第三話 仮入部
「――ようこそ、我らが文芸部へ!」
露木の案内で校舎の中を確認したあと、例の文芸部に足を運んだ矢先にこれだった。
扉を開けると、入口のすぐそばで待ち構えていたのは、えへんと腕組みして仁王立ちする天宮琴音。文芸部の副部長だと言う、
「約束通り、入部を決めてくれたのね」
虫も殺さぬ笑顔で言う。
「まあ、一応、中だけは見ておこうと思ってね」
ここですっぽかして嫌味を言われても目覚めが悪いし。
天宮は、そんなおれの思惑など露も知らずに尚も笑っている。
「改めて自己紹介するわね。あたしは天宮琴音。アンタと同じ、3年A組よ。一応、この文芸部の副部長ってことになってるわ」
ドンと胸を叩き、自信満々に言う。
「好きな作家は
目をキラキラと輝かせ、熱っぽく語る姿は、好奇心旺盛そうな彼女の性格をよく表していた。
(なんつーか、イメージ通りだな)
惜しげもなく自分を表現する天宮を前に、深くそう思う。
「では、あたしの紹介も終わったところで……」
彼女のつり上がった瞳が、おれを捉える。
瞬間、おれは身の危険を覚えた。
「さ、そんなところに突っ立ってないで、中に入った入った!」
「ちょ、引っ張るなって……」
天宮の奴は有無を言わさず腕を掴むと、ぐいぐいと自分の方に引き寄せる。
(く、なんつー力だ……)
振りほどこうにも体勢が悪くてうまく力が入らない。
「ほらほら、遠慮はいらないわよ!」
繁華街のポン引きよろしく、容赦なく部室の奥までおれを連れ込もうとする。
(ていうか、露木もぼんやりとしてないで、この女の暴走を止めろよ!)
全てを悟ったかのような遠い目でおれと天宮のやり取りを静観する露木を恨めしく思いながら、蟻地獄に囚われた蟻のごとく部室内に吸い込まれていく。
「ほら、みんな! 待望の新入部員が来たわよ!」
そのままおれを強制連行した天宮は、部室内のメンバーに声をかける。
(だから、まだ入部するかどうかは決めてないってのに……)
気が早いと言うか、なんと言うか……。
そんなおれの無言の抗議は、文字通り黙殺された。
「さ、そこの席に座って」
誘われるがままに席に着く。
天井に『文芸部新入部員歓迎』の垂れ幕が下がっているのが、何とも威圧的だ。
この時には、もう、おれはすっかり抵抗を諦め、自らの身に訪れた悲しき運命を受け入れていた。
「じゃ、まずはタクちゃんからね」
「……ああ」
窓際の席に着き、今まで本を読んでいた女子生徒が気だるげにおれを見る。
黒の頭髪を肩口で綺麗に切り揃えた古風な外見。程良く日焼けした小麦色の肌が、文学よりむしろ運動部が似合うんじゃないかと
「私は
物静かな印象を受ける東は、言葉少なにそれだけ言うと、さっさと読書の続きに戻る。
「タクちゃんはね、家が
口数の少ない東に代わって、天宮が補足する。
(なるほど、こいつが……)
彼女の言葉で、おれは得心した。
「特に、この地にまつわる伝承、伝説とかの知識量に関しては、タクちゃんの右に出る者はいないんだから」
「へえ、それは凄い」
感心する素振りを見せる。
最初、名前を聞いた時、もしやと思ったが……。
(これは、随分と都合がいい。わざわざ探す手間が
おれはにやりとほくそ笑む。
東家と言えば、おれの下宿する蔵屋敷家とは同格の名家だ。山村地区を治めるのが東家、田園地区を治めるのが蔵屋敷と言えばわかりやすい。
(となると、この東からは色々と情報を聞き出せるかもしれないな……)
この土地にまつわる因縁や、地域独特の習わしなど、な。
おれは東の出方を窺う。
当の東は、黙して紙面に視線を這わすのみ。
「博識なタクちゃんなら、特待生のあんたにも引けを取らないんじゃないかしらね」
自慢げにふふんと鼻を鳴らし、後ろの東を一瞥する。
「……別に、私は、ばっちゃまから聞いた御先祖様の話を覚えているだけにすぎない」
