第十四話 拉致

(……ん……)

 ――暗闇の中で目が覚めた。

 目を開けても、辺りは闇に覆われていた。

(なんだ……?)

 何度か両目をしばたかせるが、一向に視界が晴れることはない。

(……おかしい)

 状況を確かめようと、身動きを取ろうとした時だった。

(……っぐ!)

 背中を中心に鋭い痛みが走る。まるで強い電撃を浴びたかのように、全身がびりびりと震えた。

(くそ、どうなってやがる……!)

 寝起きの頭は痛みで即座に覚醒する。

 だが、肝心のことがまったくわからなかった。

 どうにかして情報を得ようと身を捩じらせるが、まともに動くことさえままならない。

(何なんだ一体……!)

 何かを考えなければならないのに、何を考えればいいのか、皆目かいもく、見当もつかない。

(くそ、動け……! )

 気ばかりが焦る中、不意に気付く。

 

 それに、身動きが取れないのは、何も、全身を刺し貫く痛みのせいじゃない。

 問題は、もっと外的なところにあった。

(……これは……!)

 愕然とした。

 強制的に椅子のようなものに座らされているおれの身体は、ひもか縄みたいな拘束具で縛られていた。両手は後ろ手に回され、何か、柱のような物に括り付けられている。

 足も同様に、足首の部分に固いひも状のものがしっかりと巻き付かれていた。

(どうなってるんだ……!?)

 そして感じる、目の周りから後頭部にかけての違和感。

 布状の物体で目隠しをされていると気付くのに、そう時間は掛からなかった。

(何が……、何が起きている……?!)

 ますます混乱度合いが加速する。

(これは……、これは……)

 ――夢、悪い夢。

 そう思いたかった。

 だが、これは紛れもない現実。

 焼けるような全身の痛みが、逃避に走ろうとするおれの意識を容赦なく引き戻す。

 あまりにも異常過ぎる事態。

 冷静さを取り戻そうとすればするほど、ますます気が狂いそうになる。

(うっ……)

 段々と、痛覚に慣れて来た頃だ。周囲に漂う異臭に気付いたのは。

 まるで腐った卵をそのまま床にぶちまけたような、鼻の粘膜を溶かしかねない刺激臭が辺りに漂っている。

 胃の中の内容物を吐瀉としゃしかねない、むせ返るような環境下……。

「……おい」

(――!!)

 おれの心臓は数センチほど跳ね上がった。頭上から、どすの利いた低い声が注がれたからだ。

 脳天を貫き、射抜く、突然の衝撃に対応できず、背筋に大きな震えが走る。

 同時に、吐き気を催す悪臭にまじって、どこか嗅いだ覚えのあるニオイが鼻をついた。

(これは……、タバコのニオイ……?)

「その様子からすると、ようやくお目覚めみたいだな」

 野太い男の声。くぐもったその響きから、感情の起伏はほとんど感じられない。

(誰だ……?!)

 反射的に身構えるが、四肢を拘束された状態では抵抗の意志などまったく意味を成さない。

 おれは完全なる無防備だった。

「おっと、妙な真似はするなよ? ……お前が下手に動けばどうなるか、わかるよな?」

 心理的拘束をも狙ってか、大胆不敵且つ巧妙に牽制する。

「もっとも、そんなふうに身体を縛り付けられては、文字通り、手も足も出ないだろうが」

 嘲るような言動だが、口調は恐ろしいまでに淡々としていた。

 背筋が凍る。

 この男は誰なのか? 何が目的で、おれをこんなふうに縛り上げ、拘束したのか?

 何も、わからなかった。

「――私の質問に答えろ。イエスか、ノーか、どちらかひとつだ。いいな?」

 有無を言わさず、男は冷徹に告げる。

 おれに拒否権などあるはずがなかった。

「まずはひとつ目。……私の質問に対し、一切の誤魔化しや、姑息な沈黙をせずに、素直に応じられると誓うか?」

「……イエス」

 そう答えるしかない。

「よろしい、では、次の質問だ。……お前は、自分が置かれている状況をちゃんと理解しているか?」

「……ノー」

 これも、嘘偽りじゃない。

 奴の言う通り、おれが、なぜ、こんな目に遭っているのか、その原因もわからなければ、現在進行形で降り掛かる理不尽な仕打ちを未だに受け入れることができなかった。

 すべてが、悪夢のようだった。

「……ふむ」

 何かを確認するように短く息を吐く。現状を把握できないおれとは対照的に、男はやけに冷静だ。

(一体、何者なんだ……)

