勇気


「好きだ。」


 今言わなければ、晴生は離れてしまうと思ったら、言葉が一気にあふれ出た。


「思考が女子高生みたいになる。自分で気持ち悪い。汗だくのまま抱きしめて欲しいって思ってたんだ今日も。ずっとこの狭い部屋で離れないで欲しいって。分かってんだ。西瓜のことも気を遣わせてるのも、好かれてるって図に乗って、逃げてるだけなんだ俺はいつもそう。成長しない。でも、男で歳も一回りも違うんだぞ、周りにどう思われるかって不安で。最悪だ。自分のことしか考えてない。

もっと自由に楽しく恋愛できる相手なんか、いくらでもお前にはいるんだよ。俺の歳になる頃には子どももできて、良い父親になって奥さんもきっと可愛くて。

女でも男でもすぐ見つかるし、俺なんかといるよりずっと良いその方が……

お前に俺じゃもったいなさすぎる。」


 後半は声が震え上ずり、痛々しく響いた。沸々ふつふつと小さかった泡が、沸点に達し、ぼこぼこと暴れ回るみたいに、蓄積された感情が支離滅裂に飛び出して、止めることができなかった。俺は言い切ると壁を向いて寝転がった。

テレビはついているが、全部聞こえていたはずだ。晴生は俺が話している間、こちらを一切振り向かなかった。大きな背中が何を思っているのか。服を着た方がいいのに、と壁を見つめながら、わずかに残った理性的な頭が働いた。




********************

晴生と付き合うようになって、昔のことをふと思い出すことがたまにある。


元妻が違う男と暮らしだした知らせは嘘偽りなく嬉しかった。俺が離職した理由は離婚のショックからだ、と友人達は思っているがそれは厳密には違う。かなり落ち込んだ時期もあったが、それは彼女のせいではなく、自分自身の不甲斐なさとやるせなさからだった。

彼女がいなくなり、仕事を辞めよう、と決めるまではすぐだった。稼いでいるとおごっていた自分へのいましめの意味もあったと思う。

引き継ぎをしている間にどんどん痩せこけていったため、上司、部下共にかなり心配をかけた。上司から休職の案も出たが、丁重に断った。

誰かのために稼ぐという目的が消え失せ、働く気さえ起きなかった。食欲、性欲共に無く、強くないのに酒を昼夜問わず流し込み、引き籠もった。

彼女は俺が仕事を辞めたことを知ったらしく、共通の友人に離婚したことを周知していたらしい。

幸いそのおかげで、心配した彼らが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。

そこからはトントン拍子にことが進んだ。

友人が知り合いの不動産屋を紹介してくれて、手続きは全て任せた。ローンが残っていたマンションは購入時より地価が上がっていたため、売却して小金も手に入った。忌々しかった装飾品も売却できるものを選別し、買い取り業者が勝手に持って行った。

その不動産屋の繋がりから、賃貸で借りる部屋を探したが見つからず、結局今の寂れたワンルームに決めた。誰かとまた付き合うことも二度とないだろう、と考え、男一人慎ましく暮らせるだけの部屋で良かった。

駅から少し歩く距離、築年数が経っているところ、少し寂しそうなアパートが俺にはちょうどよく映った。彼女が絶対に選ばない物件。

転職に関しても、同時進行で友人が紹介してくれた。自分で探していたら絶対見つからなかったであろう好条件での転職で、面接もぐだぐだだった記憶しかないが、採用が決まった。

かなり人に恵まれていたと思う。上り坂あれば下り坂あり、とその頃には少し楽観的になっていた。

 それと同時に、結婚して子どもがいる友人達が俺とは違う次元を生きている違う生き物のように感じた。同じ環境、同じコミュニティに属していたはずなのに。

彼らが俺に憐れみの視線を投げつけるので、劣等感を感じずにはいられなかった。

種なしだということまでもしかしたら知れ渡っていたのかもしれない。そのことに触れず、俺の世話をしてくれたことは有り難かった。引っ越し後も何度か連絡を取り合ったが、各々家族の行事に忙しいのだろう、徐々に連絡も途絶えていった。


離婚、家を売る、転職と全て自身のことなのに、まるで他人事のように進んだ。俺の意思は介入していない。唯一決めたのがこの部屋だ。廃れた、誰も呼べない、呼びたくない俺一人だけの狭い空間。



