第5話「逃亡」

 異世界で死ぬなら、当然魔物に殺されるものと思っていた。

 しかし、思いもよらない展開となっている。アンリは武器を持った人間に襲われていた。

 ドロテアが襲撃前に教えてくれたから、なんとか家から脱出できたものの、村人たちはアンリを追いかけてきた。

 あちこちから、バーン!と銃声が聞こえる。暗闇での射撃のため、アンリには当たらなかったが、殺そうとする意志は明確だった。

 アンリは脇目も振らず、夜道をただ走り続けた。ここの地理には詳しくないので、どこへ走っているのかは全く分からない。だが、とにかく遠くへ逃げなくてはならなかった。

 ドロテアはついてこなかった。お願いすればついてきてくれたかもしれない。しかし、アンリが断った。

 ドロテアは女神の接待係で、女神にできる限りの便宜を図る立場にある。その役目を優先したから、アンリに襲撃を教えてくれたのだが、ドロテアはこの村の人間である。アンリに協力したことが知れれば、ドロテアは不利な立場に置かれる。それが申し訳なかったのだ。


(なんで悪い方向にばかり進むのよ……)


 息を切らしながらも走り続ける。足を止めたら、捕まり殺されてしまう。

 正直、人間から攻撃を受けたのはショックだった。明らかに異形の魔物と敵対するのは仕方ないと思う。しかし、そういった魔物がいるのに、手を取り合わなければいけない人はずの間が裏切ったのだ。


(勝手に女神に祭り上げて、偽物なら殺すとか、どういうこと! 身勝手すぎる! くそっ、くそっ、くそおっ!)


 逃げ足には自信があった。

 アンリは陸上部だったので、走るのには慣れている。舗装されていない道路を走るのは難しいが、手ぶらなので、銃を持って走っている人たちには負けはしない。

 これからどうするかなんて分からなかった。逃げたところで、食べ物も武器もない。元の世界に戻る方法もなかった。いずれは人間に殺されるか、魔物に喰われる未来が待っている。

