第十三話 驚愕
――深夜。早速、おれは動き出した。
皆が寝静まっている頃合いを見計らい、部屋をそっと抜け出し、廊下をこっそり歩く。
街灯もないので非常に暗いが、夜空に輝く月明かりのおかげで、辛うじて周囲を窺える。
(だが……、やっぱり光源が必須だな)
部屋から持ち出した懐中電灯の存在を再確認しつつ、辺りの気配を慎重に探る。
蔵のある離れに行くためには、裏庭に面する渡り廊下を通らなければならない。
だが、問題の離れに繋がる廊下は片面がガラス張りとなっており、裏庭側からは筒抜けで、非常に目立つ。そこで懐中電灯を使ったとなれば、おれの存在は周囲から丸わかりだ。
(今が深夜とはいえ、誰かが起き出して来ないとは限らない。なるべく懐中電灯は使いたくないが……)
しかし、母屋の構造は別として、裏庭と離れに関してはまったく土地勘がない。ただでさえ見通しの悪い深夜、手探りの状態で進むのは非常に危険だ。無謀にもほどがある。
(懐中電灯の使用はやむを得ないか……)
もっとも、使う場面を選ぶ必要があるが。
――おおーん、おおーん
例の唸り声が、離れの方から聞こえる。まるで、このおれに近寄るなと警告するように。
一瞬、足が竦むが、すぐさま持ち直す。
臆病風に吹かれている場合じゃない。急がなければ、誰かに見つかる可能性が高まる。
「……行くか」
残響を掻き消すカエルの大合唱に後押しされ、離れへ急ぐ。
…………………………。
……………………。
………………。
――獲物が罠にかかった。
彼女からの連絡を耳に入れたおれは、早速、行動を開始していた。
「……ようやくか」
散々泳がせ、ここまでお膳立てをしてやったのだ。
おれの思い通りに動いてもらわなければ、採算が取れないからな……。
はやる気持ちを抑え、奴の動向を確認する。
……どうやら、まだ何も気付いていないようだ。
奴は呑気に蔵までの道を進んでいる。背後に迫るおれの気配を感じ取った様子は見受けられない。
さて、風祭よ。お前には、神に刃向う裏切り者として相応の裁きを受けてもらう。
悪く思うなよ……。
裏庭に出る。肌に触れる湿った空気。幾重にも重なるカエルの鳴き声が、闇夜に一層響き渡る。
本能がそうさせるのか、聴覚と嗅覚が異様に研ぎ澄まされ、断続的に与えられる外的刺激に対して過敏になっていた。
懐中電灯の電源を入れる。直線に伸びた光線に当てられ、中庭の様子が照らし出される。
中庭はよく手入れされていた。地面は馴らされ、石畳が敷かれ、その周りには
(このまま道なりに進めば、いずれ蔵に行き着くというわけか)
直感していた。
(そうだ……、覚えている)
おれは、以前、蔵屋敷の裏庭に来たことがあった。
……そう、5年前に。
(ここを進んで行くと、やがて分岐点に差し掛かるから……)
足下に続く石畳は、大きな木を境に岐路を指し示す。右か、左か。
(迷わず左に進む……)
まるで、炎に誘われる夏の虫のように。
おれは、一切の迷いなく、足早に中庭を突き進んでいった。
途中、目印になっていた石畳が消え、蔵への道は半ば獣道と化したが、それでもおれは足を止めることはなかった。
…………………………。
……………………。
………………。
「……これが、例の蔵か」
緊張のあまり、小さく息を漏らす。
懐中電灯の明かりに照らし出され、目の前に大きくそびえる蔵の一部が明らかになる。
おれの身長の3倍はあるだろう巨大な蔵。白い壁面の所々はひび割れ、崩れ、時代の流れを感じさせる。
懐中電灯の明かりを辺りに彷徨わせる。見えるのは草、草、草。蔵の周囲には背の高い雑草が無秩序に生い茂り、管理が行き届いた裏庭とは対照的に乱雑さが目立つ。蔵の裏手には枝葉が伸びきった大木が平然と放置されていることからも、いかに彼らが蔵を
部外者はもちろん、蔵屋敷の者ですらも近付かないような、いわくつきの蔵……。
「…………」
なぜか足が震える。がくがくと膝が笑い、まともに立つことができない。
(なんだ……?)
