下がる、十字架をあしらった首飾りが、きらりと小さな輝きを放った。

 ……何なんだ、一体。

 警戒心を抱きつつも、彼の言うことに従う。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 教会堂の中は厳かな空気に溢れている。ステンドグラスから漏れる西日が、簡素な屋内を煌びやかに装飾していた。

 木製の長椅子に腰を下ろし、謎の青年と隣り合わせの格好となる。

「……まず、何から話せばいいでしょうか」

 青年は思い詰めた表情で虚空を見据える。

 やがて、考えをまとめ終えたのか、ゆっくりとおれの方に向き直った。

「……申し遅れましたが、ぼくは呂久郎ろくろうと言います。以後、お見知りおきを」

「……呂久郎?」

 聞き覚えのある名だった。

「もしかして、お前は……」

 まじまじと彼の表情を見る。

「……おそらく、あなたのお察しの通りです」

 彼は真面目な表情を維持したまま、眉根ひとつ動かさず、真っ直ぐな瞳で尚もおれを直視し続ける。

「――明星呂久郎。それがぼくの名前です」

 やはり、そうか。

「お前が、あの明星晃介の兄ってわけか」

 噂に聞いた、明星の兄。次代の頭取候補と目される相当な実力者。

「…………」

 おれは目の前の呂久郎を見据える。色白で、細身で、端正な顔付き。確かに、銀行家の出と言われれば思わず納得してしまいそうな背格好と外見だが、札付きの不良である奴の兄にしては、それこそ意外と言えるほどに折り目正しい性格の持ち主との印象を受けた。

「……おれは、風祭周平。最近、この尾前町にやって来た転入生だ」

 簡単に自己紹介する。

 だが、呂久郎は、その見目みめの良い顔を僅かに曇らせる。

「……風祭、周平……」

 眉間に寄ったシワが、彼の中に生じた疑問のほどを表現する。

「失礼ですが、さきほどの執事との話の内容から察するに、あなたがただの学生とはとても思えません、何か、特別な事情をお持ちとお見受けします」

 そう言われ、思わずおれは顔をしかめた。

「……盗み聞きとは、趣味が悪いな」

「不可抗力……と言いたいところですが、ぼく自身、お二人の会話に興味を覚えた節は否めません。この場を借りて謝罪させていただきます」

 呂久郎はおれに向かって深々と頭を下げる。

「おい、よせよ……」

 嫌味なほどに真面目くさった態度と所作。呂久郎の突然の行動に脳の処理が追い付かず、逆にこちらが戸惑ってしまう。

「……まあ、いい。もう済んだことだ。顔を上げてくれ」

 たまらず、姿勢を元に戻すように促す。

「呂久郎。お前は、別に、わざわざおれに頭を下げに来たわけじゃないんだろう?」

「……そうですね、あなたの言う通りです」

 ややして彼は顔を上げる。その表情はまったくぶれておらず、彼が一本芯の通った実直な人間だと強く思わせる。

「単刀直入に尋ねます。あなたに、是非とも協力してほしいことがあります。どうか話を聞いていただけませんか」

「その質問に答える前に、まず、おれの問いに答えてもらいたい」

「……それが交換条件というわけですか」

「そうだ。確かに、内容によっては、おれが首を縦に振ることも充分に有り得る。ただ、それも、お前の返答次第で如何様にも変わるだろう。それでも構わないなら、話を聞こうか」

「……いいでしょう。ぼくに異存はありません」

 交渉が成立し、改めて呂久郎と対峙する。

「まず初めに、おれが聞きたいのは、お前は、お前の弟、晃介と、どんな関係か、だ。早い話、奴と同じく、この孤児院と教会堂の土地を首尾よく剥奪するために動いているのか、それとも、何か別の理由があって、お前がこうしてここに立っているのか。そこのところを明らかにしたい」

