第五話 伝承

 夜の闇はじつに良い。

 人間を始めとした多くの生き物が寝静まる分、余計な雑音に煩わされなくて済む。

 特に田舎の夜間というのは、都会と比べて街灯などが少ないのもあり、まさに闇と一体化したような奇妙な気分を起こさせる。

 窓の外から窺える、の存在すらも飲み込みかねない漆黒は、どこまでも、果てしなく伸びているように思えた。

 山野を駆ける野犬さえも寝静まる丑三うしみどき。この時間帯が、の主な活動時間だった。

 書類の閲覧及び情報整理、それらを元にした資料作成と、同胞に向けた今後の予定の構想……、やることは多岐にわたって存在する。

 おれは、こんな生活を3年も続けていた。

 電話が鳴る。

 彼女ヒューミントからの連絡だというのはすぐにわかった。

「こちら『亜細亜八月同盟AAA』尾前町支部。用件は何か?」

 机の上に置いてある黒電話の受話器を取る。

『はぁ、はぁ……、今、何色のパンツ履いてる……?』

 即刻、受話器を置く。

 どうやらいたずら電話のようだ。

 直後、また電話が鳴った。

「こちら『亜細亜八月同盟AAA』尾前町支部。用件は何か?」

 机の上に置いてある黒電話の受話器を取る。

『あ、そばの出前お願いしまーす。かけそばひとつと――』

 ためらいなく受話器を置く。

 どうやら間違い電話のようだ。

 刹那、また電話が鳴った。

「こちら『亜細亜八月同盟AAA』尾前町支部。用件は何か?」

 机の上に置いてある黒電話の受話器を取る。

『もーう、ひどいじゃなーい。さっきからすぐに電話を切ってさー。ちょっとくらいは乗ってくれてもいいんじゃなーい?』

 瞬間、おれを非難する声が耳をついた。

「お前がふざけているのが悪い」

『えー、なによそれ。ホント、相変わらずノリが悪いんだから』

 ぶーぶーと文句を垂れる。

「そういう問題か?」

 呆れて物も言えない。

 これまでの電話は、すべて、彼女ヒューミントが掛けたもの。

 とはいえ、それらすべてにおいて声色がまったく違うので、電話の相手が同一人物と即座に見抜くのは素人では難しい。

『あーあ、なんか興が削がれちゃった。まったく、あなたがつまらない男のせいよ、司令塔ハンドラー

「ほっとけ」

 声帯を自由自在に操れる彼女ヒューミントは、依然、ご立腹だった。

 ……は、政府に脅迫状を送った組織、亜細亜八月同盟AAAの幹部であり、周りからは『司令塔ハンドラー』と呼ばれている。

 亜細亜八月同盟AAAは、国際ジャーナリストを自称する『A』と名乗る人物――通称、偉大なる指導者ドゥーチェ――が発足させた、いわゆる民族主義者ナショナリストの集いだ。本拠地は都心に位置するが、現在、あちらの方は表立った活動をしておらず、逆に、構成人数わずか4人の尾前町支部が、政府の推し進める新国際空港開発計画を阻止するために奔走していた。

「それにしても、最初の電話は何だ。仮にも女であるお前があのような変態的な口を利くなど言語道断。少しは女性としての矜持きょうじはないのか」

 このおれが、愛国主義とは対極の立場にある亜細亜八月同盟AAAくみすることを、風祭宗吾は知らない。

 だからこそ、父はおれを特派員として任命した。

『なによ、つれないわねー、ちょっとしたジョークでしょーよ。お化けでも出そうな殺伐とした雰囲気と、激務続きでピリピリした気分を和ませるための、ね?』

 そして、電話口の女も、亜細亜八月同盟AAAに加担する協力者エージェントであり、通称、『人的諜報員ヒューミント』。もっと専門的に言うならカットアウトと呼ばれる連絡係であり、主に現場の工作員を指揮、統括の役目を担う『司令塔ハンドラー』の立場にあるおれとは協力関係にある。

「猫被ったって駄目だ。なにせ、おれはお前の本性を知っているからな」

 任務を遂行するためにはどんな変装も難なくこなす、カメレオンのような女。それが彼女ヒューミントだ。

 もっとも、自らに与えられた特権を利用し、工作員スパイとして暗躍しているおれも大概だが。

『……っち』

 電話の向こうで小さな舌打ちが聞こえた気がしたが、あえて追求するのは止めた。

「相変わらずだな、お前は。こうして話していると疲れがたまる」

『またまた~、そんなこと言って~、ちょっとは緊張がほぐれたんじゃないの~?』

「最初から緊張などしていない」

『ホント~? ホントにホント~?』

 相変わらず面倒くさい女だ。

「本当も何も、おれのことはお前がよくわかっているはずだ」

 これでも3年くらい付き合いがあるからな。

『ま、そうね。あなたのその氷のような冷たさにはいい加減慣れっこ。こう見えてわたしも変温動物の端くれだからね、そこらの地を這う爬虫類とはワケが違うわ。徐々に寒さに体が順応するように、あなたの素っ気ない対応にも何も思わなくなってきたもの』

 その割には、彼女ヒューミントいわく、息の詰まるという空気を変えることに固執しているようだが。

「だったらどうして無駄だとわかりながらわざわざこの場を茶化す?」

『そんなの理由は簡単よ、だってあなた、いつも堅苦しい口調で、いい加減、肩が凝るんだもの。あなたとこうして話していると、わたしの方が調子狂っちゃう』

「仕事だから仕方ないだろう」

 それに、話しているとペースが乱れそうになるのはおれも同じだ。

『ふーん……』

 何やら不満そうな様子。

「なんだ? 何か言いたいことでもあるのか?」

『んーとね、『仕事だから』とあなたは言うけど、なら、プライベートなら砕けてわたしに接してくれるの?』

「時と場合による」

『……やっぱりあなたは融通が利かないわね』

「そう言うお前はまったく口が減らないな」

 互いに皮肉を言い合う。

 情報交換する際、おれたちはこうして互いを牽制する。

 もちろん、無意味に茶番を演じるわけではない。

 これは相手の出方を窺い、腹の内を探るためでもあるし、盗聴の危険性を探る目的もある。

 要するに、あたかも重要ではない話をしているふうに装っているのだ。

 一見すると無意味な会話の応酬でしかないものに、意味のあるものを忍ばせておく。一種の暗号のようなものだ。

「無駄口を叩くなとは言わないが、せめて少しは緊張感を持て。おれたちは遊びでつるんでいるわけじゃない。大勢の人間の期待を背負って行動しているんだからな」

『そうは言うけどー、わたしだって人間ですしー、人並に好みがあるんだしー、あんまりお堅いのは苦手というかー、生理的に受け付けないというかー、とにもかくにもごめんなのよねー』