ふと気付いた。自覚したと言うべきか。他でもない、自分の内部から恐怖が湧き上がっていたことに。――そうだ、蔵から受ける物々しい印象ではなく、おれの中に巣食う過去の記憶が、目の前にそびえる蔵を恐怖の対象に仕立て上げていたのだ。
バクバクと強く脈打つ鼓動の音が、外から聞こえて来るはずの環境音を塗りつぶす。
身体の奥深くから発せられる、鳴り止まない危険信号――。
(なんだ? おれは、何を恐れている?)
わからなかった。この期に及んで、肝心肝要なことが覆い隠されている。
(それでも……おれには覚えがある。かつて、ここで何かがあったということを)
何があったかはわからない。だが、確実に何かはあった。
あやふやな過去と、徐々に思い出しつつある当時の記憶。
蔵屋敷の者が、異常なまでに部外者を蔵に近付けない理由……。
そして、同じく、部外者への口外を禁じられ、ひとたび口に出したとすれば町の人々が血相を変えて否定する『イイヅナ様』の存在……。
何かが引っかかる。とても、重要な何かが。
(……『イイヅナ様』のこと、蔵のこと、浅間たちが行方不明になったこと……)
すべては、あの蔵の中に……。
『――約束……』
またもや少女の声が響く。それが幻聴なのか、記憶の中から不意に呼びさまされた物なのかは、もはや判別できなかった。
(……行くぞ)
覚悟を決め、一歩を踏み出す。
草を踏みしめる「ミシッ」という音が響いては、辺りの闇に吸い込まれた。
まず、蔵の正面を確認する。懐中電灯の明かりに照らされ、固く閉ざされた大きな木製の扉が視界に入る。
扉の前に立つ。
手が震える。
息を吸い、気持ちを落ち着ける。
金属製の取っ手の部分に手を伸ばす。
――ガチャ
鍵が掛かっている。当然だ。
目を凝らして見れば、頑丈そうな
(別の入り口は……)
一旦、扉から離れ、周りを捜索する。
(……何もない、か)
ぐるりと蔵の周りを一周するが、他の出入り口は見つからない。侵入者を拒む城壁のごとくそびえ立つ白壁が迫るばかりだ。
それにしても、まったく中の様子が窺えない。唯一、蔵の内部を覗けそうな場所と言えば、扉側から見て反対側、蔵の屋根の近くに設けられた通風孔だけだ。
そう……、通風孔。天井付近のそれを注視する。遠目なので確証は持てないが、人ひとりが通れるぐらいの隙間がある。
(……どうにか、あそこまで登れないだろうか?)
こんな大きな屋敷だ、
(しかし、どこに?)
周囲は闇。懐中電灯の明かりがなければ、足下さえおぼつかない。
(……駄目だ、危険すぎる。日中ならともかく、今は深夜……。不用意に動くべきではない。仮に、離れのどこかに梯子があったとしても、それを運ぶ手段に乏しい。懐中電灯を手に持ち、辺りを照らしながら、どうやって巨大な梯子を蔵まで運ぶというんだ?)
浅はかだった。我ながら、自分の思考回路の愚かしさに面食らう。
そんなこと、少し考えればわかることじゃないか。まったく、何をやっているんだ、おれは……。
だが、己の無策さを呪っていても仕方がない。
(どうする……、どうすればいい?)