 やっとの思いで開始される詮索は、しかし、雑音まじりの思考回路に阻まれる。

(おれはこれからどうなるんだ? そもそも、ここはどこだ? どうしておれがこんな目に遭わなければならないんだ? おれに、おれに――何があったんだ? ……そうだ、思い出さなければ……。あの時、おれに……、何が……。

 ……いや、待て。違う。今は、それどころじゃない。落ち着け。落ち着くんだ。どうやってこの状況から脱することができるのかを考えなければ。すべてはそれからだ。どうにか、どうにか……しなければ)

 こんな、取り留めもない考えばかりが一瞬のうちに浮かび上がっては、シャボン玉のようにはじけて消える。

「では、三つ目の質問だ」

 男の冷徹な声が、悲嘆に暮れる時間はおろか、思考にふける暇さえ与えない。

 徐々に血の気が引いていく。

 痛みによる息苦しさと焦りから来る動悸で、気が遠くなりそうだった。

「――?」

「……!」

 核心を突く質問。遠のきかけた意識が、再びおれの中に戻される。

「……イエス」

 おれはゆっくりと頷く。

「……なるほどな」

 納得するようなつぶやき。

 逆に、おれの方は、相変わらず意味がわからなかった。

「確かに、そのようだ」

 言葉少なにそれだけを言い残すと、男は、おれから少し距離を取ったのか、今まで耳元付近に感じていた気配が薄まる。

 だからと言って、全身に回った緊張感が治まるわけでもないのだが。

「……お前は、昨夜のことを覚えているか?」

 威圧的な問い掛けが、またもおれの精神を蝕む。

(昨夜……?)

 真っ暗な視界の中、必死に考える。

(昨夜、おれは……)

 割れるような頭痛と背中の痛みが述懐を阻害するが、それでも、懸命に頭を振り絞る。

 ……深夜の蔵屋敷家、離れへと続く廊下……、そして、鬱蒼と生い茂る草木に囲まれた、不気味な沈黙を保つ、例の蔵……。

(そうだ……)

 ようやく思い出した。おれの身に、何が起こったのか。

(おれは、あの時、蔵に侵入しようと木に登って、それで……)

 背中を起点とする激痛に顔を歪めたところで、おれは悟る。

(……木の上から、落っこちたのか……)

 元を辿れば、そこに行き着く。

(っち、まずったぜ……)

 おれとしたことが、少し、向こう見ず過ぎたか……?

 だが、後悔などしている場合じゃない。

 おれは今の状況の異質さを再確認する。

 蔵に侵入しようとして気に登ったまでは良いが、手元が狂って落下した。そこまではわかった。

(……じゃあ、なぜ、おれはこうして両手両足を縛られ、身柄を拘束されているんだ?)

 そこがわからなかった。

 まさか、この男が、木の上から落ちたおれを発見し、助け出したとでもいうのか?

 それにしては、少々、手荒な真似が過ぎる。何も、ここまでしなくてもいはずだ。

 どうにも解せない。肝心かんじんかなめの部分がすっかり闇に覆われてしまっている。

 と、曖昧な記憶を手繰り寄せている時だった。


 ――ドゴォッ!


「ぐっ……!?」

 目の前で火花が散るのと同時、下腹部に強烈な痛みが走る。

「……沈黙はご法度はっとだと、先に伝えたはずだが?」

 胃が潰れたんじゃないかと思うほどの激痛に意識が途切れそうになる中、男が、しびれを切らしたように冷たく告げる。

「これは最後通告だ。次は無いと思え」

 感情が希薄の声色に、おれは心底、恐怖した。

 ……こいつは、この男は、何の躊躇ためらいもなく、おれの腹を殴打したのだ。それも、思い切り。

 苦痛に顔が歪み、額に脂汗が滲む。

 込み上げる胃の内容物を懸命にこらえながら、どうにかして正気を保つ。

「……イエス」

 息が詰まり、絶え絶えに答える。

「それは、今の警告に対する答えか? それとも、先程の質問に対する答えか? 前者ならノー、後者ならイエスと答えろ」

「……イエス」

「……よろしい」

 男は満足げに息を吐くと、さらに言葉を続ける。

「なら、お前がどのような罪を犯したのかも理解しているな?」

「…………」

 さすがに即答できなかった。男が突然言い放った『罪』という言葉に強烈な違和感を覚える。

(……罪? 罪だと?)

