第十一話 怪異

 夢と現実の境界線は、どこで引かれるのだろう。

 この『夢の世界』を訪れる度、思う。

 おれの意識が夢の内容に影響を与えるのなら、それはもう現実ではないのか?

「なぜ、おれは、こうして何度も、この世界に足を運んでいるのだろう……」

 巫女装束に身を包んだ白の少女は、おれの質問に笑って答える。

「約束を果たすために、あなたはここに戻って来たのです」

 事も無げに言うが、おれにはその『約束』がわからなかった。

「その約束とは、一体、なんだ? 教えてくれ、かつて、おれときみの間に何があったんだ?」

「……あなたは、昔、わたしを救ってくれました。深い奈落の渦中に沈んでいたわたしに、手を差し伸べてくれたのです」

「……」

 まったく覚えていない。

「それは、いつの出来事なんだ?」

「……5年前」

「5年前……?」

「あなたは、囚われの身であったわたしに誓ってくれました。いつの日か、必ず迎えに来ると」

「…………」

 目を閉じて、静かにそう告げる少女の言葉におれは当惑を隠せない。肝心の5年前の記憶が、すっぽりと抜け落ちているからだ。

 なぜ? 5年前、一体おれに何があった?

(思い出せない……)

 どうして……。おれは、本当は、知っているはずなのに……。

「大丈夫ですよ……」

 頭を抱えるおれに、少女の優しい息遣いが吹きかかる。

「あなたは知らなくても、たとえ、忘れてしまっていても、……わたしは、覚えています」

 少女はおれの身体を抱きしめた。雪のように白い髪が頬を撫で、氷のように冷たい手がおれの肩に回される。

 彼女の温かな鼓動が、焦りや戸惑いが先行するおれの気持ちを落ち着かせてくれる。

「……でも、それでも……」

 嫌な考えばかりが頭をつく。

 ここは夢の世界。彼女を始め、この世界そのものが、おれの生み出した幻影じゃないとは言い切れない。

「こんなこと、わざわざ聞きたくはないんだが……」

 しかし、どうしても尋ねなければならない。

「……きみは、本当に存在しているのか?」

「…………」

 少女は答えない。ただ、ひどく悲しそうな顔をするだけだ。

 その表情に、おれの胸が締め付けられる。

「……わたしは、ここにいます」

 おれを抱きしめる力を一層強くする。その仕草が、彼女の確かな感触が、おれをたまらなく不安にさせる。

(なぜ、この少女は、ここまでおれを大切に想ってくれるのだろう? 彼女に関する記憶はおろか、情報すらほとんどないというのに……)

 おれに、彼女に愛される資格はあるのか……?

「わたしが、ここに、確かにあるように、あなたも、確かに存在します」

 耳元で囁かれ、全身に震えが走る。

 彼女の言う通り、おれは確かに存在するだろう。だが、その『おれ』とは、誰のことを指すのか?

(こんなふうに、巫女の少女に大事にされるおれは、一体、誰なんだ? 本当に、風祭周平その人なのか? それともおれは、別の誰かなのか? 夢の世界のおれと現実世界のおれは、本当に同一人物なのか……?)

 それを明らかにするためにも、5年前、何があったのか、おれは思い出す必要があった。

(……思い出す……)

 そうだ、おれは、すべてを知っているのではなかったか。ここが夢の世界だということも、彼女が何者かということも。すべて、おれの記憶の中にあるはずなのだ。

 現実と夢とを、混同してはいないだろうか?

(現実のおれは何も知らない。だが、おれは知っている。夢の世界のことも、彼女のことも)

 思い違いをしていた。我ながら愚かだった。

 初めから、思い出す必要なんてなかった。その努力をしなければならないのは現実のおれの方で、夢の世界にいるおれは、すでに、すべてを把握しているのだ。ここが夢の世界であるということも、何もかも。

(そうだ……、おれは、忘れていたわけじゃない。現実のおれが、忘れているだけだ。おれは、おれだ。奴とは違う。何も知らない奴とは……違うんだ)

 視界が一挙に澄み渡る。止まっていた時間が、今この時をもってようやく動き出す。現実と夢との分離。おれがしなくてはならなかったのは、あっちの世界のおれと、こっちの世界のおれとを切り離す作業だった。そして、今、ようやくそれが叶った。まさに、目が覚める思いだった。

「ようやく、思い出したよ」

 おれは彼女にそう告げた。暗く沈んでいた彼女の表情が一気に晴れやかになる。

「なぜ、おれは忘れていたんだろう。あんなに大事なことを、今まで思い出せずにいたなんて」

 ――イイヅナ様。

 彼女の笑顔が、すぐ間近に迫る。

「……わたしは、信じていました。あなたがきっと戻って来てくれると……」

 涙に濡れた綺麗な瞳が、おれを儚く映し出す。

 彼女とこうして、再び出会うこと。ずっとずっと、おれが追い求めていたものだ。

 そして、ついに、それが叶った。これほどに嬉しいことはない。

「おれが、きみと交わした約束は――」

 彼女を強く抱きしめ、感激に震える口を開く。


 ――そこで、目が覚めた。


 カーテンの隙間から差し込む朝日の柔らかな光が、ほとんど物の置かれていない冷ややかな部屋の中を照らす。

 夢の中のおれはすべてを知っていた。いや、思い出していた。

 現実のおれは、何も知らなかった。夢の中のおれが思い出した物事も、すべて、忘れていた。

 いつものように朝ご飯を食べ、いつものように登校する。

 いつもの風景が、目に映る。

 いつの間にか、いつものおれに戻っていた。

 いつも通りに事が運ぶ、いつもの学校。いつもの授業。いつもの放課後。三日前まではすべてが新鮮に映った尾前町での生活は、すでに日常の一部へと溶け込んでいた。

 おれは、部室に寄る前に図書室へと向かった。調べたいことが、あったからだ。

 司書の役割を担う図書委員に大まかな本の場所を聞き出し、早速、調査を開始する。


 …………………………。

 