半ば錯乱しながら懐中電灯を彷徨わせる。
その時だった。おれは、蔵のそばに生えている大木の存在に着目した。全長5メートルはある蔵よりも高くそびえる一本の木。太い幹から放射状に伸びた枝は、ちょうど、蔵の屋根付近に届く位置にある。
(あそこに登れば……)
だが、日の高い昼間ならまだしも、こんな、手探りの状態に近い深夜に、木になんて登れるものだろうか? いや、そもそも、おれに木登りの経験なんてあっただろうか?
しかし、自分でも不思議なことに、おれはごく自然に木の上に登ろうと考えた。まるで、木に登るのが当然だとでもいうように。
なぜだ?
(……いや、今さら、うじうじ考えていても仕方がない)
サイは投げられた。おれが『イイヅナ様』について多くを知ろうと思ってしまった以上、多少のリスクはつきものだろう。
腹をくくるしかない。今のおれに必要なのは、露木のような、自分の身さえ顧みない、思い切った行動力だ。
(……ほんと、おれらしくないぜ……)
思わず自嘲する。
しかし、悠長に余裕をかましている暇はない。
(……よし、行くぞ)
手頃な木の枝に手を伸ばす。続いて、木の幹を蹴りあげ、反動を利用して枝に足をかける。
(そうだ……、慎重に……、よし、うまいぞ)
木の枝に掴まりながら懐中電灯の明かりを巡らせ、次に目指すべき枝を慎重に選ぶ。
(なるべく太くて頑丈そうな……、そう、バランスを崩さずに……)
一歩ずつ、しかし、着実に。枝から枝を次々と乗り継いでゆき、やがて、自分の身長よりもはるかに高い位置まで辿り着く。
おれは自分の身体能力に驚いた。思いのほか、するすると、どちらかと言えば何の苦もなく木の上に登れてしまったからだ。
そう……、昔、こうやって木に登っていたかのように……。
(いや……、そんなはずは……)
おれは都会に生まれて、都会で育った。年に一度は尾前町に来ていたとはいえ、こんなことはありえない。確かに、木登りの一度や二度の経験はあるだろうが、それにしたって呼吸するように木登りができるのは奇妙極まりなかった。それこそおかしな話だが、おれが誰か別人に思えるぐらいに、器用に木を登っていた。
『イイヅナ様』に関する謎を暴きたいという強い思いが、おれを突き動かしているのだろうか?
頭の中で渦巻く疑問とは裏腹に、おれの身体は猿か何かのように枝と枝の間を次々と乗り継いでいく。
そして、とうとう、蔵の屋根近くまで辿り着いた。通風孔は、もう、目と鼻の先だ。
もう少し……、もう少しで手が届く……。
――おおーん、おおーん
「…………!」
伸ばした手の動きが止まる。ぶるると身震いし、危うく枝から滑り落ちそうになる。
(なんということだ……)
全身に鳥肌が立った。脂汗が滲み出る。それは額から頬を伝って、つーっと流れ落ちていった。
おれの心臓は爆発しそうな勢いで高鳴っていた。胸が痛い。呼吸が苦しい。それというのも、驚愕の事実を目の当たりにしてしまったからだ。
(蔵の中に、何かがいる……!)
確かに、薄々、そうではないのかと、頭の隅では思っていた。それこそ、簡単に予想はできた。蔵屋敷の者が
だが、実際、自分が思い描いていた最悪の想定が現実のものになると、
誰が考えるだろうか。
それは例えば、買い物に出掛ける際、不幸にも交通事故に遭うようなものだ。可能性は決してゼロではないが、まさかそれが現に起こるとは夢にも思わない、そんなわずかな確率。
しかし、おれの胸に残った微かな希望もむなしく、事態は最も恐ろしい結末を迎える。
蔵の中から聞こえる、謎の遠吠え……。
今まで不可解だった謎のひとつは、呆気なく氷解した。
そして同時に、おれの身は寒々と凍り付いた。頭にこびりついていた疑問が明らかになって喜ばしいはずなのに、どんどん血の気が失せていく。
(彼らが、おれを蔵に近付かせなかったのは、蔵の、蔵の中に、『イイヅナ様』と呼ばれる、人知を超えた存在がいるから……? ばーさんが、お供え物と称して、夜な夜な、食べ物を運んでいたのも……? いや、そんな……)
――ありえない! ありえるはずがない!