 おいおい。

「なら、おれからもはっきり言わせてもらおう。お前のその、人を小馬鹿にしたような挑発的な態度は煩わしいことこの上ない。聞いていて頭が痛くなる。せっかくの静謐せいひつな夜が台無しだ。お前の方こそ、頭のネジがひとつ飛んだようなふざけた口調を改めたらどうだ? そうしたらおれも、今の形式的で面白味がないという口の利き方を変えてやるのもやぶさかではない」

『あ、それだけは無理です本当に勘弁してくださいお願いします』

 甘たるい言い方から一転、真面目な口調で懇願する。

「なら、妙な期待を抱くのは金輪際やめることだ」

『はぁ……、わかった、わかりましたよ。今回のところは諦めます』

 今回というのが気になるが、別にいつものことなので黙認しておいた。

『じゃあ、本題に入るわよ』

「最初から素直にそうしておけ」

 まったく。

 毎度のこととはいえ、無駄に疲れるな。

『例のあれ……、予定通りに進んでいるわね』

 ようやくいつもの調子に戻ったか、やや低い声で報告をする。

 おれも神妙に彼女ヒューミントからの情報を受け取った。

「そのようだな。おれの方にも動きがあった」

 ここ数日の出来事を思い返す。

 まさか、直接、奴が潜入してくるとは思わなかった。

『でも、少し意外だったわ。あの徹底した日和見主義者の彼らが本格的に動き出すなんて』

「それくらい、奴らも切羽詰まっているんだろう」

 事実、新国際空港開発計画は難航している。思ったよりも土地の買い上げが遅れたため、当初の予定から大幅に時期が繰り上がっていた。

「本来なら春には工事が始まってなければならないはずだが、未だに資材を運ぶための道路すらも出来ていない上に、そのための土地も確保していない有様だからな。上の連中が焦るのも無理はない」

 尾前町には、金さえ積まれれば政府に土地を献上しようという国賊的な条件派も多いが、地元に愛着のある山村地区の人間――例えば、東家や暁光会の一部幹部など――のように、先祖代々続く土地を奪い取ろうとする政府を敵視している反対派も一定数存在している。

 おれたちとしてはありがたい話だ。

「何にせよ、奴らがようやく重たい腰を上げたというのなら、それだけ相手も本気ということだ」

 国家の犬である明道銀行がケツを持つ木田組も、政府の後押しがあるためか、大胆に土地の買収を始めている。

 幸い、山村地区には暁光会古参である大田原おおだわら弥之助やのすけの息が掛かっているため、木田組もおいそれと手出しは出来ないが、それも時間の問題かもしれない。

 眠れる獅子が、いよいよ勝負を仕掛けて来た。

 ならば、おれも全力をもって応えるまでだ。

「無論、こちらも黙って指をくわえて奴らの動向を静観するつもりなど毛頭ない」

 確かに相手は強大だろう。そんなことは百も承知だ。

 しかし、それでも戦わなければいけない。

 幸い、協力者は多い。彼女ヒューミントを始め、偉大なる指導者ドゥーチェである『A』や、共に潜伏先で監視の目を光らせるあの男――通称、『オシント』――とも連携を図っている。

 抜かりはない。すでに幾らかの手を打ってある。

「絶対に、負けるわけにはいかない……」

 おれがそうつぶやくと、彼女ヒューミントも『そうね』と短く返した。

 その後、彼女ヒューミントと情報共有をして通話を終えた。

 なぜ、おれが、現行政府に対してここまで闘争心を燃やすのか。

 理由は単純だった。

 おれにとって、日本という国は不倶戴天ふぐたいてんの敵だった。

 この国が、かつて、おれにどんな仕打ちをしたか?


『――お前は家畜だ。日本という狭い檻から伸びた鎖に繋がれた、ただの捨て石に過ぎない』


 ――忘れられるはずがなかった。

 だからこそ、なんとしてでも阻止しなければならなかった。

 国に存在を抹消されたこのおれが、あの恐ろしい新国際空港開発計画を――。

「――っ」

 常に思考を掻き乱す頭痛は、次第に勢いを増していった。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 日曜日。

 昨日約束した通り、おれは鈴蘭を連れて教会まで行ってみた。

 時間は朝の9時半。

 休日だが、鈴蘭は朝が早い。6時半には起きて支度を開始し、8時過ぎにはすっかり準備を完了させていた。

 おれも鈴蘭を見習い、少し遅れながら身支度を済ませ、教会に向かった。

「本当は、お父さんとお母さんの農業を手伝うはずなんだけどね」

 教会に向かう道中、鈴蘭はちょっと苦笑する。

 いけないことを、いけないと知っていながら行う。

 刺激の少ない田舎では、親との約束を破棄し、他の約束を優先させるという些細なことでも背徳的な行為に感じるのだろう。

(純情な奴だな……)

 どこか高揚した表情を浮かべる鈴蘭の横顔を微笑ましく眺めつつ、その子供っぽさに少し呆れる。

 彼女が都会の乱れっぷりを知ったら、どんな反応をすることやら。

(……驚きを通り越して、卒倒しそうだな)

 おれが住む地域は都心で立地は良いが、その分、荒れている場所はとことん荒れていた。高層ビルが所狭しと乱立するビル街の外れ、そのあいだを縫うようにして軒を連ねる汚らしい風俗店の数々。喧騒と熱狂、虚栄と堕落、ビジネス街と歓楽街が一緒くたになった、玉石混交、清濁せいだく甚だしい虚構の街。金と欲望が飛び交う街のその一角、とある代議士が飼い慣らす暴力団『暁光会』が牛耳る、富裕層と貧困層が極端に枝分かれした場所、そこでおれは生まれ育った。

(都会とおれの事情はさて置き……)