 ……………………。


 ………………。


「放課後にも調べ物とは、精が出ますねえ」

 席に着き、本棚から拝借した資料を手当たり次第にひっくり返していると、突然、人を食ったような尊大な言葉が頭上から降ってくる。

 その声に覚えがあった。

「……確か、お前は……」

 本を一旦置き、声の主の方に向き直る。

 あの、西洋かぶれの芥川伶一が、自慢の(かどうかは知らないが)長身を誇示するように背筋を正して立っていた。鳥か何かのように首を傾げ、おれが何の本を読んでいるのか覗き込もうとしている。

「……天宮の差し金か?」

 とりあえあず、カマをかけてみる。

「まさか! 滅相もありません!」

 すると、芥川は、その細い目を驚きにカッと見開かせ、手をブンブンと忙しなく振ってみせる。

 大袈裟な彼の反応が演技だというのは、すぐにわかった。

「ふーん、なら、何の用だ? 見ての通り、おれは読書で忙しいんだが」

 冷めた目で芥川を見る。

「おやおや、穏やかじゃありませんねえ。もっと、こう、フランクにいきましょう! ノブリス・オブリージュというやつですよ! 何事に対しても余裕を持ち、悠然と構えたいものです! ねえ、あなたもそう思うでしょう? 特待生の風祭周平くん?」

 口から先に生まれたのかと思うほどに饒舌じょうぜつな芥川は、的を射ているようで、その実、まったくの的外れな意見をぺらぺらと並べ立てながら、図々しくおれの隣に座る。

 本当に厚かましい男だ。

(天宮とはまた違ったタイプの面倒くさいやつだな)

 そのとぼけた顔の裏で何を考えているのか一切わからない、道化のような薄笑いを貼り付け、芥川は、おれと本とを見比べる。

「……尾前町の歴史でも調査していたんですか?」

 日常会話のつもりか、はたまた詮索か、芥川はそんなことを尋ねる。 

「ま、そんなところだな」

 彼の動作に注視しつつ、頷く。

 おれが読んでいたのは、いわゆる郷土史。数々の蔵書に恵まれた図書室の中でも、かなり奥まった、埃っぽい場所にあったものだ。

「勉強熱心ですねえ、風祭くんの爪の垢を煎じて、他の生徒にも飲ませてあげたいものです。きっと、泣いて喜ぶでしょうねえ」

 嫌味なのか、素で言っているのか、そこのところは判断しかねるが、この際、あまり気にしないのが得策だろう。

 おれは、必要以上に突っかかってくる芥川を適当にあしらうことに決めた。

「しかしまあ、なんでまた尾前町の歴史を? 特待生のあなたが自他共に認める優等生なのはすでに自明ですが、この町の由来や成り立ちを調べる理由がありません。ええ、そうです、あなたにとっては尾前町など、単なる通過儀礼の地であり、踏み台に過ぎないはずですからねえ、少し言い方は悪いですが。このように、あなたの行動の前後関係が不明瞭なのが、少しばかり気掛かりなんですよ」

「……なぜ、そう思うんだ?」

 トゲのある物言いに我慢ならず、反射的に問い返してしまう。

 しまった、と後悔した頃には後の祭りだった。

「おっと、誤解しないでくださいよ、そんな怖い目をしないでください。これは個人的な興味です、単純な、ただの思いつきですよ。ええ、僕の悪い癖でしてねえ、些細なことが気になってしょうがないんです。ほとんど病気みたいなものですよ。だから、どうか目くじらを立てないでいただきたい。……ありがとうございます、やはりあなたはお優しいお人だ。

 ……話が逸れてしまいましたね。つまるところ、あなたがどうしてこの町の起源や、現在の形に至るまでの経緯を知りたいと思ったのか、その原因を、時系列を追って是非とも知りたい所存だと、簡単に言えば、そういうことです」

「…………」

 なぜ、そんなことを聞きたがるのか。奴の言動のいちいちが不可解だった。

 となると、おれとしても、容易に自分の行動の目的を明かすわけにはいかない。

「……別に、深い意味はねーよ」

 ぽりぽりと鼻の頭を掻く。

「本当ですか?」

 顔を近付け、ゴボウのような細い顎に手を当てる。

「心理学によると、人が会話の途中で鼻の頭を掻く時、決まって嘘をついているらしいですよ」

「なに……?」

 無意識のうちに動いていた手が止まる。

「と、僕が言ったら、あなたは信じますか? ――信じるでしょうねえ」

「………………」

 硬直――。

 彼の狡猾こうかつさを表すような切れ長の目が、鋭い眼光をもって差し向けられる。

(こいつ……、知っててわざと……)

 平静を何とか保とうとする一方、貼り付けた笑みの裏に隠された得体の知れない冷たさに背筋が震える。

(どうも、一筋縄ではいかなさそうだ)

 底の知れない芥川伶一と言う生徒を、改めて認識し直す。

「ジョークはさて置き、本題に移りましょう。どうしてあなたは尾前町に興味を抱くまでになったのか、退屈しのぎに拝聴させていただきたい。何も遠慮することはありません、さあ!」

(何が『さあ!』なんだよ……)

 机の上に肘を乗せ、厚かましくも主導権を握る芥川に呆れ果てる。

 いつの間にか、すっかり、奴のペースに乗せられていた。

 

 …………………………。

 

