第九話 異変

 担任の石蕗と別れたおれは、一旦、教室に戻り、帰りの身支度を整えて、再度、廊下に出る。

 生徒もまばらとなった放課後の校舎は、静かなものだ。校庭で部活動に勤しむ運動部の人間が張り出す声以外にはほとんど物音がなく、周囲に人が集まれるような大した建造物がないことも相まって、驚くくらいに森閑しんかんとしている。

 そんな、考えごとをするのにうってつけの空間で、おれは物思いにふける。

(とりあえず、明星の動向を注視するよう頼まれたわけだが、他のことも気掛かりだ。浅間に東、それに土地収用の件もある。……何を優先させるべきか? それとも、これらすべての問題は、尾前町でも大きな権力を握る明星家に帰着するのだろうか……?)

 浅間の生家である浅間建設ないし親会社の神田製鉄は、明星の父が頭取を務める明道銀行から融資を受けている。

 とすると、明星と浅間は決して無関係の間柄ではない。むしろ蜜月みつげつの仲と言える。

 その浅間は、文芸部部長の東に用があると言って部室に押しかけ、問答無用に東を連れ出した。……何のために?

(山村地区の庄屋である東家も、尾前町では無視できない権限を持っている。浅間は、これを勘定に入れて行動しているのだろうか?)

 町の権威者、その息子や娘たちがつるんでいる。これにきな臭いものを感じないと言えば嘘になるだろう。

(表と裏から町を支配する人間が、行動を共にする……。これに意味を持たせるなと言う方が無理な話だ)

 まだ確証はないが、それでも、疑うに足り得る充分な状況証拠が揃っていた。

 しかも、明道銀行は政府と結託し、関連の不動産会社と共に尾前町の土地収用を実行する立場にある。現に、田園地区の土地の3分の1は、彼らの尾前町における影響力もあって、すでに買収は済んでいる。

 ただし、土地の買い上げを断固として反対する山村地区だけは別だ。未だにほとんど土地収用が進んでいない。そして、これこそが大きな落とし穴であり、最大の誤算だろう。

(……神田製鉄の経営が傾けば、当然、子会社の浅間建設も割を食う。共倒れを回避するには明道銀行からの融資が必要不可欠だが、頼みの明道銀行が推し進める土地収用は遅々として進まない。たとえこれが政府主導の国家事業だとしても、明道銀行に責任の一端はある。とすると、当然、明道銀行の信用問題に関わってくる。そうなるとどうなるかは、わざわざ考えるまでもない)

 地上げ屋――つまり暴力団――とも関わっている明星と、それに関連する多くの者たち。

 何かが水面下で動いている。おれには、そんな気がしてならない。

(一度、彼らの関係性を改めて整理する必要があるな……)

 頭がこんがらがって来た。

 少し、気持ちを落ち着かせて……。

 ――ドンッ

 曲がり角に差しかかったところで、誰かにぶつかる。

「っち、どこに目ぇつけてやがる」

 痩せ型で背の高い、頬のこけた男子生徒が威圧的におれを見下ろす。

(げっ、こいつは……)

「……ん? ……お前、確か、文芸部の……」

 目つきの暗い男子生徒――浅間樹生――は、ジロジロと、くすんだ光が宿った目でおれを眺めやる。どこかくたびれた見た目が、彼の持つ印象をさらに不気味で恐ろしげなものにする。

「……ふん、目障りだ、とっとと失せな」

「いてっ」

 興味なさそうに鼻を鳴らすと、浅間は強引におれを廊下の端に追いやり、自分はさっさと目の前から立ち去る。

(なんなんだよ、一体……)

 体勢を立て直し、遠ざかる奴の背を睨む。

「……すみません、風祭先輩」

「うわっ、びっくりした!」

 不意に曲がり角から顔を覗かせたのは、高井戸淳だった。太い眉毛を八の字に下げ、申し訳なさそうにおれを見る。

 しかし、彼は、部室内で東と浅間を追って逃げた……もとい、連れ戻しに行ったはず。なぜ、ここに?