 僅かな頭痛が襲う中、すぐ後ろにいる鈴蘭を一瞥する。

「どうする? もう、始まってるみたいだぜ?」

 閉ざされた扉の外から、かすかに声が聞こえる。

 おれもあまりこういったことに詳しくないが、讃美歌とか、そういうのを斉唱しているのかもしれない。

「……さすがに、途中から中に入るわけにはいかないもんね」

 いつもは押せ押せの鈴蘭も、このような厳粛な場所だと気後れするのか、あと一歩のところで躊躇ちゅうちょする。

「とはいえ、関係者でもないのに敷地内に立ち往生ってのもな……」

「それはそうだけど、でも……」

 珍しく歯切れが悪い。

(気持ちはわからないでもないが、教会の外で立ち尽くしてるってのはさすがに不審者極まりない)

「しょうがないな、じゃあ、まずは扉の隙間から中の様子を窺ってみることにするよ」

「……う、うん、お願い、周平くん」

 期待半分、不安半分の眼差しをこちらに向け、小さく頷く。

 とりあえず、木で出来た両開きの正面扉をそっと開ける。

「…………」

 僅かに開いた箇所から中の様子を窺う。

(……おお……)

 目に映る光景と、鼓膜を震わす音声に息を飲んだ。

 天井の高い教会の中。まず飛び込んだのは、十数人はいると思われる信者の口々から紡がれる言葉だった。主とか神とかいう声が大音量で耳に届き、その一節一節が胸に刻まれる。

 教会の内装もまた、衝撃的だった。いかにも高級そうな濃い赤色の絨毯が、司祭と思しき人物の立つ祭壇まで一直線に伸び、その情熱的な色合いの絨毯が布かれた通路を挟んで、横に長い革張りの椅子が左右均等になるよう五つずつ並んでいる。

 圧巻だった。

 おれは声を失い、しばらく呆然と立ち尽くしていた。

「今は、ちょうど詩篇しへんを朗読している最中なのですよ」

「うわ!」

 背後から突然声を掛けられ、絶叫してしまう。

「これは失敬、驚かせてしまいましたかな」

 振り返って見れば、そこには背の小さな初老の人物が申し訳なさそうに立っていた。

「私はここの執事をしているものでしてね」

 全身を真っ白な衣服に身を包み、色鮮やかなスカーフ状の布を首から斜めに掛けた人物は、丁寧に頭を下げ、うやうやしく自己紹介を始める。

「執事?」

 そう聞いて第一に、豪勢な屋敷で仕える燕尾服えんびふくを着た男性の姿を思い浮かべる。

「おっとっと、重ね重ね失礼致しました」

 おれの当惑を読み取ったか、執事を自称するじーさんは再び頭を垂れる。

「ここはプロテスタント――特にバプテスト――系の教会堂なのでしてね、カトリック系だと、ミサや礼拝を行う、いわゆる司祭を補助する教役者のことを助祭じょさいと呼ぶのですが、ここでは執事がその役割を負うことになっているのですよ」

「へえ、そうなんですか」

 正直、わからなかった。

 まあ、説明を受けた今でも、プロテスタントとか、カトリックとか、違いがよくわからないのだが。

「……ところで、お二人はどちらから来なされた?」

 頭頂部を光らせる執事のじーさんは、人の良さそうに下げられた眉を八の字にして、まじまじとおれと鈴蘭を見比べる。

「えっと、この子は地元に住む女の子で、おれはその付き添いで来たって感じです」

「ほぅ、そうですか」

 こくこくと頷く鈴蘭をにこやかに眺め、執事のじーさんは息をつく。

「じつは、ここに来たのは友人の紹介でしてね。だから、こういった雰囲気には慣れていないんですよ」

「そうですか、しかし、何も気負う必要はありませんよ」

 おれの目を真っ直ぐに見詰める。

「ここに訪れる者は、皆、あなたの兄弟です。あなたを襲う狼はどこにもいません。神に悩みを打ち明け、許しを乞い、愛を求める子羊の群れがいるばかりです。何ひとつとして心配はいりません」

「はあ、なるほど」

 場所が場所だけに当然だが、あまりに丁重な言葉選びにちょっとだけ面食らう。

「なんか、すごく優しいおじさんだね」

 横の鈴蘭がそっと耳打ちしてくる。

 おれは彼女の意見に頷くことで同意を示した。 

「ところで……私の思い違いでなければいいのですが……」

 意識を前に戻せば、件のじーさんが仰々しい前置きを挟み、尋ねてくる。

「この教会堂を紹介したご友人というのは、ひょっとして、露木と言う青年じゃありませんか?」

 神妙な顔でそう尋ねられたものだから、おれは目を見開いた。

「驚いたな、執事さんの言う通りです」

 思わずうなった。

「おれたちは、露木の紹介で今日ここまで足を運んだんですよ」 

「やはり、そうでしたか」

 深いしわの刻まれた頬をより一層緩める。

「彼は有名なんですか?」

「ええ、露木くんは信者でもないのに、熱心に礼拝に参列してくれましてね。今も教会堂の中で詩篇を朗読していますよ」

「へえ、そりゃ確かにすごい」

「うん……、そうだね」

「本当に、不思議な青年ですよ、彼は」

 嬉しそうに目を細める。

「あの青年は孤児院の子たちにも慕われていましてね。誰に頼まれているわけでもないのに、率先して教会堂と孤児院の両方に赴き、様々な手伝いをなさってくれる。その傍ら、嫌な顔ひとつせずに主に奉仕する。今どきあのような青年はなかなかいません」

「それは……なんとなく、わかる気がします」

 ぶっきらぼうで、目つきも態度も悪く、常に機嫌の悪い猫みたいに不貞腐れた表情をしている露木だが、ああ見えて面倒見が良い。まだ知り合って一日しかたっていないが、それでも確信できる。

 そして、普段の甲斐甲斐しさに加えて医者の息子というお墨付きをもらっているのだから、周囲の――特に大人たちからの――信頼感は殊更に厚いことだろう。

(とんでもない男が、こんな田舎の片隅に眠っているとはな……)