「……ぼくは、ここの土地に対して、微塵も執着はありません。ぼくに孤児院をどうこうする権限も、ありません。晃介のことも、ぼくには関係ありません」

「なら、どうしてお前はここにいる? 国が介入する土地の上に、なぜお前は立っている?」

「ぼくは、孤児院や教会堂そのものより、そこにいる人たちに用があるから、ここにいるのです。院長やシスターを始めとした職員、そして何より、かけがえのない子供たちを、ぼくは第一に思っていますから」

「……なるほどな」

 こいつは、国の言いなりになるのでもなく、あくまでも、福祉施設に資金援助する明道銀行の立場として物事を見ている。そう判断してもいいだろう。

「じゃあ、お前は、国や、晃介のやり方をどう思っている? ここの人たちを無下に扱う行為を、どう見ているんだ?」

「ぼくに晃介や国を非難する権利はありません。結局、誰かがやらなければいけないことですから」

「お前の弟は、それを承知の上であえて汚れ役を引き受けていると?」

「わかりません。ただ、ぼくが確信をもって言えることは、晃介にも晃介なりの考えがあって行動しているということです。ぼくが、ぼくの自由意志で神にお仕えしているように」

「じゃあ、お前は、身近にいる人間が悪事を働いているとしても、こうして黙殺するというのか?」

「ぼくに、他人の罪をとがめる権限はありません」

「……ほう?」

「聖書にはこんな記述があります。姦淫かんいんの罪を犯した女性が、周りの人々から石を投げられ、非難されていました。そこにイエスが通りがかり、人々に向けてこう言います。『生まれてから一度も罪を犯したことのない者だけが、彼女に石を投げなさい』と。イエスのこの言葉を聞いた人々の中で、彼女に石を投げる者は、もはや、ひとりもいませんでした。

 人は、生まれつき罪を背負っています。しかしながら、神の声を聴くことのできる唯一の器官である良心をも同様に備えています。だからこそ、たとえ人が罪を犯したとしても、神の呼び声とその罪を受け入れることによって改悛かいしゅんすることが可能であり、むしろ、それによって初めて人は神のもとに近付くことができるのです。イエスが、増上慢ぞうじょうまんに陥った人々のすべての罪を引き受けて十字架にかけられ、主なる父のもとに引き渡された後、復活を遂げたように。自らの罪を認め、こうべを垂れてひざまずき、神を受け入れたのならば、

「…………」

 きっぱりと言い切る呂久郎から、得も言われぬ独特の雰囲気が漂う。それは露木と接する時に感じる一種の気高さと似ていた。

「良心、ねえ……」

 相変わらずの抽象的な話に疑問ばかりが募る。

 にわかには信じがたかった。

「じゃあ、聞くが、たとえばお前の弟の晃介のような卑劣な男にも良心があって、その罪を自覚するのみならず、最終的には神に許されることさえも可能であると?」

「もちろんです」

 迷いなく即答する。

「その人が自らの自由意志によって罪を受け入れ、それを償ったならば、すべては許されます。それが、神の御心ですから」

 あまりにも簡単に言ってのけるので、おれは少々面食らった。

 彼の堂々とした立ち姿を前に、なぜだか引け目を感じる。

「……つまり、世間的には絶対に許されないような、あいつのあんな脅迫じみた嫌がらせも、神は認可し、あえて放置していると?」

「そうなりますね。神は慈悲深い御方です。たとえ罪を犯した者であろうとも、その罪を懺悔し、改悛し、善を実践したのならば、神の国にあげられます。聖書のルカ伝にはこう記述されています。『もしも、ひとりの罪人が悔い改めるのなら、悔い改める必要のない99人の正しい人に勝る喜びが天にある』と。すなわち、『汝の敵を愛せ』。普遍的な善とは、そういうものです」