「おい、高井戸。一体、何があったんだ? それにお前も……」

「……今は、何も言えないんです」

 視線を落とし、唇を噛む。

「……それじゃ、ぼくは浅間先輩と一緒に行かなければなりませんので……、すみません」

 もう一度平謝りして、彼もまた足早にこの場から立ち去ってしまう。

「……ったく、本当にわけわからんな」

 どうも、なにか急いでるような感じだったが……。

「……気になるな」

 それに、東の姿が見えないのが不可解だ。高井戸は、東と浅間の様子を探るために、部室から出て行ったのではなかったか?

 そして何より、浅間の口から確かに出ていた『明星』という言葉……。

「……決まりだな」

 小さくつぶやき、決意する。

(こっそり、あとをつけてやるとしよう)

 善は急げと言う。

(そうと決まれば、早速行動開始だ)

 切り替えの早いおれは、先を行く彼らにばれないように高井戸の背を追った。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 ある程度の距離を取りつつ、慎重に高井戸と浅間のあとを追う。

 廊下を渡り、階段を下り、下駄箱で靴を履き替え、昇降口から校庭へ……。彼らは足早に移動する。おれもそのあとをつけていく。

(……どこへ行くつもりだ?)

 まさか、このまま素直に下校するわけじゃないだろう。

(だとすると、一体……)

「何やってんだ? 風祭……」

「うわっ!」

 校舎の陰から二人の出方を観察していると、不意に背後から声を掛けられる。

「こんなところでコソコソして……、何かやましいことでもあるのか?」

 突然現れた露木の奴が、怪訝そうな面持ちでおれに尋ねる。いかにも不審者を見下すような冷めた目つきが、ノミの心臓と化したおれの心を容赦なくえぐった。

「別に、なんでもねーよ」

 咄嗟の機転が利かず、あからさまな誤魔化しの言葉しか出ない。

「なんでもないわけないだろ? 今のお前の挙動は明らかにおかしかったぞ」

「しつこいな、今はちょっと黙っててくれよ……」

 いい加減、奴の相手をしていられないので、突き放すように言う。

「そう邪険に扱うことはないだろ、お前に用があって、わざわざ来てやったんだからな」

「……用? お前がおれに、一体何の用が……」

 今度はおれが眉をひそめる番だった。

「まあ、お前の都合が悪いんじゃ、無理強いはしないがな」

 思わせぶりにほくそ笑む。

(……ふーん、それにしても珍しいな、露木の方から誘ってくるとは……)

 しかし、どうも怪しい。危険な気配がプンプンと漂う。

 ひねくれ者のこいつのことだ、まともな用件だとは到底思えない。

 何か裏があるはずだ。そうに決まっている。

「って、違う、そうじゃない、今はこっちに集中しないと……」

 急いで校庭の方に目を向ける。

「ああっ!」

 思わず悲鳴を上げた。今の今まで校門付近にいた二人が、忽然と姿を消してしまったからだ。

(どこに行った?! 右か!? 左か!? ――くそっ、まったくわかんねー!)

「……本当に、どうしたんだ? さっきからずっと様子がおかしいが」

「露木! おめーのせいだよ!」

 思わず掴みかかる。

「は?! 何の話だよ」

 目を点にして抗議する。そりゃそうだ、こいつからすれば、おれが勝手にぎゃーぎゃー喚いてるだけだからな。確かに変な目で見たくなるだろーよ。

「……っち、なんでもねーよ」

 力なく手を離す。

 今、こいつと口論しても埒が明かない。 

(どうしたもんかな……)

 さすがに二人を見失ったとあっては、どうしようもない。今から急いであとを追ったところでやぶへびだ。仮に追いついたとしても、逆に奴らに怪しまれてしまうし、闇雲に探しても効率が悪い。

 ――手遅れだ。おれはそう結論付けた。

「それで、どうするんだ?」

「……何をだ?」

 人知れず意気消沈するおれに構わず、露木はフッと息を吐く。

「俺と放課後、付き合うかどうかだよ。もう忘れちまったのか?」

「…………」

 奴の申し出を前に、おれはちょっと考える。

(……いや、待てよ。露木は浅間たちと同じ文芸部の部員で、明星とも面識がある。……話を聞くにはうってつけの人材ではないのか?)

