第六話 神話

 おれは、ずっと考えていた。

 少年が言った、「神様なんていない」という言葉。その悲痛な訴えが、教会堂と孤児院が取り壊され、なくなってしまうことに対する答えだとしたら?

 (……皮肉だな、今まで神の教えを受けてきた子供が、神を信じられないなんて)

 だが、無理からぬことだ。むしろ当然と言わなければならない。

 仮に、本当に神がいるとしたら、それこそ奇妙だろう。もし、そうだとすれば、神は、? どうして、おれや、明星のような、権力にがめつく、意地汚い、腐った性根の持ち主がしぶとく生き残り、のさばるというのか?

(……くだらねーな)

 なぜ、おれが、こんな馬鹿な、哲学的思考に耽らなければならないのか……。

(……そうだ、そんなことはどうでもいい)

 彼らの言う神とやらが、おれにとってどれだけの価値があるというのか。

(すべて、どうでもいいことだ)

 感傷的になったところで、事実は何も変わらない。起こってしまったこと、すでに決定したことは、もう二度と覆らないのだ。

 動き始めた歯車を止めることは、誰にもできない。それがたとえ神であろうと。

(おれは、おれのやるべきことをやる)

 昔から、そう決めていたじゃないか。

 あの時から、おれは……。


『……約束、ですよ』


 ……なんだ?

 頭が痛む。


『今度は……わたしを……』


 聞き覚えのある声が、脳裏に響く。


『わたしを……迎えに……』


 とても、気分が優れない。

 まるで、おれの中に別の自分がいるかのような、そんな得体の知れない感覚があった。

 世界が二重に見える。

 意識が――高翔しかける。

「……周平くん?」

 足を止めたおれを心配してか、鈴蘭が不安げにこちらの顔を覗き込む。彼女のお下げが、小さく跳ねる……。

「だいじょうぶ? なんだか顔色が悪いみたいだけど……」

「……いや、大丈夫だ、問題ない」

 ゆっくりと顔を上げる。

「そう? なら、いいんだけど……」

「それより、鈴蘭。おれからひとつ提案があるんだが……」

「ん、なに?」

「……これから、山村地区に行きたいと思う」

 迷いなく断言した。

「え、今から?」

 いきなりのことに驚いてか、戸惑いがちに聞き返す。

 逆に、おれはひどく冷静だった。

 現在時刻は昼前。まだまだ時間はたっぷりある。

「ああ、少し、確かめたいことがあるんだ」

 遠目に窺える、雄大な山々の稜線を見据えながら言う。

 山村地区に足を運ぶ。これは、かねてより計画していたことだ。おれが、この町に訪れると決定した時から。

 おれが、、ぜひとも、向かわなければならない場所だった。

「うーん、それなら……」

 鈴蘭に尋ねると、どうやら昼にバスが一本出ているらしい。おれたちはそのバスに乗って山村地区まで行くことにした。

 満足に舗装されていないでこぼこ道を物ともせず、荒々しく突き進むバス。

 目的地である山村地区に近付くにつれ、新国際空港の設立を反対する立札が増えていくのが、いやに印象的だった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 バスに揺られること、30分ほど。田んぼの脇を流れる川のそばを走り、里山に囲まれた山村地区に辿り着いたおれと鈴蘭は、設置されているのは小さなベンチだけという申し訳程度のバス停で大きく息をつく。

 大天山だいてんざんと呼ばれる、尾前町を象徴する山のふもとに作られた小さな集落。歴史は古く、少なくとも仏教が伝来した時代から存続しており、今も昔ながらの生活様式が一部で色濃く残る、古式ゆかしい地域だ。

 だからだろう、この辺りは外部の人間との接触が乏しく、受動的で、あまり友好的ではない。

 それゆえ、住人における都市部の流出が進み、過疎化が深刻化している。何なら僻村へきそんと言い換えてもいい。

 それが証拠に、山村地区の住人は、風光明媚ふうこうめいびな山々を切り崩し、先祖代々守って来た土地が剥奪され、更地にされた挙句、無機質な空港建設用道路に整備されることを嫌悪している。ゆえに、新国際空港建設反対派が多数を占めているのが現状だ。政府の介入による町の開発を(やや紆余うよ曲折きょくせつがあったとはいえ)比較的好意的に捉え、一部を除いて順調に買取が進んだ田園地区と違い、この辺り一帯の土地の買い付けは未だ難航を極めている。いわば、国の政策に敵対的な人間の巣窟であり、反社会的な者どもの巣窟だ。

(彼らのせいで、新国際空港建設は遅々として進まない。これでは、ますます日本の国際化が遠のくばかりだというのに、彼らは事の重大性をまったく理解しようともしない)

 もっとも、彼らは彼らで、祖先が開墾かいこんした土地を売り払った田園地区の人間を『売国奴ばいこくど』と好き勝手に言うのだが。

(……政府の人間からすれば、彼らこそが国に逆らう『逆賊』なんだがな)

 なにはともあれ、数年ぶりだった。この、昔ながらの肥沃ひよくな大地を踏むのは。

「うわぁ~、懐かしいな」

 なだらかな稜線を描く大天山を筆頭とする、雄大な自然に覆われた土地を前にして、感慨深げに鈴蘭はつぶやく。

 大天山の中腹を流れる萩川はぎがわを生活の基盤とする山村地区は、蔵屋敷の家がある田園地区とはまた違ったおもむきがある。川沿いに建てられた民家の脇には古めかしい水車が設置されており、いかにも時代を感じさせた。

「子供の頃に、こうして何度か来たことがあったもんね」

「ん、そうだったっけか?」

 あんまりよく覚えていない。

「そうだよ、5年前もわたしと一緒に遊びに行ったじゃない」

「ふーん」

「ふーんって……、反応、それだけ?」

「うん、それだけ」

 それ以外に何があるというのか。

「もう……、周平くんってば、相変わらずなんだから」

 鈴蘭は頬を膨らませるが、どうしてもピンと来なかった。

(……5年前……)

 この『5年前』というのが、どうにも引っ掛かる。

 どうも、その当時の記憶がすっぽりと抜け落ちているというか、あんまりよく思い出せないのだ。

(……5年前……)

 ここで、何があったのか。


『……約束……』


「……っ」

 思わず顔をしかめた。

(また、これか……)

 頭の奥底から鳴り響く、誰かの声。


『……約束を……果たしに……』


 おれの存在を蝕むように、彼方から此方こなたまで届き、囁く……。

 これと似た感覚を、おれはどこかで味わったことがある。

(そう……、それは夢だ……。この町に来てからというもの、断続的に見る夢の中で、おれは……)

 彼女の声を……。

(彼女? ……彼女とは、一体、誰のことだ?)