「……ふーん」

 彼の説明を受け、しばし考え込む。

 詳細は不明だが、呂久郎の言うことには妙な説得力があった。まず、目力からして彼は常人とまったく違う。透明で澄み切った瞳。一切の曇りがない、およそ迷いや悩みとは無縁な力強い眼差しには、有無を言わせぬ威力がある。

(……じゃあ、おれのような政府の手先も、神は許すと言うのか……? ……己の罪を自覚し、償ったのなら……)

 なぜか、そんなことを思った。

 我ながら、女々しいと思った。

 だが、逆に、こう言うことができるだろう。

(……法律は、罪を許さない。罪を犯した者は罰せられ、良くて罰金、悪くて刑務所にぶち込まれる。後者に至っては、特に救いようがない。仮に罪人が刑期を終えて社会復帰しようとも、犯した罪が消えることはない。罪人は偏見の目で見られ、人と同列に扱われることはない。まるで、とでも言いたげに、人々はこぞって罪人を糾弾するだろう)

 良心。

 良心か。

 おれがとうに捨てた、弱者に対する哀れみ。言い方を変えれば、それは正義。

(おれに……明星晃介を非難する資格はあるのか? そこに、正義は……あるのか?)

「質問は、以上でしょうか?」

「……ああ、そうだな。色々と聞いて、悪かったな」

 呂久郎の呼びかけで我に返る。

「いえ、構いません。父や、晃介のやっていることを考えれば、当然のことです」

 どこまでも謙虚な態度で応対する呂久郎。おれの浴びせ掛ける意地の悪い質問にも、彼は嫌な顔ひとつせず、真摯に受け答えてくれた。これだけでも、彼が相当な人格者であることが端的に窺える。

 おれは、あの乱暴者の晃介の兄という偏見を抱いて彼と接していた自分を恥じた。

「では、ぼくの方から質問させていただきます」

「……いいぜ」

「……あなたは、この町に古くから噂されている怪現象をご存知でしょうか?」

 彼の口から出たのは奇妙且つ抽象的な問い。

「……怪現象、と言うと?」

 どんな質問が飛び出してくるのかと身構えていたおれだったが、その質問の不可解さに少し拍子抜けしながら問い返す。

「尾前町では、ある噂がまことしやかに囁かれています。それは、ある特定の時期に、という現象についての噂です」

「…………」

 頭の奥に鈍い衝撃が走る。

 直後、強い耳鳴りがした。

「しかも、行方不明になる人物には、全員、ある共通点があります。彼らは、皆、失踪を遂げる直前に、という点です」

「…………」

「大天山に足を運んだ者が、次々と消息を絶つ。そのことから、人々は、これらは山に潜む怪異、天狗の仕業と恐れ、『天狗てんぐさらい』と呼んで後世に伝え残しています」

「……そんなのは、ただの迷信じゃないのか?」

「確かに、天狗の存在の是非に関しては議論の余地が挟めるでしょうが、事実として人が行方不明になっている以上、何らかの秘密が隠されていることには間違いないでしょう」

「まあ、それはそうだろうが……」

 口ではそう言うものの、納得など出来るはずがなかった。

(天狗? 天狗だと?)

 頭の中に、が色濃く蘇る。血塗られたような赤い顔の、恐ろしい形相をしたが。

(まさか、そんなはずは……)

