第十二話 失踪
浅間兄妹が行方不明という知らせを受け、騒然とする部室の中。
「……東、お前は何かを知っているような口ぶりだな」
動かなくなった頭を必死に動かす。
東は言った。『だから、忠告したんだ』と。まるで、最初から浅間の身に何かが起こるのを察していたかのように。
「どういうことだ? お前は、浅間たちのことについて、何か聞いているのか?」
我関せずという具合に冷ややかな反応を示す東に詰め寄ると、奴はやれやれと首を左右に振るう。
「……今のは失言だったな」
悪びれなく言う。
部活のメンバーが行方不明になったというのに、東の奴は、まるで他人事のように平静を保っている。
おれは、東の超然とした態度が気に食わなかった。
「東……、よくそんな平然としていられるな? 仮にも部活の仲間だろ?」
机に手をつき、問いただす。
東は尚も仏頂面のまま、おれを冷ややかに見据える。
「ある意味、こうなることは予想していたからな」
「予想だと?」
「ああ、そうだ。私は確かに樹生に頼まれて、あることを教えた。今のきみのように、どうしても樹生が譲らなかったから、やむなくな。無論、私が教えたことは絶対に実行してはならないと固く釘を刺しておいた。それにもかかわらず樹生は忠告を無視し、禁忌を犯した。因果応報というやつだ。起こした行動は必ず自分に返って来る。原因と結果――縁起。その行いに応じた報いを、人は受けなければならない」
「東、おれは禅問答したいわけじゃない。周りの皆も、それは同じはずだ。そうだよな?」
周囲を見やる。
部室のメンバーは、ややためらいがちに互いの顔を見合わせたあと、コクリと頷いた。
「というわけだ、東。ここにいる全員が、浅間たちの身に何が起こったのかを聞きたがっている。そして、それを知っているのは、東、お前だ。昨日、浅間に呼ばれたのを全員が目撃してるからな。あれで何もなかったわけがない。そうだろ?」
東はすぐには答えない。ただ、おれを試すかのような冷たい視線をよこすのみ。
長い沈黙が流れた。
「……仕方ない」
やがて、東は、観念したように息をつき、一瞬、目線を下げたあと、再びおれを見た。
「……私は、樹生に『イイヅナ様』の伝承を教えただけだ」
「なに……」
『イイヅナ様』。東の口から飛び出たその名称に、部室の空気がピリピリと張り詰める。
喉が内側に貼り付く。呼吸がしにくくなる。
「彼も、きみと同じように『イイヅナ様』のことを聞きたがっていた。さっきも言ったように、私は話したくなかったが、彼がどうしてもと言うから、仕方なく話してやったんだ。その結果がこれというわけだ」
その鋭い眼光でおれを睨むようにしながら、東は事の成り行きを説明する。
押し黙るしかなかった。
「わかっただろう? 神に不用意に近付こうとするのは、神をよく知る身としては不用心と言わざるを得ない。樹生は知り過ぎたんだ。だから神の怒りに触れた。
「…………」
わなわなと手が震える。
神の怒り? 天罰? そんなことはありえない!
だが、喉元にまで込み上げる抗議の叫びは胸の奥に押し留める。
論点はそこじゃない。おれが論じるべき点は、もっと別のところにある。
「……浅間に何が起こったのかはわかったが、なぜ、浅間は『イイヅナ様』について聞きたがったんだ? そして、なぜそれが『イイヅナ様』の
なるほど、百歩譲って、『イイヅナ様』の怒りに浅間たちが触れたとしよう。しかし、それだけのリスクを負ってまでどうして『イイヅナ様』のことを知ろうと思ったのか、その因果関係が不明なのが、どうしても解せなかった。
(誰も口にしたがらない『イイヅナ様』の存在……。ひとたび聞けば身に危険が及ぶパンドラの箱。しかし、それでも、浅間は尋ねた。『イイヅナ様』の秘密を。……なんのために?)
