第1話 琉夏と「なっちゃん」
おばあちゃんの家についたらまず、お仏壇にご挨拶。広い縁側をまっすぐ行くと客間があり、その隣の部屋が私と母が過ごす部屋だ。もともとは嫁に出る前の母の部屋で、本棚と勉強机はそのままになっている。
海野琉夏、というのが私の名前で、母は旧姓桜田。私はここにいる一か月の間だけ、『桜田さんのとこの孫娘』になる。母の故郷であるここ御崎町は、大きな山と川と田んぼしかない田舎だ。隣の家は全然隣じゃないし、近くのスーパーは車でしか行けない距離にある。この町で毎年夏を超えていて、小学生になったばかりの私は初めて一か月もの間、一人でおばあちゃんの家で過ごすことになった。
大きい虫がたくさん出る田舎だけど、なぜか網戸はなくて日中はずっと開けっ放しになっている窓には、ひっくり返ったセミがいた。ひゃっと悲鳴をあげて母に抱き着く。
「暑いんだからくっつかないで。琉夏、宿題は持ってきたの?」
「もちろん!一年生だもん」
自分の体くらいあるリュックを開けて見せた。計算ドリルと国語の教科書、一行日記、読書感想文の原稿用紙、絵日記用の画用紙。おおえらいねぇなんて頭をぐりぐり撫でられた。
荷物を置いたらおばあちゃんがいる台所に連れていかれる。
「いらっしゃい琉夏。律子あんたまた痩せたんじゃないの?ちゃんと食べてる?」
「お母さんもね。最近暑くて琉夏も全然食べてくれないのよ。毎日そうめん茹でてるわ」
台所にならぶ二人の背中を見ているとなんだかうれしくて笑ってしまう。自分の身長よりすこし低い机の上には、皿がたくさん乗っていた。ぎゅるると腹がなって、今日は朝おにぎり一つしか食べていなかったと思い出す。
「お昼まだなんでしょ?琉夏は何が食べたいかなぁ」
「トマト!トマトが食べたい。きゅうりもすき」
「じゃあおばあちゃんの畑にあるから持っておいで。好きなだけもいでいいよ」
母が私も行こうか?と聞いてくれる。自分でしたいからいいと断り、返事も聞かないまま縁側へ出た。
大人用のサンダルで畑にでると、赤くて大きなトマトがいやってほどある。Tシャツの腹をめくってそこにトマトを入れていく。日が当たって熱くなったトマトの表面はつやつやしていて今にもかぶりつきたい衝動に駆られる。
畑の裏には山がある。舗装されていない道の先には、大人しか入れない。
「ひとり?」
ふとそんな声が聞こえた。母ともおばあちゃんとも違う声。
私は母には言えない不思議な力があった。
「ねえ無視しないで。ひとり?ニンゲン?それとも」
目の前にいるのは何なのか確かめたくなくて無視をした。聞こえてないふりでうつむいていると、変な声は近づいてくる。
「聞こえてるんでしょう」
おんなのひとの声だと初めて気が付いた。怖くなった瞬間、足を何かがつかんで離さない。悲鳴を上げる間もなくその何かが私の口をふさいだ。手?冷たくて黒い手のようなもの。
小さいころからたまに変なものをみた。最初は怖がってたけどみんなには見えないようで、いつしか無視したり、怖くても過ぎるのを待つしかなくなった。おばあちゃんの田舎では見たことなかったのに、なんでいるんだろう。
泣きたくなるけど声は出ないし、今手を離したらトマトが落ちる。こんなことなら母を連れてくればよかった。
下を向いたまま硬直する私の真横、数センチ隣から、今度は違う声がした。
「この子には手を出させないよ。お前は山に帰りなさい。僕の言うことが聞けないなら、わかるね?」
「なんでお前がその娘を……」
「早く」
ふっと嫌な気配がなくなり、ふさがれていた口も自由になる。足から力が抜けてその場に座り込むと、違うほうの声の主が同じように座り込んだ。
横を向くのが怖い。この人もきっと人じゃない。そんな気がした。
しかしそんな私の思いは杞憂で、ちらりと覗き見た横顔は人間の顔をしていた。
男の人だった。若い、ひょろりと細長い。夏の日差しに透ける髪の毛は茶色がかっていて、逆光でよく見えないけれど優しそうな顔をした男の人だ。
「大丈夫?このへんは嫌なやつはあんまりいないんだけどね、たまにこうしていたずらするやつがいるんだよ。立てる?」
「あ、あの、お兄さんはあれが見えたの?」
「うん。見えるよ、たぶん君よりはっきりとね」
まだ座り込んで立たない私をせかすこともなく、転がり落ちそうな真っ赤なトマトを支えてくれた。なんだか懐かしいようなその人は田舎に似つかないすらっとした格好をしていて、この辺の訛りもあまりない。
「お兄さんは御崎のひと?」
「まあそんなところかな、長くここにいるよ。君はこの辺の子じゃないよね、何て名前?」
知らない人に教えていいのだろうか。母は小さいころからうるさく知らない人にはついていかないでとか、お話しないでとか言ってたし、学校の先生もやたらとそんなようなことを言っていたなあと思い出す。ただ、この人がそういう大人のいう知らない人、悪い人だとは感じない。
迷いつつその人を見上げる。
「海野琉夏。お兄さんは?」
「琉夏。僕はなっちゃんて呼ばれてるよ、女の子みたいだけどね」
「なっちゃん……」
「もし琉夏がいいなら、僕と友達になってよ。また会おう」
目に汗が入ってぎゅっと瞑る。遠くで母が私を呼んでいる。
次に目を開いたとき、もう『なっちゃん』はいなくなっていた。心配した母がこちらに走ってくる。
「琉夏、何してるの。そんなところ座り込んで具合でも悪いの?」
「ああ、うん、大丈夫」
不思議な『なっちゃん』はこうして突然私の前に現れた。
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