常識はそう声高に叫ぶ。こんなことはあってはならないと。
しかし、おれは現に聞いてしまった。蔵の中から響き渡る、悲しみに満ちた唸り声を……。
(これが幻聴じゃないなら……、中には……)
――おおーん、おおーん
繰り返される唸り声。
――おおーん、おおーん
感極まったように、何度も、何度も繰り返される。
(やめろ! やめてくれ……!)
暗から反響するそれを耳にして、たちまち気が狂いそうになる。両耳を塞ごうとも、自分が木の枝の上にいる以上、それもできない。
(く、あ、あ……!)
頭が割れそうだった。あの気味悪い声に対してではない。あの、助けを求め、許しを乞い、それでいて静かな怒りを表明しているような、憎悪と悲観の入り交ざった声に触発され、何かがおれの内部でのたうちまわるのだ。
5年前……、蔵の中……、『イイヅナ様』……。
そして……。
『約束……ですよ』
――かつて交わした約束。
――おおーん、おおーん
『約束……ですよ』
蔵から響く声と、記憶の中の少女の声が重なる。
「――――――」
視界が激しく明滅する。懐中電灯の明かりしか光源がないはずなのに、おれの目の前は白と黒の点滅を繰り返す。
いや、違う。
光が……、光が見える。白い……光が。おれの、真下に。
反転する世界。黒が白に。白が黒に。何度も、何度も変化する。
おれは見た。見てしまった。蔵の周りを行き交う、ひとつの光球を。ふらふらと、不規則な軌道を描いてさまよう、青白い光を。
いわゆるキツネ火というやつだろうか。――まさかそんな、ありえない。
直感して否定する。だが、それだとますますわからない。じゃあ、一体、あの光の正体は、何なんだ?
ぐらぐらと視界が揺れる。天地がひっくり返る。
急速な浮遊感。おれの身体は風の中に包まれる。
すべては、人間を惑わせる、妖怪の仕業なのか。だからおれは、こんなにも惑い、前後不覚に陥っているのか。
(……ああ、あっ……)
全身に強い衝撃が走り、おれの意識はぶっつりと途絶えた。
…………………………。
……………………。
………………。
ぼくは、ずっと、あの中にいた。閉ざされた空間。周囲から隔離された場所。広いお家の一角。そこに押し込まれていた。
友達はいなかった。そんなものはいらないと、お父さんが言ったからだ。
だけど、いつも何かが足りないような気がした。
寂しかった。
常に学校とお家を往復するだけの毎日。家庭教師の人も勉強は教えてくれるけど、それ以外のこと――たとえば、学校の子たちがよく話しているようなテレビのこととか――は、何も教えてくれなかった。
孤独だった。
だから、一年に数度、尾前町への外出許可が下りた時、ぼくは心の底から歓喜した。長い電車移動も、全然、苦じゃなかった。むしろ、ちょっとした旅行気分でわくわくした。電車の窓から見える緑に囲まれた風景に、ぼくの心は大きく弾んだ。
町に着けば、自分の内側から溢れ出る開放感に任せ、思うがままに外へと踊り出した。太陽が光る青空の下。農作物の収穫を待つ田畑の合間を縫って駆け巡り、一面の緑が広がるまぶしい光景に目を輝かせた。
最初は周囲を闇雲に走り回るだけだった。それだけでよかった。ぼくの体は喜びに満ち溢れた。檻から放たれた動物のように、自由に野山を駆け回るだけで幸せだった。
やがて、ぼくはお父さんに連れられ、大きな屋敷にやって来た。立派な門に守られたそれは、ぼくの住むお家と違い、教科書で出てくるような、とても古い日本家屋だった。
「いらっしゃい、よく来たね」――腰の曲がったおじいちゃん、おばあちゃんに出迎えられ、ぼくは客間に通された。
