第八話 調査

 夢を見ていた。

 もう何度目かもわからない。

 気付くと、おれはそこにいる。

 辺り一面に敷かれた芝生の絨毯を踏みしめ、キラキラと光を反射する水面に顔を近付ける。

 そこにはおれがいた。見慣れた顔が、揺れる水面に映し出される。

 だが、ひとつ、違う点があった。

 服装が違うのだ。

 なぜかおれは、今までほとんど着た覚えのない和服に身を包んでいる。祭りの時に着る浴衣のような格好だ。

 おれは本当におれなのか?

 根本的な疑問を抱えながら、静寂に満ちた湖畔のもとを離れ、ひと際大きな木が天に向かって直立する森のそばへ進む。

 大人が数人がかりで輪を作っても、まったく囲み切れないような太い幹を持つ巨木。

 なぜ、おれは、そんな大木のそばにわざわざ寄ったのか?

 ふと我に返って考えてみたが、明確な答えは出なかった。

 理由があるとするならば、自分の意志とは関係ない力が働いたからだろうか。

 それこそ、甘い蜜の香りに誘われる羽虫のように……。

「……こんにちは」

 木の幹の陰から現れたのは――紅白の着物を着た少女だった。

 彼女の第一印象は『白』だった。上質の絹を思わせる真っ白な長髪、さらさらとした新雪のようにきめ細やかな透明感のある肌。おそらくは襦袢じゅばんと呼ばれる白の肌着に、燃えるような色合いの赤袴――いわゆる巫女装束――に身を包んだ少女は、絵画のごとく理想的に形作られた周囲の自然に負けず劣らず、むしろ当然のように溶け込み、その少女もまた自然の一部なのかと錯覚させる神秘性があった。

 心臓を鷲掴みにされたような衝撃。

 それでも、目の前に現れた白い少女の存在に驚いたのは一瞬で、すぐにおれは彼女の存在を受け入れていた――その事実に遅れて気付き、おれはまたもや驚いた。

「わたしのこと、覚えていますか?」 

 柔らかく目尻を下げ、にこやかに笑いかける少女。上品で楚々そそとした可憐な仕草に心を奪われる。

 同時に、ひどく胸が痛んだ。

 なぜだろう? どうしておれは、彼女の笑顔を前にすると、こんなにも胸を締め付けられるのか?

 ギリギリと、内部から締め上げるような胸の痛みもさることながら、自分の胸が痛んだ理由がわからないのが、とても悲しく思えた。

「きみは……」

 喉元まで出かかったその名を口にしようとする。

「――――――」

 ――が、出ない。

 よく知っているはずの、彼女の名前。もう、すぐそこまで出かかっているのに……。

 なぜか……、思い出すことができなかった。

 彼女は……、目の前で笑いかける少女は……。

 ……誰だ?

 自分自身、思いもよらなかった疑問符の浮上に当惑し、ますます混乱に陥る。

 いつもどこかで出会っていた少女。夢の中、ずっとおれに語りかけていた……。

 しかし……、わからない。

 少女の存在より何より、本来ならよく知っているはずの少女を知らないというおれの存在こそが……わからなかった。

 時間が止まる。

 周りの時間が、ではない。元々、この世界にはそのような概念はなかったはずだ。常に変化をもたらさず、同じ場面が、環境が繰り返されるだけの世界なのだから。

 止まったのは、おれの中にある時間だった。思考が停止し、身体が硬直する。

 それはもう、おれという存在の喪失と同義だった。

 何者かわからない少女と、何も知らないおれ……。

「……いいんです」

 胸の奥でわだかまる疑問を氷解させたのは、少女だった。ゆっくりと左右に首を振り、柔和に微笑む。

「あなたのことは、わたしが一番よくわかっています」

 彼女の存在を一向に思い出せず、ともすれば自分自身さえもわからなくなった挙句、惨めに狼狽ろうばいするおれを慰めるよう静かに言う。

 全然わからなかった。彼女が、おれと親しげに接する理由が。

 そして何より、彼女を知っているようで知らないおれ自身が……わからなかった。

「……なぜ、おれはここにいる?」

 ずっと疑問に思っていたことを率直にぶつける。

 少女はちょっと困ったように苦笑すると、その可愛らしい桜色の口元を緩める。

「わたしがあなたを呼んだのです」

「……きみが、おれを?」

 なぜだ? なんのために?

「ずっと、ずっと、昔に……」

 両手を胸の前に置き、ギュッと握り締める。

「……約束、しましたから」

「……約束?」

 たまらず問い返す。

 それはいつの話だ? おれはこの少女とどんな約束を交わしたというんだ?

 まったくわからない。

 いつからおれがここにいるのか。どうしていつもここにいるのか。

 彼女は……、一体、何者なのか。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 ふと目が覚めて、ここが現実だと遅れて理解する。

 闇の中に、おれはいた。静寂が全身を包み、離さない。

 ここは蔵屋敷家の中、おれが寝泊まりしている兄の部屋だ――そう気付くのに少々の時間を要した。

 おれは布団の上に仰向けになっていた。寝汗をかいたのか、身体はじっとりと濡れている。喉もカラカラで、異様なほどに水分を欲していた。

(……今は、深夜か……)

 現在のおれが置かれている状況から察する。

 山村地区から帰ったあと、蔵屋敷家で残りの時間を潰し、こうして床についたわけだが……。

(……ごらんの有様ってか)

 最近はどうにも寝覚めが悪い。何か、こう、妙な疲労感が身体中に残存している。しっかりと睡眠を取ったつもりでも、あまり寝たという感じがしない。

(環境が変われば……、という奴だろうか?)

 よくよく考えてみれば、確かにその通りだ。環境の変化に伴い、じつに色々なことをこなさなければならなかった。新たな高校生活の合間を縫い、人間関係の把握と構築、周囲に散見される主要地所の視察、住民感情の確認及び改善策の考案……、それらを成しても、尚、やることは山積みだ。

 こんな具合に、おれの体調不良に際して様々な原因が考えられる。

 だが、こうして徐々に精神を蝕んでいく一番の要因は、もっと別のところにある。そんな気がしてならなかった。

(……夢、か)

 そう、おれは夢を見ていた。瑞々しい空の青が広がる雄大な大自然の中に、なぜかおれが紛れ込んでいる。おれはそこで特に何をするのでもなく、ただジッとしているだけ。そんな夢だ。まるで神秘主義者が夢想中に見るような内容のものが、ここ数日のあいだ、頻繁に見る夢だった。

(……そんな、が、なぜかおれを苦しめる。目覚めたあとの余韻が、あの、いつまでも脳内にこびり付く嫌な後味が、肝心肝要の現実生活から現実感を喪失させる……)

 所詮は夢だ。目が覚めれば、すべては消える。

 そのはずなのに……。

(だが、おれは覚えている。あの風景、あの空気、あの感覚……)

 そして……。

(……あの少女のことも、おれは……)

 夢に出て来る、ひとりの少女。全体的に儚げで、今にも消えてしまいそうな印象をその身に纏わせる、真っ白な巫女……。

 もちろん、実際に知っているわけじゃない。夢の中でなぜか彼女が出て来るから自然に覚えてしまった……、それだけのことだ。

(しかし、奇妙な点がある。それは、というものだ。

 もちろん、単におれの脳が少女の幻影を投影した可能性はある。とはいえ、それにしたって何がしかの原型はあるはずだ)

 まさか、おれは、彼女を……、あの巫女の少女を知っているというのか?