 おれは、自分の内部で脈打つ心臓の鼓動に僅かな痛みを感じつつ、全身に走った動揺の正体を即座に否定した。

「ひとつ、聞きたいことがあるんだが……」

「なんです?」

「……なぜ、お前は。その『天狗攫い』とかいう現象に興味を持った? 何が切っ掛けで、それを知ったんだ?」

 頭に浮かんだ疑問で切り返すと、不意に呂久郎は目を伏せた。

 思い詰めた表情……。

 暗い瞳で虚空を見据えていた呂久郎だったが、やがて、踏ん切りをつけたように重々しく顔を上げた。

「……孤児院の子が、ひとり、行方不明になったからですよ」

「なに……!」

 全身を駆け巡る強い衝撃。

「それは、本当なのか……?!」

 思わず、おれは問いただしていた。

 彼はおれの剣幕に驚くこともなく、冷静に頷く。

「ええ、これは事実です。昨日から、孤児院を出たっきり戻ってこない子がいるんです」

「……露木には、伝えたのか?」

「いえ、まだです。もちろん、必ず伝えるつもりですが、彼は彼で忙しいですからね。特に、実家の診療所の方が……」

「……そうか、そうだな」

 落ち着き払った呂久郎の返答に呼応するように小さく頷く。

 奴の実家である露木診療所には、同じく大天山に向かった矢先に消息を絶ち、翌日になって意識不明の重体の状態で搬送された浅間咲江がいる。あっちはあっちで大変なことになっているであろうことは想像に易い。

「あまり彼にばかり負担させるわけにもいきませんから」

 声を落とし、顔を伏せる。

 そして、再び、おれの方を向いた。

「……ぼくは昔から身体が弱くて、ずっと、診療所にお世話になっていたんです」

「…………」

「もちろん、露木くんにも、相当、迷惑を掛けました。この身体のせいで学校に満足に通うことの出来なかったぼくには、当然、友達もいませんでした。話し相手もなく、常にひとりだったぼくを、彼は随分と気に掛けてくれたんです。彼が居なければ、おそらく、ぼくは、自分の身に襲い掛かる孤独と不安に耐えきれず、晃介のように荒んだ人間になってことことでしょう。彼には感謝してもしきれません」

「……そうか」

 小さく頷き、同意を示す。二人の過去をよく知らないおれには、そうするしかない。

 あいつは、昔からあいつだった。つまりそういうことか。

(……露木、お前は何も迷うことなんてない。お前が医者になろうがなるまいが、お前は何も変わらない。お前は、今も昔も、立派な男だよ)

 それに引き替え、おれは……。

「……しかし、子供がいなくなったにしては、孤児院の方がいやに静かだな」

 気を取り直し、話を続ける。

 孤児院と教会堂は不気味なまでに静まり返っている。まるで、何も起きていないかのように。

 すると、呂久郎は小さく息を吐いた。

「……そういうがあるんですよ」

「決まり?」

「ええ、そうです。『掟』、と言い換えた方が正しいかもしれません」

「それは、どういう意味だ?」

「……これについては、あまり声を大にして言えないんですが……」

「心配するな、おれはこう見えて口の堅い男だ」

「……ええ、わかっています。あなたの誠実な人間性を見込んで、ぼくはあなたにこの話をしているのですから」

 そう言われて、とある疑問が脳裏に浮かんだ。

「……お前の話を聞く前に、もうひとつ、質問があるんだが」

「なんでしょうか」

「……なぜ、おれなんだ?」

 呂久郎はおれの質問の意図が汲めないのか、困ったように難しい顔をする。

 構わずに続けた。

「なぜ、おれなんかにそんな重要な情報を流すんだ? おれはお前と知り合ったばかりだし、それに……」

 ――おれは部外者だ。そう言おうとしたところで、呂久郎が口を開く。

「先ほども言ったでしょう。あなたなら信頼できると、ぼくがそう判断したからです」

「……何を根拠に、そんなことを?」

「あなたは露木くんとお知り合いなのでしょう?」

「まあ、一応は……」

「なら、それだけでも充分に信頼に値します」

「…………」

 おれは何も言い返せなかった。ただ、露木の及ぼす影響力に恐れおののき、驚愕するしかなかった。

「……話を続けてくれ」

 そう口にするので精一杯だった。

「……孤児院の子が、行方不明になった件ですね」

 呂久郎が重々しくつぶやく。

 本題に戻ったはいいが、おれは首を傾げざるを得なかった。

「……しかし、どうにも解せないな。本当に孤児院の誰かがいきなりいなくなったりしたのなら、もっと大騒ぎするもんじゃねーのか? 職員しかり、子供たちしかり、今まで一緒に過ごした子が急に消えるんだからな。さすがに気付かないわけないだろう?」