あまりにも情報が少なすぎる。現時点では、何も答えは導き出せない。
「……どうしても、私の口から聞きたいみたいだな」
「……もちろんだ」
試すような東の視線に応じる。
ここまで来たら避けられなかった。『イイヅナ様』が一体なんなのか、どうしても聞かなければならなかった。
「絶対に、後悔しないんだな?」
「……ああ」
再三の警告を無視し、真相に肉迫する。
「ちょっと、正気なのシューヘイ?!」
今まで黙っておれたちの押し問答を静観していた天宮が横槍を入れる。
「あんたが何もそこまで思い詰める必要はないはずよ! タクちゃんの言うことが本当なら、悪いのはタッちゃんなんだし……」
「しかし、このままでは浅間がどうして行方不明なったのかわからないままだ。それでは何も進まない」
「それは、そうだけど……」
天宮も、部活の仲間の安否には代えられないのか、それ以上は何も言わなかった。ただ、唇を噛み、俯き加減で立ち尽くすばかりだ。
「それに、浅間の問題とは別に、おれは個人的に『イイヅナ様』に興味がある」
皆の間に動揺が走る。
無理もない。『イイヅナ様』のことを知る。それによって、おれはもちろん、皆も、浅間と同じ業を背負うことになりかねない。それはあまりにも向こう見ずな行動と言えた。
迷っているのだ。彼らもまた、浅間の身に何が起こったのか確認するのが先決なのか、それとも、自分の身の安全を最優先にすべきなのか、究極の選択を迫られ、答えに窮しているのだ。
「……じつを言うと、風祭君」
おれの懸念を見透かしたのか、東が重たい口を開く。
「単に『イイヅナ様』のことを知るだけなら実害はない。問題は、『イイヅナ様』と縁を結んだうえで、あえてそれを引き裂こうとする不敬な行為にある」
「縁を、引き裂く?」
「そうだ。たとえば、きみはこの町の住人ではない。そんなきみが、土着神である『イイヅナ様』と縁を結んだ後にこの町を離れると、どうなるか?」
「…………」
「『イイヅナ様』は、きっと、きみに裏切られたと感じることだろう。土着神である『イイヅナ様』は、この町から出ることは出来ないからだ。それなのに、きみは『イイヅナ様』のもとを離れ、のうのうと暮らす。『イイヅナ様』は
「……じゃあ、浅間は……」
「察しの通り、彼は『イイヅナ様』の好意を裏切るような行動を起こしたということだ。さしずめ、神域とされる大天山を土足で踏み荒らしたか、あるいは己の欲望に駆られて神聖な土地を汚したか……」
「…………」
東の見解には、妙な説得力があった。科学的な裏付けなどまったくないが、それを真実と思い込ませる凄味があった。
(それにしても、厄介な神様だな……)
我が子を思うあまりに見境のなくなる親とは、言い得て妙だ。自分の目の届かぬところに行かないよう、絶えず監視し、そばに置き、それが叶わないとなれば逆上する。まったく、逆恨みもいいところだ。これじゃあ、十字架にはりつけになった神の方がマシだ。
(まあ、神様ってのは得てしてそんなものか。芥川が言ったように、意外と激情家だからな)
だが、そんなことはどうでもいい。
(実際問題、神様が本当に実在して、それで、浅間に危害を及ぼしたとは考えにくい。というか、百パーセントありえない。なにかもっと、別の要因があるはずだ。もっと、理路整然とした論拠が……)
そもそも、なぜ浅間が失踪したのか? しかも、兄である樹生だけではなく、妹の咲江まで……。
「……ふーん、シューヘイがそこまでタッちゃんやサッちゃんのことを気に掛けるなんて、意外だわ。……なんか、ちょっと、カッコいいじゃない」
おれの気も知らず、天宮が呑気なことを言う。
「おい、そんな馬鹿なこと言っている場合か?」
当然、天宮の場違いな発言を露木が非難したが、それに対して彼女は口をとがらせる。
「なによ、シューヘイのことをどう思おうがあたしの勝手でしょ。『イイヅナ様』の祟りを恐れて二の足を踏むあたしたちなんかと違って、自分の身を挺してまで二人の行方を案じてるんだから、感心したくもなるじゃない」
「……まあ、そのことについては否定できないが、今は浅間たちの身に何が起こったのかを考えるのが先決だろうが」
「それは、確かにそうだけど……」
事態が事態だからか、露木の正論に反論することなく、天宮は押し黙る。普段の勝気な姿からは想像できない彼女の聞き分けの良さが、突如として自分たちの身に降りかかった出来事の異常さを嫌でも痛感させた。
「そうだな……、誘拐……という線は考えられないか?」
重々しい空気の中、絞り出すように露木が言う。
「そうね……、あたしも最初はそう思ったけど、タッちゃんとサッちゃんが同時に姿を消したとすると、ちょっとその線は薄いわね……」
「確かに、誘拐にしては不審な点が多いか……。だとすると、どこかで事故に遭ったのか?」
「……うーん、どうなんでしょ……?」
示し合わせたように小さく首を捻る。
おれも、気持ちは同じだった。
「二人が事件に巻き込まれたにせよ、運悪く事故に遭遇したにせよ、今の時点で断定するのは早計だろう。少しでも情報を集めないと……」
比較的冷静な露木が、そうまとめた時だ。
「……やめた方がいいと思いますがねえ」
いつからそこにいたのか。振り返れば、ドアの横に芥川が立っていた。口元に
「芥川、てめえ、それはどういうことだ?」
「言葉通りの意味ですよ」
語気を強めた露木の問いを意に介することなく、すげなく言う。
「おっと、誤解しないでくださいよ、僕はあなたたちと非生産的な討論をしに来たわけではありません。風祭くんに伝えたいことがあって、こうしてわざわざ赴いてきたのです」
芥川の細い瞳が真っ直ぐにおれを捉える。
「……なんだ、言ってみろよ」
いつにも増して異様に鋭い芥川の視線の前に息を飲むが、負けじと凄んで見せる。