 奴が何を言っているのか、理解に苦しんだ。

(おれが一体、何をしたって言うんだ?)

 おれは、おれは、ただ……。

(『イイヅナ様』の、伝説を……)

「…………!」

 焼け付くような痛みによって朦朧もうろうとする意識は、突如、覚醒した。まさに目が覚める思いだった。

(こいつ……、まさか……)

 予感はすぐに確信へと変わる。

(蔵に隠されている『イイヅナ様』の秘密を探ろうとした、このおれを……)

 ありえない話ではない。逆に、そう考えれば辻褄が合う。

(とすれば、こいつの目的は……)

 ――口封じ。

 そうとしか考えられなかった。

「この期に及んでだんまりか?」

 男は尚も冷酷に回答を急かす。

「……イエス」

 震える声で答える。

「それは、己の罪を自覚しているという認識でいいのか?」

「……イエス」

 再度、答える。

「……いいだろう」

 

 ――ジャリッ


 足下の砂利を踏みしめる、乾いた音が鳴り響く。

 直後、男の気配が一層強くなる。

「――お前は罪を犯した。何人も触れること叶わぬ神聖な領域に、恐れ多くも足を踏み入れようとした」

 呪詛めいた怨念の込められた言葉を耳元で囁かれ、おれの全身は総毛立った。

「これは罰だ。犯した罪に対応する、当然の処罰だ」

 身の毛もよだつ冷たい声色で傲然と言い放ち、男はおれから離れる。

 だが、心臓を鷲掴みにされたような衝撃は、しばらくの間、おれを放そうとはしなかった。

「……頭を冷やすことだ。そして反省しろ。己の、その、思い上がった性根を叩き直すためにも」

 男は、これまで感情をほとんどあらわにしなかったが、この警告に関しては例外だった。言葉の節々からは静かな怒りを感じさせ、その声の響きだけで人を恐怖のどん底にまで突き落としかねない。それだけの威力があった。

 おれは無言で頷くしかない。

「……この先も無事に生き残りたいのであれば、余計な真似を極力控えることだ。この世界には、知らない方が幸せなことが沢山ある。お前だって、別に、のようになりたくはないだろう?」

(あの者……?)

 そいつは……誰だ?

「今夜起こったことは多言無用だ。誰にも話してはならない。そして、お前も、自分が見て、聞いた、これまでのことはすべて忘れろ。それがお前のためだ。さもなければ、私は、お前を、今度こそ――」


 ――殺す。


 男は、確かにそう言った。おれは、男が酷薄に殺害予告をした瞬間、自分が死んだのかと錯覚した。それくらい、男の言葉は明確な殺意を帯びていた。


 ――カチャ、キィッ……


 男は、扉か何かの施錠を解いたのか、小さくも甲高い物音が耳に届く。

 

 ――バタン


 次に聞こえるのは、扉が閉まる乾いた音。無慈悲に外界との通路は経たれる。

 それ以降、男の気配は消えた。

 おれの心臓の鼓動や呼吸の音以外、完全な無音となる。

 周囲に沈黙が広がるのと反比例するように、胸を押し潰す閉塞感がすぐそこにまで迫ってくる。

(おれは……、これから、どうなるんだ……)

 まるで死刑宣告を待つ被告人の気分だった。

 肥大化した恐怖は不安に変わり、ただ無様に居尽くすしかないおれを容赦なく埋め尽くしていった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 ――あれから、どれくらいの時間が経過したのだろうか。

