弱さと美砂と彼氏

寅田大愛

第1話

 人間って、どうしてこんなに弱いんだろう。

 女の子なんて、ちょっと殴ったぐらいでびゃあびゃあ泣くし、赤子なんてもっと弱い。大人の人間だって、弱らせようと思えばいくらでも弱らせることができる。暴力で以って従えることだって、ある種の人間になら簡単にできるだろう。

 武力に特化した人間だって、弱さを隠し持っていることだってあるだろうし、手足の自由を奪ってしまいさえすれば、もう無力に等しい。睡眠薬や毒でも盛りさえすれば、どんな武術の使い手でも子猫のように弱い。さらに言うなら、もっと圧倒的な強固な武力もしくは武器の前では一個人なんて、存在しないくらい弱いだろう。

 なにが言いたいのかって?

 さらに続けてみよう。弱い一個人たちがいくら団子になって群れになったところで、弱いものは弱い。数が増えれば増えるほど、頭の悪い人が少しでも混じっている可能性が増えるだけだ。愚かであるというのは、とても弱いということだ。

 人間は、弱い。

 あたしが子どものころ、その真実を知って、ひどく人間を憎んだ。

 自分も弱い人間の一種であるという事実に、同時にもがき苦しんだ。

 そう。あたしたちは、弱い。

 だんだん人間が弱くなっていけば、あたしたちはどうなるのだろう?

 簡単で野蛮で原始的な悪の前に、容易に跪くだけかもしれない。

 そんなこと、あたしが赦さない。

 あたしは少なくとも、だれかの前に跪いたりしない。

 あたしは、弱いことがわかっている。だから、すこしでも強い人間になりたいんだ。でもどうしたら強くなれる?

 


 あの女が、あたしを斧で襲うと言って脅したつもりらしかった。馬鹿か。あたしは鼻で嗤った。斧を普段から使いこなしているやつですらないのに、ちょっと物珍しさから斧を振りまわしたところで、あたしに致命傷を与えるどころか、きちんと急所に命中させることすらできるかどうかわからないのに。本当に馬鹿だ。

「斧って重たいんだよ? そんなもの、軟弱なおまえがきちんと振り上げてきちんと力を込めて振り下ろすことができるとでも思ってるの? 斧なんて重すぎて、引きずって歩くことになるよ? すぐにだれかに見つかってしまうよ? そこまで考えたことあるの?」

 女はもうそれ以上あたしを脅さなくなった。

 あたしの勝利である。

 あたしのことが気に入らないから、斧で殺すとか野蛮なことを言い出したあの女は、きっと極端に頭が悪いのだろう。もう救いようのないくらいに。

 そんな奴は動物園の檻の中に戻ればいいのだ。あたしは内心で一人でこっそり嘲笑う。馬鹿が。あたしは何度も繰り返す。

 威嚇したり砂をかけてきたり水をかけてきたり牙をむいたりして、そういう動物的な態度しかとれない知性や理性の欠片もない奴は、動物扱いで上等だろう。

「なんで笑ってんの?」

 ほかの女が不服そうに聞いてきた。

「言葉で相手を圧倒することができない奴らが間抜けに見えて仕方がないから」

 他の女たちを無視して一人でくすくす笑い続ける。そんなあたしを気味悪そうに野蛮な女たちがこいつ頭がおかしいじゃないのみたいな目で見てくるのが滑稽だった。

「なんで自分は怒っているということがなんでちゃんと自分の言葉で伝えられないの? 馬鹿なの? あんたら義務教育受けてないの?」

 あたしは笑い転げながら挑発する。笑いすぎてお腹痛いし涙が出てきて苦しいと叫びながらのたうちまわっているあたしから、女たちが静かに波打つようにどよめく。

「ねえキモいんだけど。なに言ってるかわからないし。笑うんじゃねーよキショ」

 動物的だ。動物が人間の発言が理解できなくて不思議がっているようだ。気持ち悪いのはどっちだ。人間の姿をした動物たちのくせに。脳みそ空っぽ動物が。あー可笑しい。

 動物たちとあたしは、コミュニケーションがうまくとれない。いつもそうだから、あたしは別に気にしていない。動物たちに人間の言葉がわかるなんて、あたしは初めから思っていないし。