だが、奴は、おれの剣幕など物ともせず、涼しげな表情のまま口を開いた。
「風祭くん、あなたはじきに都会に帰ります。先にも言ったように、ここはあなたにとって単なる踏み台、通過儀礼の地でしかありません。輝かしい栄光が待つばかりのあなたの長い人生から見て、こんな田畑ばかりの未開発地域など、毛ほどの価値しかないのは明白です。しかもその上、いずれこの町は本当に不毛の地へと変わると言うじゃありませんか。例の新国際空港とやらです。知らないとは言わせませんよ。この未来は確定的です。何せ、国が相手ですからね、いくら抗ったところで焼け石に水、雀の涙、それこそ、地上の蟻がマンモス相手に恐ろしい復讐を企てようとするくらい愚かなことです。現に、この町の土地は、国が続々と買い上げているじゃありませんか。それなのに、どこの何かもわからないものに心を砕いて、一体、何の意味があるのです? 骨折り損のくたびれもうけとは、まさにこのことですよ! これ以上、尾前町の歴史に深入りしない方があなたのためでもあります。そこに議論の余地はありません。あなたも、本当はよくわかっているはずですよ。何も、迷うことなどないのだと。……違いますか? 違いませんよね? どうなんです、風祭周平くん……?」
「…………」
鋭い。あまりにも鋭い。
何もかも見透かした芥川の
「……私も、伶一の意見に賛成だ」
水を打ったように静まり返る部室で、東がいつもと変わらぬ調子で口を開く。
「風祭君、きみが『イイヅナ様』について知ろうとするのは構わない。問題はそこじゃない。だが、『イイヅナ様』のことを知った上で不用意に動けばどうなるか……、察しの良いきみなら、皆まで言わずともわかるはずだ」
「…………」
「銀治郎たちも、この件にはあまり深入りしない方がいい。これは私たちがどうこうできる
「しかし……」
尚も食い下がろうとするおれに、東は表情を険しくさせる。
「さもなければ、『イイヅナ様』が、この一件に深く関わった者に目をつけ、樹生たちと同じ目に遭わせるだろう」
「…………」
誰ともなく顔を見合わせ始める。皆、他人の顔に浮かんだ不安の色を見て取り、皆も自分と同じ感情を抱いているのだと確認することで、束の間の安息を得ようとしているかのようだった。
東の意見に対し、誰も、異論を唱える者はいなかった。この場に居合わせる者のほとんどが、この不気味な静けさの前に圧倒されていた。
ただ……、東と、芥川だけが、沈痛な面持ちの他のメンバーと違い、至って平然としていた。部活のメンバーが二人も消えたというのにもかかわらず、嫌味なまでに冷静で、まったく動じていない様子だった。
ほどなくして、おれたちは解散した。心に、大きなわだかまりを抱えたまま、元の鞘に収まり、それぞれの役割に徹するのだった。
そうするしかなかった。
心残りと言えば、浅間兄妹の行方がわからなくなったことを伝えた高井戸が、終始、青ざめた表情を浮かべたまま、ぼそぼそと、周囲に聞こえないような声量で、ぶつぶつとつぶやき続けていたことだ。……『天狗が出た、天狗が出た、天狗が出た』と。
おれは『天狗』という言葉に確かな恐怖を覚えるが、それを無理やり押し殺す。
(高井戸……、確か、彼は昨日、東を強引に連れ出した浅間のあとをついていったはず……)
何か、知っているのだろうか?
(……気になるのはそれだけじゃない。浅間は、東を呼び出す時、こう言っていた。『明星から聞いた』と。それはやはり、『イイヅナ様』についてだろうか? ……だとすると、明星……、あいつが、浅間兄妹の失踪に一枚噛んでいるのか?)
……突然、行方不明となった浅間兄妹。そして、徐々に忍び寄る『イイヅナ様』という土着神の存在。その裏で見え隠れする明星と東の影……。高井戸がうわごとのように繰り返す『天狗』の是非……。
二人の身に何があったのか? 浅間樹生はどうして『イイヅナ様』のことを東に尋ね、そして、何が『イイヅナ様』の怒りに触れたというのか? そもそも、『天罰』などという非常に馬鹿げた非科学的な現象が、この現代に許されるのだろうか……?
(……『イイヅナ様』。自らと縁を結んだ人間を守護する神。この場合の縁を結ぶとは、『イイヅナ様』について詳しく知るだけでいいらしい。それだけでも一種の契約と見なされる。そして、その契約が破棄された瞬間、『イイヅナ様』は守護神の立場から一転してこちらに牙をむく……。とすると、浅間は、『イイヅナ様』との契約を破ったことで天罰に遭い、行方知れずになったのだろうか……?)
まるで神隠しだ。かつての日本で発生していたと言う、あの、忽然と人間が消える怪現象のようだ……。
…………………………。
……………………。
………………。
家に帰った後、早速おれは父に電話した。
一刻も早く、報告しなければならなかった。
それに、聞かなければならないこともあった。
運輸省で仕事している父に代わり、執務室に常駐する秘書を通して電話を取り次いでもらう。
数分間待機したあと、父が電話に出た。
「父さん」
『あまり早い時間に電話をするなと、予め念を押していたはずだが?』
「わかっています。ですが、緊急の連絡なんです」
『……用件を聞こう。手短にな』
「おれのことを話す前に、まず、浅間建設の近況について聞かせてもらえませんか?」
『何の話だ』
「じつは、瀬津高校第一分校に通う浅間建設社長の長男と長女が行方不明になっているとの情報が、今さっき耳に届きました。それも、空港建設予定地の一部である、山村地区の大天山付近で……」
『――そうか』
一瞬の間。
『話はそれだけか?』
だが、父の口から出た言葉は、驚くほど淡白だった。
おれは耳を疑った。
「それだけって……、人の命が掛かっているんですよ?」
