第十話 予兆

「……なるほどな」

 目的地に到着するや否や、そうつぶやかざるを得なかった。

 いや、実際は、そこに辿り着く前から、薄々、そうではないのかと疑念を抱いていた。ある意味、期待していたのかもしれない。

 果たして、それは現実となった。

「……ここは、いつも通りだな」

 正門を抜け、赤、黄などの色合い豊かな花が植えられた花壇の横を過ぎたところで、露木が小さく息を吐く。

 露木に連れられ、やって来たのは、例の孤児院だった。

 今が昼下がりの時間帯だからだろう、滑り台や砂場などの遊具の設置された中庭で子供たちが遊んでいる姿が目に入る。

「……拍子抜けか?」

 振り向きざまに、不敵な笑みでそう尋ねる。

「いや、ある意味、予想通りだよ」

 小憎らしく軽口を叩く露木に負けじと、にやりと口角をつり上げる。

「しかし、お前も物好きだな。わざわざおれを孤児院に招待するなんてよ。しかも、ここに来たのは昨日の今日だってのに。相手が相手なら鼻白はなじろむどころか、場合によっちゃ激怒することもあるだろうぜ。『せっかく高校の退屈な授業から解放されたというのに、どうしてこんな面白味のない場所に連れて来るんだ』ってな」

 冗談めかして言うと、露木は鼻で笑う。

「構わん、年中、目先のことや遊ぶことしか考えていないような器量の狭い奴に用はない。それこそ程度が知れるってだけで儲けもんだ」

「なるほど、選別の意味も含めているわけか」

「できれば、信用できる人間しか、中に通したくないからな」

「とすると、おれは、お前の信頼に足る人物ってことか?」

「だから、それをこうして確かめている」

「へ、相変わらず、口の減らない男だな、お前は」

「お前もな、風祭。まったく、ふところの知れない男だ」

 互いに互いの腹の内を探る。相手の神経を逆撫でしかねない強気の態度は、相手の本心を引きずり出そうという魂胆のゆえだ。

「……しかし、本当にいいのか? おれのような部外者が、こうも簡単に孤児院と、教会堂の敷地内に入ってよ」

「……昨日、執事の喜多八さんが言っただろう? 教会堂の門は、誰の前にでも開かれていると。それがたとえ罪人であろうとも――俺的には、一昨日のヤクザみたいな人間はゴメンだが――誰も拒みはしない。心の中に、ひとかけらでも良心があるのなら、ここの人は何もとがめはしない。もっとも、孤児院の子たちにお前を紹介するかどうかは、また別の話だが」

「……露木、お前……」

 思わず嘆息を漏らす。

「……なんだ? 気の抜けた返事して。なんだか気持ち悪いな」

「いや、よくもまあ、別段、信者でないにもかかわらず、そういった信心深いセリフがポンポンと飛び出る物だと、感心してな」

「……それは、俺に対する皮肉か?」

「ちげーよ。何もそこまで卑屈になることはねーだろ?」

「それは、そうだが……」

「とにかく、凄いってことだよ。おれにはとても真似できるもんじゃない」

 肩をすくめて言ってみせると、露木も悪い気はしないのか、ポリポリと頬を掻く。

「……だろうな、芥川の野郎にもよく言われる。『あなたは彼らの親族でもなければ、厳格なクリスチャンでもない。それなのに、どうして彼らにそこまで肩入れするのか、はなはだ理解に苦しむ』ってな」

「……それは、厭世家えんせいかの芥川らしいな」

 だが、その疑問はおれも同じだった。孤児院の子供たちの世話を始め、教会堂の行事にすら定期的に参加するという器量の大きさと、懐の深さ。どう考えても、ただの一般人――それも高校生――がやることではない。他人にさほど興味を覚えず、おれにとってはまさに頭が下がる思いだが、実際問題、彼がそこまで骨を折る理由がないのも事実だった。その一点が奇妙であり、かつ不可解だった。これが自分の将来に繋がるとか、謝礼金を貰えるとかの裏があるのなら話は別だが、彼の様子から察するに、どうもそうではないらしい。では、何のために? どういう意図で、彼は他者に尽くすのか? 経験を積むため? しかし、露木は、人助けの最たる境地である医者になるつもりすらないと言う。おあつらえ向きに、父が医者なのだから、本人さえ望めばすぐにでも道が整う。彼の思慮深さと優れた頭脳をもってすれば医学を履修することなど容易いだろう。それにもかかわらず、露木はこうして足繁く孤児院に通い、貴重な休日を使ってまで自分の時間を費やす。勉強する時間を割いてまで、人に尽くす。まるで、とでも言わんばかりに。

「……俺にも、よくわからん」

 おれが奴をどう思っているのかを察したのか、露木は短くそう言った。素っ気なくつぶやかれた言葉とは裏腹に、その語気はいやに自信に満ち溢れていた。

「だがな、どうしても放っておけないんだよ。困ってる人や、苦しんでいる人を見過ごせないんだ。どうしても……無視できない」

「……ふーん」

 淡々と、しかし熱っぽく語る露木の横で、おれは思い出していた。いつだったか、他人の世話を焼く露木を、乱暴者の明星は『偽善者』と扱き下ろし、あざけったことを。

「……お前も、おかしいと思うだろう?」

 冗談めかして笑って見せるが、その目には強い光が宿っていた。

「まあ、な」

 小さく頷く。

 確かに、露木の取る行動に疑問というか、おかしな点が見出せないと言えば嘘になる。それは事実だ。

 しかし、同時に、『誰かのために己をかえりみず行動を起こす』彼に対して、畏敬いけいの念と言うか、正体不明の感情を抱かざるを得ないのも、また、偽らざることだった。露木を単なるお人好しと切り捨てられない何かが、おれの内部から湧き上がり、うごめき、支配する。

(なぜだろう、こいつを笑う気にはなれない。損得勘定を抜いた行動は、しばしば感情的で愚かな行為だと教わったはずなのに、奴に限ってはそう思えない。むしろ、どうしようもないほどの神々しささえ感じさせる)

 我ながら、馬鹿馬鹿しいと思った。感情論にほだされるなど、おれらしくもない。

(一体、何が、こいつを突き動かす? ……いや、違うな。動機なんて、この際どうでもいい。それよりも、奴の存在が、が問題だ。つまり、こいつの取っている行動は、利得りとく損益そんえきを度外視した、後先考えない無謀なものであるはず。それなのに、おれは奴に感銘を受けている。なぜ? 奴の何が、おれに、こんな錯覚をさせるというんだ……?)

 正義感、義務感、道徳的規則……、そのことごとくが、おれの持つ知識の範囲外にあった。それが尚更、おれがこれまでに得た経験に基づく知能の矮小わいしょうさを惨めにもさらけ出させ、情けなく恥じ入らせる。

 納得のいく答えは、到底、導き出せそうもなかった。

「あー、ギンちゃんだ~」

 子供たちがにぎやかに駆けまわる中庭の方から、おっとりと間延びした声が届く。

 見れば、背の低いひとりの少女が、こちらに向かって満面の笑みを浮かべながら、両手を目一杯の高さにあげていた。

 少女は、自らの存在を誇示するように掲げた両手を元気よく振り回し、とてとてと、危なっかしい足取りで露木のもとに駆け寄る。

「おかえり~、待ってたんだ~」

 真っ白な肌と、カールしたふわふわの長髪。新雪のように汚れない、屈託ない笑みがまぶしい少女は、露木の服の裾をギュッと掴み、離そうとしない。

「よ、ゆきみ。良い子で待ってたか?」

 露木は少女の視線の高さまで身を屈めると、優しい笑顔で問う。

「うん、ゆきみはね、ちゃんと待ってたよ。キライなにんじんもちゃんと食べたんだよ。ご本だってちゃんと最後まで読んだんだよ。ゆきみ、ギンちゃんの言いつけをちゃんと守ったんだよ」

「そうか、そうか」

 小動物でも手懐けるかのように、少女の頭をわしゃわしゃと撫で回す。

 ゆきみと言う少女は、気持ちよさそうに目を細めてそれを受け止める。

 おれは、呆然と、二人のやり取りを見ていた。

「おじちゃんは、だあれ?」

 ゆきみは不安げな面持ちでおれを見る。心なしか、露木の服の裾を掴む手にも力が入っているように見える。

「ぷっ……」

 人の気も知らずに吹き出しやがる露木。

(……おじちゃん……)