 何が得策か、それを考える。

(……そうだな、この際、露木経由で浅間や東、そして明星のことでも聞いておくのが吉か。うん、それがいい、そうしよう)

 転んでもただでは起きない。損して得とれと、父に教わったはずだ。

(……望むところだぜ)

 頭を切り替え、露木と向かい合う。

「それで、どうするんだ? 俺と一緒に来るのか、来ないのか」

「……内容によるな」

「あ?」

「条件次第ってことだよ、お前の言う用件とやらの中身が判然としないんじゃ、こっちも動きにくいからな。……で、どうなんだ?」

「……それについては、残念だが、応じることはできない」

「……なぜだ?」

「理由はある。が、今は言えない。……目的地に着いてからのお楽しみってことで、どうだ?」

 おれからの質問を巧みにかわし、挑戦的に口角を持ち上げる。

 あくまでもぼかすつもりか……。

(露木銀治郎……、孤児院の子供たちや施設の人々から信頼され、心から慕われている男。今後の出方次第ではおれの敵になりうる厄介な人物……)

 ここは……。

「……いいだろう、乗ってやる」

 おれも負けじと口元に笑みを浮かべ、頷いてやる。

 一か八か、伸るか反るか、思い切って賭けに出る。どうせ、大した用事もない。ここは情報収集に精を出す他あるまい。

(お前のその立場、おれがとことん利用してやるよ)

 貼り付けた笑みには、言外の意味が付与されていた。

「……決まりだな」

 おれの目的など何も知らない露木は、悠々と一歩を踏み出す。

「それじゃ、俺のあとについてきな。はぐれるなよ?」

「まさか、仔犬か何かじゃあるまいし、そんな心配は無用だっつーの」

 互いに馬鹿を言い合いながら、開けた田園風景が延々と伸びる校門の外に躍り出る。

「そういや、よく、部室から抜け出せたな?」

 一歩前を歩く露木の背に問い掛ける。

 おれの脳裏には、四方から忙しなく言葉の応酬が飛び交う混沌とした場景が蘇っていた。

「……何かと思えば、そんなことか」

 こちらを一瞥して、ふっと肩をすくめる。

「あいつもまた、気紛れだからな。……『主役がいないんじゃ張り合いがない』とかで、早々に解散となったよ」

「……そいつは、気の毒と言うか、なんと言うか……うん」

 ガックリと肩を落とす天宮の姿を想像して、複雑な気分に陥る。

「お前が気にすることはない。いちいちあいつの思惑に付き合ってたら、それこそ身体が持たないぞ?」

「……それは、言えてるな」

 他人を巻き込んで肥大化する台風のごとく天宮に、人並みの遠慮はいらない。むしろ失礼に値するだろう。

 そう解釈し直し、あの件はすっぱりと忘れることにした。

(大事なのは、これからだよな)

 改めて、目の前に伸びる地平線に視線を向け直したのだった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「……あれは……」

 平面的な田舎道を歩く中、先頭の露木が何事かつぶやくと、不意に足を止める。

「どうした? 肥溜こえだめにでも足を突っ込みかけたのか?」

「いや、違う……」

 顎を使って「あれを見ろ」と指示する。

 何かと思ってその方向に目をやると、少し離れた田んぼの中腹辺りに、白いヘルメットを被った作業着姿の二人組の姿が見えた。傍らには、同じくヘルメットを被ったスーツ姿の人間。そして、人の背と同じくらいの背丈の、細長い機械類が窺える。