『新国際空港建設には、何百、何千万もの人間の未来が掛かっている』
「大事の前の小事には目をつむれと?」
『そうではない。無意味に感情的になるのではなく、冷静に現実を受け入れろと言っているのだ』
「……」
『お前が動いたところで大局は変わらない。ましてや、いくら騒いだところでどうにもならない。
「しかし、それでも……」
『――周平』
不意に呼ばれるおれの名前。
『地元民に深入りするなと、予め警告しておいたはずだが?』
父の冷酷な声が、おれの追及を容赦なく掻き消す。
『そんなに気になるなら教えてやろう。浅間建設の親会社である神田製鉄だが、つい先日、倒産した』
「え……」
絶句した。冷や汗が額を流れ、首筋を伝って落ちていく。
『神田製鉄の経営が芳しくないという報告は、随分と前から我々の耳にも入っている。それも、五輪特需が過ぎた頃からな。国内有数の鉄鋼会社である神田製鉄がそうなのだから、その神田製鉄の連立子会社であり、たかが一介の町工場に過ぎない浅間建設が破産するのは、もはや時間の問題だろう。私が、浅間建設について言えるのは、こんなところだ』
「しかし、以前、拝見した決算書には、少なくとも、今すぐにどうこうなるような経営状況を示す数字は……」
『周平――』
この人は、おれに生じた些細な
『お前の目は節穴か? その決算書に虚偽の記載があったと、どうして疑わない?』
言われて初めて気が付いた。
同時に、自覚した。己の考えの浅はかさというものを。
「
おれは軽く舌打ちした。
銀行は、企業の決算書を目安に融資額を決定する。
つまり、銀行が金を出し渋ったのは、神田製鉄が粉飾決算を行っていると確信ないしは疑っていたため。
「しかし、なぜ、その事実が明るみになったのです?」
飛ばしか二重帳簿かは知らないが、決算書を偽装するとなれば、第三者の目から見てそれとはわからぬよう巧妙に細工を施すはず。だからこそ、神田製鉄は、長引く不況を命からがら乗り越えていたのだ。
今まで銀行が見逃していたものを、なぜ、この時になって……。
『内部に、工作員が紛れていた可能性があるようだ』
「なるほど……それは盲点でした」
産業スパイが神田製鉄の経営不振を暴き、密告した。
ありえない話ではない。
「しかし、工作員とは穏やかじゃないですね」
戦時中じゃあるまいし。
工作員の存在に半信半疑であるおれの胸中を見透かしたかのように、電話越しの父は小さく溜め息をつく。
『そんなことはない。いつの時代も情報が社会を支配してきた。世間を見てみるといい。暇な主婦たちが行う井戸端会議で常に議題とされる事実無根の噂話を始め、テレビや週刊誌では文化人のスキャンダルを狙おうとパパラッチが躍起になり、新聞では日々の経済の指標を示す世界情勢が刻一刻と更新されている。このように、我々の生活の水面下では絶えず情報戦が繰り広げられてきた。日本が戦争に負けた一因には、軍の発信した暗号がことごとく敵軍に読み取られ、動きが後手に回ったからと言われている。それほどに、人間は情報を頼みの綱とし、それに縛られる生き物だ』
「……確かに、父さんの言う通りです」
疑問があるとすれば、どうして神田製鉄に工作員が潜入したのか、その理由と動機だ。
「神田製鉄に
『さあな、そこまでの事情は我々の知るところではない。いずれにせよ、現段階では推測の域を出ないだろう』
神田製鉄の事業が転覆して得をする人物……。
父が言うように、容疑者が多すぎるな。
そもそもが、五輪特需の波に乗っかり急成長した会社だ。当然、生存競争による蹴落とし合いも頻繁にあったに違いない。同業他社はもとより、あらゆる方面から恨みを買っていただろう。
ある程度は的を絞らないと、推理さえままならない。オッカムのカミソリとは、よく言ったものだ。
『とにかく、神田製鉄の社長を含め、大勢の役員が逮捕されることになるのは間違いない。粉飾決算は立派な犯罪だからな。いずれ彼らは検察に起訴され、拘置所に勾留されたのちに、裁判にかけられ、刑務所に送られる。今までの華々しい生活とはお別れというわけだ。くくく……』
まったく、愉快そうに語ってくれる。
「それにしても、神田製鉄ほどの大手企業が粉飾決算とは……わからないものですね」
『大方、新国際空港建設への入札資格を得るための偽装工作だろう。私が言うのもおかしな話だが、今回の空港開発というのは、やはり国家事業だけあって、得られるリターンの桁が違う。だが、我々の予想に反して会社の事業が悪化していることが知れたら、入札資格は
失笑まじりに言う。
何がおかしいのか、おれは理解に苦しんだ。
『奴らは関連企業や子会社とも循環取引をしていた疑いもある。叩けば叩くほど
電話の向こうの怪物は、他人の不幸を養分にでもしているかのように恐ろしい笑みをこぼす。
もう、聞いていられなかった。
『これは私の
気分の悪くなる話は、まだ続くようだ。
「……なんでしょうか」
『浅間建設も、粉飾決算の片棒を担がれていたかもわからんぞ?』
「…………」
父に言われ、浅間樹生のやつれ切った顔を思い出した。自分以外のすべてに敵意を抱いてるかのような、手負いの獣を思わせる態度と目つき。
(まさか……、な)
学校での記憶を振り切る。
気にならないと言えば噓になる。一度とはいえ、顔を合わせて話した仲だからだ。
だが、おれの父は弱者に対して微塵の興味も同情も抱かない。
『まったく、力がないというのは哀れなことだ。お前もそう思うだろう、我が息子よ』
「ええ、まったく、その通りで……」
表面上では同意するが、内心、父の
『さて、お前の知りたいことは話した。私も忙しい身なのでな、もう切るぞ』
「……ちょっと、待ってください」
問答無用に通話を終わらせようとする父に向かって食らいつく。