(……おれは、昔……)

 この町で、あの少女と……?

(……そんな……はずは……)

 様々な疑問が渦を巻いて頭にまとわりつく。さながら蛇のごとく執拗さで絡まり、身動きを取れなくさせる。

 何もかも、わからない。

(おれは……)

「………………」


 ――おおん、おおーん


 混乱に囚われる中、野犬の遠吠えを思わせる甲高い物音が静寂を割いて耳をかすめる。山から下りる風の音か、はたまた野生動物の鳴き声か。

(……今のところ、毎晩だな)

 不気味な金切り声にも似た音質というのもさることながら、決して近寄ってはならないとの掟がある離れの方向から聞こえているという事実が、尚のこと不信感と警戒心を抱かせ、必要以上に恐怖をあおる。

(おれは、一体、何を、どこまで知っているんだ……)

 判然としない自分の記憶。

 千々ちぢに千切れた意識は、まどろみの中に落ちていった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 深夜の潜伏先。襲い来る頭痛をこらえ、司令塔ハンドラーとしての業務を全うする。

「困りますねえ、あまり身勝手なことをされては」

 電話の相手を厳しく追及する。

 彼は恐縮しきったように声を上擦らせ、意味に乏しい応答を繰り返す。

「目撃者がいなかったからよかったものを……、下手すれば計画が破綻していましたよ」

 おれの叱咤に対して頻りに「すまん」と連呼し、謝罪の意思を示し続ける。

 頭の中に、年甲斐もなくぺこぺこと頭を下げるタバコ臭い男性の姿がよぎる。

『AAA』のロゴが象徴的な、あの外箱……。

「今回は大目に見ますが、次はありませんよ」

 本当に、次があればの話だが。

 彼の処遇はすでに決めていた。

 所詮は捨て駒……、命令に従えないのであれば始末するしかない。

「では、また何かあれば連絡します。……くれぐれも、計画を転覆させるような真似は控えるように」

 冷酷に伝える。

 結局、彼は最後まで謝罪の言葉を途切れさせることがなかった。

「……ふう」

 受話器を置き、軽く息を吐く。

 四方に散らばった意識を掻き集め、の存在は再構築される。

 頭痛が鳴り止まない。

 だが、痛みを鎮める方法は知っている。

 目下、進行中の計画に身を投じることだ。

 そうすれば、痛みを忘れることができる。

 潜伏先のひとつ、狭い一室の中で、はしばし考えていた。

 悪い知らせがあった。

 組織の尖兵であるひとりの男が、誤って無関係の人間に危害を加えてしまったというのだ。

 それだけならまだよかった。

 少々、まずいことになった。

 幸い、迅速な証拠隠滅を図ったことにより、第三者に犯行が目撃されることはなかったようだが……。

 山村地区の住人経由で、周囲の人間の動向は把握してある。

 懸念すべきなのは、姿ことだ。

 直接、犯行現場を見られたわけではないので、彼女ヒューミントはおそらく大丈夫だろうとタカをくくっていたが、アリバイ工作の関係上、こちら側が不利なのは変わらない。

 住職からの報告もある。

 あまり悠長にしてはいられない。

 だからというわけではないが、彼に連絡を入れる直前、おれは、かねてより温めていたあの計画の実行を彼女ヒューミントに向けて宣言した。

 最初、彼女ヒューミントは戸惑っていたように感じられた。

 臆病風に吹かれた彼女ヒューミントを一喝するように、おれは冷淡にこう告げた。

『犠牲なくして改革は行えない。邪魔物は徹底的に排除すべきだ』と。

 一瞬の沈黙の後、彼女ヒューミントは薄く笑った。

『相変わらずの合理主義ね、司令塔ハンドラー。あなたのその徹底した仕事ぶりには感服よ、お見それしたわ』

 それは皮肉か、素直な称賛か。

 どりらにせよ、おれにはどうでもよかった。

 3年前から、父の仕事の手伝いと、『亜細亜八月同盟AAA』の任務を遂行しているうち、おれはいつしか周りからこう評されていた。

 血も涙も凍て付いた、『氷の男』と。

 その評価はあながち間違いではない。

 おれの心は冷え切っている。感情などない。そんなものは、とうの昔に捨て去った。

 おれが昔から読んでいる本に、こんな言葉がある。『悪には多くの種類があるが、しかし、完璧な悪というのは極少数で、しかもそれは、もはや善と見分けがつかない。そして、完璧な悪と善のどちらを行うにせよ、並外れた強靭きょうじんな精神が必要となる』

 おれは悪だ。国の発展を阻止し、大勢の人々を見殺しにしようとしているのだから。

 しかし、それがどうした?

 どうせ、人は死ぬ。

 結局のところ、誰も何も救うことは出来ない。

 ならば、おれは、おれの目的を果たすまで。

 この計画は、組織にとっては国との戦いに終始しているだろうが、おれにはその先がある。むしろ、国家と争うことすら、最終的な目的に至るための手段に過ぎない。

 約束――。

 おれには、と交わした約束がある。

 その約束を果たすためにも、今回の計画は成功させなければならない。

 絶対に、失敗は許されない……。

「もしも……」

 ふと口を開く。

「もしも、お前があの者ならば……」

 窓に映る自分の姿を見詰める。

「その落魄らくはくした姿は、一体、どうしたことか」 

 窓の向こうに見えるのは闇。

 何もかも飲み込む闇の中に、おれはいる。

 まるで、おれの存在そのものが闇であるかのように。

「それにしても、随分と高いところから堕ちたものだ――」

 ジョン・ミルトンの叙事詩『失楽園』の一節が、不意に、おれの境遇と重なる。

 光輝燦然こうきさんぜんたるあの男と比較して、おれは闇も同然だった。奴は依然として、輝かしい未来と高い地位が確約された、栄光ある場所に座しているというのに、おれはこんなにも陰鬱とした牢獄のような場所で復讐の機会をくわだてている。