普段から褒められ慣れているのか、天宮からの称賛を淡々と受け流す。
それにしても、浮かべた仏頂面からまったく表情を変えないのはさすがだ。
「またまた、謙遜しちゃって。『ばっちゃまから聞いた話を覚えているだけ』って、もう! それがすでに凄いことだってのにさ!」
東の口真似をしながら、天宮はからからと笑う。
(しかし、騒がしい奴だな……)
あますことなく感情をさらけ出す天宮を前に、一種の感動すら覚える。
おれはすでに、天宮主導の部室の雰囲気に飲まれかけていた。
「それじゃ、次は、サッちゃんね」
「ええ、わかりました」
東の反対側に座る高貴そうな女子生徒が、天宮の仲介を受けて返事する。
「わたしは浅間咲江、1年A組に所属しています」
腰まで伸ばした黒の長髪、色白の肌、品のある顔付きと穏やかな表情。
思わず、姿勢を正す。
「わたしが好きな本は、……色々とありますが、最近は、あるお方の影響で、キリスト教文学に興味を持っています。ですので、この前、初めて『あゝ無情』を拝読させていただいた時、わたし、いたく感銘を受けまして。……あ、そうそう、まだわたしは1年なので、風祭さんは先輩ということになりますね」
深窓の令嬢という形容がぴったりな浅間は、両手両足をピッタリと揃えた行儀のよい姿勢のまま、にこりと微笑んで自己紹介を終える。
「風祭先輩も、何か、おすすめの本がありましたら、ぜひわたしに教えてくださいな」
そう言って可愛らしく小首を傾けるものだから、さすがのおれも少々当惑した。
「あ、そうそう、ひとつ言い忘れていたけど」
返す言葉を探していたら、突如、天宮がしゃしゃり出た。
彼女も、別に、意図して助け舟を出したわけでもないだろうが、おれとしては願ってもないことだった。
地獄に仏とばかりに彼女の話に耳を傾ける。
「サッちゃんには、タッちゃんっていうお兄さんがいるのよ。しかも、同じ我が文芸部のメンバーなの」
「へえ」
東の時と同様、軽い説明を加える天宮。なんと言うかもう、注釈家そこのけである。
「とはいっても、今はあいにくこの場にいないんだけどね」
「なんだ、体調でも悪いのか?」
「ううん、そういうわけじゃなくて、たっちゃん、あまり部活に参加したがらないのよ。まあ、いわゆる幽霊部員みたいなものね」
あははと屈託なく笑う。
「いずれ顔を見せたら、改めて紹介するわ」
「この場にいない兄共々、よろしくお願いしますね」
「ああ、よろしく」
浅間がにこりと笑いかけるのに合わせて、おれも笑みを繕う。
それにしても、この町には表情豊かな人間が多いな。色々な意味で個性的な面々が揃っている。
(やはり、多種多様な自然に溢れた土地柄、そこで育った人間も多くの影響を受けるのだろうか?)
だとすれば、これからおれたちがやろうとしていることは……。
不意に父の顔が思い浮かぶ。
(……皮肉なもんだな)
そこまで考えて、おれは思考を打ち切った。
「じゃあ、お次はギンジね」
待ってましたとばかりに、おれの背後に立つ露木に視線を送る天宮。心なし、今までよりずっと悪戯っぽい笑みを浮かべているのは、気のせいだろうか。
「……おれも、こいつに自己紹介しなきゃならんのか?」
苦虫を噛み潰したような顔。あからさまな拒否感と難色を示し、天宮に問い返す。
「当たり前でしょ、あんたも文芸部の一員なんだから」
さも当然のように言う。
だが、その程度の屁理屈で引き下がる露木ではなかった。
「別に、わざわざそんなことしなくてもよくないか? どうやら、こいつも入部する気はなさそうだしよ」
冷静沈着な露木は、ひとり、懐疑的な視線で現状を分析していた。
確かに露木の言う通り、おれは文芸部に入部する気などさらさらない。あくまでも社交辞令として付き合っているだけだ。
少なくとも、当初はそのつもりだった。
「まったく、浅はかね……」
天宮はやれやれと肩をすくめ、露木の抗議を一蹴する。
