第七話 神域

 鈴蘭に誘われるがまま、寺の近くにそびえる大天山を訪れ、すでに数分が経過していた。

 この山は寺が管理している。それが証拠に、山道の途中にはいくつかの墓地に続く道がある。

 どうも、戦前には山の中に寺が建っていたらしいのだが、戦火に焼けたために本堂の半分が消失し、戦後になって再建する際、現在の場所に移設されたらしい。

 だからこそ、当時の名残として、山中に祠が建っているのだろうが。

 斜面が続く山の中は、さすがに寺が管理するだけあって登山道がしっかりと存在し、道に迷うという危険性は皆無に思える。

 だが、比較的横幅の広い、整備された道を外れると、あまり人の手が入った形跡のない、狭い山道に出る。おそらく、寺の人間を始めとした、一部の者しか立ち入らないような場所なのだろう。

 おれと鈴蘭は、そこを通っていた。

「……しかし、いくら人の手が入った山とはいえ……」

 砂利や枝葉が散らばった山肌を慎重に踏みしめながら、息をつくのと同時に言う。

「……結構、荒れているもんなんだな……」

 正午だというのに薄暗い山中。四方を木立こだちや草葉に囲われたせいで視界が悪い。加え、よくわからない鳥の鳴き声や、むせ返るほどに濃厚な土と緑のニオイが、都会暮らしに慣れたおれの五感を狂わせる。

「そうかな? これでも整っている方だと思うけど。分校の近くにある里山なんて、全然、人の手が入ってないから、こうやって中を散策することもできないもん」

「そりゃ、鈴蘭は慣れているからいいだろうけど……」

 だだっ広い平地を歩くという行為すら、おれの住む都会近郊ではありえないことなのに、ましてや登山となると、それこそ未知の領域だ。

 しかも、必要に応じてヤブ掻きすると来たからには、重労働以外の何物でもない。現に、すでに体力はかなり削られ、身体は足腰を中心に悲鳴を上げ始めていた。

「……ほんとに、この道で合ってるのか?」

 あまりにも道中が険しいので、たまらず尋ねた。

「もはやおれには、自分が通っている道が獣道にしか思えないんだが……」

「それは、そうだよ」

 あっけらかんと言う。

「……は?」

 思わず、動きが止まった。

「神様がいるっていう祠には、ここを進むのが正解なの。普段、滅多に人が通らないから、こんな狭い道になっちゃってるけど……、もしかして、忘れちゃった?」

「……いや……」

 抵抗を諦めると同時に、祠に向かうと言う名の山登りを安請け合いしたことをひどく後悔した。

(昔のおれも、わんぱくだったんだな……)

 子供の頃は平気で外を駆けまわっていた事実を思い知らされ、ちょっとした衝撃を受ける。

「ほら、周平くん。あんまりのんびりしてると帰りが遅くなっちゃうから、早くいこ?」

 膝に手をつき、肩で息をするおれの尻を叩くように容赦なく急かす。それも、笑顔で。鈴蘭の奴も、かれこれ30分は歩き通しているというのに、まったく疲れの色を見せない。

(いくら慣れているとはいえ、体力あり過ぎだろ……)

 田舎と都会という生まれ育った環境の違い以前に、本来なら性別的に位置関係が真逆であるはずの鈴蘭とおれとの間でついた差があまりにも歴然としたものなので、愕然とせざるを得ない。男としての面目丸つぶれである。

(……これが、大自然で鍛えられた鈴蘭の脚力か……)

 進路を阻む、膝まで伸びたヤブの海を難なく突破し、一歩間違えば凶器と化す足元の岩や枝を器用に避けながらガンガンと先を行く鈴蘭の背を見上げつつ、思う。

 普段の彼女が見せる、いかにも箱入り娘のお嬢様らしく、どこか調子外れのおっとりとした動作から一転、道なき道を突き進むお転婆っぷりが、なんだか非常に頼もしく感じると同時、自分の不甲斐無さが際立ち、情けなくなる。

 鈴蘭の機敏さに引き替え、おれと来たら、地面に転がる枝葉に足を取られそうになるわ、身体にまとわりつく草葉に肌を引っ掻かれるわで、散々だった。

(とりあえず、下山までに五体満足でいられるように最善を尽くそう……)

 大自然の驚異に対するせめてもの抵抗として、足下で牙をむく山肌や、視界を遮る周囲の草木に向けて細心の注意を払うように心掛ける。

 今のおれには、それが精一杯だった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「きゃっ!」

 緩やかな斜面が続く山道を歩く中、先頭を行く鈴蘭が短い悲鳴を上げる。

「どうした、下半身丸出しの変態でもいたのか」

 茂みの方に目を向けて立ちつくす鈴蘭のもとに駆け寄る。

「……ううん、そんなのはいないけど、ちょっと、あれにびっくりしちゃっただけ……」

? やっぱり、露出魔がいるんじゃないか」

「違うってば、別に変な意味じゃないよ。……ほら、あそこ」

 眉をひそめ、緊張した面持ちでいる鈴蘭の視線の先。

 そこには、一匹のヘビがいた。全長1メートルもない、至って普通のヘビだ。

 田舎育ちの鈴蘭にとって、ヘビとの遭遇は特別珍しいことではないだろう。加え、カエルなどの両生類が(なぜか)好きな鈴蘭にとって、爬虫類が苦手ということはありえない。

 問題は、そのヘビの状態にあった。

「……こりゃひどいな」

 思わず目を背けかける。

 木の根元でそのヘビは、おれたちのような侵入者を前にピクリとも動かない。深く眠りこけているかのようにぐったりとしている。

 それもそのはず、そのヘビには生きる上で大事なものが欠けていた。

 ……腹を、食いちぎられていた。

 山に住む獣にでもやられたか、枯れ草色の胴体の大半は薄い皮一枚を残して無惨にも食い破られ、断面からは赤黒い内臓が露出していた。

「……見た感じだと、死んでからあまり時間は経ってないようだが……」

 それにしても、都会にあっては遭遇すること自体が稀な動物の死体の生々しさに吐き気すら込み上げる。

「あ、そうだ……、親指を隠さないと……」

 顔を青くしてヘビの変わり果てた姿に見入っていた鈴蘭だが、突然、我に返ったようにして謎の言動を発する。

「……どうして、親指を隠す必要があるんだ?」

 要領を得ないままに問うと、鈴蘭は目を丸くさせておれを見る。

「どうしてって……、そんなの、決まってるじゃない」

 当然とばかりに真顔で言う。

「ヘビの死骸を見た時には、こうして親指を隠さないとたたりが起きるって、おじいちゃんが言ってたからね」

「……ふ~ん」

 甲斐甲斐しく親指を隠しながら得意気に説明する鈴蘭を横目に、冷めた反応を返す。

 なにか、科学的な理由があると思ったおれが浅はかだった。

(……高校生にもなって、そんな迷信を信じているとはな)