 なんと掛け離れていることだろう。なんと恐るべき差だろう。

 しかし、それもやむを得ないことだ。

 なぜなら、おれは、かつて交わした約束を果たすために、あえて高い場所から落ちることを選んだのだから。

 遥か上空より注がれる一筋の光から伸びる暗い影。それがおれだった。

「天国の奴隷でいるよりは、地獄の支配者である方がどれほどよいことか」

 すでにおれの進む道は決まっている。

 否、おれ自身が決めた。

 奴にはなくて、おれにはあるもの。

 それは――。

「おれは、あの者から遠く離れれば離れるほど、自由になれる。強く羽ばたくことができる」

 何物にも束縛されない、自由な意志。

 それが、奴とおれとの決定的な差だった。

 あの栄光の座に最も隔たった場所に立っているからこそ、その座を目掛けて高く飛び立てる。

 国の言いなりである家畜になど、おくれを取るものか。

 今回の計画。尾前町に伝わる伝承を利用した、完璧な犯罪計画。

 敗北を喫するはずがない。

 彼――『A』にも確認は取ってある。

 その『A』は、暁光会の大田原会長と面談し、根気よく交渉に交渉を重ねているところだ。

 今まではおれたちの計画に懐疑的な目を向けていた老いぼれも、懇意である住職が政府の人間に丸め込まれ、大事な山村地区の土地が取り上げられたとなっては、さすがに黙ってはいられまい。

 あとは、いかにして奴の思惑を出し抜き、あわよくば利用するか――。

 次々と案が浮かび上がる。

 、お前がどう行動しようが、すべてはおれの手のひらの上……。

 今度はお前が、おれの代わりに……。

 窓の向こうに意識を向ける。

 ――闇。

 目の前には闇。

 おれの存在は、闇の中に溶けて消えた。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 やはりというか、目覚めは最悪だった。

 喉の渇きで日が昇るか昇らないかのうちに目が覚め、そのまま一睡もせずに朝になってしまった。

 今日もやることが沢山あるのに、参ったな……。

 眠気まなこをこすりながら起きたからか、蔵屋敷家の人々に無用な心配をされてしまった。どうも目元に結構なクマができていたらしい。

「昨日、ちょっと無理させちゃったかな? ごめんね」

 朝早くから登校するため、いつも早起きの鈴蘭に廊下で出くわした際、こうして謝られてしまう体たらくだった。

 とりあえずその場では大丈夫だと答えたが、彼女の目からは空元気に見えたかもしれない。

 そして、それは、蔵屋敷の者全員が同じ気持ちだったのだろう。

(申し訳ないな……)

 とはいえ、ゆっくりと養生している場合じゃないのが実情なのだが。

 体調がイマイチ優れない中でも、学校はある。しかも、今日から本格的な学校生活が始まるのだから、ますます休んではいられない。

(朝から憂鬱だぜ……)

 容赦なく照り付ける太陽の光がオレンジ色に見える中、乗車する人間の数が異様に少ないバスに乗り込み、起伏の激しい田舎道に揺られるのだった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 高校では、意外なほど普通に時間が進んだ。

 休み時間中は、数人の生徒が都会の暮らしなどについて尋ねてきたが、同じクラスの明星の影響もあってか、特に大騒ぎするほどではなかった。

 登校初日と違い、例の明星はえらく大人しかった。それこそ不気味なくらいに沈黙を保ち、授業中、休み時間共に何も問題が起きなかった。

 隣の露木も「明星がだんまりを決め込んでいるのは珍しい」と評するぐらいなのだから、よっぽど普段がアレなのだろう。

「あいつは、一旦敵と見なした者にはとことん付き纏う、ヘビのような男だからな」

 露木はそう言っていたから、尚更、奴の鎮静っぷりが不気味だった。

(嵐の前の静けさというか、何か裏で企んでいるような気配を感じるんだよな……)

 それとも、おれが天下の蔵屋敷家に身を寄せていると知って、怖じ気付いているのか……。

(明星の奴が、本当に、虎の威をかる狐程度のつまらん人間なら、話は早いんだが……)

 何にせよ、おれはこれまでと同様に、周囲の人間を警戒するだけだが。

 放課後、露木と共に多目的室へと向かった。

 例の、部活動のためだ。

 正直、気乗りはしないが、生徒と馴染むにはこれが一番手っ取り早い。

 背に腹は代えられないと、そういうことだ。

 ガララ――

「よく来たわね、指折り数えて待ち構えていたわよ!」

「うわ、びっくりした!」

 扉を開け放すや否や、目の前には仁王立ちする天宮琴音の姿。勝気そうにつり上がった瞳と活動的なポニーテールが、彼女の男勝りな性格を如実に物語る。

 ていうか、扉の前に突っ立ってんなよ……。驚くだろうが。

「やっぱりあたしが見込んだだけのことはあるわね、感心したわ」

「まあ、一応、顔出しくらいはしておこうかなって思っただけで、特に深い意味はないぜ?」

「謙遜しなくたっていいわよ、シューヘイ。あんたは今に我が文芸部を背負って立つ人材になるわ。あたしが保証する」

「はあ、そりゃどうも」

 それにしても扱いづらいな、こいつは……。

「おい天宮。風祭の奴は、三週間後にはもうこの高校にはいないんだぞ。それをわかって言っているのか?」

「……ったく、相変わらず気が利かないわね」

 至極もっともな露木のツッコミに対し、天宮はやれやれと肩をすくめる。

「そんなことは百も承知よ。けど、だからこそ、『どうせ残り三週間の命』って逃げ口実を作られないよう、大事な部員のひとりってことを、たとえ錯覚であろうと植え付けることが大事なの。それに、あたしみたいな花も恥じらう乙女がよいしょって持ち上げておけば、大抵の男はいちころなんだから。だからあんたも、シューヘイを文芸部にくくり付ける努力しなさい。せめて、『ふり』だけでもいいから」

 天宮さーん、本音が漏れてますよー。

「なにはともあれ、さっさと部室に入った入った! 我が文芸部は新入部員を歓迎するわよー!」

「だから引っ張るなって……」

 袖を掴んで綱引きよろしく引っ張ってくるもんだから、たまらず全身に力を込める。

 だが、そんな抵抗もむなしく、おれはずるずると、部室という名の監獄のもとへ引きずられていった。

「……来たか」

 頬杖をつきながら分厚い本を流し読みする東卓美が、ぼそりとひと言。女らしからぬ凛々しい顔付きも相まって、おれを一瞥する目つきがいやに鋭いが、おそらく生まれつきのものなのだろう。そうじゃないと怖い。