珍しい民芸品や、とても古そうな掛け軸などがつるされた客間、
そこに置かれたテーブルの前に、小さな女の子が正座していた。
「ほら、挨拶しなさい」――父さんが言った。
促されるままにぼくは少女を見た。白い少女。大人たちに囲まれ、少女がひとり、ちょこんと行儀よく座っている。
目を奪われた。意識が真っ直ぐ少女の方に向かった。
ぼくと同年代の少女。顔はちょっとうつむいているためによく見えないけど、腰まで伸びた黒髪と、くりくりとした大きな目が強調される、白くて小さな顔が、とても綺麗だった。その上、これまでに見たこともないような不思議な服を着ている。上が白、下が赤。半透明のキラキラした布を、お遊戯会の時に着るような衣装の上に羽織っている。ぼくの目の前に現れた少女は、物語の中に出て来る妖精か何かを思わせた。
少女を中心にして半円を描くように、スーツ姿の大人が左右と背後を取り囲む。面白いくらいに正反対の構図。ぼくは目の前の現実離れした光景に、すっかり心を鷲掴みにされた。
「えっと、初めまして……」
ぎこちなく挨拶する。
「……うん」
小さな返事。
けれども、少女は、うつむいたままだった。
「これから、お前たちには、町の外れにある大天山まで向かってもらう」
見るからに偉そうな年寄りが重たい口を開く。
「その前に、ボウズ、きみはこの服に着替えるんだ」
差し出されたのは、薄い藍色の衣服。開いてみればそれは非常に質素なもので、お祭りの時に着るような和服のようだった。
「え、えっと、今、ここで、着替えるんですか?」
「ああ、そうだ」
周囲の大人の視線が突き刺さる。
「で、でも……」
目の前にいる少女をチラッと見る。
少女は、ずっと、うつむいたまま。
でも、女の子が近くにいるというだけで、カーッと顔が熱くなる。
「何を恥ずかしがっておる。都会の人間はこれだからいかん。それともわしらに無理やりはぎ取られたいんか? ええ?」
「わ、わかりました」
おじいさんの怖い顔が恐ろしくて、たまらず、着ている洋服を脱ぐ。
「よし、いい子だ」
ニタリと気持ち悪い笑みを浮かべながら、ぼくの身体をじろじろと見る。
大人たちの視線に嫌なものを感じたぼくは、急いで渡された服を着る。木綿か何かできている荒い材質なそれは肌にざらざらとこすれ、生地がチクチクと肌に刺さった。
「着替えたか。じゃあ、次は、これを飲め」
そう言って机の上に置かれたのは、一杯の小さな盃。中には、透明な水のような液体が入っている。
「安心せえ、毒じゃあねえからよ」
不審そうな目で盃を眺めているからか、おじいさんが優しい口調で言った。
「いいか、一気に飲むんじゃぞ。間違っても口に含んじゃいかん。グイっと、あおるように飲み干すんじゃ」
蔵屋敷のおじいさんに促されるまま、ぼくはそれを一気飲みする。
「うぇっ……」
喉が熱くなり、思わず顔をしかめる。
一体、何を飲まされたんだろう――そんな疑問を抱く暇すら与えず、大人たちはせわしなく立ち上がる。
「では、行こう」
有無を言わさず外に連れ出される。
ギラギラと照り付ける太陽の下、少女を先頭にして、ぼくや大人が列を成して歩いて行く。それは歴史の教科書に出て来る大名行列を思わせた。
随分と長いあいだ、歩き続けていた。気付けば、ぼくたちは山の中まで来ていた。行く手を阻むように生い茂る背の高い草木。昼間だというのに薄暗い山の中は、どこか不思議な印象を与えると同時に、少し不気味でもあった。
「ここから先は、お前たちだけで行きなさい」
