第十五話 追及

 闇の中にいた。

 おれは闇に包まれていた。

 おれは闇そのものと同化していた。


『……約束……』


 闇の中、どこからともなく彼女の声が聞こえる。


『……わたしを、早く……』


 声は自分の内側から聞こえてくる。


『早く……救い出して……』


 声は大きく反響し、おれの内部でガンガンと響き渡る。

(どこだ……、彼女は、どこにいる……) 

 その時、闇の向こう側から誰かの手が伸びる。白く細い手。彼女のものか。おれは咄嗟に手を伸ばそうとした。

 だが、身体が動かない。おれの身体はまるでなまりのように重たく、みじろぎひとつ出来やしなかった。


『早く……、この手を取って……お願い……』


 彼女は懇願する。おれは必死になってもがく。


『約束……約束を……』


 彼女の願いも虚しく、伸ばされたその手をおれは取ることが出来ない。

(なぜだ! どうして動かないんだ!)

 思い通りにならない自分自身に対して激しく苛立つ。だからといって、事態が好転するわけでもないのだが。

 時間ばかりが過ぎていく。

 彼女の手は、おれの方に伸ばされたまま。今もおれの手に引かれるのを待ち続けている。

(くそっ、くそっ……!)

 どうにかしてこの手を伸ばそうと試みる。一回、二回、三回……。何度も、何度も、同じ行動を繰り返す。

 どうしても届かない。彼女はこんなにも近くにいるのに。


『どうして……』


 彼女の手が閉じられる。おれは「あっ」と声を漏らす。


『どうして……わたしを……助けてくれないの……?』



『あなたも……わたしを……見捨てるつもりなの……?』


 ――違う。


『やっぱり……あなたは……』


 彼女の声が恐ろしいものに変化する。懇願は泣き言に。泣き言は恨み言に、悪化の一途を辿る。


『あなたは……あなたじゃない……』


 その手が醜く変形する。白から黒へ。柔から剛へ。腕全体にびっしりと固い鱗のようなものが生え、さきほどまでの天使を思わせる美しさから一転、まるで悪魔のような刺々しさがその手を覆い尽くす。


『……裏切り者』


 それは冷たい言葉だった。首筋に刃物を当てられたような悪寒が全身に回る。


『……裏切り者』


 彼女は、およそ彼女らしからぬ低い声でおれを責め立てる。

 おれは何も出来ない。抵抗さえ出来ない。


『裏切り者、裏切り者、裏切り者、裏切り者、裏切り者、裏切り者、裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者――』


 まるで廃人のように狂った言葉を繰り返す。 

 あの手が迫る。闇よりも黒く変色した悪魔の手が、おれの目の前に――。


「…………い……」

 ……なんだ?

「……ろ……よ」

 闇の奥から、誰かの声が聞こえる。

「……い…………に……」

 声は次第に大きくなる。

「…………て……の……か」

 声が鮮明になるにつれて、目の前にまで迫った黒い手がどんどん遠ざかっていく。

 おれは何かを思い出しそうになる。

(どこだ……、おれは……、どこにいる……?)

 我を取り戻したように、おれが思考し始めた時だった。闇の世界はその様相を一変させた。

 壁の塗装がボロボロと剥がれ落ちるように、闇の空間から一筋の光が射し込む。

 身体を支配する、金縛りにも似た圧迫感はたちまち消える。意識は急速に落下し、一気に下降するにつれ、漏れた光が放射状に広がっていく。

 光がおれを照らす。そして全身を刺し貫く。

 まぶしすぎる強い光は、おれさえも掻き消す勢いで空間全体を塗り替え――。


 ――おれは、どこかから聞こえる声に導かれ、目を覚ました。


「むぅっ……」

 うっすらと開けた目をくらませる、強い日の光。うつぶせ状態でいるこのおれを、強烈な陽光が照らし出す。

 一瞬、ここがどこだかわからなかった。

「……ようやくお目覚めか?」

 ふと耳にしたその言葉に強烈な既知を感じたおれは、一気に意識が覚醒した。

 辺りを見渡す。見慣れた教室の中。複数の生徒が輪を作り、思い思いに談笑している。

「どうした? まだ寝ぼけているのか?」

 隣の席の露木が、半ば呆れたように笑う。

「もう、とっくに昼休みだぞ」

 言われて初めて、おれが授業中にずっと居眠りしていたことに気付いた。

(……夢、か)

 全身から込み上げる脱力感。

 まさに泥のように眠っていた。

 小屋から家に戻ってからの記憶がない。どうやって学校に来たのかさえも、一切覚えていなかった。

「まったく、大した御身分だな」

 溜め息まじりに言われた。

「噂の特待生ともなると、こんな一般生徒が受けるような普通の授業じゃ退屈で仕方ないってわけだ」

 随分な皮肉だった。

「別に、そんなんじゃねーよ」

 眠気まなこをこすり、反論する。

「ただ……」

 頬杖をつく露木の方に向き直り、文句を言いかけるも、あえなく口をつぐむ。

「……ただ、何だよ?」

「………………」

 事情を説明しようとしたところで、おれは不意に考え込む。昨夜の出来事を唐突に思い出したからだ。それこそ夜空に轟く雷鳴のごとく、静寂の中で突然に訪れた衝撃だった。一瞬、目の前が白み、続けてあの時の光景が鮮明に映し出される。

 ……忘れもしない。忘れられるはずがない。あの、悪夢のような現実を――。

「おかしな奴だな、急に黙り込んだりして」

 いきなり無言になったおれを怪しみ、怪訝そうに眉をひそめる。

「……なんだか顔色が悪いようだが?」

 ぶっきらぼうな露木にしては珍しく、直球に尋ねる。それくらい、おれの体調が悪そうに見えるのだろう。

 そして、奴が目敏く見透かした通り、おれの気分が優れないというのは、紛れもない事実だった。

(……どうする? 露木にどう説明すればいい? ……下宿先の親戚の家に開かずの土蔵があって、そこに隠されたとんでもない秘密を暴こうとした結果、夜な夜な聞こえる謎の不気味な声の真相に気が付き、気絶し、目が覚めたら、小屋の中で四肢を拘束されていて、謎の男に詰問きつもんされた挙句、なぜか天狗に助けられた、と?)