「それについては職員もよく承知しています。そのための『掟』ですからね」

「つまり、箝口令かんこうれいが布かれるのか?」

「ええ、その認識で構いません。『子供が突然いなくなる』。過去にも同じ事例がいくつもあります。それこそ、尾前町がまだ集落に過ぎない頃から。その度に、このことは絶対に他言無用と、村人は釘を刺されたそうです。いわゆる『物の怪』の類の仕業だから、事を荒立ててはならないと。この習慣が、現代にも続いているというわけです」

「……なるほどな」

 いかにも昔から続く腐った風習ってか。

 納得はできる。理解はしたくないが。

「いなくなった子については、養子に出されたとか、新しい親のもとに引き取られたとか、職員たちはそのように説明をしています」

「なるほど……」

 ここは孤児院。ある日、突然、子供がいなくなったとしても、新たな里親に貰われたと言えば何ら不思議はない。

「そのことについてはよくわかったが……」

「何か、不明な点でも?」

「おれがわからないのは、お前のことだ、呂久郎」

「……ぼく、ですか?」

「そうだ。呂久郎、どうしてお前は、孤児院に課せられた掟をわざわざ破るような真似をする? そもそもの話、お前はどっち側の人間なんだ?」

 晃介と同じ、銀行の回し者か、それとも、孤児院側の人間か。あるいは、そのどちらでもないのか。

 この問いに、呂久郎は考え込むような仕草をした後、すぐに頷き返す。

「……ぼくは、露木くんの味方というだけです」

 きっぱりと言い切った。

「つまり、子供がいなくなった事実を隠ぺいするような人間の味方ではないと、そういうことだな?」

 彼は大きく頷く。

「わかったぜ、呂久郎。お前を信じよう」

「ありがとうございます」

 そこで、彼は初めて笑った。端麗なゆえに彫像のように無機質な表情が、一瞬、和らぎ、僅かながら人間味を覗かせる。

「ところで……、孤児院の子供についてだが……、一体、誰がいなくなったんだ?」

 だが、この質問に、呂久郎の顔がまたも強張る。

「……そうですね、あなたがあの子をご存知かどうかはわかりませんが……」

「構わねーよ、とりあえず、名前だけ聞ければそれでいい」

「わかりました、それではお教えしましょう」

 呂久郎は咳を払い、声の調子を整える。

 おれは全身を耳にして続く言葉を待った。

「……行方不明になったのは、です」

「…………え?」

 一瞬、脳が理解を拒んだ。

 心臓が口から飛び出しそうになる。

「十兵衛くんが、昨日から姿を消したきり戻ってこないのです」

「…………………………」

 目の前が暗転する。

「……どうしました? 何やら、顔色が……」

 呂久郎の声が遥か遠くに聞こえる。

 意識を失い、この場に卒倒しかけるも、どうにか正気を保った。

 ……その後、呂久郎から、事件の詳細を聞いた。昨日から、いつの間にか十兵衛がいなくなっていたこと。まだ戻って来ていないこと。そして、自室に、意味深な書き置きがあったこと。

『神様に会いに行く』。書き置きには、彼の字でそう書かれていたと言う。

 確かに、十兵衛は、別れ際にこう言っていた。『神様にお願い事をしに行く』と。

 それが、大天山に住まうとされる神だったとしたら……。

(十兵衛も、また、怪異に巻き込まれたと言うのか……?)

 浅間兄妹と、十兵衛。そして、おれと中島氏。

(……天狗、『天狗攫い』……)

 この町で、今、何が起きているのか。

 すべては神の祟りなのか。

 天狗は、一体、何者なのか。

 おれは、彼女を、救い出すことが出来るのか……。

 真相は、未だ、闇の中だった。

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