「キモいってさ、そもそもあなたを見ているとあたしの気分が悪くなりましたっていう意味じゃん? よく考えると。でもさ、そういうことをあたしに伝えてもらってもあたしは困るし迷惑だしだいたい意味不明だし。気分なんていくらでも害せば気分だけでよければって感じだし? 馬鹿みたい本当に馬鹿みたい。意味わかって喋ってる? 日本語が不得意なアニマルたち!」

 そう言ってひたすら腹筋を痛めながらあはははと笑いまくるあたし。

「もう殴るよ?」

 女たちのだれかが言った。大量生産型のある種の女たち。似たような髪に似たような顔に似たような化粧に似たような服の女たち。

「殴るだって! 動物的な衝動ですね、お猿さん! いや顔からするとチンパンジーかな? あれ、チンパンジーってサバンナにいるっけ? これが本当の大草原不可避ですよ! 笑いすぎて頭おかしくなっちゃうあっはっはっはっはっはっは」

「もういこ、キ〇ガイキモいから」

「そうだね」

 そう言って女たちは去って行った。泣き叫びながらまだ一人で笑っているあたしを置いて。

あたしは気が狂ってる? だからなに? それがどうしたの? 薬でも飲んでおけばそのうち良くなるんじゃない? 馬鹿で愚かで動物的なおまえたちの方がよっぽど不治の病だと思うよ? 大丈夫? おまえたちは病院に行っても治らないからね言っておくけど。死んでも治らないしね。何度生まれ変わっても馬鹿は永遠に馬鹿のまま。残念だったね。馬鹿に生まれたことを後悔する日も来ないくらいの馬鹿さ加減は本当におめでたいね。



あたしは知性を持て余している。

この無駄に発達した知性が、言語脳が、退屈している。だから、壊れるのだ。

どこかで発揮してやらねばならないのだろう。

だれかお話ししようよ。

 そう言ってだれかお話相手をつかまえても、哀しいかな、あたしはコミュニケーション能力に多少の難がある。

 だから他愛のないおしゃべりや雑談は壊滅的に駄目なのだ。

 天気の話とかテレビに出ていた芸能人の話とかになると、突然ポンコツになってしまう。どうでもいい話が、どうしても、できない。

《可哀想な女》

 あたしの彼氏があたしの脳内をのぞき込みながら嘆息しながら言った。

「あたしはかわいそうなの?」

《だってそうとしか思えないよ。頭のレベルをローにすることができないんだろう。トップスピードで喋りたいんでしょ》

「そうかもね」

《頭のこの部分》と言って脳みその一部を指す。

「言語脳ね」

《うん。めっちゃ光ってるよ》

「あーあ。フルパワーだわ」

 しかしよく見えるな。あたしが感心していると、彼氏は笑った。

《おれはおまえのことなら何でもわかるよ》

「ふうん」

《冷たいな》

「別に。あたし頭のいい人と一緒にいたい。頭のいい人と頭のいいところを使って話がしたい。そうしないとあたし壊れるんだもん」

《頭のいい話をひとりで考えてたら? ノートに書いたら?》

「対話がしたいよ」

《どうしたらいいんだろうな》

 あたしの彼氏は優しい。底抜けに優しいから、びっくりしてしまうくらいだ。きっとお育ちがいいのだ。羨ましい。



「殺すよ?」

「どうやって? あんたにはいきなりあたしを殺すのは無理だよ? 素手であたしを殺せるのはあたしより屈強な男くらいだろうね。でもそんなことしたら警察に捕まることもわからないの? やっぱり動物だから本能しかないのかな? 殺人衝動しかないのかな? 猿じゃないな。猿は猿同士で喧嘩はするけど殺し合いはしないだろうから。猿以下だわ。じゃなんだろうな、ちょっと待ってね、考えるから。虫とかかな? 虫! 汚い虫! それは大変面白いし愉快な発想だな! 虫だって! 人間なのに! 虫虫虫虫虫! きゃはははははははははははは!」