 正確な時刻はわからなかった。

 喉が渇く。

 ガンガンと耳鳴りがする。

 背中は火傷した時のように熱を帯びている。

 だが、幸か不幸か、時間が経つにつれて徐々に感覚は麻痺し、自分が本当に怪我を負っているのかという実感が薄れていく。

 同時に、おれは、おれがわからなくなってきていた。

 視界は塞がれ、四肢は固く拘束されている。

 自分を確認する術は、断続的に発せられる痺れるような痛みと、絶え間ない苦しみのみ。

 これで感覚を狂わせるなと言うのは無理がある。

 無力だった。

 どうしようもなかった。

 声を出して助けを呼ぼうにも、あの男がすぐそこに潜んでいるのではないかと思うと、とても実行する気になれなかった。

 何も、成す術はなかった。

 ……それでも、ひとつだけ、わかったことがあった。

 あの土蔵の中……、おれは、そこに一体何があるのかを、回らない頭を懸命に動かし、推察していた。

 おれの推理は、こうだ。

 あの土蔵には、『イイヅナ様』が、いる。

 間違いない。

 とはいえ、その『イイヅナ様』は、無論、神として崇め奉られる不可知な存在ではない。そういった存在が現実に存在することは絶対にありえない。

 あの中に居るのは、『イイヅナ様』を模倣した、……ただの、人間。

 つまり、人身御供ひとみごくう――生贄だ。

 図書室の資料にも記述があったが、尾前町のような長い歴史を持つ地域には、少年少女を依代よりしろとして神を憑依させ、神と同一視するという、人道もへったくれもない因習が、いまだに根強く残っているとのことだった。

 おれは、夢の中に出て来た少女の姿を思い浮かべる。大勢の大人たちに囲まれて、いずこかへと連れ去られる、あの後姿を……。

 おれは、徐々に見えなくなっていく少女の小さな背中を、遠巻きに眺めるしかなかった。

 見殺しにしたのも同然だ。

 そして、神である『イイヅナ様』でさえも、少女を救えなかった。

 ……少女は、今も、あの狭く暗い蔵の中に閉じ込められている。

 夜間に響くあの遠吠えも、『イイヅナ様』となった少女が発しているものだとしたら……。

 全身に悪寒が走る。

 そんな惨たらしいことが、実際にあってはならない。

 それなのに、それなのに……、少女は、現に囚われている。押し込められている。もう、5年ものあいだ……あの檻の中に。

(鈴蘭は、少女が土蔵に囚われていることを知っていた。知っていて、しらを切っていた。その可能性が高い。あの時、蔵の中の物を尋ねた時、必要以上に取り乱したのが何よりの証拠だ……)

 鈴蘭は……、彼女たちは、何もかも知っていたのだ。少女を閉じ込めておきながら……、素知らぬ体を装い……、安穏あんのんと生活していたのだ……。

「……ぅぐ……」

 ……まずい。

 意識が……、もう……。

 間断かんだんなく込み上がる睡魔に、危うく正気を失いかける。

 ひょっとしたら、ここで死んでしまうかもしれない。

 ――死。

 死か。

 死だ。 

 脳裏にちらつく死神の姿。足音もなく、しかし確実に背後まで忍び寄っている。

(……おれは、死ぬのか)

 漠然と思った。

 不意に生じた死への疑念は、おれの内部からじわりと広がったかと思えば、あっという間に辺りを浸蝕し、やがてすべてを覆い尽くしていった。

 おれは生まれて初めて、死という概念を直視していた。耳には聞いたことがある。だが、実際に経験したことはない。それはそうだ。死は体験することができない。死んだ瞬間、すべては終わるからだ。その先には何もない。空虚だ。空乏だ。まるで初めから何もなかったかのように、おれという存在は消えてしまう。予告もなしにそれは訪れる。考える暇さえない。ましてや、避けようもない。不可能性の可能性である絶対的な死が、正規に耐えない沈鬱な表情を覗かせている。もうすぐ、そこにまで……。

 間近に迫る死の影。その世界は暗く、どす黒いヘドロにも似た淀んだ何かが多く沈殿していた。

 不思議と恐怖はない。

 ただ、虚しい。

 何もできない自分と、何もしてくれない周りに対し、無力感ばかりが募る。

 しかし、今回ばかりは自分の軽率な行動に責任の一端がある。

 だからこそ、無性に遣る瀬無かった。何に対してこの虚しさをぶつけていいのかわからず、途方に暮れるしかない。

(おれは……)

 

『……約束……』


(……約束……?)


『……約束……』


 ――幻聴だろうか。どこからともなく、彼女の声が聞こえる。もはや風前のともしびに近いおれの意識を鼓舞するように、強く、大きく鳴り響く。それは、重厚な音色を奏でる鐘の音にも似ていた。

(そうだ……、おれは……)

 消えかけていた命の炎が、すんでのところで息を吹き返す。

(約束……を……)

 全身に力を込めようとする。

(……っく……)

 だが……駄目だ。

 すでに、どうにかしようという気力さえ湧かないくらい、おれは憔悴しきっていた。

 まったく力が入らない。

 何も……考えられない。

(おれは、おれは……、あの時交わした約束を果たせないまま、終わるのか……)