 改めて思った。

 もっとも、奴もまた、高校卒業後はこんな寂れた町から離れ、都会の大学の医学部なりに進学して、故郷に錦を飾るのだろうが。

「そして、主に導かれし露木青年は、今日も兄弟を連れてきてくれた。彼には主の祝福が限り無く注がれることでしょう。――もちろん、あなた方にも」

 そう言って空中で十字を切り、手を合わせる。

「ありがとうございます」

 初めて見る独特の仕草に目が覚め、反射的に背筋が伸びる。

 執事のじーさんが取る一挙手一投足がいちいち礼儀正しいので、こちらも必然的に気が引き締まる思いだった。

「では、兄弟のお二方、礼拝に参加していきますか?」

 これまでの人生の中で一度も見たことのないような満面の笑みで尋ねる。

 だから、おれはかなり困惑した。

 そして、それは、隣にいる鈴蘭も同じだった。

「……どうする?」

「……どうしよっか?」

 二人して顔を見合わせる。

「……とりあえず、見学だけというのは可能ですか?」

 さすがに聖書だか何だかをいきなり朗読するのはハードルが高いので、見学で妥協しておく。

「もちろん、構いませんよ。戸を叩く音を聞き分けられる者すべての前に主は立っておられますから」

 執事のじーさんに先導され、中へと入る。

「わあぁ……」

 入って間もなく、教会堂の中を見た鈴蘭が歓声を上げる。

 無理もない。壁の両端に取り付けられた極彩色のステンドグラスから初夏の柔らかな日差しが射し込み、荘厳そうごんおもむきの礼拝堂を神秘的に彩っている。これで感動を覚えない人間はなかなかいないだろう。

「これから、兄弟皆で詩篇第二十三章を読み上げるところです」

 目を輝かせ、興味深く教会堂の内部を見やる鈴蘭の傍ら、執事のじーさんがにこやかに説明してくれる。

 おれは聖書とか一度も読んだことがないし、詩篇というのも全然知らないが、礼拝に参列している人が熱心にそれを読み上げているという事実だけは容易に推察できた。

 固唾を飲んで見守る。


『主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない』


 彼らはうたう。


『主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる』


 淀みのない声で。


『主はわたしの魂を生き返らせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる』


 綺麗な心で。


『たとえわたしは死の陰の谷を歩もうとも、災いを恐れません。あなたがわたし

と共におられるからです。あなたの鞭と、あなたの杖は、わたしを慰めます』


 まったくつかえることなく。


『あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油を注がれる。わたしの杯はあふれます』


 むしろ堂々としながら。


『わたしの生きている限りは必ず恵みと慈しみとが伴うでしょう――』


 誠心誠意、心を込めて。


『わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう――』 


 彼らはうたう。


 おれは、一糸の乱れもなく詩篇を朗読する人々の神妙かつ真摯な姿に耳を奪われ、目が釘付けとなった


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 詩篇の唱和が終わる頃を見計らい、おれと鈴蘭は一旦外に出た。

 驚きだったのは、礼拝に参列する人間のほとんどが、年端もいかないような少年少女だったことだ。

 おそらく、孤児院の子たちなのだろう。

(あの中に、露木もまじっていたのか?)

 遠目からではよくわからなかったが、執事のじーさんの言うことを信じるなら、今日も律儀に礼拝を行っていたはずだ。

(正直、神だの何だのってのは胡散臭いが……)

 今でも神を信じていないし、これからも信仰するつもりはない。

 それでも、何か心に引っ掛かるものがあった。

 なぜだろう?

 神とか、そういったいわゆる霊的なもの、神秘的なものを否定するたび、胸の奥がちくりと痛む。

(神……、神か)

 おれは、昔……。

 神様と呼ばれた存在に……。

「…………」

 思考が、濁流に飲まれかける。

 視界が明滅めいめつする。

 不意に、昨日の露木の目を思い出した。

 悲哀に満ち、怒りを露わにさせ、壮絶な野心に燃える瞳。

(何が、そこまで、奴を本気にさせるのだろうか?)

 おれは、あいつのような目をする人間を久々に見た。少なくとも、周囲のつまらない同級生や、父に隷従れいじゅうする月並みな大人たちの中では見たことがない。

(父と同じ目……、恐ろしい企てを講じる者の表情……)

 だからおれは不思議でたまらなかった。

 神とは、そこまで心血を注ぐ価値があるほどの存在なのかと。

(それとも、何か裏があるのだろうか? ――いや、そうに違いない)

 損得勘定抜きに動く人間をおれは知らない。

 なら、一見無意味に思える奴の行動にも、何かそうしなければならない秘密が隠されているはずだ。

(そうでないなら、なぜ、自分とはほとんど関係のない孤児院や教会堂にあれほど肩入れできるのか?)

 不可解だった。

 神と、神を信仰する彼らの思考回路が、まるで理解できなかった。

 なぜなら、おれは――。

「……どうしたの、周平くん?」

 鈴蘭がひょいと身を乗り出し、顔を覗きこんでくる。

「……」

 それより……。

 彼女の服装は、白いワンピース。

 前屈みになっているから、胸元が緩んで……。

(……これは目に毒、いや、目の保養か……?)

 適度に日焼けした素肌よりも白い部位が露わになり、咄嗟にそんなことを思う。

(……おれが見ないうちに、いつの間にか成長したもんだ)