『どうした? お前がそこまで聞き分けの悪い人間だとは思いたくないのだが?』
「浅間兄妹のことについて、まだ話があります」
『あんな
「父さん、あなたの言っていることはわかります。おれが浅間兄妹の問題に首を突っ込むのが筋違いだというのは充分承知しています。しかし、論点はそこじゃありません」
目下の者を歯牙にかけない父をどうにか説得する。
「おれが気になるのは、どうして彼らが大天山という場所で行方不明になったのかという点です」
父は沈黙した。その回転の速い頭脳で、目まぐるしい勢いの思索を繰り広げているのだろう。
『……まさか、お前は、浅間兄妹の失踪に反社会的組織や国が絡んでいるとでも言いたいのか?』
「可能性はあります」
断言した。
『……ふむ』
父は小さく唸った。その響きからして、おれの考えの真偽を吟味しているようだった。
「以前、似たようなケースがあったかどうか、調べてみるつもりです」
『……やめておけ』
父は制止した。静かに、だが威圧的な語調で。
「なぜです? このまま放置しておけば、第二、第三の被害者が出ないとも限りません。そしたら、今回の計画も水泡に帰すでしょう。元々、山村地区の住民における新国際空港建設に対する見方は否定的です。そんな時に、尾前町の象徴とも言える大天山で何人もの人間が行方不明となれば、これを好機とばかりに彼らはこぞってこう言うでしょう。――『イイヅナ様の祟りだ』と」
『……………………』
父も『イイヅナ様』について知っているのか、それ以上は何も言わなかった。
「ですから、おれは独自に探りを入れてみるつもりです。浅間兄妹の失踪と、神田製鉄の倒産に関連性があるのかどうか。そして、新国際空港開発計画に関係しているのかについても、調べてみます」
『……わかった。お前がそこまで言うなら、それでも構わない』
おれの熱意に折れたのか、父は諦めたように息をついた。
『ただし、内密に事を進めろ。浅間兄妹の失踪に、もし国賊が絡んでいたとしても、その事実を誰にも悟らせるな。お前が特派員だということも、同様に。今まで以上に慎重な行動を心掛けろ』
「ええ、それはもちろんなのですが、しかし、すでに浅間兄妹が行方不明になっていることは、一部の人間に知られてしまっています。学校の教師や、浅間兄妹と交友のある一部生徒がそうです」
『いや、彼らについては問題ない。我々としても、浅間兄妹の件を表沙汰にするつもりはないからな。学校側の人間や地元警察とも連携し、徹底した情報統制を敷く。この事実が他に漏れることはありえない。そのためにお前がいるようなものだ』
「お言葉ですが、それは不可能です」
『……どうして、そう言い切れる?』
「浅間兄妹が行方不明になる直前に、二人を目撃した生徒がいます。現に、おれも、その生徒から二人が行方不明になったことを聞きました」
『ならば、その生徒を黙らせればいい。どんな手を使っても構わん。お前にはそれだけの権限がある。必要とあらば、お前の事情を知る教師陣を使ってもいい。もちろん、その生徒から話を聞いた者も同様に、上手く口封じをしておけ。とにかく、これ以上、計画の不利になるようなことを外部に漏らすな。これは命令だ』
「……正気ですか?」
『お前こそ、気は確かか? 何のためにお前は派遣された? 少しでも新国際空港建設の障害になりうる問題点を洗い出し、可能であれば排除する。それがお前に課せられた役目であり、使命だったはずだ』
「…………」
使命、か。
父の言う通りだ。何ひとつとして間違ってはいない。
だが、何かが違う。根本的に間違っている。
『それとも、何か? お前は、日本の未来を大きく左右する国際空港の開発より、有象無象に過ぎない人命を優先すると?』
「…………」
沈黙。これが答えになった。
『思い上がるな、周平。我々は人助けをしているのではない。それは医者にでも任せておけばいいことだ。我々がなすべきは、未だにアジア圏の経済を牛耳る欧米に負けない、強い日本を作ること。そこに、どこの馬の骨ともわからない人間が入り込む余地はない。この世は弱肉強食。弱い者は、強い者に喰われる。この法則は覆せない。ならば、我々にできることは、弱者を喰らう強い国を作り上げることに他ならない』
「…………」
典型的なマキャベリズム。とことんまでに尖鋭化されたリベラルな思想が、父の掲げる信念であり、追及する理念だった。
誰かに似ていた。
『しかし、人を助けるという行為にどれだけの価値があるのでしょうか?』
芥川のセリフが、父の無慈悲な言葉と重なる。
『今、この瞬間にも、世界のどこかで誰かが亡くなっていますよ。戦争、貧困、病気、事件、事故。想像することすらはばかれる惨たらしい現実が、刻一刻と訪れています。戦っても勝つことが許されず、かといって逃げることさえ許されない過酷な現実が、別のどこかの誰かの目の前に。……果たして、神は、彼らを救うことができないのでしょうか?』
芥川の思想もまた、父のものに酷似していた。父も芥川も、目の前の状況に踊らされず、離れた観点から
『止められない流れと言うのは、確かにこの世にありますよ。むしろありふれていると言っていいでしょう、これは決して過言ではありません。命が生まれ、死ぬのが、この世界の摂理――法則なのですから』
自分でもわかっているつもりだった。
しかし、こうして心の底から納得していないことを鑑みるにあたり、おれは自分が思っている以上にまだまだ幼稚だったみたいだ。
(……おれがこのまま進めば、行き着く先は……)
ふと、おれは考えた。父の垂れる説教を聞きながら、頭はまったく別のことで埋め尽くされていた。
他人を人間と思わず、自然を大事とも思わない。そんな恐ろしい人間が存在することが、果たして許されるのだろうか?