 虚しさを上回る勢いで全身に広がっていく悲しみと悔しさに打ちひしがれる。

(……もう、限界だ……)

 頭の中がぐらぐら揺れる。平衡感覚が失われる。天と地の境界が曖昧になる。

「――――……」

 そこで、おれの意識はぷっつりと途切れた。細い糸が切れるみたいに、呆気なく、おれの存在は現実と寸断された。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「――色不異空しきふいくう空不異色くうふいしき

 

 ――声。

 声が聞こえる。

 暗闇に、誰かの声が反響する。

(おれは……、死んだのか)

 だとすれば、ここは地獄か、天国か。果たして、おれは、どこにいるのか。

(まあ……どっちでもいいか)

 死んでいることに変わりはないし。

 しかし、死後の世界というのも、現実と差がないものだ。ただ、一寸先も見渡せない闇があるばかりで、特段、珍しい光景があるわけでもない。

(随分と味気ないじゃないか……)


「――色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき


 何もない空間に響く、声の調べ。それは天使の歌声か、悪魔の呪詛か。

(もう……、好きにしてくれ)


受想行識じゅそうぎょうしきやく復如是ぶにょぜ――」


 声はだんだん大きくなる。広がる闇を掻き消すように、静寂の世界を塗り替えるように、独特の調子を奏でる声が、おれと、おれ以外のすべてを埋め尽くしていく。

(なんだ……?)

 そして、むせ返るような土のニオイ。獣じみた強いニオイが、おれの意識を現実に引き戻す。

 そう、現実。

 おれはまだ死んじゃいなかった。

 それが証拠に、まだ、あの声が聞こえる。


是諸法ぜしょほう空相くうそう不生不滅ふしょうふめつ不垢不浄ふくふじょう不増不減ふぞうふげん――」


 高低さの激しい音程。どこか調子外れでいながら、それでいて流れるような声。

 昔、どこかで聞いたことがあった。

 あれは、いつのことだったか。

(そうだ……、毎年のお盆の時……、坊さんが唱えている……)

 つまり、これはお経か?

(おいおい、だったらやっぱり、おれは死んでいるんじゃねえのか?)

 だとしたら、笑えないな。


能除のうじょ一切苦いっさいく真実しんじつ不虚故ふここせつ般若波羅蜜はんにゃはらみつ多咒たしゅ――」


(これは――)

 何を言わんとしているかはまったく理解できないが、何かを伝えようとしていることはわかる。


「――掲帝ぎゃてい 掲帝ぎゃてい 般羅掲帝はらぎゃてい 般羅僧はらそう掲帝ぎゃてい菩提僧婆訶ぼじそわか 般若般羅蜜はんにゃはらみつ多心教たしんぎょう――」


 声が近付く。すぐそこにまで迫る。

(ぐっ……)

 頭に、ごつごつとした感触。

 何をするのかと疑う暇もなく、するすると衣擦れの音を立て、視界を奪っていた布状の物体が離れる。

(何だ? 一体、何が起こっている?)

 まともに考えられない中、大きな疑問が頭を埋め尽くす。

 薄暗い空間の中。かすむ視界の前に映し出されたのは――。

「――――」

 ――え?

 絶句した。一瞬、心臓が止まったかと思った。それくらいの衝撃だった。

 まさか。信じられない。

「う……、が、が……」

 目の前の現実を受け入れることができず、半狂乱に陥る。

 歯は恐怖でガチガチと打ち鳴らされ、おれは僅かに失禁した。

 くわが壁に立てかけられ、わらが隅に積まれた、狭い小屋の内部。

 窓からうっすらと差し込む朝焼けに照らされて立っているのは――

「はぁ、はぁっ はっ……」

 過呼吸によって、シュー、シューと空気が漏れる。おれは、目の前のに怯えきっていた。

 ――天狗。天狗だ。天狗がいた。おれの目と鼻の先に、顔を血のように赤く染め、鼻が異様に高く、ボサボサの白い髪と髭を伸ばした、毛虫みたいな眉毛の下から覗く、黒く落ち窪んだ両目でおれを見据える怪物が――立っている。