 ……………………。


 ………………。


「……なるほど、話は大体飲み込めました」

 嫌々ながら事のあらましを説明し終えると、芥川は腕組み、唸る。

「つまり、こういうことですね? 風祭くん、あなたは、この土地にまつわる神様のことについて知りたいと――」

 ピンと人差し指を立てる。

「まあ、そうだな。その認識で問題ない」

 問題は、こいつが余計に首を突っ込んでいることにあるのだが。

「ふむ、しかし、珍しいこともあるものです」

 うーんと、深刻そうに首を捻る。

「……今度は何だよ?」

 こいつはどうも扱いにくい。妙に鋭いと言うか、目の付け所が独特と言うか、とにかく、物事の真贋しんがんを見抜く嗅覚が異様に発達している。

 ひょっとしたら、部室のメンバー全員、いや、おれよりも頭が切れるかもしれない。そう思わせる何かが、とぼけた調子のこいつにはあった。

 深く考え事をしている芥川の出方を窺っていると、奴はゆっくりと顔を上げた。細い瞳から覗く鋭利な目つきが、おれの思考を見透かしているかのようだ。

「風祭くん、あなたは典型的な都会人です。少なくとも、僕の目からはそう見受けられます。あなたは現代人らしい合理主義者で、徹底した現実主義者。誰とも深く交わろうとはせず、どこか一歩引いた視点に立っています。それは、これまでの他人行儀の言動からも明らかです。現に、あなたは、今まで僕に対して素っ気ない態度を取っていましたからね。つかず、離れず、相手が有益であると判断すれば近付き、そうでないと判明したら距離を置く。極めて合理的です。無感情な機械的とも言えますが。まあ、この際、それは仕方ありません。生まれ育った土地柄や環境というのは、どうしても人格形成に大きな影響を及ぼしますからね、本当ですよ。何でも、下町のような狭苦しい場所で生活すると、性格までも偏屈になるとか、そんな研究結果があるみたいです。とすると、ますますわからなくなります。?」

「…………」

 見事なまでの演繹えんえきだ。意図せず展開された芥川の論理的推察に、おれは感心せざるを得なかった。

(そうか、そういうことか)

 おれは遅れて理解した。これまで、奴は、おれを試し、その上で観察していたのだと。あえて道化を装ったのもその一環だろう。

 要するに、こいつは、おれの本心を引き出そうとあれこれ策を弄していたのだ。

「人間は、生まれつき、知ることを欲する。古代ギリシアの大哲人アリストテレス著『形而上学メタフィシカ』の冒頭には、そう書かれています」

 博識の芥川は、さも当然のように知識をひけらかす。

「ゆえに、あなたが好奇心に駆られて調べ物をするのは道理にかなっています、が、何事にも原因があるのが法則の常。そうでしょう、風祭周平くん?」

 にやりと不敵な笑み。もはや嫌味を通り越し、不気味ですらある。

「あなたが神について興味を覚えた原因と、実際に行動に移すに至った動機……、是非とも、教えていただきたいものです」

 細目の芥川が向ける鋭い視線は、いよいよ鋭利に研ぎ澄まされる。まさに、獲物を追い詰めるヘビのごとき眼差しだ。

(……ここまで言われちゃ、迂闊に言い逃れできないな。逆に不審だろう……、下手に誤魔化すのは悪手だ。そこまでして隠すことではない……。奴は、おれが、特派員であることは知らないのだから……、いや、待てよ……、まさか……、そんなはずは……)

 考えれば考えるほど、どつぼにはまっていく。

 奴の言う通り、本当に純粋な興味なのか、それとも……。

(……っち、仕方ねーな)

 おれはゆっくりとかぶりを振るう。それは降参の合図だった。

「わかったよ、お手上げだ。おれがどうしてこの町について知りたいのか洗いざらい教えてやる。だから、その屁理屈をどうにかしろ。これじゃあ、話せるものも話せない」

「ほほう、いさぎよいですね。まあ、それが最善の選択でしょう。僕はあなたのことを知りたい。あなたは僕に自分のことを話す。見事にwin-winです……、最適解ですよ、いわゆる支配戦略というやつです」

「それを言うなら、一方的な略奪戦略じゃないのか?」

「ほう、あなたはゲーム理論もお詳しいようですね。やはり特待生というだけのことはあります。いやはや、おみそれしましたよ」

「…………」

 っち、こいつ……。

 またしてもカマをかけてきやがった。

(おれを試しているのか? それとも、素でとぼけているのか……? いや、考えるまでもない、明らかに前者だ)

 そうでないなら、切れ者の芥川がこんなふざけたことを言うはずがない。

(だが、なぜおれを試す必要がある?)

 ……わからない。

「おや、どうしました? 僕の顔に、何かついていますか?」

 何を考えているのかわからない、不気味な薄笑い。

「いや、なんでもねーよ」

 余裕ぶった表情を浮かべる芥川に食ってかかりたくなる衝動を、グッと押し殺す。

 ここで冷静さを欠いては、それこそ奴の思う壺だ。

(これ以上、おれのペースを乱されるわけにもいかねーからな……)

 自らにそう言い聞かせ、落ち着きを取り戻す。

 改めて、奴と対峙した。

「……それで……」

 大きく息を吸う。

 奴の細い目が、より一層、鋭くなる。

「おれが、神について調べようと思った理由だが……」

 腹を据え、奴に、おれがなぜ尾前町の歴史を知りたいと思ったのかを説明する。

 もちろん、おれが特派員であるという事実や、いつも見る夢については伏せたが。

 奴は、終始、おれの話に耳を傾き続け、興味深そうに相槌を打っていた。おれの行動の裏に隠された動機を知りたいとの言葉に偽りなしというわけなのか、それとも、やはり演技なのかは、奴の見せる仕草や挙動からはどうにも読めないのが、厄介と言う他なかった。

「話をまとめると、つまり、こういうことですね。風祭くんが尾前町にやって来た初日に聞いた、『イイヅナ様』と呼ばれる神様のことが気になったから、この町の歴史について調査しようと思ったと――」

「そういうことだ」

 これは嘘じゃない。現に立派な動機のひとつなのだから。

(本当の理由は、もっと別のところにあるんだがな……)

 尾前町――特に山村地区――の住民が、どうして国に土地を明け渡すのを頑なに拒むのか。『イイヅナ様』と呼ばれる土着紳に原因の一端が隠されている。そう踏んでいるからこそ、こうして探りを入れているわけだ。

(そして……あの、夢に出て来る巫女の少女。彼女もまた、『イイヅナ様』に関係している。なぜか、そう思えてならない……)

 かつて、彼女と交わしたという約束。おれが『イイヅナ様』について調査すれば、何かが判明するような、そんな気がする。

(我ながら、馬鹿げた動機だな……)

 もっとも、後者に関しては、ついでのようなものだが。

 芥川は、値踏みするようにおれの顔色を窺っていたが、突然、小首を捻った。

「ふーむ、なるほど。僕は、風祭くんが露木の奴に毒されたのかと思っていたのですが、どうやら見当違いだったようですね」

「露木に……?」

「彼はああ見えて愚直にも神を信じていましてね。本人は否定していますが、彼の行動の根底にはいつだって神の存在がちらついていますよ。ローマの戦神マルスのような強者のための神ではなく、弱者のための神がね」