 さすがに躊躇せざるを得なかった。どこをどう取っても、頭の悪い冗談としか思えない内容だったからだ。

(……まったく、おかしな話だ。これだけでも非現実的な話なのに、その上、もれなく中島氏の死体付きだ。こんなこと、誰も信じられんだろうさ!)

 現に、おれも、あれが夢だと言われれば納得してしまいそうになる。そうじゃなければ、あまりにも狂っている。

(だが……あれは現実だ)

 未だに残る背中の痛みが、それを証明する。

(……しかし、あれが本当だからと言って、昨夜のことを露木に話すことは出来ない)

 もちろん、これには正当な理由がある。男は言った。昨晩のことは誰にも口外するなと。

(最初は警察に通報しようとも考えたが、結局、取りやめた。今後のことを想像するとあまり得策ではなかったからだ。おれはどうなっても構わないが、おれの周囲の人間に危害が及ぶのは避けなければならない。そうなっては、もう、収拾がつかなくなる)

 男の言いなりになるのは癪だったが、ここは従うしかない。

(本当は、こうして呑気に学校に来ている場合じゃないんだけどな……)

 しかし、そうは言っても、まったくの無意味というわけじゃない。

 調べたいことがあった。

「……おい、風祭……」

(そうだ……、おれにはやるべきことがある……。あの男はおれに脅しをかけたが、そうは問屋が卸さない。絶対に暴いてやる。……『イイヅナ様』の伝説を、おれが……)

「……おい、大丈夫か?」

 そこで、露木が心配そうに顔を覗き込んでいるのに気付いた。

「へ? 何がだ?」

 目をパチクリさせて尋ねる。

「いや……、さっきからずっと、だんまりだったもんだからよ」

「ああ……」

 言われてようやく思い出した。

(そういや、こいつにどうやって昨晩の経緯を話そうかどうかを考えていたんだっけ)

「……本当に、大丈夫なのか?」

 もはや心配を通り越し、不審者を見るような憐憫れんびんの眼差しでおれをジッと見据える。

「いやあ……」

 とりあえず愛想笑いでこの場を誤魔化そうと画策した時だ。

「なーにを仲睦まじそうに話しているの?」

 笑顔で横から割り込んできたのは、文芸部の副部長である天宮琴音。おれたちと同じクラスということもあり、遠慮なしに突っかかってくる。

(まあ、こいつの場合、そういう関係性もお構いなしに、何かに興味が湧きし次第、所構わず首を突っ込んできそうだが)

 面の皮の厚さに定評がある天宮なら、恥も外見もないだろうし。

「二人してコソコソと話しちゃってさー、内緒話ならあたしも混ぜてよ」

「なに馬鹿なこと言ってんだ」

 天宮がちょっかいを出すや否や、露木は見るからに表情を歪ませる。

「百歩譲って俺たちが内緒話をしてたとして、部外者のお前を話の輪に入れると思うか?」

「なによ、ケチね。あたしとあんたたちの仲じゃないの」

「どんな仲だよ。ただのクラスメイトじゃねえか」

「ノンノン、違う違う」

 ちっちっちと指を振るう。あの芥川の真似だろうか。

「あたしは文芸部の副部長。あんたは、ただの部員。つまり、あたしの下僕げぼくってわけ。下僕の秘密を共有するのは、主人として当然の権利でしょ?」

「はあ?!」

 素っ頓狂な露木の悲鳴が教室の中に響き渡る。

「いきなり何を言い出すのかと思えば……、馬鹿も休み休み言えよ」

 天宮の独善的な言い分に呆れ返ったように、やれやれと肩をすくめる。

「大体だな、お前は自分勝手すぎるんだよ。少しは相手の気持ちも考えろ。俺が入部を決めた時もだ、半ば無理やり入部届にサインさせて……」

「あら、そんなこといつまで根に持ってるの? 相変わらず心の狭い男ねー。余裕がない男は嫌われるわよ?」

「勝手に言ってろ」

 ちっ、と舌打ちする

「誰かさんみたいに図々しい女は、誰にもまともに相手されないだろうからな」

「あら、言うわね? 未だに小説の一本も書き上げられない甲斐性なしのクセして、随分と強気ですこと」

「……っち」

 痛いところを突かれて戦意をそがれたのか、露木は天宮から視線を外す。

(ふーん、露木は、まだ、小説を仕上げたことがないのか)

 ちょっと意外だな。

(おれですら、父の命令で小論文をいくつか書いた経験があるのにな)

 とはいえ、それとは勝手が違うか。

「小説と言えば、シューヘイもよ」

「え、おれ?」

 話の矛先がこちらに向き、思わず自分を指さす。

「そうよ、期末試験までに小説でも詩でも俳句でも何でもいから、一本の作品を完成させること! もうすぐ締め切りが迫ってるんだからね」

「えぇー……」

「えー、じゃないの! あたしと約束したでしょ!」

 約束、ねえ……。

(そういや、そんな約束したような気も……)

 ここ最近色々なことが起きすぎて、もはや忘却の彼方にあった。

(はっきり言って、今はそれどころじゃねーからな)