 鈴蘭らしいと言えば、それまでなんだが。

「なんにせよ、動物の死体を見るってのは、あまり気分が良いもんじゃない。さっさと行こうぜ」

「……あ、待ってよー」

 子供っぽく、律儀にまじないをかける鈴蘭を追い立てるように、わざと先を急ぐ。

 ……すぐに、あとを追ってきた鈴蘭に抜かされたのは内緒だ。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


「しかし、なかなか時間が掛かるな……」

 すでに山の中を進んで20分くらい経つ。

「んー、ここまで来ればもうすぐのはずなんだけど……」

 きょろきょろと周囲を見渡し、自身の記憶と照らし合わせるようにつぶやく。

「さっき、道祖神どうそしんの石碑があったから……、このまま道なりにもう少し行けばひらけた場所に出て……、そこにおっきな岩があるはずだから、それを目印に裏に回って進めば、祠が建っている場所に出るような……」

「出るようなって……、まさか、鈴蘭……」

 宙を仰いで記憶を確認するという不穏な挙動に耐えかね、たまらず尋ねる。

「ここに及んで、記憶が曖昧だなんてことはないよな?」

「あ、当たり前だよ。こう見えてわたし、記憶力には自信があるんだから……って、あっ!」

「……今度は一体なんだ?」

 またしても素っ頓狂な声をあげた鈴蘭。おれは彼女の計画性のなさに辟易へきえきしながらも、一応、何があったか聞いておく。

「そういえば、昔も似たようなことがあったのを思い出したの」

「似たようなって……、何に?」

「小さい時、周平くんと一緒にこの山に登った時のことだよ」

「……ん?」

 ――嫌な予感。

「あんまり思い出したくないけど……、さっき、ヘビが死んでたでしょ?」

「……ああ」

「昔、周平くんとこの山に来た時も、同じような場面に遭遇したんだよ」

「…………」

「あれは、お盆の時期だったなぁ……、周平くんの家族と、わたしたちの家族と一緒に、お墓参りに来て……」

「………………」

「その時にね、山道のはずれに、怪我したキツネが木の根元で横たわってたのを周平くんが見つけて……」

「……………………」

 胸が、チクリと痛む。

 頭に僅かな鈍痛が響いた。

「……それで?」

 口の中が異様に渇く。

 だが、聞かなければいけない。そんな気がした。

「えっとね……、周平くんが、このままじゃかわいそうだからって、弱ったキツネを抱きかかえて、山の奥にひとりで行っちゃったの」

「………………」

 目の前がくらくらと揺れる。

 それって……。

「……それって、5年前のことか?」

「うん、そうそう!」

 まさしくその通りと言わんばかりに大きく頷く。

「なーんだ、やっぱり覚えてるんじゃない」

 けらけらと陽気に鈴蘭は笑うが、おれは気が気でなかった。

 額から脂汗が滲み出る。

 どうしてかはわからない。

 何も、思い出したくない。

 ただ、どういうわけか、5年前の出来事がとてつもなく恐ろしいことだというのを直感している。

 ――本能が、理解を拒む。

 おれは……。

 おれは、あの時……。


 『約束――』


 ――頭が痛い。

 ここに来る前からたびたび頭痛が発生していたが、いよいよ無視できないレベルにまで痛みが増してきた。

「……なあ、鈴蘭……」

 朦朧もうろうとする意識の中、絶え絶えに尋ねる。

「ん? なーに?」

「……おれは、そのキツネを抱いて茂みの奥に行ったあと……、どうなったんだ?」

「……えーっと……」

 再び宙を仰ぎ、首を捻る。

「……確か、何事もなかったかのように戻って来たような……、気がするよ」

「…………」

 彼女の浮かべた神妙な表情から、当時、おれに何があったのかを読み取った。

「あとで聞いた話なんだけど、お父さんもお母さんも驚くくらいに、周平くんは落ち着いてたって……」

「………………」

 5年前……。

 ここで、何があったか。

「……………………」

 どうしても、思い出せない。

 まるで、その一部分だけもやがかかったように不鮮明で、まったく先を見通せない。

 ――闇。

 闇だ。

 闇が、目前に広がっている。

 その先にあるのは――。

『あなたは――私の――……』

 ……なんだ?

『私の――大切な――……』

 おれは、一体、なんだというんだ?

「――っ」

 そこまで考えて、おれの視界は暗転した。

 遥か彼方から、おれを呼ぶ誰かの声が聞こえている、そんな気がした。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 祠は、確かに鈴蘭の言う通り、石碑を思わせる大きな岩の隅に伸びた獣道を進んだ先に会った。

 うっそうと茂る木々の切れ目、ぽっかりと開けた空間にぽつんと佇立する、木製の、いかにも年代物の古びた祠。高さはおれの背より少し小さく、小ぢんまりとした印象を受ける。塗装が剥げ落ちた屋根を始め、祠の至る所は損傷し、経年劣化も甚だしい。観音開きの扉は厳重に閉め切られ、中に納められているであろう物品の類は窺えない。

 ただ、見た目はどこにでもあるような祠なのに、大きな胸騒ぎがするのはなぜだろう。

 人々に忘れ去られた山奥の僻地に建つ、やがて朽ち果てるのを待つだけの祠。

 ……なぜだか、無性に胸が痛んだ。

(……馬鹿な話だ)

 このおれが、感傷に浸るなど、あってはならないことだ。

 鈴蘭は、ほとんどゆかりのない祠を前に複雑な心境に陥るおれの気も知らず、「なんだか懐かしい気持ちになるね」などとのたまった。

 不安を増長させる薄暗さを演出する木立の中にあって、不気味な沈黙を保つ祠に対し、二人して手を合わせる。

 目を閉じた時、こことは違う、別のどこかの光景が脳裏に浮かんだ。

 ……鮮やかな緑が映える草原、静謐な湖畔。まるでそこを守るようにして群生する背の高い木々に周囲を覆われた、さながら楽園を思わせる場所。

 ひと際大きな木の傍らに佇むのは、白と赤のコントラストが鮮烈な、ひとりの――。


(ここは……)

 不意に目が開いた。

 辺りを見渡す。ここは山の中。おれが今までいた場所だ。

 だが、鈴蘭の姿がない。

(どこへ行ったんだ?)

 周囲をくまなく観察する。足下に茂る藪、視界を遮る木立。

 さっきまですぐ隣にいたはずの鈴蘭の姿は、影の形もなかった。

(どういうことだ?)

 わけがわからない。

(これは……)

 そして、気付いた。朽ちていたはずの祠が、ちゃんとした姿で現存していることに。

(どういうことだ?)

 わけがわからない。

(おれは……夢でも見ているのか?)