 無垢な少女からおじさん扱いされたことに少なからぬショックを受けたが、それをおくびにも出さないように優しく微笑む。

 肩を震わせて笑いをこらえる露木のヤローはあとでしめる。覚えてやがれ。

「初めまして、おれは風祭周平。この露木とは同じ学校に通っていて、その縁でここにやって来たんだ」

「……じゃあ、おじさん、悪い人じゃないの?」

「もちろん! むしろ、彼の一番の友達だよ」

 あてつけのように言ってやる。

「……ギンちゃんのおともだち?」

「そうそう、おともだち」

 にこにこと笑顔を作り、自分を指さす。

 まだ疑い(そもそもが冤罪)が晴れていないのか、小さく首を傾げるゆきみ。涙に濡れた上目遣いでおれをジッと見据えるが、ここぞとばかりに己の人畜無害さを誇示してみせる。

「ゆきみ、このはな、ここの皆と友達になるために来てくれたんだ。怖そうに見えて、じつは優しいなんだよ」

 聞こえよがしにあることないこと吹聴する露木。あの愉快そうな表情は、明らかにこの状況を楽しんでやがる証拠だ。

(くそ、黙れ露木。今が肝心な時なんだ。茶々を入れるのは許さんぞ)

 仕返しとばかりに見えない圧を送ってやる。まあ、ほとんど無意味だろうが。

「そうなの? おじさん、良い人なの?」

 不毛な戦いを繰り広げ、激しい火花を散らすおれと露木のことなど露知らず、ゆきみは、もう一度、おれを見る。純真そうに向けられた眼差しと表情から緊張の色はほとんど消え、元のようなあどけなさが戻っていた。

 よし、あと、もうひと押しだ。

「うん、露木の言う通り、おれは、ゆきみちゃんや、他のみんなとおともだちになりたくて、ここまで来たんだ。ゆきみちゃんさえよければ、おれの友達になってくれないかな?」

「ゆきみが、おじさんのおともだち?」

「そう、初めてのおともだち」

「うん! いいよ!」

 花が咲き誇ったかのような満面の笑み。

「……ほう、やるじゃないか」

 傍から眺めていた露木が、ふっと柔らかく息をつく。

 この瞬間に、おれと、ゆきみは、露木も公認の『友達』になったのだった。


 …………………………。


 ……………………。 


 ………………。


 ゆきみと『友達』になったおれは、露木の先導で孤児院の方にも足を運んだ。孤児院に住む子供たちに挨拶するためだ。

 突然現れたおれに対して、孤児院の子たちは興味半分、懐疑半分の視線を隠そうともせず率直に送るものだから、いやに緊張した。いきなりの無茶ぶりには不安もあったが、露木の仲立ちもあって、無事に自己紹介は済んだ。はっきり言って、登校初日よりも緊張したのは内緒だ。

 孤児院の子は、ざっと見積もって12、3人はいた。年少者は5歳から、年長者は15歳と幅広い。男女比率では男の方が多かった。中でも、ゆきみは特別浮いていた。妙に子供っぽいと言うか、同年代の他の子供たちが大人びているのに対して、彼女だけはどこか浮世離れした危うさがあった。ひょっとしたら、何らかの疾患があるのかもしれない。生い立ちにも起因するものがあるのだろう。だが、誰も、彼女を特別扱いしようとはしなかった。あくまでも孤児院に住む共同体の仲間として、他の子たちと何ら変わらぬよう接していた。おそらく、そういう教育方針なのだろう。

 中庭で行儀よく整列した孤児の中には、昨日、神なんていないと強烈な捨て台詞を吐いた十兵衛という少年もいた。歳は12歳で、Tシャツに短パンという、いかにもな腕白小僧わんぱくこぞうだ。

 全員の紹介が終わった後、おれは孤児院の子らと一緒に過ごした。基本的に彼らは人懐こく、おれが友好的に接している限りは敵意を向けることもなく、むしろ餌を求める小動物のように群がってくるほどだった。おれは彼らに都会のことを話してやった。乱立するビル群、整備された道路、忙しなく行き交う人々、眠らない街並み。彼らはまるで夢物語を聞くようにおれの話に聞き入っていた。想像力豊かな子供たちは、あたかも自分が登場人物の一人であるかのように自らを重ね合わせているに違いない。

 やがて、ひとしきり話した後、しばらく小休憩を挟んで解散ということになった。

 子供たちは各々自由に行動し始める。絵本を読む者、人形遊びをする者、外で駆けっこする者……三者三様だ。

 露木とゆきみの方を見る。二人は仲睦まじく寄り添い合っている。

 二人は、おれが話をしている最中も、ずっとそんな感じだった。

「ゆきみ。今日は随分と行儀がいいじゃないか」

「だって、約束したもんね~」

 にこにことした表情でゆきみは言う。舌足らずの口調は少女の幼さを殊更に強調し、おれに妙な感慨を抱かせる。

(約束……)

 その品詞を頭の中で復唱するや否や、おれは強烈な悪寒を覚える。

 脳髄が内側から揺さぶられるような衝撃に、危うく意識を失いかけた。


『約束……ですよ』


「……っ」

 どこからともなく聞こえる言葉。他でもない、おれの内部から響いていた。

『約束』。夢の中に現れる紅白の装束を着た少女が度々口にする言葉。漢字にしてたった二文字のそれに、一体、どれほどの意味が込められているのだろう?

(……おれも、おれも昔……、彼女のような少女と、何か、約束を交わしたような……気がする)

 とても、とても大事な……約束を……。


『約束……ですよ?』


『うん、約束するよ』

 

 ――何を?


 おれは、誰と、どんな約束を交わしたと言うんだ?


『必ず……、必ず、来てくださいね?』


 ――どこに?

 

『絶対、迎えに行くよ』


 ――誰を、どうやって?


「――っ」


 頭が痛い。ここが本当に現実なのかどうか、正常な判断が下せなくなる。

 白む視界、遠のく意識。酷い耳鳴りが頭の中で鳴り響き、平衡感覚を狂わせる。

 おれは夢を見ているのか? いや、そんなはずは――。

「おい、どうした、風祭?」

 はるか遠方から、聞き慣れた声が届く。

「なんだかひどく顔色が悪いようだが?」

奴の――露木の――声に揺り起こされ、おれは正気を取り戻す。

「……いや、なんでもない」

 頭を横に振って否定する。

「……そうか、ならいいんだが」

 おれの返答に眉をひそめるも、追及はしてこなかった。

「それじゃ、シスターや、喜多八さんに改めてお前を紹介するとしよう。俺についてきてくれ」

「へ、今からか?」

「だから、さっきからそう言ってるじゃないか」

 どうやら、おれの意識が飛んでいる間に、そういうことになっていたらしい。

「本当に大丈夫なのか?」

「……ああ、何も、問題はない」

 露木の疑問に生返事して答える。奴はしばらく怪訝そうにおれを見ていたが、やがて興味を失ったように視線を外す。

「じゃ、行くぞ」

 孤児院の一室を抜け、施設に通される。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「あら、いらっしゃい、銀治郎くんに……、周平くん、だったわね」

 事務仕事をしている統率者のシスターに挨拶すると、彼女は書類整理の手を止め、にこりと柔らかな笑みを浮かべる。昨日のような修道服ではなく、普通の服――ワンピースタイプのゆったりとしたロングスカート――を着ているので新鮮に映った。

「それにしても、驚いたわね。銀治郎くんが同年代の子を連れて来るなんて。しかも、一度ならず二度までも」

 おほほと、からかうように笑う。

「余程、彼のことが気に入ったのね。うん、あなたなら、銀治郎くんの良いお友達になれると思うわ。もちろん、ここの子たちともね」

「シスター、あまり変なことを吹き込むなよ。風祭がどう反応すればいいのか困るだろ」

「あら、そう? でも、ごめんなさいね。こんな田舎だと、子供たちの反応を見て楽しむぐらいしか娯楽がなくてね」

「……うわさ好きのおばさんかよ」

「ん? 何か言ったかしら?」

「いいや、何でもねえよ。……じゃ、俺、ゆきみたちの面倒見てくるから」

 シスターの額に青筋が浮かんだのを見て取り、露木はさっさと退散する。さすが、部活動でも天宮という爆弾を抱えているからか、危機察知能力に優れている。一方で、地雷を的確に踏み抜く無神経さは相変わらずだが。

「……まったく、あの子の口の悪さは変わらないわね。本当は誰よりも優しいくせして、素直じゃないんだから」

 そそくさと逃げる露木の背を見送り、やれやれと、保護者らしい温かな口調で言う。

「露木は昔からああなんですか?」

 尋ねると、シスターは目尻を下げて柔和に微笑む。

「そうね、わたしも長いことここに勤めているけど、銀治郎くんはずっとあんな感じよ。口では素っ気ない素振りを見せているけど、いつも誰かのために心を砕いて行動する、とても優しい子」