「おやおや、自ら生贄……もとい、部活動に精を出しに来るとは。新入部員ながらその心意気や見事。いやはや、御見それしましたよ」

 壁にもたれかかってキザに哲学書なんぞを手にする白衣姿の芥川伶一が、腹の内をまったく包み隠そうともせず、ぺらぺらと口にする。まったく、嫌味にもほどがあるっつーの。

「うふふ、風祭先輩も、すっかりわたしたちの一員ですね」

 口に手を当て上品に笑うのは、後輩の浅間咲江。腰まで伸びた黒髪と、少しゆっくりとした挙動の数々が、どことなくお嬢様っぽさを演出する。

「それで、今日は何するんだ? 純文学の考察か? 討論か? それなら、誰も芥川の詐術さじゅつじみた弁論術には敵わないと思うが」

「心外ですねえ、僕が用いるのは古代ギリシアから続く由緒正しき弁証法であって、決して詐欺まがいのペテンでは……」

「はいはい、リョーイチの言い分はあとあと! 今は今日の部活動の方針を発表するのが先決よ!」

 紛糾した場を取りまとめる裁判長よろしく、パンパンと手を叩き、白熱しかけた議論を収束させる。

「とほほ……世知辛いですね」

 シクシクと涙を拭う。

「泣き真似する芥川は放っておいて、結局、どうするんだ? やっぱり無難に文学作品の批評会か?」

「んー、確かに、そうしたいのはやまやまなんだけど、まだ部活に入り立てのシューヘイには早い気がするからね、残念ながら今日はお預け。んで、あたしが考えたのはー……」

 次なる天宮の発言に注目が集まる。

 それをわかっているのだろう天宮は、なかなか口を開こうとせず、妙なためを作る。

(早く言えよ……)

 皆の期待感を高めるための演出なのだろうが、おれとしては部活の内容にさほど興味もないので、早く発表して欲しいところだった。

 半ば呆れつつ天宮の動向を観察していると、彼女はちらちらと意味ありげな視線をおれに送る。

 嫌な予感がした。

「じゃじゃーん! 今日やるのは、ずばり、『風祭周平くんと交友を深めるための親睦会しんぼくかい』よ!」

 おもむろに両手を広げ、万歳の格好をした天宮は、恥ずかしげもなく、むしろ胸を張って堂々と言ってのけた。

 しーんと辺りが静まり返る。

「どう、今回の部活動にピッタリでしょ?」

 天宮は満面の笑みを作って皆に笑いかけるが、彼女に好意的な視線を送る者はほとんどいなかった。というか、どちらかと言えば、おれに向かって冷ややかな視線を注ぐ有様だった。

(おいおい、おれは天宮の考案した部活動の趣旨とは一切関係ねーぞ!? むしろ、一方的な被害者だぞ?!)

「わー、風祭先輩は人気者なのですね。早速歓迎会が開かれるなんて」

 ひとりだけ例外なのが、浅間咲江だ。根が天然なのか、それとも明確な悪意を持っているのかは定かではないが、上品に小さく手を叩き、ふざけきった天宮の案に賛成する。パチパチという、場違いな拍手の乾いた音が哀愁を誘う……。

「ええっと、ぼくも、いいと思いますよ」

 続いて賛同の意を示したのは、一年生である高井戸淳。いがぐり頭で小柄の彼は、典型的な田舎少年という出で立ちだが、この凍り付いた空気の中で自分を押し出すあたり、なかなかどうして男気がある。まあ、ただ単に、咲江の意見に同調したかっただけかもしれないが。

「ふむふむ、確かに、都会人らしくどこか飄々ひょうひょうとしていて、僕達に心の内をまったく見せない彼の本意を探るには、副部長の案はまさしくうってつけかもしれませんね」

 早くも傷心から復活したのか、芥川が顎に手を当てたキザっぽい仕草で頷く。長身のせいか、妙に様になっているのが心憎い。

 というか、傍から見れば、おれってそんな印象だったのか?

「部長も、そう思いますよね?」

 天宮をよいしょする太鼓持ちの芥川は、続いて東にも意見を仰ぐ。

 東は、すべてを見透かすような鋭い視線でおれを見る。

 値踏みするような厳しい目つき……。

「……たまには、いいんじゃないか」

 そう短く言い残して、視線を天宮の方に向け直す。相変わらずの仏頂面なのがやけに怖いが、これが彼女の普段の姿と割り切ることにした。

「よし、決まりね!」

 パンと手を打ち叩き、議論を打ち切る。

 最初から思っていたことだが、彼女は根っからのまとめ役というか、統率者気質のようだ。強気で勝ち気な性格といい、将来、大成しそうだ。

「……おい、待てよ」

 さあ会議はお開きかというところで、おれの背後に立っていた露木が、怒りで眉根をひくつかせながら言った。

「俺の意見を無視するとは、一体どういう了見だ?」

 ただひとり発言していないからだろう、露木は口角を歪ませて異論を唱える。

「あ、心配しなくていいわ。ギンジは最初から親睦会賛成に一票投じていることになっているから」

 にべもなく言う。

「……天宮、お前、人を愚弄ぐろうするのも大概にしとけよ?」

 当然のごとく自分の意志が無視されたのを受けて、泣く子も黙る三白眼で天宮を睨み付けるが、対する天宮はどこ吹く風。むしろこの状況を楽しんでいるかのように悪戯っぽい笑みを浮かべている。

「さあさあ、シューヘイ! 空気の読めない男は放っておいて、とっとと席につきなさい! 主役がいなきゃ始まんないでしょ!」

「わかった、わかったから……、そんなに押すなよ」

 彼女に急かされるまま、部室の中央を陣取る机の前に設置された席に着く。

 机を挟んだおれの向かい側には、左から見て咲江と高井戸、東と並び、遅れて天宮と芥川がおれを挟むように両隣の席へと着いた。

「っち、ホントに仕方ねえ奴だ……」

 憎まれ口を叩きながらも素直に天宮に従う天邪鬼あまのじゃくな露木は、二人に一拍子遅れて一番端の席……東と芥川のあいだの席に座った。

「本当は、タッちゃんもいれば尚のことよかったんだけどね」

「それって、幽霊部員だって言う浅間さんのお兄さんのことか?」

「そうよ、あいつはなかなか部活動には参加してくれないけど、あいつはあいつで面白い男でね」

「ふぅーん、どんな人なんだ?」

「それは、直接サッちゃんの方から聞いた方が早いんじゃないかしら?」

 ちらっと、向かいの咲江を一瞥する。

「え、わたしですか?」

 きょとんとした目で天宮とおれを見比べる。彼女が元々童顔なこともあるが、その仕草は彼女の子供っぽさを助長した。

「ふふ、きっと驚くわよ」

「……?」

 天宮が何かを企んでいるのは、その悪戯っぽく細められた目つきでわかったが、肝心の内容まではさすがにはかりかねた。

「えーっと、そうですね……」

 話を振られた咲江は、考えをまとめるように宙を仰ぐ。そうした初期動作の遅さというのが、やはり彼女を幼く見せる。

「どこから話せばいいのかよくわかりませんが、わたしの兄は浅間あさま樹生たつきと言うのですが、高校卒業後は家業を継ぐということが予め決まっていますので、残念なことに、あまりこうした文化活動には積極的に参加できないのです」

「……家業? それって、農家とか?」

 当てずっぽうで尋ねると、突然、天宮がプッと噴き出す。

「違う違う、ぜんっぜん違う! もう、それでも本当に都会人? 人を見る目がなさすぎよ! あなたの目は節穴? それともただの飾りなの!?」

「いや、そこは都会関係ないだろ!」

 まったく、都会の人間にどんな偏見抱いてるんだよ?