背の低いおじいさんが言った。口調は穏やかだったけど、しわだらけの顔に浮かんだ怖そうな表情には、とても強い意志が込められていた。
急な出来事の連続で困惑していると、突然、少女がぼくの手を引いた。
「こっち」
そのまま少女に手を引かれ、ぼくの身体は茂みの中に吸い込まれていった。
少女の手は、とても冷たかった。
どれだけのあいだ歩いたのだろうか。
急に開けた場所に出た。目の前には大きな木。
少女は、祠の前まで歩み寄ると、静かに立ち止まり、膝をつく。微動だにしない。
ぼくは少女のそばまで近寄り、様子を窺う。少女の横顔が目に入る。雪のように白い肌。膝を折り、ジッと目をつむり、手と手を合わせている。その様子からして、どうやら祈りを捧げているようだ。
神秘的だった。まるで少女が神様のように見えた。もはや妖精どころじゃない、神様に……。
しばらく、少女を呆然と見つめていた。
どれくらいそうしていただろうか。ぼくは我を失っていた。
やがて、ぼくはとても重要なことに気付いた。驚きのあまり全身が跳ねた。なぜ今まで気が付かなかったのだろうか!
少女は、泣いていた。涙を流していた。ぽろぽろと、ぽろぽろと……。とめどなく、瞳いっぱいに溜められた涙をあふれさせていた。
真っ白で綺麗な頬を流れて落ちる、真珠のような涙。ぼくは動揺した。少女の美しさと、その儚さに。体が震え、全身に鳥肌が立つ。
震えているのはぼくだけじゃなかった。少女も同じだった。祈りをささげるためにそして、少女の悲しみに共感するように、周りの自然もまた、震えだす。風が吹く。枝葉が揺れる。木々がざわめく。祠がカタカタと音を立てる。
閉じた瞳から流れていく、宝石みたいな輝きを放つ涙……。白い肌を伝い、ぽたぽたと、地面に落ちていく。
なぜ、少女は泣いているのだろう? なぜ、ぼくはここに連れてこられたんだろう?
しかし、そんな疑問はすぐに消えた。自分の意志とは無関係に繰り広げられる光景に、ただただ圧倒されるばかりだった。とても、胸が締め付けられた。
ぼくは、少女が泣いている姿を、呆然と眺めているばかりだった。少なくとも、この時はそう思っていた。
永遠と思われる時間は、それでも、長続きはしなかった。
「…………!」
少女が不意にこちらを向いた。目と目が、合った。
にわかに訪れた変化。それはぼくに凄まじい衝撃を与えた。頭をガツンと殴られたような感覚が全身を襲った。少女の透き通った黒い瞳が、ぼくを真っ直ぐ捉える。ぼくの全身は凍りついた。またしても時間が止まったと思った。それくらい、少女はとても綺麗だった。
少女は驚いた表情でぼくを見ていた。大きな目をぱっちりと開き、不思議そうに瞬きしていた。多分、ぼくも同じような顔をしていたと思う。
「……あなたは……」
しばらく黙ったままで見つめ合っていたけど、やがて少女は、野に咲く小さな花びらを思わせる口を開いた。耳に届いた少女の声は鈴の音みたいに心地良い響きで、ぼくの胸は大きく高鳴った。
「……わたしと、同じ……」
「え……?」
少女が何を言っているのか、よくわからない。
「きみは――」
声がつっかえ、上手く言葉が出ない。少女は悲しそうな目でぼくを見ている。つぶらな瞳。ぼくの心を読み取ろうとしているかのように向けられた両目に魅入られ、ぼくはさらに身を硬直させた。やはり言葉が出て来ない。どう頑張っても声は声にならず、魚のように口をぱくぱくさせるだけ。
けれど、懸命に声を絞り出そうとした結果、何度か噛みながらも、どうにかぼくは声を捻り出した。
「きみは、一体……」
「……わたしは、選ばれたの」
「……選ばれた?」