 自分が一体どんな状況に置かれているのか把握できず、混乱する。

(……ん?)

 草木を掻き分けてやって来る、何かの気配。

(……あいつは……)

 一瞬、思考が停止した。それくらい衝撃的だった。

 祠の前に、が現れた。正確には、が、だが。

(なぜ、昔のおれがここに? じゃあ、今いるおれは誰なんだ?)

 ますますわけがわからなくなる。

 は、きょろきょろと小動物のような仕草でしきりに周囲を気にしたあと、祠と向かい合う。

 子供らしからぬ神妙な表情。当時のが何らかの意図があってここまでやって来たのは明白だった。

(だが、何のために?)

 呆然と、目の前の光景を眺める。

 それしかできない。

 は、すぐ真横にいるおれの存在にはまったく気付いていないようだった。まるで、おれなど眼中にないとでも言いたげに、祠を一心に見詰めている。

(ひょっとして、おれは、には見えていないのか?)

 そう考えれば自然だが、それはそれで不自然だ。まさか、おれが意識だけの存在だとでもいうのか?

 次々に浮かび上がる疑問は、しかし、突如として訪れた光景に掻き消される。

「……あら、あなたは?」

 が、誰かに話しかけられる。

 それは何の前触れもない衝撃だった。今まで、しかいなかった祠の前に、変わった意匠の服装をした少女が現れたのだ。

 巫女装束と思しき紅白の着物を着た少女は、にこやかな顔を浮かべてを見ていた。

 は口をパクパクさせ、不意に現れた少女を呆然と見上げていた。驚きに見開かれた大きな両目が、の心境を如実に表していた。

「こんな小さなお客様が来るなんて、ふふ、なんだか嬉しいわね」

 巫女の少女はそう言って、その雪のように白い頬に細い手を当てる。

 おれは、彼女の上品で淑やかな仕草に心を奪われた。どうやらも、それは同じようだった。

「あなたは、どうしてここに来たのかしら?」

 思わずうっとりとしてしまうほど見事に伸びた長髪を揺らし、可愛らしく小首を傾げる。

「えーっと、ぼくは、神様にお願いがあってここに来たんだ」

 恐れ知らずの子供であるは、戸惑いながらも元気よく答えた。

「お願いごと?」

「うん、ぼくね、助けたい子がいるんだ。大事な友達なんだよ。でも、ぼくだけの力じゃ絶対に無理だから……、だから神様に手伝ってもらおうって」

「……そう」

 目尻を下げ、ゆっくりと頷く。

「あなたは良い子ね。相手の気持ちを思いやれる、優しい子」

 そう言って、おれの頭をそっと撫でる。

 嬉しそうに照れ笑いする

「ほら、彼らもそう言っているわ。あなたはとてもすてきだって」

 ざわざわと揺れる、周囲の木立。まるで、に笑いかけているかのようだ。

 も、ゆらゆら揺れる木立の動きにつられるように屈託なく笑う。

「あ、そうそう……」

 少女は何かを思いついたように手を叩くと、ゆっくりと身をかがめ、足下に手を伸ばす。

「この子も、あなたと会えて嬉しいって。――ほら」

 に向かって手を差し出す。

 少女が持っていたのは、白色の花びらが茎に沢山ついた小さな花だった。頭を垂れたような釣鐘型の花びらが、少女の慎ましさを表しているかのようだった。

「綺麗でしょう? この花は珍しい種類の花なの。スズランって言って、この辺りにしか咲かないのよ」

「へー、そうなんだ!」

「その可憐さから、『谷間の姫百合』とも言うわ。ふふ、こんな山の中に咲くスズランにピッタリの名前ね」

 我が子を慈しむような穏やかな微笑み。

 しかし、少女の浮かべた微笑はすぐさま真面目な表情に変わる。

「でもね、この花には毒があるの。見た目はこんなにも可愛らしいんだけど、綺麗な花にはトゲがあるって言葉どおりに、怖い一面も持っているのよ」

「え、そうなんだ!」

 彼女の説明も、どうやらの耳には入っていなかったようだ。ただ、物珍しげに、少女が手に持った花を一心に見詰めていた。

 恥じらうように首を垂れるスズランの花……。

 は目を輝かせて花を眺めていた。特に植物が好きだというわけではないが、男子というのは、自分が観察する対象が珍しいという理由だけでも人一倍の興味を覚えるものだ。

「はい、どうぞ。わたしからの贈り物よ」

「ありがとう!」

 満面の笑顔で白色の花を受け取る

 これまで緊張気味だっただったが、少女の粋な計らいによってすっかり肩の力を抜いていた。

 宝石のように澄んだ瞳で、少女と花とを見比べる。

「お姉さんは、もしかして……」

 期待に満ちた表情。

 おれは、次に出て来る言葉を半ば予期していた。

「……あなたの言いたいことはわかっているわ」

 だが、の口からその名前が語られる瞬間は訪れなかった。

 はきょとんした目で少女を見る。

「どうして、わかるの?」

 小首を傾げる。

 いかにも素直な子供らしい仕草に、少女はくすりと小さく笑った。

「わたしは、あなたの思っている通り、神様だから」

 ごく当然のように言う。

「あ、やっぱり!」

 少女を神と聞き、はキラキラと目を輝かせる。

「でもね、神様と言っても、わたし自身がそうであるわけじゃないの」

「……? どういうこと?」

「わたしは、神様の代わりにみんなの声を聴いて、それをみんなの代わりに神様に伝える役目を負っているの。巫女みこって言うんだけど、わかるかな?」

「うん、なんとなくは。……お姉さんは、モーセみたいな預言者? それとも、イエス様みたいに、人であり、神様でもある人なの?」

「ふふ、あなたは賢いのね。確かに、そうかもしれないわ。本当の神様は、目には見えない。だから、こうしてわたしが神様の意思を代行している。だから、わたしは神様なの。人間であると同時に、ね。だから、この町のことなら、何でも知っているのよ」

「なんでも?」

「そう、なんでも」

「じゃあ、鏡花きょうかちゃんのことも?」

(……鏡花?)

 知らない名前だった。

(いや……、そんなはずはない)

 自分で自分を否定する。

 なぜなら、は、おれだからだ。おれが知らないことを、が知っているはずがない。

(忘れてしまっているのか?)