「それはギンジの勝手な思い込みよ、単なる主観に過ぎないわ。シューヘイは今にもあたしたちの仲間になりたくてたまらないはずよ。これから共に青春の1ページを刻みたくて、うずうずしているんだわ」
(いや、それはない)
あまりに見当違いな憶測に対しツッコミを入れざるを得ない。自分にとって都合の良いように考える彼女の方こそ、完全に主観のみで物事を見ている証拠だった。
「……っち、浅はかなのはどっちだ」
平等な知見から物を言う露木は、彼女の独りよがりな見方が気に入らないと言わんばかりに舌打ちする。
その露木の態度が気に障ったのか、天宮は見る間に顔をしかめた。
「なによ、なにか文句あるわけ?」
「そりゃ、そうだろ。逆に、何もないと思っているなら、大した厚顔っぷりだよ」
「むむぅ……!」
露木の放つ痛烈な皮肉がよほど効果的だったか、顔を怒りで真っ赤にする。彼女の整った容姿も台無しだ。
「ははは、相変わらず、お二人は仲がよろしいですね」
横から、この場を茶化す歓声が上がる。
振り返れば、そこには、細身で背の高い男子生徒がロッカーを背に立っていた。しかも、文芸部にもかかわらずなぜか白衣を羽織っている。
「なんだ、
今になって初めて彼の存在に気が付いたように露木が声をあげる。
「心外ですね、僕は最初からずっといましたよ、ただ、ひと言も声を発していないだけで」
「それじゃ、わからないだろうが……」
呆れ果てたように溜め息をつく。
「僕が言いたいのは、そういうことですよ」
見た目には頭が良さそうな細目の生徒は、学ランの上に羽織った白衣をキザにたなびかせながら、ここぞとばかりにカッと目を見開いた。
「は? 何が?」
呆気に取られる露木。
無論、おれの方も、どういうわけか白衣を着込んだ奇抜な格好の男子生徒を前に開いた口が塞がらない。
部室に居合わす全員が、芥川と呼ばれた生徒を白い目で見ていた。
「存在は、どうしたら存在できるのか? そもそも僕は存在するのか?」
「……は?」
「僕は常日頃から、そればかり考えていました。病める時も、健やかなる時も、夜も満足に眠れないほどに考えに考え抜いて、
「お前の場合、元からひょろひょろだろうが……。んで、それが、どうしたって言うんだ?」
「要するに、誰かが存在を認識しなければ、存在は存在として存在できないと、そう、確信を抱き始めたということですよ」
「…………」
しーんと辺りが静まり返る。
さきほどまでの喧騒が嘘みたいだ。
(なんだ、こいつ……)
急にわけがわからないことを口走り始めたぞ?
「存在を、存在として、存在させる……。それこそまさしくコギト・エルゴ・スム……」
額を押さえた妙なポーズと共に、これまた変な言葉を口走る。
はっきり言ってドン引きだった。
(これは、あまり関わっちゃいけない類の人間だな……)
今まで存在感を殺していたと思いきや、突然、自己主張が激しくなった男子生徒から距離を置くよう、半歩、後ずさる。
「それはさておき、自己紹介が遅れましたね」
この場にあって一際背の高い男子生徒は、そう断っておれの方に向き直る。
人当たりの良さそうな
糸のように細い切れ長の目で、おれを不敵に見下ろす……。
「僕は芥川……、
「え、お前、文芸部なの?」
思わず問い返し、改めて芥川の容姿を眺めやる。
学ランの上に白衣という、明らかに場違いな格好。どこからどう見ても科学部の出で立ちだ。そうとしか言いようがない。
だからこそ、おれは、文芸部の部室に科学部の部員が紛れていると考えていた。
しかし、その予想はあっけなく裏切られた。
「固定概念ですね。何も、白衣を着ている人間すべてが理系だとは限りませんよ」
おれの懐疑的な視線から言わんとするものを察したのか、勝ち誇ったように微笑を浮かべる。
「まあ、確かにそうだろうが……」
それにしたって、白衣はどうかと思うぞ?
