第7話「末路」

(帰らなきゃ……)


 アンリは、とぼとぼと見知らぬ地を歩いていた。

 どこに向かっているのかは分からない。

 それでも歩き続けるのは、帰巣本能、生存本能というべきものだろう。ただ、家に戻りたいという一心が、ズタボロとなった体を動かしていた。

 アスカは生きることを諦め、自ら命を絶とうとした。けれどアンリはひたすら生きようとしていた。一度は絶望した。それでも、体が動く限りは生きようともがいている。

 アンリは学校で習った志賀直哉の『城の崎にて』を思い出す。主人公は電車にはねられたが、なんとか死なずに済んだ。城の崎の温泉で療養することになるが、そこで様々な生き物の生死を目にする。人間のいたずらで串にささったネズミが川で溺れそうになっている。這い上がろうとするが、串がつっかかって上がれない。あろうことか、石を投げるものもいる。しかし、ネズミは決して諦めようとしない。人間の目から見れば、死ぬ運命にあるのは分かっているのに。

 人間は自分の死が近いことを悟ると、諦めて死に向かおうとする。ネズミはそうではない。生きたいという本能に素直に従って、ただひたすらに生きようとするのだ。


(生きたいよ……。人間だって生き物だから……)


 少しでも可能性があるならば、希望を捨てたくなかった。もうろうとする意識の中で、アンリは一歩ずつ進める足を止めなかった。

 うっそうと草が生い茂っていて、そこを歩くのはかなりの体力を削られる。草を倒しながら少しずつ進んでいった。

 ふと、何かが聞こえることに気づいた。


(誰かいるの……?)


 自分は村人に追われる身だ。けれどドロテアのように、私を嫌っている者ばかりではないと思う。それなら、少しの可能性にかけて、助けを求めてみよう。

 アンリは音のする方向へ、静かに足を進める。

 そして、ついに人の姿を捉えた。

 4、5人いるようだった。皆、銃を持っている。おそらく、自分を殺すためだろう。

 しかし違和感がある。子供のように小さい人たちだった。もしかしたら子供なのかもしれない。

 アンリは引き返そうか悩むが、自分には他に選択肢がないと思い、人がいるところへ飛び出した。


「う、うわああああ……」

「なんだこいつ……」


 村人はアンリを見て、ひどくおびえていた。


(え? そんなヒドいカッコしてる、私……?)


 これまでのことで、顔や服は血まみれ泥まみれだ。弾丸を撃ち込まれ、崖から転落し、足を引きずりながら移動してきた。きっと、人とは思えない姿になっているのだろう。みっともないかもしれないが、仕方ないではないか。

 助けを求めようと近づくが、村人は後ずさりをし、そのまま逃げ出してしまう。


(え……。それはちょっとショックだな……)


 助けを拒否されたのもショックだが、姿を見て逃げられたのはダメージが大きかった。

 ようやく人がいるところに出られたのだ。これ一回ぐらいで諦めてはいけない。アンリは気を取り直して歩き出す。

 また何人が集まっているのが見えた。

 しかし、それは人ではなかった。

 緑色の魔物。オークだ。


(魔物……。逃げなきゃ……)


 アンリはオークを初めて見たが、助けを求める相手ではないことはすぐに分かる。引き返そうとするが、足がもつれて倒れてしまう。


(しまった……)


 オークは物音に気づき、こちらに近づいてきていた。

 だが、すぐには襲いかかってこなかった。オークたちの言語で何やら話し合っているようだった。

 話がついたのか、オークたちは棍棒を構えて、じりじりとアンリに迫ってきた。


(殺される……逃げないと……!)


 足をばたつかせながらも、アンリはオークから逃げようとする。

 捕まったら何をされるか分からない。あの丸太をまるまる削っただけのような、巨大な棍棒で押しつぶされてしまうかもしれない。もしくは、口から一呑みにされるかもしれない。

 火事場の馬鹿力というのだろうか。

 アンリが必死に逃げると、オークとの距離はどんどん離れていく。


(これなら逃げられる……)


 オークというのは体が大きいだけで、動きは俊敏でないようだった。

 それに体も少し楽になってきた。さきほどまで感じていた重さがない。元々体を動かすのは得意なので、この調子ならば問題なく逃げられそうだった。

 茂みを抜けると、小川に出た。

 けっこう逃げてきたはずだ。ここまでくれば大丈夫だろう。振り返るが、やはり誰の姿もない。


(やった……。逃げ切れた……)


 アンリは腕を振り上げてガッツポーズをする。

 気分が晴れたせいか、心も体も軽くなった感じがする。

 アンリはせっかくだから、小川の水で顔を洗おうと思い立つ。

 村人たちに逃げられてしまうぐらい、ひどい顔をしているはずだ。血や泥、そして汗を洗い流したい。できれば、シャワーも浴びたいが、さすがにそんな贅沢は言ってられないだろう。

 アンリは小川の水を手で組もうとする。

 しかし、びっくりして後ろを振り向いた。誰もいない。

 水面に魔物の顔が映ったのだ。


(なに、今の……)


 心臓がバクバクいっている。

 一瞬だけ映った悪魔は何だったのだろう。警戒して周囲を見渡してみるが、何の気配もしない。


(気のせい、かな……)


 これまで何度も怖い思いをしてきたのだ。トラウマのように幻影を見ても仕方ないだろう。

 アンリは再び顔を洗おうとする……が、手が止まった。

 また魔物が映り込んでいる。

 幻影なんかではない。確実に水面に魔物の顔が映っている。


(後ろにいる……?)


 息を凝らして、気配をうかがう。

 そして、不意打ちを食らわせてやろうと、急に振り返ってパンチを食らわす。

 しかし、パンチは空を切った。誰もいなかったのだ。


(何……? お化け?)


 この世界には人を驚かす魔物がいるのかもしれない。

 自分の目がおかしくなっている可能性も考えて、とりあえず顔を洗おうとする。

 また魔物が見えるが気にしない。水をすくって、じゃばじゃばと顔を洗う。

 アンリはそこで、ようやく違和感に気づいた。


(なにこの感触……)


 顔に触れるとゴツゴツとした感触があった。

 自分の顔が肌荒れでゴツゴツしているのか、それとも手がボロボロになって感触がおかしくなっているのか。

 そして、もう一つの可能性を思いつく。

 さざ波立っている水面が落ち着くのを待ち、自分の全身が映るように立つ。


(えええええええーっ!!!)


 この世界に来て驚くことばかりだったが、今回ほど驚いたことはない。

 水面に映るのは、やはり魔物であった。つま先の爪から、頭の角まで魔物だ。

 そしてこの魔物、見覚えがある。

 そう、崖下にあった洞窟で遭遇した魔物である。


(ウソでしょ……)


 信じたくないことが起きる。

 アンリが動くのに合わせて、水面の魔物も動いたのだ。


(私……魔物になってる……?)

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