 どうにも釈然としない。

(いかん……、しっかりしなければ……)

 ここからが、正念場だというのに……。

「……それじゃ、行くぞ、鈴蘭」

 このままでは埒が明かないので、先陣を切って山村地区の一角に向かう。

「あ、待ってよー!」

 一拍子ほど遅れて、鈴蘭がついて来る。

 頭痛は、未だに治まる気配がなかった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 おれがわざわざ山村地区にまで向かったのには、もちろん理由がある。

 無論、物見遊山ものみゆさんが目的ではないのは言うまでもないが、それと似た部分があるのも否定できない。

 まずは、この辺りでは最も目立ち、かつ有益な情報が得られる寺に向かうことにした。

 場所は、予め確認済みである。

「それじゃ、まずはあのお寺に行くぞ」

 ここから伸びる上り坂を進んだ先に見える寺を指さす。

「え、珍しいね? 周平くんがそういうところに行きたがるなんて」

 何も知らない呑気な鈴蘭は、能天気に疑問を口にする。

「ちょっと、個人的に興味があるもんでね」

 テキトーに言って誤魔化す。

「へぇ~、意外だなー」

 なんだか嬉しそうに、にやにや笑う。

(……ほんと、幸せな奴だよ)

 あからさまに含みがあるにやけ顔を目に入れ、意気いき阻喪そそうする。

(おれが、どんな思いでこの町に来たのかも知らずに……)

 高くそびえる山とは対照的に、おれの気持ちは沈んでいった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 神宮寺は、バス停にほど近い場所にあった。規模はそれほど大きくない。蔵屋敷の邸宅が満点の10とすれば、神宮寺はせいぜい2と言ったところか。禁欲的な生活を強いられる僧の質実剛健しつじつごうけんさが示すように、寺の外観、内観共に非常に質素なものだ。

 鬱蒼うっそうと生い茂る背の高い木々が石畳の参道を挟んで群生しているせいか、昼間にもかかわらず辺りは薄暗く、ひんやりとしている。

 心なし空気が澄んだ、地蔵が並ぶ参道を通ると、やがて大きくそびえ立つ山門に差し掛かる。

 入り口である山門の左右には、全長2メートルはゆうに超える仁王像が鎮座し、参拝者をその威圧的な眼光で冷厳に見下ろしている。

「それにしても、今日は凄い日だね」

 門をくぐった後、興奮気味に鈴蘭が話を振る。

「教会で礼拝を見学したあと、こんな立派なお寺に来るなんて。なんだか心が洗われる感じがするね」

「まあ、日本らしいっちゃらしいかな」

 もっとも、おれは神だか仏だかに対し、毛ほどの興味もないが。

(おれが用があるのは、住職の方だ)

 父の方から、予め話は付けてある。

「悪いけど、鈴蘭は少し待っててくれ」

 中央に建てられた本堂を見据えつつ、興味深げに境内けいだいを眺める彼女に告げる。

「あれ、一緒に見学するんじゃないの?」

「そのつもりだけど、その前にちょっと、ここの人に用があるんだ」

「そうなんだ? それじゃ、しょうがないね」

 残念そうに苦笑すると、鈴蘭はおれの前に立ったかと思うと、そのままくるりと身をひるがえす。

「じゃあ、わたしは辺りを散策してくるね」

 またあとでねと、元気よく手を振って駆け出していく鈴蘭。その姿は、さながら自然を優雅に駆ける雌鹿めじかのようだった。

 白いワンピースの裾をひらひらと舞わせながら徐々に遠のく彼女の姿を見送ったあと、おれは自分の目的を再確認する。

(さて……)

 とっとと用事を済ませてしまうか。

「すみません、ここの住職である大堂さんはいらっしゃいますか?」

 専門的には庫裏くりと呼ばれる、神社で言うなら社務所の役割を持つ寺務所じむしょに赴き、尋ねる。

 出て来た若い僧侶に話を聞くと、住職は今、講堂の方で別の人間と会っているらしい。

 どうやら先客がいるようだ。

(誰だろう?)

 住職と面会する人物をいぶかりながら、しばらく、待ちぼうけをくらう。

 その間、おれは、暇つぶし程度に境内をぐるりと見回す。

 すると、ある存在が目についた。

 おれは、誘われるようにしてそれに近付く。

 寺の本堂の前には、その神聖な入口を守護するかのように、ある彫像が二体鎮座している。天狗だ。反り返った高鼻、威厳に満ちた恐ろしげな顔付き。高下駄を履き、法衣を身に纏い、手に持つのは立派な錫杖しゃくじょう。まさに仏法を極めし者の風貌。カッと見開いた鋭い目からは、見る者を畏怖いふさせる厳しい眼光が覗いている。

(どことなく、奴に似ているな……)

 奴が天狗に似ていると称されたからだろう、一見すると冷めているが、腹の内には暑苦しい激情を秘めた露木の野郎のことを思い出す。

(……なんて、露木が知ったら激怒するだろうが)

 馬鹿なことを考え、時間を潰す。

 さて、もう一体の彫像の方に目をやると、こちらはいわゆるカラス天狗と呼ばれるもので、その名の通り背に生えた大きな翼と顔面のくちばしが特徴的だ。右手に剣を構え、左手にはどういうわけかヘビが巻き付いている。そして足下には一匹のキツネ。恐ろしい形相で参拝者を睨み付け、対である大天狗と比較してもやや好戦的な構図となっている。

(……妙だな)

 この像を眺めていると、不思議と懐かしい感覚に襲われる。まるで、過去に、天狗像を前にして感銘を受けたみたいに。

(実際、ガキの時に来たのだろうが……) 

