支那大突破作戦(後)

第八話 中華民国の興亡

 俗称支那。正式名称「中華民国」は1912年1月1日に、革命家の孫文を臨時大総統として、中国大陸を中心とする中国を代表する国家として誕生した。

 その後、満洲事変を契機に大日本帝国(日本)の後援により、愛新覚羅溥儀あいしんかくら ふぎを皇帝として東北部に満洲国が建国され、さらに1937年に起きた盧溝橋事件を契機として、中華民国は日本との全面戦争状態に入った。

 これに対抗して日本軍は、国民党の反蒋介石派であった汪兆銘を大統領とした新たな国民政府である汪兆銘政権を樹立する。その後、西安事件で第二次国共合作が成立し、1941年12月に日本とイギリス・アメリカ合衆国などとの間で戦争が始まり、英米と友好関係にある中華民国は連合国の中の主要国として枢軸国と対峙したのだ。しかし大日本帝国の大陸打通作戦、福健包囲戦、華北大攻勢と連立した大規模攻勢によって中華民国軍は疲弊しきっていた。日本にも引けを取らぬ大軍も今となっては地図上にいるだけの存在。存在しているのは重慶やその他都市部に駐屯している師団のみ。前線を張っているのは米英仏豪新西加などの義勇軍だった。


 「対支那戦争勝利」という目標の下一致挙兵し、熱烈士気が天を打つ日本軍は山岳や都市に籠城する連合軍を騎兵砲兵歩兵戦車兵全てにおいて綿密に計画された作戦と大和魂という名の精神論と馬鹿力で強引に撃破し殲滅。攻勢開始から二週間で臨時首都の重慶をも占領し占領した同日中華民国は降伏宣言を出し、大日本帝国に降伏した。


 その後、下関にて日中戦争の戦後処理がなされた。広大な中国大陸は日本統治下におかれた政権である汪兆銘を大統領とした「中国国民党政府(中華民国汪兆銘政権)」を樹立。各地域にいた中国共産党の毛沢東、西北三馬しーぺいさんま馬 歩芳ば ほほう広西軍閥こうざいぐんばつ李宗仁り そうじんなど各地の軍閥幹部は中華民国に対する反逆罪とみなし逮捕、すぐさま処刑された。蒋介石やその他要人も裁判にかけられ死刑に処される予定であったがあくまで蒋介石政権から汪兆銘政権に移行したという建前の維持のため処罰が下されることはなかった。そして中華民国に支援をしていた東トルキスタンは日本とのこれ以上の対立を避けるために共産党幹部のすべてを粛正。そして中華民国(汪兆銘政権)に編入された。

 汪兆銘政権では主に三つのことが決定された。

・満洲国、蒙古国(蒙古聯合自治邦政府)の正式な国家承認をすること

・中華民国は金銭的な賠償以外に中華民国沿岸部を99年「帝国大陸通商地域」として租借することとする

・北京周辺は北京特区とし、直接的な日本の統治を可能にすること

以上の内容で第二次下関条約は締結された。


1937年から約7年も続いた泥沼の戦争、日中戦争は蓋を開けてみれば日本が大逆転。日本の圧勝で幕を閉じた。

そしてこれにて1944年の日本の攻勢は一旦、終了となった。

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