 おれは考えるのを諦めた。

「……で、何の用だ?」

 露木の方も、これ以上の反抗は自分の首を絞めるだけと悟ったか、少々バツが悪そうにしながらも、仕切り直しとばかりに尋ねる。

「わざわざ俺たちに向かって余計な茶々を入れて来たってことは、何か用があるんだろ?」

「んー、そうね。あんたの予想は当たらずとも遠からずってところかしら」

「なにがだよ」

「確かにあたしはあんたたちに用があるわ。でも、別に用なんかなくたって、あたしはあんたたちに話しかける。それが仲間ってものでしょ?」

 得意気に笑って見せる天宮を前に、露木は盛大に溜め息をつく。

「はぁ~、まったく、面倒な女だな」

「そんなこと、古今東西からわかりきっていることでしょ。大人しく観念なさい」

「うわ、こいつ開き直りやがったぜ」

「こりゃ、何を言っても無駄だな。諦めろ露木」

「さあさあ、一緒にご飯食べるわよ」

 あからさまに難色を示す露木やおれのことなどお構いなしに、天宮は自分の席を近付け、図々しく中央付近に陣取る。

「ほら、シューヘイも何をボーっとしてるのよ。早くご飯食べましょ。もう、お腹の皮と背中の皮がくっつきそうなんだから」

「へ、よく言うぜ」

 露木はおもむろに席を立つと、棚の中に押し込んだカバンの中からごそごそと弁当箱を取り出す。

 なんだかんだ言いながら、付き合いの良い奴である。

「おい風祭、早いところ飯食って、こんな苦行はさっさと終わらせるぞ」

 悪態をきつつも、殊勝に席に着く。

 広げた風呂敷の上に置かれた大きな四角い弁当箱。蓋をパカッと開くと、満遍無く白米が敷き詰められ、その中央にひとつの梅干しが乗せられた弁当が姿を現す。端に寄せられた黄金色の卵焼きが、否応なしに食欲をそそる。

「あんたはいつも通り日の丸弁当ね。見た目は悪くはないけど、面白味に欠けるのが難点かしら。あと、食材のバランスも一方に偏り過ぎているわね。仮にも医者の息子なんだから、もうちょっと健康にも気を配って欲しいわ。これも減点対象ね。……うーん、総合的に見て、なんとも評価に困るのが正直なところね」

 急に弁当の品評会が開始される。

「うっせーな、なに食べようが人の勝手だろ」

 待望の昼ご飯を酷評され、苦々しく突っねる。

「親父もおふくろも仕事で忙しいんだから、あまり手の込んだものは作れねえんだよ」

(ま、そりゃそうだろうな。いくら親と言っても、そこまで子供の面倒は見れないだろうし)

「あの状況じゃ、俺が弁当を用意せざるを得ないんだよ」

 そこで、おれの身体は前のめりになった。

「え、これ、お前が作ったのか?!」

 思わず弁当と露木を見比べた。

「なんだよ、その顔は。俺が料理するのが意外だとでも言いたいのか?」

 むすっとした表情でおれを睨む。

「まあ、そりゃ、なあ……」

 曖昧な言葉でこの場を濁す。

 言えない。料理という家庭的な行為が、お前の顔と性格に、まったく似つかわしくないって。

 だが、おれの微妙な反応が、露木に悪い心証を与えたか、奴は浮かべたしかめっ面をますます歪めた。

「ったく、随分な言いぐさじゃねえか」

 ふて腐れたように溜め息をつく。

 そんな露木の不機嫌な様子を見て、天宮が小さく笑う。

「シューヘイが驚くのも無理はないわよ。なにせ、ギンジってば、この見た目だからね~」

「おい、それはどういう意味だ」

「あら、わからない? 言葉通りの意味よ」

「……っち、相変わらず口の減らない女だ」

 付き合ってられん、と、呆れたようにこぼすと、露木は周囲の目など気にせず、がつがつと日の丸弁当をかきこみ始める。

「シューヘイは? なに食べるの?」

 グッと、おれの方に顔を寄せる。女性特有の良い香りが、鼻につく。

「別にそんな身を乗り出して見なくても……、おれも露木と似たようなもんだぞ」

 おれが取り出したのは、重箱みたいな豪勢な弁当箱に入れられたおにぎり三つと、なんだかよくわからない茶色の煮物だった。

「下宿先の叔母さんが作ってくれたものなんだけど、まあ、大体、いつもこんな感じだな」

 農作業で忙しい合間を縫って、毎朝、お弁当を用意してくれるのだけでもありがたい。

 そんな、愛情たっぷり込められたおれの弁当を見るや否や、天宮は聞こえよがしに溜め息をついた。

「なーんだ、つまんないの。てっきり、華の都会人らしく、本の中でしか見たこともないような横文字だらけの洋食を食べるものだと思ってたわ」

「だからそれは偏見だって。いくらなんでも旧華族じゃあるまいし、そこまで食う物は変わらねーよ」

 ここが都会ならまだしも、近くに小さな商店しかないような田舎なんだから、周りと似たり寄ったりの昼飯になるのは当然だろーが。

「そういう天宮はどうなんだよ、そこまでおれたちの昼飯を扱き下ろすんなら、さぞかし豪勢な昼食なんだろうな?」

「そうだそうだ、散々、人の昼飯にケチつけやがって。これでお前の弁当が俺並みか、もしくはそれ以下だったとしたら、おもっくそコケにしたあと、腹を抱えて盛大に笑ってやるよ」

(露木……、お前、自分の弁当が最底辺だという自覚はあるんだな……)

 露木は好戦的にほくそ笑むが、そこには多大なる自嘲が含まれていた。

 奴の強気な姿勢が、逆に哀れだった。

「ふふん、あたしのお弁当を見て腰抜かすんじゃないわよ」

 勝ち誇ったようにせせら笑うと、見るも軽やかな手付きで、持参したピンクの花柄の包みを机の上に置く。

 そして、満を持して包みの封を解いた。

 現れるのは、長方形のバスケット。綺麗に結われた網目模様が美しい。

「じゃーん、どうよ。お洒落でしょ? いかにもあたしらしい上品な装いだと思わない?」

「ふん、問題は外見じゃねえ、中身だよ、中身。風祭の弁当だって、箱の見てくれだけは一丁前だったからな」

(ほっとけ)

「仕方ないわねえ、本当は、ギンジみたいなガサツで粗暴な男相手に、あたしの特性お弁当を披露したくはないんだけどね」

(なんだ、そりゃ。つまり、おれには見せてもいいってことか?)