「そして、あなたも、わたしと同じ……」
「同じ? なにが、同じなの?」
「……それはね」
ぼくは少女と話をした。最初は自己紹介から。それから、今、自分たちが何をやっているかの話に発展した。
少女の話によると、少女は『選ばれた』らしい。何に選ばれたのかどうかについては詳しく話してくれなかったけど、少女の悲しみに暮れた表情から、何かとても嫌なことに選ばれたというのがわかった。そして、ぼくもまた、どういうわけか『選ばれた』らしい。
どうして、そんな嫌なことを無理やりにやっているのかと尋ねると、『家の習わし』だからの一点張り。どうやら少女の方に拒否権はないようだった。
続いて、少女はぼくのことについて尋ねた。ぼくもまた、自分のことを話した。いつもは別の場所で暮らしていること。普段はここに来れないこと。いずれ、この町を離れなければいけないこと。そういったことを話した。
少女は沈んだ表情になった。ぼくがどうしたのと問うと、少女はずっと一人ぼっちだったと、涙目で訴えた。いきなりのことに戸惑ったけど、ぼくはどうにか落ち着こうと努力した。その甲斐あって、ぼくはさっきみたいに取り乱さずに済んだ。すると、少女の方も次第に落ち着きを取り戻していった。聞けば、少女は、あの大きな屋敷の一室に、ずっと閉じ込められていたと言う。
ぼくと同じだと思った。ぼくも普段は家に押し込まれている。大人の許しがなければ自由に外を駆けまわることもできない。
少女は黙り込んでしまった。ぼくも、どうにか言葉を探すけど、何も掛ける言葉が見つからなかった。
でも、これ以上、少女の悲しむ姿を見たくはなかった。それはとても嫌だった。この状況をどうにかしないといけなかったし、そうすべきだった。
「ぼくも、一緒だよ」
だから、ぼくはそう言った。
「きみは、ひとりじゃないよ。ぼくも一緒だよ」
続けて言った。少女は顔を上げる。涙に濡れた表情に、一点の光が差す。
「だから、もう、泣かないで。じゃないと、ぼくまで悲しくなっちゃうよ」
ぼくは精一杯の笑みを浮かべた。
「ほら、笑ってよ。泣いているよりも笑っている方が絶対いいよ。ぼくが読んだ本にもそう書いてあるよ。泣いている者は、いつか、喜びに満ち溢れる。だから幸せ者であるって。ぼくもその通りだと思うよ。だから、笑おうよ、ね?」
自分でも何を言っているのかよくわからなかった。けれど、ぼくの思いが通じたのか、それとも、ぼくがあまりにも熱心だったものだからか、少女はやがて八の字に下げた眉を上げ、への字に曲がっていた口元を緩めた。
少女は笑った。それは、しおれていた花が日の光を受けて元気を吹き返すのに似ていた。再び浮かべた少女の笑顔は、やはり、胸がドキドキするくらいに綺麗だった。
「ありがとう」
少女は、笑顔で言った。宝石のような涙で濡れて輝いた笑顔は、今まで一番まぶしい表情だった。
「ねえ――」
少女は尋ねる。
「いつか――わたしは、もう一度、この祠の前に来なければいけないの。今みたいに祈りをささげるために。その時は、また、わたしのところに来てくれる? わたしを――助けてくれる?」
不安げな表情は、しかし、一筋の希望によって明るく照らし出されていた。
「うん! ぼくがきみを守るよ! 絶対に、約束するよ!」
ぼくは自分の胸を叩いた。本当は、そんなに自信はなかったけど、でも、それでも、誓わなければいけない気がした。少女と、そして、少女の笑顔を守りたい、ぼく自身のためにも。
「ほんとう? ほんとうに、いいの?」
「ほんとうだよ! ウソなんかつくもんか! ウソつきは泥棒の始まりだから、絶対にウソなんかつかないよ!」