 彼が去った方に向き直り、尚も慈しみの視線を送りながら、シスターはとつとつと語る。

「特に、ゆきみちゃんをとても大事にしていてね。本当の兄妹かと思うぐらい……、いえ、それ以上の固い絆で結ばれているわ」

「それは、見ていればわかります。あまりにも仲が良いので、ちょっと驚きましたよ」

「そうね、ふふ、ゆきみちゃんは本当に銀治郎くんに懐いているのよ」

 頬に手を当て、小さく溜め息。

「……ゆきみちゃん、今でこそ孤児院に馴染んでいるけど、ここに来た当初は、誰とも心を開かなくてね。部屋の隅でずっとうずくまっているような、そんな子だったの」

「へえ……、ちょっと、想像がつかないですね」

 むしろ、人馴れしているように見える。

「虐待されていたのよ。ゆきみちゃん」

「…………」

 少女の身の上を語る上でまったく似つかわしくない物騒な単語が当然のごとく飛び出た事実に面食らい、一瞬、言葉を失う。

 そして悟る。ここでは、何も、そういった惨たらしい仕打ちは特別なことではないのだと。シスターの神妙な横顔が、それを物語る。

「元々、片親のもとで暮らしていたんだけど、親御さんはゆきみちゃんをうとましく思っていたみたいで、半ば育児放棄みたいな形だったの。それこそ、満足な食事も与えられず、外出さえ許可されない。言い方は悪いけど、半ば監禁状態で、愛情を注がれぬままに育ったから、ずっと塞ぎ込んでてね。誰とも視線を合わせようともせず、いつも隅っこで怯えていたわ」

「……そうですか」

 やっとのことで絞り出した言葉は、しかし、ほとんど意味を成さないものだった。

「ゆきみちゃんがそんな感じだから、わたしたちの方でも扱いかねていてね。無理にみんなと一緒にしようとすると暴れ出しちゃって手が付けられなくなるし、かといって、ずっとひとりにさせておくわけにもいかないし……」

「…………」

「でもね、銀治郎くんだけは違ったわ。わたしたち大人ですら腫物を扱うみたいに接していたのに、彼はゆきみちゃんを普通の子供と同じように、気さくに声をかけていた。拒絶されてもめげずに、辛抱強く話しかけていた。そんな銀治郎くんにだからこそ、ゆきみちゃんは頑なだった態度を徐々に和らげ、ついに心を開いたのね。わたしたち教職員も、反省したわ。いつの間にか、子供たちの心に寄り添うという大事なことを忘れていたのだから」

「………………」

「銀治郎くんがあの子の家族代わりでもあり、同時に、親代わりでもあり、信頼できる相手なの。彼の前ではずっと笑顔でいるし、素直に言うことを聞く。わたしたちも本当に驚いたものよ、あのゆきみちゃんが、あんなに元気を取り戻すなんてって」

「……そんな経緯が、あったんですね」

 露木が去った方角を見る。今、彼のすぐそばには、きっと、ゆきみの姿もあるのだろう。天使のような笑顔を浮かべて、少女は、幸せを噛み締めているに違いない。かつての地獄を忘れ去るように……。

「彼は不思議な子よ。誰とでもすぐに打ち解けて、その人の本当の姿と言うか、本来性を上手に引き出すの。閉ざされた扉を簡単に開けてしまう鍵士のように、固くなった心を解きほぐす……、わたしたちでも難しいことを、彼は難なくこなしてしまう。ふふ、ちょっと嫉妬しちゃうわね」

「……わかるような気がします」

 現に、この町での暮らしが円滑に回っているのも、奴の存在が大きい。学校生活もそうだが、新たな人間関係の構築に一役も二役も買って出ている。

 天宮の奴も、露木には絶対の信頼を置いていたみたいだし……。

「お医者さんの息子という肩書抜きに見ても、彼は素晴らしい人間だわ。彼がいるから、この孤児院と教会堂が、今まで持ったようなものだしね……」

「それは、どういうことです?」

「……明星くんって、知ってるわよね?」

 ためらいを思わせる沈黙のあと、シスターはおれに問い返す。愁いを帯びた表情からは、何か重たい物が感じ取れた。

「これは喜多八さんから聞いた話なんだけど、彼には、ひとりのお兄さんがいるの。呂久郎ろくろうくんって言うんだけど、生まれつき病弱でね、ほとんど学校にも行けずに、露木くんの実家である診療所で入退院を繰り返して、療養生活を余儀なくされていたらしいわ」

「……」

「銀治郎くんは、同年代の友人がいなかった呂久郎くんと友達になったのよ。天涯孤独の身だった彼を……救ったの」

「……」

「勉強や、娯楽、そして神様のこと。人生に大事なものを、銀治郎くんは色々と教えてあげたみたい。だから、当初は常に表情の硬かった呂久郎くんも、徐々に元気を取り戻していったらしいわ。そんな時、診療所に常備されていた聖書を読ませてあげてね。……驚いたことに、長らく悪化と小康状態を繰り返していた呂久郎くんの病状が快復に向かったのも、その頃なのよ」

「……まさか」

「そう、そのまさかよ。それは単なる偶然かもしれない。でも、銀治郎くんのお父様であり、町のお医者様である兼定かねさださんや、喜多八さんを始め、呂久郎くんを昔からよく知る人は口を揃えてこう言ったわ。まさに『奇跡』だって」

「………………」

「そうした事情もあって、この孤児院と教会堂は、神の存在を伝え残す場所として、銀行から多額の援助も受けることができたの。呂久郎くんが銀行家である明星家の長男であったことも拍車をかけてね。長年、経営が危なかった施設も安定した状態を保つことが可能となった。彼は、銀治郎くんは、孤児院と教会堂の首の皮を繋ぎ止めた恩人でもあるの」

「……聞けば聞くほど、恐ろしい奴ですね」

 嘆息しか出ない。あの、露木銀治郎という男に対しては、尊敬の念を通り越し、畏怖せざるを得ない。

「彼には、もう、充分頑張ってもらったわ。今度は、わたしたちがしっかりしないとね……」

 シスターは、沈痛な面持ちでそう言った。

「……背に腹は、代えられないもの」

 この言葉が何を意味するのか、結局は部外者のおれにわかるはずもなかった。

 ……時間は無情にも過ぎ去っていった。

 最後に、シスターの懇願もあって、孤児院の子供たち全員と記念写真を撮った。

『みんなの良い思い出になったわね』。そう言って微笑むシスターの表情は、何とも形容しがたい影に覆われていた。

 1966年7月5日。

 孤児院所蔵のアルバムに、記念すべき一枚が収められることになった。――そう思うと、少し嬉しい気持ちが湧き上がると同時に、無性に悲しくなった。

 

 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 帰り際、例の十兵衛がおれを睨んできた。

「おい、おまえ」

 なぜか、話しかけられた。

「どうした十兵衛、風祭に用があるのか?」

 露木の問いに、十兵衛はこくこくと頷く。

「というわけだ、風祭。十兵衛が何か話があるらしい」

「……おれに?」

 なんだかよくわからないが、彼の表情を見る限りでは、確かにそのようだ。

「こっちに来いぞ」

 おかしな口調の十兵衛はそう言うと、足早に奥の方へと行ってしまう。

「ギンジローとゆきみは、ついてこなくてもいいぞ!」

 振り向きざま、そんなことを叫ぶ。

「……だそうだ」

「……ああ」

 露木と顔を見合わせる。

 腑に落ちないが、仕方がない。

 とりあえず、十兵衛少年のあとについていく。

 辿り着いたその先は、教会堂の裏、木材や、祭事に使われると思しき道具が置かれているところだった。周囲は塀と壁に阻まれ、内緒話をするにはうってつけである。

「おまえ……、昨日もいただろぞ?」

 じろじろと、試すようにおれの全身像を眺めながら言う。

「ああ、そうだな。昨日は、礼拝に参加しに来たんだよ」

「ふーん……」

 やはり、部外者が珍しいのか、穴が開くような勢いで尚もおれを一心に見詰める。

(一体、なんだって言うんだ?)