 その可能性はある。なぜかおれは5年前の記憶があやふやだ。仮に、今見ている光景が5年前のものだったとしたら、おれが当時のことを覚えていないのも頷ける。

(もっとも、なぜおれが5年前の記憶が欠落しているのか、その理由が不明なのだが……)

 今はそんなことを考えている場合ではない。

 少女は鏡花と言う子の名前を聞き、ゆっくりと、そして深く頷く。

「……ええ、もちろん。あの子のことは、わたしもよく知っているわ」

 目線を落とした悲しげな表情。なぜだか、おれの方も胸が痛くなる。

 の顔も、暗く曇ったものに変わっていた。

「神様、お願い、鏡花ちゃんを……、鏡花ちゃんを助けて!」

 縋るように叫ぶ。

「ぼく、ぼく……鏡花ちゃんを……」

「……大丈夫」

 少女は、の小さな体を抱きしめる。

「何も、心配いらないわ」

 優しく、おれの頭を撫でさする。

 おれの胸は、キュッと締めつけられた。

「わたしは、この町が好き。山も、自然も、動物も、植物も、この町の人々のことも……、全部好き」

 少女はを見る。

「あなたは、この町が好き?」

「……うん、ぼくも、大好き」

「そっか、なら、安心して」

「……あんしん? どうして?」

「わたしはね、この町を、自然を、守らなきゃいけないの」

「……そうなの?」

「そうよ、あなたが生まれるずっと、ずーっと前から……、わたしは、この土地を、山を、守っているの」

「じゃあ、どうして……、鏡花ちゃんは……」

 振り絞るような声で訴えかける。の声は弱々しく震え、喉元にまで迫る苦痛を必死に耐えているようだった。

「……あなたも知っての通り、もうすぐ、この町の自然がなくなっちゃうの。けれども、それは、神様にとって到底許されることじゃない。神様は、この町そのもの。これまでわが身を呈して土地や人間や動物を守護してきたにもかかわらず、その人間が自然を破壊する。だから、あの子は、神様の怒りを鎮めるために犠牲になる。……神様の機嫌を取るための供物として」

「……そんな……」

「だからこそ、わたしが守るの。この町のことも、あの子のことも、そして……あなたのことも」

「……ぼく、も?」

「ええ、そうよ。だって、あなたは、わたしの大事な人だから」

「……神様の、大事な、ひと?」

 頬を赤らめて問い返す。

「ふふ、恥ずかしがらなくてもいいの。あなたはわたしを信じてくれた。わたしも、あなたを信じる。ただ、それだけのことよ」

「……ぼくも……」

 少女の腕の中で、は叫ぶ。

「ぼくも、神様を守るよ!」

 は力いっぱいに宣言した。少女は我が目を疑うかのような目でを見る。

「ぼくは鏡花ちゃんを助けたいんだ! だから、ぼくも神様のお手伝いをするんだ!」

 涙目で訴える。

「そうすれば、そうすれば、鏡花ちゃんは、鏡花ちゃんは……」

「……やっぱり……」

 少女は、もう一度、強くを抱きしめる。ヤナギを思わせる少女のしなやかな細い体に、小さいの体が埋まる。

「……やっぱり、あなたは優しい子……」

 もう二度と離れないように、強く、強く、小さく震えるを抱きしめる。

「……だって、ぼくも、この町が好きなんだもん! 鏡花ちゃんだって……、ぼくは、ぼくは……!」

「……うん、うん、そっか、そうよね……」

 一筋の影が差した、寂しげで控えめな笑顔。真っ白な手が、おれの頭を撫でる。

「優しいのね、あなたは……」

 我が子を慈しむような、そんな温かな眼差し。

 対するは、涙に濡れる瞳で真っ直ぐに少女を見詰めていた。一切の濁りのない、無垢な輝きを放つ目で、少女を捉えていた。

「神様、約束だよ! ぼくは、絶対に、神様を助けるよ! だから、神様も、鏡花ちゃんを助けて! 絶対だよ! 絶対に、絶対だよ……!」

「そうね、約束ね」

「――うん、約束だよ!」

 顔を見合わせ、大きく頷く。

 の顔は、先程までの無邪気な少年のそれではない、とても大きな覚悟を背負う決意を抱いた、立派な男の顔へと変わっていた。

 少女もまた、物憂げに眉を伏せた神妙な表情ではなく、とても穏やかな、母親が浮かべるような安堵の表情を浮かべていた。

 ――神様を助けると言う約束。無謀且つ壮大な、荒唐無稽の約束。

 それが、と、彼女――巫女の少女――が交わした約束だった。

 おれは、とうの昔に忘れていた。神様と交わした約束を。

 そして、ようやく大事な記憶を思い出した次の瞬間、再び、かつて交わした約束のことなど、綺麗さっぱり忘れてしまった。

 まるで、夢から覚めるかのように、現実が、容赦なく過去を塗りつぶすように。

 思い出しては、忘れる。その繰り返し。

 だから、おれは、今もまだ、思い出せずにいる……。

 かけがえのない約束を交わした、5年前のあの日のことを……。


 ……おれが再び目を開けた時、果たして、そこは、好き勝手に葉を伸ばした草や、乱雑に生えた木々が所狭しと生い茂る、暗く、ジメッとした、陰鬱とした場所だった。

 目の前には、小さな廃墟とでも言うべき損傷の激しい祠がひとつ。

(……何か、変な体験をした気がするが……)

 しかし、何も覚えていない。

(気のせい、か)

 見るも無残に朽ち果てた、物言わぬ祠があるばかりの山の中。そこに、誰かが居たという痕跡は残っていない。辛うじて獣道があるのみだ。

 足元に咲く一輪の花が、人々に忘れ去られた現状を悲しむように、しょんぼりと頭を垂れていた。

「……じゃあ、戻ろっか」

「……そうだな」

 何とも言えぬ感情を抱きながら、おれたちは、5年ぶりに訪れたその地をあとにしようとした。

 その時だった。

 

 ――ガサッ


 祠の向こう側に見える茂みが、不自然に揺れ動いたのに気付いた。

 風は吹いていない。

 ――。その事実に行き当たった時、おれの心臓は大きく鼓動した。

 本能的に危険を察知し、全神経を木々の間に生える草むらの方に傾ける。

 鈴蘭はすでに祠から背を向け、下山しようと動いている。

 おれは気配を殺し、息を潜め、辺りの様子を探る。


 ――ガサッ、ガサッ


 気のせいなんかではない。確実に茂みが動いている。

 つまり、何かが、おれたちのすぐ近くにいる。

「どうしたの、周平くん?」

 いつまで経ってもおれが来ないからだろう、少し離れた場所から鈴蘭が能天気に尋ねる。

「しっ、静かに……」

「……?」

 おれは鈴蘭に告げる。彼女は首を傾げる。

 構わず、茂みの向こうに意識を向け直した。

 

 ――ガサ、ガササッ


 ひと際大きい茂みの揺れ。が、激しく動いている。

 次の瞬間、おれは目を疑った。

 が姿を現した。

 の姿を見た時、おれは言葉を失った。

 茂みから覗く、おれより頭ひとつ分高い図体。枯れ草色のボロボロの衣服を身にまとった

 血のような色で染まった赤ら顔。大きく伸びた巨大な鼻。草葉に囲まれて異形な姿を誇示するは、ミイラみたいに落ち窪んだ黒い瞳で、きょろきょろと、何かを探すかのように、辺りをゆっくりと見渡していた。

 ――天狗だ!