 なんて、馬鹿なことを考えていた時だ。

「……来ていたんだな」

 教会堂から、見慣れた男が出て来る。鋭く伸びた鉤鼻に、不審者然とした三白眼、もじゃもじゃ頭がトレードマークの――。

「……よう、約束通り来てやったぜ」

 片手をあげて応える。

「あ、おはよう、露木くん」

 露木の存在に気付いた鈴蘭も顔を上げ、挨拶する。

「まさか、本当に来るとは思わなかった」

 立派な鼻っ面を掻きながら、目を逸らす。

「ご挨拶だな、そんなに信頼されてなかったのか?」

「……いや、そういうわけじゃないんだが」

 意地悪く笑ってやると、少し困ったようにして眉根を下げる。

 こういうところはわかりやすいんだが。

「まあ、いいや。まだ会って一日二日なんだから、信用されないのも無理はない」

 そう言うと、露木の強張った表情が少しだけ和らいだ。

「……悪いな、俺は昔からこういう性分なものでね」

「別に、気にしてねーよ。お前に悪気はないってことは知っている。なにせ、おれたちが部外者にもかかわらず、こうして礼拝に招待してくれたんだから」

「うん、そうそう、周平くんもいいこと言うね」

 二人がかりで言うと、さすがの露木も照れ臭そうに目を逸らし、頬を掻く。

 再び顔をおれたちの方に向け直した露木の表情には、もう、自分のそばに近付こうとする人間を威嚇するような刺々しさは消えていた。

「それで、どうだった――と、わざわざ聞くのは野暮だが、あえて感想を尋ねたい。……聞かせてもらえるだろうか?」

「ああ、構わないぜ。……なかなか、貴重な経験をさせてもらったよ。な、鈴蘭?」

「そうだね、なんか、こう、気持ちがシャキッてなるような、思わず気合いが入っちゃう気分だよ」

 そういって背筋をピンと正す鈴蘭。いつもの、少し気の抜けた姿と違い、顔付きも真面目なせいで、なんだか可笑しく見える。

「そうか、それなら俺も紹介した甲斐があるってもんだ」

 満更ではないと言いたげに目を細め、嬉しそうに口元を緩める。

(……本当に、この場所が好きなんだな)

 同時に、神と言う存在さえも、彼にとっては身近な存在に違いない。

(ますます、わからないな……)

 こいつみたいな頭の切れる男が、どうしてこんな寂びれた場所で、こんなことをしているのか。

(もっと、自分の得になることをすればいいのによ)

 それとも、やはり教会堂や孤児院でボランティアじみたことをするのが、こいつにとって一番有利に働くのだろうか?

(周囲にこびを売ることで得られる得点稼ぎか、はたまた、医者の息子であることをアピールするためか……)

 疑問は尽きない。

 おれは奴を見る。

 奴も、おれの視線に気付いたのか、おれを見る。

 まじまじと――眉をひそめながら。

 まるで、おれが誰かを詮索するように、その三白眼から覗く鋭い視線を向け続ける。

「…………」

 無言で睨み合う。

 お互いの思考を読み取ろうとするかのように、おれと露木はしばらく視線を交差させた。

「……なんだよ、露木、おれの顔に何かついてるのか?」

「……いや、気のせいだと思うんだが……」

 尚も向けられる疑い深そうな目つき。

「……見覚えがあるんだよ」

「なにが?」

「お前のことだ」

「へ?」

 目を点にする。

「子供の頃に、お前みたいな奴と話した記憶があるんだよ」

「まさか……」

 予想外の質問に驚くと同時に安堵し、小さく鼻で笑う。

「確かに、5年前までは、最低でも年に一度はこの町に来ていたが、親戚以外の人間と関わる機会はほとんどなかったぜ?」

 事実、おれが外に出られるタイミングは、蔵屋敷家の先祖が供養されている大天山近くの墓所に墓参りに行く時ぐらいに限られていた。

(周りの大人はみんな厳しかったからな……、あまり自由な行動はさせて貰えなかった)

 まあ、こんな手付かずの自然ばかりの田舎に子供を放り出していたら、命がいくつあっても足りないだろう。田んぼの端には水路がひかれているし、林や森の近くには野犬もうろついている。都会に負けず劣らず危険な場所であることは誰の目からも明らかだ。その危険性を充分承知している大人たちは、おれを不用意に外に出すことはなかった。

(だから、おれはこの孤児院に来たこともなければ、鈴蘭以外の同年代の子と会ったこともない)

 そのはずだ。そうでなければならない。

 自分に強く言い聞かせる。

(というか、ガキの頃に露木みたいな変わった奴と幼少期に会っていたら、絶対に忘れない自信がある)

 それくらい、こいつは強烈な個性と特徴的な容姿の持ち主だった。

「……まあ、ひょっとしたら、どこかで会っているのかもしれないな」

 そう締めくくって、おれはこの話を打ち切った。

「ギンちゃ~ん、どこいっちゃったの~?」

 間延びした声をあげながら、教会堂から出て来る少女がひとり。

 頭の中の疑問は、次に浮かんだ別の疑問に上書きされた。

「あ~、ここにいた~」

 扉のすぐそばにいる露木を見つけ、今にも泣き出しそうな面持ちから一転、少女の表情は満面の笑みに変わる。

(誰だ、この子は?)

 ふわふわっとした、少々巻き毛気味の髪質が目を引く、背の低い、色白の少女。露木の足に引っ付き、離れようとしない。

「わー、かわいいー!」

 どことなく小動物を連想させる少女の仕草に胸を鷲掴みにされたか、鈴蘭が黄色い声をあげる。

「その子は、孤児院の子か?」

 足下にまとわりつく少女を扱いかね、困った表情を浮かべる露木に尋ねる。

「……ああ、こいつは……」

「ね~、ギンちゃん。この人たち、だ~れ?」

 露木が言う前に、少女の方が先に疑問を呈した。まだまだあどけなさが色濃く残る不思議そうな顔で、露木の陰からおれたちに向けて指をさす。

 年齢的に10歳前後と思われる少女。髪は長いが、癖毛なのか端っこでカールしているため、若干セミロングに近い。茶系の地味な色合いの質素なワンピースタイプの衣服に身を包んだ少女はお転婆なのか、その服のところどころには何度か補修された跡がある。目元は人懐っこそうに垂れ気味で、少し丸い鼻と合わせて、少女仕草から来る仔犬っぽさを殊更に強調するようだ。

「ああ、この人たちはお客さんだ」

「お客さん?」

 平時からは想像もできない温和な態度で少女の疑問に答える。

(しかし、ほんと見た目に似合わず世話焼きだな)

 おれや、部室のメンバーとの間では絶対に見せない柔和な笑顔を浮かべる露木を目の当たりにして、まざまざと実感する。

「…………」

「……ん?」

 不意に、視線に気付く。

 見れば、例の少女が、おれの方をジーッと見詰めていた。

 年端もいかないであろうあどけない少女の、無垢な目つき。

 なんだか無性にむず痒い。

(笑顔、笑顔っと)

 第一印象でその人の印象は決まるので、なるだけ愛想笑いを浮かべておく。

「……このひと、わるいひと?」

 おれの努力の甲斐もむなしく、少女は逆に不安げに露木を見上げた。

(おいおい、そりゃねーぜ)

 少なくとも、そこにいる露木よりは百倍人相がいいっつーの。

「どうかな……、ゆきみはどう思う?」

 おれの邪推かどうかは知らないが、頼みの露木は笑いをこらえるようにしながら少女に質問を返す始末である。

(いやいや、そこは否定しておけよ)

 人の気も知らずに薄笑いの露木を前に苛立ちが募って仕方ない。

「……このひと、こわい……」

 とどめとばかりにそう言って露木の服の裾を掴み、ささっと後ろに隠れてしまう。

(えええぇーーーー!)