……許される。むしろ、推奨される。社会に貢献する者のみが、この社会で生きていくのを許されるからだ。
逆に、現行社会に背く考えを持つ者は、当然のことだが社会では生きていけない。反社会的な人間など、誰も信用しないからだ。
社会とは、個人と個人、すなわち他者との関係性によって成り立つ。両者の間に必要なのは信頼であり、それはお金と言う合理的な価値観で数値化され、視覚化される。信頼はお金に置き換わり、その人となりを表す一種の基準となる。他者と多く繋がるということは、そのまま信頼を得ることに繋がり、ゆくゆくはお金を多く有することに直結する。機械などの設備が静的資本とされるのに対し、人間は動的資本と称されるように、個人は個人であると同時に、社会の単純労働力とみなされるのだ。
つまり、社会的な人間とは、大なり小なり経済の発展に寄与するものだ。社会的価値とは、経済的価値と一致するのだ――特に、この資本主義社会では。
(金のために生き、金のために死ぬ。今の社会の構造はそうなっている。それが社会的な人間、模範とされるべき指標。だからこそ労働の義務が課せられている。労働の条件は他者との繋がりであり、その対価としてお金という報酬を得る。現代人は、そうやって生きることを推奨され、これに従った者は称賛される。……だが……)
今さらになって、おれは疑問を抱いていた。ガキの頃から口酸っぱく教えられ、おれとしてもある程度は納得していた社会の仕組みに対し、怒りにも似た違和感が込み上がる。
このままいけば、やがて、おれは、あの芥川のような、損得勘定のみで動く人間になる。打算のみで生きる人間に。それは社会に組み込まれた歯車と同義であり、無機質な機械同然だった。
空恐ろしい。おれが、社会を構成するだけの、ただの部品になるなんて。
(それも……おれが選んだ道だ)
とうの昔に、覚悟を決めたのではなかったか。
(しかし、本当にそれでいいのか?)
心の中で誰かが問う。
(おれは、彼女を……、彼女を守るために、こうして力をつけたのではなかったか?)
疑問は尽きることなく溢れ出る。
(……彼女?)
湧き上がる疑問に対して疑問を覚える。
(おれが、誰を、守る……だって?)
頭の中に浮かぶ、少女の姿。悲しそうに目を伏せ、桜色の口唇を固く結ぶ。
『……らしくないな』
おぼろげに揺れる少女の表情は、電話口の冷酷な声に掻き消される。
おれは我に返った。
『まったく、お前らしくもない。他者に思考を掻き乱され、正常な判断能力を失するなど』
――わかっている。
『少し頭を冷やすことだ。今のお前に掛ける言葉は、それしかない』
「……っ」
――わかっている! 言われるまでもない。冷静さを欠いているのは自覚している。そんなことは百も承知だ!
だが、改めて第三者に指摘されると、自分の異常さを再認識せざるを得ない。
頭が痛い。
記憶が――歪み始める。
『――やはり、あの計画は失敗か』
吐き捨てるように言う。
「……計画? 一体、何の話です?」
苦し紛れに問うと、父は、一瞬、押し黙った。
『……詮索は慎め。こちらの話だ。お前は目の前の問題に注力していればそれでいい。くだらないことに余計な労力をかけるな』
手厳しい返しに、今度はこちらが押し黙る番だった。
「……はい」
力無く返事すると、父の溜め息が返ってくる。
『これ以上、私に手間を掛けさせるな。……まったく、とんだ誤算だ。幸い、優秀なお目付け役がいるからまだしも……。こんな体たらくでは先が思いやられる』
(お目付け役……?)
石蕗のことか?
『とにかく、お前は余計な物事にかかずらうな。例の
「……申し訳ありません」
返す言葉もない。
『それとも何か? じつはお前が
「まさか、ありえません」
『本当か? お前が率先して国への反逆を企て、このような結果を招いたのではないのか?』
「それは誤解です。おれが国を売る行為をするはずがありません」
『だったらなおさら、連中の尻尾を掴むことに全力を尽くせ。町の人間に構うな。奴らは全員、敵だと思え』
「……はい」
『では、もう切るぞ。……お前の健闘を祈る。期待しているぞ、我が息子よ』
おれの疑問をよそに、父はそう言い残して電話を切った。
しばらく、呆然と立ち尽くしていた。
(わかっている、わかっているさ……)
心の中で何度もつぶやく。
今のおれが異常なのではない。昔のおれが、少し、異質過ぎただけだ。かねてより設計された将来の道を突き進むにあたり、周りを気にしている余裕なんてない。そう思い込むことで、おれは自分の行動を正当化していた。それは認めよう。
(だが……、それが間違いかもしれないと気付いてしまった今、おれは、どう動くのが正しいのだろうか……)
前門の虎、後門の狼。どんなふうに行動したとしても、何らかの後悔が付きまとうのは必至だ。
(……っち、本当にらしくねーな)
自らに訪れた心境の変化と、それを上手く処理することができずに戸惑う自分自身に対して苛立ちが募る。
(おれは……どう行動すべきか)
失踪した浅間兄妹の真相と、謎めいた『イイヅナ様』の真実。そして、新国際空港開発計画。これらが無関係であるはずがない。
(問題は、おれがどこまで首を突っ込むべきかということだ。父にも、そして、芥川も言われたように、線引きが重要だ……)
その時、不意に、森鴎外の小説『舞姫』の内容が唐突に呼び起こされる。
主人公の豊太郎は、留学先のドイツで知り合ったエリスと言う貧民街出身の踊り子を取るか、彼女を蹴って国に帰り、政府高官の道を歩むかの選択を迫られるのだ。
(おれは……、どっちを取るんだ?)