 どうやら、彼らは、政府から派遣されたであろう役人と測量士らしく、今は収用予定の土地に測量機器を設営している最中のようだ。

「……土地の測量か」

 さすがの露木も勘付いたのか、苦々しそうに言う。

「ここらもついに、国の魔の手が迫ってきたってことか。……っち、いけ好かないな」

 冷静な露木にしては珍しく、感情をあらわにする。まあ、無理もない。孤児院と教会堂も、政府の指導ですでに取り上げられることが決定している。露木にとって、それは、こいつが今まで守って来た思い出の場所を奪われるのに等しいに違いない。そして、孤児院で暮らす少年少女にとっては、自分らが育った家を無慈悲に追いやられるのだから、たまったものではないだろう。彼らの絶望、恨み、嘆き、悲しみ、察するに余りある。

 だが、おれは、一時の情に流されるほど甘い人間ではなかった。

「ま、抵抗したって無駄だからな」

 淡々と言った。

 怒りを宿した露木の目がおれを向く。

「行政代執行と言って、土地収用の特例が適用されれば問答無用に土地は買い上げられる。無論、正式な手続きを踏んだ上での話だが。これに逆らったとなれば、こちらが法に抵触ていしょくしかねない。残念だが、そういうことだ」

 政府も本気だ。もはや一刻の猶予もない。

 日本の国際化にあたり、新空港建設は避けては通れない。それは、上の連中が一番よく知っている。その重要性を知らないのは、尾前町に住むような意固地な国民だけだ。厳しい話だが、それが現実だ。

「へえ……、やけに詳しいな」

 そのどぎつい三白眼を疑いの色に染める。

「そんなこと、都会じゃ常識ってか?」

 刺々しい態度。露木は明らかに敵意を剥き出しにしている。

 おれは、奴の感情を逆撫でしないよう、首を小さく左右に振るう。

「別に、そんなでもねーよ。おれがたまたま法学部を目指してるから、知ってるだけだ」

「……そうなのか?」

 面食らったように目を丸くさせる。どうやら、上手く話題を逸らさせるのに成功したようだ。

「意外だったか?」

「……いや、そんなことはない。むしろ、お前らしいくらいだ」

「それは、買い被り過ぎだぜ」

 再び、歩き始める。

 もう、土地を測量する測量士と、役人の姿は見えなくなった。

 果てしなく続く緑の平地。どこまでも変わらない風景の至る所に、土地の買い上げが完了した印である杭が打たれていた。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「露木は、もう、進路を決めたのか?」

 何の気なしに問う。

「おれはさっきも言ったように法学部に進むつもりだ、大学もすでに決めてあるしな。……お前は、どうなんだ?」

「……俺は……」

「やっぱり、父親の跡を継ぐために、医学部に進むのか?」

「……………」

「……?」

 質問に答えることなく、なぜだか押し黙る露木。顔を俯かせ、厳しい表情を浮かべるさまは、とても尋常とは思えない。

(なんだ……?)

 いきなり様子がおかしくなった露木を前に、少々戸惑う。

 見る者を不安にさせる冷たい光を灯した、暗い瞳……。

 そして、奴は、その重たい口をようやく開いた。

「……じつは、俺は、親父の跡を継ぐつもりは……ないんだ」

「…………」

 途切れ途切れに告げられた思いの丈。

 おれは、返す言葉が見つからず、唖然とする。

「……これは、誰にも言ったことがないんだがな……」

 露木は続ける。

「医者は、確かに立派な職業だ。それは認めている。だが、決して万能じゃない。俺はそれをよく知っている。そうだ……、。俺には……それが耐えられないんだ」

 露木は、すべてを悟ったかのように言った。これは途轍もない皮肉だった。生者をあくまでも生かす医者だが、死者ばかりはどうしても救えない。そればかりか、死者の扱いについては専門外であり、管轄外で、どちらかと言うと宗教の範疇はんちゅうになるだろう。だからこそ、おれは心底驚いた。。この矛盾を、他ならぬ医者の息子が突いてくるとは。これ以上の皮肉があるだろうか?