「……それが、どうかしたのか?」

「おや、わかりませんか? では、あえて言いましょう。露木が異様なまでに信心深いから、あなたも彼の影響を受けて、わざわざ神を知りたく思ったと、僕はそう考えていたものでしたから。意外ですよ、あなたのような都会人に、神に対する好奇心が少なからずも残されていたとは」

「……なぜ、そう思うんだ?」

「なぜって、そんなものはわざわざ言うまでもありません。自明の理ですよ。あなたは露木と共に行動することが多いですからねえ……、朱に交われば赤くなると言いますし、あなたが露木の利他的精神に影響を受けるのは必然です。従って、僕が以上のように考えるのも当然でしょう」

「…………」

 芥川に指摘され、おれは昨日の出来事を思い返す。どこまでも弱者に尽くそうとする、露木の、献身的でひたむきな行動の数々。奴は、確かに、おれの今後の進退に関して無視できない影響を及ぼしていた。それは事実だ。

 だが、どうして芥川は、おれの心境の変化について言及するのか? まるで、心が揺らぎ始めたおれへのあてつけのようだ。

(こいつ……、どこまでおれの行動を知っている? それとも、単に、露木と席が隣同士だからとか、そんな単純な理由で言っているのか?)

 ますますわからなくなる。芥川伶一という生徒が、一体、どんな人物なのかが。

(学校の資料を思い返しても、彼に特筆すべき点はなかった。……それも父が仕掛けた罠なのか?)

 奴の言動のいちいちが不可解だ。なぜ、こうもおれの思考を惑わせるのか。これらは何か意図があってのことなのだろうか……?

「とはいえ、お生憎あいにくですが、その件に関してはお力添えになれそうにありませんね」

「……そうなのか?」

「僕は、無神論者ですから」

「……なるほど」

 至極明白な理由だ。納得するしかない。

「まあ、現代に生きる人――特にあなたのような都会人――なら、特別、珍しい思想でもないはずです」

「……それは、そうかもしれないな」

 現に、おれも、神の存在や宗教については否定的に考えていた。……奴に、露木に会うまでは。

「しかし、よりにもよって神ですか。本校きっての特待生ともあろう聡明な御方が、神などと言う怪しげな――しかも、地方の土着神という――概念に注力するとは、いささか拍子抜けですね」

 やれやれと肩をすくめる。

 奴のとぼけた仕草と尊大な態度に、おれはムッとする。

「……どういうことだ」

 だから、噛みついた。

 奴の涼しげな表情に変化はない。むしろ、ますます余裕たっぷりに構えている。

「悪いことは言いません。この件については、あまり、深入りしないのが賢明かと」

「……どうして、そんなことを言う?」

「時間の無駄だからですよ」

「時間の無駄、だと?」

「ええ、そうです。実際に存在しない存在を考察するほど虚しいことはありませんからね。まさしく虚無ですよ。地面に穴を掘って、その穴を再び埋める作業の方がまだ有意義です。それは現実に作用する確かな力ですからね。しかし、神は違います。神は現実に対して何の力も及ぼしません。ただ、人々を遠巻きに眺めやるのみです。上空から高みの見物を決めこんでいるというわけです」

「だが、現に、露木は人を救っている。人々の助けになっている。違うか?」

「勘違いして貰っては困りますねえ。実際に行動しているのは露木です。

「…………」

 芥川の的確な意見に押し黙らずを得ない。孤児院の十兵衛も似たようなことを言っていたのを思い出し、歯噛みする。

「……しかし、それでも、神は、露木の原動力や抑止力になっている」

 苦し紛れに言うと、待ってましたとばかりに奴は首を左右に振るう。

「その意見に関してはおおむね僕も同意しますが、その記号シンボルは別に神でなくても他で代用可能です。例えば倫理学や、道徳学などがそうです。神と代替可能な知識なんて山ほどありますよ」

「神は公平を期する存在のはずだ。私心に溺れることなく他者を裁く。そういう意味では規律や規則に充分適っている」

「おや、そうでしょうか? むしろ、一部の人間を贔屓ひいきしていませんか? それが証拠に、弱者には甘く、自らに近しい存在――強者や権威者――には容赦がありません。あの、自らに唯一ゆいいつ匹敵ひってきしうる熾天使してんしが、造物主たる神を超えようと反旗を翻した時がまさにそうです。自らに牙をむく反逆天使の軍勢に対して雷を落とし、地獄に釘付けにしたように、権力には権力をもって徹底抗戦する。そこに、普段の好々爺然こうこうやぜんとした、法という道徳の制定者たる温厚な表情はありません。厳しい裁判官としての苛烈な一面が覗くばかりです。果たして、そこに、正義はあるでしょうか? むしろ、自らが絶対者であるという驕りが見え隠れしてはいませんか? ――ああ、これは露木も愛読するイギリスの叙事詩じょじし『失楽園』の冒頭の話です。神と、その敵対者であるサタン、そして、原初の人間であるアダムとイヴを取り巻く壮大な物語です。ええ、現代への示唆と教養に富んだ、素晴らしい書物ですよ。さすが、あの露木が熟読するだけのことはあります。……おっと、話が逸れてしまいましたね。ええと、僕が言いたいことはですね、神は、その絶対性を誇示するがゆえに、自らの地位を脅かし得る者に凄まじいまでの敵意を向け、いかなる手段を用いても失墜させようと躍起になる、嫉妬深い存在だということです」

「お前の言うことには一理あるが、それでも、現に人を救っているなら、力になっているのなら、それでいいんじゃないのか? 神とは、元々、人々が見放した者に手を差し伸べる存在であり、救済措置であり、最後の防波堤だったはずだ」