「……さあ、サッちゃん、言ってやんなさい!」

 話の腰をへし折った張本人がそのまま軌道修正する。彼女の剣幕に驚いた咲江は、慌てて居住まいを正した。

「あ、はい。わたしの家は代々建設業を営んでおりまして……、『浅間建設』と言うのですが……」

「……!」

 ――『浅間建設』。その名を聞いて、背筋に電流が走った。

 同時に、悟る。天宮が、どのような意図で彼女の兄を紹介させたのかを。

 浅間建設は、国内でも有数の鉄鋼会社『神田製鉄』の関連子会社で、五輪ごりん特需とくじゅにおけるインフラ事業でメキメキと頭角を現し、僅か数年足らずで『神田製鉄の懐刀ふところがたな』の異名を持つほどに急成長した会社だ。政府が目下進めている土地収用が済んだ暁には、浅間建設を始めとした神田製鉄の関連子会社にも、道路整備やそれに伴う拡張工事、ひいては空港設備設立の一部などを委託する手筈になっている。

 とすると、彼女と、その兄は、浅間建設社長の子息令嬢というわけか。

(どうりで、一般人離れした独特の空気を放っているわけだ)

 しかし、分校に編入する前に見た資料では、樹生と咲江の詳細にそんな記述は……。

(……情報が隠蔽いんぺいされていたのか? 意図的に? 誰が? なんのために?)

 おれが周囲の人間を疑った時だった。


 『……大局を見通そうと躍起になるあまり、目先の調査を怠るなよ? お前のすぐ周りに、思わぬ落とし穴が用意されていないとも限らないからな』


 なんの因果か、ここに来てすぐに父と交わした通話を思い出す。

(……そういうこと、なのか?)

 だとすれば、ぴったりと符合する。こじつけかもしれないが、あの父の性格と、意味深なセリフを考慮すれば、あながち見当外れではないだろう。

 おれはすでに試されている。学校の人間でも誰でもない、他ならぬ父に。

(……そっちがその気なら、望むところだ)

 自分に課せられた使命を再確認する。

 心機一転、自らを鼓舞したところで、改めて、咲江の方に意識を傾けた。

「お兄様は、最近、家業の方で何かと忙しいようでして……」

「確かに、最近見掛けないわねー。部室の中だけじゃなく、学校の中でもね」

 心配ね、と、他人事のように言うが、おれの方は気が気でなかった。

 ある懸念が、真っ先に思い浮かんでいたからだ。

(……確か、神田製鉄は、4年ほど前から始まった五輪特需の波に乗っかろうと先急ぐあまり、メインバンクやセカンドバンクから金を借り付け過ぎて、首が回らない状態じゃなかったか? 少なくとも、おれはそう聞いている)

 神田製鉄だけじゃない。この日本では、1、2年前から特需のツケが来たことで、数多くの鉄鋼会社や、それに連なる会社が軒並み倒産している。

 国が推し進める空港開発が彼らの最後の頼みなのだが、御覧の通り、土地収用に思ったより時間が掛かり、未だ工事に着手できていない状況が続いている。

 神田製鉄も例外ではなく、特にここ最近は資金繰りが難航しているとの話はよく聞く。

(そうだ、明星の野郎の父親が頭取を務める明道銀行も、いくらか神田製鉄に金を貸し付けていたはず……)

 だが、山村地区における新国際空港建設反対運動が続くようでは、神田製鉄は……。


 ガララ――!


 勢いよく背後の扉が開く。

 皆が一斉に振り返ると、そこには、ひとりの男子生徒の姿があった。

「お兄様!」

 ガタイの良い生徒をひと目見て、咲江が立ち上がる。しかも、お兄様との仰々しい尾びれ付き。

 まさか、急に現れた不良っぽい出で立ちの男子生徒が、問題の浅間樹生だと、誰が想像できただろうか。

「……なんだか、見ない顔がまじってるな」

 大柄で目つきの暗い浅間樹生は、それだけをつまらなそうに言うと、ムッとしたように表情を変える。

「……んだよ、鳩が豆鉄砲でも食らったような、しけたツラしやがって。オレがここに来るのがそんなに物珍しいのかよ?」

 ぐるりと周囲を一瞥し、顔をしかめる。

「別に、そういうわけじゃないが……」

 一番近くにいた露木が力なく答える。

 社長令息という割には言葉遣いの乱暴な浅間樹生の登場に面食らってか、皆は一様に言葉を失っていた。それは確かに、彼の言う通り、自分が招かれざる客であることを意味していた。

「どういう風の吹き回し? あんたがわざわざ部活に参加するなんて」

 ご意見番の天宮が席を立ち、浅間を見上げて凄んでみせる。

 浅間樹生は、不意に向けられた彼女の鋭い視線にまったく怯むことなく、平然と睨み返す。

「別に、お前らのお遊びに付き合うつもりは毛頭ねえよ」

「あら、残念ね。だったら早々にお引き取り願えるかしら? こっちもあんたの酔狂すいきょうにいちいち応じるほど、暇じゃないのよ」

「それはオレだって同じだ、何が悲しくてこんなくだらんごっこ遊びに参加せねばならんのだ? 咲江のことがなけりゃ、とっくに退部してるってのによ」

「それなら尚更、一体どんな用事でここに来るってのよ? 言っておくけど、冷やかしはお断りよ」

「……ちょっと、東に用があってな」

 今度は、皆、一斉に東の方を見る。

「……私に?」

 意外だとでも言いたげに東は眉をひそめる。明らかに浅間樹生をいぶかっている様子だ。

 しかし、浅間樹生は、周囲の懐疑的な視線など物ともせず、その病的なまでの暗い目つきで東を見る。

「ああ、……今、時間あるか?」

「……なに?」

 虚を突かれたように東は疑問符を浮かべる。まさに寝耳に水といったような反応だ。

「お前には是非とも話して貰わなきゃならんことがある。……明星に聞いたぜ、あの山の神様のことについてよ……」

「……晃介から?」

(なに? 明星?)