「御託はいい、とっとと蓋を開けやがれ」

「そんなに急かさなくても、今、開けてやるわよ……ほら」

 天宮はバスケットの蓋を開く。おれの視線と意識は、開かれたバスケットの中に注がれる。

 そこに収まっていたのは……。

「……サンドウィッチ?」

 おれと露木の声が重なる。

 バスケットの中に収まっていたのは、数切れのサンドウィッチだった。野菜の緑やトマトの赤などといった、色とりどりの具材が挟まれた、オーソドックスなものだ。

「……そんな程度で足りるのか?」

 露木の口から漏れたのは、サンドウィッチの見た目よりも、その量に関する疑問だった。

「ちょっと! レディに対してデリカシーがないわね!」

 おれたちの困惑した様子が見え見えだったからだろう、天宮はぷくーっと頬を膨らませ、勢いよく噛みついてきた。

 腰を抜かすと言うよりは、拍子抜けだった。

 なんと言うか、こう、天真爛漫てんしんらんまんな天宮の印象にそぐわない。

「けっ、お前がレディっていう柄かよ……」

 露木もおれと同じ感想を抱いたのか、呆れ果てたように肩をすくめる。

「ていうか、お前、これまでいつも握り飯ばっかりだったじゃねえか。それも、形が不揃いで、その上、異様に大きな、いかにも手作り感満載の……」

「こら! なんてこと言うのよ!」

 バシッと、勢いよく露木の上腕二頭筋を叩く。しかもグーで。

「いてえな! いきなり何すんだよ!」

「悪いのはあんたの方でしょ! 言っていいことと悪いことの区別もつかないのかしら?!」

「はあ?! なにわけわかんねえこと言ってるんだ?」

「もう信じらんない! この無神経! 甲斐性なし! 朴念仁ぼくねんじんの天狗野郎!」

「言わせておけば……」

 湯水のように浴びせられる罵声に露木の奴はピクピクと頬を引きつらせ、握り拳をプルプルと震わせる。

「……なるほど、わかったぞ」

 だが、不意に何かに勘付いたのか、にやりとほくそ笑む。

「……なによ。なにがわかったって言うのよ」

 不気味に笑う露木を前にたじろぐ天宮。そこに、いつもの勝気な姿はない。

「天宮、お前、まさかとは思うが……、風祭の前だからって見栄張ってるんじゃねえだろうな?」

「うっ……」

 ピクリと身体を跳ねらせ、その身を硬直させる。

「まさか、図星か?」

 半信半疑の露木の指摘は、思いのほか効果的だったようだ。天宮はその顔を僅かに紅潮させると、ぷいっとそっぽを向いてしまう。

「ふ、ふん。別に、どうだっていいでしょ」

 おれの方にちらちらと横目で視線を送りながら言うものだから、説得力がない。

(ふーん、天宮が、おれにねえ……)

 彼女に何の裏もなければ、好意的に受け取りたいところだが……。

「……まあ、いいわ。そんな無骨な日の丸弁当しか作れないギンジには、あたしの繊細な乙女心が理解できなくて当然だもの」

「へいへい、わかったよ。そういうことにしておいてやるよ」

 もはや聞く耳持たずという感じで、露木は自慢の日の丸弁当をかきこむ。

 露木の勝ち逃げだった。

「……ふん」

 露木から距離を取るように、グイッと、おれの方にバスケットを寄せる。

「…………」

 目を逸らしつつも、天宮はおれの反応を窺うように、時折、視線を送る。

 まだ少し彼女の表情は赤い。それが怒りから来るものなのか、照れているからなのかは、よくわからなかった。

「……どうよ、シューヘイ。あたしの特性お弁当は? お洒落でかわいいでしょ」

「まあ、うん、そうだな」

 下手に扱うと後が怖いので、にこーっと、愛想笑いで受け答える。

「なによ、なんだか歯切れが悪いわね」

「いや、そんなことねーよ。……うん、天宮らしくていいと思うぞ」

 そう言ってやると、ふくれっ面だった天宮の表情は見る間に一変し、まるで子供のように無邪気な笑顔を浮かべるのだった。

「ふふ、そうでしょ、そうでしょ? さすが、シューヘイはどこぞの甲斐性なしと違って話がわかるわね」

「っけ、一生言ってろ」

 もうすでに日の丸弁当の3分の2を食い終わっている露木が苦々しく言って、この場はひとまず収束した。

 あの運命の夜から一夜明けた、昼下がりの教室。おれの不安を余所に、時間は賑やかに過ぎていった。

 それこそ、昨晩の出来事が嘘のように思えるほどに……。

 だが……、現実は容赦なくおれの前に立ちはだかる。

 午後。気合いを入れ直して授業に臨もうとした矢先、出鼻を挫く出来事があった。担任の石蕗つわぶきが、ひそかにおれに耳打ちしたのだ。『昨日から行方不明だった3年C組の浅間樹生が、町はずれにある工場の倉庫内で遺体となって発見された。同じく行方不明だった1年A組の浅間咲江も、意識不明の重体で町の診療所に搬送された』と。