「結果論ですか、マキャベリズムですね。なるほど、エリート街道を邁進まいしんするあなたらしい……、僕に負けず劣らずの合理主義者というわけですか……」

 一体何が可笑おかしいと言うのか、奴は、くくく、と、低く笑いを漏らす。

「しかし、人を助けるという行為にどれだけの価値があるのでしょうか?」

「なに……」

 おれの眉が跳ねる。奴は薄ら笑いを浮かべ続ける。

「今、この瞬間にも、世界のどこかで誰かが亡くなっていますよ。戦争、貧困、病気、事件、事故。想像することすらはばかれる惨たらしい現実が、刻一刻と訪れています。戦っても勝つことが許されず、かといって逃げることさえ許されない過酷な現実が、別のどこかの誰かの目の前に。……果たして、神は、彼らを救うことができないのでしょうか?」

「……何が言いたい?」

「止められない流れと言うのは、確かにこの世にありますよ。むしろありふれていると言っていいでしょう、これは決して過言ではありません。命が生まれ、死ぬのが、この世界の摂理――法則なのですから」

「それが、運命だとでも?」

因果律いんがりつ、と言った方がこの際、正しいでしょうね。物事の原因と結果の連鎖。そこに第三者が付け入る隙はありませんよ。たとえ他人を救おうとも、救わずとも、世界は休みなく回り続けます。だとしたら、他人を救うという行為にどれだけの意味があるのでしょうか……?」

「……そんなこと、やってみないとわからないだろ?」

「おや、まだわかりませんか? 教師陣期待の特待生というから、さぞかし頭が柔軟な方かと思いましたが、どうやら買い被り過ぎたようですね」

 おれを挑発しているつもりか、案山子かかしが制服を着たような芥川は高飛車におれを見下す。

「太陽は、東から昇って西に沈みます。わざわざ説明する必要もありませんよね、これは常識です。一種の法則という奴ですよ。そして、法則とは、誰にも変えることができないもの、変える必要の無いものを指します。だからこそ、法則は法則足りうるのです。ゆえに、太陽は東から昇って西に沈むのです。明日も、明後日も。延々と、変わることなく、断続的に、同じ動きを繰り返します。何のために? ……意味などありません。あるいは、この無意味性こそが有意味性なのでしょう。結局のところ、意味などという概念は、人間が勝手に定義した一元的な価値観に過ぎないのですから。このように、物理的に存在するすべてのものは法則に従うのみです。なぜなら、法則――すなわち論理的必然性――こそが、この世に存在する唯一無二のものだからです。もう、おわかりですね? この大きな、取り留めのない、不断のサイクルを止めることが、果たして、誰にできますでしょうか? ……いいえ、誰にも。不可能です。絶対に。神ですら、自らの存在を否定することができないように。『神は全てを創造できる。ただ、論理法則に反することを除いては』――ウィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』の一節です。法則自身を捻じ曲げる、ないしは消し去ることなど、到底、できっこないのですよ」

「……」

「風祭くん。あなたは『チェーホフの銃』をご存知ですか?」

「……知らねーな、そんな銃」

「おっと、言い方が悪かったですね。厳密には銃そのものではなく、修辞上の不文律を指す比喩ひゆです。ロシアの優れた劇作家であるチェーホフによると、使とのこと。言うなれば、これもまた一種の法則。偶然性ではなく必然性。論理的であるということは、つまり、そういうことです。あたかも篝火かがりびの明かりに誘われる羽虫のごとく、決して逃れられない悪魔の誘惑がそこにはあります。ひとたび銃を手にした登場人物は、この魅惑的な魔力から逃れられません。彼は弾倉マガジンに装填された弾丸を発砲しなければなりません。狙いを定めて……撃つ! ……そこに理由はありません。ただ、厳然げんぜんたる法則性があるだけです。これがチェーホフの銃の概要です……。いかがでしょうか。僕の言わんとするところが理解いただけたでしょうか……? もっとも、理解してもらわないと困るのですが」

 ぺらぺらと持論を展開し、最後は不敵に微笑する。

 おれは、芥川の試すような論説に聞き入っていた。その事実に不意に気付いた。

 ……チェーホフの銃。何かがそこに存在する以上、絶対に従うしかない法則……。

「人は生きて、死にます。それが法則です。永遠の命がありえないように、この法則を無に帰すことも、また、ありえないのです。ナンセンスですよ。

 なるほど、死後の世界、永遠の命があると仮定しましょう。人は死にはするが、しかしパラダイスで永遠に生きると。じつに素晴らしい、夢のある話です。? ? ……しかし、誰も知りません。『語り得ぬものについては、人は、沈黙せねばならない』。……おかしな話です、まさしく矛盾している! 死後の世界、永遠の命、それらが可能だと言うなら、そこに論理的必然性があるはずなのに、まったく、どこにも存在しない!

 それもそのはずです、なにせ、辿のですから! 誰も知らないもの、見たことがないものを定義しようなど、言語道断、片腹痛い話です! 超越論的ですよ! 人知の及ぶ範囲を遥かに超えています! あのカントが、神の存在は理性では証明できないと述べたのはまさしく正しかったわけです!

 ……そうですね、ひとつ、たとえ話をしましょう。……ある生理学者が、講義を受ける学生に向けて言いました。『諸君、我々は脾臓ひぞうについて何も知らない。――以上、脾臓の説明を終わる』……。もちろん、この学者は、脾臓があることを知っています。色も、形も、身体のどの位置にあるのかも。ただ、。だから、学者は生徒に何も語ることができなかった。つまり、自分がよく知りもしないものを、あたかもそうであるかのように語るなどナンセンス、愚の骨頂というわけです。

 おわかりですね、風祭くん? 神について詮索するのは結構、見上げたこころざしです。ただ、神が本当に実在するなどと思わないことですね。誰も神を見たことがなければ、よく知りもしないのですから、当然の話ですが」

 一気呵成いっきかせいに捲し立てる芥川の勢いに圧倒され、息を飲む。

「……随分と、知ったような口ぶりだな?」

 何も言い返すことができず、負け惜しみに近いことを苦々しく吐き捨てる。

 すると、奴はこれ見よがしにカッと目を見開き、驚きに満ちた表情でおれを見据えた。

「まさか! 僕は何も知りませんよ。逆に言えば、。『無知の知』――ギリシア哲学の始祖ソクラテスの思想ですよ。人は、何も知りません。だからこそ、まずは、何も知らない自分自身を知り、受け入れるところから始まります。アポロン神殿に刻まれた『汝自身を知れ』の一文はまさに真理です。ゆえに、人は、自分が知らないことに関しては沈黙せねばなりません。あのウィトゲンシュタインもそう述べたように、可能世界を超越した論理を展開することは不可能です。それはまやかしに過ぎません。さもなければ、人は、ソクラテスの弟子プラトンのように、イデアの世界へと高翔こうしょうしなければならないでしょう」