 とりあえず、そういうことにしておこう。

 鈴蘭と別行動を開始して、十数分ほど経過した頃だろうか。

 やがて、面談の準備が整ったことが伝えられ、おれは若い僧侶の案内のもと、境内の奥の方に位置する講堂の方に通される。

 伝統的な造りの講堂に近付くたび、否応なしに精神が研ぎ澄まされた。

「……っ」

 気分が高揚しているからだろうか……わずかな頭痛を覚える。

(参ったな、大事な話の前なのに……)

 おれは、徐々に痛みの範囲を広げていく頭痛に耐えながら、講堂に向かった。


 …………………………。


 ……………………。 


 ………………。


 予定通り寺を訪れたおれは、見事に頭髪をそり落とした年配の住職と正座で向かい合っていた。

 周りに人はいない。薄暗い講堂の中、おれたちはサシの状況だ。

「これは、これは……、遠路はるばる、ようきなすった」

 やや小ぢんまりとした印象を受ける住職は、おれより遥かに年齢が上にもかかわらず、丁重にもてなしてくれる。

「お茶でも一杯、いかがですかな? 雄大な大自然に囲まれながらの一服というのは、心も体も清められますぞ」

「いえ、お構いなく」

 湯気の立つ湯呑を一瞥いちべつし、すげなく言う。

 おれは世間話に来たわけではない。ましてや、鷹揚おうように笑いかける住職の言う自然の景観など、初めから眼中になかった。

「今回、僕がここまで足を運んだのは他でもありません」

 持参した書類を広げ、早速、取引を持ちかける。

「目下、我が国が推し進める新国際空港開発計画について話があるからです」

 住職は優しそうに細められた目を伏せ、悲しげに眉を寄せた。

 ――新空港建設に伴う新たな道路の開発。大天山を擁するこの土地一帯は、政府によって企画された開発区画のひとつとなっている。

 大天山の一部はいわゆる社寺有林しゃじゆうりんであり、現在は住職が管理している。

 かねてより土地の売却について通達されていたのだが、よほどこの土地に思い入れがあるのだろう、住職はなかなか首を縦に振ってくれない。

 だからこそ、特派員であるおれが直々に説得しに来たわけだ。

 今回の交渉は、絶対に成功させなければならない。

暁光会ぎょうこうかいはご存知ですよね?」

 単刀直入に切り出すと、住職の目が丸くなる。

「暴力団ですよ。それも、主に関東圏を根城にした大きな組織の総本山。何でも、国で1、2位を争うほどの規模とか。住職も承知のように、この山村地区の中心には、暁光会の重鎮、大田原おおだわら弥之助やのすけが住まう屋敷があります」

「しかし、それと、この件に何の関係が……?」

「暁光会系の組織というのが、この尾前町にもありましてね。木田組と言うんですが、聞いたことありませんか」

「木田組……」

 神妙な表情で復唱する。

 木田組は暁光会系列の暴力団だが、大本である暁光会自体が空港建設に反対している古参の会長派と、リベラルな若頭派とで内部分裂し、半ば骨抜きとなっていた。

 言うが早いが、木田組は、条件派とも言える若頭の甲斐かい陸也りくやが興した事務所である。

 おれは、かねがね、この両者の軋轢あつれきを利用しようと考えていた。

「木田組には、尾前町の土建業に従事する人間が数多く存在しています」

 要するに舎弟企業フロントを飼っているわけだ。

「例えば、この先、寺が損壊したり、参道の方が荒れたとしても、それらの復旧工事を地元業者の方に委任するのは難しいでしょうね」

「そ、そんな……!」

 悲鳴にも似た声が上がる。

 住職の非難を制するように、おれはゆっくりと首を横に振った。

「仕方ありません。この狭い町で商売が成り立っているのは、相互の信頼関係が平衡に保たれているからに他なりません。普段、世話になっているから、助ける。助けられるから、助ける。こうして人々は助け合う。互いを信頼していく。しかし、あなたはその流れを断ち切ろうとしている。信頼を裏切ろうとしている。地元の業者が請け負うことになる国の開発工事を、自然を守りたいというあなたのわがままで中止させようとしているのだから、当然です。あなたは日本を取り巻く現状を正しく理解しているでしょうか? 無理でしょうね、こんな山奥にある古くさい建物の中に引きこもっていたのでは。

 いいですか、日本は近年まれにみる不況のさなかにあります。五輪特需ごりんとくじゅの消え去った今、特に、建築業や鉄鋼業にしわ寄せが来ています。現に、ここ数年の間で業績が悪化した企業はあとを絶ちません。例えば、神田製鉄などがそうです。かつては日本の戦後復興に貢献を果たした老舗企業も、昨今の噂によると、どうやら倒産に至るのも時間の問題だとか。

 ここまで言えば、もうおわかりですね? このご時世、仕事にありつけるだけで儲けもの、労働者にとってはまさに願ったり叶ったりです。しかも、その仕事が国家事業に直結するのであれば、なおさら、受け持つ仕事や自分自身に誇りが持てるというものです。

 それなのに、あなた方は多くの若者の未来を奪おうとしている。おかしな話です。あなた方にとって人の命はそこまで軽いものなのですか? 仏教徒の一存で左右できるほどに? そもそも仏というのは、容赦なく人の命を踏みつけ、散らすほどまでに偉いのでしょうか? むしろ、その逆ではありませんか? 人々の救済こそ、仏教の根底にあるのではないのですか? ――そうです、あなた方が信仰する仏教の教えに『諸行無常しょぎょうむじょう』という言葉があるように、世相は常に移りゆくものなのです。そこのところを、きちんと理解できていますか?」

 おれは慎重に言葉を選びながら、しかし、大胆に声を発して住職への説得を試みる。

 住職の中にある良心を巧みに刺激し、精神をすり減らさせるように。

「これでも、心は変わりませんか?」

 住職は固く口を閉ざす。深く俯き、額に脂汗を滲ませる。

 その胸の内が大きく揺れているのがすぐにわかった。

 黙して語るとは、まさにこのことだ。

 こういう手合いの人間は、情に流されやすい。

 だったら、おれは、彼らのその性質を利用してやればいい。

「あなたは、この区域に住む者たちを路頭に迷わせたいのですか?」

 さらなる追い打ちをかける。

 一度、木田組が口添えすれば、彼らの報復を恐れる舎弟企業フロントの人間が、土地収用に反対する者たちを締め上げ、袋叩きにすることだろう。

 そうなれば、もう、この土地では暮らせない。

「お、脅すつもりですか?」

「脅すだなんてとんでもない。僕は、ただ、事実を述べているまでです」

 実際、今回の計画に際し、運輸省の上役と木田組は秘密裏に協定を結んでいる。国が木田組の舎弟企業フロントに優先的に仕事を回す見返りとして、空港開発に反対する者を排除しろと。