 せっかく最高の作り笑いを浮かべていたのに、この言いぐさかよ!

(子供の感性ってのはよくわからんな……)

 微妙にショックだった。

「ありゃりゃ、嫌われちゃったのかな?」

 鈴蘭は鈴蘭で、ぷっと噴き出す有様だ。その上、痛々しい同情的な視線を寄越してくるし。

(ったく、せっかく教会堂まで来たってのに、この扱いかよ)

 納得いかなかった。

「それじゃ、ゆきみ。俺はこの人たちとお話があるから、ゆきみは十兵衛たちとでも遊んでろ」

「ええ~、ゆきみ、ギンちゃんと一緒がいい~」

「こら、あんまりわがまま言うと、神様が怒るぞ?」

「……うん、わかったよ」

 露木に窘められ、仔犬みたいにしゅんと項垂れる少女。

(ほんと、子供の扱いに慣れてるな)

 人間、何が得意かなんてのはわからないもんだ。

(おれもまた、意味なく子供に嫌われる特技を持っているとは、夢にも思わなかったがな)

 あるいは、おれの本性を見破られたか。

「ギンちゃん、早く戻ってきてね? そしたら、ゆきみといっしょに遊ぼうね?」

 道中、何度も振り返りながら、ゆきみと呼ばれた少女は、危なっかしい足取りで孤児院の方に走っていった。

「……しかし、珍しいな」

 ゆきみの姿が完全に見えなくなった時を見計らい、露木はまじまじとおれを見詰める。

「何がだ?」

「いや……、そこまで大したことじゃないんだが」

 少女が見えなくなった時を見計らい、こちらに向き直った露木は真顔で言う。

「ゆきみは確かに人見知りする性格だが、あそこまで他人を怖がることなんて滅多にない……はずなんだ」

「……それにしては、お前にぞっこんだったようだが?」

「……その件については別に弁明するつもりはないが、とにかく、ゆきみのあんな態度はあんまり見たことがない。それこそ――」

 そこまで言って、途端に口をつぐむ。

「なんだよ、気になるじゃねーか」

 肝心な部分で黙ってしまうものだから、たまらず続きをせがむ。

「いや……、気を悪くさせたら申し訳ないんだが……」

「もったいぶってないで、さっさと言えって」

 焦らされるのは嫌いなので、とっとと白状するよう急かすと、やがて露木は覚悟を決めたようにおれを真っ直ぐ見据える。

「……ゆきみが、露骨に人を怖がるのは、お前と……、あの、明星くらいのものなんだよ」

「…………」

 さすがに閉口せざるを得なかった。

(おれが、あのお山の大将と同レベルだと?)

 心外だ。このおれが、あんな権力の権化と同列に見られるとは。

(いや――)

 しかし、すぐに思い直す。

(あながち、間違いではないかもしれないな)

 おれは、自分の成すべき役割を自覚し、ほくそ笑む。

「なかなか、面白いことを言ってくれるじゃないか」

 冗談めかして言う。

「……ゆきみも、悪気はないんだよ」

 おれの浮かべた表情があまりにも痛々しかったせいか、バツが悪そうに露木は断る。

「ただ、あの子は人一倍感受性が強くてな。人の内面と言うか、内に秘めた考えを過敏に読み取れるみたいなんだよ」

 露木はそう言うが、おれは全然信じちゃいなかった。

(人の心が読める、ねえ……)

「……って、それっておれが本当は極悪人って言っているようなもんじゃねーか」

 今、気付いた。

(露木のヤロー、気の利いた言葉をかけるどころか、まったくフォローになってねーじゃねーか)

「いや、まあ、なんだ。昔から、子供は素直だって言うじゃないか」

「だから、傷口に塩を塗りたくるような真似はやめろって!」

「ふふ、なんだか楽しそうだね、周平くん」

「お前も呑気に笑ってないで、少しはおれに気を遣えよ!」

「わかってるよー、周平くんは全然悪い人じゃないってことは、ねー?」

 無邪気に笑って露木を見る。

「……俺も、そこが不可解なんだよ。見たところ、お前はそれほど悪い奴には思えないんだが……」

 疑い深そうな三白眼が、鋭くおれを捉える。

「そりゃ、好き好んで悪人になる奴はいないだろうよ」

 奴の視線があまりに真剣なので、茶化す意味を込めて軽口を叩く。

「確かにねー、周平くんってちょっと意地悪なところもあるけど、すごく優しいのに」

「ははは、改めて言われるとなんか照れるな……」

 鈴蘭のフォローが本心かどうかは怪しいにせよ、あからさまな二人の称賛を受けて苦々しく笑う反面、おれはあの少女について思うところがあった。

(それにしても、不思議な子だったな)

 色々な意味で。

(真偽のほどは微妙だが、あの少女の無垢な眼差しは、人の本質を突くってことか……)

 実際、おれが本当はこの町に何をしに来ているのか、あの少女は直感しているのかもしれない。

 だとすれば、おれの今後の行動に影響が出る可能性も否定できないが……。

(なんにせよ、子供にできることなんて何ひとつとしてないか)

 たとえあの子が何かを嗅ぎ付け、周囲の大人に訴えかけたとしても、所詮は子供の言うことだと一蹴されることだろう。

(外面が良いのは、おれの長所だからな……)

 現に、懐疑主義的な露木も、未だにおれの正体を見抜けていないようだ。

 転入初日に、明星というお山の大将を撃退できたのも大きい。あれでおれの株がうなぎ上りだった。

(本当のところは、あの少女がいみじくも言ったように、奴と似た者同士なのかもしれないが……)