「……イデア?」

 聞き慣れない単語に難色を示すと、芥川の奴はキザっぽく人差し指を立てる。

「そうです、イデアです。プラトンいわく、『この世界に存在する全てのものは、所詮、イデアの影にすぎない』――」

「……」

「プラトンは自らの著書の中でこう述べました。人は、この、不完全な物質世界を通して、真の世界像であるイデアを見ているのだと。より厳密に言うなら、この現実世界を通して、理想世界の事象、現象の数々を思い出しているとのことです。それがイデアです」

「……思い出す……」

 不思議な感覚が、不意におれを襲った。電流が走ったのだ。全身を駆け巡る奇妙で独特な衝撃に、四肢がガクガクと震え出す。

 思い出す……。おれの記憶を……、夢の中の、おれのことを……。

「人は、元々、イデア界にいました。もっとも、人と言っても、いわゆる魂というやつが、ですが。しかし、肉体という低次元の牢獄に繋がれたことにより、本来、高次元の存在である魂も、低次元にとどまることを余儀なくされます。魂は不滅ですが、肉体はいずれ滅びますからね。ゆえに、魂は想起します。かつてイデアにいたことを。じつは、本当は、この世の全てを知っていることを。低次元の現実を介して、高次元の世界を想起する。現実世界で知識をつけるということは、そのまま理想世界の自分が予め知っていたことを思い出した結果だというわけです。魂はそうして洗練されていき、最終的に『善のイデア』に到達します。全ての原型であり、且つ、最終形態であるその場所をすべからく目指すのです」

「…………」

 芥川の説明を受けるうち、ますます予感が実感に変わった。夢と現実、記憶と忘却……、その連関。

 すべては……ひとつに繋がっている。 

 夢の中のおれは、すべてを知っている。現実のおれは、まだ、何も知らないというのに。

 なぜ、夢の中のおれは……。

(思い出す……? ……何を? おれは、一体、何を知っているんだ……?)

 酷い頭痛が襲って来た。視界が二重になり、強い耳鳴りが発生する。

 5年前……、神様……、巫女の少女……、『イイヅナ様』……。

 何が現実で、何が夢なのか。どっちも本当なのか、あるいは、どちらも偽物なのか。それとも、どちらかが真で、どちらかが偽なのか。

(おれは知っているはずだ……、本当は、あの時、何があったのか……)

 そうでないなら、どうしておれは、あの少女のことをいちいち夢にまで見るんだ……。どうしていつまでも忘れないんだ……? 今もこうして、ずっと、胸の奥にこびり付いているんだ……?

(そうだ、その通りだ……、おかしなところなんてない、何ひとつとしてないはずなんだ……。おかしいのは、おれの……記憶。ただ、それだけだ)

 記憶……。おれのもののはずなのに、おれのものでないような、奇妙極まりないもの。

(忘れるからこそ思い出す……、思い出すからこそ忘れる……)

 知るということ、忘れるということ、思い出すということ。

 現実と夢――善のイデア。現実世界と背中合わせの、人が到達すべき理想世界。

(……表裏一体。すべては、おれの中にある――)

 その時だった。おれの中でわだかまっていた懐疑的な考えは、いよいよ確信に変わる。

 浅はかだった。

 迷う必要など、初めからなかったのだ。

 おれは、知っていたのだ。かつて、何があったのかを。

 彼女の――夢の中の少女の言葉を信じればいいだけの話だったのだ。

 なぜ、こんな簡単なことがわからなかったんだ。

 5年前。尾前町でのおれの記憶は、ここでぶっつりと途切れている。

 なら、是非とも知らなければならなかった。5年前、おれの身に何が起こったのかを。

(……あの時、大天山の祠で感じた違和感。それは既視感にも似た懐かしい感覚……)


 覚えている。


 覚えている。


 覚えているはずなんだ。


 思い出せ。


 思い出せ。


 思い出すんだ。


 おれは、5年前……。


 あの場所で……。


 あの少女と……。


 「…………」

 ……何かが引っかかる。

 確かに、おれは、5年前、あの場所に赴いたのだろう。神が宿りし祠に。それは確かだ。鈴蘭も、そう言っていた。

 だというのに、この違和感はなんだ?

(そうだ、あの少女は……? 夢の中でおれに語り掛ける、あの巫女の少女の正体は……?)

 まだ、思い出せない。ここまで考えておいて歯痒いが、今は涙を飲むしかない。

(巫女の少女と、『イイヅナ様』……、そのふたつの関連性はわからない。だが、これらは互いに密接に関わり合っている。そのはずだ、そうでなければならない……)

 バラバラに散らばったこれらのピースがひとつになった時、おれは、ようやく、本当の記憶を……。

「おや、どうしました? 先程から、何やら顔色が優れないようですが……? どこかお加減でも……?」

「いや、何でもない。……続けてくれ」

 厚顔な性格に似合わず気を回す芥川をすげなくあしらう。

「そうですか、では、遠慮なくいきましょう。元々、そのつもりでしたからね。

 ……さて、イデア界のことはさて置き、あなたも、郷土史に目を通したのならおわかりのはずです。外部の人間が迂闊に触れてはならない事情というのが、大抵、いつの時代、どこの家庭にもあるということを。特に、大きな権力を有する者ほど、自らが負った傷は隠したいと考えるものです。生じた傷口から思わぬ雑菌が入るかもわかりませんからね。ちょうど、日本の忌まわしい文化のひとつである座敷牢のように、臭いものには蓋をする。それが賢い選択でしょう。賢明な判断です、英断ですよ。わざわざ自分から傷口を広げるような真似をしても、誰も得はしませんからね! あの唯一神でさえ、自らが造ったあの輝かしい熾天使を地獄の牢に封じ込めようとしました。結果的に神の企ては失敗しましたが、要するに、人が考えることは古今東西一緒だということです」