「始まったな、芥川の謎理論が……。まったく、困った奴だ」
露木の口から溜め息が漏れる。
おれも思わず頭を抱えたくなった。
「僕はですねえ、『○○なら○○だろう』とか、そうしたラベリングというのが大嫌いなんですよ。それは対象事象を固定化させます。あたかもそれ以外の可能性など存在しないかのように、事物を融解不能なまでに凝固させてしまう。しかし、そんな企みは傲慢です。愚行以外の何物でもありません。たとえばそう、あるひとりの旅人がいると仮定して、その旅人の進行方向の先に、大きな岩がそびえているとします。旅人は立ち止まり、しばし考え込みます。せっかく来た道を引き返し、迂回すべきか否かを。確かに、旅人にとってその岩は、小憎らしい障害物。腹立たしいアクシデントです。ただし、邪魔物の岩も見方によっては、踏ん張ってよじ登ることや、背中を預けられる休憩場所、あるいは地質学や鉱物学の研究対象にさえなります。岩は岩の可能性を超越します。このように、物の捉え方は千差万別、個々人によって自由に変貌します。ゆえに、僕はこんな格好をしているわけです。人間の認識の可能性を証明するために」
「はあ……」
自然と溜め息が漏れる。
彼のこだわりは、少し、というか、かなり、わかりかねた。
「それはさておき、文芸部のしきたりに則って自己紹介するなら、僕の好きな本はイマヌエル・カントの『純粋理性批判』ですかね。まあ、純粋理性批判のみならず、カントの三大批判書は僕のバイブルと言っても過言ではありません。ちなみに、フリードリヒ・ニーチェの書籍も同様に好きですね。おすすめは、『善悪の彼岸』です。そして、彼が生涯にわたって影響を受け続けたアルトゥル・ショーペンハウアーの『意志と現識としての世界』もまた、同様におすすめできます。これはなぜかと言いますと……」
そのままの勢いに任せ、誰も聞いていないのに勝手に語り出す芥川という生徒。もはや完全に自分の世界に浸っているようだ。
「例えばですよ、カントやショーペンハウアーに言わせると、僕と言う存在――人間――は、確かに現実に存在してはいますが、しかし単なる現象に過ぎないのだと。すなわち、人間とは、
「……聞いての通り、こいつは、西洋哲学に
ぺらぺらと
「だから、あまりこいつに関わらない方がいいぞ。結構長い付き合いのこの俺でも、奴が何を考えているかさっぱりわからん。亡霊のように不気味な奴だからな……」
「おやおや、聞き捨てならないですね」
奴は地獄耳なのか。ちっちっちと、キザな仕草で人差し指を振るい、笑顔のままで話に割り込む。
「あなたが、風祭周平くんですか?」
ジロジロと、値踏みするような目つき。
なぜだか、無性に嫌な気分になった。
「ああ、そうだ。おれは風祭周平。あんたも知っての通り、今日、この学校に編入して来たばかりだ」
「ほう……」
小さく嘆息を漏らす。
「……ふぅむ」
意味深なつぶやき。
「……なるほど」
一体、何が気になるのか、芥川は尚もおれの顔をジッと見据える。
「…………」
奴の鋭い視線が突き刺さる。
まるで、おれの中に隠された秘密を探り出し、暴こうとしているかのような、そんな、不快な詮索に近いものを感じずにはいられなかった。
「あなたが噂の……誉れ高い特待生というやつですね?」
「誉れ高いかどうかはよくわからないが、とりあえず、そういうことになっている」
「ふむ……」
顎に指を当て、何事か思案するような仕草をする。
奴の次なる発言に備え、おれは思わず身構えた。
「ひとつ、お尋ねしたいのですが」
「いいぜ、何でも聞いてくれ」
「あなたは、考えたことはありますか?」
「……何を?」
「自分の存在について、ですよ」
「…………」
「例えば、こんな思考実験があります。なに、あまり深く考えず、そういう考えもあるのだと、そう軽く捉えてください。あくまでも実験ですからね。一種のパズルみたいなものですよ……、よろしいですか? よろしいですね?」
矢継ぎ早に確認を取るや否や、一方的に話を続ける。