 浅間の口から奴の名前が出るとは思っていなかったので、おれは、一瞬、耳を疑った。

「ちょっと、ちょっと! 今は新入部員の歓迎会を開いてる最中なのよ! 勝手なこと言わないでよね!」

 東を連れ出すという思わぬ申し出に天宮はたまらず抗議の声をあげるが、浅間はまったく意に介さない。そればかりか、邪魔だと言わんばかりに高圧的な視線を投げかけ、まともに取り合おうとしない始末だ。

「悪いな、天宮。オレにも事情があるんでね……」

 挑戦的にそう言って、薄く笑う。それは絶望的なまでに暗い冷笑だった。

「……そういうことらしい。風祭君には申し訳ないが、私は一旦席を外すとしよう」

 有無を言わさず立ち上がると、あまりに突然なことに呆然とするおれたちを尻目に部室から去る。

「……なによ、タッちゃんのやつ。あたしに何も言わないで部活をさぼり続けたかと思えば、急にデカい顔して土足で踏み込んできて、その上さらにタクちゃんまで連れて行くなんて……!」

 静寂の中、不意に我に返った天宮は、わなわなと肩を震わせ、頬をピクピクと引きつらせる。行き場のない怒りを拳に込め、爆破寸前のところで押し留めている様子が傍目にも感じ取れた。目の前にサンドバッグがあったなら、彼女はそのどてっぱらを思い切り殴りつけていたことだろう。ヤクザも裸足で逃げ出すような殺意に満ちた威圧感は、さながら般若はんにゃ羅刹らせつを彷彿とさせるような、身も凍る恐ろしさに満ち溢れていた。

「まあまあまあ、過ぎたことを悔やんでも仕方がありません! くよくよせず、前を向きましょう! あまり根に持っても時間の無駄、いたずらに体力を浪費するだけですからね! ――そう、まったくもってその通りです、過ぎ去った時間に意味などありません! なぜなら、過去はもうすでに存在しないからです! それよりも、今、確実に訪れゆくこれからのことに目を向けましょう!」

 なんだかよくわからん屁理屈で、怒りの矛先を捻じ曲げ、煙に巻こうとする芥川。命知らずにも悪鬼あっき羅刹らせつと化した天宮へと果敢かかんに飛び込もうという涙ぐましい努力である。

「え、えっと、じゃあ、ぼくは、浅間先輩と東先輩の様子を見てきます……っ」

 この一触即発の空気を吸うのにとうとう耐えきれなくなったか、高井戸が出し抜けにそう言うと、誰の了承も取らずにさっさと廊下へと駆け出してしまった。

 ますます気まずい空気が立ち込める部室内。もう、喉がつかえるぐらいに息苦しい。まるでここだけ真空状態になったかのようだ。

「……俺たちだけで、やるか」

「……そうですね、そうしましょう、そうするしかありません」

「わたしはそれでも構わないですよ? お兄様がいないのは、少し残念ですけど……」

 残った野郎二人が呆れ果てた様子で顔を見合わせ、何かを悟ったように頷き合い、こんな殺伐とした中でも平然とたたずむお嬢様一人が、焦土と化した更地に咲く一輪の花のように、のほほんと微笑む。

(……平和って、いいもんですね)

 遠い目をしながら、漠然と思った。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。

 

「そういえば、ずっと気になってたんだけどさ」

 頬杖をついていた天宮が顔を傾け、おもむろに尋ねてくる。

「なんだよ藪から棒に」

「あんたってさ、森鴎外の『舞姫』好きなんでしょ?」

「……ああ……」

 記憶を辿りながら返事する。

 そういえば、自己紹介の時にそんなことを言ったような気がする。

(まさか真に受けているとは……)

 場を持たせるための方便だということも知らず、天宮は目を輝かせておれを見る。

「なにか、理由があるのかしら? あんたのことだから、ちゃんとした意味があるのよね? だとしたら、是非とも聞かせてほしいものだわ」

「はは……は」

 さすが、文芸部の副部長だけあって、文学のことになると途端に目の色が変わる。その変貌ぶりは、先程まで撒き散らしていた毒素を中和させるほどに顕著で、場の空気を一変させるだけの効力があった。

 対するおれはというと、文学作品に対してそこまでの情熱を傾けるほどの熱意と興味もないのだが。

「……まあ、単純に、おれの感性に合ったから……としか言いようがないな」

 小説の内容を思い返し、答える。

『舞姫』を改めて熟読したのはつい最近のことだが、主人公である太田豊太郎と、おれとは、接点が多い気がした。官僚と言うほまれある肩書き。留学と言う名の新天地での生活。若くして学問を修めた豊太郎の前に待ち受ける栄光と挫折。そして、後悔。まるで、これからのおれの未来を暗示しているようで、とても親近感を覚えた。

 もっとも、おれは彼ほど臆病でも、ましてや優柔不断でもないのだが。

 結局、『舞姫』の主人公である豊太郎は、愛を取るか、名声を取るかの究極の選択を迫られた挙句、紆余曲折あって、ヒロインであるエリスを残して帰国したわけだが。

「他には何を読むの? あんたって頭が良いから、社会派小説とか好きそうよね。松本清張まつもとせいちょうとか特に。それとも意外に川端康成かわばたやすなりとか?」

「いや、さすがに持ち上げすぎだって。福沢諭吉の『学問のすゝめ』とか、授業で取り上げるような奴しか読んだことねーよ」

「ふーん、じゃあ夏目漱石とか、その辺りかしら? とすれば、やっぱり『こころ』よね?」

(――そうではない!!)

 というのは、『こころ』に登場する主人公の先生の恋敵である『K』のセリフだが。

「……まあ、そんなところだな」

 あんまり内容は覚えてないが、とりあえず同意する。

 おれが読んだ本と言えば、あとは、マキャベリの『君主論』とか、マルクスの『資本論』などの、父に読めと強要されたものと、今後に必須となる六法全書ぐらいか。

「んで、芥川は、『羅生門らしょうもん』が愛読書なんだっけか?」

 おれにばかり話題の矛先が向かうのも気分が良くないので、例の芥川を槍玉に挙げる。

 当の芥川は、ポカンとした表情でおれを見ていた。両目をカッと見開き、だらしなく口を開け放している。

 ……なんだ?

「風祭くん、まさかとは思いますが……」

 わなわなと、おれをさす指が震える。

「あなた、まさか、僕が芥川という苗字だから、芥川龍之介の著書を例に挙げたとか、そういう短絡的な考えで自分の意見を主張したわけではないですよね?」

「……だったら、どうだっていうんだ?」

 当てつけのように言ってやると、芥川はこれ見よがしに頭を抱えた。

「ああ、特待生ともあろう御方が情けない! そのような固定概念に惑わされるなど……! あまりにも浅はか……! 致命的なまでに表面的……! 浅薄皮相せんぱくひそうにも限度があります……!」

「はあ」

 なんだか大げさに騒ぎ立てているが、おれを始め、周りのメンツは、一歩引いた観点から、突如として繰り広げられた芥川の愚行を哀れみの眼差しで見やるのみだった。

「風祭くんのような秀才には……! 是非とも……ッ! 自分の中にある他者ではなくて、他者自身としての他者を見て欲しいと……! そんな、淡い期待を抱いていたというのに……! なんという醜聞スキャンダル……! 弘法こうぼうも筆の誤りと言いますが、それ以上の衝撃度ですよ……! まさしく手痛い失態です……! あなたほどの人間も、結局は記号によるラベリングに頼るとは……ッ」