 確かに、図書室の郷土史にも記述があった。田舎では、足腰の弱い老人や精神障害者、身体欠損者などは、例外なく悲惨な末路を辿ったと。貧乏な家庭は彼らを山に捨て、裕福な家庭では座敷牢に繋ぎ、半ば監禁状態でその存在自体を隠匿したと言う。あたかも最初からそんな人間など存在しなかったように。

「そういった忌むべき存在が、日本の場合、いわゆる妖怪やら、怪異やらに姿を変えて、現代にまで伝え残されたのです。神隠しと言うのも言い得て妙ですね! 神の仕業にすれば全てが許されるのですから! まったく、人間とは得てして罪深い生物です! 恐れ多くも、神にさえ罪を被せるという冒涜を平然とやってのけるのですから! ……もっとも、これらの話は東女史からの受け売りです。が、そのゆえに信憑性は抜群です。太鼓判はすでに押されていますよ」

「…………」

 なぜ、神が存在するのか。所詮、人間のために利用されるでくの坊でしかないのか。

 神に関するおれの記憶は、なぜ、失われてしまったのか――。

「……それでも、真実を知りたいと願うのでしたら、是非とも覚悟だけは決めて頂きたいものです。『我々が深淵を覗き込む時、深淵もまた、我々を覗いている』のですから。……ニーチェ著『善悪の彼岸』の一節です。くれぐれも用心することですね。たとえ過酷な現実に直面したとしても、正気を失わぬよう――」

「……忠告、どうも。肝に銘じておくよ」

 本を抱え、席を立つ。

「どうしても――」

 芥川から背を向けたところで、奴がやにわに言った。腹の底から搾り出したような、力強い声だった。

「どうしても、尾前町の神について知りたいと思うのなら、文芸部部長東卓美女史に話を伺うのがよろしいでしょう。彼女はこの町の歴史に精通していますからね。もっとも、用意周到なあなたのことですから、彼女が郷土史について詳しいこともすでにご存知でしょうが」

「……恩に着る」

 そう言い残し、本を借り出すため司書のもとに向かう。

 

 …………………………。

 

 ……………………。


 ………………。


 ひと気の少ない高校の廊下を、ひとり、歩く。

 無事に本を借り終えたおれだが、芥川から口酸っぱく言われたことが何度も頭を打っていた。

(……神、神か。確かに芥川の奴の言う通りだ。いくら仕事のためとはいえ、このおれがわざわざ神について知ろうなどと……馬鹿馬鹿しい。酔狂にもほどがある。我ながらおかしな話だ。そして何より、一番恐ろしいのは、そうした自分の行動に対して今まで一切疑問を抱かなかったことだ。まったく、ふざけている。おれもついに焼きが回ったか?)

 あるいは、芥川がいみじくも言ったように、露木の奴に感化されたか。

(どちらにせよ、悪い兆候だ。現実主義者のこのおれが、神のために動こうとしているとは)

 以前のおれなら絶対に考えられないことだ。それこそ、天地がひっくり返ったとしてもありえなかっただろう。

(それでも、自分に嘘はつけない。仮に、本当に、おれが、少女と約束を交わしたというのなら、どうしてそれを反故ほごにすることができるだろうか?)

 神。神と言う存在。あまりも不確かで、今にも消えてしまいそうなほどに弱々しく、儚い存在。

 実際問題、たとえ、本当に神が絡んでいようとも、大いなる国策の前には神の存在など無意味だ。事実、神の住まうとされる土地は次々と買い上げられ、来年には空港建設着手によって更地と化す。この未来はほぼ確定している。何より、政府の犬であるおれもそれを望んでいる――。

 そこに、もう、神はいない。おれが信じていたであろう神は、もう……。

(だが――、おれは神を知っている。夢の中の少女が、それを証明している)

 直感していた。魂が震えるとは、まさに今のおれの状態を指すのだろう。

(神に関する失われた記憶と、徐々に失われつつある尾前町の土地。この繋がりは単なる偶然だろうか? いや、それにしては共通点があり過ぎる。何かが、そう、おれに強く訴えかけている……) 

 夢で、巫女の少女が、おれに語りかけてくる理由も、そこに潜んでいるはずだ……。


 …………………………。

 

 ……………………。


 ………………。


「東、聞きたいことがある」

 部室に入るや否や、単刀直入に尋ねた。

「……私に?」

 いつものように、椅子に腰かけて本を読む東が、おれの呼びかけに反応する。

「ああ、『イイヅナ様』についてな、知らないとは言わせないぜ?」

 しんと静まり返る。

 天宮、露木の痛い視線が刺さるが、構うものか。

「……きみも、か」

 何かを悟ったような、達観した口振り。

「きみも? それはどういう意味だ?」

「……いいや、何でもない。きみには関係ない話だ」

「……なら、いいんだがな」

 互いに出方を窺う。凛とした東の顔。垂れた目の内部に宿る澄んだ瞳が、おれを無感動に眺める。

「……『イイヅナ様』は、尾前町に古くから伝わる神様だ。それ以上は私の口からは説明できない。残念だが、諦めてくれ」

「それはできない相談だな」

「……ほう」

 無言で睨み合う。漂う行間から、相手の真意を探る。

「ちょっとちょっと、どうしちゃったのよシューヘイ。いきなり部室に来たかと思えば、タクちゃんを捕まえて『イイヅナ様』について尋ねるなんて。何か悪い物でも食べたの? それともリョーイチが何か余計なことを吹き込んだとか?」

「ちょいと事情があってね。今回ばかりは譲れないんだな、これが」

 というか、天宮、結局お前の差し金だったのかよ。

 ……まあ、いい。

「おれは、どうしても聞かなきゃいけないんだ。この町に伝わる神様……『イイヅナ様』のことを」

「……それは、どうしてだ?」

「どうしてもだ。強いて言うなら、このまま避けては通れないほど、『イイヅナ様』とおれとの間に因縁があるかもしれないってことだ」

「……なるほど」

 得心したように深く頷く。変化に乏しい仏頂面の東の表情も、幾分か柔らかくなったように感じられた。

「ちょっと待ってよ、話が一向に見えてこないんだけど……」

 そこで、天宮がわめき出した。自分が置いてけぼりなのは我慢がならないとで言いたげに余計な口を挟む。

「でも、どうして? どうしてあんたが、『イイヅナ様』について聞きたがるのよ? それに因縁って……。都会住みのあんたと、『イイヅナ様』に、どんな関係があるっていうのよ? タッちゃんやアッちゃんならともかく、何でシューヘイが……」