(もしかして、こいつが教会堂に通い詰めているのは……)

 彼がどのような想いを抱えているのか、その全容はわからないが、これまでの奴の行動と、今回の吐露とろから、その片鱗は窺えた。

「いつも、俺は見ていた、人が死ぬ瞬間と言うのを。じつに呆気ないもんだ。まるで糸が切れたみたいにだらりと力を失くして、途端に物言わなくなる。死の瞬間に区別はない。ただ、死ぬだけだ。苦しみ、のた打ち回って死のうが、安らかに死のうが、死は、死だ。生前、どんなに強い人間でも、死んだら終わりだ。これまでの生に何の意味もなくなる。少なくとも、当人にとっては。死は平等に訪れる。それはわかっている。なら、? 結局、いつかは死ぬというのに、何のために生きるんだ? 医者は、なぜ、いずれ必ず死ぬ患者を、わざわざ生かす必要がある? 自分が生きるために? 確かにそれはもっともだ。……しかし、いや、だからこそ、俺は問いたい。医者に、人間に、生物の生き死にを左右させる権限があるのかと。それは神に対する冒涜ぼうとくじゃないのか? ……俺には、どうしてもわからない。最も近くで、生と死の瞬間を、その狭間はざまを見てきたというのに、まったく、わからないんだ。……だからこそ、知りたいと思った。を……」

 もはや哲学的な問いだった。少なくとも、おれが今まで考えたこともないような、途方もない、永遠に解決できないような問題だった。

「……まあ、散々、偉そうなことを言ったが、俺も、今後どうすべきか、未だに決めかねているんだ。親父としては、どうしても俺を医者にしたいらしい。世間体もあるからな。それは俺にもよくわかっているつもりなんだが……、どうしても納得がいかないと言うか、どうにも割り切れないんだ」

「………………」

「なあ、風祭」

「……なんだ?」

「お前は、どうして法学部に進む? 親が、そう決めたからか? それとも、何かしら考えがあってのことか? ……?」

「………………」 

 おれは、何にも言い返せなかった。ただ、唇を噛み締めるばかりだった。

 父の跡目を継ぎ、満を持して政界に躍り出る。その方が、遥かに効率が良く、確率も高い。おれが社会で成功する確率が。だから、おれは政治家になることを決めた。

 おれが将来の最終的な目標に政治家を選んだのは、それが理由だ。

 だが、露木の奴は、医者という、予め用意されたレールから外れ、自分の道を行くと言うのだ。ゼロからその手で道を切り開くと言うのだ……。

 ショックを受けた。後頭部を鈍器で思い切り殴られたような衝撃が全身を襲う。

 なぜ、おれは、政治家になるのか?

 改めて問う。

 目的があった。

 ……高度経済成長期。世界でも類を見ない経済成功の到来で、日本は戦後復興を果たし、都市部は急速に発展した。しかし、地方がその恩恵に与ることはほとんどなかった。むしろ、割を食う方が多かっただろう。工場排水や化学物質による公害、稼ぎを求めた若者たちの都心流出に伴う人口の局所化。そうして加速度的に過疎化が進み、農村部は見る間に衰退していった。

 日本は転換期を迎えていた。だから、新国際空港建設の計画が浮上したのだ。

 いずれ滅び去る運命にある町。

 なら、その土地を有効活用することに、何の問題がある?