 しかし今そんなことを考えても仕方ない。まずは人間から逃げ切ることが重要だ。あとのことはそのときに考えればいい。

 相変わらず発砲は続いている。アンリが逃げる方向に適当に撃っているのだ。狙わないで撃った弾は、早々当たるものではない。

 けれど、この世界にやはり神はいないのだろう。

 流れ弾と言える銃弾が、アンリの左足を撃ち抜いた。


「あああっ!?」


 これまで感じたことのない痛みに、声にならない声が上がる。

 足がもつれ、アンリは地面に転がった。体中がすりむける。

 足が熱い。突き刺されるような痛みが連続して襲ってくる。触るとぬめっとした感覚。血だ。


「はあはあはあ……」


 ただでさえ息が切れているのに、呼吸と脈が激しくなり、たらたらと脂汗が流れる。

 自分が撃たれたというのが信じられなかった。

 日本人は日本にいる限り、自分が撃たれるなんて思うはずがない。それでも当たってしまったのは、ここが日本ではなく、異世界であることを明確に示している。


「当たったぞー!」

「よくやった!」

「追い詰めろー!」


 村人たちの声がする。足の容態を確かめているうちに、だいぶ距離を縮められていた。


「逃げなきゃ……」


 本当ならばすぐに止血して治療しなければいけない。けれど、この状況では自分の足も気遣っていられなかった。

 ハンカチで患部を絞めるとアンリは立ち上がり、左足を引きずりながらも前進を始める。

 足が痛い。息がつらい。肺が痛い。それでもアンリは歩き続ける。

 灯りが近づいてくる。村人の持ったランプだ。


「いたぞ! あそこだ!」

「殺せ!」


 距離はさらに詰まり、ついに見つかってしまった。

 この状態では早く動けない。このままでは捕まってしまうだろう。


「はっはっはっはっ……」


 なりふり構わず、少しでも前に進むよう体を動かす。逃げられないかもしれない、など考えても仕方ない。何があっても逃げるしかないのだ。


「あっ……」


 しかし、アンリはもう逃げられないことを悟ることになる。

 道がなかった。

 ここは崖。下には漆黒の海が広がっていた。

 暗くて下に何があるかは分からない。岩肌かもしれないし、水面かもしれない。高さも不明だ。


「見つけたぞ!」

「囲め囲め!」


 振り返ると人影が迫ってきているのが見えた。

 数には2、3人。いや、どんどん増えている。10人はいそうだった。

 アンリは逃げ道がないか、辺りを見回す。


「ない……」


 前には下の見えぬ崖、後ろは銃を構えた村人。絶体絶命であった。

 このまま撃たれるか。命乞いをして、生かしてくれる可能性にかけるか。それとも、崖から飛び降りるか……。

 考える時間はなかった。村人は銃を構え、トリガーに指をかけていた。

 アンリは迷わず飛んだ。下に向かって。


「おい! 飛び降りたぞ!」


 村人たちは崖に殺到し、下をのぞき見るが、アンリの姿は見えない。ただ真っ黒の海が広がっているだけであった。





「……うっ。……くあっ……!!」


 体の激痛でアンリは目覚めた。


「はあ、はあ、はあ……」


 全身がきしむように痛む。銃で撃たれた左足が焼きごてを押されたように熱い。


「ここは……」


 周囲はほのかに明るかった。

 深夜に夜通しで走っていたはずだが、あれから時間が経っているようだ。それが数時間なのか、数日なのかは分からない。

 天井から細い光が差し込んでいるのが見えた。どうやらここは地下のようだった。


「洞窟?」


 崖から転落し、地面の亀裂や穴からさらに深くの洞窟へと落ちていた。

 そんな高さから落ちたにもかかわらず、生きているのは奇跡と言えるだろう。


「よく落ちる日だな……」


 助かると確信があったわけではないが、一度転落した経験があったから、迷うことなく飛び降りることができた。

 しかし、無事とは言えない状況だ。すぐに治療を受けなければ、長く持ちそうになかった。


「脱出しないと」


 アンリはまだ生きるのを諦めていなかった。這いずるように移動を始める。

 けれど、すぐに絶望へと変わった。


「ウソ……でしょ……」


 目の前に巨大な悪魔がいた。

 あのボリスよりも、一回り二回りも大きい。5メートルぐらいあるのではないだろうか。

 ボリスが細身で引き締まったボディをしていたのに対して、この魔物は鎧をまとっているような重厚感があった。素手では傷すらつけられないことが、誰の目でも分かる。手足はがっちりとしていて、その腕に捕まれただけで体をバラバラにされてしまいそうだ。悪魔的な巨大な翼に巨大な爪。いや、もっと生物的でドラゴンの持つそれに近い気もする。そして、強さと恐怖をあおるかのように、全身が黒で染まっていた。

 ボリスが魔将ならば、これは魔神といえるのではないだろうか。人知を遙かに超え、魔物、魔将すら凌駕した存在。この世界に神がいて、それが悪い神であるならば、きっとこんな姿をしているに違いない。

 死んだ、アンリはそう思った。

 女神はいなくとも魔神はいたのだ。偽りの女神は、魔神に殺される運命なのだろう。


「あっ……」


 魔神が動いた。

 ゆっくり右手を上げて、背中に背負っている剣を引き抜いた。

 体ぐらいあろうかという巨大な剣。魔神のボディ自体が大きいので、人間からすれば、身長の2倍はある。

 アンリは覚悟を決める。

 この足では到底逃げ切れない。全力で走ったところで、歩幅の長い一歩で踏み潰されるか、その剣で両断されてしまいそうだ。


(お父さん、お母さん……ごめんなさい……)


 アンリはついに生きることを諦め、その目を閉じた。

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