第9話 回顧はいつも退屈

 日曜日、朝の六時。

 ステージ上のDJブースに、ようやくバズが姿を現した。

 客数は減るどころか、ますます増えているようだ。

 モイラはムネチカの手をひいて、壁際へと誘った。

「お疲れさま」そういって渡されたのは、見覚えのある、小さく折られた紙だった。

 ひらいていくと、雪のように真っ白な粉末が出てきた。

 ムネチカはギョっと目を開き、あわてて庇うようにして隠した。

 モイラが子どものように笑った。

「ここじゃだれも気にしないよ」

 そう言ってストローを手渡す。某有名カフェの緑色のストローを半分に切ったものらしい。

「今夜あたしたちが売りさばいた魔法の粉さ」モイラが言った。


 ステージ上では、バズがヘッドホンを片耳にあて、小気味よくレコードを回している。

「ためしてみなよ。ぜったい変わるから」

「変わる、ってなにが?」

「キミとあたしが生きている世界」モイラの瞳が射抜くようにムネチカをみつめた。

「キミはどこか特別な感じがする。あたしにはわかる。キミは世界を変えたくてこの国に来た」

 ムネチカは思わず口をつぐんだ。


(ぼくは特別なんかじゃない)


 日本の学校が合わなかった、と言えば聞こえはいいけれど。

 第一志望の高校に落ちたのだ。

 その程度のことが人生を狂わすこともある。

 すべり止めの高校へ通ってはみたものの、どうしても違和感が拭えなかった。

いや、劣等感か。

 入学してすぐに学校を休むようになり、登校拒否がつづいた。

 ろくに勉強もせずにニート同然の暮らし。

 昼夜が逆転し、ただ時間を消費するだけの日々。

 どんどん自分の存在が腐っていく気がした。

 将来が不安で、仕方がなかった。

 そんな自分が嫌いだった。

 思い切って、精神科にも通ってみた。

 しかし、期待していたような効果はなく、逆に状況はもっと悪化した。

 ムネチカは、病院の待合室で腕に肌色の縞模様のある少女と出会った。

 少女はイヤホンで音楽を聴いていた。

「どんな音楽聴いてるんですか」そう声をかけたのはムネチカだった。

 意外にも、彼女が聴いていたのは、とても陽気な音楽だった。いわゆる地下アイドル系と呼ばれるジャンルの音楽で、歌詞の内容はよく聴き取れなかったが、汗が弾けるような、降り注ぐ太陽の光を思わせるようなメロディだった。

 彼女の腕にある縞模様がリストカット痕であることはすぐにわかった。

 心がざわついた。ムネチカは病院の帰り道でカミソリを購入して、部屋に戻るなり、左腕を四センチほど切ってみた。

 刺すような痛みが数秒つづき、皮膚の下から赤黒い液体が溢れ出した。

 忘れかけていた感覚。「生きている」という実感が蘇ってきた。

 表面を切っただけでは血はすぐに止まる。たとえ手首の血管を切ったとしても簡単には死ねないことも知っていた。

 死を目的としない自傷行為はつづき、傷跡は瞬く間に増え、ムネチカの腕もすぐに少女のような縞模様になった。 


 その年の秋。

 同居していた祖母が亡くなった。


 祖母は、食事のマナーにはうるさかったが、登校拒否のときも、リストカット痕がバレたときも、ひと言も説教をしなかった。  

 寛容とかそういう類のものではなく、単にムネチカの頭の中が理解できなかっただけなのだろう。

 だからといって、全くの無関心ではなかったようで、その証拠に、祖母はムネチカに遺産をわけてくれていた。

 そして十七歳の冬、ムネチカはその金をもとに、海外留学をしたい、と両親に申し出た。

 予想に反して、彼らは反対しなかった。

 学校にも病院にも適応できない息子を、持て余していたのかもしれない。

 

 目の前にあるこの白い粉を吸い込んだところで世界なんて変えられっこない。でも、何もせずに生きるのはもうたくさんだった。

「怖い?」モイラがこちらを覗き込んでいる。

「ううん」と首を横に振り、ムネチカは天を仰いだ。そしてゆっくりとうつむくと、真っ白なラインを鼻から吸い込んだ。

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