「さて、話を本題に戻しましょう。岸辺に一隻の船がありました。その船はだいぶ古い物でしたので、非常に大掛かりな修理が必要でした。工匠たちは船を直すために修理を開始しました。古くなった部品を換え、老朽化した個所も別の木材で補います。そうするうち、船を構築する全ての部品が新品の物と交換されました。ボロボロに朽ちた船は、すっかり新品同様に生まれ変わりました。その船を見た、とある哲学者は問いました。『元の船の全ての部品を取り換えて、このように船を直したとしても、果たして、その船は、以前の船と同一であると言えるのか?』と」
「………………」
「人間で置き換えると、この問題はどうなるでしょうか。例えるなら、次のようなものになるでしょう。……あるひとりの老人が
「………………」
「物自体として現れる彼と、現象として現れる彼。肉体と精神。意志と現識。本質と実存。即自存在と対自存在。この問題は、次のように発展させることもできるでしょう。すなわち、その人の肉体が同一でも、意識が、記憶がごっそり違えば……、それは、果たして、同一人物と言えるのか? と……。あるいは、その逆もまた、しかり……」
「………………」
芥川の奴は執拗に問いかけるが、おれは考えるのを放棄した。奴の哲学的な問いに答える意義はもちろん、価値もまた、見出せなかったからだ。
奴はパズルと言ったが、あれは嘘だ。この問いには明確な答えが存在しない。人の数だけ正答と誤答が存在するからだ。
つまり、真剣に悩めば悩むだけ損だと、そういうことだ。
「……相変わらず、わけのわからんことを考えているようだな、お前は」
そのことを、皆もよくわかっているのだろう。露木は半ば呆れたように溜め息をつきながら、芥川の禅問答じみた言動を
「ほんとよ。まあ、確かに、リョーイチがそういったことを尋ねたくなるのもわからなくもないけど、せっかくの新入部員を困らせないでよね」
「ええ、申し訳ありません。皆さんもご存知の通り、これが僕の悪い癖でしてね。その人が普段どのような考えをしているのか、ついつい試したくなってしまう。それが、天才だと持てはやされているような人間なら、なおさら。本当、自分でも困った性分だとつくづく思っていますよ」
口で言う割には全然反省している様子が見受けられない。むしろ、その
(まったく、食えない男だな)
芥川伶一。果たして彼はふざけているのか、大真面目なのか。口元に貼り付けた薄笑いからは、その真意が図りかねる。
「存在を、存在として、存在させる。それが私の選択です。コギト・エルゴ・スム……」
ぶつくさと謎のつぶやきを残し、またも妙なポーズを取る芥川。思ったよりもこいつは重症なのかもしれない。
(やっぱり、深く関わり合いにならない方がよさそうだ)
改めそう感じたた。
「なにはともあれ、これからよろしくお願いしますよ、風祭周平くん」
「……ああ、よろしく」
突如として繰り広げられた腹の探り合いは、痛み分けという形で一旦収束した。
「ちなみにですねえ、そこにいる露木は、ことさらに西洋文学がお気に召していましてね」
おもむろに露木に目をやるや否や、彼へのあてつけのように話題の矛先を移す。
「要するに、西洋哲学を好む僕と感性が似通っているということです。彼は僕を西洋かぶれの狂人と
「おい、よせ……」
「おやおや、別によいじゃありませんか。それともなんですか、自分のことは棚に上げて、他人の
「別に、そういうわけじゃ……」
「そうよ、リョーイチの言う通りよ」
ここぞとばかりに天宮が賛同する。
「新入部員相手に遠慮なんかする必要ないわ、ギンジもリョーイチと同じように、新人くんに挨拶なさいな」
エヘンとふんぞり返り、腕組みする天宮。猫のようにつり上がった瞳が、獲物を追い詰めた獣のごとく輝く。
これは、彼女なりの仕返しなのだろう。さきほど、露木に上手く丸め込まれた時に対する、容赦のない報復……。
(結局、おれも新入部員扱いに戻ってるし)
女ってのは、恐ろしい。
心底、そう思った。
「っち、あとで覚えてろよ……」
そんな天宮を、露木は憎々しげに睨み付ける。
だが、それも長くは続かなかった。
「わかったよ、仕方ねえな……」
嫌々ながらも承諾する。
ここまで見てきてわかったが、この露木、口と態度は悪いが、案外、良い奴だ。
「…………」
露木は、改めてこちらに向き直る。物事を斜めに構える三白眼が、おれを捉える。