 空港建設反対を声高に叫んでいるのは、自らの沽券を守りたいがために周りを見ようとしない一部の人間と、現政権に不満を持つ、過激な左翼の連中くらいのものだ。世論は確かに彼らに同情的だが、こちらには最大の武器がある。国費という、最大の実弾が。

(日本は、もっと、国際社会と渡り合える実力を付けなきゃいけない。父は、そうよく言っていた。おれも、それに同意する)

 所詮は惨めな敗戦国。今のうちに経済発展の土壌を耕しておかなければ、いずれ根元から腐り落ちて行く。現に、4、5年続いた五輪特需が終わって、多くの会社が経営難に陥ってるではないか。

 そして、まだまだ国際化の途上にある次代の日本を背負うのは、他でもない、おれたちなのだ……。

「なあ、露木。お前は、やけに哲学的な問いにこだわっているようだが、おれに言わせれば、誰が道を作ったとか、死後の世界とか、どうでもいいことだ」

 考えを整理し終えたあと、そう告げる。どこまでも続く、青い空を見上げながら。

「結局、先人が耕した道や、培った知恵、そして、数えきれないほどの多くの犠牲を払って得られた恩恵に、おれたちは与っている。今に生きる人々は皆そうだ。誰が生きようが死のうが関係ない。すべては、あとに生きる者のために残されたものだ。それが人生ってもんだろ?」

「……そうか」

 露木は、短く、それだけを言う。

「……やはり、お前は頭がいいな。全体をよく見ている。法学部を専攻すると言うのも頷ける話だ」

「露木こそ、よくもまあ、人の内面を見ようと腐心するよな。おれにはとても真似できない」 

「……ふ」

「……はは」

 どちらともなく吹き出し、笑い合う。

「……本当に面白い奴だな、お前は」

「それはこっちのセリフだぜ、露木」

「なんだかんだで、俺たちは、どこか似た者同士なのかもしれないな……」

「……まあな」

 おれも、露木も、人には見えない重圧を背負っている。片や日本の未来であり、片や誰かの人生そのものである。大袈裟かもしれないが、しかし、それは事実だった。

 実際のところ、人間と言うのは、大抵、こんなものなのかもしれない。普段、自覚していないだけで。自分と、自分以外の誰かと関係して生きている。

 本人の気付かないところで、何らかの縁を結び、生涯を懸けてゆっくりとほどいていく。おそらく、それが人生というものなのだろう。

 ……ここらで、畳み掛けておくか。

「ところで露木、ひとつ尋ねたいんだが」

「なんだ?」

「文芸部の連中も、すでに進路を決めていたりするのか?」

「……そうだな、以前、そんな話をした気がする」

「物はついでだ、せっかくだから聞かせてくれないか? 他の連中が、どんな将来を歩もうとしているのかを」

「……俺は別に、構わんが……」

「なんだ? もしかして、奴らに対して気でも遣ってるのか? お前も義理堅い奴だな、そんなのは今さらだろ? この際、固いことは言いっこなしだぜ」

「……ふ、まさか、お前の口からそんな言葉が出るとはな」

「意外だったか?」

「……いいや、この数日で、段々、お前と言う人間がよくわかってきたからな。最初は、都会人だけあって、なんだか近寄りがたい雰囲気があると思って警戒していたが、それは杞憂だった。こう見えて、案外、とっつきやすい奴だってことが知れたからな」

 露木の抱くおれの第一印象を聞いて、思わず吹き出しそうになる。

「あのなあ……、それは、お前自身のことだろ」

 たまらず反論すると、露木の奴は、何のことか図りかねるとでも言いたげに目を丸くさせた。

「そうか? 俺としては、別に、そんなつもりはなかったが」

「馬鹿言え、どこからどう見てもお前は不機嫌そうだったぜ。いつも眠そうにしているのかどうか知らんが、目つきも悪けりゃ、口元も不愛想に『への字』に結われているしよ、おっかないったらなかったぜ」