 大勢の生徒で賑わう昼休み。騒然とする教室。

 おれは、ひとり、和気あいあいとする空間から切り離され、取り残されたように立ち尽くしていた。

 ――午後の授業も、まったく頭に入らなかった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「……まさか、こんなことになるとはな」

 静まり返った部室の中。誰に言うでもなく心境を吐露する。

 浅間樹生と咲江が行方不明になってから、一日が経った。

 結果、事態は最悪の一途を辿った。

 露木は、実家でもある診療所に咲江が搬送されたと聞き、部活を放り出して真っ先に帰宅した。

 今のところ、浅間兄妹の容体を知っているのは、生徒ではおれと露木の二人だけ。

(父も、浅間兄妹失踪の件は上手く揉み消せと命令していたからな……)

 学校側としても、不用意に情報を流して騒ぎを大きくしたくないのだろう。だから石蕗が、信頼できる人間――おれと露木――にだけ真相を伝えた。

(なるほど、賢明な判断だ)

 咲江の搬送先が自分の住む診療所である露木はともかく、政府から派遣されたおれは口が堅いと見越しての発言だろうが、確かにそれは正しい。

(国側も、今後の国際戦略に必要不可欠な土地に事件が起きたとなれば、何が何でも事態の鎮静化に動く。もちろん、騒動が明るみに出ないよう、水面下での作業になるわけだが)

 要するに、事が大きくなる前に秘密裏に処理しろと、そういうことだ。 

「今日も、タッちゃんとサッちゃんの姿がないわね……」

 何も知らない天宮は、空席の目立つ部室で落胆の溜め息を吐く。

 柄にもなく、胸が痛んだ。

「一体、何があったのかしら……」

 さすがの天宮も二人の安否が気になるのか、部活そっちのけで思考に耽っている様子だ。そこに、いつものやかましさはない。

 なんだか、逆に調子が狂ってしまいそうだ。

「こら、お前たち、何をたるでいるんだ」

 珍しく部室に顔を出した顧問の石蕗が、意識ここにあらずの部員たちを一喝する。

「せっかく部室に足を運んでいるんだ、真面目に部活動に取り組んだらどうだ」

「そうは言うけどさ、ブッキー。二日連続でタッちゃんもサッちゃんもいないんじゃ、張り合いが出ないわよ」

「わがまま言うな、それでも文芸部副部長か。あと、ブッキーはやめろ。仮にも教師と生徒の間柄なんだからな」

 漫才じみたやり取りも、どこか虚しさが先行する。

 ちなみに、芥川と高井戸は何か用でもあるのか、部室に彼らの姿はなかった。

 お通夜のような空気が漂う中、東の奴だけが相変わらず澄ました表情で本を嗜んでいる。

(見事なまでにバラバラだな……)

 まるで足並みの揃わない部員たちを目にし、おれは軽い頭痛を覚える。

(まあ、おれが気にする必要はないんだが)

 本来、彼らとはほとんど関係がないわけだし。

(どうも毒されているな)

 いかん、いかん。

 おれがこんな調子だから、父に叱咤されるんだ。

(しっかりしないと……)

 首を振って気合いを入れ直す。

 昨晩の疲労はあまり抜けていないが、ここが正念場だ。

「先生」

 おれは石蕗を見据える。

「お話があります」

「なんだ、言ってみろ」

「……明星について、尋ねたいことがあるのですが」

「…………」

 この言葉と神妙な態度から、おれの意図するところを過敏に察したか、石蕗は重たい腰を上げる。

「ここではなんだ、廊下で話そう」

 不愛想ながらも気の利く石蕗は、粋な提案をして部室を出た。

 おれもそのあとを追う。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「やれやれ、こんなことになるとはな」

 おれと同じ感想を、石蕗も抱いていたようだ。後頭部をぼりぼりと掻きむしり、小さく溜め息を吐く。

「先生は何かご存知なんですか?」

 試しに尋ねてみるが、石蕗は力なく首を左右に振るだけだった。

「いや、残念だが、私も詳しいことは知らない。学校側にはあまり情報が入ってきていないんだ。浅間兄妹の担任にも話を聞いてみたが、彼らも浅間兄妹やそのご家族から何も連絡が入っていないと言っていた」

「……そうですか」

 とすると、やはり、二人の行動をよく知る人物に聞くのが一番か。

「彼らが失踪する前、何か不審な点とかありましたか?」

「ふむ、強いて言うなら、浅間樹生の素行が日に日に悪くなっていったところだろうか。あの反抗的な態度もそうだが、平気で授業に遅刻するようになったうえ、無断欠席もざらだった。以前はそんなことはなかったんだが」

「へえ……」

「……浅間樹生がああなったのには、やはり、明星の影響があるのかもしれないな」

「と、言いますと?」

「ふむ……」

 石蕗はやや言いにくそうにしつつも、やがて静かに口を開いた。

「……この際、お前にはすべてを話した方がいいのかもしれないな」

 それは諦めか、信頼か。何かに疲れ切ったような石蕗の目の色からは、その真意は窺えない。

「浅間樹生は、それまでほとんど付き合いのなかった明星と、急につるみ始めたんだ。この1年の間でな。当時は皆、驚いたものだ。あの優等生の浅間が、あの札付きのワルと連れ立っているんだからな」

「なるほど、そうだったんですか」

 それにしても、浅間樹生が優等生ねえ……。

 昨日のやさぐれた感じからは、あまり想像できないな。

「家業である工場の経営が危ないとの話は耳にしたことはあるが、ひょっとしたら、それが明星と行動を共にし始めた原因かもしれない」

「…………」

 それはおれも思った。明星と浅間は、最初から接点が完全になかったわけじゃない。なぜなら、浅間の父が経営する浅間建設、その親会社である神田製鉄は、明星の生家である明道銀行から多少の融資を受けていたからだ。神田製鉄が不況のあおりを受けて潰れかけていた時には、すでにメインバンクは手を引いていただろうから、明道銀行が頼みの綱だった可能性が高い。とすると、必然的に、明星と浅間のあいだには繋がりが生じる。主人と家畜という主従関係が。