「キ〇ガイまた壊れたわ」

「だって面白いんだもの! ひいいいいいい! 汚い虫こっちに来るなよおおおおお! なんでこういう言い方するかわかる? こうやって相手を極端に貶めて痛めつけて傷つけてショックを与えて立ち上がれないくらいにしないと駄目なんでしょ動物の世界では! どう当たってるでしょ? 動物の世界に棲んでるあんたたちなんてそんなもんでしょ?」

「動物の世界って何」

「はははははは! もう死ねよ! 死ねったら! こうでしょ! こうやってやってマウンティングすれば勝ちってことなんでしょ! あたしわかるよ賢いから! でもさ、こういうのって馬鹿げてるよね! あたしはさ、あんたたち虫レヴェルにまで次元を下げてやんなきゃいけないわけよ、自分のレヴェルをさ! 自分の次元を下げないとこんな汚い虫たちとお話ができないのが辛いな! あたしのレヴェルまでちょっくら上って来てもらってから話そうか、ね、うん、そういうの、たまにはいいでしょ! できない! できないよねえ! ははははははははははは! なに言ってるのかわかんないとか言ってるような奴にはどだい無理な話だったわ、ごめんごめん! そんな低いレヴェルでしか世界を見ることができない奴にあたしの話なんて理解できるような奇跡が起きるわけなかったわ! ごめんね!」

「は?」

「ㇵッて! ハッてなに! そちらこそなに? 省エネ発言乙でーす! エコロジーに優しくてどうもね! はっはっはっは!」

 そう言ってあたしはげらげら笑いながら床の上をのたうちまわる。転がりまわる。まるで笑いの発作が止まらなくなってしまった躁病患者のように。

「もう死ね」

「平行線だわマジ平行線! このまま線は交じり合わないんだ永遠にだ! どうしたらいいんだよ? ははっはははははっは!」

《おまえ馬鹿にしすぎだよ》

 彼氏が脳内に声を飛ばしに来てくれて、助かった。いや助かってないけど。

「だってあいつらの言葉が馬鹿すぎて退屈なんだもん! 一緒に遊べないや! つまらないよ! 本当にくだらないことばっかり言うんだもん!」

《馬鹿だからしょうがないだろ》

 彼氏が言う。悪意のない声。

「あたしはさ、知性的なの! お利口なの! あんな馬鹿たちと一緒の空間に存在できないくらいなんだよ! なんでそれがわからないの? 格の違いみたいなのがいい加減に伝わってくると思うんだけどね!」

《帰るよ、もう》

「帰らないよ! もっともっと馬鹿にしくさってやって死ぬほど笑うんだよ!」

《おまえが笑ってるから、みんなどっか行っちゃったよ》

 彼氏の霊体が目の前に現れた。

 黒髪の前髪の長い、真っ白いシャツに紺色のボトムス姿の優しそうな男がぼんやりと現れる。あたしの彼氏。雄一。

《美砂、帰ろう。おれたちの帰る場所に、もう帰ろう? 疲れたろ?》

 あたしもゆっくりと歩きはじめる。ふわふわと、だけど。この空間には、存在しづらいんだよね、あたしみたいな女は。

 歩いていると、混雑しているのか、他の霊とすれ違うことがあった。さっきからちらほらとぼんやりとほの青い霊体を見かける。

「なんだか霊が多いね」

《お盆だからしょうがないよ》

「帰ってきちゃうんだね」

《そうだよ》

 そう。あたしたちは霊なのだ。霊体。つまり、一度死んでる身。あたしはコンビニに行こうとして横断歩道を横切ったときに車に轢かれて死んでるし、彼氏はそんなちょっと注意力の足りない残念な死に方をしたあたしを追ってベランダから飛び降りて死亡した。愛だ。あたしたちの間には、確実な愛がある。それだけで、幸せじゃないか?