 まったく、何をとぼけてやがるんだか。これが身を張った渾身のボケじゃないなら、そっちの方が問題だ。

「……そうか、それは悪かったな。俺としては普通にしているつもりなんだが……」

 恥ずかしそうにポリポリと頬を掻く。

「確かに、芥川や天宮の奴からは、よく、人相が悪いとか、顔付きが暗いとか言われていたが、まさかそこまでとは……」

「おいおい、そんなに気に病むことはねーだろ」

 つーか、今まであんまり自覚してなかったのか。それはそれで驚きだ。

 常に冷静沈着な露木に似合わず、しょんぼりと肩を落とす奴の姿を目の当たりにして、低く、含み笑いを漏らす。

「生まれつきなら仕方ねーよ。それに、明星や浅間の粗悪な陰湿さに比べたら、まだマシな方だ。おれが保証してやる」

「……奴らと比較されても、まったく嬉しくないが……」

「気にすんなよ、元々、暗めなお前の顔が、ますます陰気臭くなっちまうぜ?」

「……ま、それもそうだな」

 自分の表情の硬さを和らげようとしてか、無理に笑顔を作ってみせる。その仕草が、なんだか無性におかしかった。

 いつしか、おれと露木は、互いに冗談を言い合えるほどに打ち解けていた。――少なくとも、奴の方は、そう思っているに違いない。

「それで……、文芸部の皆が目指しているものについてだが」

「……ああ」

 神妙な表情で切り出したので、おれも、だらしなく緩んだ頬を引き締める。

 これまで和やかだった周囲の空気は、一気に張り詰めた。

「確か……、天宮は、世界を股に駆けるジャーナリストになるとか豪語していたな。そのために外国語を沢山覚えてやると息巻いていた」

「なるほど、彼女らしい」

 天宮のあの破天荒はてんこうな性格なら、どこに行っても通用する気がする。決して過大評価じゃない。彼女と接してまだ日が浅いが、何だか妙に確信できる。

「芥川の奴は、存在が存在として存在するには、まず存在の存在としての定義を再構築する必要がある。これがいわゆるエポケーである……とか、よくわからんことをぶつぶつと言っていた気がする」

「なんだそりゃ」

 要するに、まだ進路が確定してないってことか?

 芥川は、研究者か何かが向いているような気がするが、これでは哲学者だ。まあ、普段から何を考えてるかイマイチわからん奴だから、案外、適任なのかもしれないが。

「東は、歳の離れた長兄ちょうけいが実家の家業を引き継ぐから、自分は農業系の大学に進学したいとか、そんなことを語っていた。浅間――兄の方――も同様に、建築業を継ぐとか、以前、そんな話を聞いたな」

「その割には、浅間の奴、工業系の高校には出なかったんだな?」

「浅間は、ああ見えて意外と頭脳派でな、将来的に図面とか引けるようになりたいらしい」

「ふむふむ、建築士と言っても、裏方の方ってわけか」

 それなら納得する。

(……さて、そろそろ切り込んでみるか)

「なあ、露木。浅間って、どういう奴なんだ?」

「……そうだな、普段は悪ぶってるが、明星ほどに札付きの悪ってわけじゃない。むしろ、あんなふうに素行が悪くなったのは最近からだ」

「最近って、具体的にはいつぐらいからだ?」

「……確か、1年ほど前だったか。何日か学校を休んだかと思えば、急に、今の奴のように顔付きが悪くなって戻って来たんだ。まるで、何か病気でもやっちまったみたいにな。ついでに態度も悪くなった。言動に余裕がなくなったというか、常に怒っているような感じだな。それまでは、至って普通の奴だったんだが。その頃から、部活もさぼりがちになった記憶がある」

「……1年前か」

「一時期、よからぬ連中とつるみ始めたとか、そんな根も葉もない噂が流れたが、真相はわからずじまいだ。あいつ、何も語りたがらないからな」

「……なるほど、そんな経緯があったのか」

 当時、浅間建設内外で何かあったか、洗い出してみた方がよさそうだ。

(さて、1年の高井戸と浅間の妹は関係ないから置いといて……、次は……)

 耳に入れた情報を元手に頭を巡らせる。

 露木の言う目的地まで、こんな調子で歩いていった。

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