「今さら言うまでもないと思うが、俺は露木……。露木銀治郎だ。芥川の野郎が暴露したように、俺が好むのは西洋文学。特に、ミルトンの『失楽園』、ダンテの『神曲』辺りは文学界屈指の芸術だと思っている。あくまでも個人的な見解だがな」
「へえ……」
思わずうなった。
奴の嗜好が、あまりにも予想外のものだったからだ。
なんというか、見た目や言動の粗暴さに似合わず、いやに
てっきり、ヒトラーの『我が闘争』とか、マルクスの『資本論』辺りが愛読書かと思ったが……。
「……お前、今、意外だと思っただろ?」
僅かな沈黙を戸惑いと受け取ったか、露木に考えを見透かされる。
だが、おれは至って平静を装う。
「どうして、そう思うんだ?」
「……っち」
図星をつかれたからか、苦々しく顔を歪ませる。
「明星に因縁ふっかけられた時もそうだったが、口の減らん奴だな……」
「それがおれの長所なもんでね」
「……ふ」
参ったとばかりに口元を緩める露木。やれやれとばかりに苦笑する奴からは、もう、敵意は消えていた。
「あとは、後輩の
露木を言いくるめて上機嫌になった天宮が、机の端の席に着いていた男子生徒に話を振る。
「初めまして、ぼくは高井戸淳、1年生です」
周りの生徒と比べてひと回りほど小さい、いがぐり頭の男子生徒は、そう言って小さく頭を下げた。
「ぼくは柳田国男の『遠野物語』が好きなんですよ」
いかにも田舎の少年らしい純朴そうな男子生徒は明るく笑う。
「そうそう、だから、アッちゃんは、タクちゃんに憧れて文芸部に来たのよね」
「ええ、そうなんです。東先輩はこの地にまつわる民話に精通しているものですから、ぼくもその恩恵に与ろうかと……」
「ほう、なるほど」
皆、色々と考えているんだなあ。
(しかし、尾前町に伝わる伝承ねぇ……)
ひとつ、思うことがあった。
「そういえば……」
おれは、昨日から気になっていたことを、この際だからと尋ねようとした。
「この町に長くいるきみたちなら、聞いたことがあるかもしれないけど……」
「? なんですか」
「……『イイヅナ様』って、知ってるか?」
「――え?」
尋ねた瞬間、一斉に皆がおれの方に振り向いた。
しかも、真顔で。
和気あいあいとした空気は一気に様変わりする。
「……どこで、その話を聞いた?」
皆が無機質な表情を作って硬直する中、東が、心なし厳しめに問い返す。
「いや……、それは……」
思わず口ごもる。
おれは、これまで賑やかだった部室の雰囲気が一気に冷え込んだのを見て、驚きを隠すことができなかった。
「町の人が、『イイヅナ様』って言っているのを聞いて、それで……」
「……そうか」
それだけを言うと、東は再び読書に戻る。
他のメンバーも、何事もなかったかのように元の鞘に収まった。
(やっぱり、か……)
突如として見せた部員たちのよそよそしく素っ気ない態度に、おれは不信感を募らせる。
じつは、似たようなことが、昨夜もあった。
それは、おれが蔵屋敷家の夕食に同伴させてもらった時のことだ。
…………………………。
……………………。
………………。
蔵屋敷家に住む者全員(兄を除く)が一堂に会した居間。
やれ赤飯やら、やれ御馳走やらで周りがいやに騒がしい中、おれはここに辿り着くまでの経緯を皆に語った。駅から歩いてきたはいいが、道に迷ったこと、そこで軽トラに乗ったおっさんが通りがかり、道を案内してもらったこと。そして鈴蘭と無事に合流し、ここまで辿り着けたこと。
『ほー、そいつはおそらく、南条のとこのせがれだろうよ。あいつは昔から気前がいいからな』
シャツに腹巻、そしてステテコという、随分とラフな格好の与一じーさんが快活に笑う。
『あら、でもおじいちゃん。南条さんって、今、腰を悪くされて畑仕事ができない状態なんじゃありませんでしたっけ?』
『んー? そうだったか? ……まあ、細かいことはええ! こうして無事に周ちゃんが町に戻ってきたんじゃ! それで充分じゃないか!』
酒が入って上機嫌のじーさんは、豪快に笑って言った。
だが、おれにはどうしても解せないことがあった。
『おじいさん、ひとつ、よろしいですか』
『なんじゃ? 遠慮なく言うてみ』
『イイヅナ様って、なんでしょうか?』
『――あ?』
このひと言で、あれだけ賑やかだった周りが、まるで水を打ったかのように静まり返る。