 おれは思わず叫びそうになるのをこらえながら、反射的に身を屈める。それが奴の死角に入るための行動だと自覚したのは、少し経ってからのことだった。

 そして、中腰の姿勢のまま、鈴蘭のもとに駆け寄った。

「おい、鈴蘭!」

 小声で尋ねる。

「何やってんだ、さっさと身を隠せ!」

「え、え、いったいどうしたの?」

 わけもわからずと言うように目を白黒させる。

「見えなかったのか、奴が! 祠の向こう側の茂みに、巨大な化け物がいたのを……!」

 おれは必死になって状況を説明するが、当の鈴蘭はポカンとした表情で首を傾げるばかり。まるで、何も見ていないとでも言いたげに。

(まさか……)

 固唾を飲む。

 果たして、おれの予想は的中した。

「化け物って……、……」

「え……?」

 困った表情の鈴蘭に促されるように、おれは振り返る。悠然にそびえる木立と、乱雑に枝葉を伸ばした草むら、経年劣化によって塗装が剥がれ落ちた祠が見える。

 今にも腰が砕けそうなおれの恐怖に反し、もう、の姿は、影も形も無かった。

 跡形もなく、は消え去っていた。

(おれの……見間違いか?)

 慎重に辺りの様子を探る。物音を立てないよう、細心の注意を払いながら、生き物の気配があるのかどうか確かめる。

 この間にも冷や汗がだらだらと流れる。そして、今のおれの焦燥具合が、あれがただの見間違いじゃないことを雄弁に物語る。

(……だが、鈴蘭の言う通り、何も見当たらない。さっきまで、確かにがいたはずなのに……)

 おれの視界に映るのは、風の凪いだ、穏やかな山中の様子のみ。

 ゆっくりと腰を上げ、深く息を吐く。

 念には念を入れ、再三、周囲を確認するが、やはり、の姿は見当たらなかった。

 そう、突然、茂みの中から顔を出した……としか形容しようがないもの。

 おれは、あの、得物の品定めをするようなのっそりとした緩慢な動きと、正視に耐えない醜悪な姿を思い出し、全身を身震いさせた。

(もし、をわかりやすく称していいのなら、こう言うのが許されるのなら…、は、間違いなく『天狗』と呼ばれる妖怪そのものだろう。異様なまでに長い鼻と、鬼のように真っ赤な顔。そして、おれの身長をゆうに超す巨体……。逆に、あれを天狗と呼ばずして、なんと言おうか)

 しかし、辺りは嘘みたいに静まり返っている。それこそ不気味に思えるほどに、山の中は沈黙していた。

 時間が少しずつ経つにつれ、おれは徐々に冷静さを取り戻していった。

 反面、理解が追い付かなかった。が一体何者なのか、意味がわからなかった。

(森の動物を、天狗と見間違えたのか? ……いや、それにしては色々とおかしい。は確かに人の形をしていたし、それに……)

 考えれば考えるほど、ますますおれの頭は混乱していく。

 しかし、わざわざの正体を暴くだけの度胸はない。

(好奇心は猫を殺す。……さっさと、この場を離れよう)

 今は、それが最善策だ。

 おれと鈴蘭は、半ば逃げるようにして祠をあとにした。

 ――祠から離れる際、後ろ髪を引かれる思いだったのは、どうにも解せなかった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 夕方に出ているバスに乗って、おれと鈴蘭は山村地区を出た。

 明治時代の初め、よその地域から開拓に訪れた移民が多数を占める田園地区と違い、仏教伝来以前から続く古村地域であり、長い歴史のある山村地区。

 だが、例の新国際空港開発計画によって大天山の一部は切り崩され、資材運搬用の道路を建設、その後は新空港とのアクセスを可能にする国道になる手筈となっている。

 地元民は政府からの要請を断固反対しているが、すでに田園地区の用地買収の約3分の2程度が済んでいるので、住民が要求を押し通し続けられるのも時間の問題と言えた。

 ……あの山は、なくなる。

 今のおれにとっては、ひどくどうでもいいことだった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 蔵屋敷家に戻ったおれと鈴蘭は、それぞれ思い思いの時間を過ごす。

 とはいえ、おれは父に提出する報告書の作成に勤しんでいたわけだが。

 夜が近付き、茶の間で夕食をいただく。

 大きなちゃぶ台に並んだ野菜中心の料理は、遠出で疲労した肉体に直接訴えかける鮮烈な色彩を放っている。

「さあ、たんとお上がり」

 和子叔母さんが微笑みかけたのを合図に、食卓に着く皆の意識が、大皿に盛られた野菜炒めと、たくあんの漬物、ほかほかと湯気を立たせる大盛りの白米、濃厚な香りの味噌汁の方に向けられる。

 まあ、おれは、家長である芳樹伯父さんが箸を取るまで、行儀よく待機していたわけだが。

 それからは、たまに会話を交えながら、素朴な味わいの郷土料理を堪能する。

 テレビ画面では、重機やら航空機やらをモチーフとした、様々なメカに乗り込んだ救助隊が、人命救助のために奔走するというおもむきの人形劇、そのオープニング映像が流れている。

「カッコイイねー、国際救助隊」

「ああ、そうだな」

 とりあえず頷く。

 とはいえ、おれにはああいった娯楽作品に対する造詣ぞうけいがないので、何が面白いのかよくわからない。

「周平くんって、いつも何見てるの?」

「へ? おれ?」

「うん、いつもどんな番組見てるのかなーって。よかったら教えて欲しいな」

 ニコニコの笑顔で、キラキラと期待の眼差しを向ける。

 おれはちょっと考え、苦笑する。

「おれは民放は全然見ないんだ」

 そう言うと、鈴蘭が驚いたように目を丸くした。

「え、どうして?」

「いや、おれは親が厳しいからさ、国営放送以外、見させてもらえなかったんだよ」

 父は徹底した合理主義者。テレビ番組はもちろん、漫画本や雑誌など、不合理の塊である娯楽には触れさせてもらえない。

 それに、本校の寮にはテレビがないので、一人暮らしとなってからは、そもそもテレビ番組自体見る機会がなかった。

「うーん、それってなんかもったいないなー。人生の半分くらい損してる感じがする」

「そうか?」

 おれにとっては、そういった無意味なものを無為に眺めて勉強の時間を潰している方が、人生をよっぽど損している気がするが。

 競争激しい現代社会で勝ち上がるためには、一切の妥協はできない。それこそ、脇目も振らずに勉強し、相手を出し抜かなくては――少なくとも、それくらいの覚悟がなければ――話にならない。