 彼がおれをここまで連れてきた意図がイマイチ読めない。そもそも、おれは彼のことをよく知らないのだから、当然だが。

(昨日、顔を合わせたとはいえ……)

 それ以上の接点はない。

「じゃあ――」

 いい加減、おれを眺めるのにも飽きたのか、十兵衛は意を決したように口を開く。

「じゃあ……、おまえは神様を信じているのかぞ?」

 おもむろにそう尋ねてきた。まさか少年の口からそのような質問が来るとは思っていなかったので、一瞬、呆気に取られる。

「……まあ、一応」

 この場合、どう答えるのが正答なのだろうか? よくわからないので、曖昧に返答する。

「ぼくは、神様なんて信じちゃいないぞ」

「…………」

 これまた意外な言葉だった。子供――それも、教会堂を擁する孤児院で暮らす少年――らしからぬ意見に虚を突かれ、返事に窮する。

「だって、神様が本当にいるのなら、ぼくたちをこの町から追い出そうなんてしないはずだぞ」

 うつむき加減に切々と言う。

 どうやら、孤児院の子たちは、あと数カ月足らずで孤児院と教会堂の両方が取り壊されるということを知っているようだ。まあ、だからこそ、より残酷でもあるのだが。

(神様はいない、か……)

 少年の言葉を反芻する。それは昨日も聞いたことだった。おそらく、少年はこう思っているのだろう。本当に神が存在するなら、真っ先に困っている人間を助けるはずだと。しかし、そんな奇跡は起こらない。貧しい人はどんどん貧しくなり、苦しんでいる人から先に倒れていく。その悲惨な現実を前に神をどうやって見出せばいいと言うのか?

「おまえは、都会から来たんだろ? ギンジローやシスターからそう聞いたぞ」

「……それが、どうかしたのか?」

「都会に、神様を信じている人はいないんだろ? ぼくはそう教えられたぞ」

「…………」

 子供ながらに鋭い洞察力。内心、たかが田舎の少年と高をくくり、油断しきっていたおれは舌を巻くほかない。

 確かに、都会で暮らす人間で信心深い奴はほとんどいないだろう。皆が皆、拝金主義者か、それに近しい思想の俗物で埋め尽くされている。無論、おれ自身も、似たような考えであることは否定できない。日本が資本主義国家である限り、その呪縛からは逃れられないのだ。

「誰も神様なんて信じていないんだぞ。少なくとも、ぼくはそうだぞ」

「……それは、他の子たちも同じか? 他の子も、神様なんていないって、そう言っているのか?」

「………………」

 質問に答えず、黙りこくる。

「だんまりはよくないな」

 窘めるように、ちょっと語気を強める。

「おまえは神を信じていない。それは別に構わない。立派なひとつの意見だ。でも、それはあくまでもお前自身の考えであり、真実じゃない。神が本当にいるのかどうかなんて、誰にもわからない。でも、信じることはできる。あの露木だって、そう考えているはずだ。だったら、それでいいんじゃないか?」

「……それじゃ、神様ってのは、いったい、何なんだぞ?」

 顔を上げ、睨むような、それでいて懇願するような表情で尋ねる。

「さあな、おれにもよくわからん」

「……なんだよ、それ」

 恨めしそうに問う。

 だが、おれの方は極めて楽観的に構えていた。

「この世界には色々な人がいて、様々な考えがある。都会と田舎、日本と外国のように、文化も違えば、話す言葉だって異なる時がある。要は人それぞれだってことだ。おれと十兵衛が違う人間であるように、何もかもが同じってことはありえない。皆が皆、神を信じるわけじゃないのはそのためだ。それだからこそ、神は存在しないのかもしれない。誰かにとっての神様は、他人にとっての虚像かもしれないんだからな。おれが話せるのはここまでだ。神様については、あとで露木にでも聞いたらいいんじゃないか? おれよりもあいつの方がよっぽど詳しいぜ」

「……おまえ、なかなかおもしろいやつだぞ」

 終始、ムッとした顔付きだった十兵衛だが、ここに来て初めて笑顔を見せる。少し日焼けした肌に映える白い歯を無邪気そうに覗かせた表情は、やはり腕白小僧らしい。

「露木の奴にも言われたよ、まったく、おれはいつでも大真面目なのにな。顔だって、露木みたいにへんてこな造形をしてるってわけでもないのにさ」

「おいおいおい、いいのかよ? そんなこと、ギンジローが聞いたら顔を真っ赤にして怒り出すぞ」

「いいよ、別に。むしろ見てみたいもんだ。あいつの顔が、天狗みたいに赤くなるところをよ。もっとも、最初から似たようなもんだが」

「くっく、言えてるぞ」

「なんだ、わかってるじゃねーか」

 二人して、声を潜めて笑い合う。もう、互いに対する偏見や誤解、警戒心などは、ほとんどなくなっていた。

「……じつは、神様がいないって言うのは、半分うそで、半分ほんとうなんだぞ」

 ひとしきり笑い合ったあと、神妙な表情で不意に心境を漏らす。おれは何も言わずに耳を傾ける。

「教会堂の人が言う、十字架にはりつけにあった神様は信じていないけど、別の神様のことは信じているんだぞ」

 腰に手を当て、ふんぞり返る。いやに自信満々な姿を前に、その神とやらに対する好奇心が募る。

「なんだ、それは……、気になるな」

 まさかと言う期待を胸に秘め、尋ねる。

「おまえなんかには教えてあげないぞ」

「……あっそ」

 じゃあ、いいや。

「なんだよ、そこは『教えてください』ってぼくに頼み込むところだろ」

 いや、知らんがな。

「じゃあ、教えてくれよ。その『神様』とやらを」

「ふん、おまえなんかには教えてあげないぞ」

 こいつ……。

 にやにやと笑う十兵衛に対して殺意が芽生える。

「でも、ヒントぐらいは与えてやるぞ」

「ヒント?」

「聞きたいかぞ?」

 生意気な十兵衛は、勝ち誇ったような嫌味な表情でおれを見る。さっきまでの情けない泣き顔とは正反対だ。

 まったく、子供ってのはすぐに調子に乗りやがる。

(ここで断ったら、また面倒なことになりそうだな)

 さすがに学習した。

「せっかくだから、そのヒントとやらを聞かせてくれ」

「おいおいおい、人に物を頼むときには、それ相応の誠意が必要だろうぞ?」

「……は?」

「聞こえなかったかぞ? と言ったんだぞ」

「…………」

 こ、こいつ……、子供だと思って甘くしてれば付け上がりやがって……。

 だが、ここでカッとなっては年長者の面目丸つぶれ。今までに築いた――と言っても僅か数分だが――信頼関係が台無し、元の木阿弥もくあみである。

「教えてください、十兵衛さん。その神様のお名前を是非ともこのわたくしめに」

 言われた通りに頭を下げる。

「おいおいおい、まだまだ頭が高いぞ。控えおろうぞ。ぼくを誰と心得ているんだぞ」

「へへぇー、おみそれしましたぁー」

 ……なんだこりゃ。自分で演技しておきながら早々に呆れ果てる。

「まだ少しが高い気がするけど、ぼくは寛大だから、今回のところは大目に見てやるぞ」

「ははぁー、ありがたき幸せぇ」

(いちいち、しゃくさわる言い方をする奴だな……)

 冷静さが売りのおれもさすがにカチンときたが、子供のやることにいちいち目くじらを立てるのも大人気おとなげないので、どうにか平静を装う。

「……で、なんなんだよ、その神様ってのは」

「知りたいかぞ? なら、どうすればいいのかわかってるだろうぞ?」

 にやにやと笑う。

「是非とも聞かせてくださいお願いします」

 地面に額を擦りつける勢いで頭を下げる。

「くっく、随分と聞き分けがいいやつだぞ」

(誰のせいだよ、誰の……)

 などと、心の中で悪態をついた時だ。

「神様は神様でも、十字架にはりつけにされたような弱い奴とは違う、もっと強くて、かっこいい神様なんだぞ」

「なんだ、そりゃ」

 やけにふんわりとしている。

「もっと、具体的に言ってくれよ」

「仕方ないな、教えてやるぞ」

 やれやれとばかりに溜め息をつく。

「ぼくが信じているのは、この町に昔から伝わる神様だぞ」

「……尾前町の?」

 十兵衛の言う神の正体を理解した時、全身に戦慄が走った。

「それってもしかして……『イイヅナ様』とかいうやつか?」

 尋ねた瞬間、十兵衛は目を丸くさせる。

「……なんだ、知ってたのかぞ」

 つまらないとばかりに唇を尖らせる。

「そうだぞ、ぼくはこれから『イイヅナ様』にお願いしに行くんだぞ。この孤児院と、教会堂、そしてみんなを守ってくれって……、他のやつらには内緒だぞ?」

「別に、それは構わないが……」

 そんなことよりも気になることがあった。

「なあ、十兵衛。お前は誰から『イイヅナ様』の話を聞いたんだ?」

 気付けば、そう尋ねていた。

 十兵衛の驚きに満ちた表情が目に入る。

「なんだよ、おまえも『イイヅナ様』にお願い事かぞ?」

「……いや、そういうわけではないが……」

 突然の追及を不審に思ってか、怪訝そうな視線を向ける十兵衛。

 おれは不意に正気に返る。――そう、おれは自我を失っていた。その事実に気が付いた時、遅れて衝撃を受ける。彼もそうだろうが、何より、おれ自身が、自分の取った咄嗟の行動に驚いていた。考えるよりも早く、疑問の声が口をついて出たのだ。

 ……落ち着こう。一旦、落ち着くんだ。

「……『イイヅナ様』のことは、ほんとは内緒なんだぞ」

 耳打ちするように声を落とす。

 おれは固唾を飲んで続く言葉を待つ。

「ぼくも最近まで知らなかったけど、とある人から特別に教えてもらったんだぞ」

「……それは、誰だ?」

「だから、内緒だって言ってるんだぞ」

「……そうか」

 睨むような目つきでおれを見る十兵衛を前にしては、さすがに強く出ることはできない。

 おれは後ろ髪を引かれる思いで次の言葉を飲み込んだ。

 自分でもわからなかった。おれが、ここまで、『イイヅナ様』という固有名詞に心を乱され、思考を惑わされる意味と、理由が。

 何か、嫌な予感がする。途轍もない恐怖が、悪寒が、わけもわからず立ち尽くすおれの全身を包み込む。

 頭の奥で、何かがおれに囁きかける。……『あの悲劇を繰り返してはならない』と。

(……おれは、一体、何を考えているんだ? いよいよおかしくなっちまったのか?)