『……誰から、その話を聞いた?』
与一のじーさんが、低い声で尋ね返す。その声には、なんとしても真実を問いただすという圧巻の響きがあった。
『いえ、その、おじいさんの言う、南条って人から……』
誤魔化しがきかないと即座に悟り、ありのままを答えると、じーさんは忌々しげに虚空を睨んだ。
『あいつめ、余計なことを……』
なんだか恐ろしくなった。
『……いえ、その、『イイヅナ様』というのは一体……』
質問を言い切る前に、じーさんの目が再びおれを見る。
『周ちゃんは気にすんな。それより、今日は栄養取ってぐっすり休むことだ。いいな?』
有無を言わさぬ目力と、否定を許さない言葉の圧。
『まあ、それはそうですよね』
これ以上追及するとロクな目に遭わないだろうと、ピリピリと張り詰めた空気の中で直感したおれは、すぐさま引き下がる。
『なにはともあれ、今日はめでてえ日だ。周ちゃんがこうして来てくれた上に、鈴蘭のボオイフレンドっちゅう奴になってくれたんだからな』
ニカッと、無邪気な笑顔。
『だから、違うってば~』
再三、この話題でからかわれ、苦笑いの鈴蘭。
この時には、もう、元の和やかな空気に戻っていた。
『鈴蘭は昔からやんちゃな子でなぁ、まだハイハイしていた頃なんか、勢い余って
『あらー、懐かしい、そんなこともあったわねー』
『お母さんまで、やめてってばー』
野口英世の伝記を彷彿させる逸話で盛り上がる。
『それにしても、ひ孫の顔を見るのが今から楽しみじゃわい』
かっかっかと、歯並びの悪い口を豪快に開けながら大笑い。
『も~、おじいちゃんたらー……』
顔を赤くしながら否定する鈴蘭が、どこか満更でもないふうに見えたのは、おれの気のせいだろう。
しかし、気のせいでは済まされないことが、ひとつだけある。
『イイヅナ様』のことを尋ねた際に見せた、じーさんの表情。あれは、今までおれに見せたことのないような恐ろしい形相だった。
魚のようにギョロッとした目と、真一文字に固く結ばれた口元。
あれは、危険だ。
覚えがある。
あの形相は、人を殺したことのある人間がする顔だ。昔、父が見せた顔と一緒だ……。
(やはり、地元の有力者は違うね……)
おれの父も恐ろしい男だが、それに勝るとも劣らない狂気を感じ、背筋が震える。
その晩の夕食は、とても生きた心地がしなかった――。
…………………………。
……………………。
………………。
――『イイヅナ様』と名付けられた謎の存在。いわゆる土着信仰の産物と思しき神の類。
釈然としない。
なぜ、与一のじーさんを始め、町の連中は、『イイヅナ様』について尋ねると眉をひそめるのか? 逆に、なぜ、南条とかいうおっさんは、無警戒にその名を語ったのか?
(確か、彼の話では、旅人を歓迎するとのことだったが……)
これもまた、彼らの態度と矛盾していないか? 本当に『イイヅナ様』とやらが俺みたいな人間に寛容だと言うなら、別にそのことについて何か話してくれてもよさそうなものだ。
それとも、部外者には『イイヅナ様』の詳細を語ってはならないという不文律や戒めでもあるのだろうか?
(……まあ、いいか)
疑問は尽きないが、確証のないことを延々と考察しても仕方がない。
別に、おれも、ずっとこの町に滞在するわけでもないし。
(あまり余計なことは考えないようにしよう)
頭を切り替えていく。
あまり過去を引きずらないのがおれの長所だ。
「なあ、ところで、部活動ってのは、具体的には何をするんだ?」
いい加減、腹をくくったので、文芸部の活動内容について尋ねる。
「んー? そうね、普段は図書室や家から本を持ち寄って感想を言い合ったり、読書感想文を書いたりしてるわね。んで、それを顧問のツワブキに見てもらうのよ」
「ツワブキって、おれのクラスの担任か?」
「そ。んで、時間があれば、皆で小説やら詩やら書いて、それを皆で共有するわけ。意見交換、感想、講評、何でもござれ! 互いに
「へー、意外と本格的なんだな」
「とはいっても、もうすぐ期末試験だから、あまり部活動に割く時間はないんだけどね」
「なるほど……」
期末試験までは、大体、2週間ちょっとか。
(いや、テスト勉強期間を入れれば、十日もないんじゃないか?)