「うむ、そうだぞ、鈴蘭。周ちゃんを見習って、もっとよく社会のことを学ぶんだ」

「えー、そんなー」

 父親の芳樹さんに凄まれ、鈴蘭が眉毛を八の字にする。

「そう言うお父さんだって、社会のこととかよくわかってないくせにー」

 ぷくーっと頬を膨らませ、睨みながら抗議する。

「何を言う、オレはいろんなことを知ってるぞ。伊達に鈴蘭の倍以上の年を生きてないからな」

 どっしりと腕を組み、えへんと喉を鳴らす。

「ふーん、それじゃあ、周平くんよりも世の中の仕組みがわかってるって言うの?」

 なぜかおれが引き合いに出される。

「うっ……そう言われると……」

 しかも、それが効果的だとばかりに芳樹さんは身をのけ反らせ、返答に詰まる。

 いや、芳樹さん。そこはもっと強く出ましょうよ。

「かっかっか、よさんか鈴蘭。この町の人間は、老いも若きも、誰ひとりとして周ちゃんには敵わんわい」

 すでに焼酎をあけている与一じーさんが愉快そうに笑う。

「なにせ、周ちゃんは、あの宗吾の息子なんじゃからな」

 ぐびっと、勢いよく酒をあおる。

「こと社会情勢に関しては、あやつの右に出る者はおらん。そうじゃろう?」

「まあ、そうかもしれませんね」

 曖昧に答える。

 じーさんが、どこまで父のことを把握しているのか、おれはよく知らない。

 わかっているのは、蔵屋敷家の人間が、おれの父や国に対して、そこまで好印象を抱いていないということだ。父たちが、彼らの愛する地元の土地を取り上げているのだから、当然だが。

 だからこそ、彼らの口車に乗せられて、要らんことをうっかり口を滑らせてしまっては目も当てられない。

 たとえ親戚相手だろうと、おれが他人に心を許すなどありえない。

 もっとも、たとえ蔵屋敷家の人間が、風祭の者や国をよく思っていないとはいえ、彼らもまた、自ら所持していた土地を高値で売却したことで、以前よりもさらに莫大な金を手に入れたので、悪いことばかりではないのだが。

「父は確かに尊敬に値する人物ですが、この町の発展に尽くしたおじいさんの手腕にはやはり及びません。おれも見習いたいです」

「ですって、おじいさん」

 叔母さんがおじいさんの脇を小突き、含み笑いを浮かべる。

「さすが、周ちゃんは口がうまいのう。交渉術に長けておる」

「そうですねえ、まるでおじいさんの若い頃を見ているようですじゃ」

 横のハツばーさんが呑気に茶をすすりながら意味深なことをつぶやく。

「いえいえ、ぼくなんかまだまだ若輩者です。おじいさんはおろか、父の足元にも遠く及びませんから」

「かっかっか、そう謙遜することはあるまいよ。わしが周ちゃんぐらいの時は世界情勢が不安定だったからのう、のんべんだらりと勉強している暇はなかったゆえ、無理にでも時間を見つけては、あらゆる知恵を徹底的に頭の中に叩き込んだもんじゃ。知識というのはいわば固定資産、決して所有者を裏切りはせん。過酷な環境で生き残るためには、最も有効的な処世術じゃよ」

 垂れた瞳から、一瞬、ぎろりと鋭い眼光が覗く。

 じーさんぐらいの世代になると、太平洋戦争のみならず、日露戦争すらも経験した身になる。そこまで来るとさすがに説得力というか、貫禄が桁違いだ。

「その点、周ちゃんは立派じゃ。ちゃんとした目標があり、それに則った努力をする。なかなか出来るもんじゃあない」

「さすがにそれは言い過ぎですよ……」

 照れたようにして破顔はがんする。

 無論、これは演技だ。

 いくらおれを褒め殺したところで、ボロは出さないぞ……。

「特に、若いうちは、女や博打ばくちに興味が出る頃じゃからのう」

 虫を殺すような強い視線から一転した、好色の目つき。

「現に、おじいさんがそうでしたからねえ」

「これ、ハツ、余計なことは言わんでいい」

「おやおや、否定はしないんですねえ」

「そりゃあ、まあ、事実じゃからのう。……って、何を言わせるじゃ、ばあさん」

「うふふ、自分から勝手に言い出したのではないですか」

「ええい、もういい。わしの話は終わりじゃ。まったく、せっかくの酒が不味くなってしまうわい」

 自分のことを槍玉に挙げられるのが嫌になったじーさんは、逃げ場を求めるようにして弱り切った視線を鈴蘭に向ける。

「鈴蘭も、今のうちに周ちゃんを確保しておくんじゃぞ。そうすれば、蔵屋敷家の未来は安泰じゃわい」

「だから、やめてってば~」

「ははは……」

 恒例のネタで盛り上がったところで、話題はまたテレビ番組のことに移る。

 テレビ画面には、青い制服に身を包んだ救助隊が、命の危機に陥っている人を間一髪のところで助けていた。

 

 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 国を守るなんて、そんなに格好いいことじゃない。むしろ、人に嫌われ、うとまれ、恨まれ、憎まれるだけだ。

 食後、風呂に入って今日一日の汗と汚れを洗い流し、自室でゆっくりと書類と向かい合う。

 父への報告はすでに済んだ。

 おれが宣言した通り、三日以内に事が運んだ。

『よくやったぞ、我が息子よ』

 父にしては珍しい、賞賛の言葉。

 おれの心は、なぜか晴れなかった。

 ふと浮かんだ住職の憔悴しょうすいしきった顔を、慌てて振り払う。

『今後は、住民に対する視察を今まで以上に強化せよ。何か町で怪しい動きがあれば、逐一、手を打つように。手段の是非は問わない。計画の障害となるような事態に陥る前に、即刻、揉み消せ。私はお前に期待している』