 おれは、何を、知っている? ……いや、違う。おれは、何かを、忘れている。だから、こんなにも苦しんでいる。知っているのに、知らないのだ。思い出さないといけないのに、思い出してはいけない。これほどの矛盾した思考回路の袋小路に、おれは突き当たっているのだ……。

 頭の隅で引っ掛かる、かつての記憶。先の見えない深い水底に沈殿したそれは、その暗く淀んだ顔を覗かせている。


 約束……、神様……。


『必ず、迎えに行くよ』


 ――どこかの誰かが言った約束の言葉は、記憶の彼方に掻き消えた。

 

 その後、おれは十兵衛と別れ、露木たちの待つ正門まで向かった。彼が言うには、今からこっそり『イイヅナ様』がいると言う祠に向かい、願いを叶えるためにお祈りを捧げるとのことだ。

 彼の目論見が達成されるかどうかは、それこそ神のみぞ知ると言ったところだが、おれはなぜだか無性に不安に駆られた。

 何事も起こらなければいいのだが……。

 おれは、孤児院の子供たちに見送られ、孤児院をあとにした。露木はもう少し子供たちと一緒に過ごしてから帰ると言う。

 正門の前で並ぶ、彼と、彼らの笑顔が、やけに印象的に映った。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 帰途に着き、今日の出来事を回想する。部活動での慌ただしい時間と、その後に露木に連れられた孤児院での一幕。そのすべてが怒涛の高波となって一挙に襲い来る。経営が危ないと思しき浅間建設の御曹司と、山村地区を根城とする庄屋の娘である東との奇妙な会合。存続が絶望視される孤児院と教会堂に身を寄せる少年少女と、彼らを支える心優しき人々との出会い。そして、『イイヅナ様』と呼ばれる土着神の存在……。そのどれもが、個々に独立した問題ではなく、密接に関わり合っている……、そんな気さえ起きるのは、きっと、この町が、地続きの共助精神で成り立っているからだろう。

 ……なぜ、奴が、おれを連れて来たのか。当初こそ奴の真意が図りかねたが、今更になってようやくわかった。思い出が欲しかったのだ。孤児院に住む少年少女に向けて、せめて、楽しい記憶を与えようという、奴の粋な計らい。おれは、そう、確信している。

『……少なくとも、来年の頭にはなくなっちまうからな』

 孤児院の子たちと過ごす中、奴はそうこぼした。それが、この孤児院と教会堂の行く末を指して言っているとわかったのは、すぐだった。

『それまでに悔いのないよう、やれるだけのことはやる。俺は、そう決めたんだ』

 奴の覚悟と決意を耳にして、おれは多大な違和感を覚えざるを得なかった。

 まったく非生産的なやり方だった。理解はできるが、納得はできない。脳が、許容を拒む。

 ……どうしても解せない。奴ほどの男が、どうして他者のために尽くすのか。

(自分からわざわざ、沈みゆく船に同乗するというのか……? ……なぜだ? なんのために……?)

 だが、これが俗に言う自己満足でないのは明らかだった。奴の悲愴感に満ちた表情が、そのことを証明している。

(まさか、時代の変化に追い付けず、取り残され、置き去りにされた、神でさえ見捨てたような救いのない者たちを、奴は、救うとでも言うのか……?)

 もしそうなら、思い上がりも甚だしい。たかが一介の学生に、何ができると言うのか? ――いや、それはおれも同じか。

 自分に疑問を問いかける。答えはすぐに返って来る。

(それでも、現に、子供たちは救われている。奴は、失われるはずだった笑顔を……守っている)

 露木は……、奴は、守るべき者のために行動している。たとえ、その行為が理に適っていなかったとしても、非合理的であったとしても、確かに誰かが救われている。どんな理屈をこねようとも、その現実は覆せない。否定は……できない。

(そうだ……、確か……、以前に聞いた話では、目的と手段が合致している場合を指して、『善』と呼ぶんだったか……)

 昔、父から強制的に読まされた道徳学の本に、そんなことが書かれていたのを唐突に思い出す。

 金儲けの目的のために人を助けるのではなく、人を助けるという目的のために、人を助ける。露木は、後者――すなわち『善』――を実行しているわけだ。

 おれは……どうだ?

 自らに課せられた、日本の未来をより良きものにするという使命。

 だが、それは、何かの犠牲を失くしては達成できない、遠く険しい道のり。たとえ他人に恨まれようとも、後ろ指をさされようとも、そのすべてを甘受しなければならない。人の上に立つ者が、その責任を負わなければならない。

 国家の更なる繁栄。絶対に成し遂げなければならない計画の成功が、尾前町の誇る風光明媚な自然と引き換えにもたらされるのだとしたら……。

(……おれは……)

 善と悪、どちらかひとつを選べと言われた時……。果たして、『善』を選択するだけの自信が、覚悟が、備わっているだろうか?

 おそらく、露木は自分の想いの矛盾に気付いている。それでいて、見て見ぬふりを決め込んでいる。卑怯だとは思わない。おれにそんな権利はない。命は決して救われないことを知りながら、いや、知っているからこそ、彼は弱き者に手を差し伸べるのだ。そこに医者がどうとか、そんな肩書きは無用のはず。露木が言いたいのはまさにその点であり、彼の苦悩はそこに起因する。要するに、。だから露木は悩んでいる。医者と言う名称にこだわらずに他人を救おうと模索している。医者だから救うのではない。救うべきだから、救うのだと。彼は常日頃から自分に言い聞かせているに違いない。

 しかし、皮肉なことに、彼は次のことも知っている。医者だろうと何だろうと、救えないものは絶対に救えないと。運命は変えられないと。それは死に瀕した患者であり、命の灯火が今にも消えそうな存在であり、滅びを約束されたもののことである。露木の場合、この孤児院と教会堂がまさにそれにあたる。この施設は取り壊される。それは確定している。孤児たちは散り散りになり、これまで苦楽を共にした家族同然の職員たちとも離れ離れになる。露木はそれが許せないのだ。しかも残酷なことに、おれが思うに、彼の怒りの矛先は、土地を奪った政府ではなく、己自身に向けられている。おれはそう確信している。奴は、露木は、今にも大事なものが凌辱されかけているというのに何もすることができない自分を憎んでいるのだ。目の前に立ちはだかる強大且つ無慈悲な権力を前に屈服し、圧倒的なまでに無力を痛感し、ほぞを噛む。彼はよく知っている。医者だろうと何だろうと、限界というものはある。なら、何のために手に入れた能力なのか? 滅びゆくものに情けをかけたところで、一体、どれだけの意味があるのか? 結局、何も変わらないのではないのか――?