愛か、名声か。
そんなことは、考えるまでもなかった――この町に来る時までは。
『舞姫』の場合、豊太郎の心は揺れに揺れ、結局どちらも決めかねて精神を病み、彼女の家で昏倒してしまう。そして、豊太郎のお目付け役である相沢謙吉が、
豊太郎に裏切られたと思ったエリスは発狂し、目が覚めた豊太郎は半ば逃げるようにしてドイツの地を去る。心に大きな後悔と、相沢に対する
(おれは……)
『風祭くん、あなたはじきに都会に帰ります。先にも言ったように、ここはあなたにとって単なる踏み台、通過儀礼の地でしかありません。輝かしい栄光が待つばかりのあなたの長い人生から見て、こんな田畑ばかりの未開発地域など、毛ほどの価値しかないのは明白です。しかもその上、いずれこの町は本当に不毛の地へと変わると言うじゃありませんか。例の新国際空港とやらです。知らないとは言わせませんよ。この未来は確定的です。何せ、国が相手ですからね、いくら抗ったところで焼け石に水、雀の涙、それこそ、地上の蟻がマンモス相手に恐ろしい復讐を企てようとするくらい愚かなことです。現に、この町の土地は、国が続々と買い上げているじゃありませんか。それなのに、どこの何かもわからないものに心を砕いて、一体、何の意味があるのです? 骨折り損のくたびれもうけとは、まさにこのことですよ! これ以上、尾前町の歴史に深入りしない方があなたのためでもあります。そこに議論の余地はありません。あなたも、本当はよくわかっているはずですよ。何も、迷うことなどないのだと。……違いますか? 違いませんよね? どうなんです、風祭周平くん……?』
父も、芥川も、目先のことに囚われるなと言う。実際、それはおれも真理だと思う。苦心して導き出した打算を度外視して目の前の物事を優先させるということは、そのまま感情的になっていることを意味するからだ。
(おれには、無事に特派員としての職務を全うし、本校に帰って卒業したあと、大学の法学部へと進学して、そのまま大学院の課程を修了し、政治家の道を辿るという目標がある。父と同じように……、政府高官になるという夢が……)
しかし、頭の中で思い描いた未来の設計図も、下手な行動ひとつで破綻してしまいかねない。今回の『イイヅナ様』に関する騒動がそうだろう。
岐路に立たされている。それは充分理解している。痛いほどに自覚している。当初の予定通り、特派員として、第三者の視点から尾前町の行く末を傍観するか、それとも、かつて、町と自然が大好きだった『風祭周平』として、自分の気持ちに正直に動くべきか。安全な場所から日和見を決め込むか、無謀にも前線に出て戦うのか。
(おれは……、あの、露木のように……、本当に自分が守りたい物のために、自らの身を挺して……。……できるのか? おれに……)
だが、仮に、おれにそんな利他的な行動が可能だったとしても、どちらが利口なのかは、わざわざ考えるまでもない。
(……別のことを考えるか)
延々と、終わることのない、堂々巡りの自己問答。
頭の切り替えの早さが自慢のおれだが、今回ばかりはなかなか難しかった。
(そういや、結局、うやむやになっちまったな……)
うやむやとは、無論、『イイヅナ様』のことだ。東から聞き出そうとしたのはいいが、重要なことはわからずじまいだ。
(縁を結ぶことで様々な影響をもたらすとされる土着神……)
おれは、すでに、縁を結んでいるのだろうか? あと二週間とちょっとで尾前町を離れるおれにも……、『イイヅナ様』は……。
『約束ですよ……』
(『イイヅナ様』……。夢の中に出て来る少女……)
『約束ですよ……』
おれに、執拗に語りかけてくる。
本当は重要なはずの内容が、ほとんど思い出せないのに。
少女は、おれに……、何度も呼びかける。
(……夢の中のおれだけが知っている、少女と、少女と交わした約束……)
なぜ、おれは、知らないのだろうか?
なぜ、おれは、忘れてしまうのだろうか?
なぜ……おれは、未だに思い出せないでいるのだろうか?