 たとえ山村地区の庄屋しょうやである東家と暁光会の首領ドンが裏で繋がっていても、国家権力の前ではその影響力など塵にも等しい。

 尾前町でヤクザが暴れ出しても多少は目をつむるよう、地元警察にも根回しができている。

 国に逆らうことなど、神にも仏にも不可能なのだ。

「我々としても、できることならば話し合いで解決したい。まつりごとだろうと何だろうと、何事も穏便に済ませられるならば、そうするのが一番のはずです」

 住職の表情がみるみる曇っていく。

「そのためには、住職のお力添えが、どうしても必要なのです」

 これはつまり、お前に拒否権はないと言っているのも同然だった。

 平和的な交渉で双方の同意が得られないのならば、最終的に暴力に訴えかける。

 古来より続く、交渉術における常套手段だった。

 長い沈黙。

 確かな手ごたえがあった。

「……なんという狡知こうちに長けた、恐ろしい考えを持っておるのか……」

 負け惜しみのような賛辞。

「……まさにこの地に伝わる天狗のような御方じゃ……」

 苦痛にうめく住職が再び顔を上げた直後、獲物に止めを刺した感覚が胸の奥からじわりと広がっていった。

 

 …………………………。


 ……………………。 


 ………………。


 数十分にわたる対談の末、住職はついに折れた。この土地に固執するあまり、他の人が理不尽に苦しむのが耐えられなかったようだ。

 もしくは、この土地に住み続ける限り一生涯続くヤクザからの嫌がらせを恐れたのかもしれないが、いずれにせよ、交渉は成立した。

 住職は、この土地からの立ち退きを了承した。

 後日、改めて政府の者が住職のもとを訪れる。土地の権利書を頂戴するために。

 その時が奴らの最後だ。

 しかし、随分と呆気なかった。

 なんだか肩透かしを食らった気分だ。

 ちょっとは歴史ある寺の住職というから、どんなに固い信念を持っているかと用心していたが、所詮はこの程度か。

 交渉も終盤に差し掛かった頃、おれが金の話を持ち出した時、住職の気持ちがぐらりと大きく傾いたのがわかった。

 先ほども軽く見やったが、寺は随分と経年による老朽化が進んでいた。おそらく、檀家だんかからのお布施だけでは首が回りきらないのだろう。

 それこそ、寺の全面改修工事が可能になるほどの大金が喉から手が出るほど欲しかったに違いない。

 すべては金の問題にすり替えることができる。

 僧侶だか何だか知らないが、結局、自分の身が可愛いのだ。

 おれは、彼らがこれまで堂々と行ってきた偽善っぷりに辟易へきえきしていた。

 口では聞こえの良いことをのたまいながら、易々と権力や暴力に屈する。

 もろい。

 彼らが声高にのたまう信仰心など、この程度のものか。

 しかし、住職が最後まで不満そうだったのが納得できない。

 彼らはさも自分が悪くないとでも言いたげに被害者面するが、そこがまず大間違いなのだ。

 寺は完全に取り壊すわけじゃない。ただ、墓地などの一部の立地が変わるだけだ。

 山だって、何も、隆起りゅうきした部分すべてを発破して更地にしようというわけじゃない。表面を切り崩し、道路を設置するに過ぎない。

 道路ができれば、遠方からの参拝客も増えるはずだ。何も、悪い話ではない。むしろ、双方にプラスではないか。

 それなのに、どうして今までかたくなに立ち退きを拒んでいたのか。

(……ゴネ得を狙っていたのだろう)

 そう結論付けた。

 要するに、土地の値段を限界までつり上げていたのだ。

 現に、当初、国が提示した金額から数倍の価値にまで脹れあがっていた。

 結局は金だ。

 だからこそ、おれは、住職のような、さも当然のように綺麗事を語る人間が嫌いだ。

 この世は、数えきれないほどの苦悩と憎悪で溢れ返っている。

 それなのに、神や仏は、苦しんでいる彼らを救おうともしない。

 一体、なぜか?

(神や仏に、人を救う力がないからではない。

 つまり、おれは、存在しないものをあたかも存在するかのように語り、相手を騙す行為そのものが気に食わないのだ。

 偽善。これを偽善と呼ばずして、なんと言うのか。やっていることは詐欺師と変わらないのだ。それなのに、彼らは人々から称賛され、尊敬され、崇拝される。本当は、

 それにしても、金で動かない人間の考えというのが、どうにも解せない。

 すべては金だ。

 金で解決できない問題など、ほとんどない。

 それが証拠に、当初は立ち退きに否定的だった者たちも、一度、大金をちらつかせてやれば、即座に目の色を変え、すぐさま手のひらを返す。

 現金なものだ。人間の欲深さというのは際限がない。

 だから人間というのは信用がならないのだ……。

 そうだ、かつておれを追い詰めた、あの者たちも……。

「……っ」

 酷い頭痛が襲って来た。

 おれは講堂の壁に寄り掛かるようにして倒れる。

 ――まただ。

 いつも、こうだ。

 たまにこんなふうにおれが本性をさらけ出すと、すぐに頭が痛くなる。

 まるで、今回のことをなかったことにするべく、脳が記憶を拒んでいるかのようだ。

『……お役人様。ひとつ、よろしいですかな』

 別れ際、住職が捨て台詞のように吐いた言葉が脳裏をよぎった。

『あなたは若い上にさぞ聡明なお方とお見受けしますが、せいぜい慢心なさらぬように。この地には古くから『天狗』にまつわる伝承が残されてましてな。それによると、自らの能力におごり高ぶる尊大な若者は、皆、天狗にさらわれ、頭から食われてしまうと。……くれぐれも用心なされよ』

 おれは、半ば逃げるようにしてこの場をあとにした。

 ――意識は、そこで寸断された。


 …………………………。


 ……………………。 


 ………………。


「よっ、ただいま」

 用事を済ませたおれは、ぼんやりと本堂を見上げている鈴蘭に声をかける。

「あれ? もういいの?」

 別々に行動してからわずか40分程度で戻ってきたからか、鈴蘭は少々意表を突かれたように目を丸くさせた。

「ああ、おかげで無事に用が済んだよ」

「そっか。なら、よかったね」

「鈴蘭の方はどうだ? なにか収穫でもあったか?」

「えーっとね、特に何があったってわけじゃないんだけど……」

 思わせぶりに、上目遣いでおれを見る。

 ……なんだ?