 それでも尚、露木は弱者に目を向け、手を伸べる。その理由は、本人にもわかっていない。わからないからこそ、彼はその理由――意味――を知りたくて、こうして『善』を施すのだろう。

(……おれには、とても真似できない)

 恐れ入った。かける言葉さえ見つからない。どれもこれも、奴の行為の偉大さに比べれば陳腐なものだ。

(シスターや、教会堂のじーさんが、奴に一目置く理由が、ようやくわかった気がする)

 孤児院の子たちは、捨て子だったり、何らかの障害を負っていたりと、少年少女の顔触れ同様、それぞれの抱える事情は様々だ。

 だが、彼らは、そんなハンデを物ともせず、懸命に勉学に励み、時に助け合い、日々を立派に生きていた。

 彼らはじつに生き生きとした表情を浮かべていた。その姿には華があり、見ているだけで気後れしてしまいそうな品の良さがあった。彼らは喜怒哀楽をしっかりと表現し、人と真正面からぶつかりあう。まさに振る舞いを余すことなく発揮する彼らは、非常にまぶしく見えた。それこそ、都会暮らしのおれが初めて見るような、青空のように澄み切った、宝石のような輝かしい目をしていた……。

 そんな、将来性豊かな、粒よりの原石とも言える彼らの未来を潰すのは、他でもない、我先にと成長を急ぐ社会の無慈悲な歯車であり、この日本という国だった。

(露木……、奴の生き様そのものが『善』と言うのなら、おれは……)

 奴と出会ってから、時々、わからなくなる。おれが、何のために知識を付けたのか。

(……っち、今さら何を迷っているんだ、おれは)

 亡霊のように迫る暗い影を慌てて振り払う。

 くだらん。

 奴は所詮、誰も守れない。行き着く先は破滅だ。それは確実であり、絶対に逃れられない結末である。おれが、政府が、土地収用を進める限り、この未来は絶対に覆らない。

 弱者は食われる。そのためだけに存在する。

 これが真実だ。

(……愚かだな)

 哀れみの印象を抱いた相手は、露木か、それとも、自分自身か。

(らしくねーな……)

 こうやって自らに強く言い聞かせなければ平静を保てないほどに動揺しているおれ自身に対して激しい嫌悪感を覚える。

(……おれは、弱者を蹴散らす。そのためだけに存在する)

 もう一度、父からの矜持を胸に深く刻み付ける。

 それでも、頭の片隅に浮かんだ違和感はぬぐい切れない。水底に沈殿したヘドロのようにこびりつく。本当にそれが正しいのかと、お前はそれでいいのかと、執拗に何ががおれに問いかける……。

 初めて、自分の描いた将来に不安を覚えた。それはまったく思いがけない、突如として轟いた雷鳴のような衝撃だった。今まで経験したことのない、途方もない苦しみだった……。

 ――頭が、ひどく痛んだ。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「いただきます」

 夜中の7時過ぎ。

 茶の間に全員集合し、一斉に手を合わせる。

 ちゃぶ台の中央には、田畑に囲まれたこの辺りでは珍しい魚の煮つけが我が物顔で居座っている。

「海浜地区の北見さんからいただいたのよ~」

 おれの疑問を察したのか、飲み物をお盆に乗せた叔母さんが笑顔で教えてくれた。

 北見とは、海浜地区の有力者のひとりで、尾前町の中では、この蔵屋敷家や山村地区の東家に匹敵する権力を有する。

「なんでも、今日は大漁だったんですって」

「ほぉ、それは縁起がいい」

 浅黒く、彫りの深い顔を、機嫌良さそうに緩める芳樹伯父さん。

 テレビでは、黄金色の機械みたいな巨人が怪獣と戦うといったおもむきの番組が放映されている。

「ねえねえ、周平くん。これって、漫画が原作なんだって」

 話題沸騰の魚料理はそっちのけで、迫力あるテレビ画面に釘付けの鈴蘭が興奮気味に言う。

「へー、よく知ってるな」

 興味のないうんちくは右から左に聞き流す。

 それにしても、まあ、筋金入りの箱入り娘の癖して、妙な知識だけは豊富だ。思わず感心してしまう。

「学校のお友達が教えてくれたんだー。今日、新放送の番組があるから要チェックだよって」

「ふーん」

 てきとーに相槌を打つ。

 なんにせよ、おれには関係のない話だ。

 そうだ、魚料理とか、テレビ番組とか、そんな俗物的なことより、もっと知るべきことがあった。それは、おれの目的を達成させるために必要な情報だ。

 だからこそ、どんな手段を用いてでも手に入れなければ。

「……っ」

 しかし、いざ行動に移ろうとすると、なぜだかわずかに側頭部が痛む。まるで、おれの悪意ある行為を制し、律するように。

 同時に、孤児院で経験した数々の出来事が、不意に頭をよぎる。心や体に傷を負いながらも精一杯に生きる少年少女の笑顔。そして、愚直なまでにひたむきな彼らの笑顔をなんとしてでも守り抜こうとする露木銀治郎の姿が、卑劣にも策をろうそうとするおれの行く手を阻むように立ちはだかる。

(っち、邪魔をするな……)

 目の前にちらつく奴らの影を、おれは無理やり蹴散らした。

「そういえば、鈴蘭、前々から聞こうと思ってたんだけどさ――」

「うん?」

「この町って、何か、守り神みたいなものって、いたりするのか?」

「え?」

 鈴蘭が振り向く。

 いや、鈴蘭だけじゃない。蔵屋敷家の者全員が、一斉におれの方を見る。それも、無表情で。

 空気が凍り付く感覚。

 まただ……。おれは頭を抱えたくなった。

 神の話題となると、どうしてもこのうすら寒い反応になる。

「あ、見て見て、お父さん。今、大使が空を飛んだよ」

「お、すごいな。本物みたいだ」

 おれが言葉に詰まったからか、あるいは、元々おれの問いに答えるつもりはないのか、話題は目の前のテレビ画面にすり替わる。

 っち、白々しい……。

(少し、話題の矛先を変えるか)

 魚の煮つけを口に運び、一計を案じる。

「なあ、鈴蘭」

 声を潜めて尋ねる。

「うん? 今度はなあに」

「お前の兄……武彦さんって、どんな人なんだ?」

「え、お兄ちゃん?」

 これまた予想外の質問だったのか、鈴蘭は目を丸くした。

「確か、都内の大学に通ってるんだよな?」 

「うん、そうだけど、それがどうかしたの?」

「いや、ちょっとした興味だよ。おれだって蔵屋敷家の親戚なんだから、その人たちのことをよく知りたいと思うのは当然じゃないか」

 まあ、親戚だろうと家族だろうと、おれはそいつを利用するだけだが。

 ――そうさ、おれは勝ち上がるためなら平気で他者を踏みつける。弱者を守ることしか能のない甘ちゃんとは違う。

「それもそっか」

 自分の家族に関心を向けられて、嫌な人間はいないだろう――それが証拠に、鈴蘭はおれの質問に対して嬉しそうに頬を緩める。

「えっと、お兄ちゃんは――」

「………………」

 ひそかな期待を抱きながら、続く言葉を待つ。

「なあ、周ちゃん」

「え?」

 突然、与一のじーさんが声を掛けて来た。

 慌てて振り向く。

「今夜はここいら一帯だと珍しい魚料理じゃ。しかも、海浜地区の北見が寄越した獲れたて新鮮な魚介類と来たもんじゃ。都会の方でも、これほどの逸品いっぴんはそうそう食えまい?」

 にやりと口角をつり上げ、不気味に微笑む。

 だが、目が笑っていない。

 何かを探るような、そんな裏のある眼差し。

 間違いない。

 じーさんは、意図しておれに横槍を入れたのだ。

 他者の思惑を見抜くよう父に教育されたおれの目は誤魔化せない。

 しかし、何のために? なぜ、じーさんは、武彦について聞こうとしたおれの行動を遮る?

「――ええ、そうですね」

 彼の詮索には気付かない振りをして会話を続ける。

「まるで、魚の切り身が舌で踊るようです」

「そうじゃろう、そうじゃろう? 都会っ子にもこの違いがわかるか。かっかっか! こりゃ愉快じゃ。ならば遠慮はいらん、一尾まるまる、バクっと」

「いや、さすがにそこまでは……。ははは……」

 愛想笑いでこの場を収める。

 ――結局、『イイヅナ様』や、町の人間に関する情報収集は出鼻をくじかれ、うやむやに終わってしまった。

 しかし、さっきの急な話題転換……。

(部外者は、自分たちの領域に深入りするなってことか?)

 今までの乾いた反応から察するに、そういうことだろう。

 町のことや、家族関係も、おれには明かすつもりはない、か。

 気に食わないな。

(だったら、おれが絶対に暴いてやるよ)

 この町に潜む、神の秘密とやらを。

 意識をむしばむひどい頭痛が、おれの野心を否が応でも駆り立てた。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 夕食後、しばらく経ってから一風呂浴び終えたおれは、裸の電球が下がる薄暗い廊下を、ひとり、歩いていた。

 他の人間は呑気にテレビ番組を眺めているが、おれはそんなもの初めから眼中にない。

 懸念材料は、『イイヅナ様』について聞き出すことが叶わなかったことか。最初からわかっていたが、彼らは地元の――特に、土地関係の――話になると頑なに口を閉ざす。まるで、禁忌に触れるなとでも言うように。

 まさか、新国際空港開発のため、自身が持つ農地の多くを売り払ったことを後ろめたく思っているのだろうか? この、神をもおそれぬ豪農の一族が……?