(……そうだ、夢の中のおれが知っているということは、現実のおれもいずれ知るということだ。芥川の言葉を借りるなら、いずれ思い出すということだ)
終わらない思考に、一旦、決着をつけ、おれは自室にこもった。
…………………………。
……………………。
………………。
「周平くん、だいじょうぶ?」
夕飯を食べ終え、再び自室に戻った後、制服姿の鈴蘭が、心配そうに眉を下げた面持ちでおれの部屋を訪ねてきた。
「ん? どうした鈴蘭? 何か用か?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど、なんだか、元気なさそうだから……」
ちらちらと、おれの顔色を窺う。
(さすがに、疲れが顔に出ているか……)
おれはわざとらしく天を仰ぎ、溜め息をつく。
「最近、寝不足でね……」
額を指で押さえる。
「寝不足? そうなの?」
「ああ、夜寝る時にさ、カエルの大合唱が聞こえるんだわ。周りの田んぼから、不協和音を奏でる一斉のコーラスが、怒涛のごとく押し寄せて、おれを安眠のゆりかごから容赦なく引きずり落とすんだよ」
おどけながら言うと、プッと鈴蘭が吹き出す。
「もう、参っちゃったよ。ここに来てから毎晩、毎晩、そうだからさ。おかげで眠りが浅いんだ」
「そっか、わたしはもう慣れっこだけど、周平くんは都会っ子なんだもんね。ふふ、さすがの周平くんも、カエルさんには敵わないんだ」
目を細め、からからと笑う。
おれも彼女の笑みにつられて微笑んだ。
「その上、蔵の方角から野犬の遠吠えみたいなおっかない声が聞こえるだろ?」
「え……」
鈴蘭の表情が強張る。
ついさっきまで朗らかな笑みを浮かべていた鈴蘭の表情の急な変化に、おれは少々面食らった。
(なんだ……?)
穏やかな雰囲気から一変した、気まずい空気が漂う。
「……周平くん、ひとつ、聞いてもいい?」
彼女にしては珍しい、真面目くさった顔。
柄にもなく、おれは緊張していた。
「うん? いいぜ、何でも聞いてくれ」
内心の動揺を悟られぬよう、どうにか平静を努める。
「蔵には、近付いてないよね?」
「……蔵?」
神妙な面持ちで尋ねられ、思わず問い返す。
「蔵って言うと、離れにある……」
「うん、おじいちゃんも言ってたと思うけど……、蔵には近づくなって」
「……ああ、そういえばそうだったな」
記憶の糸を辿り、思い出す。
「確かに、じーさんに口酸っぱく言われたよ。『蔵には絶対に近付くな』って、鬼のような形相でね」
「……そう、そうだよね」
なにやら不審な挙動。
「なんだ? 蔵に、何かあるのか?」
特に深く考えずに尋ねる。
だが、あくまでも軽い気持ちのおれに反し、鈴蘭はみるみる表情を曇らせる。
「……何も、ないよ」
小さく、そう言った。それは、どちらかと言えば自分に言い聞かせるような、頼りない響きだった。
「おいおい、何もないってことはないだろ? 曲がりなりにも蔵なんだからよ。……まさか、あれか? あんなことやこんなことが
からかうように言うと、鈴蘭はみるみるうちに顔を真っ赤にした。
「ちがうよ! 蔵にそんなもの隠してあるわけないでしょ!」
ものすごい剣幕で否定する。
だが、特派員として教育されたおれの悲しい性質か、鈴蘭の口から飛び出したおかしな言葉を無意識のうちに捉えてしまう。
「……隠す? おい鈴蘭、一体、何を隠すって言うんだ?」
自らの失言に気付いたのか、鈴蘭は「あっ」と短く声をあげると、そのまま視線を逸らしてしまう。
彼女の怪しい態度に、おれはますます不信感を募らせる。
「なあ、鈴蘭。蔵ってのは、別に、何かを隠したりするような場所じゃないだろ?」
確認するように尋ねると、鈴蘭は小さく頷いた。
「……うん、知ってるよ。それは、そうだよ。でも、いきなり周平くんが変なこと言うから……」
恨めしそうにおれを見る。
彼女の目には、今までおれに見せたこともないような敵意がこもっていた。
だから、おれは少しだけ
明らかな害意を発する彼女の目つき。
「……わかってるよ、ちょっとからかっただけだって……。そんな、真に受けることないじゃないか」
これはまずいと、たまらず平謝りする。
「……もう! 周平くんのいじわる!」
すっかりへそを曲げてしまった鈴蘭はぷくーっと頬を膨らませ、ぷいっとそっぽを向いてしまう。
とはいえ、こうした子供らしい反応は、すっかり元の鈴蘭のものだった。
ホッと、胸を撫で下ろす。
(それにしても、蔵か……)
蔵屋敷家に来てからというもの、未だに訪れたことのない蔵の方角に意識が向かう。
「確か、じーさんの話じゃ、蔵には部外者の目に決して触れてはならない大事なものがしまってあるから、絶対に近付くなってことだったが……」
「……そう、だね」
なんとも歯切れの悪い肯定。
彼女が何かを隠しているのは明らかだった。
(……ん? 待てよ……)
不審極まりない彼女の挙動を確認しているうちに、ふと気付く。
(そうだ……、蔵には、祭事に使用する物や、蔵屋敷の歴史にまつわる書物などが所蔵されていると事前に説明を受けた。……とすると、ひょっとしたら、『イイヅナ様』に関係する物も、蔵の中にしまわれているのでは……)
ありえない話ではない。
「…………」
これからおれがどう行動すべきか算段する。
「とにかく、今まで通り、蔵には絶対に近づいちゃダメだよ。わかった?」
鈴蘭は口を尖らせるが、おれの耳にはほとんど入って来なかった。
「わかった、わかったよ。そんなに怒るなって。ほんと、悪かったよ」
空返事してこの場を収める。
彼女の機嫌を直すことなど、もはや眼中になかった。
ほどなくして、鈴蘭はおれのいる部屋から立ち去った。何かをしきりに警戒するような怯えた目つきが、いやに頭に残った。
(……離れの蔵ね)
近々、人目を忍んで侵入する必要があるな……。
(仮に決行するとするなら深夜か、あるいは家の者が手薄な時か)
そんなことを考えながら、眠りにつくまでの数時間を過ごした。
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