「じつはね、これから周平くんと一緒に行きたいところがあるの」

 含みのある言い方。

「なんだ、遠慮せずに言ってみろよ」

「うんとね、この山を登った先にある、ちょっと奥まった場所に、小さなほこらが建てられてるんだ」

「祠? そんなものがあるのか?」

 初耳だぞ。

「うん、昔、家族みんなで来た時のことを思い出してね、確か、山のもう少し深いところに小さな祠がぽつんと建ってて、お父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、そしてお兄ちゃんもわたしも合わせて、全員でお参りした記憶があるの」

「ふーん」

「その時はね、周平くんも一緒だったんだよ」

「え?! おれ!?」

 思わず自分を指さす。

「そうだよ。もう何年前になるか忘れちゃったけど、周平くんがおじさんとおばさんの3人でこっちに来た時、せっかくだからってみんなで山を登って、祠まで参拝しに行ったんだよ」

「ふーん……」

 全然覚えてねーや。

 それに引き替え、鈴蘭は、よっぽどその記憶が楽しいものだったのか、おれに当時の状況の説明をしている間、終始、目をキラキラと輝かせていた。

「そうそう、お墓参りのついでとか、そんな感じだった気がする。うん、懐かしいなー」

「…………」

 うっとりとした様子で目を細め、過去を回想する鈴蘭は、何とも幸せそうだった。

「……ちょっとご両人、話の腰を折るようで申し訳ないが……」

「……ん?」

 さて山に向かおうかと動き出したところで、不意に話を振られる。

「あなたは?」

 目の前に現れた、頑丈そうなズボンを穿き、黒のインナーの上に枯れ草色のベストを着用した、いかにも活動的な男性に尋ねる。

「……初めまして。僕は中島、中島哲男。とある雑誌社に勤めていてね。いわゆるルポライターってやつさ」

 薄く笑いながら、おれと鈴蘭に名刺を手渡す。

「へー、『月間あやかしファイル』……、なんだか凄そうですね」

「ははは、そう言ってもらえるのは嬉しいけど、某大手が刷っているような大層な代物じゃなく、名前も知られていないような小さな出版社が出してるB級雑誌なんだ」

 それは雑誌の名称を見れば一目瞭然だ。こんなチープでニッチ向けの雑誌を発行する出版社などは大体無名と相場が決まっている。

 おれは、手渡された名刺と中島と名乗る男性を注意深く見比べる。

 自称ライターの中島氏。背は高く、やせぎすで、髪は額の部分を中心に左右に分けられている。おれたちのような学生風情にも気さくに接する態度から、なかなかの人柄の良さを思わせる反面、目つきは鋭く、常にギラギラと鈍い光を放ちつけている。

 中島氏に対する第一印象は、そんな感じだった。

「じつを言うと、僕のところの雑誌は神社仏閣についての特集を組んでいてね」

「へえ……それは面白そうですね」 

 おれにとってはともかく、いかにも大衆受けしそうな内容だ。

「そこで、寺社に訪れている人に突撃取材を敢行かんこうしているってわけ。もちろん、きみたちがよければの話だけど」

「え、それって、わたしたちが雑誌に載るかもしれないってことですか?」

「まあ、うちの方針上、匿名になるけど、もしかしたらきみたちの話が掲載されるかもしれないね」

「わー、凄いね周平くん、わたしたち有名人になっちゃうかも!」

 小さく飛び跳ねてはしゃぐ鈴蘭。さながら機嫌のよろしい仔犬のような反応だ。

「しかし、おれたちは何を話せばいいんですか?」

「うーん、そうだね、僕としては、この地方にまつわる伝承や風習なんかを聞き出せれば万々歳なんだけど、なかなかそう上手くはいかないからね」

「それは、そうでしょうね」

 皆が皆、そういった地域の習わしに精通しているわけじゃない。よしんば知っていたとしても、結局は上辺をなぞるだけで中身が伴わない形骸化けいがいかしたもので、由来や起源について把握している人物は稀だろう。

「でも、まあ、きみたちみたいな若いカップルから取材できただけでも儲けものかな」

「え、カ、カップルって……」

 耳まで顔を赤くさせ、俯く鈴蘭。

 おれも、中島氏の口から出た、冗談とも本気ともつかない言葉に身を硬直させた。

「縁結びの神社とかはともかく、お寺は年寄りが多いからね。だから、きみたちの姿を見た時、ちょっとした感動を覚えたものだよ」

 おれたちが恋人同士という前提で話がどんどん進められていく。

(というか、何度、この勘違いをされればいいんだ?)

 ここに来てから、そんなのばっかりだ。

(第三者からは、おれたちってそんなふうに見られるのかね……?)