 地元民が信仰しているのにもかかわらず、他方ではタブー視される『イイヅナ様』。謎多き土着神は、一体、どんな表情を隠し持っていると言うのか。

 それに、蔵屋敷武彦――鈴蘭の兄――についても、少し、気になる点がある。

 なぜなら、あの男は、今……。

「……………………」

 まあ、いい。

 疑問は多いが、わかったこともある。

 今は、それで満足するとしよう。

 寝る前には、恒例の父への近況報告だ。

 電話を借り、仕事帰りの父に進捗状況を伝える。

 ……そうだ、迷っている場合じゃない。おれは、おれの使命を果たさなければ。

 受話器を取り、運輸省の番号を回しながら、思う。何のために、おれはこの町に来たのかと。

 考えるまでもない。

 おれは、父の命令で、尾前町の住民感情を調査している。行政代執行による土地の買い付けを始め、半ば強行されつつある新国際空港建設に対し、現地住民の政府への批判は日々激しさを増している。それだけならいざ知らず、元々、現行政府に敵対的な態度を取っている反社会的組織の過激派は、各地でくすぶる小さな火種を燃え広がらせようと空港建設反対派に取り入り、暴動を起こそうとしている向きがあると、そういう報告がなされている。現に、何度か傷害事件も発生している。あの明星がつるんでいるという暴力団も、言ってしまえば反社会的組織の一部なのだから、そういった連中が暗躍しているのは紛れもない事実だ。土地を巡って巻き起こる抗争の激化と、反社会的組織の影響力の拡大を懸念した政府は、現地で何が起こっているのかを正しく見極めるため、独自に調査員を派遣することに決めた。『新国際空港開発予定地特別派遣調査隊』、通称、特派員――。

 何を隠そう、おれも特派員のひとりだ。表向きは分校に編入した特待生を装ってはいるが、実際は政府公認のお目付け役というわけだ。その事実を、一部の学校関係者は知っている。担任の石蕗もそのひとりだ。もっとも、おれは、特派員の中でも異質の存在なのだが。

 なぜ、おれのような若造が特派員に抜擢されたかというと、そこには大きく分けて2つの要因がある。

 ひとつ、それは、おれが学生の身分であるということ。基本、よそ者を白眼視はくがんしする田舎の人間だが、おれのような若者相手には甘い場合も多い。おれの存在は、やや特殊なハニートラップとでも言うべきか。本来なら障害となるべき学生と言う若さが、特派員採用の決め手のひとつとなったのは皮肉だった。

 ふたつ、それは、おれの出自が関係している。自分としては複雑だが、おれは運輸省高官である父、風祭宗吾の息子ということで、関係者からは一目置かれていた。それに、新国際空港開発の重要なファクターである蔵屋敷家の親戚というバックボーンがあるのも大きい。そうした血縁関係も考慮され、特派員の一員となった。

 おれは、今回の土地問題の一件で経験を積むと同時に、これまでのたゆみない座学で培った実力の一端を示し、父と同じく、政府高官になるための足掛かりとする。――そう、意気込んでいたはずだった。

 入手した情報を取捨選択し、淡々と――自分では出来る限り感情を排して――父に伝える。

 報告の途中、父は何事か押し黙っていた。

 おれは、なぜか、自分の額に冷や汗が流れ出るのを自覚した。

『賢明なお前のことだ、重々承知しているとは思うが、あまり、現地住民相手に気を取られるんじゃないぞ?』

 一瞬、返答に詰まりかけた。

 洞察力に優れている父は、電話越しに聞こえるおれの言動の節々に動揺や迷いを感じ取ってか、重々しく釘を刺す。

『お前は、あくまでも国から派遣された一介の職員に過ぎない。要するに、国家お抱えの犬だ。鎖に繋がれた犬は、飼い主以外に特別な感情を抱いてはならない。国から交付された鉄の掟を、よもや忘れたわけではないだろう?』

 はい、と短く返事する。そうせざるを得ない。

 社会の、人の上に立つ者の役目とは、感情に傾かない客観的な判断と、公正な知見に基づく行政の速やかな執行。すなわち、私心に寄らない絶対的な権威の施行に他ならない。自分を含めた何物にも服従せず、ただ、国が定めた法の秩序に従うべき存在であり、また、そうあるべきなのが、政府役人――特に官僚と呼ばれる人種――であり、彼らがなすべき唯一の業務だ。

 だからこそ、与えられた任務は的確にこなさなければならない。いかなる障害やイレギュラーな出来事があったとしても、それを徹底的に排して権力を行使しなければ、人の上に立つ意味も、また、その資格もない。父は、おれによくそう言っていた。

『お前はまだまだ経験が浅い。私から見ればただの青二才だ。未だ他人と本気で渡りあったことがないのだからな。そんなお前が、被害者意識の塊である農民の甘言にたぶらかされないとも限らない。心を強く持て。相手を私たちと同じ人間と思うな。チェスの駒と同様に扱え。それができなければ、新国際空港開発など夢のまた夢だ。そのことは、お前も痛いくらいに熟知しているはず。違うか?』

 正論だ。反論の余地がない。

『頼んだぞ、我が息子よ』

 電話を切り、受話器を置く。

 しばらく、父の話が尾を引いて残っていた。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 とんとん


「周平くん、起きてる?」

 情報整理に精を出していると、今夜も鈴蘭がふすまを叩く。

「ああ、起きてるよ」

 閲覧していた書類を閉じ、いつものように返事する。

「少し、お話ししよう?」

「ああ、いいぜ」

「えへへ、お邪魔しまーす」

 元気よく言うと、そのままふすまを開けて敷居をぴょんと飛び越える。

 最初こそ遠慮がちに部屋に入ってきた鈴蘭だが、もはや自分のテリトリーとばかりに堂々と侵入する。

 まあ、自分が住む家なのだから当然だが。

「何か、お勉強してた?」

「いや、勉強ってほどのもんじゃねーよ」

 収用予定の土地をリストアップした地図を眺めていただけだ。

「鈴蘭こそ、勉強は大丈夫か?」

 問い返すと、鈴蘭の表情が曇った。

「うーん、あんまり……。もうすぐ期末テストがあるから、ちょっと憂鬱ゆううつかな」

「そういや、そうか」

 もうじき夏休みだしな。

「ま、お互い無理せず頑張ろうや」

 月並みな言葉でエールを送る。

 高校の勉強など、単なる暗記だ。父に課せられた悪夢のような実地試験に比べれば、なんてことはない。

 もっとも、特派員のおれは、期末試験を特別に免除してもらっているのだが。

「そうそう、昨日、言い忘れてたんだけどね、わたし、部活には入ってないけど、委員会には所属してるんだ」

「へー、何の委員会だ?」

「ふっふー、よくぞ聞いてくれました」

 なぜか胸を張り、自信満々な笑みを浮かべる。

 いや、お前の方から話を振ったんだろーが。

「わたしが所属してるのは、飼育委員会なんだよー」

「なるほど、飼育委員ってわけか」

 鈴蘭らしいな。

「というと、やっぱり、ウサギとか、ニワトリとかの世話をするのか?」

「えーとね、わたしの担当は……」

「担当は?」

「カエルだよ」

 にこやかに答える鈴蘭。

 反面、おれは眉をひそめた。

「……カエル?」

「そ、カエル。可愛いんだよ~」

 鈴蘭は呑気に笑うが、おれの頬は引きつった。

「いや、ウサギが可愛いとかならわかるが……カエル?」

 確かに鈴蘭は、カエルとかヘビとか、普通の女性の感性であれば明らかな嫌悪感を示す生物が好きだが……。

「いや、それにしても……カエル?」

 大勢の女生徒が悲鳴を上げる姿が目に浮かぶ。

 なに考えてるんだ、学校の人間は。同じ両生類なら、せめてカメにしとけよ。

「あの、すこーしとぼけたような、つぶらな瞳がいいんだよね~、うふふ~」

 学校側の教育体制を疑問視するおれをよそに、鈴蘭は自分の世界に入り込んでしまっていた。

「ああ、もう、けろぴーは可愛いな~。そんな目で見つめちゃって~」

 遠い世界に旅立った鈴蘭は、夢心地に首をぶんぶんと振るう。

「って、けろぴーってカエルのことかよ」

 まさに衝撃の真実。昨夜、鈴蘭の広すぎる交友関係の一員として挙げられた『けろぴー』なる謎の存在は、彼女が世話するカエルだった。

 それから……。

 恍惚とした表情の鈴蘭は、爬虫類や両生類の長所を延々と熱く語った。

 おれは彼女の話を半分以上は聞き流し、自分のやるべきことを再確認していた。

 彼女の愛する動植物が数多く生息する尾前町の自然を取り上げ、破壊する。

 また、頭痛が襲ってきた。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 鈴蘭と別れ、床に就く。

 頭の中に思い浮かぶのは、鈴蘭と交わした他愛のない会話。

『周平くんも、動物好きだったよね?』

 鈴蘭のこの質問に、なぜか即答できない自分がいた。

『まあ、そうだな』

 曖昧に答え、彼女からの追及をかわす。

 いつもの作り笑顔を保つので、精一杯だった。

 ……おれは、動植物などに興味はない。特別な感情など湧かない。

 尾前町の誇る広大無辺な自然環境が、新国際空港開発計画の障害となるなら、おれはそれを排除するだけだ。

 だが、何かが引っかかる。ちょうど、喉に刺さった小骨のように、わずかな痛みや確かな違和感を発するそれは、徐々に正常な思考能力をむしばんでいき、じわじわと神経を削っていく。

(おれは……、おれは……)

 かつて、一体、何を愛していたのか。

(まさか……、鈴蘭の言うように、この町の自然を?)