「あ、あ……」

 声にならない声。もはや悲鳴を上げる余力さえない。

 天狗はジッとおれを見下ろす。切っ先鋭いなたを右手に持ち、左手に数珠じゅずを巻いたは、威圧的に仁王立ちする。

 おれは何もできない。天狗から逃れようともがくこともできない。視線を逸らすのはおろか、目さえ閉じられない。まるで金縛りに遭ったみたいに、天狗に釘付けになっていた。

 なぜ、ここに、天狗がいるのか。いや、逆か。天狗の潜む領域に、おれが不用心にも立ち入ってしまったのか。

 だとすれば、おれは天狗の供物として捧げられた生贄なのか――そんな考えが浮かんだ時、どうしようもないくらいの恐怖が全身を駆け巡った。

 天狗の手がおれに向かって伸びる。

 おれの視界は再びブラックアウトする。

「――――――!!」

 絶叫したつもりだったが、やはり悲鳴は声にならなかった。

 意識が飛んだ状態から正気を取り戻した自分を心から憎み、昨夜のおれ自身の迂闊な行動を呪った。

 ……それで、終わりのはずだった。

「…………………………」


 ――ブチッ、ブチッ


 何かを引きちぎる鈍い音。耳を塞ぎたくてもできないおれを更なる恐怖の淵に叩き落とす。

(なんなんだ! ――なんなんだよ一体!!)

 半分泣きながら、声にならない声で、誰にでもなく尋ねた。

 理不尽だった。狂っていた。何もかも馬鹿げていた。

(死ぬのは別に構わん! 殺すならさっさと殺せ! どうして無意味に怖がらせようとするんだ! どうせ死ぬんだ!! 遅かれ早かれおれは死ぬんだ!! なら、こんな恐怖に何の意味がある?!)

 とうに決めていたはずの死への覚悟は、予想だにしなかったに対する恐怖にすっかり上書きされていた。情けないことだが、これが本心だった。

 人間というのは、暴力を前にしてはこんなにも脆く、弱いものなのだと、およそ話の通じそうにない化け物を目の辺りにして痛烈に思い知った。

 

 ――ブチッ、ブチッ


(あ、……あ……、あ……!)

 再び鳴り響く、何かを強引に切断する音。

 痛みはない。ただ、室内に反響する鈍い物音だけが、おぞましい天狗の行いを的確に表すのみ。

 痛みも何も感じないのは、おれの痛覚が死んでいるからなのか、はたまた、恐怖のあまり錯乱状態になっているせいなのかは、まったく知る由もなかった。

(死ぬ、死ぬ、死ぬ……!)

 居ても立ってもいられなかった。今にもこの場から逃げ出したい。

 しかし、それはできない。おれは体の自由を封じられている。この地獄から抜け出すことは叶わない。

「…………」

 いや、違う。

 一瞬、自分の置かれている状況を理解できなかった。

(これは……)

 信じられない。

 おれは気付いた。

(どういう……ことだ?)

 わけもわからないまま状況を確認する。

(まさか、こいつが、おれの手足を縛っていた縄を……?)

 さっきの鈍い音は縄を切断するために生じたものだと気付くのに、そう時間は掛からなかった。

 にわかには信じがたかった。

 だが、今、こうやって手足を自在に動かせるこの現実が、天狗が拘束を解いたという事実を雄弁に物語る。

「……借りは……」

 から漏れる、地鳴りのような低い声。おれの心臓はこれ以上ないくらいに跳ね上がった。

「……借りは……、……返した……」

(……借り? 借り、だって……?)

 あまり上手く聞き取れなかったが、はどうやらそう言っているようだった。

「……次は……、…………」

 は、何かを言い残すと、ゆっくりときびすを返す。みのに覆われた巨大な背中が、視界一杯に広がる。


「――色不異空しきふいくう空不異色くうふいしき色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき


 またしてもお経を唱えながら、は重たい足取りでおれのそばを離れると、静かに小屋から出る。

 おれは、ひとり、取り残される。

 ひとり……。

 ひとり……。

「………………」

 ……いや、違う。

 今になって、ようやく気が付いた。

 おれの対角線上に、

 今までは視界を塞がれていたり、天狗が目の前にいたことでわからなかったが、確かに、

(そんな……)

 そいつはぐったりと項垂れている。ピクリとも動かない。

(まさか……)

 嫌な予感が脳内を埋め尽くす。

(まさか、まさか……)

 小屋の中に充満する腐敗臭の原因って……。

「――――っ!」

 その事実に気が付いてしまった時、とてつもない寒気が走る、と同時に、大きな後悔が怒涛のように押し寄せる。

(嘘だろ、おい……)