 まあそうだろう。でもあたしが他人をこき下ろして死ぬほど笑いたくなるのは、なぜなんだっけ? たんにあたしの性格が悪いからだという理由だけでは納得ができないし、説得力が足りない。思い出せないけど、なんかあったのだ。なんかすごい理由が。

《おい、頭悪くなってるよ》

「ごめんごめん。木っ端みじんになった脳みそが散らばっちゃいすぎて収集つかなくなっちゃってるみたいで」

《不自由だな》

「そうなんだよね」

《美砂。天国に帰ろう? もうここにいても意味がないよ》

 雄一は言う。

「駄目だよ帰れないよ。あたしまだ死んだ気がしないもん。まだ生きていたかったし」

《天国で遊ぼう? ほら、おいでよ?》 

 彼氏がふわっと宙に浮く。あたしの手を引いて。空に二人で舞い上がる。

「嫌だってば」

《駄目だ。帰るんだ。死んだら天国で遊ぶんだよ。みんなそうなんだよ》

「はあ――――」

 風が吹いた。ざあああっと強い風が吹いて、あたしたちを砂埃よりももっと軽い存在かのように扱って舞い上げてしまう。あたしたちは一瞬で街の上空まで来た。街を俯瞰できるほど高い場所まで来てしまった。もう帰れない。ふわふわと宙に浮いてる。風にあおられていろんなとんでもないところにまで飛ばされていってしまう。糸の切れた凧のように。ああ、みっともない。こんなのって、酷い。なんて無力なんだ。なんてむごいんだ。

《死んだ場所にいつまでもいたって、おまえは生き返れないんだよ。二度と》

「嫌だ。死にたくなかった。まだ幽霊になんてなりたくない」

《もう死んで四年経ってる。いい加減にしろよ》

 あたしは言葉の使い手になりたかった。言葉で世界を構築したかった。まだ死にたくないと連呼するのは、あたしが弱いから。死をすぐに受け入れられないのは、あたしがみっともなく生に固執してるから。幽霊のくせにね。

「あたしは有能になりたかったの。すごい人になりたかったの。だから人と差別化を図って凄いんだよアピールをしてたの。わかるよね? したいことや叶えたい夢もいっぱいいっぱいあったの。将来に夢や希望をいっぱい持ってたの。輝かしい明日を期待してたの」

《そうかそうか。でもな、死んだら終わりなんだよ。おれはとっくに気づいたよ。美砂は粘着質だよな、意外と。しつけえから、そういうの。来世でやろう。さ、いこ。おまえの人生は、あれで、終わりなの》

 いきなり、空のど真ん中に、階段が見えた。輝かしい、白くて長い階段だった。その先には、黄金の荘厳な扉があった。

《天国の入り口だよ。神様が呼んでるよ》

「嫌だ、死にたくない――」

《ごめんな。おれモテてたろ。だからおまえいろんな女に嫉妬されてたんだよ。コンビニに行く途中で車に轢かれたっていうの、あれおれがおまえについた嘘だから。おまえのこと、一番愛してたし、大好きだったし、ずっと一緒にいたかったよ。だけどおれのファンに言いたくねえけど――殺されたんだよ。おまえそれが受け入れられなかったんだろ? もういいよ。大丈夫だから。天国で結婚しよう》

「え?」

《好きだよ美砂。天国で結婚しよう》

「え、結婚する」

 天国の扉が開いた。見たことがないほど眩しい光が、扉の向こうから放たれる。

『来なさい』

 神様の声がした。初めて聞いたけど、神様だって、すぐに気づいた。その瞬間、あたしの存在は消えた。幽霊たちは、幽霊でなくなった。真っ白で。綺麗で。美しくて。いい匂いがして。幸せで。はい。はい。そうだね。この話は、ここでお終い。




                                       





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弱さと美砂と彼氏 寅田大愛 @lovelove48torata

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