 とりあえず、当面は何も気にしなくてもよさそうだ。

 予定通り、自分のやるべきことを進めて行こう。

 話はそれからだ。

「……それにしても、本当に今日はよく来てくれたな」

 改めて露木が言う。

「ふ、露木よ、お前もまだまだ信心が足りないようだな。友人の言葉がそんなに信用できないか?」

 あえて悪ぶってみせると、露木はたちまち慌てだした。

「いや、そんなつもりはなかったんだが……」

「はは、冗談だよ。おれも鈴蘭の付き添いだからな。彼女がいなければ、ここにこうして足を運ぶことはなかっただろうさ」

「そう言われちゃうと、わたしだって、周平くんと一緒じゃなかったら、とても来る勇気がなかったし……、お互い様だよ」

 功績を譲り合うおれと鈴蘭のやり取りを見て、露木は口元を緩める。

「……お前も、なかなか甲斐性だな」

「まさか、露木ほどじゃねえよ」

 ふっと笑う。

「聞いたぜ、お前、昔からここで色々とやっているらしいじゃねーか」

「……誰がそんなことを……」

「ここの執事をやってるってじーさんからだ。褒めてたぜ、お前のことを」

「……喜多八きたはちさんか」

 露木の奴は思い当たる節があるようで、短く溜め息をつく。

 そして、鋭い視線をおれに向ける。

「話を蒸し返すようですまないが、お前たちと会う直前、その喜多八さんと話してな。……お前たち二人が、俺の紹介を受けてわざわざ教会堂まで足を運んだと」

「ああ、それで?」

「じつを言うと、にわかには信じられなかった。他の人間は、明星みたいに横暴ではないにせよ、こういった施設や孤児たちに対して無関心なことがあまりにも多いからだ」

「そうなのか?」

 鈴蘭の方を見ると、彼女は少し気まずそうに目を逸らした。

 その反応を確認してから、露木は再び口を開く。

「この町の人はな、地元に住む人間以外には厳しいんだよ。特に、異教徒の人間を嫌う傾向にある。住人のほとんどが仏教徒だということもあり、彼らに対する風当たりの強さは筆舌ひつぜつに尽くしがたい」

「なるほどね……」

 もっとも、元来、村社会と言うのは自分たちの生活圏を守るため、よそ者を排除する傾向にあるから、この件に関しては何とも言えない。

 それに、あくまでも現時点での話だが、町人も、おれに対してはあまり手ひどい仕打ちを与えているようには思えない。

(……蔵屋敷の擁護ようごがあるからか?)

 おれの疑問を目敏く察したか、露木はさらに続ける。

「多分、頭の良いお前なら百も承知のことだろう。確かに、部外者を嫌悪するというのは、このような田舎ならどこにでもある、ありふれた話だ。……問題は、このあとなんだよ」

 いやに神妙な顔付きでこぼす。

「? どういうことだ?」

 随分ともったいつけた言い方に興味が先行し、反射的に聞き返す。

 しかし、質問の答えが返って来ることはなかった。

「――あら、珍しいわね。銀治郎くんが同年代の子と連れ添ってるなんて」

 礼拝が終わったのか、子供たちがぞろぞろと教会堂から出払う中、全身黒の修道服を着たひとりの女性が歩み寄る。

(それにしても、今日は、いろんな人と出会うな……)

 しかも、その全員が露木の関係する人物と来たもんだ。

 老若男女、性別年齢問わず、皆が露木を知り、慕っている。そんな感じがする。

(こいつは、本当に、人に好かれているんだな……)

 田舎における人脈の横の繋がりに面食らいつつ、現実に目を向け直す。

「ひょっとして、銀治郎くんのお友達?」

「……どうも、シスター。お疲れ様です」

 いかにも修道女という出で立ちの女性に対し、露木は真面目くさった顔付きで軽く会釈する。

「ええっと、あなたは、どうも初めまして、だよね?」

 シスターと呼ばれた女性は、人の良さが滲み出る柔和な態度でおれに笑いかける。

「こいつは、学校の同級生なんだよ」

 おれの代わりに露木が答えた。

「もっとも、そこの男……風祭は、つい先日、都会からこっちに越してきたばかりなんだが」

「え、そうなの? どうりで、ここら辺の子にしては品があると言うか、垢抜けた感じがすると思ったわ」

 本心か、お世辞か、シスターは驚きに目を見開いておれを凝視する。

 年齢は20代か、もしくは30代前半ぐらいか。肌の露出の少ない修道服に加えてケープを羽織り、頭部はヴェールで覆われているので、なかなか身体的特徴が把握しづらい。

 だが、目元と、緩やかな弧を描く口元が、彼女の柔和な性質を代弁してくれる。

「んで、こいつの隣にいるのが、地元に住んでいるって言う……」

「あ、初めまして! 蔵屋敷鈴蘭って言います。家は農業を営んでて、わたしも手伝ったりしてます。隣の周平くんとはいとこ同士で、今は一緒に住んでます」

「あら、それってつまり、同棲ってことかしら?」

 茶目っ気たっぷりにウィンクし、悪戯っぽく微笑みかける。

「え、ち、違いますよ! わたしたちは親戚同士ってだけで、そんなやましい関係では……!」

 まさかシスターの口から、冗談まじりのからかいの言葉が飛んでくるとは思わなかったのだろう、鈴蘭は顔を真っ赤に紅潮させ、慌てて否定する。

 というか、なんで年長者はこの手の話ばかりなんですかね……。

「ふふ、初々しいわね。なんだか私まで甘酸っぱい気分になっちゃう。これが青春の味って奴なのかしら」

 頬に手を当て、うっとりと露木と鈴蘭を眺めていたシスターが、教役者にあるまじきとんでもないことを言い出す。

「シスターともあろう人が、そんなうわついたこと言っていいんですか?」

 当然ながら、露木が即座に苦言を呈す。

 しかし、当のシスターは露木のツッコミなど物ともせず、むしろ胸を張って開き直る始末だった。

「いいのよ、個人を尊重するのがバプテストのいいところなんだから。固いことは言いっこなしなし」

 ほほほ、と上品に笑う。

「それに私も周りから『シスター』なんて呼ばれているけど、本職は孤児院の職員。こんな見た目だから、どうしてもシスターに思われちゃう。しかもバプテストに修道女シスターっていう役職がないのだから、二重の意味で間違っているのよね」

「それはそうなんですが、身も蓋もないようなことを言わないでくださいよ」

 軽口を叩き合う両者。

 この様子からも、二人は古くからの付き合いだということがわかる。

(ほんと、人間関係の幅が広いもんだ)