「わかった、わかった」

 とりあえず、こいつが本当に関わっちゃいけないタイプの人間だってことは。

(それにしても、好きな本ねえ……)

 茶番を演じる芥川は放っておいて、自分のことを考える。

 おれには、肌身離さず持ち歩いている愛読書とか、ある特定の作家が好きだとか、そんな特殊な感情も、区別もない。単純に、本は本で、作家は作家だ。それ以上でもそれ以下でもない。特別な付加価値など付けようなどとは思わない。

 別に読書が好きというわけでもないのだから、当然だが。

(でも、あの家だと、趣味が読書くらいに限られているんだよな)

 娯楽用のテレビ番組なぞに興味を示そうものなら、あの厳格な父が、凄味のある顔で「学費を削るぞ」と平然と脅してくる。

 父が何と言おうと、結局、困るのはおれだから、脇目も振らずに黙々と勉学に励むしかない。

(……それも、おれが望んだことだ)

 運輸省の政府高官である父の跡を継ぎ、いずれ国の政治を動かす人間になる。それが、おれが物心ついた時から抱いた夢であり、絶対に果たさなければならない目標だった。

(……そうだ、あの時から、おれは……)

「しかし、天宮嬢もここぞとばかりにぐいぐい行きますねえ」

 今まで衆目の面前で醜態しゅうたいをさらしていた芥川だが、そんな事実などなかったかのように復活を遂げていた。

 呆れ果てた皆の視線が、再び、芥川の方に向かう。

「まったく、僕が入部した時の熱量とは大違い、まさしく天と地、月と六ペンスくらいの差がありますよ。――ああ、そうそう、一応補足しておきますが、『月と六ペンス』というのは、イギリスの作家サマセット・モームがしたためた小説の題名ですよ。それはさておき、僕が入部した場合、大した動機も聞かれずに即採用、かと思いきや、その後しばらくは文芸活動に勤しむこと叶わず、掃除などの雑用ばかりという散々な扱いでしたからね。いやはや、あの時は辛かったです、まさに辛酸を舐めさせられる思いでしたよ」

 自身の境涯と照らし合わせながら、冷やかすように笑う。哲学に傾倒けいとうしているという彼らしい達観した物腰が、事実の悲惨さよりも滑稽さを強調する。

「うーん、あたしもよくわからないけど、なんだか無性に興味が湧くのよね、シューヘイのこと。なんだか自分でも不思議なくらいよ」

 めつすがめつおれを見る。

「ふむ、ブルジョワジーに対する羨望というやつですかね? しかし、老婆心ろうばしんながら申し上げますと、本来ならルサンチマンのような反応が適切かと思われます。天宮嬢のような気の強い女性なら、なおさら。――もっとも、僕はもっぱら退廃主義デカダンス虚無主義者ニヒリストですが」

 ぺらぺらと、いつもの学者口調の早口で捲し立てる。

 それにしても、本当に掴みどころのない男だ。

「あんたのことはどうでもいいのよ、リョーイチ。そんなワケのわからない横文字ばっか使ってさ。議論を煙に巻こうって魂胆は百も承知なんだから」

「相変わらず手厳しいですねえ……。教養ある淑女しゅくじょたる者、もう少し楚々そそとした言動を心掛けて欲しいものです。シル・ブ・プレ?」

「うっさいわねえ、ホントに反省するつもりがあるのなら、その西洋かぶれをどうにかなさいよ、まったくもう」

「おや、僕のアイデンティティを真っ向から否定するとは! これは看過かんかしがたい暴挙です、人の上に立つ者にあるまじき愚行ですよ! それこそ越権行為そのものです! 公権力反対!」

「あー、もう! あんたが会話に割り込むと話がこじれるのよ! 今はシューヘイと話してるんだから、ちょっとは大人しくしてなさい!」

 弁の立つ芥川に正論で論破されかけ、ヒステリックに叫ぶ天宮。どうも彼女は情緒不安定の気があるようだ。

「仕方ありませんねえ、今回はこのくらいで引き下がるとしましょう。レディー・ファーストが僕のモットーですから」

 ひと仕事終えたような、清々しい笑顔。この芥川と言う男子生徒は、優男を装ったとんだ食わせ物だということが、この厚かましさから容易に窺える。

「あんたねぇ……、一体、何様のつもりよ?」

「はい? 僕ですか? ……もちろん、『』のつもりですよ」

「……ふんっ」

 ぐしゃっ

「おうっ!」

 天宮に足を踏んづけられた芥川は、普段は糸のように細い目を思い切りひん剥かせ、オットセイの鳴き声のような情けない声をあげる。

「ペテン師のリョーイチは放っておいて、続き、いくわよ」

「あ、ああ……、わかった」

「……哀れだな、芥川」

 部室の隅でうずくまり、痛みを必死に押し殺す芥川の後姿を前には同情の念を禁じ得ない。

(雄弁は銀、沈黙は金と、そういうことか)

「皆さん、仲がよろしいですわね」

 阿鼻叫喚あびきょうかんのるつぼと化した部室にあって、一糸乱れず上品に微笑む咲江令嬢。どこまでも落ち着き払った様子の彼女は彼女で常人離れしており、末恐ろしい。

(それにしても賑やかだな、ここは……)

 なんだかんだで元の鞘に収まる部室のメンツを前に、先程とまったく同じ感想を抱かずにはいられなかった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 しばらくして、顧問の石蕗つわぶきが部室に来た。何の用かと思えば、どうも、おれが呼び出しを喰らっているらしかった。

 残念だが、今日のところは部活動はお開きだ。――石蕗は冷淡にそう告げた。

 天宮に別れを惜しまれながら、石蕗と共に部室をあとにする。

 正直、安堵した。部室から出た途端、得も言われぬ開放感に包まれた。

(……あいつらの熱量には、本当に参るぜ)

 舐めていた。所詮、田舎者だと高をくくっていた。これが大間違いだった。

 おれの何を気に行ったのか、天宮は根掘り葉掘りおれのことを尋ねて来るし、芥川は芥川で彼女とおれのやり取りを茶化しては、天宮と露木の両者に鋭く突っ込まれ、あえなく撃沈しては懲りずに浮上する。そして、咲江が剣呑けんのんな場を和ませ、一件落着。この繰り返し。

(……やっぱり、田舎の人間ってのは、無駄に元気がいいな)