「……だって、まだ、わたしたち、出会ったばかりだし……、それに……」
「関係ないよ、そんなこと! 構うもんか! だって、ぼくたちは、もう、友だちじゃないか!」
「……友だち?」
きょとんとした表情。ぼくはそのまま続ける。
「そうだよ、友だちだよ! こうして一緒にお
「友だち……」
熱に浮かされたように少女はつぶやく。その時だった。雪のように白い頬をぽぉっと赤らめ、突然、顔を伏せてしまう。
多分、ぼくも少女と同じだったと思う。身体は燃えるように熱く、頬は焼けたように熱を帯びている。
ぼくと、少女が、友だち。自分で言い出したことなのに、気恥ずかしくってしょうがなかった。
もう、まともに少女の顔を見れなくなっていた。心臓はうるさいくらいにバクバクと音を立てていて、この音が少女に聞こえているんじゃないかと思うくらいだった。
そのうち、このまま黙っているのがどうしようもなく恥ずかしくなって、ぼくは顔を上げた。少女の方も顔を上げた。再び、視線が重なる。少女の顔は依然として赤いまま。ぼくの方も、多分――というか、絶対――同じ。
そう、ぼくらは同じだった。何も、違っているところなんてなかった。何かの本にも書いてあった。ぼくたちは、みんな、同じなんだと。
だから、ぼくは、少女を助けてあげないといけなかった。何かに困っている人、悲しんでいる人を放っておくなんて、できやしなかった。
「うん、そうだよ、友だちだよ! ぼくたちは友だちなんだよ!」
自分に言い聞かせるように大きな声で言う。
「だから、ぼくが、きみを助けるよ!」
ぼくはそう言った。きっぱりと言い切った。
「……ほんとう?」
少女はもう一度尋ねた。少女の浮かべたその表情は、不安よりも喜びと驚きの方が大きかった。
「うん、絶対だよ! 神様に誓って約束するよ!」
「……神様?」
少女は、一瞬、表情を曇らせる。でも、すぐに笑顔になった。
「……ありがとう、ありがとう……」
瞳いっぱいに涙を溜め、笑顔でつぶやく。
「いつの日か、もう一度、わたしはこの祠の前に来る。その時に、わたしを助けて……」
最後に、少女はそう言った。今にも消え入りそうな声で、そう言った。
けっきょく、ぼくには、少女の言うことが何のことだかよくわからなかったけど、何か、とても大事なことだというのだけはわかった。
「だから、約束――」
だから、ぼくは少女と約束を交わす。
「うん、約束するよ――」
絶対に、助けに来ると。
約束の日。いつか絶対に訪れる別れの時。
その時、ぼくはもう一度、この山の中にある祠の前まで来て、彼女を助け出さなきゃいけない。
「約束――」
少女は言った。
「約束だよ――」
ぼくは頷いた。
ぼくと少女は、二人一緒に大人たちのところまで戻った。
少女は、大人たちと何やら話し込んでいた。
ぼくの胸には、少女の笑顔が強く残っていた。
約束――。
少女と交わした約束。
絶対に忘れちゃいけない約束。
絶対に――。
ぼくは――。
ぼくは……。
…………………………。
……………………。
………………。
…………。
ぐったりと地に伏せる、おれの姿。
おれは、そいつを冷酷に見下ろす。
おれを見るのはおれであり、おれを知るのも、また、おれである。
視線を上げれば、厳重に施錠された蔵の扉。侵入者を拒むように固く口を閉ざす。
……おれは……。
かつて少女と交わした約束を――いつか、必ず、果たさなければならない。
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