 その点は感心する。

「あ、そうそう、肝心なことを忘れていたわ」

 和やかな雰囲気の中、シスターは何か思い立ったようにポンと手を叩く。

 そして、おれの方に向き直った。

「私の自己紹介がまだだったわね。私はあおい。ここの孤児院の職員をやらせてもらっているわ。聞いての通り、みんなからは『シスター』って呼ばれているの。きみたちも、気兼ねなくそう呼んでね」

 おれと鈴蘭を見比べ、笑顔で会釈する。

「だからというわけじゃないけど、こうして教会堂のお手伝いもしているの。ここだけの話、人手が足りないからね」

 そう言って悪戯っぽくウィンクする様は、やはり、とてもシスターには思えぬ仕草だった。

(まあ、本職じゃないなら当然か)

 あまり、他人を色眼鏡越しに見るのはよそう。彼女は彼女であり、生まれながらの聖職者ではない。そう思うのは勝手だが、それはやはり偏見というものだ。

「ところで、シスター。何か俺に用でもあるんですか?」

 ひと通り話が済んだところで、露木が尋ねる。

 シスターは首を横に振った。

「あ、ううん、別にそういうわけじゃないのよ。礼拝も終わったし、後片付けは呂久郎ろくろうくんにも手伝ってもらうし」

「……そうですか。なら、いいんですが」

 大きく息を吐く。

「明星の野郎も、少しは兄を見習ってくれればいいものを……」

 ここではない遠くを見詰め、舌打ちする。

「……仕方ないわよ、皆、それぞれ、事情があるんだから」

「……そうは言ってもですね……」

「だいじょうぶよ、何も、心配いらないわ。だから、銀治郎くんはお友達と仲良くね?」

 大人の余裕たっぷりに、ちょっとからかうような口調で言う。

「……仲良くと言っても、今はあまりそういう場合じゃないんですけどね」

 反面、露木は相変わらず不愛想に答える。

「ただでさえ大変な時期だというのに、面倒事が増えては困りますからね」

「悪かったな……」

 たまらず悪態をつく。

「あらあら、本当に仲が良いわね」

 口元に手を当て、おれと露木のやり取りを茶化すシスター。上品そうな素振りだが、やっていることは随分と子供じみていた。

「……本当に、よかったわね」

 突然、しみじみとつぶやく。

「……何がです?」

 今までの明るい感じから打って変わった神妙な表情と口調に疑問を抱いたのか、怪訝けげんそうに露木は問う。

 シスターはゆっくりと目をつむり、手と手を合わせて静かに祈り始める。

「ここがなくなる前に、教会堂のちゃんとした姿を見せられて……」

「……………………」

 あまりに、あまりに突然なことに、声が出なかった。

 おそらく、それは鈴蘭も同じだっただろう。唖然としたように口を半開きにし、驚きに満ちた表情で硬直している。

(ここが、なくなる?)

 一瞬、何を言っているかわからなかったが、本当にそれは一瞬だけだった。

 なぜ? という疑問に代わり鎌首をもたげるのは、孤児院に辿り着く道中や、その近辺に置かれた立札の存在だ。

 そして、昨日、明星が去り際に吐いた捨て台詞が克明に蘇る。

『すべてはすでに決まったことだ、今さらどう喚いたって事実が覆されるわけはねえ。そんな小憎らしい正義感など、クソの役にも立たねえ。むしろ、てめえの弱さをいたずらに強調するだけだとな』

 そうだった。

 教会堂は、孤児院は、田んぼや畑、周囲の自然は――もうじきなくなる。

 なぜなら、この区域一帯には、新しい空港と、道路が……。

「……………………」 

 どれだけの時間が過ぎたのか。

 体感的には永遠に感じられたが、時間にして僅か数秒もなかった。

(まったく、情けない……)

 今さらショックを受ける自分がいかにも偽善的で、腹立たしかった。

「――おい、シスター!」

 覆せない現実に直面し、途方に暮れていると、孤児院の方からシスターを呼ぶ声が届く。

「なにしてんだよ、みんな待ってるんだぞ!」

 どうやら、孤児院の子たちがシスターを呼んでいるようだ。何人かの孤児たちが、少しむくれた表情で立ち尽くしているのが目に入る。

「ああ、ごめん、ごめん! すぐ行くから!」

 シスターは慌てて弁解し、そして、おれたちの方に向き直る。

「……というわけだから、ごめん! 銀治郎くん、周平くん、鈴蘭ちゃん、今日のところはこれで、ね」

「ああ、それは別に構わないですけど……」

 孤児院と教会堂がなくなるという事実が尾を引き、おれも鈴蘭もなんと言っていいかわからず、呆然と露木とシスターを見る。

「……二人に、神のご加護があらんことを」

 静かにそう告げると、シスターは裾の長い修道服を翻し、孤児院の方に駆けて行った。

 徐々に遠ざかっていくその後ろ姿を、やはり傍観するしかない。

 歯痒かった。

 同時に、こんな感情を抱いている自分がいることに驚きもした。

「おい、露木!」

 広場が静寂に包まれようとする中、またしても誰かの声が響く。

 見れば、教会堂の陰に隠れた位置から、半袖短パンの、いかにも腕白そうな少年が、大声で露木の名を呼んでいた。

「なんだよ、十兵衛、そんなところで……、早くお前もみんなと一緒に――」

 十兵衛と言うらしい少年に、露木が声をかけた――その時だった。

「……ぼくは、信じていないからな!」

「あ、なんだって?」

「――神様なんて、この世界にはいないんだからな!」

「……!」

 少年の、悲痛な訴えが、この教会堂を前にしてひどく重たくのしかかる。

 神は、いない。

 そんな当然のことが、なんだかとても残酷な響きに聞こえた。

「……十兵衛」

 駆け足で教会堂から去る少年の背を見送り、沈痛な面持ちで露木はつぶやく。

 彼の目は、悲しい色で濡れていた。


 …………………………。


 ……………………。


 ………………。


 ……それから。

 おれたちの間に流れる気まずい空気を払拭できず、そのまま教会堂と孤児院をあとにした。

 帰り際、改めて孤児院の周りに立てられた立札と、空き地に掲げられた看板を見やる。

『新国際空港建設予定地』。何の情緒もない無機質な文字が、木製のそれにでかでかと書かれている。

 ……瀬無せない感情がふつふつと沸き立っては、泡沫うたかたのように消えていった。

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