 鈴蘭は鈴蘭で、特に否定もしないし。ていうか、むしろ頬を緩めている始末だし。

「というわけで、改めて取材をさせてもらいたいんだけど……時間は大丈夫かな?」

 にわかに募るおれの徒労感など露知らず、中島氏は爽やかな笑顔でメモ帳を構える。

「……まあ、そこまで実のある話はできそうにないですけど」

 地元に住む鈴蘭ならともかく、おれは都内住みだしな。

「じゃあ、早速だけど……、きみたちの年齢を教えて欲しい。あ、名前は伏せておくから、別に名乗らなくてもいいよ。でも、僕としては、きみたちが名乗ってくれた方が取材がしやすいかな」

「……おれは周平って言います。年齢は17」

「わ、わたしは鈴蘭です。歳は18歳です」

「あれ? ということは、二人は高校生なのかな? それにしてはデート場所にお寺を選ぶなんて、なかなか渋い趣味だね」

「いや~、ははは……」

 今さら否定しても話をややこしくするだけなので、愛想笑いで誤魔化しておく。

「ちょっとごめんよ、話を聞く前に……」

 ひとつ断りを入れると、中島氏はおもむろにズボンのポケットへと手を突っ込む。

何事かと一瞬訝ったが、その手に持った箱状の物を見てすべてを理解した。

「少し、一服させてもらうね」

 ベストの胸ポケットからジッポータイプのライターを取り出すと、閉じられた蓋をカチンと開き、タバコに火をつける。

「ふー……」

 彼が大きく息をつくと同時に灰色の煙がのぼり、青い空に吸い込まれては消えていく。

「男の人って、みんなタバコが好きですね」

 ちょっと苦笑いの鈴蘭。

「うちのお父さんやおじいちゃん、お兄ちゃんも、みんなタバコを吸いますもん」

「はは、大人になればわかるよ。この、気持ちがスッとする、得も言われぬ心地良さってのがね」

「そうなんですか?」

「そうだよ、お酒と同じで、日々の生活に欠かせない大事なツールというわけさ」

「ふーん……」

 見るからに半信半疑の鈴蘭。おそらく、自分がタバコを吸っている姿を想像しようとしているのだが、それこそ揺らめくタバコの煙のごとく不定形且つおぼろげで、うまく固定化できないに違いない。

 そりゃそうだ。おれだって、数年後の自分がタバコをぷかぷか吸っているイメージが、全然、湧かないのだから。

「それに、タバコの煙には、まじない的な意味合いもあってね……、要は、お守りの意味合いも兼ねているんだよ」

「……!」

「あ、それ、おじいちゃんたちから聞いたことあります! 確か、山に住むものはタバコの煙が苦手とか……」

「そうそう、さすが、よく知ってるね」

「えへへ、初めて会った人に褒められるのって、なんだか照れますね」

 二人が談笑する傍ら、おれは、町に軽トラのおっさんが、彼とまったく同じことを言っていたのを思い出していた。

 そして、おれのポケットにも、未だにおっさんから貰った一本のタバコが……。


 「――『初夏はつなつの わか葉のかげに よき香する 煙草たばこをのむを 喜ぶ人と』」

 

「……え?」

 それは突然の衝撃だった。まったく予期せぬ出来事の到来に、心臓が鷲掴みにされる。

 中島氏が、短歌を口ずさんだのだ。

 流れるような旋律。おれの耳を優しく撫で、意識のことごとくを奪い去る。

 その歌は、遥か彼方に過ぎ去った時間の中に取り残されている懐かしい記憶を呼び起こすかのようだった。

 なぜか、側頭部が鈍く痛んだ。

「話の腰を折って、悪かったね」

 ひと通りタバコを吸い終えた中島氏は、いつも持参しているのか、携帯用の吸い殻入れを取り出し、火の消えたタバコを突っ込む。

「さて、ここからが本題なんだけど、二人はこの地方に伝わる『いわく』のある話をご存じないかな?」

「……いわくのある話?」

「ほら、ここって、独特の土着信仰があるじゃないか? だから、良い記事ができるかもって、そう思って取材先に選んだんだ」

「そうなんですか?」

 おれは首をかしげる。

「ああ、きみたちは聞いたことないかな? たとえば、この辺りって基本は稲荷いなり信仰しんこうなんだけど、ここのような山村地域では仏教を信仰している。あるいは、その両方を。これってなんだか不思議じゃないか?」

「まあ……言われてみれば」

 あまりそういったことには明るくないが、寺社を取材するにあたり、事前に周辺の土地のことを調べているであろう中島氏が言うなら事実なのだろう。

「話によると、元々、ここいら一帯は山岳信仰が盛んだったらしい。特定の神様じゃなく、自然そのものを崇拝する、いわゆる神道しんとうというやつだね。その後、仏教の教えが渡来してからは、それらは土着の神と結び付いて、より強固なものとなった。先住民が信仰していた名も無き神は、仏教の仏――いわゆる権現ごんげん――として姿を変えたと、そういうことだね。でも、明治期に行われた廃仏毀釈はいぶつきしゃくによって、仏教関連の建造物や法具は徹底的に破壊し尽くされた。当時の政府は列強諸国の脅威に対抗するため、元来の国教である神道に立ち返ろうとしたんだね。寺が神社となり、仏は神に変わる。そして、豊穣の神様であるウカノミタマ……いわゆるお稲荷様が、祭神に据えられたんだと」

「へえ……」

「それでさらに日本が戦争に負けたあと、GHQによって宗教は自由化された。無理やり神社とされたお寺も、本来の姿に戻った。ここも、そのひとつだというわけだ。もっとも、ここのような神宮寺などはその限りではないけどね」

「………………」

 歴史の勉強をする傍ら、おれは中島氏の一挙手一投足を用心深く注視していた。

 視線はしっかりしている。指先で鼻の頭を撫でるなど、変な仕草もない。

 嘘はついていないだろう。

(ひょっとしたら、おれの前に住職と会っていた人物というのは……)

「どうかな? きみたちは、何かこの辺りにまつわる古い話とか、民話とか、聞いたことはないかな?」

 おれは首を捻る。

「さすがに、おれは門外漢もんがいかんなので……、特に覚えがないですね」

「そうかい? でも、ひとつくらいは聞いたことがあると思うよ。……例えば、『天狗』の伝説とかね」

「……天狗?」

 中島氏の言葉に導かれるように、本堂の前に設置された石像を一瞥する。

「そう、天狗。きみたちのような若い子でも聞き覚えはあるはずだよ。比較的名の知れた妖怪の類だからね。もっとも、仏教界隈では、れっきとした信仰の対象になっているんだけど。このお寺のようにね」

「……なるほど」

「その筋の人間の話によると、大天山には天狗が住むとかどうとか……」

 ……へえ。

「本当ですか、それ」

 にわかには信じがたい話だ。

「ところがどっこい、あながち単なる作り話とも取れないんだよね。なぜかと言うと、ある宗派のお坊さんなんかは、昔から山を修業の場と見なし、修験者として山で生活していたと言うし。その、修験道と呼ばれるお坊さんと、山を住処とする生き物を混同した結果が、民話などに散見される伝説上の天狗であるって見解を示す専門家もいるくらいだからね」