 改めて実感した。

「……どうだ、風祭」

 どことなく侍を連想させる渋さが特徴の石蕗は、廊下を歩きながら、おれの方を見ずに言う。

「尾前町での生活は、うまくやっていけそうか?」

 これが建前で、本題ではないことはすぐにわかった。

「ええ、今のところは、特に問題ありません」

「……明星から、何か言われたりは?」

「……あれ以来、特には」

「……そうか」

 ふっと息を吐く。

「なら、いいんだがな」

 僅かに頬を緩める。

「ところで……」

 足を止めたかと思えば、再び、表情を引き締める。

「明星が、この辺りを牛耳ぎゅうじる地銀の頭取令息なのは知っているな?」

「……それが、何か?」

 どうにも要領を得ない。あえて核心をつくのを避けているような、妙なまだるっこしさがあった。

「……これは学校でも内密な話でな、先生としてもあまり事を荒げたくはない。そのゆえに、言い方は悪いが、本来部外者である風祭にしか話せないんだ」

 大袈裟に前置きして、耳打ちする。

「明星……、どうも彼は、銀行の下請けである地上げ屋とつるんで、よからぬことをやっているようだ。地元民からそのようにタレこみがあった。そういう経緯もあって、学校側も彼の動向を注視しているんだ」

「……そういうことでしたか」

 ようやく得心する。石蕗が、なぜ、おれを呼び出したのかを。

「しかし、なぜそのような話をおれに?」

 意地悪く尋ねる。石蕗の本心を、今一度確かめるためだ。

 すると、石蕗は、僅かに表情を曇らせた。

「……お前も知っているだろう、明星の家柄が町にどれほどの影響を及ぼしているか」

「…………」

 聞き返すまでもない。あまりにもわかりきっていることだった。

「事実上、町の実権を握る父親のこともあって、ここの人間は彼に対して強く出られない。報復を恐れるあまり、見て見ぬふりを決め込んでいるわけだ。それは学校側も同じだ。情けない話だが、今も手綱を握られている。だから明星が何か問題を起こしても停学や退学処分にならず、むしろ無罪放免で野放しになり、結局、平気で他者をいびるような真似をする。だがしかし、明星が刑事犯罪に手を染めているとなれば話は別だ。警察が絡んでくるからな」

 それは正しい。学校や町の人間が明星を持て余しているなら、別の第三者が彼を指導、教育すればいいだけのこと。

「問題は、誰が明星の理不尽な仕返しを恐れずに立ち向かえるかだが……」

 皆まで言わずとも、わかった。石蕗が、おれに期待を寄せていることが。

「……その顔……、察しが良いな」

 石蕗もおれの考えに気付いたか、不意に笑みを浮かべる。

「その通り。風祭、お前だけは別だ」

 おれの目を見て、はっきりと言う。

「町に根付いた因習と無関係のお前なら、明星が何をしでかそうとしているのか、その行動の裏にあるものを暴くことができる。そればかりか、悪事を未然に防ぐことも不可能じゃない。現に、いつもは何かと問題行動を起こす明星も、今日は大人しかった。これは今までならありえないことだ」

 しっかりとおれの目を捉えながら熱弁する。その切れ長の目には、確かな光が宿っていた。

 しかし、石蕗の熱意に感心する一方、そんな彼のことを冷ややかに眺めている自分がいるのも事実だった。どうにも裏が隠されているような、そんな気がするからだ。

「確かに、先生のおっしゃる通りです。明星の不遜な態度は目に余るものがありますので、おれとしても、先生の申し出を受け入れるのにやぶさかではありません」

 相手の出方を探る意味合いを込めて、おれは石蕗の意見に同意を示す。

 懐疑的なおれの思惑などつゆも知らない石蕗は、ほっと胸を撫で下ろしたように表情を緩める。

「そうか、それは願ってもないことだ。何かあれば、遠慮なく先生に言ってくれ。私に可能であるならば、然るべき手段で対処する」

 石蕗はそう言うが、おれにはある懸念材料があった。

「ですが……、少し、気になることがありまして」

「なんだ? さっきも言ったが遠慮はいらない、何でも言ってみろ」

「……明星の素行を調べて、ただす。それは、父からの進言ですか? それとも、学校あるいは先生自らのお考えですか?」

 毅然とした態度で問いかけると、石蕗は押し黙った。まるで図星だとでも言うように、彼は目を見開き、閉口する。

「……お前も、なかなか用心深いな」

 観念したようにつぶやく。

 口元に浮かべた乾いた笑みが、いやに冷たい印象を植え付けた。

「そういう世界で生きると、心に決めたものでして」

「……そうか」

 もう一度、溜め息。それが感嘆によるものか、はたまた呆れた末に飛び出たものなのかは、さすがに図りかねた。

 石蕗の切れ長の目が、再び、おれを向く。

「……風祭、これだけは言っておく。私は、誰の味方でもない。ただ、生徒を公正な目で見るだけだ。教職に就く者の義務として、な」

 相手の心を射抜く、鋭利な視線。

「それが、最良だと思いますよ」

 教師の手本とも言える模範的な返答に対し、静かに頷いて見せる。

 下手に個人を贔屓ひいきしては、問題を引き起こしかねない。人間を相手にする以上、何がしかの関係性を築くことは避けては通れないが、それがあまりに露骨なものであるなら教職者失格だろう。

 だからこそ、石蕗は、互いに知り合ってから日の浅いおれに白羽の矢を立てた。

 そして、その判断は正しい。

(仮に、父が絡んでいたとしても、おれはおれのやり方を貫くだけだ。それが、今回、おれがこの分校に編入した理由なのだから)

 それにしても、明星か。最初に言いがかりを付けられた時から気にはなっていたが、まさか教師も一目置くほどに筋金入りの要注意人物とは、恐れ入った。

(そんな奴に目を付けられるおれも大概だが、まあ、それはこの際よしとしよう)

 おかげで、土地収用の件について大々的に調査できそうだ。

「それじゃ、頼んだぞ」

「先生」

 話を終わらせようとする石蕗を呼び止める。

 ひとつ、気になることがあった。

「最後にひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

「なんだ」

「先生は、明星に更生して欲しいと、そう思っているわけですよね?」

「……当然だろう、それが教師の役目だからな」

 一瞬、ほんの一瞬の間を置いて、石蕗は答える。

「そうですか」

 彼の回答に満足したおれは、薄く微笑んだ。

「私からも釘を刺しておくが、明星の監視については、学業に支障を来たさない範囲でいい。無理だと思ったら、すぐに調査を中止してくれて構わない。風祭は大事なだからな。決して、無茶はするなよ」

「わかりました。お心遣い、感謝します」

 頭を下げて、石蕗と別れる。

 おれは、ひとり、今後の予定を練り直す。

 思わぬ頼み事をされたが、物はついでだ。ちょうど、明星の動向は、おれとしても気になっていたところだから、特に問題はない。

 政府の命令で土地の買い上げを遂行する銀行家。その嫡子である明星晃介という男。そして、政府の犬として送り込まれた、風祭周平という存在。

(どうにも、妙な因縁があるみたいだな)

 あまり、目立つ行動はしたくないが、必要に迫られているならやむを得ない。

 明星の出方を探るという予定を念頭に入れつつ、自分の使命を果たすため、本腰を入れて調査に乗り込むことに決めた。

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