『はい』

 そこで通話は終わった。

 気分は、なぜか重く沈んだままだった。

「……まあ、いいさ」

 小さく息をつく。

 くだらん。

 何が、天狗だ。

 結局、おれの勝ちだ。

 富も名誉も、すべて、おれのものだ。

 改めて、資料に目を通す。

 情緒もへったくれもない、無機質で事務的な文章。

 仕事の書類などを眺めているこの時が、一番、落ち着く。


 ――とんとん


「周平くん、まだ起きてる?」

 昨日に続き、鈴蘭がふすまを叩いておれの部屋を訪問しに来た。

「ああ、まだ起きてるよ」

「ねえ、ちょっと、お話があるんだけど……、時間、いいかな?」

 そう尋ねられ、おれは時刻を確認する。

 ……午後9時半。

「まあ、ちょっとだけなら、いいぜ」

「えへへ、お邪魔します」

 どことなく遠慮がちに断りを入れながら、寝間着姿の鈴蘭が部屋に入ってくる。

 風呂上がりで上気した鈴蘭の肌はほんのりと赤く色づき、下ろした髪型が新鮮に映る。

 柄にもなく、少し、ドキッとした。

「周平くんは、本校に友達っているの?」

「なんだよ、藪から棒に」

 照れ隠しのように問い返すと、鈴蘭は両手をグーにして真剣な表情を浮かべる。

「だって、気になるんだもん」

「お前って、二言目にはそればっかりだな」

 苦笑しながら言うと、たちまち鈴蘭はその口をへの字に曲げた。

「むー、5年ぶりに会ったんだから、当然でしょ」

「んー、そうか?」

「そうだよ、周平くんがそっけなさすぎるんだよ」

 ふてくされたように頬を膨らませ、おれを睨む。

 まったく、カエルみたいな顔しやがって。

 いや、カエルよりは愛嬌があるけどさ。

 って、何を考えてるんだ、おれは。

 いかん、いかん。

 疲れているな。

 脱線しかけた思考回路を矯正する。

「それで、どうなの?」

 戸惑うおれに構わず、グイっと顔を近付けてくる。

 上目遣いの視線。

 石鹸の良い匂いが、鼻先に漂う。

「……友達か」

 現実を直視しないよう、傾きかけた理性の位置を正す。

(友達、ねえ……)

 改めて考える。

 ……利用価値のある人間はいるが、友と呼べる者はいないな。

「……まあ、ぼちぼちかな」

「それって、多いってこと? 少ないってこと?」

「ぼちぼちは、ぼちぼちだよ」

「んん~? 結局、どっちなの?」

「要するに、多からず、少なからず、と言ったところだな」

「それって、全然要約できてないよ……」

 む。

 どんくさい鈴蘭にしては鋭い。

「鈴蘭の方こそ、友達はいるのか?」

 不利な話題は対象をすり替えるのが一番だ。

「もちろんだよ、これでも友達は多い方なんだから」

 作戦成功。

 鈴蘭はおれの巧みな話術に気付かず、得意気に微笑んだ。

「ふーん、どれくらい友達がいるんだ?」

「えーっとねー……」

 人差し指を顎に当てて、宙を仰ぐ。

「まず、由美ちゃんでしょ、それから、さと子ちゃんでしょ、そして真由ちゃん、友子ちゃん、祐くん、みっちゃん、いいんちょーに、ハカセ、けろぴー、あとは……」

「わかった、わかった」

 放っておいたらいつまでも続きそうなので、慌てて止める。

 てか、どれだけ友達がいるんだよ。途中、男の名前や謎の存在もまじってたし。

 恐るべし、鈴蘭の交友範囲。

「なるほど、鈴蘭は優しいからな。だから、これだけの人が寄ってくるんだろう」

「え~、そんなことないよ~」

 口ではそう言うが、満更でもなさそうにはにかんでみせる。

 まったく。わかりやすい反応だな。

 そんな世間話を、しばらく続けた。

「じゃあ、また明日ね」

「ああ、また明日」

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 小さな音を立て、ふすまが閉められる。

 薄暗い部屋に、おれはひとり残される。

 おれに友などいない。

 もちろん、多少の会話をする人間はいるが、所詮、表面だけの付き合いだ。それは、本校だろうと分校だろうと変わらない。

 おれの周りには敵しかいない。おれの頭脳や立場によるおこぼれを狙ってこびを売る者、あるいは嫉妬に駆られて一方的に敵視する者、そういうくだらない奴らしかいない。

 だったら、おれは、そういった連中を踏み台として利用し、骨の髄までしゃぶりつくした後、容赦なく蹴落としてやるまでだ。

 だから、踏みつけてやる。支配してやる。

 そして、支配とは、他者の行動を制限し、これを自由自在に誘導することにある。

 おれは他人を支配する。奴らの思惑を出し抜き、その上で思考を操作する。

 奴らは操られていることさえわからない。あたかも自分の意思で動いているかのように錯覚する。

 しかし、それはさながら誘蛾灯ゆうがとうに誘われる羽虫のごとき危うい動作であり、破滅に通じる一歩なのだ。

 マキャベリの『君主論』には、こんな言葉がある。

『最も優れた人間とは、自らの意志で行動する者であり、次に優れているのは他人の意見を聞く能力がある者。そして、最も悪いのは、そのふたつができない者である』

 今のおれは父の言いなりである飼い犬に過ぎないが、いずれ、国家を代表する人間になる。そうすれば、おれは自由だ。自由に他人を支配できる。それだけの権力を手にすることができる。

 だから、おれは、周りの人間を、この町に住む人々を……。

(露木銀治郎……)

 なぜだか、奴の姿が脳裏に浮かぶ。

 足繫く教会堂に通い詰め、町の住民の信頼を勝ち取る、正義感に溢れる男。

 目障りだな。

 今はまだ利用価値があるが、いずれ、蹴落としてやる。

 頭が鈍い痛みを放つ中、おれは今後の計画を練った。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


『ねえ、司令塔ハンドラー。前々から、あなたに聞きたいことがあったの』

 夜の潜伏先にて。

 彼女ヒューミントと情報共有をした後、それが当然だとでも言うように世間話を始める。

「これまた、えらく突然だな」

 襲い来る頭痛に顔をしかめながら返答する。

 まあ、いつものことだが。

「答えられる範囲でなら、いくらでも答えよう」

 とりあえず歓迎の姿勢を示す。あくまでも姿勢だけだが。

『珍しく太っ腹ね。明日は槍でも降るのかしら』

「この場を茶化したいだけなら、さっきの話はなかったことにしてもらうが?」

『ウソウソ、冗談よ、ジョーダン。わたしがこの機会を逃すわけないでしょ』

「ふん……」

 調子の良い奴だ。

「では、お前が後生大事に抱えてきた質問とやらを聞かせてもらおうか」

『そうね、それじゃ、遠慮なく――』

 一瞬の間。

『――あなたって、神様を信じてる?』

「神?」

 予想だにしない質問。

 まさに、虚を突かれた思いだった。

「神だと?」

『そうよ、神、神様。――頭の髪のことじゃないわよ?』

「そんなことは言われなくてもわかっている」

 おれは彼女ヒューミントの質問の意図を考える。

 個人の思想から、大体の素性は割り出せる。

 つまり、この何気ない問いは、おれに対して探りを入れているとも取れる。

 宗教の自由が約束されている日本では、無論、無宗教も容認されている。

 とすれば、おれが神を信じるか否かを把握することによって、おれがこれまで過ごしてきた環境が容易に絞り込めるわけだ。

 たとえば、おれが神を信じないと答えれば、この狭い日本に関して言うなら、おれが仏教徒であるか、無宗教であるか、そのいずれかだと大別できるだろう。

 逆に、神を信じていると答えたなら、もっとわかりやすく、キリスト教か、ユダヤ教か、はたまたイスラム教か、かなり選択肢が限定される。これまでの生活態度や言動から、おれがどの宗教に属しているのかは容易く見分けられるだろう。これらの宗教には、厳しい戒律が課せられているからだ。