もっとも、おれは特待生なので、特別に期末試験は免除されているのだが。
「だから、それまでに、文芸部の部員全員が小説をしたため、匿名で提出するって決まりになってるの。ジャンルは自由! ページ制限もなし! そして、完成した作品を皆で回し読みして、それぞれ投票する! 最終的に、一番得票の多い作品が、文芸部ひいては瀬津高校第一分校を代表して文芸誌に投稿されるというわけ! これが我が文芸部の最終目的よ!」
「へえ、それは面白そうだ」
「んふふ、でしょでしょ~? 誰かさんと違って話がわかってるじゃない~」
「……おい」
すかさず露木が突っ込むが、天宮はまったく気にも留めない。
「もちろん、シューヘイ、あなたにも小説を書いてもらうわ。期末試験が始まるまでの7月16日までにね」
「え、おれも?!」
寝耳に水の話に思わず驚愕する。
「当然でしょ、同じ文芸部のメンバーなんだから。今さら特別扱いはできないわよ」
「ちょっと待てよ、おれは小説なんて書いたことないぞ?」
「だいじょうぶよ! 数ページの短編でも、起承転結さえあれば認可するから! 文芸誌も、短編の賞を公募してるし! 何なら俳句や短歌でもいいから!」
「……そうは言ってもなあ」
あまり気が進まない。
おれには、他にやるべきことがあるからだ。
それも、とても重要なことが。
「……一応、考えておくよ」
そう言うと、天宮の奴にあからさまな溜め息をつかれた。
「歯切れが悪いわねー、もうちょっと意気込み見せるとかさ、何とかならないの?」
「前向きに善処いたします」
「こらこら、あんたは政治家か? むしろさっきより信憑性が下がってるわよ!」
「えー、じゃあ、どうしろってんだよ」
「もちろん、『全身全霊、すべてを賭して机に向かい、作品を仕上げる所存であります』とか、色々と言いようはあるでしょ」
「それじゃ、小説を書くこと前提じゃねーか!」
「なによー、悪いっての?」
「まあまあ、いいじゃありませんか」
コントじみたことをやっていると、芥川が仲裁に入る。
「副部長、新入部員に対して強制はあまりよろしくないかと。ここは、穏便に話を進めようじゃありませんか。柔よく剛を制すとも言いますし」
「ふふ、まるでイソップ童話の『北風と太陽』のようですね」
深窓の令嬢然とした咲江が、上品にくすくすと笑う。
「でも、あながち間違ってはないと思います。わたしも、最初は童話の『シンデレラ』から入りましたし」
(それはそれで……、どうなんだ?)
おれのフォローに入ってくれた咲江にツッコミを入れたくなる。
「風祭さんも、こうしてわたしたちと話したり、様々な本を読んでいるうちに、きっと、自然と作品を作りたくなるはずですよ。現に、わたしがそうでしたから」
下級生の女子生徒にこうまで言われて、男として引き下がるわけにはいかない。
「……まあ、気が向けば」
とりあえず、検討しておく素振りを見せる。
時間さえあれば、別に、小説を書こうが詩を書こうがやぶさかではない。
(もちろん、本業をおろそかにしない範囲でだが)
話が上手くまとまったところで、天宮の方を見る。
彼女はおれの曖昧な返事に少々不服そうにしているが、やがて、仕方がないとばかりに小さく頷いた。
「……ま、いいでしょ。とりあえず、無理強いはしないって方針で。シューヘイもそれでいいわね?」
「そうだな、特に異論はない」
「でも、部員になった以上、顔見せくらいはすること! わかった?」
「ああ、それくらいなら構わない」
何にせよ、自由にやれるに越したことはない。
「じゃ、改めて入部届にサインして貰うわ。……ギンジ!」
「あ? 今度は何だよ……」
「ちょっと、そこの引き出しにある入部届取って!」
「……ったく、仕方ねーな」
悪態をつきながらも従順に従う露木。もはや男としての
(こいつも、良い具合に尻に敷かれているな)
殊勝に入部届を手渡す露木を見て、思う。
(あんなふうに調教……もとい、教育されないよう、おれも気を付けないとな)
こうして、おれの新しい学校生活は始まった。
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