 もちろん、今の時点ではまだ推測にすぎないが、何やらのっぴきならぬ事情が隠されていそうなのは確実だった。

「となると、明星が、浅間の弱味に付け込んで、自分たちの仲間になるように強要したと?」

「その可能性はある。浅間としても、わらにも縋りたい心境だったんだろう。追い詰められた人間がどんな行動に出るのかと言えば、総じて破滅的なものと決まっているからな。……それはそうと、明星がよからぬグループとつるんでいるという話は覚えているか?」

「ええ、例の反社会的組織ですよね?」

「ああ、そうだ。確か、明星の背後についているのは、暁光会ぎょうこうかい系列の木田組という組織らしい」

「……木田組、ですか」

 本当に厄介な相手だ。

(それに、暁光会と言えば、主に関東圏で幅を利かせる暴力団だ。戦前、戦中、戦後と、常に裏社会の勢力図の中心にある巨大な反社会的組織で、特に、戦中、戦後の日本が貧しい時期は、闇市を開催するなどして秘密裏に麻薬などを売りさばく一方、自治体代わりの役割を担い、町の治安維持に貢献したと言う。その経緯もあってか、警察との癒着も多分にあったとされている。そんな暁光会は、結成当時から現在にかけて、在日朝鮮人やその二世の多くが構成員の過半数を占めており、彼らはアジア人種という特性を活かし、チャイニーズマフィアと手を組んで麻薬カルテルを作っては、麻薬の寡占的な輸出入のみならず、時にはそれらの経路を使ってはいりや人身売買なども行っているとされている)

「なるほど、確かに、彼らが浅間兄妹の件に関わっているとしたら、国を揺るがす一大事になりかねませんね」

「察しが良いな。まさに風祭の言う通り、懸念すべきは本当に暴力団が裏で手を引いているかどうかだ。こうなると、もう、我々では手出しできないし、対処のしようもない」

「確かにそうですね。しかも、もっと悪いことに、相手が木田組のような暴力団のみならず、海外マフィアとも繋がっていたとしたら、それこそ本当にお手上げですよ。下手すれば国際問題に発展しかねませんからね。事に当たるのも警察から公安部に変わりますし、では事態の鎮静化を図るのはおろか、全体像を把握するのさえ無理があります」

 そう、彼らでは不可能だ。たかが進学校の分校でしかない学校側が反社会的組織を相手取るなど、あまりにも向こう見ず過ぎる。もし、無謀にも学校側の人間が暴力団の背後に近付こうものなら、金と血のニオイを嗅ぎわける優れた嗅覚によってすぐさま正体を見破られ、身柄を捕縛され、何のためらいもなく存在を抹消される。戸籍すらも綺麗さっぱりなくなるだろう。奴らがその気になれば、その人がかつて存在していたという痕跡すら残らないよう、跡形もなく始末される。

(……だが、例外はある)

 おれは自分の肩書きを再確認する。特派員。それは、政府公認の調査員であることを意味する。少なくとも、調査対象である尾前町に関係する事柄なら何でも調べられる。おれにはその権限がある。

(だから、石蕗は、最初からおれに助けを求めていたのか。明星の行動を探り、その裏に隠された真相を暴けと)

 あの時、石蕗に言われた言葉を思い出す。

(……だが、その願いも虚しく、事件は起きてしまった。ご丁寧に、明星の差し金かもしれないという嫌な可能性を残して)

 浅間兄妹が失踪する直前の出来事だ。浅間樹生は、東に向かってこう言った。『明星から、『イイヅナ様』のことを聞いた』と。

(……そう、『イイヅナ様』。逃れようとも逃れられない、東の言葉を借りるなら、このおれと浅からず『縁起』を結んでしまった、神と呼ばれる存在……。なぜか、幾度となく、おれの前に立ちはだかる……)

 明星が浅間兄妹の一件に一枚噛んでいるのは確実だろうが、それよりも気になるのは『イイヅナ様』だ。

 なぜかと言うと、浅間樹生と咲江、そして、おれと、中島氏には、ある共通点があるからだ。それは、皆、『イイヅナ様』について調べようと動いていたという点に他ならない。

(浅間兄妹は、おそらく明星にそそのかされて『イイヅナ様』に近付こうとした。理由は不明だが、彼らの行動の裏に金銭的な問題が潜んでいるとしたら、ありえない話ではない。中島氏は、雑誌の記事を書き上げるために『イイヅナ様』の伝説を調査していた。おれもまた、浅間たちと同じように、『イイヅナ様』について知ろうとした。……そして、皆、例に洩れず、悲惨と言うのも生ぬるい悲劇的な末路を辿っていた。……偶然だろうか? それにしては、

 多くの謎と恐ろしい禁忌に満ちた『イイヅナ様』に端を発する、数々の事件と、何者かの陰謀。

(なんだ? この町で一体何が起きている?)