 環境が当人の人間性を決定付ける。山陰地方に住む人間が陰険となり、沿岸地域に住む人間がおおらかになるように、国が、地方が、県が、市町村が、家族構成が、おれという個人の形成に莫大な寄与をする。おれの何気ない思想を端緒たんちょとして、住んでいる地域を絞り込み、おれがどういった人物なのかを演繹えんえきし、精度の高い推論を立てるのも不可能な話ではない。

 だからこそ、おれは慎重に答えを選ぶ必要があった。

 彼女ヒューミント協力者エージェントだからと言って、完全に気を許す道理はない。このおれのように、二重スパイの可能性は否定できないからだ。

「ふむ……」

 想定されうるあらゆる状況を加味した上で、改めて考える。

 神。

 神か。

『ねえ、どうなの?』

 期待に満ちた声色。

「そう急かすな、考えるまでもない」

 おれは慌てずに言った。

「もしも神がいるのならば、真っ先にそいつを抹殺しなければならないだろう」

『あらあら、バクーニンの引用? まあ、でも、現実主義者のあなたらしい答えね』

 どうやら彼女ヒューミントの想定通りらしい。

 少ししゃくだ。

「そういうお前はどうなんだ?」

 意趣返しとばかりに問い返す。

『そうね……、じゃあ、司令塔ハンドラー。ひとつ、賭けをしましょうか』

「賭け、だと?」

『そう、賭け。わたしが果たして、神を信じているか否か。あなたなら、どう予想する?』

「質問に質問で返すのは感心しないが、面白い、その賭けに乗ってやろう」

 彼女ヒューミントが神を信じるか、信じないか。

 おれは、ある哲学者の話を思い出していた。

「お前ほどの博識な者なら、無論、知っているだろうが、『パスカルの賭け』という有名な逸話がある。神が存在しない方に賭けるよりも、神が存在する方に賭けている方が絶対的に得をするという考えだ。なぜなら、神がもしも存在しているのなら、死後には永遠の幸福が約束される。神とは、永遠の存在者であり、絶対善の体現者だからだ。仮に、神を信じるがゆえに死ぬことになろうとも、自分の命という1枚のかけ金に対し、無限大の見返りが見込める。しかし、やはり神が存在しないなら、死後には永劫の虚無があるばかりだ。そして、現世で生きているあいだも、肉欲の檻に囚われるだけ詰まらぬ日々が待つのみ。そこに、神による救いは望むべくもない。とすれば、あえて虚無を信じる必要もない。余程の物好きでもない限りは。ならば、功利主義者のお前もまた、神を信じていると考えるのが妥当だろう。確率で計測すれば、まさにその通りだ。

 しかし、神を信じるか否かの基準は、大抵、感情論で決まる。そこに論理的妥当性が含まれているどうかは度外視され、しばしば無視される。なぜなら、神を計測するための明確な基準は存在しないからだ。

 結局のところ、神の有無はその人の主観――格律かくりつで決まる。客観的には、神はどうしても存在できない。理論による思弁的理性では神を認識できない。よく自然こそが神だと言う輩がいるが、神学者に言わせれば、自然は確かに神の似姿ではあるが、逆に、姿。神は誰にも認識できない。いわく、『神は私から飛び出て存在するが、しかし、私の中にも外にも見出せない』。

 以上のことを踏まえた上で、おれはあえて、お前は神を信じていないと考える。どうだ、違うか?」

『ふーん、さすがね』

 どっちつかずの曖昧な反応。

「これはまた、随分と淡白な返事だな?」

『いいえ、感心して言葉が見つからないのよ。あなたのその豊富な知識量には、本当、感服するわ』

空世辞からせじでご機嫌取りとは古典的だな。言っておくが、おれにそんな手は通用しないぞ?」

『あなたも素直じゃないわね、これは本心からの賞賛よ。まあ、あなたの話の3分の2はまるで聞いていなかったけど』

「つまり、まったく耳に入っていないんだな」

 馬の耳に念仏とはまさにこのこと。

「それで、結局のところ、どうなんだ?」

 あまり真剣に話すのもあほらしいので、さっさとこの話題を終わらせる。

『パスカルの賭け、ね。なかなか面白い考えだわ。だからと言うわけではないけど、わたしはね――神を信じているのよ』

「ほう、それは面白い冗談だ」

 まさか、この女のような悪魔の化身が神を信じるとは。

『冗談、ね。ほんと、わたしもどうかしてると思うわ』

「とすると、嘘ではないんだな?」

 おれとしては、別にどちらでも構わないが。

『わたしね、昔、死にかけたことがあるの』

「これはまた、随分と唐突な自分語りだな?」

『いいから黙って聞いてよ。女って生き物は、自分の気持ちを誰かに同調してもらいたいっていう承認欲求がひときわ強いんだから』

「わかった、わかった」

 そんなこと、わざわざ言われなくてもわかっている。

『あれは、今から5年前。そう、とても暑い夏の日のことだったわ――』

 壮大なモノローグを予感させる、意味深い前振り。

 おれは彼女ヒューミントの話を聞くふりをしながら、今後の計画について思いを巡らせた。

 止まっていた時計の針が、いよいよ、動き出す。

 まずは、計画に支障を来す邪魔者を徹底的に取り除かなければ――。

『――とまあ、こうしてわたしは九死に一生を得たってわけ。ある男の子のおかげでね。どう? なかなか感動的でしょ?』

「ああ、そうだな」

 愚直にも神を信じるという彼女ヒューミントの話を聞き流し、空返事する。

 その時だ。おれの中に、物好きな悪魔が顔を出したのは。

「もしも神がいないのならば――」

『え?』

「我々は、神を作り出さなければいけないだろう」

 ヴォルテールの言葉が、ふと口をついた。

 すべては、ここから始まるのだ。

「お前には、是非とも覚悟を決めてもらいたい。今後一切、おれたちの目的から善を行うということを排除し、むしろ、悪を行うことに至上の喜びを見出さんとすることを」

 ジョン・ミルトンの『失楽園』にて、魔王サタン麾下きかの堕天使どもに繰り広げた演説部分を引用しながら、おれは、彼女ヒューミントに、今後行う計画の一端について話した。

 お調子者を演じる彼女ヒューミントの感情が、徐々に消え失せていくのがわかった。

 逆に、おれは、これから起こるであろう惨劇を想像し、愉悦に口元が歪むのを自覚した。

 頭痛は、いつの間にか治まっていた。

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