「ほう……」

 それにしても、天狗か……。

(……くだらねーな)

 不自然且つ嫌な一致を、即座に無意味な偶然と切り捨てる。

「……鈴蘭、お前は家柄が家柄だから、土地に伝わる伝承とかに詳しそうだけど、そこのところはどうなんだ?」

 特に思いつく節がないので、鈴蘭に話を振る。

 彼女も首を捻っていた。

「……うーん、確かに、いつもおじいさんが酔っ払った時、よく昔話をしてたけど、あんまり真剣に聞いたことないからなあ……」

「おいおい……」

 哀れ、じーさん。愛しの孫娘に相手にされていなかった。

「わたしが憶えているのは、やっぱり、『イイヅナ様』のお話かな……?」

「……『イイヅナ様』?」

 中島氏とおれの疑問符が重なる。

「その話、よければ詳しく聞かせてくれないかな?」

 いかにもいわくがありそうな響きに知的好奇心をくすぐられたか、中島氏はやや興奮気味に鈴蘭のそばへとにじり寄る。彼の浅黒い肌も上気していた。

「えっと、わたしも、あんまりよくは知らないんですが……」

 記者精神を刺激されて気色ばんだ中島氏の勢いに圧倒された鈴蘭は、ちょっともたもたしつつも、身振り手振りを交えて説明を始める。

 そんな彼女の手前、おれはある疑念を抱かずにはいられなかった。

(……『イイヅナ様』……)

 軽トラのおっさんから聞いた、謎に満ちた固有名詞。おそらくは土着の神と思しき名前。

(だが、蔵屋敷の者に詳細を尋ねようとした瞬間、場は異様な空気に満ちた。まるで、タブーに触れたかのように)

 そして、それは、おれの通う高校でも同じだった。文芸部の連中に『イイヅナ様』について説明を求めたら、またしても空気が一変した。蔵屋敷の時と同じく、触れてはならない傷に触れてしまったかのように。

(結局、うやむやになって今に至るが、気にならないと言えば嘘になる)

 だが、鈴蘭がその『イイヅナ様』とやらについて語ってくれるのなら、願ってもないことだ。

(さすがにあのままだと寝覚めが悪いしな)

 おれは、鈴蘭の次なる動向を注視する。

 どこか緊張した面持ちの鈴蘭。視線を宙に彷徨わせ、動作が安定しない。

「……わたしも、5年前に話を聞いたっきりだから、ちょっと間違っている部分があるかもしれませんけど……」

「いや、別に構わないよ。そこは別の資料や話から補填するから」

 中島氏の熱意に押され、ためらい気味だった鈴蘭もついに折れたのか、ややあって口を開く。

「……えっと、『イイヅナ様』というのは、この地方に伝わる女神様のことで、代々、この土地を守っているとのことです。普段は山に住んでいて、たまに動物の姿をかたどってふもとに下り、村人に悪戯をする子供っぽい一面もあるとか。でも、ある時、イイヅナ様が化けたキツネの悪戯にカッとなった村人が、そのキツネを捕まえて、仕返しに木の棒で思いきり叩いてしまったんです。村人の容赦ない攻撃にイイヅナ様はボロボロに傷付き、倒れてしまいます。村人は、イイヅナ様であるキツネを路上に放置し、そのまま帰ってしまいます。そんな、今にも息絶えてしまいそうな瀕死のイイヅナ様を、通りがかりの修行僧が助けました。修行僧は、血だらけのイイヅナ様を抱きかかえ、山まで運んで手厚く介抱しました。やがて、元気に快復したイイヅナ様は名残惜しそうにしながら山に帰りました。そして、その後、綺麗な女性が修行僧のもとに現れます。女性は言いました。『あなたが助けたキツネは、わたしが大事に飼っていた子。心優しき人、どうかお礼をさせてください』。修行僧は、こう言いました。『私はこの地に仏の教えを説きに来た。是非ともあなたの力を貸してほしい』。二人は手に手を取って村中を練り歩き、村人に説法を説いていきました。そうした日々の中で次第に心を通わせていった二人は、いつしか一緒になりました。二人は、山に建てたお寺で幸せに暮らしました。……じつは、修行僧の前に現れた女性こそがイイヅナ様で、自分を助けてくれた修行僧に嫁いだとか……。そういう話を、小さい頃によく聞かされていました」

「ふむふむ、いわゆる異類いるい婚礼譚こんれいたんというやつだね。有名なのは鶴の恩返しとか、雪女の伝承とかだろう」

 鈴蘭の話に耳を傾けながら、興味深げにメモを取る。

「これらの話に共通しているのは、大抵、悲劇的な結末を迎えるという点だね。鶴の恩返しだと、絶対に部屋を覗いてはならないという約束を破った猟師に正体を見られた鶴がそのまま飛び去ってしまうし、雪女の場合は、自分のことを口外するなという約束を、雪女に助けられた旅人がやはり破って、姿を消してしまう。まあ、日本の歴史に即して見るなら、別の部族同士の人間が一緒になるのはよくないという比喩ひゆだと考えられるので、その点では、あながち間違いでもないんだろうけど」

 と、しきりに自論と照らし合わせながら、彼はさらに続ける。

「だとすると、その『イイヅナ様』が女神だというのも納得がいく。山の神様というのは圧倒的に女性神が多いからね。これは、山に棲息する動植物を始めとした、生きる上で必要不可欠な食料、寝食の材料に欠かせない草木などの豊富な資源を山間に住む人々に与え、多種多様な恩恵をもたらすさまが、子宝を授かる女性と同一視されているというのが一般的な見解だ。だからだろう、山の神は基本的に嫉妬深いされている。特に、美人を徹底的に嫌うから、女人禁制の山も未だに多いと聞くほどだ」 

「へぇー、お詳しいんですね」

 感心したように鈴蘭が相槌を打つと、中島氏は照れくさそうに後頭部をポリポリと掻く。

「はは、ありがとう。これでも学生時代は民俗学を専攻していてね。特に、地域色が強い民話、伝承が大好物でね。そんな郷土史好きが高じて、こういうB級雑誌のライターをやってるってわけ」