「浅間や高井戸のことなんて、関係ない。これはおれの問題だ」

 やかましい周囲の喧騒を力ずくで黙らせる。

 そこで、東が嘆息を漏らした。

「……大した度胸だな、副部長にそんな反抗的な態度を取るなんて。とんだ怖いもの知らずがいたものだ。しかもその上、『イイヅナ様』のことを知りたいだって? ……なるほど、確かに銀治郎が見込んだだけのことはあるようだ」

「……それは、どういう意味だ?」

「いいだろう、そこまでの覚悟があるというなら、私も『イイヅナ様』の話をするのにやぶさかではない」

「それは、本当か?」

「ただし、条件がある」

「条件? 構わない、言ってみろ」

「私からひとつ、忠告しておく。これが聞き入れられないなら、私は『イイヅナ様』にまつわる話をきみにするわけにはいかない。重ねて言うが、『イイヅナ様』の話はおいそれと口外するわけにはいかないんだ。そういう決まりが、この町にはある」

「だろうな、おれも薄々感じていたよ。町の人は基本的に友好的なのに、『イイヅナ様』のことになると妙によそよそしくなる。まるで箝口令かんこうれいでも布かれているみたいにな」

「……それは、正しい。町の人は昔からこう教わっている。『イイヅナ様のことをよそ者に話してはいけない』と。だから滅多なことでは口にすることはできない」

「それは、なぜだ? そこまでして隠す理由があるのか?」

「ある意味では、そうだ。神様のことを知るということは、神様との間に縁を作るということに他ならない。『縁起えんぎ』と言う概念がある。仏教が起源の教えだが、神仏習合の色合いが濃い尾前町では神様にも適用される。両者の間で結ばれた縁は簡単には切れない。場合によっては、一生背負うことになる。深く関われば関わる程、神様もまた、きみとの縁をより強固なものにする。だから、不用意に神様について口外してはならないと固く教えられている。……それでも、知りたいのか?」

「今さら、逃げも隠れもしねーよ」

 脅しのつもりかどうかは知らないが、おれはとっくに覚悟を決めている。恐怖など、もはや毛ほども感じない。

 もう、あとには退けない。おれはすでに、神様と縁を結んでいるのだ。それも、きっと、おれが考えているよりも深く、強く。

「……わかった」

 おれの決意を読み取ったか、東は小さく頷いた。

「なんだかあたしの知らないところで、話がどんどん進んでいるわね……。サッちゃんたちがいないのも気掛かりだけど、まさかシューヘイが『イイヅナ様』にこれほどまでの執念を覚えているなんて思いもよらなかったわ」

「……そうだな」

 周りの声に誘われ、ふと部室内を見渡せば、浅間、高井戸の姿がないのに気付いた。浅間兄の方は別に珍しくないが、妹の方もいないのは驚いた。

(何かあったのか? ……いや、今は余計なことに気を取られている場合じゃないな)

 外部に向いた意識を、再び自分の方に戻す。

「聞かせてくれ。この町の歴史に根付く『イイヅナ様』の話を。おれにはその権利がある」

 しばらく無言で睨み合う。

「……わかった。そこまで言うなら話すとしよう。きみが絶対に後悔しないと願うばかりだがね」

 物憂げな瞳でおれを眺める東は、意味深につぶやく。

 誰かが生唾を飲み込む音が聞こえた。ひょっとしたら、それはおれが発したものかもしれないが、そんなことを気にする余裕はすでになくなっていた。それくらい、おれは、東の次なる発言に集中していた。

 ――いよいよか。

 いやが上にも高まった期待は、しかし、呆気なく裏切られることになる。


 ガララ――


「み、皆さん! 大変です!!」

 不意に高井戸が血相を変えて飛び込んできた。よほど急いでいたのか、ぜえぜえと肩で息をしている。

 東の方に傾いていた皆の意識が、一斉にそちらの方に向く。

「今日は色々と騒々しい日ねえ……。なになにアッちゃん? 一体、どうしたっていうのよ」

「せ、先輩が……、浅間先輩たちが……」

「なあに? タッちゃんたちがどうかしたの?」

「そ、それが……」

 そこまで言って、口をぱくぱくとさせる。過呼吸気味にヒューヒューと漏れる空気の音がいやに生々しく響く。

「あ、あ、あの……、なんて、なんて言えばいいのか……」

 小刻みに震える指先と肩。よく見れば彼は顔面蒼白で、まるで恐怖に竦んでいるかのようだった。

 嫌な予感がする。

 他のメンツも、高井戸の異常な様子に気付いたか、言葉を失い、呆然と居尽くしていた。

 瞬く間に、部室内は異様な雰囲気に包まれた。

 ただ、東だけが、眉ひとつ動かさずに平然としているのを、おれは見逃さなかった。

「落ち着け、何があったのは知らないが、話してくれないとわからないだろ」

 露木が高井戸の気を静めようと声をかける。

「はい……、……そうですよね……、でも、こんなことになるなんて……」

「だから、とりあえず落ち着けって。別に急かしたりはしないから」

 涙目でコクリと頷く。

「……先輩……、浅間先輩と……、咲江さんが……」

 そして、ややためらったあと、その震える口を開いた。

「浅間先輩たちが……、昨日から行方不明で……、家の人とも連絡がつかないって、さっき、先生が話していて……!」

「……!!」

 現実は、残酷な事実を突き付ける。

 夢の続きは、悪夢と変わる。

「……だから、忠告したんだ」

 東がつまらなそうにつぶやく。

「……『イイヅナ様』のことなんて、本当は知らない方がいいんだからな」

 おれは、頭が真っ白になった。

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