 ――頭が痛い。

 思い出さなくていいと、おれの中の誰かがつぶやく。

(……おれは、おれは……)

 冷たい布団の中。尽きぬ思考がおれを苦しめる。おれの夢と目標、そして現実。露木を始めとした町の人々の悲しみと怒り。政府に対する憎悪は抗いがたい噴流ふんりゅうとなっておれに襲い掛かり、しつこくまとわりついて離れない。


『お前は、あくまでも国から派遣された一介の職員に過ぎない。要するに、国家お抱えの犬だ。鎖に繋がれた犬は、飼い主以外に特別な感情を抱いてはならない。国から交付された鉄の掟を、よもや忘れたわけではないだろう?』


 ――もちろんですよ、父さん。


『お前はまだまだ経験が浅い。私から見ればただの青二才だ。未だ他人と本気で渡りあったことがないのだからな。そんなお前が、被害者意識の塊である農民の甘言にたぶらかされないとも限らない。心を強く持て。相手を私たちと同じ人間と思うな。チェスの駒と同様に扱え。それができなければ、新国際空港開発など夢のまた夢だ。そのことは、お前も痛いくらいに熟知しているはず。違うか?』


 ――おれが、奴らに言いくるめられるなど……。


 おおーん、おおーん、おお、おおーん……。


 蔵の方角から聞こえる、子供の夜泣きと野良犬の遠吠えのような唸り声がまじった物音にさいなまれながら、眠れぬ夜を過ごした。

 頭痛は、しばらく治まりそうになかった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 頭痛が引き、が目覚める。

 この潜伏場所は、誰にもわからない。

 政府は血眼になって『亜細亜八月同盟AAA』の関係者を洗い出しているだろうが、まさか特派員の中に内通者がいるとは思わないだろう。

 それに、『亜細亜八月同盟AAA』は、本拠地こそ都心にあれど、我らが偉大なる指導者ドゥーチェである『A』が主導する尾前町支部に所属する人間は、おれを含めて4人しか存在しない。

 おれたちに協力する人物のほとんどは、新国際空港建設反対派の人間と暁光会の重鎮、今の政府に不満を抱く左翼思想の学生、あるいはそれら関連組織から派遣された有象無象の人間に過ぎない。

 つまり、おれたちの尻尾を掴もうとしても無駄なことだ。

 改めて、目下進行中の計画に目を通す。

 地元の消防団や、町全体に顔の利く有力者、果ては政府関係者をも引き込んだ、壮大な作戦。

 ……孤児院の十兵衛か。

 神を愚直に信仰する哀れな仔羊。

 金に飢えた狼どもの良い餌になってくれるだろう。

 この世界に必要なのは、まず第一に、金だ。

 金さえあれば、すべてが丸く収まる。

 だとすれば、あいつは上手くやるはずだ。

 窮地に追い込まれた人間と言うのは、強い。

 おれは、今回の計画のためにこしらえられた哀れな人物のことを思う。

 要するに、ゲームの駒だ。

 金のためだけに動く、代替可能な捨て駒。

(お前に、あいつを止められるか?)

 真実を見失い、未だに右往左往するあの男のことを思い、ほくそ笑む。

 だが、油断は禁物。

 現に、奴は、おれの予想の範疇はんちゅうを超える勢いを徐々に見せつつある。

 まさか、今日もまた、あの場所までやって来るとは思わなかった。

 そればかりか、直接、あの少年と接触を試みるとは。

(……だが、奴にはわかるまい)

 の計画は完璧だ。一分の隙もない。

(これ以上、尾前町の土地を買収されるわけにはいかないんでね)

 特に、大天山近辺の土地を収用されては非常に困る。

 あそこには、おれも知らない尾前町の過去と秘密が眠っている。

 おれにとっては埋蔵金にも等しいそれを、どこの馬の骨ともわからない政府の人間に横取りされるのは、到底、許されないことだ。

 だからこそ、おれと『A』は、今回の計画を発案、実行に移したのだが。

 さて。

 あれから一夜が過ぎた。

 幸い、目立った動きはない。

 あの知らせが舞い込んで来た時にはどうなるかと思ったが、どうやら杞憂だったようだ。

亜細亜八月同盟AAA』と接触した人間が、意図的ではないとはいえ人を殺したとなれば、さすがに警察が動きかねない。

 用心するに越したことはないが、必要以上に警戒しなくてもよさそうだ。

 彼も、自分の尻は自分で拭くだろう。

(『A』もいることだ……、穏便に済ませるはず)

 それよりも、おれの管轄に目をやるべきだ。

『A』とおれは、それぞれ役割を分担している。『A』は主に大天山周辺にある土地の管理と住民の動向監視及び豊富な人脈を駆使した情報収集、おれは逆に、田園地区における工作員の派遣と指揮、統率に加え、土地管理と資金の調達を担っている。

 おれの場合、情報収集は彼女ヒューミントとオシントに任せっきりのため、その点では『A』に引けを取るが、金回りのことや政府の事情についてはお手の物だ。

 現に、計画は順調に回っている。

 明日、町内がちょっとした騒ぎになるだろう。

 あるいは、国が無理やり封じ込めるか。

(いずれにせよ、サイは投げられた)

 土地を収用しようとする不届きな人間の口を黙らせるには、その土地に伝わる伝承を利用するのが一番良い。

 皮肉だった。

 かつて、あの『怪異』に見舞われ、存在を抹消された男が、今度はその『怪異』を逆手に取ろうというのは。

(お前に、の存在が見破れるか?)

 窓の外に映る闇夜が、おれの心に濃い陰影を落とす。

 その時、電話が鳴った。

 おそらく、あの女だろう……おれは躊躇ためらいなく受話器を取る。

「こちら『亜細亜八月同盟AAA』尾前町支部。用件は何か?」

『うふ~ん、ねぇ~ん、わたし、今、何色のパンツ履いてると思う~?』

「お前の頭の中はピンク色だ」

 即刻、受話器を置く。

 間を置かずして、再度、電話が鳴った。

 おれはもう一度受話器を取る。

『あのさー、なんであなたはそんなに素っ気ないわけ? こんなの軽い挨拶みたいなものじゃない?』

「知りたいか? おれは無駄話が嫌いだからだ」

 文句たらたらの彼女ヒューミントを一喝する。

 あの一件で懲りたかと思えば、このざまだ。

 まったく。

「それで、今夜は一体何の用だ?」

『バカねー、わたしがあなたに電話を掛ける理由なんてひとつだけでしょ?』

「なんだ、それは」

『……あなたと、熱い愛を語らうときよ』

「話はわかった、もう切るぞ」

『待って、待って、冗談、冗談よ。もうダイヤル回したくないから切らないで』

「だったら、とっとと本題に入れ」

『言われなくてもわかってるわよ、まったく、余計なひと言が多いんだから』

 それはお前だ。

『えーっと、いつも通りの朴念仁ぼくねんじんである司令塔ハンドラーに伝えるべき情報はー……』

 ……いちいち引っ掛かる言い方だな。

 そう思った時、電話口の向こうで息を飲む気配がした。

 同時に、あのことについての報告だと直感した。

『……例の兄妹、あなたの目論見通りにやってくれているわよ』

 今までの演技掛かった口調から一転した、平淡な声。

 彼女ヒューミントからの報告を聞いて、口元が邪悪に歪むのを自覚した。

「――高山の 草葉の陰に 在りし日の 姫百合ひめゆりついばみ 堕つ閑古鳥かんこどり

 思わず、短歌を口ずさむ。彼女ヒューミントには聞こえない声量で。

『え? なに? なにか言った?』

 電話口の向こうで彼女ヒューミントが難色を示すが、構わなかった。

「いいや、なんでもない」

 素っ気なく答える。

 かつて交わした、少女との約束。

 すべては、この短歌に集約されている。

 ――善でいるより、悪であった方がいい。

 おれは、自らの立場を、より一層、思い知ったのだった。

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