晴生についても、最初は流された。知り合った若い男がやたら懐いてくるので、可愛らしく思った。営業課長という仕事柄か、若い子の仕事の悩みや相談を聞くことには長けていた。疎まれるより懐かれる方が仕事もスムーズに進む。そんな考えが染みついていたことと、多分人恋しかったのもあった。その時はその延長に恋愛があるとは露ほども思っていなかった。

でも最終地点は変わらない、廃れた俺一人の未来だ。それは離婚した時から決めていたことだ。男一人慎ましく暮らしていく、それが俺の人生だ。


俺は晴生を元妻と重ねているのかもしれない。

彼女の時のようにはしてはいけない。晴生の時間を俺で無駄にさせたくない。

晴生には幸せになって欲しい、それが俺ではない誰かとであっても。

太陽のように眩しい笑顔で荒んでいた心を癒やし、人の体温が心地良いことを教えてくれた。それだけで十分だ。そう思わないといけない。深入りするな、と俺の理性がずっと叫んでいる。

あともう少しだけ、心地良い太陽の光を浴びていたい、と俺の本能は訴えかける。真夏のギラギラと照りつける太陽で、イカロスのように死んでしまっても構わない。最期は結局一人になるのだから、もうズブズブに落ちてしまっているんだから、落ちるとこまで落ちたらいいんだ。


***************************



 テレビを消して、換気扇をつけたようだった。古いそれはゴーーーと音を立てだし、張り詰めた空気の静かな空間ではちょうど緩和剤になった。晴生がベッドに腰掛けたのが分かる。俺はまだ興奮が冷めておらず、アドレナリンが分泌して体中熱かった。思考が回らない。



「途中で止めて悪かったよ。多分大丈夫だから、晴生がいいなら…」


 こんな台詞を吐いている自分に反吐が出る。さっきそのまま流されれば良かった、と後悔していた。この貧相な体でもつなぎ止められるなら、とよこしまな考えを抱いた。

 脳が思考を放棄し、衝動的で自棄になっていた。みっともなくても、まだもう少しだけ、今日だけでも縋りたい。


 晴生の言ったの意味。違う、と叫んだがそういうことだった。俺は晴生と一緒なら飯を食べるだけでも、何も話さず同じ空間にいれば満たされていたが、晴生は俺とは違う。若い男と付き合っていて、繋ぎ止めたいならするべきことは男の俺にはよく分かっていた。


 勢いで起き上がり、振り向いた。顔を直視することはできない。整った裸体に自然と手が伸びた。二の腕は少しひんやりとしていた。

 

 ゆっくり顔を近づけ、桜色の唇だけを見つめ目を瞑り、キスをした。体を少し寄せ、首に腕を回した。自分から晴生にキスをしたのは初めてだった。

キスに良い思い出がない。自分から誰かにキスしたのをもう思い出せない。

どんな風にしていたかも分からなくなった。拒絶されたらどうしよう、と考えがぎったが、もう止まれない。唇を少し離し、

「好きなんだ」

 ほとんど聞き取れない吐息で言った。

 晴生の反応は何もない。もう一度目の前にあるきれいな形の唇に、自分のものを押しつけキュッと目を閉じた。口を少し開き、舌先を少し出し、晴生の上唇をそっと舐め、目を少しだけ開くと、濁りのないまっすぐな瞳に見つめられていた。

 急に悪い大人が好青年に悪事を働いているような後ろめたさを感じ、舌をすぐに引っ込めた。

 唇が離れた瞬間、晴生の温かい手が両頬を包み、俺の上唇を甘噛みした。熱を帯びた大蛇のような舌が入り込んで上顎を舐めとった。

「あ」

 と吐息が漏れ、幸福感に支配された。入り込んだ熱に自分のものを絡ませ、回した腕を締めた。離れないでくれ。まだ棄てないで、と深くなるキスに応えながら切に願った。

優しく押し倒され、晴生の手がそろりとシャツをめくり脇腹に触れた時、動きが止まった。唇がぱっと離れ、目が合った。澄んでいた瞳がギラリと光り、呼吸が荒くなっていた。

「これ以上したら、止まらんやつです。ちょっと待って。」

 晴生に腕を引かれ、体勢を起こされた。

 晴生は思い出したようにTシャツを掴み、立ち上がりそれを着た。そのまましてくれ、と心で呟いたが言う勇気はもう出なかった。

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