 もはや我慢の限界だったが、衝動的な行動に出るのを僅かに残った理性で押しとどめ、おれは、柱に繋がれた物言わぬそいつに近寄る。

「……ぐっ」

 そいつの前に立った瞬間、思わず顔を歪めた。

 土気色の肌、レンズの割れたメガネ、だらしなく開いた口からでろりと覗いた舌。

 上衣であるベストは乾いた血にまみれ、シャツも同様にべっとりと黒ずんだ液体に浸されていた。

 そいつは、もう、すでに生きている人間のそれではなかった。

(この人は、確か……)

 おれはそいつに見覚えがあった。

(そうだ、B級雑誌の記者を名乗っていた……)

 ――中島哲男。山村地区の寺で出会った彼は、おれと鈴蘭に、そう自己紹介していた。

(この人も、『イイヅナ様』の伝説を追って……?)

 だとすれば、おれも、彼と同じような末路を……。

「……………………」

 ……やめよう。

 考えたって無駄だ。

 おれは、今、生きている。

 それで、充分じゃないか。

 一歩、後ずさる。

 彼は尚も動かない。

(……そうか……、天狗が、お経を読んでいたのは……)

 彼を、供養するため……。

「………………」

 遣る瀬無かった。何が悪くて何が正しいのか、その判断基準がぐちゃぐちゃになっていた。

(早く……、早く、帰ろう……)

 全身が悲鳴を上げている。限界はとっくの昔に通り越し、いつ倒れてもおかしくない。

 ふらつく足で扉の前に向き直る。

「……ん?」

 中島氏の足元に、一枚の紙切れが落ちていることに気付いた。

 それを拾い上げる。

「写真……」

 紙切れは、一枚の写真だった。そこには、ぎこちない笑顔の中島氏と、満面の笑みを浮かべるひとりの少女が写っている。

(……娘、ってことか?)

 おれは居たたまれない気持ちになった。胸が強く締め付けられ、思わずえずきそうになる。

(なぜだ……、なぜ、こんなことに……)

 やり場のない怒りが込み上がる。沸々と、はらわたが煮えくり返る。

(……だが、今は、感情的になっている場合じゃない)

 強く、自分に言い聞かせる。

 おれは少し冷静になっていた。もしくは、あまりにおかしな事態が続いたため、一週回って達観の境地に達したのかもしれない。

(とにかく、一刻も早くここから離れよう。もたもたしていたら、再び、あの謎の男が戻ってこないとも限らない……)

 そう、あの男。おそらくはおれをここまで連れ込み、そして、手足を縛りあげて監禁した、すべての元凶。奴は何者か? 何の意図があってこのような暴挙に出たのか? 中島氏も、奴の毒牙にかかって死んだのか?

(それだけじゃない……、わからないことは、もっとある)

 おれの脳裏に色濃く残るもの。それは紛れもない、の存在だった。

(天狗……、あの時、鈴蘭と一緒に大天山に登った時に見た、異形な存在……)

 忘れられるはずがない。祠の前で起きた出来事を、おれは今でも鮮明に覚えている。

(やっぱり、見間違いなんかじゃなかったんだ)

 それにしても、不可解なことが多すぎる。天狗自身の存在もそうだが、なぜ、天狗がおれを助けたのか?

(天狗は、『借りを返した』とか言っていたが……)

 これもイマイチ要領を得ない。かつて、おれが天狗に何かしたことがったか? 答えはノーだ。

(……どういうことだ……)

 まったくわけがわからない。

(考えなければならないことは山ほどあるが、ひとまず、この小屋から出よう。話はそれからだ)

 死臭の蔓延する狭苦しい小屋から躍り出る。

 昇り始めた太陽が、地平線の遠くに窺える。

「はぁあーーーー……」

 新鮮な空気を肺一杯に吸い込む。

 普段なら気にも留めない何気ない動作が、今となってはこの上ない喜びだった。

 どっと疲れが出る。

「……ここは……」

 気力を振り絞り、周囲を見る。

 そこは畑地だった。そして、畑の外には、果てしなく続く一本道が伸びている。

 おれが閉じ込められていた場所が、農具などを入れるために農地のそばに建てられた小屋だったのだと、外に出て初めてわかった。

(この場所なら……、蔵屋敷の家から、そう遠くはないはず……)

 見覚えのある辺りの風景から自分の居場所を逆算したおれは、半ば足を引きずるようにして、念願の家まで帰るのだった。

 手に、中島氏の形見とも言える一枚の写真を握り締めて。

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