「なるほど、自らの経験と強みを仕事に生かしているってことですね」

「そこまで狙っていたわけじゃないけどね……、と、僕のことはともかく、貴重な話を聞かせてくれて、どうもありがとう。これは記事にできそうだよ」

「いえ、そんな……、記者さんのお役に立てたなら何よりです」

「それにしても、とても興味深い話だ。『イイヅナ様』という土着の神が、異教徒であるはずの修行僧に助けられ、その教えを広める手伝いをする。もしかすると、これは、当時に起きた神仏習合を説明した物なのかもしれない。だとすれば、あながち荒唐こうとう無稽むけいな作り話じゃなく、史実に基づいた話ということもありえる」

 かつて専攻したと言う民俗学の知見から独自の見解を述べる。

「……しかし、そうなると少し妙だな」

 いつしか、中島氏の浮かべる表情は、温和そうに緩められたそれから、非常に険しいものに変化していた。

「……なら、かつて山村地区で頻発したという、あの『天狗てんぐさらい』という怪現象も、ひょっとしたら神隠しの類型なのか……? いや、そんなまさか……」

 目を鋭く細め、つぶやく。

(……『天狗攫い』?)

 不穏な響きの込められた語感に眉をひそめるも、以降、中島氏がそれについて触れることも、深く言及することもなかった。

 彼に対する不信感がにわかに募った時、中島氏は弾かれたように顔を上げる。

 何かに気付いたように大きく見開かれた彼の目が、強く印象的に映った。

「二人とも、忙しい中、どうもありがとう。そろそろ僕は別の人に取材を行うことにするよ」

 少し早口で捲し立てる。

 その表情は、当初の落ち着いたものと違って、どこか動揺の色が窺えた。

「お礼と言ってはなんだけど、よかったらこれ、食べてくれ」

 やや忙しない動作でリュックサックから取り出したのは、竹の皮に包まれた大きなおむすびだった。形はいびつな三角で、まさしく手作り感満載だ。

「え、いいんですか?」

 昼飯を食べていなかった鈴蘭とおれは、嬉しい誤算である謝礼を前に笑みがこぼれる。

「ああ、僕はもうお昼に食べちゃったからね。本当は夕飯にでもする予定だったけど、きみたちの話のおかげであまり長居しなくてもよさそうだし」

 ぎこちなく笑いながらそう言い残すと、中島氏はリュックサックを背負い直し、おれたちに背を向ける。

「それじゃ、僕はそろそろ行くよ。せっかくのデートに水を差して、悪かったね」

「いや、それは……」

 忘却の彼方に追いやられていた話を蒸し返されて、ついつい言葉に詰まる。

「また機会があれば、さっきみたいな話を聞かせてくれると嬉しいな。それじゃ、再びいつかどこかで会おう!」

 片手をあげ、颯爽と歩き出す中島氏。その歩みは力強く、また軽快で、物の数分で彼の背は見えなくなった。

 境内は心地良い静寂に包まれる。

(中島氏か……)

 経験上、本来、記者を始めとしたマスメディアの人間は好かないのだが、彼は別だった。金や地位、名誉のためではなく、あくまでも自分が知りたいことを知るために各地を歩き、取材をする。

(警戒して損はないが、必要以上に敵視する必要はないかな……)

 もっとも、おれや、おれの家族関係に切り込まなければの話だが。

(……まさか、あのことについて調査しているとも思えないし……)

 そうだとすれば、彼に抱いた好意というのを全面的に撤回せざるを得ない。

 なんにせよ、要注意だ。

「……なんだか、不思議な人だったね」

「不思議と言うか、愉快って感じだったな」

 だが、彼は何かを知っている。知っていながら、それを隠している。

 それが何かはわからない。ただ、重要な物であろうことは容易に推測される。

(……『イイヅナ様』、か)

 この町に来てからというもの、ずっと引っ掛かっていた。まるで、あの計画に従事するおれの行動を牽制するように、その存在をちらつかせる。

(……おれの考えすぎか?)

 それとも……。

「じゃ、山の祠に行く前に……、ちょっと休憩しよっか?」

 おれの手に握られたおむすびを見ながら、鈴蘭は微笑む。

「……ああ、そうだな」

 思考を中断し、休憩するのに手頃な場所を探す。

「あ、あそこがいいね」

 境内にある、寺の由来と歴史が刻まれた石碑の前、ちょうど段差となった部分に腰かけ、ひと息つく。

「ほれ、鈴蘭の分」

「ありがとー」

 竹の包みを剥ぎ、顔を出した真っ白なおむすびを手渡すと、鈴蘭は子供のような無邪気な笑顔でそれを見詰めた。

 優しい風が頬を撫でる。

 本堂の横に設置された寺の鐘と、規則的に配置された灯篭とうろう、そして境内の周囲に群生した木々を眺め、手にしたおむすびを口に運ぶ。

 隣には、美味しそうにおむすびを頬張る鈴蘭の姿。

 ……のんびりとした時間。

 それでも、おれの気分は晴れやかではなかった。

 頭の中では、土着の神であると言う『イイヅナ様』がしつこく残っていた。迷信の類と振り切ろうとしても、なぜか一向に離れない。

(しかし、どうして蔵屋敷の者や部活のメンバーは、『イイヅナ様』について頑なに口を閉ざしていたんだ? 鈴蘭の話を聞く限りでは、別におかしなところもないように思えたが。……部外者に口外してはならない、という箝口令かんこうれいが出ているわけでもなさそうだし)

「おむすび、おいしいね」

「……ああ、そうだな」

「周平くんと、こうして一緒にいられるってだけで、なんだかいつもよりご飯がおいしく感じるよ」

「……そうか」

 ……神と仏、自然と人間。

 おれは、教会堂での出来事、中島氏が述べた尾前町の歴史と、住職と交わした対談の内容を反芻はんすうしつつ、鈴蘭と肩を並べて昼食を堪能する。

 ……以前よりも、距離が近い気がした。

 それでも、おれの心には暗い影が掛かっていた。


『自らの能力におごり高ぶる尊大な若者は、皆、天狗にさらわれ、頭から食われてしまうと。……くれぐれも用心なされよ』


 住職の放った強烈な捨て台詞が、頭に強くこびりついていた。

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