 まさか、小屋でおれを拉致したあの男は、暁光会系列の暴力団の構成員なのか? もしそうだとして、なぜ、暴力団が『イイヅナ様』と綿密に繋がっているのか? 違うのなら違うとして、誰がこのような惨劇を指揮し、演じると言うのか……。

(……ひとまず落ち着こう。頭を整理するんだ)

 とりあえず、明星の足取りを追う。

 話はそれからだ。

「先生、明星は、普段、どういった行動を取っているのか、わかりますか?」

「校内及び学区内の範囲に限られるが、それでもいいのならすぐにでも洗い出すが」

「構いません。今は少しでも手掛かりが欲しいですから」

 石蕗から明星に関する情報を仕入れ、今後、自分がどう動くべきかを模索する。

 だが、これだけでは心もとない。

(……やはり、東にも色々と聞いた方がいいか)

 この道は避けては通れない。『イイヅナ様』の鍵を握るのは、他ならぬ彼女だからだ。

 石蕗は、明星の足取りについて調べるために一旦職員室に向かった。

 おれは、ひとり、部室へと戻る。

「……東、お前に尋ねたいことがある」

 出し抜けに言った。

 ……が、返事がない。

「……タクちゃんなら、アッちゃんに連れられてどっか行っちゃったわよ」

 不在だという東に代わって、天宮が気だるげに返事する。

「……そうか」

 いつの間に入れ違ったんだろう? 

(仕方ない、おれもしらみつぶしに探すとするか……)

「はあ……」

 きびすを返したおれを引き留めるような、大きな溜め息。

 気になって振り返ると、机の上に寝そべっている天宮のだらしのない姿が目に入る。

 いつもの活気がない。

 日中の猫みたいにぐったりとする彼女は、おれの視線に気が付くと、上目遣いにこちらを見る。

「……シューヘイ、あんたもどこかに行っちゃうの?」

「ん、ああ――」

 そうだ、と、答えようとした時だ。

 不意に気付いた。

 この部室には、彼女しかいないことに。

「あんたまで……あたしを置いてっちゃうの?」

 それは本気か、冗談か。

 返答に困る問いを、彼女はおれに投げかける。

「なんだ、一人ぼっちは寂しいってか?」

「別に……、そんなんじゃないけど」

 素っ気なく答える。

 この返答が単なる強がりだというのは、ふと逸らされた彼女の視線からもすぐにわかった。

(まったく、昼休みの時に威勢よく絡んで来たかと思えば、その数時間後には今みたいに意気消沈する。笑ったり、怒ったり、寂しそうにしていたり、強がって見せたり……忙しい奴だな)

 こういった気性の激しさは、やはりどこか猫を思わせる。扱いにくいことこの上ない。

 そして、机の上で頬杖をつき、ふて腐れた表情でそっぽを向く天宮は、随分とご機嫌斜めのようだ。

「…………」

 ……どうにもやりづらいな。

 重たい沈黙が室内を支配する。校庭から運動部の掛け声が聞こえるくらいに静かな部室は、昨日までの賑やかさからは想像できないほどに息苦しかった。

 不自然な無言が続く。

 天宮は尚もへそを曲げている。まるで、この状況が気に食わないと態度で表現しているかのように微動だにしない。

 普段はあれほど騒がしいお転婆娘も、やはり、女の子。孤独が生み出す不安な静けさには耐えられないのだろう。

(あの、『超』がつくほどの明朗快活さは、彼女の寂しがり屋な一面の裏返しということか)

 ふと見せる天宮のしおらしさに、少し、ほんの少しだけ胸が痛む。

(……確かに、らしくないな)

 思わず自嘲する。

 どうやら、おれは、おれが思っている以上にほだされてしまったらしい。

 奴らの、友情ごっこに。

(ちょっとだけ、付き合ってやるか)

 我ながら酔狂だ。これでは父に一喝されても仕方ない。

 それでも、彼女を無視して自分のことを優先させるなんて、とても、できなかった。

 天宮は、一枚の紙切れをぼんやりとした目で眺めている。

「なんだ、それは」

 おれは天宮のそばにまで歩み寄る。

 天宮はそのままの状態でいる。

「……お守り」

 ちょっと迷うような素振りを見せたあと、そう答えた。

「お守り?」

「そ、お守り」

 半身を起こし、背筋を正す。

「あたしが小さい頃から大事にしてる、お守りよ」

「へえ」

 こうした問答を続けているあいだも、天宮は一心にお守りを見詰めている。

 彼女の言う『お守り』がどんなものなのかひと目見てやろうと、ひょいと身を乗り出した時だ。

「ダメ、見せてあげない」

 おれの行動を妨害するように、机の上の紙切れを胸に抱える。

「なんだよ、別に、いいじゃねーか。減るもんでもないし」

「ダメったらダメ」

「どうして」

「どうしても」

 拒否する言葉の割に、彼女の表情はどこか楽しげだった。

「……あたしさ、一人っ子なのよ」

 そして、唐突に、自身の身の上を語り始めた。おれではなく、また、部室のどこでもない、どこか遠くを見詰めながら。

 おれは、黙っていた。否定も肯定もせず、ただ、彼女の声に耳を傾けていた。

 彼女の顔付きも、少し寂しげな笑顔から神妙なものに変化する。

「あたしね、お父さんがジャーナリストでさ、ずっと、家に帰ってきてないの。お母さんは、家系を支えるために日夜問わず忙しくしててさ。そんな生活が、小っちゃい頃から、ずっと続いてるの」

「そうか」

 小さく答える。

 天宮の表情は穏やかだった。しかし、その仮面の奥に人知れない悲しさが隠されているのは想像に易い。

「――おれも、似たようなものかな」

 だから、そう言った。

 天宮は驚いた表情でおれを見る。

「そうなの?」

「ああ、おれの父は公務員でね、朝は早くに家を出て、夜は遅くに帰って来る。典型的なビジネスマンって奴だよ。母も、父のサポートに全面的に回っているから、まともに子育ての時間が割けなかったらしくてね。だから、幼少期、あまり構ってもらった記憶が無いんだ。多分、二人にとっては、おれなんかは社会生活のオマケみたいなものなんだろうよ」

「それは言い過ぎよ。親が子供を放っておくはずないわ。親には親なりの考えがちゃんとあるはずよ。……もちろん、例外もあるんだろうけど……、それでも、そこに何か事情が隠されているのは変わらないわ。現に、あんたは、特待生って言う凄いところまで成長出来たんだから、きっと、親御さんはあんたを無下に扱ってはいないはずよ。……多分。確信はないけど、……でも、断言はできるわ」

「ああ、そうだな」

 なぜかおれの両親を弁護する天宮をおかしく思いながら、おれは彼女の心中を掌握したことを確信した。

「きっと、天宮のところも、同じだろうな」

 ハッとしたように彼女はおれを見る。おれはニヤッと笑ってやる。

「あんた、あたしをはめたわね?」

 じろりとおれを睨む。

「さあ、何のことだ?」

 おれは素知らぬていを装う。

「……ふーん、やるじゃないの。あたしを口車に乗せるなんてさ」

 いつものような憎まれ口。

 彼女の口元が嬉しそうに緩んだのを、おれは見逃さなかった。

「やっぱり……」

 ふと視線を逸らす。

「やっぱり、同じ……なのかもね」

 誰でもない、自分に言い聞かせるように、彼女はそっとつぶやいた。

「? 何の話だ?」

 彼女は問いに答えない。

 静かな沈黙。

 天宮は、思わせぶりな微笑を浮かべるのみ。

「……あたしね……」

 やがて、その口を開いた。

「あたしね、あんたをひと目見た時から、自分に近いものを感じたのよね。今だって、そう。……ううん、むしろ、前よりもっとそう感じてる」

「それは、どうしてだ?」

「なんかさ……、あたしと、シューヘイって、似てるって、そう思ったんだ」

 少し恥ずかしそうに胸中を漏らす。

「似てる? おれと、天宮が?」

 これまた意外な告白に、さすがのおれも動揺した。

「そ、似てる。あんたとあたしが」

 おれと天宮を交互に指さし、自信たっぷりに即答する。

「ここってさ、結構、田舎だし、横の繋がりが強いじゃない? だから、よそ者のあたしは、ちょっとばかし肩身が狭かったのよ。だから、とにかく、周りには負けないように、出来るだけ気合いを入れて色々なことに体当たりで挑戦してきた。……それが逆効果だったと気付いたのは、すぐよ。入学早々、嫌な連中に目を付けられてね……、そうよ、あの時のことを、あたしは忘れはしないわ」

「……そうか」

 悔しそうに唇を噛む天宮。おれは多くを尋ねなかった。

 天宮のことだ。喋りたくないことは絶対に喋らないだろうし、逆に、喋りたいことは包み隠さず喋る。

 彼女はそういう奴だ。

(確かに、こいつの場合、日頃の勝気な言動も相まって、相当目立つしな。周囲から浮くのは無理からぬことだろう)

「それでも、タクちゃんや、タッちゃん、そしてギンジやリョーイチたちと共に、なんとかやって来たわ。一緒に文芸部に入って、共に夢を語り合って……。奴らの嫌がらせにも負けずに、ようやく、ここまで来たのよ」

「…………」

「そんな時、あんたが編入してきた。しかも、あたしと同じように、編入初日に嫌なヤツに目を付けられてさ。ほんと、びっくりしたわ。今思い出しても不思議な感じよ」

「…………」

 彼女の意味深な視線と含み笑いで、確信した。

(天宮の言う、嫌な奴ってのは、やはり……)

「そう……、あんたは、ヤツに決して物怖じしなかった。それどころか、真っ向から立ち向かった。……その時、思ったの。あんたは、あたしと同じだって。似た者同士なんだって」

 そこまで言い終えると、天宮は小さく息をついた。その表情はやけにすっきりしていた。今まで背負っていた肩の荷を下ろしたからか、どこか清々しささえ感じさせた。

「……ひとつ、聞いてもいいか」

「なに?」

「天宮は、ここの出身じゃないのか?」

「ええ、そうよ。あたしは地方の出だけど、さすがにここみたいな田舎じゃないわ。かといって、シューヘイの住んでるような都会とも全然違うけどね」

 からからと笑う。

 もう、先ほどまでの陰鬱さは、影の形もなかった。

「あー、なんだかいっぱい話しちゃったわねー」

 うーんと伸びをする。

 そして、おれを見た。

「……ありがとね、シューヘイ。ちょっと、気が楽になったわ」

「礼には及ばねーよ。天宮の言葉を借りるわけじゃねーけど、おれたちは『仲間』、そうだろ?」

「……そっか、そうね、ふふ」

 ふと漏らされる無邪気な微笑み。おれもつられて笑い返す。

「……こんなこと話したのは、あんたが初めてなんだからね」

「へえ、そいつは光栄だね」

「なによ、余裕ぶっちゃって。都会の人間ってのは女の扱いに慣れているのかしら?」

「そんなわけでもねーよ。強いて理由を言うなら、おれも、お前と同じさ」

「なにそれ、どういうこと?」

「わからねーか?」

 おれは不敵に微笑んだ。

「お前が話しやすい相手だった。ただ、それだけだよ」

「……ふふ、そうね。お互い様ね」

 おれたちは、しばらく笑い合っていた。

「お守り……」

「え?」

「いつか、あんたに、教える日が来るかもしれないわね」

 彼女の浮かべた笑顔は、窓から射す陽光に照らされ、いつも以上に輝いて見えた。

「だって、あんたは……似てるんだもの。あの時の男の子に……」

 笑顔の裏に秘められた影に、おれは気が付かなかった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 ……おれには、やるべきことが残されている。それも、沢山。

 部室から出たおれは、職員室前の廊下で石蕗と合流し、明星の足取りについての報告を受ける。

 おれの耳に驚くべき情報が入って来た。

 まさか……、あいつが……。

 次に向かうべき場所が決定した瞬間だった。

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